宵闇に悲恋のお噺
幻想郷に夜が来る。
人の時間が昼ならば、夜は人外の時間。
互いの時間への介入は、言うなれば縄張りを荒らす様なもの……
覚悟の無い者は、食い殺されるが関の山──
ほら、今宵もまた一人……
宵闇の中へと足を踏み込む、愚か者の影が見える──
「──あなたは、食べても良い人類?」
下弦の月の照らす森の中。
何処からともなく聞こえるその声に、否が応でも歩みは止まる。
よくよく眼を凝らせば、その声の出所を認知することができる。
自身のやや上方に、不自然に星の見えない、円形の暗闇が存在している。
その暗闇が球体であることを認識するよりも前に、中から一人の少女が這い出してきた。
「……………」
「……………」
月の灯りで認識できるのは、自分よりもやや背の低い、金髪の少女であるということ。
それ以外には、身に纏う服の詳細さえも良くは分からない。
「……食べても、いいのか?」
返答がないが故に、少女は再び問い掛ける。
二度目の問い掛けに、漸く介入者は自身の現状を把握できたようだ。
口を少し開いて、返答の言葉を模索する。
ただ、少女にはその答えは予想できている。
これまで、幾許の人間に同じ問い掛けをしただろうか……
そして、返ってくる言葉の種類の少なさを思い知っただろうか……
どうせ、目の前の人間も、これまでと同じような返答をするだろう。
……ただ、その回答がどのようなものであっても、実際のところは無意味だ。
人外であるが故に、人外の力を以てして、自分の糧にするのだから……
『食べて言い訳が無い!』
『食べないで!助けて!』
『妖怪なんかに答える義理は無い!』
「……食べられるのは、ちょっと困るかな?」
……時間が止まったような感覚に、少女は襲われた。
言葉が理解できなかったわけではない。
ただ、少女はその言葉の意味を把握するために、他のありとあらゆる思考を停止せざるを得なかった。
今までとは違う返答に驚いたわけではない。
怒声や悲鳴じみた声で無く、やんわりとした口調だったことにも驚いてはいない。
目の前に対峙している人間は──
「──どうして、お前は“笑って”いるのだ?」
「うーん……なんでかな、自分でも分からないや」
二度目の質問にも、やはり目の前の人間は“笑って”返した。
「ねぇ、僕からも訊いていい?」
再び“微笑みかけながら”、目の前の人間は事も有ろうに、少女に問い掛けてきた。
見た目は少女でありながらも、人間の寿命を遥かに凌駕する年数を生きてきている。
人間から笑みを向けられた経験が、無いわけではない。
しかし目の前の人間は、“殺されるかもしれない状況下”において、“殺そうとしている相手”に向かって、“微笑みかけている”のだ。
「何を、訊きたいのだ?」
「訊きたいことは二つだけ。まずは……君の名前が聞きたいな」
開いた口が塞がらない。
呆れたわけでもなく、驚いたわけでもない。
少女には、目の前の人間の意図が全く理解できない。
「……ルーミア」
訊かれるがまま、少女は自身の名を名乗る。
思考など、既に働かなくなっていた。
「ルーミア、か……可愛い名前だね」
さっきよりも、ずっと親しみを込めた笑みを向けてくる。
少女──ルーミアには分からない。
このような状況で、どのような対応が最適なのかが……
「僕も名乗る──いや、やっぱり止めておくよ」
「……何で、名乗らないのだ?」
「直に死ぬ人間の名前なんて、興味無いでしょ?」
「……………ぇ?」
ルーミアは妖怪だ。
それ故に、夜の闇の中でもはっきりと物が見える。
だからこそ微細な変化にも気が付いた。
目の前の人間の笑みに、淋しさが隠れていたことに──
「でも、食べられるのが困るって言ったのだ」
「うん。だからこそ、もう一つ訊いておきたいんだ」
「もう一つ?」
「うん……食べるのは、さ?僕が──死んでからでも大丈夫かな?」
目の前の人間の背丈は、ルーミアよりやや高い程度。
外見年齢からして、15歳前後だろうか。
ルーミアでも、幻想郷の人里に住まう人間は、寿命が70歳くらいまであることを知っている。
しかし、彼は、“直に死ぬ”と言う。
しかし、彼は、“食べられるのは困る”と言う。
しかし、彼は、“笑って”いる。
「もうすぐ、死んじゃうのか?」
「うん、もうすぐ、ね……」
「じゃあ、なんで笑ってられるのだ?」
「……だって、さ?普通の人よりも生きられないなら、普通の人の一生分、笑っていたいじゃない?」
そう言いながら、彼は再び笑みを向ける。
今度は、淋しさを一切払拭した、優しげな笑みだ。
「……ぇっと──」
くぅぅ〜〜〜〜〜……
一言でいえば、“気まずい”場の空気が、奇怪な音で消え去った。
その音の出所に真っ先に気が付いたのはルーミア。
か弱い月明かりのせいでよくは分からないが、ほんのりと赤面している。
「何か、変な音がしなかった?」
「き、気のせいなの──」
ぐぅぅぅ〜〜〜〜〜!!
