彼が食事を嫌っている理由がようやく理解できた。
食事をしているときの、やりきれない表情。
コックを目指していたという、彼の夢をへし折った火星の後継者。
どこから歯車が狂ってしまったのか。何がおかしかったのか。
ラピスを利用し、コロニーを落としたアキトも悪だが、火星の後継者という組織もまた、悪であった。
企業間の欲望の渦に晒された少年は、結局最後まで踊らされたのだった。
A級ジャンパー。それは、最早世界に僅かしかいない存在。
地獄の果てに妻を救出しても、その妻ですら衰弱が激しく、救出された数ヶ月後に死に絶えた。
妻を追うようにして、パートナーであった少女も息を引き取った。
五感も、味覚と嗅覚は戻ってこなかった。それは、料理人にとっては生命線であるというのに。
不幸な人間というのはどこにでも存在する。
まるで、疫病神にとりつかれたかのような不幸を纏う人間というのは必ずしもいるのだ。
だが、彼の不幸は明らかに他の不幸を逸脱したものであった。
カップリング記念SS第4弾「さよならと始まり」
「…君か」
その日の夜。銃の整備を終えたのか。
ベッドに横たわり天井を見つめていたアキトは、ノックの後に部屋の中へ入ってきたフェイトに視線を向けて起き上がる。
対するフェイトは酷く憔悴した様子で、前髪に瞳が隠れていて表情が読み取れない。
「ノックするのは当然だが、許可もなく入るのはどうかと思うが?」
「…わからないんです。――貴方は、どうして生きているんですか?」
「………何だと?」
肩をすくめたアキトの責めには答えず、フェイトは問う。
その言葉の意味するところを理解できないのか、アキトは眉を顰めて問い返す。
と、そこでフェイトがようやく顔を上げてアキトと見詰め合う。
「どうして、貴方は…」
「……何故、君が泣く?」
「わかりません…」
涙でぐちゃぐちゃになった顔は、一体誰のための涙なのか。
「私には、まだ救いがありました。でも、貴方には救いがなかった。貴方は、私の可能性の1つなんです」
「可能性、か…」
腰の部分で握り締められた拳が震え、ゴチャゴチャになった感情が頭の中を駆け巡る。
悲哀と、怒りと、情けなさと。
そんなフェイトに、アキトはベッドから立ち上がって近づき、その頬に手を当てる。
「なら、君は生きろ。俺の有り得たかも知れない可能性を、見せてくれ…」
「アキトさんは…生きないんですか?」
「俺は……死人だ。もう、死んでいる。そして、死に場所を望んでいる」
「ダメです!アキトさんも、生きてください!
こんな…こんな哀しい終わり方なんて…!」
こんな終わり方は救いがなさすぎる。
こんな哀しみは、人が背負ってはいけない。これでは、いつか人は絶望しか抱けなくなってしまう。
そして、この絶望を背負ったまま朽ちていく彼を見るのは、もっと辛かった。
「哀しい…か。それは君の感情だ。
俺は、もう疲れた。人の欲望に振り回されるのも、そのせいで奪われるのも。
…何より、ユリカがいない」
そう。テンカワ=アキトが復讐鬼に堕ちたのも。
彼女の存在があったからだ。彼女を救わねばならないという想いがあったからだ。
だが、もう彼女はここにはいない。…この胸の中に、いないのだ。
「思えばいつも何かを奪われていた。両親を、友を、背中を押してくれた男を…だから、もういやなんだよ。
子供の我侭だと思われるかもしれないが…どうして、俺はここに残っているのか」
「でも、だからって…!」
「君は、支えになる者がいたからそういうことが言える。だが、俺にはそんなものすらなかった。
―――たった2本の足だけで、全ての哀しみを耐え切れるわけがない」
アキトは泣きそうな苦笑を湛えながら、その胸中を告白する。
それは、哀しみの連鎖の果てで生まれた、唯一の望み。
その表情は、フェイトの心を激しく揺れ動かし、瞳から涙を溢れさせる。
「だったら、私が支えますから!…だから、生きてください!
―――貴方は、貴方にはまだ生きて欲しい!」
「支える?…他人の君には無理だ。何より、それは君の望みでしかない。
俺が今を生きようと思うなんて…無理だ。夢も消えた。家族も、希望も消えた俺が、今更どう生きろと?
