軽音部のキセキ
U.ファンタジア


1. 

「失礼します」
 梓は店長に挨拶すると、返事も待たずにお店を飛び出した。
「憂、お待たせー」
 お店の明るい照明から離れて、ぽつんと憂が立っていた。
あたりはすっかり暮れていて、逢魔が時になっていた。
 憂はわずかにうなずくと、梓と連れ立って歩き出す。
男にストーキングされているようだと梓が憂に話したところ、
憂はできるだけ、一緒にいてくれると約束したのだ。
「本当に良かったの? 憂。迷惑だったんじゃない?」
 隣を歩く憂に梓は話しかけた。
「ううん。お父さんもお母さんもいいことだって言ってた。
家に閉じこもっているより、梓ちゃんといろいろお話して気分転換したほうがいいって」
「そっか。ならいっぱい話そうか」
 とは言ったものの、二人の会話は途切れがち。
「憂。旦那さんとはどうなの?」
「もう、旦那さんじゃないの。他人よ。ヒロアキさんとの離婚は成立したわ」
「そ、そうなんだ……」
(話題を変えて、何か憂が興味をもちそうなことを言わなくちゃ) 
 そう思えば思うほど、梓は深みにはまっていくような気がした。
「仕事はどう? はかどってる? ご両親の著作権管理会社だっけ」
「お姉ちゃんが芸能界にデビューしてからの資料はたくさんあるけど、整理が大変。
でも、デビュー前のものは数少なくて貴重なの。梓ちゃんと一緒にいた頃ね」
「あの頃の唯先輩はとっても輝いて――ごめん。そんなこと言うつもりなかったのに」
「いいの。私もそう思っているから。お姉ちゃんが死んじゃってから、自分のこと、抜け殻みたいに感じちゃってて。
自分が生きているのかどうかもよくわからない感じなの。変でしょ」
「そ、そんなこと……。唯先輩が亡くなったショックでそう思うだけだよ」
「もしかすると、あの時、私も死んじゃったのかもね。時々、自分を見下ろしている自分がいるように感じてるの」
「な、何言って――」
 いきなり、梓の言葉が止まった。
全身を硬直させる梓の視線を憂がたどる。そこには、つき始めた照明の下、背の高い男が立っていた。
「梓ちゃん、あの人なの?」
 憂の問いかけに、梓は何とかうなずいた。それを見て、つかつかと憂は歩み出た。
「あなたは梓ちゃんに何の用なんですか」そう言いながら。
 一瞬、男は身をひるがえそうとした。が振り返ると、近寄った憂の胸倉をつかむ。
そして、何か言うと、憂を突き飛ばした。
「憂っ!」
 梓が憂に駆け寄ったときには、既に男の姿はなかった。
「憂、大丈夫? 怪我はない?」
「うん。大丈夫。突然だったから、驚いただけ」
 立ち上がって、身づくろいをする。
「こっちが驚いたわよ。憂、突然飛び出すんだもの」
「ヒロアキさんとの騒動で、物事ははっきり言ったほうがいいって勉強しただけ。でも、あの男、変なこと、言ってたよ」
 梓の顔が憂を見つめる。
「アズに手出しをするなって。どういうことなんだろう?」
 憂の表情に負けないぐらいに、梓の顔も疑問符になっていた。

2.
  
