1話 崖っぷち
風が吹き、日が照りつける、紅い荒野。
樹も草も泉も無い、岩と赤茶けた土、そして砂だけしか存在しない枯れ果てた大地。所々に巨大な裂け目が、まるで化け物の口の様に幾つも開いている。
命の息吹を少しも感じることが出来ない場所。
そんな、生き物が住むには最悪の条件ばかりが揃った場所に、一人の男が倒れていた。
「ぅ、ぐ……こ、こは……?」
小さく呻き声を上げながら、渇いた大地に手をつき男は倒れた体を持ち上げる。
年齢は二十代前半と言ったところか。宵闇の様に黒い髪に、夜の闇そのものを織り上げた様な、模様も飾り気も一切無い、純粋に黒一色の服。履いているズボンも靴も黒一色で、違う色と言えば日本人としては少々薄い肌の色と真紅の瞳の二色のみ。
普通に見るには怪しい、いっそ不審者と言った方がしっくりくるような見事に黒一色の男だった。
彼の名は緋乃宮昴。東の果ての地、日本に居ながら西洋の神の夫婦喧嘩で殺され元居た世界での存在を失い、バランスを保つために秩序と混沌によって新たな生を与えられ異世界へと送られた男だ。
上半身を持ち上げた彼の視界に、雑草一本すら見当らない紅い、荒れ果てた岩と砂ばかりの大地が映る。
「……本当に、何処なのでしょうか? 見たところ、人の姿どころか動物一匹いない様な荒れ地ですが……」
立ち上がり、僅かに痛む頭を抑えて一人呟く。
見渡す限り何処までも、それこそ地平までも続く紅い荒野。吹きゆく風が、砂煙を立てている。
なんとはなしに空を見上げると、蒼い空に太陽が輝いている。
「感じる空気は、然して変わらない……いえ、この世界の方が澄んでいる気がしますね。それに、若干ですが体が軽い……気がしますね」
生前、と言って良いのかどうなのか。とにかく此処とは違う、自分が生まれた世界と比較してそう言う。
「蘇りなのか、それとも世界移動なのか、浅学な私には分かりかねますが……あの二神には感謝しないといけませんね。おかげでまだ、生きていられるのですから」
魔法とか言う聞き捨てならない単語が聞こえた気もしましたが。
そう言って、祈るように目を閉じる。
そして十秒程して目を開き、適当な方向に顔を向けた。
「さて、いつまでも一人で此処に立っているのもつまりません。取り敢えず人里か、出来れば街を目指すとしますか」
何処にあるのかは分かりませんけれど。
そう言って昴は、彼から見て左の方向に歩きだした。
しかし、その直後――
ガラッ
「お……?」
バランスを崩し、体が傾く。
何がある、と体が傾いた方を見ると――
そこには深い、とても深い崖が、口を開けていた。
「な……お、お、お」
みっともなくもバタバタと手をばたつかせ、どうにかして戻ろうとするが、体はとっくに崖の方に完全に傾いている。
バランスを戻す事は……もはや不可。
「お、おわぁああああっ!?」
そんな叫びを上げながら、抵抗むなしく、彼は崖下に落ちて行った。
風を裂きながら、底に向かって一直線に落下していく昴。
「だぁああああっ!! し、死ぬ! 死んでしまいます!! せっかく生き返ったと言っていいのかどうか分かりませんが、とにかく生を得て異世界に来たと言うのに、来た途端に死ぬなんて笑い話にもなりませんって!!」
余裕があるのか、叫びながら落下していく。何とか落下速度を落とそうと、傷付く事などどうでも良いとばかりに崖に手を伸ばすが風圧等の所為でバランスが崩れ、さらに距離が開いて届かなくなる。
このままでは死ぬ。運が極めて良ければ、それこそ一生に一度あるかないかの事態に遭遇する事が出来るほど運が良ければ骨折程度で済むかもしれない。まぁ、それでも粉砕骨折、複雑骨折は確実だろうが。
