―― 統一暦二十九年 六月二日 軌道ステーション『アスガルド』 ――
黒の騎士団技術本部長という要職を務める初老の女性ラクシャータ・チャウラーは、遥か下方に見える黒い巨影を見下ろしながら、満足そうに手にした煙管を振っていた。
お偉いさんになってしまってから、立場故に無聊な日々を過ごしていた彼女にとっては、久方ぶりに面白味のある大仕事。
ましてや、もう一度、あの憎たらしいプリン伯爵の鼻をあかせるとあらば、楽しくない筈も無い。
クルクルと指先で煙管を回す仕草も、ここ十数年見せていたどこか物憂げな態度とは異なり、勢いとでも言うべきものを感じさせていた。
そんな彼女の背後で、唐突に微かな足音が鳴る。
わずかな驚きと共に振り返った先には、現在のところ彼女にとっての直属の上司というべき仮面の英雄が、いつの間にやら佇んでいた。
「……ゼロ?」
「準備が完了したと聞いた」
黒い仮面が発する変調された無機質な声に、ラクシャータの顔にも年輪を重ねた大人の表情が重なる。
まだ報告は上げていなかった筈だが―――等と言う愚かしい考えは持たない程度の分別はある彼女だ。
その程度の事は、聞かずとも知る『眼』と『耳』が無ければ、世界の英雄などやっては居られまい。
また、そんな彼の庇護があればこそ、超合集国の眼すら盗んで、こんな代物を極秘裏に造る事も出来たのだという事を彼女も充分承知していた。
故に、英雄の突然の来訪にも余裕ある態度を崩す事無く、彼女はいつも通りに応じてみせる。
「フ〜ン……まぁ確かに、予定通り出来てるけどね」
そう答えると背後の強化ガラス、いや、その奥の空間に鎮座する物を手にした煙管で指し示す。
彼女の答えを受けると、ゼロは無言のまま歩き出した。
そのまま歩を進めた彼は、制御室の一面を占有している窓辺へと寄ると、そこから眼下の薄暗い空間へと視線を向ける。
「ご注文通りの機能を持たせたわよ」
背後から聞こえるラクシャータの声に、黒い仮面が微かに揺れた。
一瞬の間を置き、無機質な声が、再び制御室に響く。
「……名は、なんと?」
「『スヴァルトアールヴヘイム』――北欧神話の中に出てくる黒妖精の国の名を使わせて貰ったわ」
そこで一旦言葉を切ると、彼女は、やや皮肉気な笑みを浮かべた。
「さしずめ『黒き妖精郷』ってところね。
アヴァロンの代わりとしては、丁度良いでしょうよ」
今は、もう無い艦の名を引き合いに出すラクシャータに対し、ゼロはゆっくりと首肯する。
「……了解した。
手間を掛けたなラクシャータ」
「まぁ、技術本部長とやらに祭り上げられて、暇してたからねぇ………暇潰しには手頃だったわ」
英雄直々の労いの言葉にも、軽口で応ずる辺り、付き合い、いや、腐れ縁の長さが知れる。
まあ実際に、彼女にとっては暇潰しだ。
外に秘密を漏らす事無く、期限までに準備を整えるだけでも一苦労だったなどと、口が裂けても言う気の無いラクシャータにして見れば、これは何処まで行っても暇潰しなのだから。
そんな彼女の心情を知っているのか、いないのか。
いや、恐らく知っていたのだろう。
黒き仮面の奥には、微かな笑みが浮かんでいた。
「何かメッセージはあるか?」
「フン、冗談。
せいぜい青二才になったプリン伯爵に、よろしく言っとけばいいんじゃない?」
投げられた問いにも憎まれ口を返す。
ゼロは、ただ静かに頷いた。
「了解した」
泰然自若としたその態度に、ラクシャータの眉がわずかに上がる。
何となく見透かされているのが、少しだけ気に食わなかったのだ。
だがそれでも、彼女なりの矜持あるいは美意識が、それを態度に出すのを抑えてのける。
「じゃあねぇ〜」
最後まで、その胸中を見せる事無く、背中越しに手を振りながら去っていく。
そんな彼女の背を見送りながら、ゼロは今一度だけ頭を垂れた。
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―― 西暦一九九〇年 六月七日 帝都・帝国軍技術廠 ――
光量の落とされた暗い室内に会した帝国軍の将官と兵器開発メーカーの重役達は、プロジェクターに映し出される戦術機の機動をじっと見つめていた。
全体的な印象は、現在帝国軍の主力を担う撃震に見えるが、通常のそれとはフォルムに大きな差異が見て取れる。