 メイド姿の菫が振り返った。重たげな音をたてて開いた扉から入ってきたのは、一分の隙も無くスーツを着こなす中年の紳士だった。
「お父様……」
「菫。ここはお前の仕事場です。公私を混同してはいけません」
 菫はメイドカチューシャをつけた頭を深々と下げた。
「以後、気をつけてください。ところでお嬢様は如何なされておりますか?」
「お嬢様はお食事もとらない状態です。毎日オ――お一人で過ごしておられます」
 菫は慌てて言い直した。まさか紬の自慰行為について、本当のことを言うわけにはいかない。
(もしかすると、たった今もしていらっしゃるかも。お父様を部屋へ案内するわけにはいかないわ)
 菫は父親の前に立った。邪魔をしていると悟られない程度にさりげなく。
「どなたにもお会いしたくないとおっしゃって。きっと離婚のショックからまだ立ち直られて――」
「それは好都合ですね」
 意外な言葉に、菫は絶句すると父親の顔を見た。細い瞳で、菫を見返す父親。
「だんな様はお嬢さまを部屋から出さないように、誰にも逢わせないようにとご希望なのです」
「そんなことを……」
「だんな様は、お嬢さまの前のご結婚は失敗であったとお考えなのです。次は必ず良き伴侶を選び出すと熱意を持っておられます。
お嬢さまが多少不自由な思いをしても、それはだんな様の深い愛情ゆえ。よろしいですか。菫」
 紳士は菫を見下ろした。
「まさかだんな様のご意向に逆らうつもりではありませんよね?」
「さ、逆らうだなんてとんでもありません。ただ、お嬢さまがお可哀想に――」
「まずはだんな様のご意向に沿うこと。その上でお嬢さまのお気持ちは尊重いたしましょう」
 その瞳が、まるで全てわかっているかのように菫を射抜く。菫は、ただ黙って小さくうなずくしかなかった。
「わかればよろしいのです。菫はお嬢さまの面倒をよくみるようになさい。そしてよく監視するように。
決して得体の知れない輩がお嬢さまに近づくことがないよう。琴吹家の名を汚すような事はあってはいけないのです」
 菫は小さく返事をすると頭を下げる。父親は踵を返すと、部屋を立ち去った。
扉が閉まる音が、下を向いたままの菫の耳に届いた。 

「菫……?」
 部屋に戻った菫の目には、案の定、素っ裸で窓辺に立っている紬の姿だった。
「お嬢さま。何かお召しになってくださいとお願いしましたのに。
そんな姿で窓際に立っていては、外から見えてしまいます」
 菫は紬の手を引いて、ベッドへと導く。その裸身に薄手の寝衣を着せた。そして、先ほどの父親の話を紬に伝えた。
「そうですか……」
 紬は意外なほど無反応だった。
「お父様はいつでも自分の都合が優先なのです。高校だって私が言い張らなかったら桜高校には行けませんでした。
大学だって、お父様はもっと違うところを希望していたのです。お父様は私が言いなりになるものだと思っているのです」
「お嬢さま……」
 菫を無視して、紬の呟きは続いた。
「いつも思っていたのです。私は駕籠の中の鳥だって。羽はあるのに、自由を満喫する事ができない小鳥だと。
扉を出たつもりでも、結局は駕籠の中でした。青空はすぐそこに見えるのに、思いっきりはばたくこともありません。
どこへも進めないのです。いつも駕籠に当たってばかりなんです。菫、私はどうすればいいんですか?」
「お疲れなのです。お嬢さま。ぐっすりお休みください」
 菫は脇机の上にある薬瓶を手に取った。中から白い錠剤を取り出すと、紬の口元へと差し出した。
水と共に飲みこむと、紬はベッドに横になる。
「唯ちゃんはこれを飲みすぎて死んじゃったのね」
 菫は慌てて薬瓶をポケットに隠した。
「これは安全なお薬です。それに分量だってちゃんと守ってます。死ぬようなことは絶対にありません。
安心してください」
「いいのよ、菫。あっちへ行けば、唯ちゃんは私に会ってくれるかしら。
それとも私のこと嫌っているから、会ってはくれないのかしら」
「お嬢さま! そんなこと、考えないでください。どうか、お休みください」
 両手で顔を覆う菫。静かな部屋に、菫のすすり泣く声だけが染み渡る。
 ふと、顔を上げた菫が耳にしたのは、横になった紬がつぶやくように歌う曲。
どこか、聞き覚えのあるような、懐かしいような曲。
(薬が効いたのかしら。お嬢さま、なんとか落ち着いたみたい……)
 立ち去ろうとした菫に、かすかな声が追った。
「ありがとう。菫」

3.