催促でもするかのように、先程よりも盛大に音が鳴った。
おぼろげながらも音の正体に気付いていた彼は、二度目のその音で確信に至った。
「……くすっ」
「わ、笑うなぁ!なのだ!!」
「ゴメンね、あんまりにも可愛い音だったから」
「むぅ〜〜〜!」
頬を思い切り膨らませながら、ルーミアはまた顔を赤くする。
その様子に、再び彼は笑い声を溢す。
「……あ、そうだ。飴玉があるんだけど、食べる?」
「い、いいのか?」
「それだけ可愛い音聞かせてもらったんだから、寧ろ喜んで」
彼はまた、にこやかに微笑みながら、ルーミアへと歩み寄る。
本来であれば、人喰い妖怪に歩み寄るなど、半ば自殺行為にも等しい。
それでも彼は、たった今知り合ったその存在に、まるで親しい友達のように歩み寄った。
「はい、どうぞ?」
「ありがとう……なのだ」
ルーミアの小さな手を取って、その掌に飴玉を6つ乗せる。
二度三度、ルーミアは彼の表情を伺い、どこかオドオドとした様子で、その内の一つを口へと運んだ。
「──甘くて、美味しいのだ」
口の中に、あまりしつこく無い甘みが広がる。
下の上でコロコロと転がしながら、その甘みを存分に味わう。
意図せずも、ルーミアの表情は綻びていた。
「……うん、笑ってる方が可愛いよ」
「──っ!と、突然何を言い出すのだ!?」
「え……?あ、ゴメン。思ったことが口を衝いて出ちゃったみたいで──」
自身の発言を恥ずかしく感じたようで、彼はルーミアから視線を逸らしながら、やや困った表情をしながら頬を掻く。
ルーミアも、突然の発言に困惑して、先程よりもさらに顔を赤くする。
「……ねぇルーミア、明日も逢いに来て良い?」
「──へ?」
場の空気を変えようとしたのか、唐突に彼は話題を変えた。
思考の追い付かないルーミアは、目を点にしながら、彼の次の言葉を待つ。
「明日は何か、美味しい食べ物持ってくるよ。あ、勿論だけど、人間は勘弁してね?」
「か、構わない、のだ……」
ルーミアの返事を聞き、二回頷いて、彼は背を向けた。
顔だけもう一度ルーミアの方を向き、どこか嬉しそうに口を開いた。
「じゃ、バイバイ」
「ぇ……ぁ……」
手を小さく振って、彼はそのまま人里の方へと歩を進めた。
途中、彼は何度もルーミアの方を振り返った。
笑みを向けたり手を振ったりと、親しい友人のように、彼自身がルーミアの姿を捉えられなくなるまで──
「……………ぁ」
彼の姿が見えなくなってから、漸く思考能力が回復した。
「──名前、訊いた方が良かったのか?」
誰にと言う訳でも無く、ただただ言葉が口を衝いて出た。
言葉を発して、今まで止まっていた思考回路が急速に動き始める。
同時に、形容しがたい感情が込み上げ、右に左に、何度も首を傾げる。
「お腹、減ってるけど……違う?」
自身の胃袋の位置、それよりもやや上の部分に手を当てる。
空腹感を感じているのは確かだ。
ただ……抑えている場所は、今まで感じてきた物とはどこか違う。
先程もらった飴玉の残り全部を、一度に纏めて口へと放りこむ。
甘みを感じるよりも、空腹を満たしたい一心で、その全てを噛み砕く。
……しかし、空腹感は増すばかり。
それ以上に、訳の分からない後悔に見舞われ、ルーミアは地団太を踏む。
「……明日、お腹一杯になれるのか?」
空を仰ぎながら、月へと近づくように宙に浮く。
そのまま人里の方へと視線を移すと、今までで一番、空腹感が増したように感じる。
「明日、か」
彼が、食べ物を持ってきてくれると言った。
彼が、あの場所から来てくれると言った。
彼が、逢いに来てくれると言った。
知らず知らずながらも、ルーミアの表情は綻ぶ。
半ば無意識に、星の瞬く夜の空を、踊りながら進む。
『明日よ、早く来い』と、言わんばかりに──
●
日が地平線へと沈んでいく刻限。
人里の入り口を望める丘の上に、一つの影があった。
相当な樹齢の木に背中を預けて座り込み、何をするわけでもなく、ただただ空を仰ぐ。
夜までの時間を、これほどまでに待ち遠しいと思ったのは、ルーミアにとって、随分と久し振りであった。
「ん?おーい、何してるんだ、ルーミア?」
左の方から、聞きなれた声が聞こえた。
視線を向けてみれば、見慣れた格好の少女がやってくる。
“魔女”という単語から来るイメージに従順な服を着た、長い金髪の少女だ。
「魔理沙?」
「見ての通り、霧雨魔理沙だぜ?」
勝気な口調の少女──魔理沙は、自身をアピールするかのように諸手を広げる。
左手には、よく跨って空を飛んでいる箒もあった。
魔理沙とルーミアとは、何度か弾幕ごっこなる勝負事をした間柄。
その関係からか、時折顔を合わせることも少なくない。
「何してるのだ?」
「そりゃ、こっちのセリフだぜ?あんまり人里の近くに来たら、慧音にどやされるんだろ?」
魔理沙の言う“慧音”とは、人里の守り手として名が知られている“上白沢慧音”のこと。
人間とは非常に友好であるため、ルーミアのような“人間に害をなす存在”には容赦をしない。
「──待ち合わせ、なのだ」
「待ち合わせ?チルノとかか?」
魔理沙の問い掛けに、首を横に振って返す。
ルーミアが普段、森の近くにある湖で、チルノという妖精や、他の妖怪たちと遊んでいることを、魔理沙はよく知っている。
同時に、それ以外に人間や妖怪と関係が無いことも知っている。
「ここで待ってるってことは、相手は人間か?」
「そうなのだ」
「でも、よぉ……?」
どことなく、自分のことが視界に入っていないルーミアに、魔理沙は困惑していた。
しかしそれ以上に、人間と“この時間”に待ち合わせをしていること自体に、疑問を抱いていた。
夜、人里から出てしまえば、妖怪に襲われることは周知の事実。
慧音を始めとする、人間や人里を護る側の存在は、夕刻から周辺を見回って、夜に出歩かないようにと促している。
勿論ながら、その警告を聞かない者もいるが、元々夜中に出歩く人間は殆どいない。
せいぜいが酔っ払いか、あるいは無駄に好奇心の強い者ぐらいだ。
「どんな奴なんだ、そいつ?」
「ぇっと──変わった人間、なのだ……」
「そりゃ変ってるだろうぜ?仮にも、人喰い妖怪と待ち合わせするような奴だろ?」
「そうじゃないのだ……」
「ん?」
上手くは説明できない。
ただ、何となくではあるのだが、普通の人間とは違う。
目の前にいる魔理沙も人間だが、彼女とも違っている。
口を噤んだままのルーミアに痺れを切らしたのか、魔理沙は被っている帽子の角度を少し変え、箒に跨った。
「ま、なんでもいいか……じゃ、私は行くぜ?」
「分かったのだ」
「……………」
会話はある程度成立しているが、ルーミアの眼中に魔理沙はいない。
余程の人間なのだろうか……?