俺には人を殺す事しかできない。料理が出来るわけでも、味覚が戻るわけでもない。
人として当たり前の娯楽すら、もうない。俺はな、人の心に必要な機能すら持ち得ないんだ」
「ですが…!」
「………ふう。なら、君がもし魔法を扱う事が出来なかった場合の話をしようか。
君はアリシアという少女の代わりになれず、そして、ジュエルシードとかいったか…それを集める力すらなかったとしよう。
そんな君に果たして価値はあるのか?生きる意味があるのか?」
「!……そ、それは…」
「何より、俺は同情で泣かれるのはごめんだ。…少し、散歩に出てくる」
自嘲を浮かべたままのアキトは、最後にフェイトの頬を一撫でしてから部屋を後にする。
残されたフェイトはその場にへたり込み、嗚咽を上げてアキトの哀しみを体現するのであった。
「…そう、俺には何も残っていない」
「………なら、何故あの場所から出てきたんだい?」
「…」
ラピスの墓の前で佇むアキト。見つめるは刻まれた年月。
少女がたったそれだけの月日しか生きる事ができなかったという証。
否、少女には心すら備わっていなかったことから、それは生きているとは言えない。
なら、あの子には生すらなかったのか。
そんな苛立ちを覚えていたアキトの後ろに現れたのはアカツキ。
彼は苦笑を浮かべながら真意を問うと、アキトは何も答えないまま黙り込んでしまった。
「…君は、償わなければならない。
君が切り捨てたものと、救えなかったもののために」
「……それは、両方とも対極だろ。答えが」
「そう…だけど言えるのは、その両方ともがこの世に存在しない。
だから、都合のいい方の答えを取ってしまえばいい」
それは酷い言い草だ。
人の遺志を選りすぐってしまうということなのだから。
たとえ形にして残されていようが、それを切り捨ててしまうと。
「そんなことが、出来るか…出来るかよ」
見上げた夜空には、満天の星が。
だが、そんな綺麗な空と対照的に、アキトの心は雨風が吹き荒れていた。
「……同情、なのかな」
一人、自室で問う。
ベッドの端に、体育座りでちょこんと腰掛けるフェイトは、窓の外の夜空を見上げながらつぶやく。
最初に見たときは、恐怖。
それから、彼が悪くない人間だと、少しずつ認識してきたというのに。
なのに、彼は自分はテロリストだと言って憚らなかった。当時の自分はそれを嘘のように感じていたが…。
ラピスという名前の子供の墓で見せた、今にも泣きそうな顔に、この人は悪い人ではないと確信できた。
つっけんどんとしていて、普段は優しさのかけらも見せてはいないが…その墓の前で見せたのは、紛れもない優しい“人”の顔だった。
だけど、彼の過去を知らされたとき、唐突に不安に襲われた。
彼のいつも湛えている絶望の瞳の意味を、簡単な栄養食しか摂らない食事の意味を、知ってしまった。
その瞬間、彼が目の前からいなくなってしまいそうで…怖かった。
自分は、彼のほんの僅かな心の内も覗けてはいたが、理解など到底出来ていなかった。
人が本来、一生掛かって味わうくらいの量の不幸を、否、それ以上の不幸を…彼は味わってしまった。
自分には友人がいた。親がいた。兄がいた。
だが、彼には企業しかなかった。復讐以外の道が残されていなかった。
あまりにも非道で悪質な人の欲望の渦に、彼は巻き込まれてしまったのだ。
彼には、人の支えがなかった。
企業という、無機質の存在の支えがありはした。
パートナーや専属医師という、人的支えもありはした。
だが、彼の心を本当の意味で救ってくれるものは、どこにもなかったのだ。
「………守りたい、か」
彼は、きっと昔の私に似ている。
体を預ける存在がなくて、心を癒してくれる親友もいなくて。
違うのは、自分にはなすべき目的があったが、彼には何もないということだ。
だから、守ってあげなければならないと。
そう思っていたはずなのに、彼はそれを拒絶した。
同情で動くのは自分という一個の存在を完全に持っていない子供だけ。