下半身がややスマートになり、逆に上半身、特に肩の辺りが肥大化した感じのソレは、どちらかというと第二世代機以降の機体に近く、映像の中で演じられる機敏で滑らかな動作も、第一世代機のソレとは隔絶の感があった。
――撃震・甲型
それが光菱、富嶽、河崎三社による共同試作機であるこの機体の仮称である。
とある理由から、急遽、第一世代機である撃震の強化案として試作されたこの撃震・甲型は、計画開始から数ヶ月の時を経てようやく軍関係者に対してお披露目をするところまで漕ぎ着けたのだが、映像を見つめる軍高官や技術将校達の表情はかなり渋かった。
「……ダメだな、コレは」
「性能面では、まあ及第といったところだが……」
手元の資料を、ポンッとデスクに置いたとある将官の言葉に、別の将校が消極的に同意する。
対面に座るメーカー側の重鎮達の頬が、わずかに引き攣った。
「もう少し、なんとかならんのかね?」
「値段が高過ぎる。
これでは到底、必要な数を揃えられんぞ」
堰を切った様に次々と上がる不満。
スペック面では要求通りでも、コスト面で当初の要望を大幅に上回る価格が書かれた資料に、軍官僚達は揃って渋い表情を隠そうともしない。
正直、これなら撃震を陽炎に置き換えた方が効率的だと呟く者すら居た程だ。
そんな失望感が見え見えな軍の態度に、メーカー側は冷や汗をかきつつ価格高騰の理由を何とか納得して貰おうとするが、続く一言がその口を凍りつかせる。
「つまり枢木には出来ても、君達には出来ない。
そう取って構わんのだね?」
重役達の表情が揃って強張った。
軍がメーカーに対し、こうまで露骨に失望して見せる理由がそれである。
要するに、既に枢木が製品化し大々的に販売中のファントム・アップデートシステムの二番煎じ、というか技術盗用によって産まれたのが撃震・甲型という訳だ。
現時点で、充分にコストに見合う製品が存在している以上、同価格帯で同じような製品が造れないという事は、明らかに技術面で後塵を拝しているという事になる。
無言の圧力がメーカー陣の上に、静々と圧し掛かっていった。
――ファントム・アップデートシステム。
昨年より枢木から発売され、中東を中心に活躍を見せ始めたこの戦術機用追加装備群は、第一世代機であるファントムを、短時間・低価格で第二世代機以上にまで押し上げるという成果から、現在、各国軍関係者より熱い視線を浴びている。
既に欧州及び南北アメリカ大陸にまで広がりつつあるこの商品は、現状、枢木工業及びライセンス契約を結んだ米国MD社の独占販売状態が続いていたが、各国の兵器メーカーでも模倣あるいは概念・技術を導入した新兵装開発への着手が始まっていた。
この場合、帝国における撃震・甲型もその一例と言えなくもなかったが、やや複雑な事情――枢木工業を帝国の戦術機開発から弾いたという過去――がある所為で、本家本元への発注ではなく、他メーカーによる試作という奇妙な形になっていたのである。
その当時、実績不足・技術不足を理由に、枢木の戦術機開発参入に猛烈に反対したのが、軍の一部と結託した彼らメーカーであった事も、排斥に関わらなかった軍人達の評価を下げていた。
本来なら既に手に入っていた筈の物が手に入らない。
その苛立ちが、彼等の舌鋒を鋭く尖らせるのは、ある意味必然ですらあった。
そんな軍の対応に対し、後悔先に立たずを地でいく破目になった重役達の顔色はすこぶる悪い。
しどろもどろに返す答えも、歯切れが悪く煮え切らなかった。
「正直申しまして、戦場で遺棄された残骸から解析するだけでは限界があります」
「構造自体は、ある程度解析できましたが、製造工程が全くわかりません。
試作機に用いた製法で同じ物を製作すると、量産化によるコストダウンを考えても、この程度は頂かないと赤字になってしまいます」
「何とか製法の一端なりと掴めれば、そこからどうにか出来るかもしれませんが………」
言外に、何とか製造工程の情報が盗れないかと匂わせる様に、一部の軍人は顔を顰め、その他の者は軽蔑の色を浮かべた。
日々増し続けるBETAの圧力に大陸派兵が急速に現実味を帯びてきた昨今、短期間での戦力向上が見込めるアップデートシステム(またはその類似品)を、可能な限り早く必要数を揃えたいというのが軍の本音ではあるが、枢木には注文を出し難く、他のメーカーでは妥当な価格で作れないでは話にもならない。
