御巫家。
 起源は遥か神代、八百万の神々が神々として神威を振るっていた太古の時代。神に仕え、神の声を聞き、神と会話を交わした巫女を始まりとする一族。元来魔 術師の家柄ではなかったが故に、今代にあってもなお珍しく、代々の当主を女性が担う。
 占い・神遊・寄絃・口寄の4要素を備え、巫女たる彼女らが為すはすべからく人の世の為。平時は供養、慰問、時には悪鬼払い、果ては人身御供。自らの身を 犠牲にしてでも人の世の為に尽くさんとし続けてきた。
 しかし、彼女らの働きは人の世全体から見れば、微々たるもの。多くは有力者が私腹を肥やし、陰陽師や占星術師達が有力者にかしづき、民は苦しみ喘いでい た。
 そんな時代の中、滅私奉公の化身であった御巫は考えた。私達の持つ力を世に広めれば、私達がすくいきれないものもすくえるようになるのではないか。ま た、いたずらに魔なるものによって引き起こされる悲劇はなくなるのではないか。
 次元跳躍によって上位領域に存在する”根源”にアクセスする、この神へ通ずる能力、それを世に解放できさえすれば。

 しかし当然その願いは叶うことはなく。
 根源の力を民草に降ろすことはおろか、途方もなく巨大な根源の力を制御することも叶わず、その上、御巫はその暴挙の報いとして同郷の陰陽師はおろか魔術 協会からの迫害を受けることとなる。
 人身御供をその起源とするが故に攻性魔術の一切を持たない御巫は、それらに対してあまりに無力で、さしたる抵抗も持たず、衰退の一途を辿る。そしていつ しかまことの神通力を持つ巫女は絶えていき、巫女そのものが形骸化していく中、それでも御巫はその想いを胸に抱きながら、やがて人が科学という手段で生き る力を身に付け始めても人々の暮らしを支え続け、細々と魔術の研鑽に努めてきた。

 御巫に変遷が訪れたのは1865年。時代は慶応元年、激動の江戸幕末。
 時の当主御巫巴が魔術協会からの招喚を受け、西遊していた際に偶然手に取ったブリュン自然科学会誌に寄せられた、とある論文を見たときであった。その論 文のタイトルは『Versuche uber Pflanzen-Hybriden』。内容は、生命の形質を決めているのは何らかの単位化された粒子状の物質ではないかというものであり、それを裏打ち するえんどう豆の交雑実験についてだった。その論文の著者の名は、グレゴール・ヨハン・メンデル――――後にその実験はメンデルの法則、その粒子は遺伝子 と呼ばれるようになる、現在の遺伝学の基盤となった学説だった。
 発表当時、魔術師達はおろか科学者にもほとんど注目されず、1900年に至るまで埋没していたその学説は、しかし御巫を震撼させた。
 ――――もし、人間もそのように、何らかの粒子によってその全てを決定付けられるのであるとすれば。
 そして、その粒子を自在に操ることができたならば。
 人工的に、神にも届く天賦の才覚を持った魔術師を生み出すことが出来るのではないか。

 かくして御巫の妄執は始まった。
 魔法が科学によって魔術へと堕とされていく中、御巫は今日もなお続く魔術師伝統の優生学を打ち捨て、自ら科学の研究を始める。やがて、地球上のほぼ全て の生命の設計図たる高分子生体物質DNAを世に先駆けて見つけ出し、魔術におけるそれらの関係性を研究し続け、確信を得る。
 そう、当代の人間がどれだけ研鑽を重ねようと、子孫へ受け継がれるそれらは常に100%のものとは限らない。魔術刻印の密度も、魔術回路の数も、常に磨 き上げたまま後世に伝えなければどれだけ時間をかけようと根源に到達など夢のまた夢。
 必要なのは、ヒトの範疇にありつつも、ヒトの限界を超える者。ホムンクルスのような人外ではなく、肉体改造のような負荷のかかるものでもなく。魔術刻印 と魔術回路を完全に受け継ぐ器、そして健全な精神と共にそれらを高効率で磨き上げられる才覚。それは現世でいうところのデザイナーズチャイルド、後世でい えばマシンチャイルドと呼ばれる恐るべき子ども達。
 御巫は神隠しを行い素体を集めて実験を重ね、数多の失敗を生み出しつつも確実に高い才能を持つ者を生み出していく。そしてその者達が研究を継ぎ、さらに また生まれてきたより高い才能を持つ者が研究を継ぎ、御巫の研究は停滞を知らず加速度的に進んでいく。
 いつしか、自らの起源はいったい何であったのか、何の為にそれを望んでいたのかも忘れ、ただ根源と呼ばれる”力”だけを求めて。

 そして、当代当主御巫沙夜より数えて4代前より子ども達は飛躍的な性能向上を始め、3代前よりその技術を本家当主にも適用、先代御巫伽耶をもってして最 高峰に至る。そしてその全てを受け継ぐ当代御巫沙夜により、御巫の秘儀の一つである真言は完成し、根源への超次元接触を間近に控える。
 そのはずだった。
 幾千の年月を経て膿と化した狂気が、御巫にありさえしなければ。








 歌う事が、好きだった。
 ずっと昔に積み上げられることを失くした両親の思い出。色濃く残るのは並んで座る二人の笑顔。
 父様も母様も、ずっと優しい顔で聞いてくれて、歌い終わるといつも褒めてくれて、次は何の歌かと心待ちにしてくれていた。
 時折、一緒にも歌った。母様はすごく綺麗な声だったけど、父様は下手っぴで、調子はずれな声を出すたびに母様と二人で笑い、父様はむつかしい顔をして音 程を真似ていた。
 とても子どもが学ぶようなモノじゃない難しい勉強も、歌を歌いながらだと楽しかった。
 歌う事が、幸せだった。
 
 ある日、母様が殺された。御巫の一族が母様の喉笛を抉り、引き千切った。
 私は母様の白い肌と白い着物が、血で赤く染まっていくのを呆然と見ていた。
 御巫の一族は血の滴る母様の喉を掴んだまま、声にならない声をあげる私を押さえつけ、口を塞ぎ、喉を引き裂き、そして母様から抉り出した喉をぶち込ん だ。
 泣き喚く私の声は、母様と一緒に歌い重ねた声になっていた。
 狂い捩れてしまいそうな激情。
 いっそ狂えてしまえば良かったのに、御巫の一族はそれを許さず、脳髄に刻み付けるようにお前はヒトではないのだという言葉を送り込む。
 この身体と手は母様と自分の血で真っ赤で真っ赤。目を瞑っても赤い。耳を塞いでもヒトではないと言う声。やめてと叫べば死んだ母の声。
 
