姿見の前でにらめっこをし始めてから、もう1時間と半ばが経った。箪笥の中はとっくに空っぽになっていて、床には服が散乱していてもう足の置き場
もない。下着姿で右へ左へ。時折服を拾っては姿見の前で身体にあてがい、じっとにらめっこをする。
この緋色か、あの藍色か、桜色か。それともここはワンピースか、キャミソールかスカートか。あの人はどれが好みなのか。髪型は何が。化粧はどのように。
子どもっぽ過ぎないか。色気が足らないだろうか。並んで歩けるだろうか。
聞けば早い、けど死んでも聞けない。ぐるぐると考えていると、お父さんとお母さんが襖を開けて、部屋の惨状を目の当たり。慌てて肌を隠して言い訳を考え
ていると、お母さんは微笑んで、お父さんは複雑そうな顔して、一緒に選んでくれた。
日も昇りきったお昼下がり。石畳の道が続く街中を、二人並んで歩いて行く。絡み合わせた指をぎゅっと握り、大きな手だなぁと想いを寄せる。長く時間をか
けて、知らないあなたの好みに合わせようと選んだ服をあなたは褒めてくれた。くらりとするほど火照った顔をうつむけると、その大きな手で頭を撫でてくれ
た。眠ってしまいそうなほどに心地好い。いつも歩き慣れた道が妙に新鮮で、緑は鮮やか、射す光はとてもまぶしく感じた。
色々な所に行って、色々な物を見て、色々な事を話した。同じことを感じられるように祈って、ほとんど離れずに過ごした。気付けば日も暮れ、星と月が照ら
す丘の上、並んで座って夜空を見上げる。もう見飽きて些末に思っていたはずの星空がとても美しい。世界は彩っている。
「 」
あなたは何かを言って立ち上がった。聞き取れなかった。何を言ったのだろう。わたしも立ち上がる。
「 」
何を言っているのか分からない。けれど、感情が、涙が溢れてくる。嬉しい。嬉しくて、嬉しくてたまらない。
「 」
優しい顔で、そっと涙をふいてくれる。けれど止まらない涙が零れてくる。必死になって止めようとしていると、抱きしめてくれた。この温もりで、また泣い
てしまいそうになる。わたしの小さな胸で高鳴る心臓の音と、あなたの大きな胸で鳴り響く心臓の音が重なって聞こえる。あなたと並んでも恥ずかしくないよ
う、もっと背丈が欲しいと願っていたけれど、これだけは嬉しいと思う。
「沙夜」
名前を呼ばれる。顔を上げる。優しい瞳がわたしを映している。わたしは自然と目を瞑り、小さく背伸びする。抱きしめられていた身体が少し離され、あなた
は少し身体を屈める。もっと背丈があれば抱きしめられたままだったのに、なんてことを思う。
わたしの唇に、そっと触れる――――……
――……目が覚める。
ぼぅっとした眼で、梁の通った板張りの天井を見上げている。
(…………ゆ、め?)