彼くらいの年齢になれば、むしろ余計なお節介となってしまう。
いや、そんなことはわかっていた。
彼に対して行われた仕打ちは、他人がどうこうして介入していいレベルのものではない。
自分という存在を塗り替えられてしまう絶望は、正直自分には想像もつかない。
でも、だからこそ、そんな絶望の淵に佇む彼を引っ張ってあげないと…彼はいつまでも暗い闇の底に浸かったままだ。
結局その日、彼が帰ってくることはなかった。
翌日の朝、アキトから渡された時計にアカツキから連絡が入り、急な仕事で帰りは今日の夜になると告げられた。
アカツキもその時大分焦っていたため、何かあるのかとこちらが問い質すと、少し厄介な案件だからと返された。
少し、嫌な予感がした。
その予感がいつまで経っても消えないから、アキトが帰ってくるまで待つことに決めたのだが…帰ってきたとき、彼の姿を見た瞬間驚きを隠せなかっ
た。
黒いスーツはボロボロで、ところどころ焼けた跡がある。バイザーには皹が入り、額から血を流している。
スーツには返り血が付着しているのか、鉄のような臭いがこちらの鼻を否応なく刺激する。
「ア、アキトさん…!」
「…ん?…ああ、いたのか」
「そ、その姿は!」
「君には関係ない…」
玄関で靴を脱ぎ、スーツの上をシャワー室の傍の洗濯籠に脱ぎ捨てるアキトはいつもと変わらず。
しかし、どこか疲れた表情と足取りで、キッチンでコップに水を汲んで飲み干す。
「…チッ、やはりか」
「怪我はないんですか?!」
「全て返り血だ。幸いなことに今日は撃たれていない」
こちらに視線を合わせることなく、彼はバイザーを取り、ゴミ箱の上で握り砕く。
バキバキ、と不快な音を立ててそれはゴミ箱の中に吸い込まれていき、やがて彼の手の中にあった破片も手を広げることで落ちていく。
「一体何を…?!」
「研究所の破壊。関係者の排除。それだけだ」
「!…どうして!」
「言ったはずだ、俺はテロリストだ。俺の邪魔になるものは全て排除する。
…そう、第二第三の火星の後継者になりうる可能性があるならば、全て消し去ってやる…!」
顔にナノマシンの軌跡を走らせ、彼は憎悪の瞳を虚空に向ける。
許してはならない存在、許せば自分の存在意義すら消えてしまう、それほどまでに深い…。
だけど、だけど…これじゃあ。
「そんなことばかりしてたら、いつか自分の命を落としますよ!」
「……かもしれない。だが、それでも俺には、許し難い存在だ」
「――」
「それと、言ったはずだ。同情で俺は動かせない。
いや、同情であろうがなかろうが……俺はもう、動かない。
ユリカが死に、ラピスも死んだ。もう、俺には救うべき存在も守るべき存在もない…」
「だからって!貴方の事を心配しているアカツキさんや、ほかの皆さんの事だって…彼らの想いを無視するんですか?!」
アカツキはあくまで仕事上の関係と言っていたが、違う。でなければあんなに優しい瞳は出来ない。
彼は戦争を共に生き抜いた親友として、彼にいい加減安らいでほしいというのに。
だけど、目の前のこの人には止まってはいけない理由があって。
「知るか。人の想いばかりを尊重したら、自分の意思すら押し通せなくなる。
それに、俺は俺の命を賭けてもやらないといけないことがあると理解しているから…こうして戦っている」
違う。それは、違う。
「それは、言い訳ですね。自分が逃げるための…」
「……フッ。君は、やっぱり賢い…フェイト」
「――っ」
卑怯だ、こんなときに初めて名前を呼ぶなんて。
そんな、こっちの心情の動揺を知らないのか、彼は去り際に、こちらの肩をポンと叩いてその場を後にする。
「明日も今日と同じ時間になると思う」
それを最後に、彼は自分の部屋へと戻っていく。
ふらふらとした足取りで、今にも倒れそうなほどに疲労を蓄積させたまま。
そして、そんな彼を見送りながら思う。
――どうして、こんなに心が痛いの…?
