「結論から言えば、理屈の上では可能、ってとこかしら」
対面のイスに腰掛けた彼女はそう言った。
「言ってしまえばボソンジャンプシステムって、要求応答型のサーバみたいなものよ。あるインプットと要求を出せば、演算処理を行ってその結果を応答としてアウトプットする――――例えば、自販機にコインを入れてボタンを押すと、缶ジュースが出てくるのと一緒なのよ。そしてそれは、つまり同一のインプットを与えれば、以前と全く同一のアウトプットが得られるということ。例えどういう仕組みか分からなくてもね」
長い脚を組み、片方の肘掛に身体を寄せて頬杖をつきながら、いつものように微笑を浮かべて言った。
「さて、じゃあここで例えを変えてみましょうか。ボソンジャンプのインプットとして“過去に失われたモノ”を指定すると、どのようなアウトプットが得られるか?」
考える間もなく、つまらなそうにアキトは言った。
「死者の蘇生か」
「人間に適用すれば、そうね、本物と分子レベルで同一である以上そう解釈できるし、実際にそういった研究をしている学者だっているわ」
でも、と彼女は言った。
「考えてみたことはない? ボソンジャンプによる人体の分解と再構成…………はたして、その分解前と再構成後の人間は、本当に“同一”なのかどうか?」
彼女はアキトの顔を覗きこむ。医療機器に囲まれて身体を固定されているアキトは顔をそらせることはできない。
「貴方は本当にジャンプ前から存在していた? ジャンプによる再構成時に生まれた人間じゃないの? 脳の電気信号まで全部粒子にされたのに本当に死んでないの? 再構成時に前とは別人として生まれたって考えられない? あるいは貴方は本当はとっくの昔に死んでいて、誰かがボソン粒子を集めて再構成させたんじゃないの? そう思ったことはない?」
しかしアキトは、自由である目をそらすことはせずに言った。
「ある。しかしナンセンスだ」
「ええ、確かに。だってそれを証明するのは無理だものね」
彼女はくすくすと笑いながら、イスの横にあるコンソールを操作した。少し痛みが走り、アキトは顔をしかめる。
「人間は1と0では置き換えられない。“身体”がじゃなくて“思考”がね」
「本物と偽物の議論か…………本物を偽物とすり替えても気づかないままなら本物と思い、だが全く同一であっても偽物と知れば本物とは思えなくなる」
「結局のところ感傷や思い込みなんだけどね。――――私達は外界の情報のほとんどを脳で補完しているわ。外界からのインプットの70%は視覚情報だけど、その視覚情報だって脳全体の情報のうちのたったの数%に過ぎない。残りの90と数%は脳が“こうだろう、そうだろう”と補完している思い込みよ」
「ヴァーチャルリアリティなんてのは、それの最たる例だろうな。外部からチンケな五感のインプットを与えられただけで、そこには実在しないのに、目の前にあるのだと思い込む」
「じゃあ、貴方の目の前にいる私は? 偽物かしら?」
彼女はおもむろに立ち上がり、アキトの手をとって、自分の頬に当てた。
「……それとも、本物?」
悪戯っぽく笑う彼女に、五感の多くを奪われ、医療機器に囲まれているアキトは舌打ちをした。
「俺の脳に今わずかに伝わっているこの触感と、視覚。それが“本物の感覚”なのか、ヴァーチャルリアリティから与えられた“偽物の感覚”なのか、その判別は出来ない。だが俺の脳にとってはどちらの感覚であっても“本物の感覚”で、そしてどちらの感覚であっても俺が今目の前にいる君を“本物だと思えば本物”になるし“偽者だと思えば偽者”になる」
くすくすと笑う彼女を見ながら、アキトはため息をついて言った。
「今日はずいぶんと意地が悪い」
「興味のそそられる議題だもの。物理学や工学にだって哲学的要素は入り込んでくるものよ。目に見えないものを定義するものだからね」
彼女はアキトの手を下ろし、イスに戻って再び腰掛け、脚を組む。
「結局、本物と偽物なんて存在しないのよ。もちろん感傷や思い込み、個人の主観、そういったものは認めるけど、その思考は回答の出ない永久回路。本物と偽物の定義を行うには客観性が欠如しすぎている」
でも、と彼女は小さく言った。
「それでもその思考を超えないのが人間。全く同じものを手に入れられるのに、明確な定義もない、存在しない本物にこだわってそれを求める」
「…………」
「愚かとも言えるけれど。私はそれこそが人間の美徳だと、そう思うけどね」
「だが、彼らは恐れたんだろうね」