胸に残るほのかな温もり。それを抱くように胸に手をあてがいながら、今視たばかりの記憶と今得たばかりの気持ちを反芻して、あぁいい夢を見れたと思う。
温もりを抱いたまま半ば無意識に身体を起こすと、途端に強烈な喪失感に包まれた。まるで直接胸を抉り取られたような感覚。身体が壊れてしまいそうになっ
て、反射的に握った両手を胸に当て、子どものように身体を丸めて膝に頭を埋める。
(……嫌。……お願い、消えないで)
祈る間も無く消えていき、そして無くなってしまった。あの温もり。あの心臓の音も、あの硬い胸板も、あの優しい瞳も。あの愛しさに満ち溢れた気持ちさえ
も。なにもかもが、無くなってしまった。
でも、違う。あれは、わたしであってわたしじゃない。あれは違う世界の可能性。在り得た現在。家にお父さんとお母さんがいて、あの人がわたしのことを好
いてくれていて、わたしと付き合っているという可能性。そして、ここではもう在り得ない可能性。
(こころが……痛いよ……)
おそらく昨夜の次元跳躍実験のときに接触した次元嵐に紛れ込み、いつのまにか潜んでしまったのだろう別の世界のわたしが、彼が傍にいないこの世界に悲鳴
を上げている。じきに消えるだろうそれが消えるまで、わたしはぽろぽろと涙を零して待ち続けた。子どものように丸まって、じっと待ち続けた。
(…………)
ややあって、彼女は消えた。でも、喪失感は残留し続けている。消えない喪失感が心を貪り続ける。
一度も、手に入れたことなんてないのに。
(あの人が……ほしいよ)
抱きしめて欲しい。大丈夫だよって言葉が欲しい。笑いかけて撫でて欲しい。強く、あの人に、傍に居てほしい――……
「……くすっ」
――なんて、何を願っているのか。莫迦な話だ。何を考えているのか。莫迦な。滑稽すぎて涙が出る。
(わたしのような擬い物には、そんなの、有り得ないのに)
涙が止まらない。
Light/Night
偽物と擬い物
とある広い公園の、アスファルトで舗装された遊歩道から一歩踏み込んだ林の少し開けた場所で、遠坂凛は座りこんでいた。
「やっぱり、後手後手に回りすぎてるわよね……」
「ええ、そう思います」
セイバーは士郎の竹刀の一撃を受け止めながら、凛の誰にともなくつぶやいた言葉に答えた。
「でも、ワケわかんないことばっかりだし。先手どころか方針が決まらないのよねー」
「どうにかして情報を得ることはできないのですか?」
士郎の掛け声と竹刀がぶつかり合う音に興味を引かれたのか、ランニングウェア姿の中年男性が少し速度を緩め、樹木の合間から様子を覗く。
「難しいわね。御巫って歴史はあるけど協会にとっては新参だし、沙夜って魔術師大嫌いだから」
「大嫌い……? 自分も魔術師なのにですか?」
「ええ。社交性限りなくゼロ。時計塔じゃ基本的に話しかけられても素無視よあの子」
「……意外です。先日昼食を共にした時には、むしろ逆の印象を持ちました。凛やシロウとも親しいようでしたし」
「士郎は魔術師らしくないからでしょ。わたしはなんで懐かれたのか分かんないけど」
おそらくはシロウと同じ理由だろうとセイバーは思ったが、口には出さないでおいた。
「ではやはり、あちらが再び士郎に接触を試みてくるまで待ちの一手、ですか」
広場の噴水のところで、幼少の男の子と女の子が、真似をして棒を振り回して遊んでいる。
「ええ。何より状況が掴めてないのが痛いわよね。沙夜がどうして科学に頼ったのか、あの真っ黒男は誰なのか。そしてあの二人にとって士郎にどういう価値が
あるのか。そもそも修復自体が目的だったなら、わざわざ士郎でなくても良かったはずなのに。士郎と長期間接触し続けてきたのも解せないわね」
「……凛、沙夜の能力は空間転移に類するもの、ということでしたよね?」
女の子の棒が、男の子によって弾き飛ばされる。