事態をややこしくする遠因となった枢木外しに、一枚噛んだ一部高官に対する他の面々の視線は、話が進んでいく事に鋭く険しくなっていった。
そんな中、座の末席を占めていた篁と巌谷は、事態の面倒さに溜息を吐きつつ顔を見合わせる。
『何で技術盗用を前提に話してるんだ?』
『面子の問題だろ。
枢木を戦術機開発から弾いた手前、今更、手を貸せとも言えんからな』
可聴域ギリギリの小声で意見を交わす二人。
巌谷の頬が、皮肉気に歪んだ。
『無断盗用の方が、よっぽど恥になると思うがね』
『独自開発技術だと誤魔化すんだろう』
友の皮肉に、より辛辣な答えを返した篁は、そこで視線を感じると、発生源へと目線を動かした。
高官の一部、具体的には枢木外しに精力的だった面々が、何かを期待するような眼差しで彼らを見ている。
考えるまでも無く透けて見える意図に、篁はウンザリとした気分になりながらも無視する訳にもいかず問い掛けた。
「……何か?」
「君達も議論に加わらんかね」
「そうそう、いかに親友同士とはいえ、会議の場で内緒話ばかりしているのはどうかと思うが?」
明らかに自分達を巻き込む気満々な連中に、篁の表情も険しくなる。
確かに枢木とは私的な友誼はあるが、それをツテに公の面で無理を言うなど、篁にしてみれば出来ない相談だ。
ましてやこの場合、言っては何だが非は軍の側にある。
まずは、キチンと筋を通した詫びを入れた上で、改めてというのが正道だと彼個人は思っていた。
しかるに、この連中には、そんなつもりはサラサラ無いらしい。
それどころか、この期に及んでもメーカー寄りの姿勢を崩すつもりは無いらしいのが雰囲気で伝わってきた。
これあるを予期して、策を授けてきた少年の高笑いが、篁を脳裏を過ぎる。
『これも彼の計算通りか……』
内心でそう嘆息した篁だったが、仕方ないと腹を括った。
親友に目配せで合図をすると、謹厳実直な彼にしては珍しい皮肉気な表情を浮かべ口を開く。
「――小官といたしましては、盗人の片棒を担ぐような真似は、遠慮させて頂きたいのですが……駄目ですかな?」
「「「「――ッ!?」」」」
思いも寄らぬ痛烈な嫌味に、一部の例外を除き、全員がグッと言葉に詰まる。
生真面目と評判の中佐からの手厳しい指摘に、メーカーの重役連は揃って彼から目線を逸らした。
再び降りかけた嫌な沈黙。
それを突き破るように、一人の軍人が挙手をする。
「議長」
巌谷が発言を求めた。
立ち上がる際、脇の篁に軽くウィンクを送って来る。
「どうでしょう?
ここは正式に枢木に対し、アップデートシステムの発注を行うというのは」
正式に発注を出す事を提案する巌谷。
問題の正面突破を企図したそれに、引け目の無い一部の高官らは賛成の意を示し、逆に面子を潰されるであろう高官達からは強い反対意見が続出する。
「現時点で枢木の生産能力は、全て欧州・中東向けになっていると聞く。
帝国の要望に、早急に応えられるとは思えん」
「左様、それならば必要な技術を公開させて、生産力に余裕のある他メーカーに造らせるのが効率的だ」
あまりにも露骨過ぎる言い分に、少なからぬ軍高官達が眉を顰めた。
兵器メーカーの代弁者めいた発言には、まともな軍人達が非難の声を上げかけるが、それを制するかの様に、冷静沈着な声が会議室内に響く。
「きちんとライセンス契約を交わして……という事ですな?」
シンと場の喧騒が静まった。
一瞬、呆けたような顔を見せたメーカーの重役達が、次の瞬間、顔を赤くして反論する。
「枢木の出した条件は、到底呑めん!」
「あんな金額を払っては、我々は大赤字だっ!」
「その通り、非常識過ぎる!」
……等々、非難めいたセリフを吐く資格があるか大いに疑問の残る面子だったが、枢木が各メーカーからの内々の打診に返した回答が、非常識だったのは確かである。
話題のライセンス料を例に取ると、彼のMD社の実に十倍を超える法外な値段を吹っかけてきたのだ。
この挑発まがいの回答を受け取ったメーカー経営陣は、自分達の過去の行いを遠くの棚の上に放り投げて一様に怒り狂い、反枢木の意を固めたのだが、それを計算通りと笑う少年が居た事までは彼らが知る由も無い。
室内に響く喧々囂々たる怒声に、唱和する声が相次いだ。
「アヤツらは、帝国の一員として、祖国を守る意志があるのか?」
「ある訳が無い!