いつ部屋に入ってきたのか、長身の男がやってきて、彼女のイスの背もたれに肘を乗せた。そして、リラックスした風に寄りかかって言った。
「ボソンジャンプによる分解と再構成、インプットとアウトプット。…………本物と偽物」
くだらない、と言いたげに男は言った。
「魂や精神といったスピリチュアルなものへの信仰に篤い人には耐え難いんだろうけどね。だが、だからといってボソンジャンプの物資輸送手段としての運用まで批判するのはお門違いだ。せっかく火星の後継者の件が片付いて利権を獲得したってのにさ、宗教テロだなんて嫌になるね」
男は特に表情を変えないまま、言った。
「というわけで、あちらさんのリーダー格、さくっと潰して貰えるかな?」
「…………気分じゃないが、まぁいい」
その代わり、とアキトは言った。
「物資を積めるだけ積め。それが終わったらしばらく休暇をもらう」
「いいよ。君には投資した分相応の成果を出してもらっているしね。でもどこに行くのかな?」
「知らん。しばらくゆっくり考え事をしたい」
やれやれ、と男が肩をすくめると同時に扉が開き、小さな女の子が姿を現した。身体も小さければ足音も小さく、アキトのそばに歩み寄る。
「行くぞ」
そう言ってアキトは立ち上がろうと肘掛に手を当てたが、そこで思い止まった。
「次は長くなる。ついてくるか?」
アキトが少女にそう尋ねると、少女は思考する素振りすら見せず、すぐにうなずいた。アキトは目を閉じて少し眉をひそめてから、ゆっくりとした動きで、少女の頭に手を当てた。
ゆっくりと、指を滑らしていく。頬までたどり着き、頬に手を当てる。
「…………」
少女は微動だにせず、しかし、わずかに首をかしげた。否、ほんのわずかに、アキトの手に顔を預けていた。
「ツケは高そうね。幸運にも利子は少なそうだけど」
彼女はくすりと笑い、男は再びやれやれと肩をすくめる。
アキトは小さく息をついてから、少女の頭をぐりぐりと乱暴に頭を撫で回した。少女は撫でられるたびにぐらぐらと頭を揺らしていたが、アキトが手を離すと、アキトを見上げ、それから不思議そうに自分の頭にそっと両の手を当てた。
「行くぞ」
アキトは立ち上がり、少女の横を通り過ぎながらそう言った。
「…………」
少女は撫で回されてぼさぼさに髪がハネた頭のまま、アキトを追いかけた。
それから7日後の午前。
アステロイドベルトへのボソンジャンプ後に、テンカワアキトはその姿を消した。
Light/Night
この世界で2番目に大好きな君の為に
「燕穣悟郎」
御巫の屋敷の地下、ドーム球場がまるまる入りそうな大空洞の中。大掛かりな機械や魔法陣で、壁面内や表面が埋め尽くされているその奥で、十字架に磔にされているアキトは、目の前に立つ男にそう呼びかけた。いつかの自分と同じ黒い衣服を纏い、百合を紋として縫いつけあしらっている和装の男へと。
「何かな、テンカワアキト」
「どうしてこの方法にこだわる?」
凛とセイバーがアキトの方へと視線を向ける。魔術は知らないと言っていたはずの男の、その言葉の真意が見えない。まるで他に方法があることを知っているかのような口振りだ。
「先程言った方法だと、お前は」
「そうだな」
アキトの言葉をさえぎるように、あるいは継ぐかのように、燕穣は言った。
「私は、妻の死を看取っている。死に瀕して、腕の中で青白く冷たくなっていった彼女の最期の言葉も聞いた。ならば確かに、これから時間跳躍で死の直前の妻の身体を……人形と入れ替えることに成功したならば、歴史は変わらずとも状況は変わり…………私は偽物の妻の亡骸を、ただの人形とも知らず抱きしめ咽び泣き、あまつさえ他の様々なものを犠牲にしながらここに立っているということになるのだな」
燕穣の口調に寂しさやもの悲しさはない。自嘲も含まれていない。しかし無感情というわけでもない。
「他に方法はあったさ」
背中を向け、大空洞の入り口を見据えて外さないまま言った。
「ならば何故だ。どうしてその方法なんだ」
詰問するアキトに、凛とセイバーには首をかしげざるをえなかった。燕穣悟郎のいう話に、特に矛盾点があるようには思えない。魔法の一つである時間移動を、御巫の技と機械によって実現して、その結果開いた時空の扉から燕穣悟郎の瀕死の妻を救い出す。
目的が最終的に魔法の実現そのものではなく、それによる死者蘇生であるならば。機械を使うことは、魔術師としては末代までの恥辱ながら、それは方法として正しい。
(…………いえ、違う。これはおかしい)
そこで、はたと凛は気づいた。燕穣悟郎がやろうとしていることの矛盾点。