翌朝。
彼が出て行ってから12時間後。
夜の8時頃であった。
リビングで彼の帰りを待っていた私の傍で、唐突に魔方陣が展開され、直後になのはが姿を現す。
「フェイトちゃん?!」
「なのは…?!」
「よかった、無事だったんだね!」
飛び出しざまに抱きついてくるなのはの頭を撫でつつ、再会に安堵の表情を浮かべる。
その後、なのはが落ち着いてから話を聞くと、どうやらこちらの魔力波動をとにかく探しまくったそうだ。
そして、ようやく見つけられたということだが…。
「フェイトちゃんを介抱してくれたことにお礼を言いたいんだけど…お家の人は?」
「あ、えっと…それは――」
と、そこで腕に着けていた時計から唐突に受信音が鳴り、ボタンを押す。
そこには妙に焦った様子の長髪の男性が映っていた。
『テンカワ!…何だお前は?』
「あ、えっと…アキトさんに匿ってもらってるフェイトです」
『そうか…君が話に聞いていた女性か。ともあれ、君は今自宅だな?』
「は、はい。それが何か?」
『テンカワはそちらに戻っていないか?』
「いえ…何かあったんですか?」
嫌な予感がする。
眼前の男性の顔を見ていると、何か、何か…とても嫌な何かが、背筋を走ってしまう。
そんなこちらの問いに、男性は一度だけ頷くと、神妙な表情のまま告げる。
『先ほど我々が襲撃した研究所には自爆装置がつけられており、それが作動してしまったために脱出したんだが…奴だけ姿が見えない』
「―――」
頭が、真っ白になった。
『発信機も反応がない。壊れてしまったのだと信じたいが…クソッ』
男性の背後から聞こえる喧騒も、男性の言葉も、なのはが肩を揺らしてきても…反応できなかった。
あの人は、誰かが守ってやらないといけないのだ。救われなければならないのだ。
絶望の瞳の意味が、ようやくわかったのに。あの人が優しい人だって、根源も理解できるようになったのに。
『奴はいつも任務が終わると勝手に帰るんだが…クソッ、あいつめ、昨日出たばかりだというのに…何故今週に限ってこんな無茶を』
「無茶…?」
『ああ。奴の体のこともあって大抵研究所の襲撃後は2,3日休暇を取らせているんだが…やはり、ラピスのことが頭から離れんか』
「ラピス…あの、マシンチャイルドとか言う?」
『テンカワから聞いたのか?…まぁ、そういうことだ。奴はMC関連の研究所を専門に襲撃している。
襲撃というか、そこで人体実験を手伝わされている子供たちを救出するためだが…』
『どうだ、ツキオミ?』
『だめだ、自宅には戻っていないそうだ。月のエリナ女史にも連絡したが、そちらにも着いていないらしい』
ああ、そうか。やっぱりそうなのか。
あの人はやっぱり、優しい人だ。
フッ…と、そこでついつい浮かんでしまった笑みは、先ほどとは違う意味の安堵で。
『森に火が回っている。我々も撤退するぞ』
『了解した。……クソッ、テンカワめ…すまない、これで失礼する』
「あ、ちょっと待ってください!」
『何だ?』
「場所を、場所を教えてください!その研究所はどこにあるんですか!」
「フェイトちゃん…?!」
「なのは、バルディッシュあるよね?」
「あ、うん…持ってきたけど」
言いつつなのはが取り出したバルディッシュを手に取り、すぐさま変身する。
それに画面の向こうの男性は驚愕するが、そんなことに構っている暇はない。
そして、半ば強制的にその場所を聞き出すと、飛行許可も取るひまもなくペンションから飛び立ち、その場に向かう。
何故か、口の端は上がり、嬉しそうな声が零れてしまった。
「………年貢の納め時、というやつか」
周囲が火に囲まれつつある中、樹の幹に背を預けながら、ポツリとつぶやく。
右わき腹からは銃創から漏れた血がどくどくと流れ出て、一向に止まりそうにない。
スーツもボロボロ、発信機としての機能のある通信機も、ボソンジャンプ装置も壊れている。
バイザーも昨日と同じように皹が入り、空を見上げる首の動きでポロリと零れて地面に落ちて砕けてしまった。
(…無茶、か)
ツキオミに忠告された言葉を思い出し、苦笑する。
どうしてこんな無茶をしてしまったのだろうか。
否、そんな答えはわかっている。わかっているのだ。
自分は彼女と顔を合わせたくなかった。あの場所にいるのが辛かったのだ。
彼女はどんどん自分の心の中に入ってくる。それが、辛かった。怖かった。
心を許してしまいそうで、頼ってしまいそうで。
(……俺も、臆病者だな)
空は赤いが、月はまだ白い。
ああ、あの月にはエリナがいるのだろう。イネスも、彼女たちは悲しむのだろうか。
…いや、悲しむだろう。あの2人は、優しいから。
だからこそ、この場で俺は死ぬべきなのだろう。
今度こそ、俺は死ぬべきなのだろう。
どちらにしろ、長生きは出来ない。
イネスに先週言われたが、脳内のナノマシンが脳を食い破ってしまうと告げられたとき、俺は安堵の苦笑を浮かべていた。
ようやく死ぬことが出来ると、あの2人がいる場所に行くことは出来ないが、この現実を終わらせることが出来ると。
「……そうだ、こんな現実を認めてたまるか」
俺が何か悪いことをしたのか?