実質、枢木を動かしているという息子は、半分は日本人では無いのだからな」
「母親も同じだ!
所詮は、英国人と情を通じて、私生児を産むようなふしだらな女だ」
自分達の失態を誤魔化すつもりか、メーカーの御用聞き達が口々に喚き立てる。
もはや当初の議題を忘れ、完全に枢木への悪口大会の様相を呈し始めた会議に、心ある将校の多くが不快気に眉を顰める中、今度は篁が挙手をした。
「議長!」
騒々しいだけだった場の雰囲気が、一瞬だけ凪いだ。
周囲の視線と意識を一身に集めながら、篁はおもむろに口を開く。
「小官に一つ愚策があります」
………二時間後、尽くされた議論の果てに、篁の提案は採用された。
そして、この日より三週間の時を経て、帝国議会の承認を得た日本帝国国防省は米国MD社に対し、大量のファントム・アップデートシステムの発注を掛ける事となる。
尚、この際、舞台裏では、国産に拘る一部将校が、枢木に製造技術を強制的にでも提供させ、国内メーカーに生産させるべしとの過激な意見を唱えたものの流石に非常識として退けられていた。
また今回の騒動の結果として、国内戦術機メーカーの技術力不足がより鮮明な形で露呈する事となり、国産派はその勢力に少なからぬダメージを負う形となったのである。
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―― 西暦一九九〇年 六月七日 帝都・榊邸 ――
良く整えられた庭園を見ながら、榊是親は一人、物思いに耽っていた。
現内閣において国防相の要職を占める彼は、自国の先行きに垂れ込める暗雲をヒシヒシと感じ取っている一人であり、それを何とか回避すべく様々な手段を模索していたが、未だ決定的な打開策を見出す事が出来ぬまま苦悶の日々を過ごしていた―――否、過ごしていたと言うべきか?
榊の視線が手元に置かれた書類へと移る。
純白の紙に、墨痕凛々とした達筆で書かれた表題を、鋭い眼差しで見つめていた男の耳に、襖の向こうから声が届いた。
「先生、お客様がお見えになりました」
「――通してくれ」
ようやく来た待ち人に、榊が軽く吐息をついた。
一瞬、弛緩した心と身体を、改めて引き締めなおした榊は、客人を迎えるべく卓の前で姿勢を正す。
程なくして、秘書に伴われて姿を見せた軍人に、榊は軽く頭を下げた。
「お忙しいところ、お呼びだてして申し訳ない」
「いえ、お気になさらずに。
大臣がそうされるには、相応の理由がお有りでしょう」
まずは、無理を言って時間を作ってもらった事に謝辞を述べる。
対して温和そうな表情を浮かべた軍人――帝国陸軍少将 彩峰萩閣は、恐縮したように首を振って応えた。
軍の中では良識派として知られ、また、次期将軍殿下たる煌武院悠陽の教育係も務める程に見識にも富んだこの人物は、それ等の評価に驕る素振りも見せない。
今回、真っ当な軍人の代表格として、相談を持ちかける相手に選んだ事が誤りでは無かったと榊は内心で安堵した。
「確かに……まあ、お座り下さい、彩峰少将」
「ハッ、失礼します」
そうやって席を勧められると、彩峰も被っていた軍帽を脇に置き、榊の対面に腰を下ろす。
座の空気を見計らっていた秘書が、彩峰の前に茶を置き、榊の前に置かれていた茶碗も取り替えると、後は心得たもので、何も言う事も無く部屋を出て襖を閉ざした。
遠ざかる足音を聞きながら、榊は、先程まで自身が見ていた書類を、彩峰の前に差し出す。
「まずは、これをご覧頂きたい」
彩峰の眉が、微かに寄った。
ザッと眺めた表紙の文字を、困惑しながら口にする。
「これは……建白書……ですか?」
「とある武家から、殿下に対して奏上された物の写しの一部です」
「随分と時代がかった事ですな」
彩峰の顔に微かな苦笑が浮かんだ。
敵対者からは将道派などと揶揄される程、将軍への忠義に篤い彼であったが、その彼から見ても時代遅れの感は拭えない。
