忘れられた向日葵・前篇
そこは幻想郷の中でも指折りの絶景。
太陽の光が降り注ぐ、一面の向日葵畑。
「太陽の畑」とも呼ばれるその場所に、一人の少女の姿があった。
緑の髪を風に揺らし、穏やかな表情で花々を愛でているその姿は、ある種の絵画の一枚にふさわしいかも知れない。
「……あら?」
そよ風が吹き、向日葵が小さく揺れる。
そこから何かを感じたのか、愛でていた花から視線を外し、少女はある方向を向く。
特に何があると言う訳でもないが、少女はそのままゆったりと歩きはじめる。
「ふふふ……また妖精の類かしら?」
穏やかな笑みを浮かべていた。
ただ、その笑みには、何故か“可愛らしい”や“美しい”などの表現が適さない。
どこか畏怖を感じさせられる笑みだ。
少女自身もそれを自覚しているのか、手に持っている日傘の影で表情を隠している。
「……………」
ゆったりと歩みを止めた。
予想と異なる“モノ”がそこにはあった。
「人間?」
目に映ったのは、人間が倒れている様だった。
大凡10代後半の少年。
少女はその少年に、訝しげな視線を送っていた。
上手く表現できない“違和感”を、その少年は醸し出していたからだ。
「……ま、何にしても……ここは無造作に足を踏み入れていい場所じゃないってこと、この子も当然知っているはずよね?足を踏み入れて……何をされても文句の一つも言えないことくらい……」
日傘を閉じ、その先端を少年へと向ける。
やがて、日傘の先端が白色に光りだす。
その光は球体となり、そして──
「親切に起してあげるのだから、さっさとお家に帰りなさいな」
穏やかに、それでていてどこか恐ろしい笑みを浮かべた。
同時に、日傘の先端から光の弾が放たれ──
「……………え?」
──消えた。
少年に光球が当たるかと思われたその瞬間、一瞬動きが止まり、光球は消えた。
少女の顔から笑みが消えた。
苛立ち……
それに近しい感情が沸々と沸き起こり、同時にこの少年に対して僅かばかりの興味を抱いた。
「起きなさいな」
今度は直接日傘で突く。
数回突いたところで、少年は小さな呻き声をあげ、目を開いた。
「ん、んぅ〜……」
「起きたかしら?」
「……え?あれ?オレ、一体……?」
「……あまり心地のいい目覚めではないようね。ま、それはどうでもいいわ」
現状をまだ把握できていない少年。
その少年に対し、少女は起き上がれと無言で促す。
促されるがまま立ち上がり、少年は漸く少女と真正面から向かい合った。
「えっと、あの……?」
「私に対して何か聞きたいと言いたげね?でも、まずは今のあなたの立場、理解してもらってもいいかしら?」
「オレの、立場……ですか?」
「えぇ。そもそも、ここがどこだか分かってる?」
「……たくさんの向日葵がある場所です」
「50点と言ったところね。この世界で、これだけの向日葵が咲いている場所……分からないとでも言いたいの?」
「……すいません。あなたの言ってることが──」
「“分からない”のね?」
「は、はい……」
少女の心に疑問が湧いた。
明らかに、目の前の少年は嘘を吐いていない。
だが、この場所の事、延いては目の前の相手の事すら分かっていない。
そんなことがあり得るのか?
「……あなた、生まれは?」
「え?」
「出身を聞いているの。答えなさいな」
「えっと、出身はS県です」
「……………」
「……あ、あの……オレ、変なこと言いました?」
「おかしいけれど納得できたわ。つまりあなたは、“外の世界”の住人と言う訳ね」
「……へ?」
再び日傘を広げ、その影で少し表情を隠した。
「取り敢えず名乗ってもらっていいかしら?それから順番に説明と質問をすることにするわ」
「……えっと、名乗ればいいんですか?」
「そう言わなかったかしら?」
「あ、すいません……オレ、風見 幽輝って言います」
「……………」
「……あ、あの……?」
「随分な偶然ね。私の名前とほとんど一緒だなんて」
「へ?」
「私は風見 幽香。花の妖怪よ」
「妖怪?」
あまり聞き慣れていない単語なのか、少年─幽輝は首を傾げる。
ただ、少女─幽香はそのことについては説明するつもりはないらしい。
小さく溜息を吐き、口を開いた。
「ここは幻想郷……あなたの──幽輝の住んでいる世界とは違う世界よ」
「……………」
「言葉は理解できても意味が分からないと言いたげね。ま、それは今はいいわ」
幽香はそう言い、ゆったりと背を向けた。
「ついてらっしゃい。立ち話にしては長くなるから、お茶でも飲みながらにするわ」
「は、はい……」
