仰向けのまま、腕を真上に上げている。
梁の通った板張りの天井に何を求めたのか、自分でも分からないまま、ただ腕を伸ばして何かを掴もうとしている。
きっと目が覚めたばかりでまだリンクが通っておらず、感覚が希薄だからだろう。自分で動かしたはずの自分の腕が、他人の腕のように見えて気持ちが悪い。
動かせることは動かせるが、こんな感覚の希薄な操り人形のような体を動かす気にはなれず、アキトは腕を上げたままおとなしく感覚が通るのを待つことにし
た。
待っている間、ぼぉっとしながら、ふと思う。
ともすると完全な無意識で動いたこの腕は、いったい何を掴もうとしたのだろう。
感覚が通るまでの十数分。考えてはみたが、意識の下に眠るそれをアキトが理解することはなかった。
Light/Night
正義と炎
ようやく感覚が通り始めた体を引きずるようにして、ひんやりとしているらしい板張りの廊下を歩いて行く。着物が着崩れているが気に留めることはな
い。どうせまだ、うまく指が動かないのだ。一歩一歩をゆっくりと踏み出していると、やっと縁側に辿り着いた。朝日のまぶしい中庭を細目で見る。
「………… 」
真白い寝間着を着た少女が日本刀を手に、静止している。風で揺れてざわめく木の葉、ししおどしの音、それにめげない鳥のさえずり。それらの音がうるさく
て、そして瞬きをしてしまったからだろうか。いつの間にか少女は抜刀して空を斬り裂いていた。
「………… 」
弓道でいえば残心にあたるのだろうか。余韻を残してから、少女はゆっくりと納刀した。今度は耳をすましてみたが、納刀の音は聞こえなかった。
少女は振り返り、アキトを見る。驚いた様子はない。それも当然、微弱ながらリンクが通っているのだ。家の中ならお互いに居場所くらいほぼ無意識に察知で
きる。沙夜は勝手に身体を動かしたアキトをたしなめることもなく、おはようの挨拶の代わりに微笑んで、しかし、鞘をぎゅっと握って目を背けた。アキトはそ
の様子を見てようやく、着崩れ過ぎて半裸に等しい自分の格好に気を向けた。
「ああ、すまない」
たどたどしい手つきで、どうにか最低限必要な部分を隠す。脳からの指令が正確に伝わらないため、まるで自分というロボットを操っているような気さえす
る。それも、ひどくポンコツな。
「おはよう、沙夜ちゃん」
アキトが改めてそう言うと、沙夜はそろりと視線を戻してから、恭しくお辞儀をした。そして縁側に上がり、横をすり抜けて家の中へと入っていった。アキト
も追って、のろのととした動きで居間の方へと向かった。
規則正しく包丁がまな板を打つ音を耳に、英字新聞を読みふけりながら、アキトは200年前という現在に思いを馳せる。
自分の時代では紙媒体の新聞なんて、そう頻繁にお目にかかれるものではなかった。いちいち手に持ってめくらなければならず、記事の検索もできない不便さ
を新鮮に思いながら流し読みしていく。ネギを鍋の中に放り込む音が聞こえた。調理方法自体は何百年経っても変わらないものなんだな、と当たり前のことを
思った。控えめな茶色の割烹着に身を包んだ沙夜に視線を向けてから、新聞に視線を戻すと、小さな記事が目に付いた。何年か前に起こった飛行機墜落事故の話
だった。
「………… 」
胸糞の悪い話は読み飛ばして、アキトは次のページに移った。戦争、政治の腐敗、殺人事件。いつの時代にもなくならないトピックだ。200年後の世界でそ
れらを裏側から垣間見た自分が、200年前の世界でそれらを表側から見ている。なんとも不思議な気分。この時代では、何の利権絡みで戦争が起きているの
か、どういう癒着が起きて腐敗しているのか、何のために殺されたかなんて自分には全く関係がない。世界はとても穏やかに回っている。
「出来ました」
脳に直接叩きこまれるような反吐の出る不快感と共に、可愛らしく澄んだ声が響く。
(何を呆けてる。結局、今も世界の裏側を見ているじゃないか)
唐突な不快感に頭をくらくらさせながら、アキトは新聞を置き、食卓の上に置いてあるものを端に寄せてスペースを作る。味噌汁、ご飯、漬物、といったいか
にもな和食が順に運ばれてくる。アキトは妙に軽く感じる、けれど重くもある腰を上げて手伝おうとしたが、のろのろとしているうちに手伝えることはなくなっ
ていた。仕方がないので、沙夜が席に着くのを待った。
「いただきます」
アキトはそう言って、朝は箸をうまく使えないから、子どものような乱暴な握り方でスプーンを握りしめる。ずい分と不恰好だが、14歳の少女に給仕しても
らうよりはマシだった。もっとも、本人は内心熱烈に希望しているらしいが。押しの弱い子で良かったとアキトは思っている。
御巫家の食卓は、静かなものである。テレビもないし、沙夜は声に出しては喋れない。都市部の喧騒とは無縁な郊外に居を構え、さらには人払いの結界を展開