 私はその日、その日までにあった私の全てを失い、真言という魔術と、根源へ至る道を得た。






「――……」
 目を覚ます。気分はすこぶる最悪。辺り構わず叩き壊したい衝動に駆られる。
 だが、それは後回し。先に周囲を確認する。ベッドの上には沙夜はいない。着物もない。ベッドがまだ温かいから、沙夜が去ってからそう時間は経っていな い。
「――――」
 リンク、魔力の糸を手繰って沙夜の場所を辿る。数秒としないうちに掴めた。郊外を移動中だ。行き先は自宅だろうか。空間転移しないところをみると、おそ らく敵に占拠されて結界を逆転させられているのだろう。
「……すーっ、はーっ」
 怒りを抑えるため、深呼吸する。沙夜とのリンクが切断されず残っていたせいで胸糞悪いモノを見てしまった。唾を吐き捨てたい気持ちに駆られながら、もし もの場合に備えて赤い外套を纏い、魔術の装具を用意する。そして急いで部屋を出て沙夜を追いかける。
「ばか」
 そこでどうにも抑え切れなくなって、悪態を吐いた。
「助けてって、言えよ」



















Light/Night




王と復讐人





















 ブツリと。
 頭の中で、何かが切れた音がした。
「…………あ」
 間の抜けた声が遠くから聞こえる。視界は妙に薄暗くてぼやけている。すぐ近くにいぐさで編まれた壁がある。
 自分が畳の上に横たわっていると気付いたのは、少し後。そしてようやく、沙夜と繋がっていた回線が切断されたのだと理解する。
「な、が」
 何が起きた、という言葉を口にしたはずなのに、舌が回っていなかった。急激な感覚の喪失のせいだろうか、回線が未接続のとき以上に身体が動かない。意識 の上では既に立ち上がっているのに、どうやら身体はようやく腕が動き始めたところらしい。
「こ、ポンコ、め」
 音の出ない舌打ちをしてから、アキトは数分かけて身体を起こした。それだけでまるで何qも走ってきたかのような疲労感を感じて折れそうになったが、アキ トは気を振り絞って辺りを見回した。
 視界は異様に薄暗い。まだ昼過ぎのはずなのに、これでは夕闇の中のようだ。それでも目を凝らしていると、どうにか視力自体は機能しているらしいというこ とは分かった。だが、やはり光への感覚、そして距離感がまるでない。これでは見えていてもあまり意味がない。まっすぐ歩くのも難しいだろう。
 身体を動かしてみる。指はほとんど動かない。かろうじて拳を握り、そして開けることはできた。机の上の湯飲みを掴もうとして、3回目にようやく掴めた が、手から抜け落ちた。握力はほとんどない。
 関節も思うように曲がらない。サポーターを強力にしたものを付けているみたいだ。曲げても筋力の調節がうまくいかずに固定できない。
「……ちっ」
 やはり神経系がボロボロのようだ。ナノマシンプログラムが壊れていて誤動作を起こし、情報の伝達にノイズが混入している。今までは沙夜の魔術によって、 神経が得た感覚を直接脳に伝送し、また直接指令を伝送することでどうにかしていたが、彼女の意識が途絶えたからか魔術が効力を失った。そして、今までナノ マシンを無視して動いていた身体が急激にナノマシンを必要としたことで、身体のあちこちでナノマシンが暴走しだしている。もしこの状態をコミュニケにモニ タリングできるとしたら、きっとディスプレイには視認できないほど矢継ぎ早にエラーメッセージが表示され、赤く点滅していることだろう。
 こちらからの入力ができない、自律プログラムの悪循環。本当ならば元の時代でそうしていたように、外部からの調整と統制が必要だ。たとえばそう、ラピス によるリンクのような。
「……まじゅ、ダメ、か」
 やはり魔術では、根本的な解決はできない。なぜなら魔術では直接的にはナノマシンの統制はできない。御巫の魔術と科学の併用はあくまでマクロな現象レベ ルでの併用であり、ミクロな理学レベルでの、数式めいたものまでの融合はできないのだ。そもそも、魔術と科学は向いている方向が違う。アートの世界を量子 論で語るようなもの。相容れることを前提としていない。
 それでも、ナノマシンが全身に張り巡らされた、魔術回路とやらがほとんど存在しないこの身体に魔力を流し込んで魔術で制御していたのだから、沙夜の技術 は一流だった。綱渡り的な魔術を日常的に使っていた彼女の能力は疑うべくもない。
 実際、こんな緊急時に備えて、ひとつの対応策を作ってくれている。
「…………ふーっ」
   アキトはそうやって大きく息を吐く。そして足を組む。その上で不格好に指を組む。座禅を組んで、ゆっくりと目を閉じる。呼吸を落ち着かせ、一定のリズム を意識しながら、IFSを起動させるようなイメージを頭の中で描く。身体の中で、血の流れが循環するイメージを描く。
 すると、ナノマシンが反応しだしたのか、あるいは別の何かのせいか。しだいに身体が熱を帯びるのを感じ始める。血が巡り、それ以外の何かが巡り。その感 覚がナノマシンの発光現象に近いところまでになると、アキトはゆっくりと、確実にその言葉を発音した。
一なる世界(ウーヌス・ムンドゥス)
 それは、起動キー。アキトの治療を兼ねて、沙夜がアキトの全身に細胞レベルで幾千幾万と刻み込んだ、ナノマシン統制陣の起動を命令するもの。陣は詠唱に 呼応し、自発的に効力を発揮し始める。アキトの感覚を鋭敏化させ、それと共に、まるで壊死寸前まで止められていた血流が急激に解放されたかのような痛みと 痺れを四肢の指先へと走らせていく。
「……ぐ、ぁ」
 否、もっと酷い。血管の中を電気が流れているような痛みと痺れだ。だがそれも当然、ナノマシンという科学を魔術、しかも陣という自律システムによって統 制しているのだ。現象レベルの見かけだけ上手くいっているそれは、実質強引で無理矢理で弊害だらけ。まるで無数の針が内側から生えてきているようで、アキ トの身体を十二分に痛めつける。
「……っ!」
 アキトはそれを顔をしかめながらなんとか耐えつつ、組んだ指と足を解いた。そして、歯を食いしばり、痛む身体をおして立ち上がる。
「状況の、把握を…………沙夜ちゃんは無事、なのか」