「ついでだから幽輝、あなたの分も淹れてあげるわ。ただし、ついてくる途中で、ほんの少しでも野花を踏んだりしたら──」
「……したら?」
「あなたが飲むのは自分の血になるだけの話よ」
「っ?!」
ゾッと、身震いした。
それを知ってか知らずか、幽香は花畑の中を歩いていく。
咲き誇る向日葵たちは、幽香に道を譲るかのように揺らいでいた。
「ほら、置いていくわよ?」
「は、はいっ!」
幽輝もその後に続く。
向日葵だけでなく、足元に小さな花が無いかも気にしながら、恐る恐る花畑の中を歩いていく。
向日葵たちは、幽香の時のように道を譲ることは無い。
だが、なぜだか、別に風が吹いているわけでもないのに、幽輝の周りに咲いている向日葵たちは機嫌が良いように揺れていた。
「……………」
その様子を見て、幽香は再び訝しげな視線を幽輝に送る。
幽香の視線には気付いていないようで、幽輝の足取りはとても慎重だった。
「ねぇ」
「はい、何ですか?」
「先に聞いておきたいのだけれど……あなた、人間?」
「え?はい、人間ですけど……?」
「……………」
俄かには信じられない。
幽香の表情はそう語っていた。
何故そんな表情をされているのか分からない幽輝は、ただただ首を傾げるだけだった。
「……人間、ねぇ……?」
独り言ちる。
その言葉は不意に吹いたそよ風に流されて……
そよ風の吹く方へと視線を送った幽香は、靡いた髪を軽くいじる。
どこか、表情や目つきは、不機嫌そうだった。
「……ハァ」
「……?あの、どうかされたんですか?」
幽輝の質問に答える気はないらしい。
明後日の方角を向いたまま、不機嫌な表情のまま、幽香は口を開く。
「“あなた”の分の紅茶は無いわよ」
「へ?幽香さん、一体──」
『それは残念ですわ』
途端、幽香の視線の先の空間に線が走る。
その線が開き、中から一人の女性が姿を現した。
「う、うわっ?!」
「お茶会は大勢の方が楽しいですわよ?」
「気に入らない奴と飲んでもお茶が不味くなるだけよ」
「随分な言いぐさですわね?」
「なら己の言動でも省みなさいな」
互いに笑顔だ。
ただ、どこか威圧しているように見える。
急な登場の仕方と、二人の空気に、幽輝は尻餅をついていた。
「……で?なんでこんな人間を私の所に寄越したの?」
「あら?私は存じませんわよ?」
「……笑えない冗談なのだけれど?」
「冗談を言っているつもりはありませんわよ?」
「……あ、あの……」
腰を抜かしたまま、幽輝はおずおずと口を開いた。
「幽香さん?その人、誰ですか?」
「あら、ごめんなさいね。私、八雲 紫と言いますの」
「胡散臭いスキマ妖怪よ」
「そんな紹介の仕方しなくてもいいんじゃなくて?」
「事実でしょ?」
「……スキマ?」
「説明すると長くなりますわ。それに、あなたの事も聞きたいですし」
「は、はぁ……?」
追い払っても無駄と察したのか、幽香はそのまま二人を置いていく形で歩き出す。
ようやく立ち上がった幽輝も、うっすらと笑みを浮かべていた女性─紫も、その後に続く。
そのまま少し歩き続け、開けた場所まで到着した。
そこには白い丸テーブルと4つの白いイスが置いてあった。
「お茶は私が用意しましょうか?」
紫がそう申し出る。
不機嫌そうな視線を送った幽香だが、小さく溜息を吐いてイスに腰かける。
「え、えっと……」
「幽輝、座りなさい」
「あ、はい……」
幽輝が座ったのを見て、紫は指を一振りする。
すると、テーブルの上に線が引かれ、それがゆっくりと開く。
開いた中からゆっくりと、ティーセットが昇って来て、完全にその姿を見せると開いた線は閉じて消えた。
何が起こったかよく分かっていない幽輝を尻目に、紫は手慣れた手つきで紅茶を淹れる。
「幽輝クン、ノンシュガーでもいいかしら?」
「え、あ、はい。大丈夫です」
「幽香は?」
「結構よ」
「では、どうぞ」
勧められるまま、幽輝は一口すする。
その紅茶は今まで飲んだどんな紅茶よりもまろやかで美味しかった。
「美味しいですっ!」
「あら、素直な子ね」
「……………」
「ま、各々落ち着いたところで、本題に入りましょうか」
不意に、紫の表情が微妙に変化する。
幽香も不機嫌そうな表情だが、眼差しは真剣だった。
二人の急な態度の変化に、幽輝は目を白黒させていた。
「じゃあ、そうね……幽輝クン、もう一度あなたの生まれを教えてくれないかしら?」
「はい……S県のH市で──」
「念のために聞くけれど、地球出身よね?」
「へ?はい、そうですけど……」
「だとすると、おかしな点が二つありますわ」
「な、何か変ですか?」