どうして俺はこうも奪われなければならない?
俺が生まれたことは、そんなに罪なことなのだろうか?
ユリカを愛したことも、コックを目指したことも、何もかも許されないことだったのか。
奴らに人体実験されて死に行くのが正しい結果だったというのか。
もう、炎は周囲の樹を燃やし、傍まで迫っていた。
「フフッ…クククッ………ハハハハハッ!」
ああ、これでようやく楽になる。
もう何も気にする事はない。テンカワ=アキトは、本当の意味で死ぬのだ。
愉快だった。憎たらしいほどに、愉快な笑いが零れ出る。
「ハハハハハッ…アハハハッ!!」
流れる涙に意味はない。
零れる笑いに意味はない。
何と滑稽な、馬鹿な男だったのか、俺は。
―――だからこそ、もう……疲れた。
「……ぅ」
腹部の痛みに意識が強制的に浮上させられる。
目を開ければ、そこには無機質な白い天井が映る。
「………生きてる…?」
馬鹿な、あの森で俺は死んだんじゃないのか。
どうしてこんな現実に、まだ俺を残すのか。俺にまだ生きなければならない理由があるのか。
ふと、そこで腹部に重みを感じ、上半身を起こす。
「すぅ……すぅ…」
「……フェイト」
あの時、気まぐれで助けた女。
人の心に無断で踏み込み、都合のいい思い込みを植えつけてきた女。
だが、彼女が俺を救う理由がわからない。
周囲を見れば、見たことのないタイプのモニターやら医療機器やら目に映る。
イネスの扱っているタイプのものではない。ではここは一般の…?
ネルガル系列の病棟ならわかるが、以前世話になったことのある人間から言わせればこんな設備ではない。
再度横になって天井を見つめながら思考を巡らせていると、病室のドアが開いて栗色の女性が姿を現した。
どこかの制服か、茶色いスーツを着こなした女性は、こちらの腹を枕にして眠るフェイトに苦笑を向けるが、俺と目が合うと警戒感を強めつつベッドの
傍まで
やってくる。
(貴方は…一体?)
(何…?)
頭の中に、直接響いてくるこの声。
眼前の女性のものだろう。
だが、まるでこれはリンクしているときのような…。
(フェイトちゃんが泣きながら貴方を運んできたんです。
あんなに取り乱したフェイトちゃんは見たことがなかった…PT事件の時以来)
(知らん…俺は彼女を匿っていただけだ。変な勘ぐりはやめてもらおう)
(……嘘です。彼女はついさっきまで貴方の看病を付きっきりでしていたんですよ。この2日間の間…ずっと)
(2日…何故そんなことを。俺は彼女にそこまでされる謂れはない)
(私に訊かれても…)
「………んぅ…?」
そこで彼女が目を覚ましたらしく、腹部から頭を上げて目を擦りながらこちらの顔をぼうっと見つめてくる。
そして、それから数秒後、ようやく状況を認識したのか…じわりと涙を浮かべて飛び込んできた。
「よかった!起きたんですね…!」
「…君が運んでくれたそうだな」
「はい…生きててよかった…」
「……助けてくれたことに関しては、礼を言っておく。ありがとう」
どうして彼女はここまで俺を心配するのか。
俺は彼女に特別なことをしたつもりはない。なのに、彼女は俺をこうも気にかける。
「…待て、何だ…これは………」
そこで、ようやく何かおかしなことに気がついた。
体が、軽い…慢性的なだるさと頭痛が消えている。
それだけじゃない、他の感覚も鋭敏に…否、元に戻っている…?
「あ、あの…そのことなんですが、実は…」
少し嬉しそうな表情で俺を見つめるフェイトを見て、理解してしまった。
彼女は、俺の五感を治してしまったのだと。
脳に巣食う悪魔を消し去ったのだと。
「っ………くっ…ぅぅ…」
どうして、何故今更なんだ?
何故、今更になってこんなことに…?