(そうよ、ね。死者の蘇生が目的なら…………どこにも時間移動の魔法を使う必要性がない)
何よりも単純に超々高難易度過ぎる。魔法を実現すること自体の技術的な問題、魔術と機械の融合に対する制御の問題、わずかな歴史改変でも防ごうとする世界からの干渉への対策、そもそも瀕死の肉体が時間移動に耐えうるのかの問題、耐えられたとして数秒後に亡くなるような肉体を即座に治療するなんていうほぼ魔法の超高難易度魔術の行使の問題。あまりに大きな問題が山積しすぎている。
古来、死者蘇生は時間移動よりポピュラーだ。多くが研究されて、一定の結果は出ている。もちろん、ほぼ確実に魔道に落ちはするが、死者の蘇生という結果だけを求めるのであれば、もっと容易な方法もある。
例えば、用意した人形が、長年連れ添っただろう燕穣をだますことが可能なほどの出来であるならば、相当な腕の人形師の製作のはずだ。特に、凛が思い当たった人形師であれば、その人形は寸分違わず全く本物と同一といっていいものである。ならば、燕穣の妻を人形に降ろす形での死者蘇生の法もあっただろう。あるいは、遺体を吸血鬼化させることも選択肢の中にあったはずだ。
(たしかに、死者の蘇生に魔法を使うことのメリットがない。あまりにも非効率的すぎる。どうしてこんな方法を――――)
「答えろ。何故だ」
再度のアキトの詰問に、凛ははたと思考から戻った。そして同時に、燕穣の行動と同じくアキトの様子も変だと感じた。セイバーもそう感じたのだろう。一瞬、凛の方を見た後、アキトの方へと視線を移した。
(…………何かを)
根拠はなかったが、せいバーは確かな自信を持って思った。
(何かを、言わせたい?)
しかしその正体は分からないまま。
時間だけが過ぎていく。
北緯51度、東経および西経いずれも0度。時刻はグリニッジ標準時にて00時00分00秒。
英国国会議事堂たるウェストミンスター宮殿、その時計塔の鐘が鳴る。世界各地で刻まれる時計の、その中心の地にて、昨日の終わりと明日の始まりを知らせる鐘の音が響く。
いつもは正午にのみ鳴るはずの鐘の音に、ちらほらと明かりが消え始めていた家々の住民たちは目を覚ます。這い出るように窓を開け放ち、扉を開け放ち、時計塔の威容を瞳に収めて鐘の音に酔い痴れる。
時計塔の鐘の音は止まらない。
まるで壊れたかのように、あるいは元々そうあるべきなのだというように、いつまでもいつまでも鳴り響く。 空気を伝播し、土を伝播し、水を伝播し、建造物を伝播し、あらゆる生き物たちにその音を轟かせる。
しかしやがて住民たちが鳴り止まない鐘に疑問を抱き始めた頃、はたと鐘の音が止まる。そして、あぁ止まった故障だったのかなと、首をかしげて微笑みながら窓や扉を閉め、明かりを消して眠りにつく。まるで何事もなかったかのように。
だが、それは誤りである。
時の境目たるその時間に、ロンドンの住民たちは確かにその音を耳に残し、意識に残し、脳に残した。
時計塔に棲まう魔術師たちも、例外なく。
その時計塔の郊外、そこにある森林地帯に御巫の屋敷は存在していた。
森林、と言っても東洋における植物で覆われたそれとは異なる。西洋における森林は、芝生のような足草と、幹の太い樹木がまばらに続く風景だ。
しかしながら、この御巫の屋敷の周囲に限ってはそれは当てはまらない。周囲とはあきらかに異なる東洋の緑樹が生い茂り、植生を完全に無視している。
まるで英国にあってそこだけ切り取られたように和の様相を示す御巫の屋敷。郊外とはいえ時計塔の近傍に位置するにも関わらず、そんなでたらめな植生を実現しつつ、堂々と居を構えているのはこの屋敷に凶悪な結界が幾重にも展開されているからに他ならない。認識阻害から始まり空間の断絶、位相の書換、強制移送陣と並の魔術師では生涯かけても使うことさえできないレベルの魔術すら、ただの結界として惜しみなく張り巡らされている。
故に、本来ならば英国の郊外に存在するという表現は正確ではない。ここにはあくまで御巫の屋敷に入るためのアクセスポイントが設置されているに過ぎず、本物の屋敷は日本に位置している。もっとも、そこですらも、当然まっすぐ歩いて入るどころか観測も干渉もできない。空間そのものが、時間と共に切り取られている場所。桃源郷やシャンバラ、蓬莱島、ニライカナイ、常世と呼ばれる夢幻の国と類を同じくする異境の場所。
そう、ここは正規の手段か魔術そのものを無効化しない限り、あらゆる手段をもってしても侵入することのできない隔離庭園。