だが、今の世においては、時代錯誤としか言えないソレを前に、何のつもりかと榊を見た彩峰の頬が、そこで僅かに強張った。
真剣そのものな表情で、ジッと自身を見つめる榊の眼光が、笑い事ではないと無言で語っていたからである。
沈黙した彩峰を前に、ゆっくりと頭を振った榊は、重苦しい声でボソリと呟いた。
「中身は到底、古風とは言えませんよ」
苦笑を呑みこみ表情を変えた彩峰の面前で、コツコツと卓を叩く音と共に榊の声が響く。
「向こう数年間に及ぶ世界の政治・経済・軍事に関する未来予測と、それに伴う帝国の方針に関して精細に記述されています」
「それは……いや、しかし……」
困惑が更に深まる。
刺す様な張り詰めた雰囲気を放つ榊に対し、彩峰は、半信半疑の面持ちで手元に置かれた建白書を見直した。
―――信用できるのか?
戸惑いながら、内心でそう呟く彩峰の耳を、一片の揺らぎも無い榊の声が打つ。
「まずは、眼を通して頂きたい。
それは建白書の概要に当たる箇所です。
大まかな内容は、掴めるでしょう」
冗談を言っているとは、到底思えぬ榊の態度に、彩峰も困惑しながら頷く。
「……分かりました。拝見させて頂きましょう」
少なくとも、榊是親という男が、他人を騙して喜ぶような人物ではない事を、彼も良く理解している。
半信半疑を、七信三疑程度に変えながら、彩峰は建白書の表紙をめくった。
室内に紙をくる音のみが、暫し響く。
徐々に、そのペースが落ち、代わって時折、唸りにも似た音が響く様になっていった。
………やがて……
「これは……本当に?」
中天にあった陽は既に傾き、やや赤みを増した光が障子越しに差す室内で、ようやく建白書を読み終えた彩峰が、呻く様に呟く。
誰にとも無く投げられたその問いに、榊が無言のまま頷いた。
悪酔いを醒ますように首を振る彩峰に、重々しい声で榊が告げる。
「枢木家から殿下へ奏上された物です」
彩峰の双眸に、理解の光が灯った。
「――成る程、枢木でしたか」
ある意味、納得のいく情報に、彩峰は複雑な溜息をついた。
既にして武家の範疇を越えつつある枢木は、日本最大級の企業体として無視しえぬ勢威を誇っている。
彼が目にした建白書を書く上で、必須とも言える正確かつ重要な情報群も、枢木になら入手可能だ。
そして、それは同時に、いま彼が眼にした未来予測が、荒唐無稽な夢物語ではないという事でもある。
手元から上げられた彩峰の眼に、緊張の面持ちを湛えた榊が映った。
一瞬、互いの視線が交錯する。
来訪前に、踏ん切りを付けていた榊が、先に口火を切った。
「政治、経済に関しては、私にもある程度は分かります。
私見を言わせて頂くなら、殆ど穴らしい穴が見当たりませんでした」
そこで一旦言葉を切った榊が、真っ直ぐに彩峰を見る。
誘われる様に、彩峰が問い返した。
「つまり、大臣が門外漢である軍事に関する評価を、小官にと?」
「ご多忙な中、申し訳ありませんが、是非ともお願いしたい」
そう言って卓に額を付けんばかりに、深々と頭を下げる榊を前に、彩峰は数瞬だけ躊躇った。
これ以上、関わる事に微かな恐れを感じたが故に。
だが、その躊躇いも微動だにせぬまま頭を下げ続ける榊を前にし、ゆっくりと薄れていく。
ここまでされては退けないという思いと、軍人として、この書の先を知りたいという欲求が恐れを駆逐したのだ。
一度だけ眼を閉じ、深く息を吐いた彩峰は、覚悟を決めた声で榊の要請に応える。
「分かりました。
浅学非才の身ではありますが、お引き受けしましょう」
榊が、明らかにホッとした表情で顔を上げる。
内容が内容だけに、胡乱な者には託せなかったのだ。
ここで彩峰に断られれば、次の候補を探すのは、榊をしても容易ではない。
「感謝します、彩峰閣下」
「いえ、こちらこそ」
差し出された榊の手に、彩峰の無骨な手が重なった。
■□■□■□■□■□