 意識も虚ろなまま、アキトは不確かな足取りで部屋の外に出る。今度は鋭敏すぎる感覚が鬱陶しい。庭園から反射してくる太陽光は目を焼くようにまぶしく、 布ずれはささくれ立っているかのように痛く、空気の流れがぞわぞわと肌を撫で上げる。狂いそうな刺激に気を失いかけながら、アキトは自室に辿り着き、ロー テーブルに無造作に置いてあった銃を手に取った。そして、いつにない手際のよさで弾丸を込めていく。鋭敏な神経が、まるでこの身体自体がIFSで動くロ ボットであるかのように、思い描く通りに手や指を動かしていく。
 数秒で弾込めを終えたアキトは、他にいくつかの装備をした後、銃を持った腕をだらりと下げて部屋の外へと向かった。
「――――」
 つと、得も知れぬ嫌悪感が脳裏を駆け巡った。次いで、空気がぐらりと歪み、頭の中で警鐘が鳴る。
「――――侵入者か」
 沙夜が相当に手の込んだ結界を展開していたはずだが、どうやら無効化されたようだ。魔術はよく分からないが、相手は余程の実力者に違いないだろう。それ にこのタイミングを考えると、相手は燕穣である可能性がある。彼なら御巫の結界を突破するのはそう難しくはないはずだから。
 アキトは迎撃に有利な位置へ移動しようと、痛み痺れる体で自室から廊下に出た。そのまま急ぎ庭園に面した渡りを駆け抜け、角を曲がる。すると、
「久しぶりですね」
 凛と響く鈴のような声。しかしそれでいて、背に腹にと冷や汗を流させるその声。アキトの向かう方向の先には、青いドレスを身に纏ったセイバーが立ってい た。
「……ああ、確かに。久しぶりだな」
 アキトは努めて平坦にそう言った。そして、突然の出来事への動揺を気取られまいと、平静を保とうとした。
 だが、その必要はなかった。なぜだろうか、妙に心が落ち着いている。研ぎ澄まされていく集中と思考。穏やかながら猛々しい昂揚感。コレに似た感覚は覚え があるが、しかしどこで得たのだろう。ひどく違和感を感じる。
「ええ。貴方は私達の前に急に現れて、挨拶もまともにしないまま私の剣から逃れ、そして結局それきりでしたから」
「悪かったと思っているさ。できればテーブルについて、お茶でも飲みながらゆっくり話をしたかった」
「……そうですね。もっとも、今となってはそれも遅いのですが」
 穏やかなようで、射抜くような聖緑の瞳。先日のような鎧は着込んでいない。油断や手加減とは無縁そうな彼女が武装をしていないことにアキトは何か引っか かるものがあったが、まぁ、実際不要なのだろうと結論づけた。一対一で、ただの銃の弾丸などに彼女が当たるものか。こと彼女に至っては、額に銃口を突きつ けていても当たる保証などないのだから。
(さて……どうするか)
 痛みと痺れで腕は震えている。照準を合わすだけでも呆れるほどの苦労だという状況なのに、よりにもよってこの少女。たとえ万全の状態であっても、ブラッ クサレナにでも乗っていないと戦いにすらなりそうもない相手で――――
 ――――いやまったく、なんてひどい話だろう。ブラックサレナに乗っていないとだとか、そんなことはありえないはずなのであるが。本当に、この少女と相 対していると、そのそんなことがすべて真実になってしまいそうな気がしてくる。それだけの雰囲気を彼女は纏っている。
(いずれにせよ、圧倒的な戦力差があることには変わりない……)
 しかし、だからといって無抵抗にされるがままというわけにはいかない。それに何も彼女を倒す必要などないのだ。ひとまず逃れられれば、それでいい。
 アキトはそう考えて――――そこでようやく、気付いた。この不思議な心理状態。研ぎ澄まされた集中力と思考、穏やかながら猛々しい昂揚感の正体。
 そう、これは戦いの空気なのだと。
(なんだ。1年のブランクでさえ、こんなにも)
 違和感の正体。1年のブランクがあっても、まるで昨日の今日まで戦っていたかのような違和感の無さという違和感。銃を握る力を無意識に強め、アキトは自 分の戦いへの適性に辟易する。なぜ、運命はこの適性をを与え、望む料理の才能は凡庸にして、なお味覚さえ奪ったのだろうか。その上で妻をも奪うだなんて。
 あまりにひどい筋書きである。この適性を活かす機会ばかりが巡ってくる、とんでもない物語。
「…………」
 わずかに腰を落としたアキトの様子に諦めがないことを理解したのか、セイバーは言った。
「手荒は好みません。……それに、あるいはおとなしく来ていただいた方が双方の為になるのかもしれません」 「それがどういう意味なのかは知らないが」
 アキトは銃口を向け、言った。
「今ここで君に降りる理由にはならない」
「……残念です」
 引き鉄が引かれ、銃弾は飛ぶ。亜音速で空気を切り裂いてセイバーの眉間に迫らんとするその弾丸は、当たらず、通り過ぎて発生した空気のうねりだけが、セ イバーの金砂の髪の先に少し触れた。
 銃口からセイバーまでの距離は十メートル余り。ゼロコンマの時間で到達する弾丸を楽に回避されたが、アキトに感動はない。そのくらいはする相手だと認識 している。アキトは続き、2発目を撃ち、そのまま後ろへと全速力で駆け出した。
「はッ……!」
 即座に強烈な圧迫感が追ってくる。それこそ弾丸のような速度で飛ぶが如く。あるいは本当に、跳躍力に任せて飛んでいるのかもしれない。アキトは走りなが ら振り向き、ろくに狙いもつけずに3発目を撃った。弾丸はほとんど目の前まで肉薄していたセイバーの左胸に迫る。相対速度と距離を考えれば、人間であれば 必中のそれを、セイバーはかるく身をひねって回避した。かすりもしていないし、過分な回避行動も取っていない。完全に見切られている。当たればこの華奢な 少女の骨など砕けそうなものなのに、現実は機関銃でさえ不足している。
「……ッ!」
 身体が自動的に、腰に備えた朱塗りの鞘から、逆手で短刀を引き抜いた。引き抜き構えようとする途中で、鍔口に火花が散るような音と、腕がもげそうな衝撃 が走る。浮わつく身体を押し留めると、袖がぱっくりと斬り裂かれていると気付いた。腕も斬られたかまでは確認できない。持っているはずの見えないらしい 剣、そしてその鋭すぎる剣筋。ほんの一瞬でも短刀を引き抜くのが遅れていれば、柄に剣が走り、指と手ごと斬り落とされていたとだけ直感した。
 息継ぐ暇もなく、次の剣閃が走る。弾丸のような刃。意識より先に防衛本能が働き、感覚だけで短刀で弾いた。火花と衝撃を得た頃に、ようやく意識が追いつ いてくる。その時には次の剣を弾いていた。戦いに触発された本能と実意識との垣根は、広く深くなっていく。やはりブランクはブランクだった。再びの戦いの 空気に馴染みきれていない意識が、ついていけずに混乱している。その奥で、染み付いた深層意識がブランクなく防衛をしている。