しているため、自然が奏でる音くらいしかない。それに、そもそも家人は沙夜とアキトしかいない。アキトのいただきます、ごちそうさまでした、だけが食卓で
の唯一の言葉。
(美味しいとか、そんなセリフでも言えばいいんだろうが)
あいにくと味覚はほぼ壊滅状態だ。まったく味が分からないわけでもないが、美味いか不味いかどうかの判別さえ難しい。三ツ星レストランの料理の味とジャ
ンクフードの味が、今の自分には等しい。
それに、沙夜は褒めるとひどく狼狽する。容姿や才能、性格のどれを取っても褒められていいものを持っているのに、褒めるとそれがまるでおかしいことであ
るかのように本心から戸惑う。何の心算なのか、どういうことを求められているのかと訝しみさえする。
謙遜を通り越した、深刻なまでの自信の不足。それが何に根ざしたものなのかはアキトには分からない。なにせ沙夜が自信を持てないでいるのは、何かに限っ
た話ではない。どんな些細なことにも自信を持てないでいる。
(…… いや、ただの言い訳だな)
困るから褒めない、というのは違う気がする。むしろ、自信が持てないのなら、持てるように褒めて評価すればいい話なのだ。
アキトは嘆息して、自身の変遷について噛み締める。いつから自分は、誰かを褒めることができなくなったのだろう。それも誰かの作った料理のことで。自分
は元々、食事の不味い火星で、ただみんなが美味しい美味しいと笑顔で食べてくれることを願って料理人を目指したはずなのに。
「…… ごちそうさま」
味のない美味いらしい料理が、妙に苦かった。
食事の後、居間でアキトと沙夜は向かい合って座る。そして沙夜はアキトの腕に触れる。刀を振るう少女の、硬くなっているがどこか柔らかい手が、アキトの
腕の血管を沿って撫でる。魔術的なものではあるが、治療を兼ねたリンクの再構築だ。
否、治療といっても改善に向かうものではない。この時代、この状況ではまともな治療を受けられず、ナノマシンの侵攻は加速して行くばかり。それを沙夜の
魔術でどうにか食い止めて負荷を和らげるだけの、延命措置。歩み寄ってくる死から必死で逃げているだけ。痛覚はないものの、神経や血管が焼けて消し炭にな
るような感覚に死を感じてしまい、吐き気ばかりが満たされる。
「………… 」
ポーカーフェイスを気取ってはいるが、内面を見透かされているのだろう、同じようにヘタなポーカーフェイスをした沙夜は心配そうに見上げてくる。年は
10も違わないが、アキトにとっては娘のような感覚。こういう想いを抱くあたり、復讐を終えてから相当に老け込んでしまっているらしいとアキトは思った。
(復讐、か…… )
火星の後継者との決着がついて火星を離脱してから、しばらくユーチャリスは地球から遠く離れた宙域で身を伏せていた。ネルガルも公には自分との関係を否
定しなければならない以上、さすがにほとぼりが冷めるまでは匿うのは難しいだろうという判断によるものだ。
遠い遠い宇宙で、飛ばしておいた居住ブロックに身を隠して数週間。物資も尽きて――
復讐を終えてなお付き添ってくれたあの子を言い訳にして―― 地球へ帰ろうとした時に。
「―――― っと」
つと、沙夜が倒れこんでくる。
「沙夜ちゃん?」
受け止めて、声をかけるがぐったりしていて反応がない。どうやら少々無理をしたらしい。意識を持っていかれたようだ。
アキトは小さく苦笑いする。この少女はいつも平気な顔して、時には笑顔を浮かべて無理をする。沙夜の性なのか、それとも自分の身体に本格的にガタがきて
いるのか、いずれにせよそれをさせている自分が心苦しい事に変わりはない。
沙夜のおかげでずい分と感覚が鋭敏になった腕を、アキトは伸ばす。伸ばそうとした。視界の端に何かが映った。庭に黒い鎧が立っていた。仮面が剥がれて剥
き出しになった紅梅色のエステの面が嗤っていた。アキトは手を止め、しかしこぶしを握りしめて見せつけるように沙夜を強く抱きしめた。
微弱な意識ながら、強い抱擁に驚いたのか、沙夜は身を強ばらせた。けれど、少し経つと安堵したのか脱力して身を預けた。沙夜が眠りに落ちているとアキト
が気付いたのは、それからしばらく経ってからだった。
イメージする。
饐えた畳の匂いのする、古いアパートの一室。
何度も屋台を出した、あの場所。
青空にブーケが舞った、あの教会のエントランス。
いつか走り、また走ろうと約束した草原。
右手は強く握り締め、左手は右手を握り締め、祈るように額にあてがう。
中心には、両親の形見と同じ、青い石。
「イメージ…… 」
イメージする。みんなの顔を思い浮かべる。帰る場所を思い浮かべる。
「ジャンプ…… ッ!」
