「む、むぅ……ぬ?」
気がつけば、知らない場所に彼は居た。
周りは流動し、色が常に変化し続けている。白からピンクへ、ピンクから紫へ、紫から黄色へ、黄色から黒へ、そして黒から何とも表現しきれぬ色合いへ。
明から暗へ、暗から明へ、そしてどちらとも言えない混沌へ。無秩序にころころと、ゆらゆらと際限なく、統一性もなく変わるその景色……正直に言ってしまえば、気持ち悪いし目も疲れる。
「……はて、見知らぬ場所ですね。ここは一体どこでしょうか?」
疑問に思い、そう口に出す。
確か私はレポートの資料探しに図書館に向かっていたはずですが……、と頭に手を当て、周囲を見回しながらそう呟く。
『ここは世界のどこでもない、狭間にあたる場所』
『あなたが此処にいる理由は、図書館に向かっている途中で雷に打たれて死んだから』
物思いにふけっていると、背後から空間に直接響く様な涼やかな声が二つ聞こえた。
青年が振り向いてみると、そこには星の様に煌く銀色の髪と白い法衣を纏った女性と、朧月の様に昏い金色の髪と濃い紫の法衣を身に纏った女性の二人が立っていた。
ありふれた陳腐な表現だが、二人とも「絶世の」と言って良い程の美人だ。
……誰でしょうか? そう思う。
「此処にいる理由を教えてくれてありがとうございます。しかし失礼ですが、あなた方は一体どなたでしょうか? 記憶が確かなら、私達は初対面の筈ですよね?」
『はい、初対面です。私は秩序。あなた方から見れば、調和を司る神です。それにしても、随分と落ち着いているのですね。大概の人間は取り乱して大声を出すか、現実逃避をするかだったのですが』
『変わり者なんでしょう、人間にはそういう者が意外に多いと聞きます。……私は混沌。混沌にして、なにもない空間を司る神。それよりあなたも名乗りなさい』
初対面のヒト、いや神に変わり者扱いされてしまった青年。
しかしそう言われるのに慣れているのか、聞き様によっては失礼になるその言葉には余り反応しなかった。
混沌と名乗った女性の言葉に、彼は確かに名乗らないのは失礼だった、と頷き口を開く。
「すいません、失念していました。私は緋乃宮昴と申します。……死んだ、ということは、此処は死後の世界なのですか?随分とイメージが違いますね」
純粋にそう思っているのだろう。彼の言葉には死んでしまったことへの恐怖等は感じられない。
まぁ、それ以前に渡れるかどうかわからないのだが。先程体を確認した所、三図の川の渡し賃である六銭なんて持っていなかったし、何より両親より先に死んでしまったのでは鬼が来るだろう。
『違います。此処は世界のどこでもない場所です』
昴の言葉を、秩序と名乗った女性がそう言って否定する。
どういうことだろうかと首を傾げる。
『つまり、死後の世界ではないということです。当然、死んだのですから現世でもありません』
疑問に思い問おうとするが混沌(カオス)と名乗った女性に先に言われた。
だが、昴は理解できないと言った風に首を傾げた。死後の世界でないというのなら、この気持ちの悪い、頭が痛くなる様な空間は何だと言うのか。そもそも、死んだのなら死後の世界に行くのが常ではないのか。
『あなたは本来、あの時間、あの場所、あのタイミングで死ぬ運命ではありませんでした。死因の雷も、自然現象で発生したものではありません』
「……死ぬ運命ではなかった、ですか。「運命」と言う言葉は死ぬほど嫌いなんですけどね。どういうことですか?」
『つまり、あなたが死んだ原因の雷は自然に発生したものではないということです』
秩序の言葉に「いえ、そうじゃなくて……」と言い、昴は問う。
「自然に発生したものではないと言うのなら、一体何が原因で発生したんですか?」
そう問いかけると、白銀の女性――秩序は申し訳なさそうに、金紫の女性――混沌はかなり苦々しげな顔で話しだした。混沌から漏れた威圧に思わず一歩足を引く。
『……原因は二柱の神のケンカです』
「ケンカ……ですか?」
『はい』
『ゼウスとその妻、ヘラを知っていますか?』
「はい、一応知っていますが。ゼウスはギリシアの主神で、親であるティターン神族の農耕神クロノスと地母神レアの末の子とも長男とも言われている、レアの機転で唯一クロノスに飲み込まれなかった親殺しの雷神にして天空の神。ケラヴノスと言う雷霆と、金剛で出来た鎌を武器とするオリンポス十二神の長で、数ある神話の中でも有数の女性好き。白鳥の姿に変化してレダと通じたり、黄金の雨になってダナエの閉じ込められている地下室に入り込んだり、牡牛の姿を取ってエウロペを攫ったり、夫あるいは婚約者の居る女性の元にはその男性の姿を取って入り込んだり、娘とされるアルテミスの姿に変化し彼女に忠誠を誓っていたカリストーを手篭めにした節操なしに好色な神。