「そう聞いているわ。もっとも、沙夜だって魔術師なんだから一つや二つくらい隠している魔術があるんでしょうけど。士郎の投影と同じでね。それがどうかし
たの?」
「いえ、なにか先日から妙な違和感があるのです。無意識に何かを強制されているような……」
女の子は棒を拾い、構える。その様子を眺めていた男が、傍に寄って女の子に小声でアドバイスする。
「まさか。セイバーの対魔力を突破して何かを強いるなんて無理よ。それこそ聖杯の令呪クラスの縛りのようなものじゃない限り。それにそんなの、沙夜の能力
から逸脱し過ぎてる」
「……まぁ気のせいなのかもしれませんが、ここのところシロウも様子が変でしたし――」
女の子が、男の子の棒を弾き飛ばす。士郎が、セイバーの竹刀を弾き飛ばす。
「――変なのはセイバーだろ」
自分の手元を見て驚くセイバーに、士郎はむすっとして声を飛ばす。
「意識が上の空だ。らしくない、稽古だからって手は抜いても気は抜かないのがセイバーだろ」
セイバーは少し唖然として、それからどこか嬉しそうに微笑む。
「……お見事。そして、非礼を詫びます、シロウ」
セイバーは、竹刀を拾って構える。微笑は消え、唇を強く結んだ真剣な表情へと変わる。
「そうですね、私らしくもありませんでした。それに、もはやシロウは気を抜くほどの余裕を見せられる相手ではなかった」
セイバーは正眼で構える。聖杯戦争のあの英雄達の中でも最優といわれるセイバーの剣に相応しい、剣の基礎ながら最も大切な構えだ。
「お相手、致します」
物理的な圧力を錯覚させるほどの剣気。剣筋は全てに転じられるが故に読めない。だが読まねば一撃入れるどころか、防御も侭ならない。
「――――」
「――――」
睨み合いが続く。実力的に勝るセイバーは待つ。劣る士郎は攻めあぐね、機をうかがう。
「……ふぁ」
張り詰めた緊張感をよそに、沙夜の件で調べものなり対策なりで寝不足の凛はごろんと横になる。いい天気ね、と思いながらまぶしい陽射しに目を細め、手を
かざして太陽を隠す。そのまま陽気にうとうとしていると、鼻先に何かが落ちてきた。何かと思い、手に取ってみる。
「……桜?」
どこからか飛んで来たのだろうか、桜の花びらだった。もう初夏を迎えて緑がまぶしいというのに、どこかの子が春にでも集めてでもいたのを零したのだろう
か。凛は小さく微笑んで、桜の花びらを持ったまま腕を上げ、太陽と重ね合わせる。少しまぶしい。
「綺麗な色ね……」
ふと、桜のことを思い出す。元気でやってるかな、とぼぉっとした頭で考える。そうしたら沙夜のことを思い出して、ハッとする。
「……まったく」
また腕を下ろして、目に指を当てる。
「バカな、姉よね……」
竹刀が肉を叩く音が響いた。決着がついたのだと思い、身体を起こす。予想通り、士郎が片膝ついて肩を押さえていた。
「はは、さすがに、敵わないな……」
士郎は痛みをこらえながら、引き攣った笑みを浮かべる。セイバー相手にまともな剣術で勝とうだなんて、誰かさんだって出来やしないんだから当たり前では
あるけど、それでもなお挑もうとする士郎に凛は笑みを浮かべる。何度も何度も超えられない高跳びをしていたあの夕日のときからずっと、変わらないなぁと。
「いえ、いい一撃でした」
セイバーはにこやかに微笑み、士郎の手を引いて助け起こす。
「シロウ、今度日本に帰ったら何らかの大会に出てみてはどうでしょうか。多くの者と剣を交えるのはきっと、為になると思います。シロウなら間違いなく上位
にいけるでしょうし」
「……それもいいかもなぁ」
士郎は少し考えてみる。セイバー以上に師としても稽古の相手としても優れた者がいるとは思えないが、確かに一理あるだろう。美綴に頼んだら、手配してく
れるかもしれない。
「ん、考えとくよセイバー」
士郎は笑顔でうなずくセイバーを見てから、時計の方に目をやった。そろそろ昼時か、と考える。