若干ながらも、魔理沙はその人間に興味を抱いていた。
「(ちょっと見てみたいかもな、そいつ……)」
これから、魔理沙に予定は無い。
どうせ家に帰って、呪文所を読み耽って、適当に食事をして寝るだけ──
なら、少し離れた場所から、ルーミアとその人間の様子でも眺めよう……
好奇心が非常に強い彼女は、にんまりと表情を綻ばせながら、上空に待機した。
魔理沙と別れて数分後、人里から一人の人物が出てくるのが見えた。
まだ日が沈み切っていない分、その姿ははっきりと分かる。
知らず知らずの内に、ルーミアは立ち上がって、そちらへと歩き出していた。
「あ、ルーミア」
ルーミアの姿に気付いた彼は、嬉しそうに笑いながら手を振る。
歩く速度もやや速くなり、すぐに傍までやって来れた。
「会ってくれてありがとう、嬉しいよ」
「……そう、なのか?」
昨日と同じ、困惑させられる発言。
ただ、何故だか昨日よりは、落ち着いてその言葉を聞くことができた。
「……本当に、嬉しいのか?」
「嬉しいよ?どうして?」
「だって、私は妖怪で……人喰いで──」
「──可愛い女の子、だよ」
にっこりと微笑みながら、
顔が一気に赤くなったのが見て取れた。
それが、沈み切っていない夕日のせいではないことは、彼にはよく良く分かっていた。
「そ、そそそ、そんなことより!私も、訊きたいことがあったのだ!」
あからさまに動揺した口調で、ルーミアは無理やりに話題を変える。
ルーミアの動揺の原因を多少なりとも理解しているため、彼は話題の転換に素直に応じた。
「訊きたいことって?」
「え、えっと……その、ぁの……──」
「……………?」
無理に会話の内容を変えようとしたためか、その中身まではまだ決まっていない。
言葉に詰まっているルーミアを見て、彼はまた、優しげな笑顔で口を開いた。
「そう言えば、ルーミアは、どう?」
「──へ?」
彼から、意図の見えない質問をされる。
回答はもちろんのこと、どのような発言をすればいいのかさえ分からない。
「どう……って、何がなのだ?」
「だから、さ?ルーミアは僕と会って、どう感じてくれてるのかな、って思ったんだけど……」
彼の求めている言葉は、何となくだがルーミアにも分かる。
自分の心を見返してみると、何故だかその言葉が真っ先に見つかった。
「ぇっと……私も、会えて嬉しかった、のだ……」
「──……本当に?」
「そ、そうなのだ……」
期待はすれど、叶うとは思っていなかった。
彼の声は、そんな心境を露呈するかのように、間の抜けたようなものだった。
「な、なんか……嬉しいけど、照れるな……」
「お、お前が言わせたのだ!私の方が恥ずかしいのだ……」
互いの顔が赤く染まっていく。
空が名残惜しいと顔を出している夕日よりも、二人の顔は真っ赤だった。
「そ、そんなことより、さ?色々持って来たんだ、一緒に食べよ?」
恥ずかしさに耐えられなくなったようで、彼は左手に持っていた紙袋を見せる。
促すように先に地べたに座り、袋の中から団子や大福などを取りだす。
一緒に風呂敷も入れていたようで、その風呂敷を地面に敷き、かなりの量の和菓子を次々並べていく。
「い、いっぱいあるのだ……」
「えっとね?今日、会ってくれるって言ってくれたから、嬉しくてつい買いすぎちゃって……」
「そんなに、私と会うことが嬉しかったのか?」
「うん、勿論」
大きく頷きながら即答した。
漸く太陽は沈み切り、月の淡い灯りが辺りを照らし始めていた。
そのせいで、ルーミアの表情をはっきりとは伺えないが、ほんのりと顔を赤らめているようにも見えた。
「で、でも……!こんなに食べきれないのだ!」
「……だよね?どうしようか……?」
「──せ、折角だから、全部食べるのだ!」
「無理しないくていいよ?」
「食べるのだ!!」
半ば自棄になったように、ルーミアは声を大にする。
彼が止める間もなく、手近な和菓子を持てるだけ持ち、次々とその小さな口へと放りこむ。
5つも頬張れば、あっという間に口の中は一杯になった。
「喉に詰まらせないでよ?」
「らいひょうふらの(大丈夫なの)──……っぐ?!」
予想通りというか、何と言うか……
ルーミアの小さな躯体で、飲み込めるだけの許容量は遥かに超えていた。
そうなれば、のどに詰まらせるのは至極当然のこと。
「ちょっ!?ほら、これお茶だから!」
「──……っ!!!」
ルーミアの背中をさすりながら、彼は水筒を手渡す。
無理やりに流し込もうと、水筒の中のお茶を一気に飲み干した。
「……………っぷはぁ!!」
「大丈夫?」
「な、何とか大丈夫なのだ……」
「落ち着いて食べようよ?じゃないと、美味しくなくなっちゃうしね」
呼吸を整えながら、ルーミアは二度三度頷く。
「はい。このお饅頭、結構好きなんだ」
「へぇー……そーなのかー……」
手渡された饅頭をまじまじと見つめながら、今度は落ち着いて口へ運ぶ。
中身は白餡で、ほんのりとした甘みが口の中に広がる。
「美味しいのだ」
「でしょ?今日は時間に余裕があるから、いっぱい話して、たくさん食べよう?」
持って来た物の味を気に入ってくれたことが嬉しかったようで、満面の笑みを向ける。
彼も徐に大福を手にとって、美味しそうに頬張った。
「そう言うお前も、慌てて食べてるのだ」
「へ?」
「口に小豆が付いてるのだ」
彼の口元に付いた小豆を指で拭い、自分の口へと運んだ。
ルーミアのその挙動に、思わず彼は顔を赤くした。
「何を、赤くなってるのだ?」
「だ、だって……そりゃ──」
「……………?」
よく分からないといった様子で、ルーミアは首を傾げる。
照れ臭そうに頬を掻きながら、彼はそのまま大福を口にする。
「ふーん……お前の食べてるのも、結構美味しいのだ」
「そう?でも、先にその両手に持ってるお饅頭を食べちゃわないとね」
「むー……」
彼の持っている大福の味の方が気に入ったのか、両手に持っている饅頭を恨めしそうに見る目る。
同時に、空腹を早く満たそうとして、後先考えずに物を持ったことを後悔した。
「そんなに食べたいなら……はい」
自信の食べかけではあるが、彼は大福を差し出してきた。
同時に、今ルーミアが持っている分を受け取ろうと、空いている左手も差し出した。
「ありがとうなのだ!」
「あ、ちょっ──」
言うが早いか、ルーミアは彼が持ったままの大福にかぶり付く。
よっぽど気に言った味だったのか、持っていた彼の指ごと口の中へ入ってしまった。
「あ……」
「……………?……………っ!!?」
気付いた時には既に遅く、慌てて口を放すも、彼の指には多少なり唾液が付いてしまっていた。
しばし考えた後、彼は指に付いた唾液を拭うため、その指を自身の口へと運んだ。
「!!!な、ななな、何してるのだ!!?」
「さっき、ルーミアだって似たようなことしたでしょ?」
「してないのだぁ!」
月の淡い灯りでも充分に分かるくらい、ルーミアの顔は真っ赤になっていた。
彼も、恥ずかしそうな笑顔に、ほんのりと赤みがさしていた。