その存在するが存在しないという矛盾を抱えた屋敷の門前に、年端もいかない少女が刀を携えて立っていた。
少女の名は、御巫沙夜。御巫の魔術師達による100年を超える遺伝子工学の研鑽により生まれた、御巫家当代当主の少女。
彼女の幼年期は長い。人間が最も成長・適応を行える成長期を長く設定された彼女の幼年期は、14歳にして未だ終わりを迎えない。まだ何年も続く幼年期の最中であるが故に第二次性徴の兆しもなく、真言という絶対強制暗示魔術を取り払えば、肉付きはいまだ女のそれではなく少女のものであり、胸もほとんど膨らみを帯びていない小柄で薄い身体。
しかしそんな儚げな容姿にもかかわらず、体格を考えれば大太刀とも言える刀を携えた様はとても凛々しい。纏う羽織と鉢巻の布を夜風に流し、大きな瞳に意思の光を宿らせている様は、戦国の世の物語に出てくる少年剣士のようだ。
そんな少女を照らす今宵の満月はやけに大きい。暗闇の中の黒をもくっきりと映し出す。風が凪いだ途端、少女の後ろで蠢いていた人外達の息遣いが、空気を伝播して響き渡る。
「――――」
少女の背後に付き従っているのは、おびただしい数の獣達だ。獣達の大きさは小型から大型、種類は鳥類に爬虫類に哺乳類と様々ではあるが、どの獣も、既に生を終えた骸に魔をこめて再生された、使い魔と呼ばれる被造物達である。
無言で少女を待つ彼らに対し、戦いを前に感情の色を失くした表情をしていた少女は、振り返り、笑った。
「…………ありがとう」
そして少女は、声帯に魔力をこめずに言った。
「行こう」
叫ぶとは程遠いながら、その場の全ての獣達に聞こえる声に獣達は呼応し、唸りをあげて屋敷の内部へとなだれ込んで行く。傍目から見れば、不可視の門を越えて消失するかのように。
そして、その門の先は戦場だった。ただし兵は獣達であり、この戦場に明確な勝敗はない。突撃する獣達は道を開こうとし、待ち構える獣達は道を塞ごうとはしているが、基本的に皆殺し。戦場というより殲場。弱肉強食、下克上、共食いが横行する自然摂理に反した悲惨な風景。唸り声の合間をぬって、喰い千切られる音、掻き切られる音、叩き潰す嫌な音が響いている。花を落とした緑樹の桜に血飛沫が飛散するたびに、擬いな魂を失って獣達は骸へと帰っていく。
その中を、少女は駆けていく。襲いかかる獣は獣達が喰い止め、あるいは自ら刀で斬り伏せ、道を開けて進んでいく。そのたびに獣達が少しずつ骸へと帰っていく。
「…………」
獣達は、元こそが骸だ。死して大地に埋没されるはずだったのを、無理矢理に使役されている存在。
彼らは死してなお動かされ続ける操り人形だ。少女を監視するために差し向けられた数多の魔術師達の使い魔であり、その主導権を少女が魔術師達から奪い去ったに過ぎない。
「…………」
だが少女は主導権を行使して命令を下すことをしなかった。ゆえに彼らは常にそれまで通り、魔術師達の使い魔として少女の監視にあたった。いつも近くにあり、少女が魔術によって魔術師達に彼らの存在を忘却させても、変わらず近くにあった。もう自由なんだよといくら伝えても、彼らは監視を続けた。
思えば実に3年の月日。
結局、今の今に至るまで、少女は一度たりとも命令をすることはなかった。それなのに彼らはいつの間にか現れて、少女の後ろを走り始めた。そして、何も伝えていないのに少女の行く先だけをこじ開けようと戦いを始めた。否、獣達は少女を守る事を、少女の歩む道を切り開く事を第一に戦っている。攻勢なのに防戦、数で劣り性能でも劣るというのに、何の命令もないのに戦っている。
「オォォォォ!」
「ガァァァァ!」
今もまた、少女を庇って獣が一匹骸へと帰る。だが、それを少女が悲しいと思う理由はない。彼らは幼くして魔法や根源に辿り着かんとする沙夜を敵視し、執拗な嫌がらせをする魔術師達の操る骸なのだ。死してなお動くことを、使役されることを強要された、忌むべき者達の操り人形。だから感情を持つ理由などない。
「――――」
だいたい、彼らは無愛想だった。ご飯をあげようとしても沙夜の前ではまず食べない。体を洗ってあげようとしても逃げの一手。空間跳躍で捕まえて強引に洗ってみても、洗っている最中は大人しいかと思えば、終わると身震いして水を飛ばして沙夜をびしょ濡れにする。そもそもいつも近くにいるくせに滅多に近づいてこない。たまに近づいてきても、撫でたら大抵嫌そうにして逃げる。そのくせ士郎と会う約束があるときはどこからともなく集まってきて邪魔をする始末。基本的に沙夜の言うことなんてまるで聞くことはなかった。いつも沙夜を見ていて、離れようとしなかったくせに。