「じゃあ一段落したところで、そろそろ戻るか」
士郎はそう言って、竹刀を袋にしまう。セイバーと凛も相槌を打って、荷物を纏める。そして、今日の昼食は何にしようか、などといった会話をしながら3人
は遊歩道に出た。すると一人の男が目に付いた。
黒い着物を纏った、双眸鋭い古風な日本人。墨を落としたような黒髪は長く、後頭部で結っている。歳は30に届くかどうかといったくらいだろうか。黒の着
物に描かれている大きな百合の花が妙に禍々しい。それにこの英国で、そんな姿でベンチに腰かけ、くつろいだ様子で空を見上げているのはひどく不釣合いだっ
た。
「…………」
凛もセイバーも士郎も足を止め、彼を見ていた。普段ならおそらく珍しいなぁといった程度ですぐにその場を去っただろうが、今は状況が状況だった。という
のも、似たような格好をする人間を3人は知っている。御巫沙夜という名の少女。
ぼぉっと空を見上げていた男は、立ち上がり、士郎達を見る。そしてゆったりと歩いてくる。
「何用ですか」
セイバーは持っていた荷物を足元に落とし、一歩踏み出す。そして小声で言う。
「相当な実力の武人です。しかも歩法が沙夜のそれと酷似しています」
それを聞いて、面食らっていた士郎と凛は気を構えなおす。
「私は燕穣悟郎」
男は立ち止まってそう名乗り、士郎達を流し見て言った。
「衛宮士郎、遠坂凛、セイバー……で合っているな?」
身構える士郎達をよそに、燕穣は朗らかに笑って言った。
「いや、揃って迷惑をかけるなぁ」
それがあまりに敵意がなくて、士郎は困惑し、尋ねた。
「……あんた、誰なんだ?」
「ああ。私はな、御巫沙夜の」
しかし、その屈託のない表情が、双眸鋭い表情へと豹変する。
「来たか」
「――後ろです!」
セイバーの声と同時に、燕穣悟郎と向き合う士郎達の背後から魔力の渦。反射的に振り返ると、左手に黒鉄拵えの鞘を握り締めた沙夜が駆けて来ていた。
「沙夜!?」
「こんな場所でっ……!」
遠坂目掛けて向かってくる沙夜は、左手の親指で刀の鍔を弾いた。抜刀術だ。
「くっ!」
セイバーが割って入り、エクスカリバーで刀を抜こうとする沙夜の鞘を受け止める。
「っ!?」
沙夜は驚いた様子で飛び下がる。
――ぞくりと、士郎の背筋に悪寒が走る。なぜ、沙夜はこの至近の間合いで刀を抜いていないのかと。
「そこまでだ」
燕穣悟郎の声。士郎とセイバーが振り返ると、燕穣は凛の喉元に刃を突き付けていた。
「凛!」
「遠坂……!」
「馬鹿が」
燕穣悟郎は冷たく言い放つ。
「怯えて言葉を迷うから、こんなことになる」
沙夜がビクリと身体を震わせる。視線は下の方で泳ぎ、唇をきゅっと結んでいる。
「これはいったい、どういう……?」
セイバーも士郎もわけがわからず、敵味方の判別もつかないまま背中を合わせ、燕穣悟郎と御巫沙夜の両方に備える。
その眼前を、棒を振り回している男の子と女の子が走って通っていく。
「……え?」
子どもだけではない。なぜか、公園にいる人々は何事もないかのように、士郎達が見えていないように遊んでいる。
「暗示……? まさか、これだけ広い公園で? これだけの人数に?」
「その通りだよ、遠坂凛」
燕穣が笑って言う。
「まったく、やはりこんな方法でしかアドバンテージは取れないか」
最悪の状況だ、と士郎は思った。これは、へたをすれば遠坂だけでなく周りの人間まで人質に取られているということだ。これでは自分もセイバーもまったく
手出しができない。沙夜は……おそらく燕穣悟郎と敵対しているのだろうが、先程燕穣に言われてから精神状態がひどく不安定そうに見える。それにどのみち、
空間転移をしても視界に入っていては奇襲たりえない。
「セイバー。君には武装を解いて、こちらに来てもらおう」
「……」