ヘラはその妻で、姉でもあった女神ですね。アカイアでは地母神として信仰されていたとも言われる、ゼウスと同じく十二神の一柱。嫉妬深く、ゼウスに見染められた女性はたとえ自分と血が繋がっていても嫌い、復讐の対象にした婚姻を司る貞淑な女神。ゼウスとの間に儲けた子供は戦を司る神アレス、出産と産婦の守護を司る女神エイレイテュイア、青春を司る女神ヘベ。醜男とされる鍛冶の神ヘファイストスもゼウスとの間に儲けた子ですが、神話によってはそうではなく、知恵の女神メティスを飲み込み一人で工芸と知恵を司る処女神アテナを産んだゼウスに対抗して、同じく一人で産んだとされる。ヘラクレスを始めとした、ゼウスが自分以外の女性との間に産ませた子供を徹底的に嫌う。ちなみに私は好色な輩は嫌いです」
『……存外、詳しいですね。最後のはちょっと、余計ではありますが』
すらすらとゼウスとヘラの大体の説明をそらんじた昴に混沌は若干、呆れた様な視線を向けた。
「これでも考古学者志望でしたから、大体の神話や伝説、神々の関係性は知っています。何なら十二神が元々どこで、何を司る神だったかも言いましょうか? まずオリンポス十二神の一柱、ゼウスとレトの娘である、アポロンの双子の姉とも言われる月を司る処女神にして狩人の女神アルテミスですが、元々はギリシア固有の女神ではなく野の獣、特に熊と強い関わりのある山野の女神であり、多産を司る地母神であって月とは関係性を持たない――」
『ああ、いえ、結構です。ですがそれなら余計な説明をしなくて好都合です。あの女の敵が、また浮気しようとしたところをヘラに見つかって、今までのことも掘り返されて文句を言われ、それで怒ったゼウスが文句を言い返して始まったケンカがあの雷の原因です』
『さらにその夫婦喧嘩が原因で世界のシステムが狂い、死んだ人が存在したという歴史がすべて消えてしまいました。幸いと言っては失礼ですが、その時に死んだのはあなただけでしたが』
混沌の言葉を継ぐ形で、秩序が昴に説明する。
それに昴は若干、説明し足りなさそうな表情を作るがすぐにそれを消した。相手は神だ。自分が知っている程度の事など知っていても不思議はない。
そう思い、そして秩序の言葉でさらに思った事を口にする。
「それはまた、何と言いますか、奇跡的ですね。世界中で死んだのが私だけとは。自分のことながら、運がいいのか、悪いのか……」
『……珍しいものです、怒らないのですか?』
「確かに、腹が立たないのかと聞かれるととても腹立たしいですが、貴女方に怒りをぶつけてもどうにもなりませんし。それに、それが本当だとしたら既に死んだこの身です、怒って何になるんですか?」
『夫婦喧嘩という理不尽な理由で死んだのですよ? 生き返らせろ、とか言うのが普通ではないのですか?』
別段怒った様子も無く、のほほんとした感じでそう言った昴に秩序は端正な顔を歪ませ、そう聞いた。彼女の昴を見る目は、理解し辛い奇妙な物を見る目だ。
そんな視線を向けられても、昴は何ら気にした様子も無く言葉を連ねる。
「文句を言って生き返るものでもないでしょう? それに、さっきの話が本当なら、私が存在したという歴史は既に存在していないんでしょう? だったら諦めて、此処でじっとしておくしかないでしょう。家族にも完全に忘れ去られたと言うのは悲しいですけれど」
『此処にいても、あるのは消滅だけですよ? それでもいいのですか?』
「どんな存在でも最終的に待っているのは消滅でしょう? 私としてはそれでも構いませんよ。ですが、神が人の心配とは珍しい。欧州の神は人の運命を弄ぶものではないのですか?」
様々な英雄譚で、神は人間や英雄の運命を時に祝福と言う形で、時に呪いと言う形で操っていた。
神の被造物であり、古代メソポタミアの英雄王ギルガメッシュの親友でもあったエンキドゥにかけられた『衰弱』。
ギリシア神話最大の英雄ヘラクレスにヘラがかけ、彼の妻子を殺させた強烈な『狂気』。
コルキスの美しい王女であり、強大な魔術師でもあったメディアがアフロディーテに吹きこまれた、イアソンに対する熱烈な『恋心』。
ポセイドンの妻でもあり、美しい髪が自慢であった大地の女神メドゥーサに梟の女神アテナが掛けた、姿を醜い怪物に変えてしまう呪い。
実の妹と交わった北欧神話のシグムントに対する、父神オーディンの祝福の剥奪による剣の破壊と戦場での死。
他にも大勢の英雄や王、民が居るがそのほとんどが神によって運命を狂わされ、死を決められ、そして破滅し殺された。
中には生き延び、栄光を掴んだ者達も居るが、そんなのは本当にごく僅か。殆どの英雄譚で、その主人公たる英雄は最終的に悲劇的な死を迎える。