「――――っ」
沙夜はそのほとんどを回避してはいたが、魔術師達の嫌がらせは執拗だった。そして獣達はその使い魔。だから少女が、彼らが死することに感情を持つ理由はなかった。
「本当に」
屋敷の戸口へと辿り着いた沙夜は、獣達に最後の言葉を言った。
「みんな……今までずっと一緒にいてくれて、嬉しかったよ」
少女は、振り返らずに駆け抜ける。
獣達は考えていた。思考能力などとっくの昔に剥奪されているが、それでも考えていた。
どうして我々は戦っているのだろうと。
少女は通した。我々は少女を守り抜いたのだ。それなのに、どうして我々はまだ戦っているのだろうかと。
「ォォォォォォ!」
そもそも少女を守った我々の誰もが、本来の主は別であり、敵同士なのだ。そして我々は死んでも死を許されずに使役される骸に過ぎず、ただ元の主から少女に主導権が移ったに過ぎない。
それなのに、どうして我々はこうして共に戦っているのか。死んでもいい傷を負ってなお頑張っているのか。
我々は数で劣る。元々戦闘用ではない我々は、性能ですらも劣る。我々は狩られる立場だ。
「ォォォォォ……ッ!」
我々は少女を守り通した。勝ったのだ我々は。故に後は、ここから速やかに撤退すればいい。この後はあの少女がしなければならない戦いだ。我々が出る幕はなく、もはやこの戦いに意味はなくなった。
しかし、我々はそれをせずに戦っている。
何故なのだろう。
「ォ、ォォ、ォォォ……」
相討ちとなった同志が、敵を土へと還して崩れ落ちる。
奴は3体の敵を葬った。非戦闘用の躯体である奴は、戦闘用躯体の敵を3体も土へと還したのだ。その上で、最早立つ肢さえ失くした身だというのに、土へと還ろうとせずに敵を睨みつけている。
「ォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!」
何故なのかは分からない。
だが。まぁ、おそらくは。
やや強引に餌付けされたり、喉元くすぐられたり、水浴びさせられたり洗われたり、一緒に眠らされたりと、あの少女が不出来な消耗品である我々に想いを傾け、微笑みかけてくれたせいなのだろう。
我々は所詮獣だ。そんなことをされれば情も移る。あの小さな娘に何かをしてあげたいという気にもなる。ならば、腹立たしいが我々の少女が想いを向けているあの男がここに向かっているというのであれば、心底憎らしいが少女が悲しまないように奴を生かさなければならないだろう。
それに、我々はいずれ少女の重荷になる。あの優しく頑固な少女のことだ、この戦いの後、いずこかへと逃げのびようとするとき、きっとどれほどの負担になろうとも我々も連れて行こうとするのだろう。全く、我々は総意をもって真っ平ご免な話だと思う。
故に我々は、近いうちに消える必要がある。それがこの自殺行為というのは難儀なことであるが、精一杯生きた後での二度目の命なのだ。番でも血縁でもない人間の少女のため、自然の本能に抗うというこのような生き方も、咎められはしないだろう。
「ォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!」
我々は、少女の幸福を祈るのだ。
「な――んだ、これは」
衛宮士郎は目を疑う。眼前の光景に。
扉まで二直線に並び頭を垂れる、ケモノの葬列。どれもこれも傷だらけでグシャグシャだ。原形からいくつもの部分が欠けてしまっている。モトが一体なんの動物だったのかも判らないモノばかりだ。
「ォォォ……ォ、ォ」
ケモノ達は喉笛などないが、口などないが吼える。吼えるたびに血がバシャバシャと零れ落ちる。
生物としては死んでいるが、機構的に動くが故に動く物として在り続けるケモノ達。あまりに無残で悲惨で醜い姿。
だが、とても誇らしげに見える。我らは主君を守り通し役目を果たしたのだと喝采をあげる、忠義を尽くす騎士達のように。
「ォォォ……」
もはや吼えているのか、空気が洩れ出す音なのかも分からない。それでもケモノ達は叫ぶ。
彼らに言葉はない。だが、言っている。そう、我々は――……。
「ォ、ォ…………」
士郎はケモノ達の葬列の間を、歩いて行く。ケモノ達を通り過ぎるたびに、ケモノ達は崩れ落ちて、土へと還っていく。
――扉に辿り着いて、振り返れば。彼らの勇ましく誇らしい姿は露と消え、どこにもなかった。
ブツン、ブツンと切れていく音が脳の中で響き渡る。
獣達と繋がっていた魔力の糸が切れていく。次々と切れていく。