状況は絶対的に不利。セイバーが何も言わないということは、やはり実力者なのだろう。この状況で抵抗はできないと思った方がいいようだ。
セイバーは武装を解いて、燕穣の傍に寄る。
「ありがたい。では、次に――……」
燕穣はセイバーに小声で何か話している。士郎の位置からでは聞こえなかった。
と、セイバーが目を見開く。そして少し逡巡するようにうつむいて、しかし急に駆け出した。
「セイバ―!?」
驚く士郎の横を通り過ぎ、そのまま背後へ。
「なに、を……?」
士郎が振り向いたときには、沙夜がセイバーに倒れかかっていた。セイバーがやったようだ。
「さすがだ。やはり、まともに相手にすべきではなかったな」
うなずく燕穣。士郎は歯ぎしりをする。状況は二転三転していくのに、未だ最悪。突破口などまるで見つからない。
「ではセイバー、再度こちらへ」
セイバーは沙夜を寝かせ、おとなしく従う。もちろん、セイバーは隙あらば燕穣の刃を奪いにかかるつもりではあるのだろう。だが、生憎とその機会がない。
「……くぅ、足手まといもいいトコじゃない……!」
またしても人質になってしまった凛は、唇を噛む。それに対して、燕穣は穏やかな口調で言った。
「気に病むな、遠坂凛。君がいなければもっとスムーズに事を運べていた。人質が君でなければ一般人を人質に取っていた。君らは魔術に関わる者にしては甘い
からな」
「周到ね……」
「恐れ入る」
燕穣はこちらに視線を向ける。
「ではな、衛宮士郎」
そう言って燕穣悟郎は、遠坂とセイバーと魔力の渦と共に、あっさりとその姿を消した。
「……畜生っ!」
何もさせぬままに、何も出来ないままに。
古い時計の秒針が、規則正しく音を奏でる。電気仕掛けのランプの灯火が、なぜかゆらゆらと揺れている。
今夜はやけに静かだ。風の音もない。テレビの音も、本のページをめくる音も、湯浴みをする音も、あの2人の声も。
「…………」
いつもの二人の息遣いはない。代わりに、この小さな少女のひそかな寝息だけが聞こえ、胸にかかった布団がわずかに上下している。
「…………」
あれから、方々手を尽くして燕穣悟郎の行方を調べた。魔術協会の記録には名前こそ確認できたが、詳しいことは何も出てはこなかった。どうやらフリーラン
スだったらしい。何人かが彼の名前を知っていたが、数年前からばったりと交流が途絶えているそうだ。
魔術協会に救援を求めてもみた。答えはNO。魔術師同士の小競り合いに協会は関与しない、関与してはキリがない。
全ては自己責任。居合わせた老紳士に、助けを求めれば遠坂の名に傷が付くから止めなさい、この話は私達の胸にしまっておくからと諭された。
御巫についても調べてみた。記録では、昨年から魔術協会に出入りしている。それ以前に魔術協会に関わった形跡はない。御巫は神代の頃から続くと言われて
いる日本の旧家。時間、空間といった次元論を専門とし、過去に神隠しを数百件実行している。御巫家の現当主は御巫沙夜。歳は14。既に空間跳躍を自在のも
のとしており、封印指定の話も持ち上がっている。なお、御巫家の人間は数年前に彼女を残して皆殺しにされている。
「……沙夜、ひとりぼっちだったんだな」
ぽつりとつぶやく。口が利けないのは、一族を皆殺しにされたからだろうか。
異変を察知して踏み込んだ魔術師によると、ひどい有様だったようだ。どの遺体も鋭利な刃物で肢体をいくつにも分断されており、全遺体の原形を復元するの
はまるでパズルのような作業だったらしい。当然、屋敷は悲惨な状況だったらしく、研究資料・器材の大半は破壊され、床はもちろん、壁や天井に至るまで血が
染みこんでいた。沙夜はその中で、血塗れではあったが無傷で意識を失っていただけだったそうだ。
「……研究に一生懸命なのは、死んだみんなの為なのか? それとも」
孤独の最中にやってきて、必要としてくれた者。