『確かに、私達を含めた欧州系の神にはそういう者も存在しています。いえ、寧ろそういった存在の方が多いと言った方がいいでしょう。ですが、あなたは此処に留まることはできません』
「……どういうことですか?」
混沌の言葉に、怪訝そうな目を昴は向ける。
たかだか人間一人の魂等、神々にとっては取るに足らないものだろうに、と言う様な目だ。
『あなたには別の世界に渡ってもらいます。あなたが生まれ育った世界にはもう存在の空きがありませんが、別の世界には空きがあります。その世界のシステムに、あなたの存在を入れます』
「……別にそれはかまいませんが、その世界のシステムが狂いませんか? その世界にとって私は本来存在しない筈の異物でしょう」
『問題ありません。その世界には隣接している世界がありますから多少のそれは容認されます。それに、ここで消滅される方が私たちとしては迷惑です。存在のバランスが崩れてしまう』
『戦いのある世界ですから、一つだけ能力をあなたに付与して送ります。欲しいものがあれば言ってください』
「……友人に聞いた、ネット小説とやらでよくある様なものですか。太っ腹と言いますか、何と言いますか……」
溜息を吐く様に出た言葉は、何処か呆れを含んでいる様に感じた。友人の一人からそう言う物語があると聞いてはいたが、まさか自分がそれを体験する事になるとは夢にも思うまい。
とは言え、せっかくくれると言うのだ。貰えるのならば貰っておこうと昴は思った。
「……何でもいいのですか?」
『基本的には』
「そうですね、それでしたら……聖剣伝説LEGEND of MANAと言うゲームに出てくるマナの七賢人の一人、『語り部』のポキールの真言を願います。あれは設定だけしか出ていなかったので、どんなものか興味があったんです」
『……わかりました。では』
そう言って、秩序は両手を胸の前に上げた。直後に彼女の手の間に、無色の光が発生した。それは神聖さも禍々しさも無く、ただ強大な力の結晶なのだろう。
秩序はそれに対してブツブツと何かを言い始めた。言葉の様だが、昴の知らない言語なのか何を言っているのかまるで分からない。しかし何かを言うにつれて無色だったそれは緋に、蒼に、翠に、様々な色に変わり、そして最後に虹色になって落ち着いた。
渦潮の様に、銀河の様に渦を巻いて回転するそれを、彼女は昴の体に押し当てた。するとその光は、まるで水が砂漠に浸み込む様に昴の体に入って行った。
同時に、ほんの僅かにだがギシリと、何かが軋む感じがした。
『それでは送ります』
『会うことはもうないでしょうが、その壊れた思考が治ることを願っていますよ、人間』
壊れた思考と混沌に言われ、昴は僅かに不機嫌そうに顔を歪める。失礼な、とでも思ったのだろう。
だがそれを言葉にはせず、気になった事を秩序に聞く。
「所で一つお聞きしたいのですが、私が送られる世界って何処なんですか?」
『あなた方の言う漫画……でしたか? そのうちの一つの世界です』
「漫画、ですか? 漫画を読んだ事はあまり無いのですが……どの漫画なんです? 私の知っている物でしょうか?」
『「ネギま」とやらです。他にも在りますが、最初は此処がいいでしょう。他の神曰く、甘い世界のようですし。それと、あなたが知っているかどうかは私が知る筈がないでしょう』
混沌の言った題名に、昴は怪訝な顔をし、さらに首を傾げた。どんな作品か分からないらしい。
「ね……ぎ? え……と、何ですか、それ? ねぎまって、確か料理の事ですよね? 焼き鳥とかでもある、ネギとマグロ、あるいはネギと鶏肉を使った……。何ですか、その世界はその料理が流行っている世界なんですか?」
分からないと言うより、単純に料理の名前だと思ったらしい。
料理の名前を持つ漫画とは、珍しい。もしくは変わっている。そう思ったのだろうか。
『いえ、違います。単に題名がそうだと言うだけで、別に流行っていると言う訳ではありません。ちなみに発音もちょっと違います。ねぎま、ではなくネギま、です。ねぎまでは料理の名前になってしまいます』
「……違いが良く分かりません」
『まぁ、自分の目で直接確かめた方がいいでしょう。それでは、さようなら。もう二度と会う事は無いでしょうけれど。魔法のあるあの世界で、精々死なない様に気をつけるのですね』
「はい? あの、魔法ってどう言う……」
『問答無用』
聞き捨てならない単語を聞き、どう言う事かと再度問おうとするが混沌の一言によって光に包まれ、彼はこの空間から音も無く消え去った。
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