「うわ、律の言うとおりだ。なんて大きな家なんだ」
 助手席の澪が呆れた声をあげた。
「だろ? 日本にはムギ以上の金持ちがいるんだよ。齊藤さんちなんだけどな」
 律の運転する配送車は門のところの検問を通過して、家が見え始めたところに来ていた。
「自慢をするな。でもあたし達がどんなに苦労しても、こんなところとは無縁だよな」
「へ? 無縁なものか。苦労はこれからだぞ。今日の荷物も、この車いっぱいだあ!」
 通用口に乗り付けると、既に金髪の女性が待っていた。彼女が荷物の場所を指示する。
「申し訳ありませんけど、少し二階へ運んでほしいんです。いいですか?」
「へいへい、かまいませんよ。なんでも指示してください。ほれ、澪。わかったか!?」
「わかった。わかったから、大声で名前を叫ぶな。恥ずかしい」
 二人して指示された荷物を各部屋へと運び込む。家の中はだだっぴろく、部屋数もどれだけあるか、わからない。
(あれ?)
 とある部屋から出てきた澪はふと、気になった。
(なんか、デジャヴみたい。どっかで見たことある感じがする)
 足音を忍ばせて、そっと廊下を移動する。突き当りのドアノブに手をかけてそっと回した。
(あ、回る)
 静かな音を立てて、ドアが開いた。その奥をそっとうかがう澪の肩を誰かが掴まえる。
「ひええっ!」
「何やってんだ? 澪」
 律だった。眉をひそめている。
「人んち勝手に覗きこんでたら、問題になるぞ」
「わかってるよ。だけど、律、この家、何か感じない?」
「何をさ?」
「昔、ムギの別荘、行ったときの事覚えてるだろ? まるで、こんな感じでさ、だだっぴろくて、人の気配がなくて――」
「ああ、もしかすると、ここもあん時みたいな別荘なんだろ。どこの別荘だって似たようなもんだ。さ、戻るぞ、澪」
「この奥、スタジオなんだよ」
 律がきょとんとした顔を浮かべた。
「ダメなんだけどな」
 そう言いながら、律も澪と一緒に扉の奥を覗き込んだ。
澪の言うとおり、そこにはアンプやドラムセット、弦楽器などたくさんの楽器類が置かれていた。
「これじゃあまるでムギんちだ――。いや、これ以上はダメだ。澪、戻るぞ」
 そう呟きながら、そっと律はドアを閉めた。

 二人の行動は誰にもばれていないようだった。受取書にサインをもらうと、律は早々に車を動かした。
「よかったー。ばれなかったみたいだ。澪、今日みたいなことは絶対にダメだからな」
 澪は助手席で配送のリストに見入っている。
「どう思う?」
「何をさ」
 律は道路に出ると、速度を上げた。長居は無用とばかりに。
その隣で、澪は荷物リストを読み上げた。食料品、生活用具、そして女性用の服や下着、生理用品まであった。しかも大量に。
「あたし達が見たのは、あの金髪の女性が一人と警備の男達だよな。それにしちゃあ、女性用品が多くないか?」
「あの建物の地下には女性がいっぱいいるんじゃないか? もしかして、ハーレムだったりしてな。でへへ」
 律が下品な笑いを漏らす。が急に真顔になった。
「澪。他人のプライベートを覗く行為は厳禁だ。職業上知り得た秘密は誰にも洩らしちゃだめだ」
「わかってる。だけど、なんか変な感じなんだよ。あの家」
 澪の視線がバックミラーを見つめた。遠ざかり、小さくなっていくあの家が映っていた。

「律、やっぱりダメだ!」
 ケイタイの向こうで澪の声が響いた。眠っていたところを律は、たたき起こされる破目になった。
「なんだよ、澪。こんな時間に。何がダメだっていうんだ?」
 枕もとの時計を見る。ちょうど日付が変わった頃。
「ムギと連絡とれないんだよ!」
 澪の叫び声に律の眠気がふっとんだ。  

4.