ただ、互いに共通して、今この時間をとても楽しんでいた。
下弦よりもさらに欠けた月の下。
星の光もおぼろげな夜空に、箒に跨った少女が一人。
その横には、先程まではいなかった別な少女もいた。
脇の部分の布地の無い、巫女装束に身を包んだ、黒い髪の少女。
箒に跨っている少女と比べると、かなり険しい面持ちで、ルーミア達の様子を伺っている。
「魔理沙……あの二人、放っておくつもり?」
「大丈夫だろ?見てる限り、世にも珍しい妖怪の友達、みたいだしな」
「……………」
「何か不満でもあるのか、霊夢?」
巫女装束の少女──霊夢は、その問いかけに反応する素振りを見せない。
ただ、ルーミアと話している少年の様子だけを、じっと目を凝らして観察している。
何となく、普段とは違う霊夢の雰囲気に、魔理沙は少々戸惑っていた。
「なぁ霊夢?私が言うのもどうかと思うけどさ、大丈夫だと思うぜ?」
「何が大丈夫なの?」
「何って……ルーミアは多分、あの人間を食べようとは思わない──」
「その程度のことは気にしてないわよ」
やや苛立った風な口調で、霊夢はすっぱりと言い放つ。
その口調の強さに、思わず魔理沙も口を噤んだ。
「あの子……確か──」
「何か知ってるのか?」
「うろ覚えだけどね……明日、慧音に訊きに行くわ」
「何をだ?」
「色々、ね……」
元来、霊夢という人間は感情の起伏が少ない。
目に見えて高まるものと言えば、怒りや苛立ちというものばかり……
ただ、今の彼女から、そう言った感情を伺うことはできない。
故に、魔理沙は困惑せざるを得なかった。
「なぁ霊夢、自分だけ分かるのは止めないか?」
「碌に苦労もせずに、結果だけ求めるのも止めなさいな」
「うぐっ……!相変わらず、痛いところ突くなぁ……」
「自覚があるなら猶の事よ」
それ以降、霊夢は対して口を開かなかった。
魔理沙が何かしら話しかけて来ても、適当に相槌を打って返すだけ。
彼女の視線の先には、人喰い妖怪と人間とが、楽しそうにお茶会している様子しか映っていなかった。
●
日は昇り、人は各々活動を始める。
仕事に勤しむ者、学問を学ぶ者……
活動の内容は人それぞれ。
ただ、日が昇ったにも関わらず、床から起き上がらない者の姿もある。
大抵そう言った者は、職に就けずに一日暇を持て余している、世間からは“怠け者”のレッテルを貼られた人間。
だが、中には起きたくても起きることを許されない者もいる。
……彼もまた、その起きることを許されていない一人──
「調子はどうだ?」
「あ、慧音先生……」
薄い青の長髪を揺らした女性──慧音の姿を見て、彼は身体をゆっくりと起こす。
「昼食後の薬は……飲んだようだな」
「はい。毎日来てもらって、ありがとうございます」
「気にするな。君は私の教え子の一人……心配するなと言う方が無理がある」
彼の横に正座し、顔色などを伺う。
日毎に彼は痩せ細り、細くなった血管が浮いて見える部分さえ多い。
ただ、慧音の目に映った彼の表情は、どこか明るく映っていた。
「ん?何か良いことでもあったのか?」
「はい?突然どうしました?」
「いや何……3日前に来た時より、表情が明るくなっているから、な」
数日前からの如実な変化に、慧音は問いかけずには居られなかった。
それもその筈で、数日前までの彼は──
「……もう、自ら命を断とうとは、思わなくなったんだな?」
「はい、慧音先生……」
慧音の重い口調に、彼も自然と俯いていた。
よくよく観察してみれば、彼の手首や首筋には、命を断とうとしていた痕跡が残っている。
それらを隠すかのように、ゆっくりと顔を上げ、慧音へと向き直る。
どこか……困ったような笑みを作って──
「自分の命があと僅かだって、十分理解してます。でも、残った時間を無為にするようなことは、もうしません」
「……そうか。そう言ってくれて、私も少し安心した」
ホッと一息ついて、慧音は立ち上がる。
彼の家の調理場へ行き、二人分のお茶を淹れて戻ってきた。
「飲んでおいたほうが良いと思ってな」
「態々ありがとうございます」
湯呑みを受け取り、ゆっくりと一口啜る。
身体の中に染み渡っていくのを感じながら、何気なしに彼は外へと目を向ける
その視線を追うように、慧音も外を向くために体を捻る。
「どうした?何か居たのか?」
「あ、そうじゃなくて……まだ、日は高いんだなぁ、って」
「それはそうだろう。ついさっき、正午を回ったところだぞ?」
本日は晴天なり──
雨の降る気配など微塵も感じさせない、雲一つない青空が広がっている。
「雨でも降ってほしかったのか?」
「いえ、全然?」
寧ろ、晴れていてくれることを心から望んでいると言う表情。
数日前までは見せなかった、何かを待ち望んでいる、期待を隠しきれていない雰囲気に、慧音の表情も綻びる。
「歩く分には問題ないのか?」
「はい。昨日も、それなりの距離は歩きましたけど、問題無かったです」
「──昨日?昨日は、医者に診てもらう日だった筈だろう?日中に出歩く暇などない筈だが……?」
「……………あ」
一言余計だったか……
思わず口元を手で隠すが、ばつの悪い表情は隠しきれない。
「……まぁ?私はお前の肉親では無いわけだから、あまり強くは言えないが……──夜に里の外を出歩くことは、感心できないな」
「すいません……」
「謝るくらいなら、最初からしないことだ」
小さい溜息を混ぜながら、慧音は忠告する。
目の前の彼は、たとえ健康体であったも、人外のモノと戦える術など持ち合わせていないことをよく知っているからだ。
ましてや、彼の命の灯は……──
「……医者の見立では、あとどの位と?」
「長くても……新月の夜が限界らしいです」
「そう、か。その割には、何かを心待ちにしてるようだが?」
「……えぇ。つい最近、友達ができたんです」
「ほぉ、それは良いことだな。家は近くなのか?」
「それが、その……どこに住んでるかは、知らなくて……」
少し淋しそうで、それでいて彼は笑顔だった。
約束を、相手が守ってくれるということに、何故だか自信が持てる。
今宵もまた、自分と逢ってくれると約束してくれた。
だから──
「だから──毎日逢うのがとても楽しみなんです」
「……………」
湯呑みを手に、慧音へと心からの笑みを向ける。
慧音も笑顔を返すが、ある考えが頭を過り、どこか笑顔は強張っていた。
彼の言う友達が、果たして人間なのだろうか……?
もしも、人里の外で出逢っているとして、それが妖怪であったなら……?
もしも……人喰いの類の妖怪であったなら……──
ただ、慧音には強く彼を止めることができなかった。
満面の笑みを向ける彼は、ほんの数日前まで、何度となく自ら命を断とうとしていた人間──
“笑顔”というものからは、疎遠だった人間なのだ。
そんな彼が、これほどまでに嬉しそうに笑んでいる。
口は開けど、制止を促すような言葉は喉の奥で滞ってしまっていた。
●
──明日も、逢いに来て良いかな?
──明日も、逢いに来てくれるのか?