しかし昴はお世辞にも運がいいとは言えない。いや、神の喧嘩に巻き込まれて死ぬという経験をしているのである意味では運がいいのかもしれないが、それはプラス方面ではなく寧ろマイナス方面だ。
このままではおそらく、いや確実に、それはもうスプラッタな事になって死んでしまうだろう。具体的に言えば、勢いよく地面に叩きつけられ、砕け散った石榴の様になって。
その未来を想像し、血の気が引いて蒼褪める。
「……っ!! じ、冗談ではありません!! まだ何もしていないと言うのに、死んでたまるものですかぁあああっ!!」
この状況を脱する事が出来る何かがないか、考え、周囲を見て、道具を探す。しかし周囲には断崖絶壁があるだけ。道具は衣服の他には財布と懐中時計、それと首から紐で結んで下げている、妹の物と対になっている綺麗な翡翠輝石で造られた勾玉のペンダントだけ。考えは混乱している思考の所為で浮かばない。
結論:打つ手無し。現実を認識し、諦めて運命を受け入れましょう。
「ま、まだぁっ! まだ何かある筈です! きっと私は何かを見落としている筈です!! 柘榴は絶対に拒否します!! 絶対に諦めませんよ、私は!!」
必死の形相で叫び、混乱している思考を無理矢理抑えつけ、高速で回転させる。
しかし浮かんでくるのは元の世界で食べた朝食の献立や今まで調べた神話や伝承、歴史の事。そして修めた槍術と格闘術の事だけだった。正直に言って、今のこの状況ではどれもこれも非常にどうでも良い物だった。見事に空回りしたそれに、軽く絶望する。
「っは、ははっ、……何でこんな事しか浮かんでこないんですか!! あれですか、今まで歴史研究やレシピ開発に勤しんでいた所為ですか!? ああもう私の馬鹿!! おかげで今までの人生が脳裏に流れて来てしまいましたよ!!」
どうも走馬灯現象まで起こっているらしい、生まれてから今に至るまでの記憶の再生が行われているようだ。
しかし脳裏で再生されている記憶を確認して、彼はある事を思い出した。
つい先ほどしたと言っても良い、神と会話すると言う特殊な体験。その時、あの二柱は何と言った? そして、自分は何を望んだ?
「真言……」
二神に問われ、自分が望んだ力。
あらゆる言葉を現実にする、創造にも破壊にも転ずる究極の呪文。もしそれを本当に自分が得ていると言うのなら、この状況を打破する事ができる筈。
しかし、それは真言を本当に使えればの話。使えなければ、自分は死ぬ。だがこのまま何もせずにいても、結局待っているのは死と言う結果のみ。
ならばどうする? 当然、出来ることをやるだけ。僅かでも可能性があるのなら、それを試すだけだ。
「ええい、ダメでもともと! ですが、出来れば頼みますよ!」
若干自棄になった様な口調で落下しながらそう叫び、昴は紡ぐ。言の葉としたあらゆる出来事を現実にする、理に繋がる根源の力を。
「真言、お願いですから発動してくださいよ――『空中は私の足場となる』」
イメージは空中に存在する見えない地面。堅く、ちょっとやそっとの衝撃はモノともしない、草木が生える大地。
落下しながら何とかイメージを纏めて彼がそう言った途端、周囲の空気が変わった気がした。存在しない筈の場所に、いきなり何かが発生した様な感覚。
その感覚に、間違いなく真言が発動したのだと昴は確信し、感動しかけ――
――刹那の後、ゴシャッ!と言う鈍い音と共に、全身に強烈な衝撃が奔った。
「ごぉっはあ!?」