(いた、痛たた。あれ、あたし、どうしたんだろう?)
 体の痛みで梓は目を覚ました。いつの間に眠ったのか、とぼんやりした頭で考える。が眠った記憶がない。
(えっと、お店を出たよね。憂と一緒に帰ったんだ。そしたらあの男がいて、憂が倒されたんだっけ)
 次第にはっきりしてくる記憶。それと同時に自分が置かれている状態も把握できてくる。
手足が固定され、口も何かで塞がれている。目隠しもされていて周りが見えない。
(あの男……? 違う。あいつは逃げたんだ。変な言葉を憂に残して。
その後で、声をかけてきた女の子たちがいたんだ。大丈夫ですか、なんていわれて
話してたら、急に背後から何かで――)
 梓の耳には、さっきから何かの話し声が聞こえていた。
きっと自分を襲った連中だろう、そう思った梓は体を動かそうとした。
しっかりと縛ってあるようだ。身じろぎもできない。その時、突然に声が響いた。
「あずにゃんに手を出すな!」
(唯先輩――、違う。憂だ。憂もいるんだ!)
「うるせえ! 黙れ!」
「なんで、こんな奴連れてきたんだ? 用があるのはアズだけだって言ったろ」
「し、仕方なかったんです。顔見られたし、通報されたらまずいと思って」
「ちぇ、仕方ねえ。わかったから、とにかく黙らせろ。口になんか詰めとけ」
「ぐ、ぐわあ。や、やられたー。 あずにゃん、もうだめだー。ふが、む、ぐううう」
(憂、何、ふざけてんのよー!?)
 声にならない声を張り上げた梓だったが、その気持ちは周りも同じようだ。
「こいつ、ふざけてやがる」
「変なの連れてきちまったなあ」
 ぼやく声と一緒にじたばたする音が梓の耳に聞こえた。がそれも静かになる。そして足音が梓のそばに来た。
「アズのやつ、気がついたみたいです」
「目隠し、とってやれ」
 ようやく、梓の両目を塞いでいた布が取り除かれた。何度もしばたいて、まぶしさに目を慣らす梓。
その視界に、梓同様縛られて横たわっている憂の姿が入った。
(憂!)
 その視野に、別の人影がかぶさってきた。
「ようやく目を覚ましたかい?」
 その言葉が終わるまもなく、いきなり腹に蹴りが入れられる。
塞がれて声も上げられず、喉元に逆流してくる苦い液体を梓は必死で押さえ込んだ。
(誰、あんた、誰よっ?)
 梓は涙があふれそうになった目で顔を捜した。女だ。長い髪が顔を半分隠している。が、残りの顔にどこか見覚えがあった。
「ふん、いい気味だわ。今日こそ思いっきり恨みを晴らしてやる」
 梓を睨みつける目が血走っていた。(正気の目じゃない)梓の体に震えが走った。
梓の小さな体に何度も何度も蹴りが加えられる。
「はは、口答えもできないじゃない。あの威勢のよさはどこへいったのさっ!」
 蹴って息が上がったのだろうか、女はようやく脚を止めた。  
「ちぇ、つまんねえや。やっぱり口もほどこう」
 女の子が梓の口のガムテープをはがした。咳き込み、血の混じったつばを吐く梓。
「どうしてこんなこと、するのよ? あんた、一体、誰よ!?」
 そう叫ぶ梓を、冷たく見下ろす目。
「何よ、あたしのこと、忘れちゃったの? あんなに仲良しだったのにさ」
 皮肉っぽく言われて、梓は改めてこの女を見つめた。
(あの事件よりもっと前の顔、いや、顔よりもこの声、この歌声――)
「あ、あんた! あのヴォーカル!!」
「名前ぐらい、覚えておけよ! このバカ!」
 口汚くののしる女に梓はキレた。
「馬鹿はどっちよ! とことん叩きのめすんだった。あのステージの上で再起不能にしてやればよかった!」
「うるさい! あたしが今ここで殺してやる!」
 馬乗りになって首を絞めようとする女を、仲間が抑え込んだ。
「やめてよ! 人殺しの共犯はやだよ!」
 吊り上がった目が梓をねめつける。
「こいつのおかげであたしは人生を棒に振ったんだ! これを見ろ!」
 顔の半分を覆っていた長い髪をかきあげる。端正な顔の目の上。額から眉にかけて、傷跡が走っていた。
「こいつがギターでつけた傷だよ。おかげで謹慎になって最後はクビ、モデルだってパアだ。
男だっていなくなるし、うちの親は離婚した。全部、こいつのしでかしたことなんだよ!」
「なに全部人のせいにしていい子ぶってるわけ!?」梓だって負けてない。
「プロデューサーに身体売ってヴォーカルさせてもらってたんじゃない! 歌、うまくもないくせにさ!
あたしだって、クビになったんだ。あんたの家庭の事情なんて知ったこっちゃないわよ!」
 頷く仲間をじろりと睨みつける女。
「黙れ、畜生。その減らず口を黙らせてやる!」
 ナイフを取り出した女を仲間があわてて止める。
「命までは取らないけど、あたしと同じ傷をつけてやらなきゃ気が済まない。離せ、やらせろ!」
「もう、よせや!」
 騒動にもう一つの声が加わった。
 梓は声の主を見た。背の高い男。そのシルエットには見覚えがある。思わず梓は身震いした。
(そ、そんな、まさか。どうしてこんなところにあいつが――)