「ま、紫に指摘されなくても、“外見”がおかしいことくらい私だって気付いていたわ」
幽香の言葉を聞いて、幽輝は自分の服装を確かめる。
赤い模様の入った黒のTシャツと、迷彩柄の膝下までのズボン。
念のため、露出している肌も見て見るが、至って普通の肌色……
刺青や斑点なども見当たらない。
「……どこか、変ですか?」
「髪の色は兎も角、そんな“目”は初めて見たわ。少なくとも、自身を“人間”だと称している者ではね」
「髪の毛?目?」
「はい、幽輝クン。これ使って」
どこからともなく、紫は手鏡を差し出した。
その手鏡を使い、自分の顔を見て……
……幽輝は目を見開いた。
「──っ?!」
「幽輝クンたちの世界で言えば、“写真のネガ”というのだったかしら。眼球の白い部分と黒い部分が逆転しているわね」
「お、オレ……こんな目になって……!?髪も、真っ白に……?!」
「元は黒だったのかしら?」
幽香の問いかけに、幽輝は無言で頷く。
「幻想郷に来た影響、かしら?」
「私が管理している上で、そのような事態は今まで起きていませんわ」
「なら、幽輝の元いた世界では、この状態が普通だったの?」
「この驚き方を見れば、それは無いと言えるでしょう」
「じゃあ今、幽輝の身に何か起こっているってこと?」
「そう考えるのが自然でしょうね。それと──」
紫はそこで言葉を止め、幽輝の頬に手を当てる。
目と目を合わせ、じっくりの見つめる。
「……あ、あの……紫さん……?」
「……………」
「え、えっと……?」
「……どうやら、髪と目だけじゃなくて、さらに厄介なことが一つ起きているようね」
「厄介なこと?何よ?」
「一言で言うと、“能力持ち”になってしまっていると言うこと。幽輝クン、残念なのだけれど、今のままの状態のあなたをもとの世界に帰すことは出来ないわ」
「…………………………え?」
幽輝の思考が停止した。
ただただ目をキョロキョロとしているだけで、何も考えることが出来ない。
今、紫が言った言葉を、頭が理解しようとしていない。
「……つまりは、“人外”になったと言うことよね?」
「そのようですわ。人外になったのが幻想郷に来るよりも前か後かは分からないけれど、このままの状態では私は幽輝クンをもとの世界に帰せない」
「紫の能力を使えば、幽輝の能力を無くすことも出来るんじゃないの?」
「それができればいいのだけれど、ねぇ……」
幽輝から視線を外し、紫は少し俯いた。
「幽輝クンの能力……その詳細は分かっていないけれど、恐らくはその能力のせいでしょうね」
「何がよ?」
「簡単に言うと、私の能力が干渉できないの。幽香もそんなことなかったかしら?」
「……………」
ふと、幽輝を見つけた時の事を幽香は思い出した。
確かにあの時、日傘を突きつけて、光球を放とうとした。
だが、その光球は幽輝に当たる直前に消えてしまった。
「どんな能力かは分からないの?」
「えぇ。霊夢にでも見させるわ。幽香、幽輝クンを神社まで連れて行ってあげてくれる?」
「……嫌よ。なんでそんな面倒なことを……紫がスキマを使えば済む話でしょ?」
「言ったでしょ?私の能力が干渉できない、と。スキマを通して神社まで連れて行くことが、今の幽輝クンに対しては出来ないのよ」
「……使えないわね」
「甘んじて受け止めますわ。それで、引き受けてくれるかしら?」
「紫はどうするの?」
「幽輝クンの経緯を調べるわ。元いた世界で何をしていたか、なぜ幻想郷にやってきたのか、その他諸々……」
「もう一度聞くけれど、紫が連れてきたわけじゃないの?」
「それは間違いありませんわ。私が幽輝クンと関わるのは、今が初めてですわ」
……腑に落ちない。
声には出さないが、幽香の表情はそう言いたげだった。
「紫、もう一つ聞いてもいいかしら?」
「何かしら?」
「幽輝の能力……それは“1つだけ”なの?」
「……と言いますと?」
「幽輝の周り──まぁ、ごく狭い範囲だけれど……向日葵たちが元気になったいたの」
「……安易に回答できませんわね。霊夢の見解に委ねますわ」
「分かったわ」
そう言って、幽香はさっきから一口も飲んでいなかった紅茶をすする。
「なるべく早くしてくれるかしら?」
「可能な限り急ぎますわ」
そう告げると、紫はその場から姿を消した。
後に残されたのは、難しい顔をした幽香と、呆然自失の幽輝だけ……
そっと、そよ風が向日葵たちを凪ぐ。
香りが仄かに漂ってきたが、今の二人には気にもならないほどだった。
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