 なおも迫り続ける剣閃。何度も首や腕が斬り落とされたような感覚に襲われながら、反射神経の限界域で危うく防ぎ続ける。
 彼女の剣に手加減はない。おそらく生け捕りのつもりではあるのだろうが、それも殺さなければいいだけの話。傷つけても浅くさえあれば一応は死なないのだ から、振るう剣閃は亜音速の閃光。しかし、踏み込みが浅いために、おそらく彼女の間合いは本来のそれに比べてわずかに遠い。故に刃の到達まで小さなラグが 生じ、彼女の挙動が見えやすい。 アキトはそのわずかによって首の皮一枚繋いでいた。
「……ッ。ッ、ッ、ッッッ!」
 ゼロコンマの間隔で響く剣戟。彼女本来の間合いであればとうに勝負は付いている。
「はぁぁぁぁッ!」
 気合と共に、裂帛の一撃が振るわれる。重心で構えた短刀に打ちつけられ、アキトの足は地から浮き、数メートルほど後ろまで浮かされて飛ばされた。
「ぬ……ぐっ!」
 あまりの勢いに、接地した足はその場に留まれず、地面をこすりながら後退してしまう。鋭敏な感覚が、摩擦熱で帯びた熱の感覚を靴底から感じ取っている。 笑う膝でどうにか踏み止まったが、腕どころか全身が痺れ、身体が硬直していた。その最悪の隙にアキトは肝を凍らしたが、しかしセイバーは剣を下げ、足を止 めた。
「小振りですが、いい剣ですね」
 素直な表情で、セイバーはそう言った。
「これほど打ちつけても、折れたり曲がったりするどころか、刃のひとかけらも欠けていない。不思議なものです、刀身はまるで芸術品であるかのような見事な 様を誇っているというのに、刃は鋭く、刃金は硬い。……以前、私はそれと同じ造りの剣を持つ剣客と手合わせをした事がありますが、その時も主の刃として最 後まで美しくありました」
「……沙夜ちゃんが預けてくれた護身刀だ。彼女は幾振りか大業物の刀を所持しているが、これはその中でも随一の代物らしくてね」
「なるほど。孕む魔力は弱いと見ましたが、元が既に宝具の域の魔術礼装では仕方がない。安易に武器破壊を期待するのは無駄なようですね」
 その何気ない言葉に、アキトは確信を得る。やはり彼女は全力とは程遠い。どういう理由かは定かではないが、手加減こそしていないものの本気で打ち倒す気 はまるでないようだ。
(この手加減は不可解だ。シロウ君達が動いたのとは違うのか?)
 否、今は詮索の必要はない。そもそも手加減していようが、そんな余裕など持てる相手ではないのだ。刹那の後に斬り伏せられていても全くおかしくない相 手、ただ今は彼女から逃れ、現状を脱出できさえすればいい。
(手元にC.C.がないのが失策だな)
 銃の装備や侵入者の確認より、まずはC.C.の保管場所に行くべきだった。現在とある手段で少しずつ採取していて貯蔵量は数回分しかないが、それだけで もずい分なアドバンテージになっていたはず。銃が単純に通じない相手というものが存在する以上、アキトのいた時代とこの魔術師達の戦いとでは勝手が違うの だと、アキトは改めて認識した。
(さて、どうするか……)
 意識と注意の大半を彼女へ向けたまま維持しつつ、アキトは手持ちの装備と状況を分析する。銃器は手持ちの一丁のみ。現装弾数は3発、残弾数は12発。距 離は10メートル程度。十二分だ。彼女が相手でさえなければ。
(そもそも、沙夜ちゃんですら相手にできない相手か) 
 アキトは一度、沙夜に尋ねたことがあった。魔術の腕前は魔法に近く、振るう刀は水薙ぎの腕前の沙夜でも、セイバーを相手にできないのかと。
 彼女は無理だと答えた。彼女の対魔力は尋常ではなく、剣の腕前も尋常ではなく、現代の魔術師や剣士では彼女に傷一つ付けられないと。
 では打つ手がないのかと言うと、まったくそうでもないのだと彼女は言った。彼女の対魔力は攻性魔術に効力を持つものであるから、攻性魔術でなければ彼女 に届く。英霊と言われる彼女であっても、その身は肉なのだと。
(試して、みるか)
 元より他の手立てはない。今手持ちのもので魔術師達や彼女が対応出来ないかもしれないあるとすれば、これしかないだろう。
 アキトは腰に備え付けていたそれを手に掴み、セイバーは意を感じたのかその動作とほぼ同時に身構えた。
「テンカワアキト」
 アキトの行動に釘を打つかのように、セイバーは言った。だが、語調に敵意は少ない。
「ひとつ、聞かせてもらえませんか」
「……なんだ」
 アキトは警戒を緩めず、聞き返した。
「あなたは、何なのですか?」
「……えらく、抽象的な問いだな」
 アキトが息をつくと、セイバーはくすりと笑った。
「すみません。貴方は、多くを尋ねたり、強く問い詰めたりすると口を閉ざしてしまいそうに見えたものですから」
 的を得ているかもしれないな、とアキトは内心で思いながら、尋ね返した。
「なぜ、そんなことを聞く?」
「さぁ……私にも分からないのです。貴方と会ったのはたった一度きり、それも一瞬でろくに言葉も交わさなかったというのに。……あるいは私が以前行動を共 にしていた切嗣という……シロウの父君にあたる方ですが、彼にどこか似ているという印象があったからか。それとも私個人が、貴方になにかしらの興味を抱い ているのか」
「光栄なことだ」
 アキトは肩をすくめる。
「まぁ……状況的には君と同じだから、なのかもな」
「同じ?」
「時間を超えて、この時代にいるということさ」
 セイバーの顔に、わずかな動揺が走る。
「……未来から、ですか」
「ご名答。よく分かるな」
「前例を知っていますし……何より、御巫という古い家が、急速に科学の力を得たとなればそう考えるのが自然でしょう」
 アキトは一瞬首を傾げそうになったが、ああ彼女らは御巫の実体を知らないのかと思い当たった。
「……俺がこの時代に来たのは事故による偶然だ。もっとも、あの子の実験に誘導される形ではあったのかも知れないが……ともかく来てしまったが、俺には元 の時代に帰る手立てがなくてね。それで時間跳躍の研究をしていた沙夜ちゃんと利害が一致した、というわけだ」
 そう言うと、セイバーは少し押し黙ってから、言葉を選ぶようにして、また尋ねた。
「あのときに見ただけですが、私には二人が利害の一致だけという関係には見えませんでしたが」
 よく見ているな、とアキトは感服しながら、少し返答に窮する。