切れるたびに、獣達のことを思い出す。思いだしているそばからまた切れていく。いくつも切れていく。
「――――っ」
そしてとうとう、全て切れてしまった。切れてしまった。あの子達の命が。
(……泣いちゃ、ダメ)
あの子達は土へと還ったのだ。私の我侭に付き合い、今ようやく奪われていた死する自由を取り戻したのだ。だから祝福こそすれ、泣いてはいけない。時間は惜しいのだ。ここで泣いて止まっては、彼らが切り開いた血路が無駄となってしまう。
(…………行こう)
自分に言い聞かせ、沙夜は歩を進める。そして御巫の屋敷の最奥、体育館がすっぽり入るような広大な人工地下洞へと続く階段の入り口に辿り着く。
ここに踏み入れば、何かが終わるだろう。自身の命、あの人達の命、燕穣の命、それ以外の何か。奪われたものを取り戻すためにここに立ってはいるが、おそらくは全ては取り戻せない。きっと零してしまう。そうして零れてしまうものは、一つとも限らず、またどれかも分からないが、きっと終わってしまうのだろう。
(でも……)
けれど、これ以上失わない方法がある。奪われたものは取り戻せないが、今以上に奪われはしない方法がある。
(今、戻ってしまえば――――)
「沙夜!」
沙夜は声にビクリと身体を震わせる。聞き慣れた声だ。振り返らなくても誰だかわかる。今一番会いたくなくて、ずっと一番会いたかった人。
(――士郎様)
沙夜は恐る恐る振り返る。勝手に巻き込んで利用して、それなのに奪われ、その挙句助けてもらっておいて黙って抜け出したのだ。彼がどんな表情をしているとも知れない。怒っているのか、呆れているのか、軽蔑しきっているのか。
「良かった、追いついた……!」
よほど急いでここまで来たのだろう、肩で息をして、膝に手を付いている。頭が下がって表情が見えないのが、沙夜には怖かった。
「沙夜」
士郎は顔を上げる。沙夜の心臓が止まりそうになる。さっきから不整脈もいいところの無茶苦茶な脈動だ。
「俺が行くから。沙夜は戻ってろ」
「――――」
沙夜は目を伏せて自分の浅はかさを悔いる。私は何を考えていたんだろうと。
この人は、こういう人だ。こういう馬鹿な人なのだ。だから、だからこそ。
「沙夜!」
「――――ッ!」
後ずさった沙夜が逃げると思ったのか、士郎は沙夜の腕を掴む。士郎にとっては同じ剣を扱う者とは思えないほど、か細い腕だった。
「馬鹿」
士郎は沙夜の肩を掴む。掴んだ肩の華奢さを気にせず、強引に士郎の方へと向かせる。驚いて身をこわばらせる沙夜を無視して、士郎は沙夜を抱きしめた。
「な――――に、を」
沙夜は震えていた。恐怖か、それとも他の何かか。背の伸びた士郎の肩どころか胸の高さ程度しかない小さな身体を、痙攣しているかのように震わせていた。
「やめ……て、くだ」
沙夜は士郎から逃れようともがく。だがそれは、ただ腕を突き出しているだけ。それも、筋力のない少女の、さらに力のこもっていない震える腕でのものだ。武道の才覚も、人の持てる限界まで宿しているはずの沙夜にしてはあまりに拙い。
それでも士郎は沙夜を逃がすまいと、膝をつき、目と目が合う高さに合わせ、胸を合わせて沙夜を強く抱きしめる。このまま全力で抱きしめれば骨折するか窒息するのではないかと思えるほど、薄い体だった。そしてもはや、沙夜の抵抗は、士郎の胸板にほとんど当てているだけの、小さな手だけになっていた。
「や……だ、お願い、ですから……やめて……お願い、やだぁ……」
うわずった涙声で沙夜は懇願するが、士郎は頑として離さなかった。沙夜が逃れようと思えばいくらでも逃れられるのに、沙夜はそれをしない。この頭の良すぎる意地っ張りなばか娘の、精一杯の主張なのだろう。
助けて欲しい、と。
「沙夜が一人で抱えることなんてない」
士郎は沙夜から離れ、沙夜の肩を抱いたまま、まっすぐと顔を見つめる。
そして、今にも零れそうな涙を止めようと、沙夜の頬に指を当てようとすると、それを遮るように沙夜は、声帯に魔力をこめて言った。
「土は土に、人形は人形に還れ」
「――――え」
ボロリ、と乾ききった土が崩れるかのように、士郎の指が崩れ落ちる。
「なん、だこれ」
士郎の喉がひび割れる。それがちょうど気道を破壊したのか、陸にうち上げられた魚のように士郎は口をぱくぱくとさせる。呼吸さえ出来ないのか、空気の洩れる音もしなかった。
沙夜は士郎から離れながら、涙をたたえた目と鼻水を羽織の袖でぬぐいつつ、声をうわずらせながら言った。