不意打ち気味の強打に叫ぶ。それはダイレクトに横隔膜や肺その他内臓諸々を強打し、昴は呼吸困難に陥った。
何も無い空中に蹲り、痙攣しながら体を起こそうとする昴。しかし心構えも何も無く、落下速度も加算されていきなり来た衝撃は予想以上のダメージを彼に与えた。
回復に時間がかかっているようで中々起き上がらない。
「っか、ぉ、おおおおお……!」
予想すらしていなかったダメージに呻き声を上げ、プルプルと震える。その姿は生まれたての小鹿の様にも、瀕死の虫の様にも見えた。目には薄らとだが光るモノが浮かんでいる。
無様である。
「こ、ぉおあ……ふ……不覚……っ! よもや……よもや、能力初使用でいきなり、ダメージを受ける、ことになろうとは……っ!」
非常に辛そうに、震える声で途切れ途切れにそう言う。
真言を使えたと言う感動は、不意打ち気味に来た、ある意味自爆の痛みの所為で遠い、何処か彼方へと飛んで行ってしまったようだ。
イメージしたのは目に見えない大地。草木が生い茂る大地とイメージしたおかげである程度の衝撃は緩和されたようだが、それでも固い地面に激突した衝撃だ。骨も折れていないのはかなり運がいい方だろう。
流石に衝撃を逃がす事は出来なかったようだが。
暫く震え、数分後に多少だがようやく回復した彼はゆっくりと立ち上がり呼吸を落ち着かせる。
「ぐ、うぅ……まだ若干、いえかなり痛いです。こんな事になるのでしたら、足場発生ではなく、空中浮遊にしておくべきでした……」
後悔先に立たず。身を以てそれを実感した彼は、次からは状況に一番合った言葉を咄嗟に使える様になろうと心に刻んだ。
それから暫く休み、呼吸もようやく落ち着いて、体も八割がた回復した昴は空中に立ったまま周囲を見回した。
「見事に岩しかありませんね……まぁ、崖の下なのですからそれも当然でしょうか。上も、完全に荒野でしたし」
大きく裂けた崖の中で空中に立ち、殺風景な紅い岩肌を見回す。花どころか雑草一本すら無い岩肌を見て、ふと疑問を抱く。
「此処は何処でしょうか?」
腕を組み、首を傾げる。一応考古学者志望だった事もあって歴史学や神話学、民俗学や古生物学等を学び、長期休暇の時にアルバイトなどで溜めた金で様々な国を巡って遺跡や自然を出来る範囲で調べていたので様々な景色を見た事がある。当然、この崖の様に赤茶けた岩肌の場所も見た事はあるが、どうにも妙な感覚がする。
勿論、自分が言った事の無い場所である可能性は否定できない。と言うか、寧ろその可能性の方が高いだろう。世界には自分が知らない場所等、それこそ数え切れないほどあるのだ。
そこまで考えて、ふと思った。もしかしたら自分の知らない、見た事も無い遺跡が存在するかもしれない。
「………………」
そう思った途端、うずりと反応する自分の心。探究心を擽られ、抑えきれない程に興奮するのを自覚する。その目はまだ見ぬ遺跡を思い、まるで新しい玩具を前にした少年の様に期待に輝いていた。
状況を考えればさっさとこの崖から脱出し、人の居る場所を目指す事が正しいだろう。もし現在の昴と同じ状況に立つ人間が居れば、間違い無くその選択肢を選ぶだろう。昴も、それが正しいのだと頭では理解している。
しかし興奮を抑えきれない。自分の中の欲求が暴れ、命令する。探せ、と。
何を、と無粋なことは思わない。他ならぬ自分自身が思っている事だ、わざわざ確認せずとも十二分に理解している。
欲求か、それとも冷静な判断か。二十秒、三十秒と静かに、しかし猛烈に悩んで昴は――欲求を取った。階段を降りる様に空中の足場を蹴り、崖の底まで降りて行く。