―― 西暦一九九〇年 六月九日 大阪 ――
天下の台所の呼び名で名高い地――大阪。
日本中から、否、世界中からあらゆる物資が集まり、そして散って行くこの土地は、それ故に様々な顔を併せ持つ。
………そう、本当に色々な顔を。
そんな大阪の持つ顔の一つ。
うらぶれた倉庫街の一角に、その場には似つかわしくない男が一人紛れ込んでいた。
「はてさて、随分と堅い警備を抜いてみれば、出てきた物はタダの石ころとは」
かっちりと麻のサマースーツを着こなした伊達者は、どこか芝居がかった口調で呟きながら、先程、開けたばかりのコンテナの中身を見下ろす。
其処には、赤みを帯びた石、いや岩の破片とでも言うべき物が、ギッチリと詰め込まれており、重量自体はかなりのものだ。
それらが更に大型のコンテナに整然と詰め込まれ、ボロではあるが相応の広さを持つ倉庫を、ほぼ埋め尽くしている。
とある大企業が、複数のダミーを介し、幾重にも隠蔽して国内に運び込んだ品がコレだった。
異常とすら言える程の秘匿ぶりは、上からの厳命で彼が注視していなければ、まんまと出し抜かれていただろう程に狡猾、且つ、巧妙であり、事の重要性をプンプンと匂わせていた―――そう、報告を受けた上司をいきり立たせ、無謀な潜入を強行させる程に。
今回の潜入に費やされた人員と費用は尋常ではなく、そこまでのモノをつぎ込んで尚、この場に到ったのが彼だけと言う事実が、相手のガードの堅さを伺わせていた。
そして、喪われたモノを贖うに足るだけのモノが得られなければ、こちらもタダでは済まないという事も。
正直、意に染まぬ仕事ではあったが、仕事は仕事。
ましてや、多大な被害を受けた以上、彼としても得る物もなく退けないという立場がある。
それ故に、林立するコンテナの只中で、男は顎に手を当て、首を捻った。
その仕草からは想像しづらい切れる頭脳を、高速で回転させながら思考する。
問題は、これが何かという事だ。
その職業上、男は博識と言っていい知識の持ち主であったが、それでもこの石コロの正体は皆目見当もつかない。
暫し黙考した後、男は考える事を止めた。
分からないモノは仕方ない。
そうアッサリと割り切ると、男は、再び芝居めいた調子で独白する。
「……まあ、今をときめく枢木が、ここまでする以上、相応の理由があるのは明白。
差し当たり、行きがけの駄賃なりと頂いていきますかな」
餅は餅屋に。
分からないモノは、分かる人間に調べさせれば良い。
そう判断するや、店先のリンゴに手を伸ばすような気軽さで、コンテナの中に鎮座する拳大の石へと手を伸ばし―――引っ込めた。
眼にも留まらぬ速さで。
音も無く石の上に突き立った銀色の物体――クナイを見据える男の眼が、スッと温度を無くすと同時に、倉庫内に良く通る声が響く。
『招かれざるお客人が、駄賃まで持っていこうとは、少々、欲が深過ぎるのでは?』
歳若き女性の声に、男の頬が微かに緩んだ。
出し抜いたつもりが、そうではなかった事に気付いたからである。
だが、それは同時に………
「……これは、これは」
コレが、只の石コロではないという証左でもあった。
枢木の情報部門を統べる才媛が、わざわざ出張ってきた事自体が、その証となる。
「名高き篠崎のお嬢様のお出ましとは。
やはりタダの石ころではないという事ですな?」
音の反響すら利用し、居場所を掴ませぬ相手に向かい、男は不敵にも挑発を仕掛ける。 脱出の機を伺いながら、少しでも情報を引き出すべく動く辺り、胆力・機転共に尋常ではなかった。
一方、こちらもさる者というべきか、微塵も動揺を感じさせぬ声が、いずこからともなく降ってくる。
『申し訳ありませんが、お答えする義務は御座いません』
男は残念そうに肩を竦める。
その口元が、微かに歪んだ。
「フム、つれない事を仰る。
仕方ありませんな、こちらで勝手に調べるという事で」