「テンカワ・アキトの、為なのか?」
沙夜は答えない。小さな寝息だけが、秒針の音の合間に聞こえる。
「研究……完成させたら、封印指定にされるんだぞ」
否、本来ならとっくに封印指定されているだろう。今はまだ幼く、発展途上だから見逃されているだけ。遠からず封印指定を受けるはずだ。
「そしたら……っ!」
布団の端を強く握りしめる。
「一生、閉じ込められるんだぞ……!?」
今夜はやけに静か。規則正しく、秒針と寝息だけが耳に響く。
私は彼のことを好きになった。
けれど、彼との最初の出逢い、なんてロマンチックなものは覚えていない。
なぜなら、その時までの私にとっては、彼も有象無象の魔術師達と変わらなかったから。
視界の端に映る、街中を歩く誰かと同じ。彼の裏表ない好意も、魔術師の酷薄な悪意も、私にとっては街中の喧騒。
数秒後には顔も、数分後には存在すらも脳裏から消え失せるような、淡雪のような存在。
ただ、それでも。
魔術師というにはあまりに似つかわしくない、その大きくて強靭な背中だけは、意識の片隅にあったのかもしれない。
だからだろうか。
街中でふと、私は前を歩く誰かの背中を、遠くから無意識に眺めている私に気付いた。
背中を追っているのはなぜかも知らずに。そして、それが彼の背中だということも知らずに。
知っているけど知らない、気付いてすらいないその背中を、私は歩く方向が同じ偶然という理由だけで、遠くから追いかけ眺めていた。
何日も、何日も。
時には追いかけていることさえ気付かずに。毎日のように。
追いかけているのはいつも同じ背中だと、彼の背中だとずっと気付くこともなく。
あるとき、事故が起きた。
それは、いつでもどこにでもあるもの。人の一生の中で無差別的に与えられる、世界にありふれた不幸。
すくいきれないもの。
だけどその背中は、すくいきれないのに救おうと、迷うことなく飛び込んでいった。
けれど結局、彼は誰かを救うことは出来なかった。
なぜなら彼の魔術は剣を生み出す、ただそれだけのもの。
そして剣は、誰かと戦うものでしかない。生きるための糧を得る狩猟にも、物を作ることにも使われない。
救うには向かない魔術。
剣という希少な属性も、固有結界という稀有な大魔術も、ただひたすらに破砕して進むだけのもの。
守ることすら出来はしない。
だから彼は、救おうとした名も知らない誰かの元に辿りつき、しかしそこで何も出来なかった。
その大きく強靭な背中の、なんて寂しいことだったろう。
その泣きそうな笑顔の、なんて悲しいことだったろう。
剣という属性。剣を生み出すだけの魔術。救うには向かないその能力。
壊れるほどに鍛え上げ、磨耗するほどに磨き上げ、それでも彼は救えない。
剣は凶刃。自分の命を守る為だ、誰かを守る為だと綺麗事を並べても、担う腕はいつだって血に塗れる。
それを唯一つの属性として魔術を振るう彼の、誰かを救おうとする理想の、なんて矛盾することだろう。
自己保存本能という生きものとしての在り方から外れ、自身の在り方からも外れた、壊れた理想。
けれど、その在り方は確かに、私の救いとなった。
御巫の呪縛に囚われ、自分の責を全うするだけだった私には、彼のその背中はとてもまぶしかった。
偽物の剣を生み出し、偽物の在り方をし、誰にも理解されない理想を強く追い求める。
そんな彼を、私は好きになった。
知らない天井を見上げながら、ぼぅっとした頭で考える。はて、私はなぜこんな所にいるのだろうと。
急に途切れたが故に混乱している記憶を整理して、現状を推測する。
「――――」
すぐに、理解した。私は、いい様にしてやられたのだと。
リンクを辿ってみるが、あの人には伝わらない。切断されてしまっているようだ。これではあの人はロクに身体を動かせないだろう。これが燕穣によるもの