──明日は、何を持って来ようかな
──明日は、その……─────
次の日も、そのまた次の日も……
段々と月が欠けていく夜の下で、人喰いと人間との茶会は繰り返す。
お互い、逢えることを心待ちにしているかのように日を過ごし、夜を待つ。
ただ、日を追うごとに、ルーミアは何となく違和感を感じるようになってきていた。
別れる時は、その別れを非常に惜しんでいる様子の彼……
しかし、逢いに来る時間が徐々に遅くなってきている。
「すっかり、月も細くなっちゃったね」
「明日は新月なのだ」
ルーミアだからこそか、夜であっても物をはっきりと見ることができる。
普段と変わらない口調の彼に目をやって、ここ最近感じていた違和感の正体が、おぼろげに理解できた。
「……なぁ?」
「ん?どうかしたの、ルーミア?」
「──お節介かもしれないのだ……お前、ちゃんと食べてるのか?」
「ぇ……?」
珍しく、彼は笑顔を崩した。
しかしながら、ルーミアの指摘も尤もなところ。
日を追うごとに、目に見えて彼は痩せ細ってきている。
掌でも見ようものなら、細くなった血管が浮いて見えるほど。
「食べるものは、ちゃんと食べてるよ?今だってこうして、作ってきた物、一緒に食べてるじゃない?」
彼が移した視線の先には、三段の重箱に敷き詰められた、様々な料理の数々。
二人分にしては多すぎると思えるほどの量のそれに、彼もルーミアも、先程から箸を伸ばしている。
ただ、彼の食べるペースや分量などは、見るからに常人のそれよりも遅くて少ない……
「はっきり言うと、無理してるようにしか見えないのだ」
「……そう、かな?」
「そーなのだ!」
いつもであれば、彼は本音や真意を、その不気味なほど自然な笑顔の裏に隠してしまう。
だが、その笑顔が崩れた今、ルーミアの問い掛けを回避する術は無い。
「……無理は、してるね……確かに」
「何でそんな無理するのだ?!私に心配かけたいのか?!!」
「そうじゃない!」
笑顔を作る余裕さえ無い。
そう訴えるかの様に、彼は声を大にする。
出会ってから始めて聞いた彼の怒声に、思わずルーミアは口を噤んだ。
「……ゴメン、大きな声出して……」
「か、構わないのだ。それより、そうじゃないってことは、他にちゃんとした理由があるのか?」
「ある、よ……」
漸く、彼はまた笑顔を作った。
ただ、明らかに今までとは違う、“不自然な笑顔”に、ルーミアも動揺を隠せない。
「端的に言えば──」
「……………?言えば──何なのだ?」
一番聞きたい部分で、彼は言葉を止めた。
促すよりと言うより急かす様に、ルーミアは次の言葉をせがむ。
しかし、彼は言葉を発しようとしない。
そればかりか、どこか苦しそうに、口元を右手で抑えながら、その場に蹲ってしまう。
動揺していたルーミアの心は、もはやどうすればいいのか分からなくなっていた。
しばしの間、彼は苦しそうに咽込み、必死な思いで無くなった酸素を体内へと吸い込む。
「──……っ、ハァ……ハァ……」
「く、苦しそうなのだ?」
「……………──っ」
「ぇ……?」
彼の口元に、赤いモノが見えていた。
ただ、ルーミアを驚かせたのはそれではない……
彼の目元から零れた、一筋の涙の方だった。
「な、何で……泣いて……──」
「──ねぇ、ルーミア……一つだけ、お願いを聞いてもらっても良い?」
「ぇ?」
優しげでも無く、苦しそうでも無い、消えてしまいそうなか細い声。
言葉の所々に混ざる嗚咽は、泣きじゃくりたい感情を必死に抑えていることを、鮮明にルーミアへと告げている。
「き、聞くのだ。だから、その……泣くな、なのだ」
「……うん、ゴメンね」
目元をごしごしと、肌が真っ赤になるほど拭う。
二度三度、深呼吸して呼吸を整えながら、頭の中で言葉を選別する。
「明日、なんだけどね?逢いに来て、くれるかな?」
「逢うくらい、問題無いのだ」
「えっと、そうじゃなくて……家にさ?僕の家に、逢いに来てほしいんだ」
自分にもこんな感情があったのかと、ルーミアは自分で自分に驚いていた。
目の前の彼の言葉は、言葉のままに受け取れば普通のお誘いだ……
だが、その裏に見え隠れしているものは、ひどく淋しく悲しいモノ──
それがはっきりと見えてしまったルーミアは、今までで幾度も感じたことのない感情で、胸が締め付けられていた。
「明日で、いいのか?」
「うん……寧ろ、明日で無いと──」
「……………」
それ以上は、言いたくないという気持ちが伝わってくる。
お互い、場の空気に耐えきれず、会話を無理に変えようとする。
だが、口を開いても言葉は出ず、目を泳がせながらの長い沈黙の時間を過ごすことになった。
「……ぁ、そう言えばまだ、さっきの質問の答え、訊いてないのだ」
「へ?さっきの、質問?」
「もう忘れたのか?今、こうして逢いに来てるのは、本当は無理してるんだって言ったのだ」
「あぁ、そのこと?」
話題を変えてくれたことに感謝してか、彼は自然な笑顔を作って向ける。
彼の表情を見てルーミアは、何故だか自身の心が落ち着いていくのを感じていた。
「……また、笑って誤魔化すのか?」
「ううん、そんなことしない……無理してる理由だけど、ね?“逢いたいから”じゃ、ダメかな?」
「……“逢いたいから”って、それだけなのか?」
「うん、それだけ。それだけ……ルーミアに逢えるのは、僕にとって嬉しくて待ち遠しいことだから……無理の一つくらいも、したくなるんだ」
言葉も思考も、ルーミアの中では白紙になった。
ただただ、顔が赤くなっていくことだけは分かり、それを見られまいと下を向く。
「ルーミアも、そうであってくれると嬉しいんだけど……?」
「う、嬉し──よ、よよ、よく分からないのだ!!」
恥ずかしかったからか、それとも自身が妖怪と言う身の上だからか……
口を衝いて出た言葉を無理やり止め、感情を誤魔化すように声を大きくする。
その言葉を聞いて、彼は笑顔でありながらも、どこか淋しそうな雰囲気を漂わせた。
「そっか……」
「そ、そーなのだ!」
「でもさ?明日、逢いに来て、くれるんだよね?」
「あ、明日は……──」
言葉が濁る。
もしも、自分が人間だったのなら……──
そんな感情が、ルーミアの頭を過っていた。
「明日は、新月なのだ」
「うん、そうだね。何か都合が悪いの?」
「……悪いと言えば、悪いかもしれない、のだ……」
「じゃあ、逢うのは難しいの……?」
「難しくは、無いと思うのだ。ただ……──」
上手く表現できない……
ルーミアから伝わってくる感情や雰囲気は、そう強く訴えてくる。
伝わってくるからこそ、彼も必死に笑顔を向けるが、どうしても寂しさが笑顔の裏に見え隠れしてしまう。