一歩、二歩と大きく、しかし軽やかに降りて行き、53歩目で彼は崖の底に降り立った。
とんっ、と軽い音がした。
「うーむ。予想はしていましたが、見事に岩だけですね。なにも有りません」
軽く周囲を見渡し、そう呟く。考古学者志望だった身としては、せめて骨の欠片の一つでもあれば多少なりともテンションが上がったものだが。
「まぁ、まだ降りて来たばかりです。色々と探して回れば、何か面白いモノでも見つかるかも知れません」
楽しみですねぇ。と、実に楽しそうにそう零し、昴は心なし軽い足取りで、奥と思われる方向に足を向け歩き出した。
じゃりじゃりと岩肌に存在している砂を踏み鳴らし、只管に歩いて遺跡か何か、興味を引く物が無いか探す昴。そしてある程度進んだ所で、急にしゃがんで地面を見た。何かを見つけたのだろうか。
「これは……足跡、でしょうか? しかしこれは、見た事も無い足跡ですね……」
じっと地面を見て、手で撫でる。彼が手をやっている場所には薄くだが、確かに紅い岩肌に足跡の様な物が見て取れた。
だがその足跡は彼が言った様に、彼の知る動物のどれとも合致しない、初めて見るものだった。
「まだ新しい。此処を通過したのは、おおよそ3時間ほど前と言った所でしょうか。しかし、象よりも大きい……絶滅種、あるいは新種でしょうか? ですがこの足跡は、私の知るそれらの足跡とは違う? 哺乳類とは明らかに違う。鳥類でしょうか? しかし、モアでもない、ドードー鳥でもない、他の絶滅した鳥類とも違う。と言うか、まず大きさからして違う。寧ろこれは、形で言えば爬虫類に近い?」
世界中の遺跡や自然を巡り歩く内に、自然と身に着いた技能で足跡を観察する。
何処か鳥に似た、しかし違う巨大な足跡。よくよく見てみれば、それは言った様に爬虫類の物に見えない事も無い。現在存在しているどの爬虫類の物よりも遥かに大きいが。
それに思い至り、ふとある存在が昴の思考に浮かび上がった。
数億年の昔。遥か白亜の時代、地上に跋扈したモノ達。現在に生きる爬虫類や鳥類の祖先とも呼ばれるモノ。巨大隕石の衝突で絶滅したとも、何処かにひっそりと生き残っているとも言われる、恐ろしき竜と名付けられた絶対王者達――「恐竜」。
何故か、見つけた足跡を見ているとその存在が脳裏に浮かんだ。
「まさか。餌となる動植物どころかサボテンすら見受けられないこんな荒野に、恐竜が居る筈がないでしょうに」
自分で自分の言葉に苦笑する。そもそも世界中の冒険家や学者が散々に探して、それでも見つけられていないのだ。探せていない場所も有るだろうが、それ以前に彼等が生きていたのは実に数億年も前の事。もはや完全に絶滅していると見るのが自然だろう。
しかし、だとしたらこの巨大な足跡の持ち主は一体どのような生物なのか。疑問と共に、多少だが興味も湧いた。
もしこの足跡の主が恐竜その他絶滅種、あるいは新種の生物なら調べて学会などにでも発表すれば様々な意味で名が売れるだろう。
しかし、自分はそんな事に興味は無い。そう言う己を誇示するような行為は、名を売りたい奴だけがすればいいのだ。
そんな事を思いながら、昴は足跡の向かう先、この崖の奥地だろう方に向けて歩き出す。心に抱くのは、どんな生き物か確認したい、と言うそれだけだ。
名声などには興味など無いが、未知のモノには興味があるらしい。心なし、先程よりも早い速度で奥に向かう。
何を言うでもなく、暫く道なりに歩いていると崖の幅が多少だが広がった。そして、風に乗って獣の唸り声の様な物が耳に届いた。
「む……」