「そう、だな……懐かれてはいるらしい。いや、全く、無責任な約束をしたせいだな」
「約束?」
「あの子は、初めて会ったときはそれはもう酷くてね。今でこそ身の回りのことは人並み以上にやっているが、あの頃は研究に没頭するあまりかなり擦り切れて いた。あの才能だ、研究が留まるということがなかったせいもあったんだろうが……初めて会ったときの、あのとても深い色をした瞳は、今でも印象に残ってい る」
 おそらく、復讐に明け暮れていたときの自分もそんな瞳をしていたんだろうなと、アキトは今さらながら思い至った。何もかも奪われた自分にできるたった一 つのことと思い込んでいたときの瞳。
「あの年頃の娘がその様というのは見てられなかった。だからちょっと強引に連れだして、ある場所へと連れて行った。それが思った以上にあの子の心に響いた みたいでね、今は君も知っているとおりの様子になっているよ」
「……その場所とは、どこなのですか?」
 アキトは笑って、まっすぐ上を指差した。つられてセイバーの視線も少しばかり宙を泳ぐ。
「宇宙」
 そう言った瞬間、アキトは即座に腰に装着していた手の平で覆えるほどのサイズの楕円形のものを、セイバー目掛けて放り投げた。そして、すぐさま後ろを向 き、両手で両耳を塞ぎ、目を閉じながら全力疾走をした。
「――な」
 ほんのわずかとはいえ、気を取られていたセイバーの初動が鈍り、対応に遅れる。アキトが導き出したその決定的な瞬間に、放り投げられたそれは、弾けた。
「――――」
 耳をつんざく大音響と、世界が白む閃光。そして大量に拡散された、感覚器を機能不全に陥らせるナノマシンの煙。
 それはナノマシン入りの閃光弾。状況判断の不能といった生易しいものではない、ショック状態を引き起こし意識を奪う対人兵器。故に、この魔力を帯びない 単純な物理現象を前に彼女の圧倒的な対魔力はその効果を発揮しない。そしてこんな装備を知らず、ただでさえ感覚が鋭い彼女はモロに効果を受ける。
 だが、あくまで一次的なものだ。常人でも十数秒、彼女なら数秒で回復するだろう。しかし、そのわずかな時間と、彼女の未来の兵器への未知が決定的な機会 を生む。
「――――ッ!」
   アキトは防御しきれなかった閃光弾の影響にくらくらとしながら、しかしひたすらに駆け抜ける。振り返って彼女を確認することはしない。視覚、聴覚、嗅 覚、触覚が奪われた状態であっても、彼女には勝てない。あからさまな敵意を向ければ、それだけでも十分反応して迎え撃つだろう。
 彼女を倒す必要はない。否、彼女を倒すことなどできない。
「――――は」
 走る。彼女は来ているか。分からない。走れ。首を曲げるロスすら惜しい。
 後ろから強烈な気配が迫っている。否、違う、これは気のせいだ。彼女はまだ来ていない。
「――――ッ!」
 来ているか。来ていないのか。瞬きした後に斬られているのではないのか。
 息をする時間も惜しい。まるで深層の海にいるようだ。息が苦しい。身体が重い。
「……はッ、は、……はぁ」
 極度の強迫感に息絶え絶えになりながら、アキトは蔵に辿り着き、中に入った。高天井の上方に設置された窓から射し込む陽が、薄暗い蔵に一条の光を招いて いて、その光の中で埃が舞っているのが見える。
「チューリップ、クリスタルは……!?」
 蔵の管理は沙夜の、と言うより大抵のことは沙夜の仕事だ。アキトはここにあるのは知っているが、ここのどこにあるのかまでは知らない。もっとも、沙夜は アキトの身体のことを理解しているし、気の利く沙夜のことだから分かりやすいところに置いているはずではある。
 アキトは急に暗くなったせいで眉をひそめ、薄暗さに目を慣らせながら、ぐるりと見回した。すると、戸棚に青い結晶体が置いてあるのが見えた。
「あった――!」
 腕を伸ばす。そこで、つと。アキトの背筋に寒気が走った。無意識的に振り返ると、そこには白い百合の花の紋様が縫いつけられた黒染めの着物を身に纏った 男の姿。後頭部で結われた長い黒髪は流れ、斜めに屈んだ状態の腰には白木の鞘と、柄との間に覗く刃。
「燕穣――」
 完全に虚を突かれ、反応も出来ぬまま、放たれた刃は身体を斬って通っていく。刃の通った軌跡は熱を帯び、そして強烈な痛覚と共に、血を噴き出す。
「――悟郎」
 アキトは膝もつけず、崩れ落ちる。燕穣はその姿を見下ろしながら、黙って刀を振って血を飛ばし、紙片で刃の血を拭き取った。その数拍の後、セイバーが蔵 の中に頼りない足取りで駆け込んできた。
「げほっ、がっ……げほっ」
 ナノマシンの影響が抜け切らないのか、セイバーは咳き込み、目は涙目で呼吸音は異音を出している。それでも、セイバーはアキトの姿と燕穣を確認し、言っ た
「斬っ……た、げほっ、のです、か」
「ああ。騎士王殿から見ればお遊戯程度だろうが、抜刀術にはそこそこの自信がある。と言うより、そうでもしなければ空間跳躍などやってられんが」
 燕穣は刀を鞘に納める。納刀の音はしない。やはり相当の達人なのだとセイバーは思った。
「……残念か?」
 燕穣が朗らかに微笑みながら尋ねてきた。
「無礼な、私を狂戦士とでも思っているのですか。……げほっ、獲物を取られて憤るとでも?」
「いいや、まさか。単に、貴女が彼に興味を持っていたようだったから、無傷で捕えたかったのではないのかな、と」
 セイバーは今の自分の失態にわずかに赤面しながら、憮然な表情で首を振る。
「そんな感傷など、ありません。……そんなことより、凛の安全は確かなのでしょうね」
「当然だ。といっても、私の身に問題がなく、あのお嬢さんが暴れていなければの条件付きだが」
 卑怯な男だ、と目で語っているセイバーに、燕穣は肩をすくめた。
「そうでもなければ、貴女を前になどできない」
 それから、燕穣はアキトの方へ向かい、おもむろに宙を漂っていたアキトの手を弾いた。
「…………っが」
「ふふ、なんて男だ。まだ逃れようとしている」
 アキトの手はC.C.へと向けられていた。致命傷ではないものの、相当な失血をしているというのに瞳からは意思の光が消えていない。今もなお、どうにか 起き上がろうと動かない身体でもがいている。
「……ぐ、……おォ」
 それはまるで羽をもがれた羽虫のような、見るに耐えない、見っとも無い姿。惨めで情けない醜態。しかし、燕穣は、血塗れで足掻くそんなアキトの姿に敬意 を抱きながら、真摯な表情でつぶやいた。
「人の執念…………」