彼の……そんな笑顔を見るのが無性に嫌になった。
信じられないほど思考回路の巡りを早くして、ルーミアは口を開く。
「逢いに行くのだ!明日……!必ず……!!絶対に!!!」
「……ルーミア?」
「だから……もう、そんな風に笑わないでほしいのだ!もっと、本当に嬉しそうに笑ってほしいのだ!!」
無意識のうちに、彼の両手を覆うように握っていた。
顔の距離が近くなるのもお構いなしに身を乗り出し、ただただ自分の想いを吐露する。
彼はと言うと、ルーミアの行動に動揺して、顔が赤くなっていることにさえ気づけていないほどであった。
「お願い……なのだ」
「ルーミ──」
そこでようやく、ルーミアの目に涙が溜まっていることに気付いた。
零れないよう、泣き出してしまわないよう、ルーミアが耐えていることも、同時に……
「……うん、ありがとう」
「……………ぇ?」
寂しさの払拭された笑顔と一緒に、彼はお礼を言った。
その言葉の示すところが分からず、ルーミアは首をかしげた。
「……っ、なんで、お礼……?」
「それは……──今は、内緒」
「ぇ、な?!ず、ずるいのだ!」
「大丈夫。明日に、少しでも取っておきたいだけだから」
ルーミアの手はそのままに、彼はややふらつきながら立ち上がる。
半ば無意識だったこともあり、彼の手を握っていることに、ルーミアは今ようやく気付いた。
手離すタイミングを逃したようで、一緒になって立ち上がる。
「じゃあ……今日は、帰るね?」
「え、ぁ……うん……」
「……明日、逢いに来て、ね?」
「行くのだ。必ず、逢いに行くのだ」
「……ありがとう」
別れを述べても、名残惜しそうに、二人は立ち竦む。
どちらかが手を離せば良いものを、それすらしようとしない。
時間にしてみればほんの数分、二人にしてみれば数時間、無言で互いに見つめ合っていた。
「「ぁ……」」
漸く、二人の手が離れた。
それとほぼ同時に、別れることを惜しむように、声が漏れる。
淋しさが込み上げてくるのが、ルーミアにはよく分かった。
でも、彼にその淋しさを知っては欲しくない。
そんな想いからか、自然とルーミアは笑みを向けていた。
「また、明日……なのだ」
「……うん、じゃあ、明日」
その笑顔が、彼にとっては嬉しかった。
彼自身も笑みを向けて、ゆっくりと里のほうへと足を向ける。
何度も何度もルーミアのほうへと振り返りながら、名残惜しい気持ちをひしひしと感じさせる足取りで、里へと戻って行った。
不意に、ルーミアは初めて彼と出会った夜を思い出していた。
あの夜も、彼は帰り際に何度も振り返り、自分の姿を目に焼き付けていた。
ただ……明らかに違う、その足取りの重さと醸し出される雰囲気は、堪えていたものを溢れ出させるのに十分すぎた。
「──……明日、逢いに行く、のだ……必ず──」
●
空には雲一つもない。
ただ、月のない夜空はひどく暗い。
──そう、今宵は新月の日……
約束と……別れの日──
「……………」
人里の入口に、佇んでいる影が一つあった。
月の灯りさえない今夜は、誰であるかを特定することは難しい。
ただ、その影は里へと入ろうとはせず、何かを待っているかのようだ。
「お?おーい、こっちだこっち!」
「……………」
その影に気付いたのか、駆け寄っていく姿があった。
ランプのようなものを持っているため、その姿が誰であるかはすぐに分かる。
白と黒との魔法装束に身を包んだ、霧雨魔理沙その人だ。
「待ったか?」
「……待ってない」
「そうか、なら良かったぜ」
魔理沙の持つ明かりに照らされて、漸くその影の全容が見えた。
彼女と同じくらいの背丈、同じくらいの長さの金髪、そして全く違う雰囲気……
身につけている服は、あの妖怪とまるで同じ──
「……でも、本当にお前、ルーミアだよな?」
「そうだけど……」
「いやぁ、いつもと全然違うんだぜ?確認もしたくなるだろ、普通?」
魔理沙の目の前に立っている影──ルーミアは、明らかに昨日までとその姿が違う。
容姿はもちろん、幼げな口調や雰囲気も、今は微塵も感じられない。
「やっぱり……お前って、普通の妖怪と違うよな?」
「そういうもの……私は、“宵闇”の妖怪だから……」
「それで、光のない夜に、封印が解けるのか?」
「……………」
小さく頷く。
やはり、醸し出される雰囲気は、いつもとまるで違うものだ。
魔理沙の言う“封印”とは、普段のルーミアの頭についている赤いリボンのこと。
このリボン、実際は“御札”であり、元来の彼女の力を封じ込めている。
その経緯を知る者は今では殆ど居らず、ルーミア自身もこの御札に触れることはない。
そして、“普通の妖怪”であれば、最も力が強まるのは、満月の夜だ。
月の妖力を浴びて、力が何倍にも膨れ上がる。
だがしかし、ルーミアは“新月の夜”にその力が最も強まる。
理由は定かではないが、世界が闇に包まれる新月の夜こそ、彼女の力である“闇”が深まるためではないかと、一部の実力者は推察している。
ただし、解けるのは封印されている力のごく一部だけ。
その全てが解き放たれれば、恐らくは、この世界のバランスを容易に壊してしまえるだろう……
「──で?わざわざ私に頼んでまで人里に入りたいって……どうしたんだ、一体?」
「……約束、だから──」
「約束?……あぁ、あの人間とか?」
「そう……」
魔理沙は、難しい顔をしながら首をかしげた。
いつもであれば、彼の方からルーミアに逢いに行っている。
だが、今日に限って、ルーミアの方から逢いに来た。
「慧音には許可取ってきたけどよ……なんで、お前の方から逢いに来たんだ?いつもみたいに、あの人間から逢いに来させれば──」
「約束だから……」
「いや、でも……普通は──」
「約束、だから」
あくまでルーミアは静かな口調。
ただ、最後の言葉に込められていたのは、苛立ちというよりも怒り。
それも、自分の言葉を素直に聞いてくれないことにではない……
魔理沙が、彼を軽視した風な発言をしたことに対して、だった。
「わ、分かったって……そう、怒るなよ」
「……………」
「……取り敢えず、そいつの家に行くぞ?慧音も霊夢も待ってるし」
「……どうして?」
「そりゃそうだろ?仮にもおまえは人喰い妖怪。しかも、今日は封印が解けてて、はっきり言えば危険極まりないんだ。里の中にいる間は、監視されても仕方ないぜ?」
魔理沙の言うところは尤もだった。
故に、ルーミアもそれを承諾する。
どこか腑に落ちないという表情ではあったが、文句を言って約束を守れないことの方が、今の彼女にとって耐え難いこと。
少々の不都合は、自分が我慢するしかないと、一人合点した。