聞こえたそれに歩く速度を落とし、ゆっくりと、僅かな音でも立てない様に慎重に進む。もし猛獣等だったら襲われる可能性もあるからだ。ちなみに生前に一度ならず経験していたりする。
進み、距離を詰める毎に、耳に届く唸り声と大地を踏みならす様な音が聞こえ、次第に大きくなる。どうもかなり大きな存在が複数いるらしい。
これはもしかすれば、もしかするかもしれない。期待と若干の不安を胸中に抱きつつ、崖に背をつける様にして移動し、大きな岩に身を隠して顔だけを出し確認する。
「……は?」
そして驚きに目を見開いた。
昴の視界に入ったのは、現存種と絶滅種を含めた、彼が知る動物のどれとも違うモノだった。
まず目に映ったのは、一見して巨岩を思わせる赤黒い体躯。二方向から尾と首だろう長いモノが伸びていて、大地を踏みしめる脚は丸太以上に太い。尾だろうモノの先はまるで剣の様にも槍の様にも思えるほどに鋭く尖り、首だろうモノの先には体に比べると小さな、しかし遠目から見ても十分に大きな頭が付いている。
それだけを見ればちょっと変わった巨大な草食恐竜――ブラキオサウルスやその類の恐竜に似ていない事も無いが、頭にギラギラと血走った様に輝く複数の目と刃の様に鋭い牙を持ち、巨大な体躯を分厚く堅い甲殻に包んだそれは、明らかに恐竜とは違うと分かるモノだった。
もし何かと問われ、真っ先にイメージし該当する存在を上げるとするならば――あらゆる神話や伝説に、ほぼ必ず出てくると言っても良い洞窟や湖、或いは古城に潜む金銀財宝の保有者にして守護者達。
人を遥かに超えた強さと知性を誇り、その身に流れる血には不老不死や動物の言語を理解させる等、様々な効果があるともされる伝説の存在。
英雄を引き立てる最高の存在にして、幻想種と称されるあらゆる架空の生物達の頂点に君臨すると言われる、権力の象徴の一つとして紋章にも刻まれるモノ。
絶対の強者。最強の生物――竜か。
東洋の蛇の様な、雨や風、日照りや嵐と言った天候に深い関わりを持つ「龍」ではなく、西洋の翼ある蜥蜴を思わせる、火や毒、水に深い関わりを持つ「竜」。現在目の前にいるモノ達には翼は無いが、それでも昴が想像した以上の、それも見るからに凶暴そうな存在が複数――それこそ十や二十では足りないくらいの数がそこには存在していた。
「っは――!」
確認した瞬間、体が震えて汗が滝の様に噴き出す。それは神話や伝説にしか出て来ない存在を目の当たりにした事により得た興奮などではなく――本能の恐怖。
圧倒的な存在感を持つ余りの存在に、目にした昴は思わず後退する。だがそれをして、じゃりっ、と音が立ってしまった。
それが耳にでも届いたか、それとも別の理由なのか、一頭の竜がこちらに顔を向けた。――目が、合った。
瞬間、背筋に今までに感じた事が無い程の寒気が走る。本能が叫ぶ。走れ、逃げろ、と。昴はそれに逆らわず、余りの恐怖で弾かれた様に走りだす。
直後、爆音の様な咆哮が響いた。それは昴の背筋どころか、全身を冷やすには十分過ぎる程だった。同時にそれとは違う、何かを踏む様な音も聞こえ始める。
追って来ている。響き渡る咆哮と音、感じる威圧からそう判断した彼は脇目も振らずに加速した。しかし昴を獲物と定めた魔物たちは、物凄い勢いをもって彼を追う。どうやら餌と認識されてしまったらしい。
「か、『加速』! 『加速』!! 『加速』ぅううううっ!!」
それを確認し、思わずと言った具合に真言で自分の走る速度を全力の状態からさらに三倍以上に引き上げる。その声は恐怖に引き攣っていた。
人間が普段意識的に使う事の出来る力は、肉体が本来宿すそれの約30%程度と言われている。その理由は単純に、それ以上の力には肉体が付いて来られなくなり、壊れてしまうからだ。