 薄暗い空間の中で、三人が十字架に磔にされていた。セイバーとアキト、そしてやや離れた場所に凛。古びた石灯篭の灯りは薄暗く、セイバーやアキトからで は凛の姿も見えない。
 ここはどうやら沙夜の家の地下空洞らしい。空気の流れから、部屋と言うには相当広い空間であることは分かるが、何分暗くて詳細は掴めない。
「凛、 外せそうですか?」
 セイバーは少々肌寒い空気に身を震わせながら、やや遠い場所の凛に尋ねた。
「ダメね、ちょっと外せそうにない。……まったく、やってくれるわ。こんなものでセイバーを封じるなんて」
 呆れ半分、感心半分の面持ちで凛はつぶやいた。凛を拘束しているのはどこにでもあるような延縄だ。魔術的な措置はほとんど何も取られていない。だから、 やろうと思えば今すぐにでも切断できる。
 だが、それをやっては困る事があった。十字架に付けられている配線の先に、あからさまなまでに爆弾と分かるものが取り付けられているのだ。
 何のひねりも無い、見たままの仕掛け。十字架から離れたらアウト。だがこれが皮肉にも、どんな高度な魔術的な拘束具より効果がある。
「御巫の一族ってのはホント、科学と魔術の間に垣根がないのね」
 凛はそう愚痴って、暗闇に慣れてきた目を凝らして周囲を見る。床や壁面にはかなり大規模な魔術陣が複数個描かれているようだ。そして、よくは分からない がそれぞれの周囲に大きな金属質のものがある。かなり大掛かりで精密な機械が並んでいるらしい。
 それに、セイバーとアキトには爆弾のコード以外にも、多数のコードが絡められているらしい。名の通った魔術師の旧家の人間が英霊を相手に、よくもこんな ことが出来る。
「……貴方はどうですか。こういった類は貴方の方が理解しやすいでしょう、テンカワアキト」
 セイバーはすぐ近く、真横で同じく十字に磔にされているテンカワアキトに呼びかける。
「難しい、な」
 傷の影響だろうか、声が妙にゆったりとしていて重々しいとセイバーは思った。
「俺達が、スイッチに、なっているんだろう。十字架から離れたら、信号が途絶えて、爆発、といったところか。配線を切断しても、同じだろうな。やはり、誰 かに解除してもらうしか、ないんじゃないのか」
「そうですか……」
「ああもう、セイバーがいながらこんな安い手に……!」
 凛は苛立ち、地団駄を踏む。子どもみたいに暴れてみても何の解決にもならないとは分かっていても、つい声を荒げてしまう。
「大っ体なんなのよアイツ! 何がしたいわけ!? 急に横から出てきてどういうつもりよ!? てか誰なのよ!?」
「沙夜ちゃんの、知り合いだ」
 凛が思いの丈をぶちまけていると、アキトがぽつりと言った。
「燕穣から、多少の説明はあったのかは、知らないが……沙夜ちゃんは、俺を元の時代に帰そうとしてくれていた。だが、それと同時に、燕穣を止めたいと思っ ていた。シロウ君と接触を図った理由は、実は後者の方が大きい。彼の……固有結界? とやらは、燕穣に対抗するには、都合がいいらしい」
「沙夜は燕穣の何を止め……というか、これは一体何をする為のものなのよ?」
「魔術は分からん。沙夜ちゃんは、リインカーネーションがどうのと、言っていたが」
「……転生の儀? セイバーを利用して、いえ、魔力だけでも……」
 凛は色々と考えてはみるが、結論は出ない。そもそも方向性が逆の魔術と機械を組み合わせるというだけでも気が遠くなるような術式だ。それをこんな、大掛 かりな魔術陣に機械群だなんて、色んな意味で正気の沙汰じゃない。
「まぁ、でも……なるほどね、わたし達にとってはあんた達との問題だったつもりだったけど、本当は沙夜と燕穣の問題で、わたし達は使える駒として双方にい い感じに巻き込まれたわけか。士郎は沙夜側、セイバーは燕穣側。わたしはどっちにとっても、言うことを聞かせるための人質扱い」
「そう、不貞腐れるな。君とは、相性が悪すぎただけだ。……あと、少なくとも、沙夜ちゃんは巻き込みたくはないと、思っていた。結果的に、そのせいで後手 に回って、してやられたが……。幸い、燕穣は沙夜ちゃんとシロウ君を、捨て置いたらしい。まだ、望みはある」
「……そういえば、どうして士郎が必要だったの? 確かに士郎のアレは異質だけど、単純な戦闘能力ならセイバーの方が比べるまでもなく上よ?」
「さぁな……魔術はさっぱりだ」
「ふーん……」
 会話が途切れ、静寂が場を支配する。時折水滴が地を打つ音だけがその邪魔をしていて、水源が近いのかなと凛はふと上を見上げた。
(……綺麗、ね)
 石灯篭の明かりが照り返しているのか、天井に付着している水滴が光を反射して綺麗だ。いくつもの水滴が光を反射して、少々チープではあるがプラネタリウ ムのように見える。
 凛は天然プラネタリウムを見上げているうちに、眠気がさしてきて欠伸をしかけるのを思わず噛み締め、ぶんぶんと頭を振る。
(いけない、いけない)
 正確な時間は分からないが、拉致られてからかなり時間が経っている。どうやら気力、体力共にかなり削られてきているらしい。
 思考を止めては寝てしまうと思い、凛は何か別のことを考えることにした。
(今、士郎と沙夜がこっち向かってる……のよね?)
 今回の件はちょっと関係が複雑だけど、士郎は沙夜に甘々っていうか無闇に信じている。沙夜はどうみても士郎のこと好きだし、元から素直な子だ、多分協力 するだろう。
 もっとも、沙夜はこと誰かを巻き込むとなると頑固なようだ。少し揉めるかもしれない。だが、残念ながら居合わせているのは、そんな沙夜と同じかそれ以上 に魔術師に向かないばかちんだ。しかもあっちは手の付けようもないほど頑固なのである。根っこの優しい沙夜にあれの頑固さを打ち崩せるわけがない。有耶無 耶なまま、士郎が強引に沙夜の味方をするだろう。
(……でも)
 遅い。いったい何をやっているのか。正確な時間は分からないが、もう半日近くは経っていて、夜もとっくに更けているはず。沙夜はセイバーに眠らされては いたが、それにしたって遅すぎる。ここまでそうはからないはずなのに。
 なにかいざこざでも起こしたのだろうか。
(…………むぅ)
 というか、なんか嫌なシチュエーションだ。緊迫状況で男女二人っきり。鍵となるのは士郎の固有結界。とってもデジャヴ。
(2年前のわたしと士郎じゃないの)
 しかもまずいことに沙夜は士郎にベタ惚れで、沙夜はやったらめったら可愛らしい。その上、武を知るが故か、背はちっこいくせに姿勢とか立ち振舞いが良す ぎてやたら人目を惹きつける。14歳でそれなのだから、成人すればどう考えても美人になる。
(まぁ士郎はにぶちんだし、年下に反応する趣味は特になかったはずだけど。士郎ってさりげなくケダモノだし、沙夜は沙夜でたまーに頭のよさを一切合財無駄 にしてそのときの勢いで行動するときがあるからなぁ)
 ああ見えてちょこちょこ失敗する子だし、気が動転してると思慮が足りなくなる。それはまだまだ幼いからだが、だからこそ心配だ。気が逸ってヘンなことに なっていやしないだろうか。
(…………ちょっと疲れてきてるわね)
 ヘンなことになっているのは自分の方だ。そう思い、凛は目を閉じて大きく息を吐いた。
 そうして気を緩めてしまったからか。凛は、浅い眠りに陥っていった。