「士郎様…………貴方が、投影魔術に対する異様な才能と固有結界を持つ貴方が、ただの一目で物体の構造や創造理念を把握できるように……わたしも、一目でとはいきませんが、時間や空間、次元といったものの流れや重なりが把握ができます」
零れないでも止まらないのか、沙夜は充血しかけている目を何度も何度もぬぐう。
「ですから……ですから貴方は、確かに士郎様ですが…………絶対的に同一ですが、でも、御巫の術でたった数分前に出現したばかりの、士郎様なんです……」
士郎は聞こえているのかいないのか、ただ見開いた目を沙夜に向けている。その身体にはいくつものヒビが入っていた。
「今、貴方は、土の
人形
を依代に、天照大神の一神則多神則汎神になぞらえて上位次元で御霊分けした存在そのものを降ろすことで、世界の修正を発生させ、
本物
として存在しています…………から、貴方は士郎様そのものですが、ドッペルゲンガーに近い存在で……
本物
の……いえ、もう一人の士郎様と出会えば、きっと世界が自ら生み出した矛盾を殺すために干渉して、いずれか片方が……最悪の場合には二人とも……消滅します」
何度もぬぐったのに未だに涙で潤ったままの、目元を赤くした瞳を、老人のようにひび割れた士郎に向ける。
「お二人とも、貴方も本物です。違いなんてありません……ありませんけど…………」
御巫沙夜にとっての、ただ一つの違い。
「わたしがそれまでお会いし、お慕いしていた士郎様は、貴方では…………」
続く言葉が告げられることなく。間違いなく本物の衛宮士郎は、土砂となって崩れ落ち、世界から消滅した。
(――――やはり、許容できないのか)
御巫の屋敷の地下の大空洞の中で、燕穣悟郎は目を閉じて立っていた。刀を地面に突き刺し、その柄頭に両手を重ねあわせて時を待つ様は、時代劇に出てくる幕末の維新志士のようでもあった。
次々にトラップを突破して猛進してくる沙夜に対して、燕穣に焦りはない。全て予想の範疇であり、既にシステムは起動し、演算を開始しているのだ。ここまでの過程に、いささかの問題も発生していない。じきに完全なる起動を果たし、時空の扉を開くだろう。
しかし、それでもいくつかの誤算はあった。
(1つは、想定した以上にこちらに向かってきたのが早かったこと)
燕穣は、御巫沙夜が衛宮士郎と一緒にいるよう仕向けていた。衛宮士郎はその性格上、まず間違いなく御巫沙夜に協力を申し出るはずで、それに関しては有無を言わさず絶対に協力すると言って引かないはずだ。そして御巫沙夜はそのような強い申し出に対して軽くあしらえるような性格ではなく、何より衛宮士郎を強く慕っている。協力体制を敷くかどうかはともかくとして、それによって時間を浪費し、また足を引っ張ることになるはずだった。
それがあっさりと、一人で向かってきている。偶然ニアミスした可能性はあるが、結果として多大な迷惑をかけることになった衛宮士郎に何も告げず、捨ておくことを選択したのは、燕穣にとって意外だった。
(1つは、御巫の屋敷を守らせていた使い魔の群れを、同じく使い魔を戦わせることで短時間で突破したこと)
御巫沙夜は人身御供からなる御巫の集大成の娘だ、自分の為に誰かが傷つくだなんていうのは確実に苦渋である。だから、十中八九は一人で突撃して突破を図ろうとするはずだった。なのに使い魔同士を戦わせることを良しとしたのは、それほどの覚悟を決めてきたのか、使い魔達の意図せぬ義援によるものか。
あるいはテンカワアキトという人間と過ごしたことで、何らかの精神的成長を得たのか。
(そして1つは、衛宮士郎を消滅させたこと)
あれは元々は御巫家が作り出したカウンタートラップだった。侵入者がその瞬間において最も足止めされる人物を土の人形に降ろし、足止め後にさらなるトラップを発動させる極度に悪質なものである。
燕穣もこのトラップにあい、分かってはいたもののずい分な精神力を消費した。御巫の屋敷に仕掛けられているああいった非殺傷性トラップは、侵入者を検知すると無差別に発動するタイプのものだ。だから燕穣も御巫沙夜のように人形を元の土人形に戻すことを選び、そして、実際に妻を消滅させていた。
(心血注いで甦らせようとしている最愛の人を、自ら…………)
血も涙もなさすぎる話だった。吐き気を催すだけで済んだだけ、我ながら上等な精神力だろうと燕穣は思った。
燕穣としてはそんな極悪なトラップは即刻潰してしまいたかったが、それをするには場自体を破壊する以外に方法はない。武装は刀一本にして攻性魔術を持たない燕穣にどうにかできるものではなく、どうしても残さざるをえなかったのだった。