悔しさと切なさと惨めさと、いろいろなものがゴチャゴチャになって頭の中を駆け巡る。
これで、まだ俺は生きることを迫られてしまった。
「………アキトさん」
「何故、君たちがもっと早く、俺たちを助けてくれなかった…。
後から救うなんて、勝手が過ぎるんだよ…くそ……っ」
恨んでしまう。恨まずにいられようか。
どうしてこれほどの科学力がありながら、そして介入する意思が存在しながら、俺たちの目の前に現れてくれなかったのか。
だけど、それは言い訳にしか過ぎないとわかっているから…。
「私は、間違っていたんですか…?」
「…」
怪我をしている動物を、野性に返せるまでは治療する人間がいる。
なら、五感を損傷している人を、人並みの感覚を取り戻すくらいまでは治療してはいけなかったのか。
彼は、今までに見たことのないほどに辛い表情で、泣いていた。
「いつの間にか、こんなに傲慢になってたんですね、私…」
「………」
「ごめんなさい…余計なことしました」
彼の頭を抱きしめ、後頭部を撫でる。
彼の涙は止まらない。止まってはくれない。
『いいや、違わないね。人はね、生まれたときから必ずシステムに組み込まれる。
そのシステムの中で生きる人にとってはそれこそが世界なのさ。
そして、介入しようとする君たちは、世界というシステムを破壊するウイルスに他ならない』
いつか、会長に忠告された内容を思い出す。
『ウイルスになりたくなかったら、その世界が生まれた瞬間から支配する事だよ。
そうすればシステムという存在に組み込まれ、世界に混乱を齎さない。
もしくは、もっと穏便な方法を探したまえ。君たちのやり方は反感を買うだけだ』
親切も行き過ぎれば、かえって迷惑となる。
そんなことは理解していた。理解していたのだ。
だけど、彼にとっては五感が戻ったほうがいいと…そう思っていた自分は、それこそが傲慢であると気がつかなかった。
「俺は、何も残っていないのに…今更、人並みの感覚を持って何になる………?」
「―――」
そうだ、今の言葉で、思い出した。
彼は、彼には救われなければならない理由がある。
奪われ続けた人生で、だけどまだ手に入るものがあると、教えないと。
だから、教えないと。
「私が…貴方の生きる理由になります。
だから…生きてください。私は、貴方に生きてほしい」
「………」
「貴方は、そんな終わり方で終わっていい人じゃない。私が、支えます。貴方のこれからを」
「………同情で俺は「んっ」…」
同情もあるかもしれない。哀れみもあるかもしれない。
だけど、彼には生きてほしい。生きなければならないはずだ。こんな終わり方は、彼も望んでいないはずだ。
口付けた唇を離して、再度その頭を抱きしめる。
「……私も、自分のこの感情の意味を、まだ完全に掴めたわけじゃないですけど。
―――だけど、貴方には生きて欲しい」
「………俺は、君の事をどうとも思っていない」
「だったら、夢中にさせてみせます。他のことがどうでもよくなるくらい」
そうなれば、彼もきっと、今の考えを捨ててくれるはずだ。
それが、生きる希望になってくれるはずだ。
そんな私の心が届いたのか、彼は私の背中に手を回してきた。
「…なら、約束しろ。俺を、看取れ」
「酷い人です」
「俺はもう、歪み過ぎた。誰かととことん関わらないか、誰かにとことん依存するか…そんな両極端の生き方しか、俺には出来ない」
「私って過保護らしいです。だから、大丈夫ですよ」
「……そうか。なら、最初だけでいい。ユリカの代わりになってくれ。愛させてくれ。
君は、俺の中に封じていた寂しさを取り戻してしまった…」
我ながら酷い人間だと思う。
こうして誰かを縛らないと生きていけない自分が、酷く嫌いだ。
だけど、彼女はこうして俺に安らぎをもたらしてしまった。俺が望んでもいなかったのに。
だから、もうこうなったら放さない。
「ん……」
「………」
腕の中で眠る彼女の髪は、ユリカのように長く、そして艶やかだ。
女性特有のふんわりとした匂いが鼻腔を擽り、俺の心に風を送ってくる。
「酷いのはどっちなんだか…」
君は、俺に生きる理由を与えた。
俺も、君に依存する道を選んだ。
あいつと重ねて、その上で愛するという、歪んだ道を。
だけど、いつかは彼女自身を見るようになって、ユリカという存在が隅に追いやられてしまうのだろう。
ああ、それは酷く自分勝手で、傲慢で、馬鹿げてる。
だけど、誰も止めない。
この、歪んだ想いと、真っ直ぐな彼女を。
<続>
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