いきなり、しかも無理矢理に引き上げられた速度によって体に負担がかかり、痛みと共に軋みを上げる。気の所為でなければ足の筋肉が少しずつ切れていく様な感覚もある。だが生き残るためだ、痛みなど気にしていられない。
今までに出した事も無いスピードで走りながら体に、特に足に走る痛みを気合いで抑えつけ、多少は引き離す事は出来たかと僅かに首を回して後ろを見た。
無数の魔物が、大口を開けて巨大な牙の間から唾液の様な物を垂らしながら猛スピードで追いかけて来ていた。しかも思ったよりも距離は開いておらず、寧ろ徐々に縮まって来ている。何が何でも自分を食べようとしているらしい。
「こ、根性ぉおおおおおおおおっ!!」
蒼い顔で冷や汗を掻き、昴はさらに加速し必死になって追い掛けてくる魔物から逃げる。その必死の形相からは、「喰われてなるものか」と言う意思がハッキリと見て取れた。
出口を探し猛スピードで逃げる昴と、見つけた餌を喰らおうと追う魔物。その速度は非常に早く、岩だらけのこの崖の中で土煙が立っている。
一進一退、命を賭けた鬼ごっこはその後約10分程度続き、真言を使って逃げればいいではないかと思い至った昴が言葉を紡いで飛行し、崖の上に逃げ切ることでその幕を閉じた。咆哮が崖に反響し、五月蝿いくらいに響き渡る。
「ぜぇっ……はぁ……、し……死ぬかと思いました……、っつ!」
荒い息を吐き、流れた汗を拭いながら崖の上で座って休む。同時に足に酷い痛みが走り、何かが流れて濡れるような感覚を感じた。
冷汗の他に脂汗も額に浮かべ、痛みと気持ち悪さに顔を顰めながらズボンの裾を上げ、足の状態を見てみると腿の大部分が青黒く腫れ上がり、場所によっては裂けた様な傷が出来ていた。そこから赤い血がだらだらと流れて足とズボン、靴下と靴を濡らす。
「……『癒え、元に戻る』」
無理矢理に引き上げた力による負荷に体が耐え切れなかったのだろうと当たりをつけ、傷を癒すために真言を使う。すると、まるで時間が巻き戻るかのように流れ出ていた血が傷口に戻り始め、その血が体内に戻ると同時に傷も消えた。当然、腫れていた腿も元通りだ。
自分でした事ながらそれを見て、存外に気持ちの悪いものだと思いながら一息吐く。
今日だけで一度死に、さらに二度死ぬかも知れないと言う経験をした。貴重な体験と言えなくもないが、正直に言って二度とこんな体験はしたくない。命が幾つあっても足りやしない。
そう思いながら未だ負担で痛む身体を休め、呼吸を落ちつけて彼は立ち上がった。
「一先ず、此処から離れましょう。今は大丈夫とは言え、アレ等が昇ってこないとも限りませんし」
言ってから彼は一度大きく深呼吸して目を開き、前を向いて歩き出した。さっさと離れたいのだろう、歩く速度は意外と早い。余程に恐ろしかったらしい。
「取り敢えず、北を目指すとしますかね。人里は無いかもしれませんが、運が良ければオアシスくらいには辿り着けるでしょう」
歩きながら一応の目的地と言うか、進むべき方向を定める。
が、数歩ほどして立ち止り――
「……北は、どちらでしたっけ? いえ、そもそもここは北半球なのでしょうか、それとも南半球なのでしょうか? と言うか、地球の地理が通用する場所なのでしょうか?」
赤い大地に茫然と立ち、そんな間抜けな言葉を出した。
アホーと、遠くに烏の鳴き声が聞こえた気がした。
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