  「……すー……すぅ」
 セイバーは小さく聞こえてくる凛の寝息を聞いて、凛が寝たことを知る。
 半日以上ずっとこの状況だったのだ、体力的にも精神的にも限界が来るのも無理からぬことだろうと思う。それに、現状無理して起きている必要はない。こう いった状況で体を休められる大胆さというのも必要なことだ。
(だがこの男。ただの人間にしてはずい分と……)
 セイバーは、横にいるアキトの顔を見る。第四次聖杯戦争にて自らのマスターであった、衛宮切嗣と似ているという感触を得た人物。何らかの魔術的な加護を 受けていたようだったが、それを差し引いても普通の人間の身のこなし方ではなかった。明らかに一級の師から手ほどきを受けた、無駄を極力減らした身体の使 い方。そして常に冷静に働く機転と、窮地にあっても話術で注意を逸らせてみせた豪胆さ。これらは一朝一夕で身に付くものではない。相応の血を滲ませたこと だろう。
 だが、こうして見ていても、そんな彼がどう切嗣と似ているのかと言われると、返答に窮する。年は切嗣の方が上だろう。目つきも顔つきもそう似ているとは 思えない。
(似ているのは、クセッ毛くらい――)
「どうか、したか」
 急に声をかけられて、セイバーはドキリとする。魅入ってしまっていたらしい。敵地で囚われの身だというのに悠長すぎたと自戒する。
「いえ、なにも。……いいえ」
 否定して、また否定する。そして次の言葉を、特に考えることをせずに口から放つ。
「貴方は……元の時代では、何をしていたのですか?」
 どうしてそんなことを訊こうと思ったのか、自分でも分からない。剣を合わせたときに、ちゃんとした答えをもらっていなかったからだろうか。
「なぜ、そんなことを訊く」
 尋ね返されて、セイバーは少し押し黙る。今度は少し言葉を選ぶように逡巡してから、答えた。
「先日凛を捕らえたときや、私と剣を合わせたときの手並みもそうですが、このような状況になってもやけに落ち着いている。それが……いえ」
 以前にも思ったように、この男はあまり自分のことについて触れられたがらないような雰囲気がある。それにこの期に及んでの話なのだ、回りくどく言うのも おかしい気がして、セイバーは言葉を選ぶのを止めて、率直に言った。
「貴方の中に、酷く澱んだ昏いモノが見える」
 アキトからの返答はない。近くにいるのに薄闇の中に黒衣が溶け込んで、そこにいるのかも曖昧。唯一見える顔の肌色も、一緒に闇に溶け込んでしまいそう だ。
 だが、その気配だけは強く強く、その存在を語りかける。闇の中にあって、なお激しい闇。
「まるで宵闇の中で燃え滾る業火だ。私もそれなりに人間を見てきたつもりでしたが……これほど昏く、静かで、しかし猛々しくて爆発する臨界を保っているよ うな人間はそうはいなかった」
 セイバーは言い得もしれぬ妙な感情が、自分の中にあると気付く。だが、それがどういったものなのかはまだ分からない。
「……君が見たその人間は、どういうヤツだった?」
 少しは話す気が出たのか、何か興味を引いたのか。テンカワアキトはそう言った。
「往々にして復讐鬼です。憎悪と憤怒に満たされ、けれど自分の無力を思い知り、それを超克せんが為に自らの命を食み、そして復讐に暮れ…………貴方の中に は鬼が見える」
 だが、それはこの男とは少し違う気がする。似ているが同じではない。
 だからセイバーはもう一度、尋ねた。どうしてか、この男の心中に深入りしてみたいと思ったのも後押ししていた。
「貴方は、何を……?」
 少し、そう長くはない間、静寂が降りる。セイバーはアキトから視線を外し、詮索が過ぎたかとやや下を向く。ややあって、ほんのりと明かりがついた気がし て、セイバーは明かりの方に目を向けた。
「――テロリストだ」
 アキトのその表情を見たとき、ひどく冷たいモノが心臓を打った。寒気がするほど暗く澱んだ表情。そのくせ瞳は何もかも焼き尽くしてしまいそうな激情を湛 えていて、仄かに光って――。
 明かりは、アキトの身体を血脈のように巡る光だった。
(……これは、沙夜の魔術?)
 だが魔力が感じられない。見た目には魔術回路が浮き出ているようにも見えるが、魔力を感じられないのだから違うのだろう。感情の吐露と共に発動したよう にも見えたが、正体は分からない。
「……人を?」
「ああ、殺した。間接的なものを含めれば、……何百人か」
「な――――」
 喉が、詰まる。なんという数の人間なのか。
 戦に明け暮れていた時代であっても、普通の将兵では生涯かけても至らない数だ。こちらの時代でも、おそらくは未来でもそうはないだろう。
 テロリストとアキトは言った。目的や動機は様々だが、概して無関係の人間を巻き込む者という意味を暗に含む。この男は、いったいどういう理由でそれだけ の人を殺したのか。
「理由は大切な人を救いだす為。そして俺から何もかもを奪っていった奴らへの復讐」
 なぜ、と問う前にアキトは答えた。
「……たったそれだけの為に、ですか」
「そうだ」
 やや責めるようなセイバーの言葉にも、アキトは臆面もなく答える。だがそれは当然なのだろう。これで挫ける程度であれば、数百もの人間は殺せない。
「後悔……は、していないのですか」
 セイバーは、興味以上の感情からアキトに尋ねた。
「後悔というのは、何に対してだ」
「何百という人間を犠牲にしたことに対して」
「……そこらの奴ならいざ知らず、戦乱の時代に生きたアーサー王からそんなことを尋ねられるとは、思わなかったな」
 アキトはため息混じりに苦笑いする。
「何が後悔だ。悔いるとすれば、方法の正誤。呪うとすれば、自分の無力さ」
「――――」
 セイバーは、ああ、と理解する。何故、自身がこの男に妙な感情を抱いていたのか。
 この男には、後悔があるのだ。自分と同じく、自分の無力さや方法の間違いを悔いている。
「私も――」
「だが、俺と君とは違う」
 しかし、アキトはそれを即座に否定した。
「……違う?」
「君のことは大体は聞き及んでいる。だが、言ったろう。俺はたった一人を助ける為、復讐の為だった。俺は君のような高潔な人物じゃない。国の為に民の為 に、そんなことで人を捨てて身を捧げるなんて高尚なこと、出来やしない。
 俺は人として、人らしく復讐にうずもれて彼女を救うんだ。愛だの何だのそんなもの、弱い心が時と共に想いを薄れさせていく。だから――――そう、一種の 麻薬さ。分かりやすい復讐心に身をやつさないと俺は俺を保てない。薄れていく彼女への想いすら復讐心に置き換えて、ようやく立っていたんだ」
 アキトは嗤う。そう、奴の言う通りだ。どれだけ鎧を纏おうと、弱い心は隠せなかった。
「だから、俺は君が求める万能の聖杯――それが仮に手に入って全てやり直せるとしても、俺はきっと君のように代役なんて願わない。俺は何度でも繰り返す。 犠牲者が多少なりとも減るだけだ。また誰かを犠牲にして、俺は復讐と共に彼女を救いだす」
「――――」
 セイバーは喉から何かが出かかっているのを押し止め、息と一緒に飲む。
 そして、嘆息する。私は、何を求めていたのだろうと。
(今さら、理解や同意でも求めたのか。なんて安っぽい――)
 英国に来て気が滅入っていたのは緩和したと思っていたが、そうでもなかったようだ。恥ずべき失態を露呈してしまった。
「そうですね。きっと、貴方と私とでは違うのでしょう。生きた時代も、境遇も、その理由も目的も」
「――だが、私とでは少し似ているのかな」