そう叫ぶように呟いてから、ジャンプするのを実感しながら、青い石が消滅した感覚を得ながら、時間をかけて、ゆっくりと、目を開く。けれど、風景は何も
変わってはいない。御巫の家の庭だ。
「…… ちくしょう」
だらんと腕を垂らし、絞り出すように、言葉を吐き出す。
「…… ちくしょう…… ちくしょう」
何度、何度、もう何度とも知れない失敗。そのたびにちくしょうと吐き捨てた。もはやこの不条理に怒り猛ることもしない。
「どうして…… ジャンプは…… ボソンジャンプは時間移動なんだろ……」
疑問を投げかけるのではなく、確認を求める。それに間違いはないはずなのだと。
「なんで…… どういう矛盾だ、これは…… !」
時間を超えているのに、時間を超えられない。おかしな矛盾。
確かに、手の中のチューリップ・クリスタルは消滅している。ボソンジャンプは発動したのだ。
この身体は一度分解され、過去に飛び、未来へと戻って再構成されたはずだ。そのはずなのだ。
では、なぜ時間を超えられない。なぜ今もこの時、この場所にいる。
「………… 」
アキトから見えない所でボソンジャンプ実行によるデータを計測していた沙夜は、リンクを通して、壁の向こうでアキトが悲嘆に暮れているのを知る。感情そ
のものが直接伝わってくるわけではないが、身が引き裂れんばかりの渦巻く激情を観測している沙夜には、幻覚のようにその痛みが伝わってくる。
「―――― 」
胸を押さえながら、思う。今、あの人を慰め、励まし、極僅かにでも癒せられれば、私は彼の救いになるのだろうか。私への救いに報いられるのだろうか。
そう思い、でも、振り向いて慰めの言葉をかけるわけにはいかない。今の自分のすべきは、ボソンジャンプのデータ収集と解析。そう、これにより自らの魔術
を完成させてアキトを帰すことが、アキトを救う一番の方法なのだから。
「………… 」
止まりかける手を、必死で動かす。
―― そう、それがアキトのためにしてあげられる、唯一つ。
たとえそれが、自分の救いを手放すことだとしても。
―――― それは、全身から洩れた血が固まり黒ずみ、その上からまた血を重ねて積み上げて行く記憶。
無茶なジャンプの連用、副作用を無視した毎日のコップ一杯の薬、電気ショックによる生体反応の観察、脳への過負荷。
最愛の人の代わりにと、差し出した身体はまるでタトゥーを彫った端から剥がしていくような苦痛の波。
分かりやすいほどに、モルモット。
実験台の上の真っ白な電灯、けれど闇の最中。
苦痛の日々は、炎と共に破られる。
待ち焦がれた救いの手。まるで御伽噺の正義の味方のよう。
けれど、現実は御伽噺じゃない。
最愛の人へ差し伸べられた正義の手は、外道に斬り落とされた。
見下ろし嘲り笑う、赤い左眼。
役立たずな救いの手を振り払い、転げて、這いずり、手を伸ばす。
けれど伸ばした腕は何も掴めず、 には届かない。
―――― 男は、炎の中で、再び家族を失った。
「―――― ……」
意識が、戻る。
「…… 士郎、聞いてる?」
遠坂が顔を覗きこんでくる。ちょっと近すぎるので、思わず身体を逸らしてしまう。何を今更と笑われてしまいそうだ。
「…… 悪い、ちょっとぼぅっとしてた」
そう言って、照れ隠しに窓の外をに視線を移す。そして思う、ああやはりと。これは間違いなく彼の記憶だと。
どうやら聖杯戦争の時のように、彼と俺の間にラインが形成されているようだ。記憶領域に防壁が設けられているが、誰のせいかは分かる。おそらくは意図せ
ず仲介してしまっているのだろう。まったく、天賦の才覚を持っているくせに自分の力を信じきれていないから、こういった事態を招くのだ。
「まったく、のん気ね」
「ふふ、五月はまだ先ですよ、シロウ」
本来なら話すべきなのだろうが、遠坂にも、セイバーにも話せない。これは彼と俺とで共有すべきものだ。彼と俺だから共有できるものだ。あの炎は――
ああ、もし彼が固有結界を使えたとしたら、その内面世界はきっと炎と共に広がるのだろう。そう、酷く昏い炎と共に。
「…… いや、ちょっと、さ。思ったんだ。もしあの時……
あの炎の中で切嗣に助けられなくて、でも生き残ってしまっていたら。俺はどうなっていたんだろうって」
二人の空気が変わる。言葉を探しているのを感じる。
「それでもし、聖杯戦争を迎えてさ。あの災害の原因は…… って知らされたら、俺は」
あるいは、復讐人に成り果てたのではないのか。
「…… どうしたんだろうな、って」
これは、くだらない話だ。衛宮切嗣に助けられたから衛宮士郎は生き残った。だから衛宮士郎は衛宮士郎である。それではない if の話に意味はない。
「…… 悪い、変な話した。話戻してくれ遠坂」
何事もなかったかのように振り向くと、遠坂とセイバーは少し押し黙ってから、何事もなかったかのように振舞って話を戻した。
――――正義と炎――――