か、私の急な意識の喪失によるものかは定かではないが、燕穣が動いた以上、いずれにせよあの人は燕穣の手に落ちてしまっていると見て間違いない。
(なんて、失態)
長い時間をかけてきたのに、燕穣は一瞬で何もかも掠め取っていった。最初にちゃんと話していれば、あの公園で言葉を発していられれば、こんなことにはな
らなかっただろうに。
――怯えて言葉を迷うから、このような事態を招く――
「……っ!」
喉が痛い。目頭が熱い。泣いたら心が折れてしまうから、今はまだ泣いてはダメだと涙を必死にこらえる。
「――――ふぅ」
息と共に、弱気を吐く。そうだ、まだ泣いて悲嘆に暮れるには早い。燕穣があれからすぐに準備に取りかかったとしても、夜明けまではかかるはずだ。そして
時計の時針は、今はまだ夜半だと示している。まだ間に合う。
(――行こう)
燕穣が御巫を滅ぼしたときから、彼が一線を踏み切ることは分かっていた。そしておそらく彼が行うことは、私にとっても救いとなる。
(けど。その為に、あの人を犠牲にすることは許さない)
ベッドから身体を起こす。いつもは布団だから少し変な感じだった。それに、どこか覚えのある匂い。心が締め付けられるような、でも心地好い感じ。少し気
持ちが昂揚するのを感じながらふと横を見ると、衛宮士郎が椅子に腰かけて眠っていた。
「 」
脊髄反射で飛び退く。壁に後頭部を打った。痛い。後頭部を押さえて少し悶える。結っていたはずの髪が解けていることに気付く。
(……どうして)
推測するまでもなかった。私は倒れ、あの場に残されたのはこの人だけだった。運び込んでくれたのだろう。
「…………」
私は薄着の身体を抱き、この人の寝顔を眺め、ふと思う。この人は私のために看病してくれていたのだろうか。
「…………」
私はあのとき着物のままだった。寝るには少々邪魔だったから脱がしてくれたのだろう。そして椅子に腰かけて眠っている。そこに、都合のいい夢を見る。
(有り得ない。なんて身勝手な)
この人にはこの人の想い人がいる。とても素敵な方だ。私なんて及びもつかない、綺麗で優しくて、格好良くて、何でも出来て。その人を助け出す為だ。あの
人と同じように。
だから、そう、私のような臆病で言葉も紡げない身勝手な娘に、そういう想いを持つ理由なんてない。
(……行こう)
私が招いた事態。だから私が収拾しなくてはならない。これ以上、迷惑をかけるわけにはいかない。
私は綺麗にたたんである着物を抱え、彼の横を通る。けれど通ろうとして、通れず、彼の寝顔に見惚れてしまう。
(止まっては、ダメ)
そう言い聞かせても、心が揺らぐ。初めて見る彼の寝顔から視線を外せない。でも、私が知らなかったこの寝顔も、ずっとこの人のことを見てきただろう凛様
の中では、きっと数多のうちのたったの一つ。もっともっと、士郎様のことを知っている。それを羨ましく、妬ましく思う。
(わた、し、は)
擬いなこの身に恋は過分なものと分かっていても、擬いなこの心には不相応だと知っていてもしても、やはり望みは止められない。この身を抱き締めて、頬に
触れ、愛して欲しいという想いは止められない。この人の笑顔を、言葉を、優しさを、全てを私にだけ向けて欲しいと願ってしまう。
(私は――)
心を、昏い感情が蝕んでいく。
(たった一言、私を愛してと……)
その言葉を口にすればいい。なぜなら私には虚実を自由にできる能力がある。そこらの陳腐な魔術ではない、限りなく魔法に近い魔術。だからたった一言、愛
してと。そうすればこの人は、私を心の底から愛してくれる。抱き締めてくれだってする。私が欲しいと願ってやまないこの人の心を、本当に手に入れられる。
――――それをすればと、もう何千と思ったことだろう。
「士郎様……」
私はひざまづき、彼の手を握る。薄っすらと、彼の瞼が開かれる。
「そのまま、聞いてください」