距離にしてみれば、歩いて約15分程度。
ただ、ルーミアにはその距離が、尋常でなく長く感じられた。
逢いたいという気持ちは十二分……
しかし同時に、言い知れない怖さも感じていた。
この姿を見て、彼は果して何を想うのだろうか、と……──
「着いたぜ」
魔理沙の言葉に、ハッとした風に顔を上げる。
一見して、周りの家々と変わりない造り。
せいぜい違う部分と言えば、難しい表情で腕を組んだ慧音と霊夢が、その家の前に佇んでいることくらいだった。
「……………」
「……………」
霊夢も慧音も、一言も発せず互いに睨みあう。
二人が醸し出す重々しい空気に耐えかね、魔理沙が慌てた様子で口を開く。
「ほ、ほら!着いたんだから、さっさと入ってやれよ!」
「……………」
魔理沙を一瞥し、ルーミアは歩を進める。
半ば渋々といった様子で、霊夢は扉の前から少し離れる。
扉の前から動こうとしない慧音は、魔理沙に半ば強引に引き離された。
「入る……──っ!」
家の中は、蝋燭の弱々しい明かりがいくつかあった。
例え、その明りがなくとも、ルーミアは今と同じ表情をしていただろう……
床に臥している彼は、昨日よりも一層痩せ細っており、枕元に置いてある桶には、赤いモノが溜まっていた。
「……………誰?」
「……………」
今にも消え入りそうな彼の声。
目を離せば無くなってしまいそうな彼の姿に、ルーミアは今まで感じたことのな感情を味わった。
そして気がつけば、彼の横へと座って、そのか細くなった手を握っていた。
「……逢いに、来た」
「……もしかして、ルーミア?」
手を握られていることも分からないのか、彼はキョロキョロと辺りを見回す。
蝋燭の灯りとはいえ、ルーミアの姿が見えない筈はない。
彼の目をよく見てみれば、その焦点が合っていないようにも見える。
「見えて、ない?」
「ルーミア、なんだね?……よかった、本当に逢いに来てくれたんだ」
「……………約束、してたから……」
間の抜けたような声で返す。
相変わらず、彼はどこを見ているか分からない……
自分の声もちゃんと届いているのか、ルーミアは不安で仕方がなかった。
「なんだか……昨日と声が違う気がするね?」
「──今日、新月だから……封じられてた力の一部が解けて、外見もすっかり変わってる、の……」
「そうなんだ……見てみたいなぁ」
「見れば、いいよ?」
“自分はここにいる”と言いたげに、彼の腕を自身の胸に当てる。
その感触が伝わったのか、彼がゆっくりとルーミアの方へと顔を向けた。
……だが、焦点の合わないその目は、姿を捉えてくれているようには思えなかった。
「あれ?おかしいな……部屋が暗いのかな?」
「……そう、かもしれない……」
「明かり、切れちゃったのか……残念だなぁ」
自分の容態が分かっていないのか、彼は何気ない様子でぼやく。
対して、ルーミアの方は、自分の体が震えていることに気付いていた。
悲しみからか、怖さからか、よくは分からない。
ただただ、その震えだけは、彼に知られたくないということだけが、頭の中に巡っていた。
「でも……逢いに来てくれて、本当にありがとう」
「……………」
「もう今日以外、逢えないから──」
また、“笑顔”を向けてきた。
その“笑顔”に、ルーミアは言葉を失う……
口を開いても、ただ無駄に動くだけで、声は何一つ出てこなかった。
「……あのさ、ルーミア。最期だから、言っておきたいことがあるんだけど……聴いて、くれる?」
「……………聴く、ちゃんと」
彼の問いかけに、小さく頷いて返す。
だが、その返事が見えていないことに気付き、ルーミアはすぐに言葉を付け足した。
「ありがとう……まずは、初めて会った夜のこと──あの日、あの場所にいた理由を……」
「理由?そんなもの、別に──」
「あの日僕は……死ぬつもりだった──いや、正確には、“殺してもらうつもり”だった、かな」
遮った言葉は、ルーミアの思考回路を停止させた。
次の言葉を待つことしかできず、彼の目と口に、じっと視線を向け続ける。
「数ヶ月前になるのかな?余命幾許も無いって言われて、自暴自棄になってたんだ……何度も何度も、自分から死のうともした……けど──」
「──……出来なかった?」
「……うん。途中でいつも怖くなって、痛くて苦しいことが辛くなって、死ぬことと向き合えなかったんだ」
すでに、彼の顔から笑顔は消えていた。
弱音を曝け出し、泣き出すのを必死にこらえた、見ていて辛くなる表情。
……それでも、ルーミアは目を逸らさない。
“聴く”と言った、自分の言葉を反故にしない為ではない。
目の前の彼にとっての、微力でも支えになりたかったから──
「……私のような、人喰い妖怪がいることを知ってて、森の中まで足を運んだの?」
「そう、だよ……自分でできないなら、自分の力の及ばない存在に──それこそ、一切の抵抗もできないうちに……」
彼の言葉は、苦しみながら絞り出したように感じられた。
ただ、ルーミアには一点、疑問を抱いた部分があった。
「──じゃあ、どうして私に逢っって、“食べられるのは困る”なんてて言ったの?」
「……それが、二つ目の告白だね。あの時──」
そこで一旦言葉を区切り、必死な思いをして体を起こす。
ルーミアはその行為を止めさせようと抑えるも、彼の意志を完全に無為にはできない。
途中からは、座ろうとしている彼の体を支えるよう、手を貸していた。
「……あの時、何……?」
「あの時──心がどよめいたんだ。鼓動が速くなって、顔が赤くなるのを感じて、不思議な高揚感に襲われて──」
「……言ってる意味が、よく──」
「……………簡単にいえば、ね?一目惚れしたんだよ……ルーミア、君に──」
焦点の合っていない彼の目は、必死にルーミアを捉えようとしている。
驚きが先行して、間をおいてから赤くなったルーミアは、代わりに彼の目をじっと見据える。
「多分だけど、生まれて初めて、こんなに誰かを好きになった。だから、急に死にたくなくなった……もっともっと、君と──ルーミアと一緒にいられる時間がほしいって……そうしか考えられなくなった」
「そ、そんなこと……今、言われて──私、私は……──」
人間から、過去にそんな感情を抱かれた経験は皆無に近い。
ただ、逆は確実に皆無だ。
そんな感情を抱くよりも前に、食欲が先行し、人間を喰らってきた。
目の前の彼にしても、出会って一番に抱いた感情は、“食べたい”だ。
空腹を満たすため、胴を裂き、目を抉り、血を啜り……自分の腹の中に収めたいという欲望が念頭にあった。
でも、今は──
「答えが見つからないなら、答えてくれなくてもいいんだよ。でも、これだけは答えてほしいな……」