 あんな目に会うのはもう二度とごめんだ、梓はずっとそう思っていた。
あの苦い記憶のおかげで、すっかり男性とのお付き合いから遠ざかっていた。
仕事で話をすることはできても、個人的なお付き合いには興味が持てなかった。
 この人ならと思ったこともあった。しかし、心の底では受け入れを拒否していた。
体が触れた瞬間にあの記憶が甦り、吐き気とめまい、原因不明の痛みに襲われることが何度もあった。
無力感にさいなまれ、体の痛みに絶望だけが残されたあの記憶。だから恋愛も一切できなかった。
 梓が桜高校を卒業して、唯の後を追うように芸能界に潜りこんだ時のこと。
所属したのは一応アイドルグループとはいうものではあったが仕事の内容は地方での仕事ばかり。
メンバーもモデルを兼業しているものからアルバイト主体で片手間のアイドルとばらばら。
 そんな中で上昇志向の強い梓はすっかり浮いてしまい、とうとう舞台上で大喧嘩までしてしまった。
いちいち文句をつけられていい加減頭にきていたボーカル女に、ギターを叩きつけて、大怪我をさせた。
その結果、脱退という名のクビになってしまったという経緯があった。
 だがその仕返しに、梓は数人の男たちに襲われ、自分が無力な女であることを思い知らされた。
体の痛みとともに、心までもが折れそうになっていた。
その心をなんとか支えられたのは、唯への思いだった。あのそばに行きたい、立ちたいという願望。
それがあればこそ、その後も、プライドも何もかも捨てて必死でやっていけた。
しかしそれさえもがへし折れた、唯の死去のニュース。
 何もかもが嫌になり、泣いては眠り、目覚めては泣いたあの頃。もうすべてが真っ白だった。
そこに色を取り戻すのにいったいどれだけかかったことだろう。