 空間に反響する第三者の声。藁草が擦れるような足音と共に、その男は姿を現した。
「燕穣、悟郎……!」
 凛の声だ。いつ起きたのだろうとセイバーは少し不安になった。
「ずい分と遅い登場ね」
「ん? ああ、まぁ……な」
「あら、妙に歯切れが悪いわね。予定外の事でも起きたのかしら? ちんたらしてると沙夜と士郎が来るわよ?」
 凛は挑戦的に言い放ったが、燕穣は意に介さず小さく口元を歪ませた。
「問題ない。来たところで何も出来ん」
「は。うちの士郎をナメてると、痛い目みるわよ?」
「はは、なら肝に銘じておこう」
 燕穣は歩みを止め、手元で何かを操作する。パチン、とスイッチを入れるような音がすると、薄闇に包まれていた空間に明かりが点いた。
「――っ」
 丸半日薄暗い場所にいたためか、目がチカチカする。数秒ほど目をぎゅっと閉じてから、ゆっくりと慣らすように開けていく。
「――なによ、これ」
 暗闇が消えて、なお残る巨大な黒。セイバーとアキトが束縛されている十字架の真後ろ、10メートル近い高さで聳え立つ黒い鎧。
「ブラックサレナだと……!?」
 驚愕に目を見開くアキトが面白かったのか、燕穣は愉快そうに笑う。
「その通り。遅れたのは、それを使った実験をしていたからでな。そこにあるということは、うまくいったようだ」
「ボソンジャンプか……!」
「沙夜がナビゲーションシステムを解析していなかったらと、内心冷や冷やしていたがな。真面目で賢い娘で助かった」
「貴様……ッ!」
 アキトは歯軋りしながら燕穣を睨みつける。激情と共に浮かび上がる、白光の下であってもありありと見て取れる光の奔流。凛はその異様に顔を強張らせた が、しかし燕穣に気丈に問う。
「アンタ、一体これを使って何をするつもりよ……?」
「沙夜から聞いていないのか。私の目的はリインカーネーション……霊魂再生。死んだ私の妻を甦らせる」
「……何を馬鹿言って」
「シュバインオーグの系譜が何を言う。出来るさ。厳密には再生ではないしな。御巫の次元跳躍、テンカワアキトのボソンジャンプ能力を併用して彼女が死ぬ直 前に飛び、彼女を彼女の擬体とすり替えるだけだ」
「……本気で言ってるの?」
「当然。だがその為には様々なファクターが必要だ。故に、アキト君には正確な時間跳躍の為に一役買って貰う。セイバー嬢にはその為に魔力を。凛嬢には…… 予想以上に魔力があるようだ、悪いが君にも魔力を捻出して貰う」
 燕穣はセイバーに歩み寄り、微笑んで言った。
「セイバー。正直、君のおかげでずい分と決行を早められた。驚嘆すべき魔力貯蔵量だ。魔術師何十人分なのだろうな。それに、君が死の直前から時間を超えて 存在しているという事実には強く勇気付けられたよ。出来得るのだとな」
「でもそれはあくまで世界による奇蹟よ。人がどうこうしてのものなんかじゃない。ましてや完全に人の業である機械を併用するだなんて……!」
「魔術と科学は単にやり口が違うだけだろう。そしてアキト君のもたらした技術ならば、最早時間を超えるのは科学で実現可能」
「結果は一緒でも、魔術と科学は根本的に違うわ」
「異なるものを結びつけるのも科学だ」
「どの口が言ってるのよ、アンタも魔術師でしょうに……!」
「魔術師だからこそ。使えるものは何だって利用してみせる」
 燕穣はセイバーの方を向き、言った。
「それがアーサー王だろうと、英霊だろうと。……私を狂っていると思うか、セイバー」
 セイバーは難しい顔をして、ゆっくり首を振った。
「……分かりません。私には、あるいは貴方を断ずる資格などないのかもしれませんから」
 ただ、少なくともとセイバーは言った。
「誰かを犠牲にして誰かを救おう。この考え方を善しとしないこともある。……それだけは、確かです」
 凛は、うつむくセイバーを見つめながら言葉を探す。彼女はいまだ迷っているのだ。士郎に止められた自分の願い。それは果たして本当に間違っていたのか。 それとも正しかったのか。
「……セイバー。君にはできれば、素直に魔力の提供をしてもらえればと思う。そうすれば君の潤沢な魔力をロスなく使うことができる。凛嬢の魔力まで食い尽 くして咎を及ぼすこともないだろう」
「ちょっ、待ちなさい、何言ってんのよあんた!? セイバーの魔力がなくなったらどうなるかくらい分かってんでしょう!?」
「私はセイバーに聞きたい」
 燕穣は凛に一瞥もくれることなく、変わらぬ真摯な表情でセイバーをただ見つめ続けている。
「セイバー……アルトリア嬢。君はこの時代においては、既に死んでいる人間だろう。それに、ここで消えても君は死ぬわけではない。過去に戻るだけだ。加え て、君が聖杯を望む限りは君は死の直前で止まったまま」
「何が言いたいのよ」
「君のこの世での生命を犠牲に、人が一人救われる。否、彼女が甦れば私とて救われる。何人も救われる。それに比べて、君がこの世で生きていて何が救われ る? 誰が救われる? 同じ死人なら、私は彼女に生きて欲しい。その為に犠牲になってくれと思うよ」
「……凄まじいまでのエゴイストね」
 吐き捨てるように凛は言う。すると、ようやく燕穣は凛に視線を向け、言った。
「そうかな……では君が……例えば、シロウ君が君の目の前で惨殺されたとしようか。将来生まれるだろう君の子でもいい。それで、君にはその子を生き返らせ る手段があり、そのための人柱がいて、ましてやそれは君と無関係の人だとして。君は望まずにいられるか?」
「その質問は卑怯よ」
「そうだろう? 卑怯な話だよ。最愛の人を目の前で惨殺されて、甦らせる術があるというのにそれを望まず、正義だ良心だ法だ何だとどうして言える。どうして言っていられ る? 仮にそんなことが言えるなら、そいつにとってその人はそれ以下に過ぎなかったということだ。そして、私にとって彼女は天秤にかける以前の存在だった」
「…………」
「私は望まずにはいられない。私も所詮は人だ、ならばどこまでも人らしく愚かしく」
 そう言って燕穣は目を閉じ、上を見上げるように顔を上げる。結った黒髪が流れる。
「私の正義を、完遂する」
 そして、目を開け、後ろを振り返る。急拵えの侵入者感知の結界に、何かが引っかかった感覚を得る。
 燕穣はどこか待ち侘びていたような表情で、つぶやいた。
「……来たか、沙夜――――そして正義の担い手」

















――――王と復讐人――――





【巫女(神子)】
 主として日本の神に仕える女性のこと。
 古代の呪術的な宗教観の元では、神の存在は特定の場所に常在する存在ではなく、そのため神を呼ぶという行為が行われていたと考えられ、自らの身体に神を 降ろす神霊の憑依の儀式が行われたとされる。これを掌る女性の登場が巫女の初発と考えられる。以降、神の言葉(神託)を得て他の者に伝えることが役割とさ れていたが、近代に入ってからは神社に於ける女性の奉仕区分として変容した。
 平安時代末期の藤原明衡の著『新猿楽記』によれば、巫女に必要な4要素「占い・神遊・寄絃・口寄」とされている。彼が実際に目撃したという巫女の神遊 (神楽)はまさしく神と舞い遊ぶ仙人のようだったと、記している。

<出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 項目:【巫女】>




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