「……な、何?」
「ルーミアは……僕を、好きでいてくれた?」
言葉が何一つ出てこない。
頭の中が真っ白になって、だらしなく口を開いたまま、ルーミアは固まっていた。
「ルーミア?」
「……………どう、言えばいいのか、今の私には分からない──」
「──……そっか……」
「だから──」
感情が混乱し、震えている唇を、そっと彼の唇へと触れさせる。
まともに働いていない彼の感覚は、この時だけは、しっかりとその行為を脳へと伝えた。
「──ン……………」
「……………っ!?」
ほんの一瞬だけの、とても短いキス──
ただその一瞬で、互いの鼓動は伝わって、彼の目からは一筋の涙が零れていた。
「こんなので、許してくれると嬉しい……」
「……………」
ここに来て、初めて彼から目を逸らす。
項垂れて、自分の不甲斐なさを悔しく思い、唇を強く噛み締めた。
そんな、ルーミアの様子が見えているのかいないのか、彼は今までで一番に思える優しい笑顔を、彼女へと向けた。
「──許して、あげない」
「……………ぇ?」
「でも……一つだけ、お願いを聞いてくれるなら、許してあげてもいいよ?」
無邪気に、彼はそう言った。
その無邪気さはどこか、今にも消え入りそうな蝋燭の灯が、最期に大きく揺らめくのと、同じように感じられた。
「お願い、って?」
「うーん……それじゃあ──」
甘えた盛りの子供のように、ルーミアへと体を預ける。
突飛な彼の行動にも驚かされたが、何よりも、想像以上に彼の体は軽かった。
「ちょっ?!な、何を急に──」
「眠くなっちゃったから、さ?寝ちゃうまで、このままで……──」
「──ぁ……………」
彼の体から伝わってくる脈動が、弱まっていくのを感じた。
眠たげに眼を擦り、甘えるようにルーミアに体を摺り寄せる。
急激に、ルーミアは言い知れない恐怖を感じ、強過ぎるほどの力で彼を抱きしめた。
「……痛いよ、ルーミア……?」
「……………」
「痛い、けど──あったかい……」
「……………っ!?」
掠れ、細くなっていく彼の声は、ルーミアを優しく包み込む。
気付けば、先ほどまでの震えは収まり、慌ただしかった自分の鼓動も穏やかになっていた。
「……ねぇ、ルーミア?」
「……どうしたの?」
「次に目を覚まして、また逢いに来てくれる?」
「──うん、ちゃんと逢いに行く。だから……──お、おやすみ、なさい……」
「おやすみなさい、ルーミア……」
ルーミアは振り絞るように、おやすみと告げた。
彼は幸せそうに、おやすみと返した。
ゆっくりと瞼が閉じられ、小さく息が漏れる。
「……ねぇ、ルーミア……」
もう、聞こえないほどに小さな声。
聴き逃すまいと、ルーミアは彼の口元まで耳を寄せた。
「……呼んだ?」
「僕、さ──_ _ _だね……」
そう、小さく呟いた。
直後に、彼の手も、パタリと、力なく落ちた。
●
「──彼は?」
「……………逝った」
慧音の問いかけに、ルーミアは端的に答えた。
その言葉を聞くや、慧音は家の中へと駆け込んでいった。
「喰わなかったんだな、結局……」
「……喰えなかった、が正しい……」
「そうでしょうね」
魔理沙と対照的に、霊夢は粗雑な口調。
右手を腰に当て、やや呆れた風な表情で、ルーミアを見ていた。
「どういう意味だ?仮にもこいつは──」
「妖怪よ?それも、人喰いの……でも、妖怪が人間と同じ感情を持たないなんて、誰が決めたの?」
霊夢の言葉を聞いて、ルーミアはハッとする。
そのまま、二人のことなど気にも留めず、漆黒の空へと翔けていった。
あとに残された霊夢と魔理沙は、ただただルーミアの背を視線で追うだけ。
暫くはそのまま佇んでいたが、姿が見えなくなって、霊夢は家の中へと入ろうとする。
「……なぁ、霊夢?」
「何?」
「あいつ、最後になんて言われたんだ?私には聞こえなかったんだけどよ……」
「……私も、よ。それに、その言葉はルーミアだけのモノ──分かるわよね?」
表情も口調も一貫している。
だが、霊夢のその言葉の裏には、なんとなく優しさが込められているようにも感じた。
めったにない霊夢の言葉に、思わず魔理沙は目を点にしていた。
「……………」
「何よ、その目?」
「……いや、明日は槍が降るなぁ、って思っただけだぜ?」
「現実になって欲しいのね?」
不敵に笑みを浮かべ、魔理沙を一瞥する。
ただ、それはほんの僅かな間だけのこと──
家の中へと入るときには、真摯な表情へと一変していた。
月のない夜空を、彼女は一人漂っていた。
今日は普段とは違う姿だからか、見知っているはずの妖精や妖怪も近寄ってこない。
それが、今は助かった。
「──_ _ _、ね……」
何度目になるかは分からない。
最期に彼が言った言葉を、何度も何度も反芻する。
する度に……視界が滲んで、目から何かが溢れ出す。
「……私は、私は……」
自分は、どうだったのだろう……?
彼と同じ_ _ _だったのだろうか……?
もしもそうなら、彼はどう想ってくれるのだろうか……?
「──きっと……嬉しいって言って、また、“笑って”くれるのよね」
何故だか、答えは容易に浮かんだ。
ゆっくりと上空へと手を伸ばし、目を細めながら、誰にというわけでもなく呟く。
手の先に、彼がいるわけでもない。
見えない月に告げるわけでもない。
一人なのが、淋しいわけでもない。
ただ、今は──彼の言葉に浸っていたい。
自分のことを好いてくれた彼に、間に合わなかった本音を告げるように……
ルーミアは、“微笑みながら”、口を開いた。
「──……私も、『幸せ者』、だね……──」
Fin
後書き
シルフェニアに来ること自体、随分と久しぶりな気がします。
どうも、ガチャピンαです。
実生活の方で色々あったりして、SS書くどころでなかったので、ここ最近滞ってました……(汗
生活面や精神面で、ようやく安定して落ち着いてきたので、また投稿の方を再開しようと思って、今作を書かせていただきました。
リハビリ的な意味合いもあるので、やや出来に不安は残りますが、ご容赦願えれば幸いです。
シルフェニアに復帰するということは、当然、以前の作品の続きも書いていくつもりです。
ただ、しばらくはリハビリ作品の投稿が続くかもしれません。
本調子に戻りましたら、長編作品再開という心積もりをしています。
最後になりますが、今回の作品制作にあたって、まぁさんを始め、色々な方からアドバイスをいただきました。
この場を借りてお礼申し上げます。
本当にありがとうございました。
改めて、これからもよろしくお願いします。
押して頂けると作者の励みになりますm(__)m