だからこそ、誤算だった。結果として沙夜はトラップを受けることになる。あのトラップによって生み出される人間は、人間には適用できない神業のデッドコピーによるものであるため、やがては世界が矛盾を殺すため、世界から消滅させる。とはいえ、それまでは間違いなく本物なのだ。燕穣は、まだ14歳そこらの小娘である沙夜が、あの精神を抉り取るようなトラップをそうやすやすと抜けられるとはどうしても思えなかったのだった。
(…………強くなったのか)
燕穣は閉じていた目を開き、背後で磔になっているアキト、凛、セイバーに向かって言った。
「気が変わったよ、テンカワアキト。どうやら君はほとんど分かっているようだし、どのみちいずれ分かることだ、先ほどの質問に答える。…………なぜ私が、時間移動の魔法を使って妻を蘇生する方法を採るに至ったか、だったな」
三人が、自分の背中に注意を集めるのを感じながら、燕穣はぽつぽつと語る。
「まずは、そうだな…………一つ覚えておいて欲しいのだが、御巫の使う空間移動も、そしてその究極である時間移動もな、身体を移動させるというよりは扉を作るというイメージなのだ。異界と世界を繋ぐとでも言うのかな、厳密に言えば、神域と世界を区画する鳥居を模している。天照大神を天岩戸から誘い出すために、思兼神が集めて鳴かせたという常世の長鳴鳥がその原典だ」
燕穣は一呼吸おいてから、話を続ける。
「さて、では、話は変わるが……ここである物体に対して、真に等しいものを模造できたとしようか。たとえば士郎君のような投影魔術でだ。そのとき、本物と偽物を並べると…………それらが真に等しいものである以上、本物という言葉自体が意味を持たなくなる。では、本物という言葉に意味がないのならば、それら二つは何が違う? たとえ素粒子ひとつに至るまで同一だとしても、物が二つある以上、それらは必ず異なる物だ。……では、いったいどこで差がつくのだろうか」
凛は一拍の間だけ考えてから、答えた。
「それが、いつから在ったか」
燕穣はうなずく。
「そうだ。誰の手によって、何の要因によってどう生まれ、どういう時間の中でどう存在してきたか。こればかりは真似ることはできない。有機無機に関わらず、物質界に存在する個体である以上、存在そのものは必ずそれ一つなのだからな。…………だがもちろん、それは感傷や主観的な問題に過ぎない。観測者はその時点における物体を観測するのであり、過去における物体の状況など見えるわけがない。仮にどちらがそうであると言ったところで、トランプのようにシャッフルしてしまえば誰にも分かりはしない。…………普通の人間はな」
燕穣はもの悲しげにため息をついた。
「ギフテッドという言葉を知っているか?」
「……いわゆる天才というやつよね。でも、アンタが言いたいのは、ただ頭が良いとか才能があるというだけじゃなくて――――常人とは異なる感覚を持つ者、って感じの意味の方ね」
「そうだ。ゆえにその常人と異なる感覚や精神性に対して、親からすら理解を得られない者達だ。その点でいえば、私や君のような魔術師も、一応はギフテッドと呼べるが…………その中でもさらに天賦の才能を持った者達がいる」
セイバーがそれを受けて答える。
「シロウのことですね。一目見ただけで、物の構造や創造理念が把握できるという」
「ああ。そして……私の妻である伽耶もそうだったし、そしてあの子も…………沙夜もそうでな。時間や空間の流れや重なりが読み取れるのだそうだ。物であればそれがいつからどう存在しているか…………それが、それこそが、私がこの方法を選択するに至った理由だ」
ガツン、とその言葉が凛の頭に衝撃を与える。
そして今までの燕穣悟郎の言動、御巫沙夜に対する言動が収束し、整理され、一つの結論が導き出される。
「――――アンタ、まさか」
ああ、とセイバーは理解する。
テンカワアキトが、燕穣悟郎にいったい何を言わせたかったのか。
「燕穣悟郎。貴方は…………」
燕穣が最愛の妻を失い、それからいかなる理由があってここに至ったのか、それは二人には分からなかった。
しかし燕穣はもの悲しげな様子はなく、背を向けたままながら、強い想いをもって言った。
「必要なんだ。私以上に、沙夜にとって。細胞や記憶一つまで本物と同じ女ではなく、沙夜を生み、ずっと育てて愛を傾けてくれていた“本物”の母親が」
御巫沙夜は、燕穣悟郎とその最愛の人である御巫家が前代当主、御巫伽耶との間に生まれた、愛娘なのだと。
――――この世界で2番目に大好きな君の為に――――