彼は私を見つめたまま、微動だにしない。彼と正面から見つめ合ったまま、こんな風に彼の顔を眺めることはこれが最初で最後なんだろうなぁと思うと、どう
してか私は微笑を浮かべてしまった。そして、彼の手を両手で握り、この小さな胸に当てる。
「私は」
それまでは心の中で言うのでさえ気恥ずかしかったのに、不思議と言葉が出た。
「あなたを、お慕いしています」
けれど。ようやくこんな形だけど告白して、やはり思う。どうして、こんな能力があるんだろうと。
「そして……あなたを想うばかりに近づきすぎ、結果巻き込んでしまったこと、とても申し訳なく思います」
どうしてこんな形でしか、出逢えなかったんだろうと。
「ですから、凛様達は私が必ずお返しします。そしてその後は……私はあなたに近づくことをやめます」
好きになってもらえる能力だなんて、私にはあまりに過ぎる。
「そしていつの日か、私の魔術が完成した折には、あなたの前から完全に姿を消します」
こんな能力、いつか使ってしまう。
「……きっとあなたは、それをお許しになられないのでしょうね。……けれど」
――言葉は言葉そのものに力を宿す。死ねという言葉で心を傷つけ、好きという言葉で心を満たせられる。
言霊という日本古来の考え方。魔術としても魔術師相手には非常に影響力の弱いそれを、御巫は秘儀である次元魔術と併用することで昇華し、真言という魔術
とした。
けれどこの能力は、制御が非常に困難で、またとても負の側面を持つ魔術だった。
なぜなら、魔力を込めなくても言葉そのものが力を持つ。ならば真言を使える私が言葉を発したとき、完全に魔力を抑えて制御できているとどうやって保証で
きるだろう。
たとえば私が好きと言ったとき。その言葉に込めた渾身の想いより、知覚できないほどの魔力の滓の方が、ずっと強いというのに。
だから私は言葉を捨てることを選んだ。臆病だったから。そうでないと言い切れず、信じられないのは、他の誰でもない私自身だったから。
「けれど、私は近く封印指定を受けます。あなたの傍にはいられない」
何より、恋慕の想いを抱くあなたの傍で、真言を使わないでいられる自信がない。ふとしたきっかけで制御に失敗して発動したりはしないという自信も、発動
してあなたが私を愛してくれたとき、それをなかったことに出来る自信もない。
だって、私がそれを望んでしまう。どれだけ望まないとしようとも、私が彼を想い、そして真言という能力がある以上、諦めることも出来ずに望んでしまう。
「だから私は、遠い未来に行きます」
誰かに追われることのない未来に。あなたがいない、遠い未来に。
「本当に――あなたが、大好きでした」
私は今、どんな表情をしているんだろう。笑っていられているんだろうか。
「どうか勝手に巻き込み、勝手に遠い未来へと行く私をお許し下さい。…………そして」
私は努めて笑顔を浮かべる。泣かない、ように。
「どうか、200年後の未来でも、あなたを想うことをお許し下さい」
真言の下にある彼は、ただ私を見つめている。返事なんてしないし、表情を変えることもしない。人形のような私が他人を人形繰りするだなんて、想い慕う相
手にそうするだなんて、本当に御巫とはなんて業が深いのだろう。
「……今、私が話したことは忘れてください。二度と思い出さずに、どうか記憶の奥底へ」
私は立ち上がり、握っていた彼の手を戻し、布団をかける。そして耳元で囁く。
「おやすみなさい」
彼は目を閉じ、寝息を立て始める。二度目のこの寝顔を私は眺めながら、私は精一杯に笑った。頬に熱いものが流れた。
そして私は、扉の方へと歩いて行き、扉を開ける。そこで振り返り、椅子に腰かけた彼の、背もたれと共に見える背中を見つめる。
「口を閉ざしたわたしに、あなたは笑顔を向けてくれた。それが、とても幸せでした」
音を立てて、私は扉を閉めた。
――――偽者と擬い者――――