(あいつだ、あいつなんだ。やっぱりこいつら、グルなんだ。この男は、このボーカル女の手先なんだ。
どうしてよ。もう終わったことなんじゃないの? またやり直しをするって言うの?)
 呆然としているのは梓ばかりではなかった。手からナイフを落とした女がささやく。
「あ、あんた……。どうしてここに?」
「お前がこいつを付け狙ってるって噂、聞いたから。こいつを見失った後で、見当つけてきた。昔のたまり場だろうってな」
 男はそう言いながら、梓と女の間に割って入った。
「く、くるな、近寄るな」
 蒼白になった梓がつぶやく。瞳は宙をさまよい、顔には脂汗。
一気に過去の忌まわしい記憶がよみがえる。まるであの直後のように、体中が痛み出す。特に脚の付け根が。
「この、この、レイプ魔!!」
 やっとの思いで叫んだつもりでも、その声は枯れ、ささやきと大差ない。
「悪かったよ。ほんとに悪かったよ!」
 男の叫んだ意外な言葉に梓は呆然とした。
(あ、謝ってる?)
「あん時のオレは本当にバカだった。こんなアホ女の言葉を真に受けて。まあ、それぐらいバカだったんだけど」
「あんた……」
 女の声を遮って男は続けた。
「だから反省した。こいつとも縁を切った。もう二度とお前の前に現れるつもりはなかった。だけど――」
「だけど?」
「こいつの仲間から、お前を狙ってるって話を聞いた。だけど、お前にそれを言っても信用しないだろう。するわけがないよな。
だから、毎日お前の近くにいて、護ってやるつもりだったんだ」
 その言葉を聞いて、女は金切声をあげた。
「あんた! どっちの味方なのさ? あたし、それともこいつなの!?」
「少なくとも、お前じゃねええっ!」
 男の声で、女はへたり込んだ。目からは大粒の涙が落ちる。
「そ、そんな、あたしは今もあんたのこと……」
「オレのほうには未練もへったくれもねえんだよ。この見境なしのアマにはよぉ」
 女は濡れた瞳で梓をにらみつけた。
「こいつだろっ! あんた、あたしからこいつに乗り換えたんだ! なんでだ、なんでこいつなんだよおっ!?」
「ひいいいぃぃぃっ!!」
 声にならない悲鳴を梓は上げた。
(こいつがあたしに? なんで、なんでそうなるの?)
「こいつは、オレに犯されるまで処女だったんだよ!」
「やめて、止めて!! 言わないでぇっ!!」
 顔が真っ赤になるのが、梓にもわかった。 
「何人か犯ったけど、処女はこいつだけだった。こいつの涙を見たときに、すっげえ罪悪感を感じたんだよ。
すげえ興奮したのも事実だけどな」
「うるさい、もう黙れ。しゃべるなぁ。口を閉じろぉ!」
 もう、梓の頭の中は大混乱になっていた。訳が分からないことを梓はわめいた。
腰から下にじんわりと生暖かいシミがひろがっていたことにも気がついていなかった。
「だから今は護ってやりたいと思ってる。オレがひどい目にあわせた。だからもう二度と酷い目にはあわせない。そんだけのことだ」
 男はそういうと、膝を曲げ地面に手をつき、土下座をする。
「昔のよしみで頼む。もうこいつのことは忘れてくれ。お前もこいつもお互いめちゃくちゃになったんだ。
これ以上はもう止めようや。頼む」
「いやだっ!」
 泣きながら女が叫んだ。手には、いつの間にか拾ったナイフが光っている。
「これでこいつを殺す。そしてあんたも殺して、あたしも死ぬ。それで精算する!」
「バカ言ってんじゃねえよっ!」
 男の一喝で、女の動きが止まった。
「それに、もうすぐ来る」
「く、来るって何が?」
 そうつぶやいた梓の耳に、遠くから近づくサイレンの音が聞こえた。
「ここを見つけて、警察に連絡した。逃げるんなら、今のうちだぞ」
 仲間があわてて、女を立たせた。未練たっぷりな表情の女を無理やりに引きずって逃げていく。
「ということだ。すまん。全部、オレが悪かった」
 そう言いながら、男は憂の猿轡を外した。いつの間にか、憂も目を覚ましている。
「それとあんたのこと、あいつらの仲間かと誤解した。さっきは乱暴してすまん」
「あ、あたしは大丈夫。でも梓ちゃんは?」
「大丈夫だよ、憂。でも漏らしたことは内緒にしておいて」
 縄を解かれながら、梓は頬を染めた。



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