どこか勿体ぶった言い回しでそう告げると、再び、コンテナへと手を伸ばし、又、引っ込めた。
再び、石を貫いたクナイを眺めながら、ヤレヤレといった仕草を演じてみせる。
わずかに揺らぐ声が、どこからともなく響いた。
『それも、ご遠慮して頂きます。
帝国情報省外務二課の鎧衣左近殿』
素性を言い当てられた男――鎧衣は、場違いなまでに上品な笑みを浮かべた。
そして、さも困ったように首を振る。
「困りましたな。
ここまで来るのに相応のコストが掛かっているので、手ぶらという訳にはいかないのですよ」
『ご安心を。
お帰り頂くつもりも、有りませんので』
その宣言を契機に、不敵と言うか、いい度胸と言うか、未だにその姿勢を崩さぬ左近に向けて、複数の殺気が殺到する。
いつの間にやら周囲を固められた事を悟り、左近の双眸が僅かに細まった。
いずれも恐るべき手練達――自身が、枢木の暗部を読み損なっていた事を理解しつつ、まるで降参とでも言うかの様に両手を挙げてみせる。
「フム、袋の鼠というヤツですかな?」
『罠に掛かった古狸の間違いでは?』
必殺の間合いに捕らわれた男が、大袈裟なリアクションを演じてみせると、冷ややかな声がソレに応じた。
左近の笑みが深くなる。
「いやはや、これは手厳しい。
……それでは、狸らしい芸の一つでもお見せしましますかな?」
男が嗤う。
そこに危険なモノを感じ取った咲世子が、配下に合図を送るより一瞬早く、倉庫街一帯を押し包むほどの轟音が鳴り響いた。
「クッ!?」
衝撃に砕けた窓の向こうで、火の手が上がるのが見えた。
次の瞬間、元の位置へと戻った包囲者達の眼に映ったのは、蓋をこじ開けられたコンテナのみ。
見下ろす咲世子の双眸が、わずかにキツくなった。
芸の種――あらかじめ周囲に配して置いた爆弾を目晦ましに、危地を脱した左近は、何事かと集まり出した人ごみに紛れ、悠々と現場を離脱しつつあった。
ある程度の距離を稼いだ後、路地へと逸れ、ホッと一息ついた男は、懐に収めていた『駄賃』を確認する。
親指大の赤い小石が一つ。
それが、現代の忍者・鎧衣左近の今夜の成果の全てだ。
今宵だけで喪われたモノを考えるなら、余りにも不釣合い過ぎる。
「篠崎の看板に偽り無しか。
全く末恐ろしい事だ――おっと」
相変わらずな口調で、どこか演技をしているような男が、不意にユラリと身を翻す。
一瞬前まで、彼の頭が在った空間を、一条の銀光が貫いていった。
チラリと背後へと向けた眼に、一瞬だけ、ほっそりとした人影が映り、消える。
「くわばら、くわばら」
そう呟きながら、まるで誰かに見せ付けるように肩を竦めると、鎧衣の姿もまた野次馬の中に溶ける様に消えていった。
赤々と燃え盛る炎が、夜の大阪の一角を不気味に彩っていた。
高台にある枢木資本のホテルから、その光景を見下ろしていた少年――枢木ルルーシュは、面白そうに口元を歪める。
「流石に無視は出来なくなったか。
随分と大物が出張ってきた様だな」
ここ数年の枢木の大躍進は、どうやら予想以上の注目を集めていたかと苦笑する。
出る杭は打たれるの例え通り、これからは枢木に対する圧力が、更に強くなるであろうと予測し、ルルーシュは対策を思考した。
複数のプランが、並列して進み、取捨選択が彼の中で行われる。
二十八通りの対策が、六件まで絞り込まれた処で、不意に少年は背後へと声を掛けた。
「咲世子か?」
「……はい。
鎧衣左近を取り逃がしました」
片膝を立てて跪き、己が失態を告げる咲世子。
だが、そんな彼女へと向き直ったルルーシュは、秀麗な容貌に悪戯っぽい笑みを浮かべてみせた。
「持って行かせたか?」
「ハイ、しっかりと持って行きました」
どこか笑いを含んだ問いに、常のメイド服とは異なる忍び装束に身を包んだ咲世子が応じた。
ルルーシュの笑みが、陰謀家めいた色を帯びる。
世界各地に残る遺跡の残骸からサクラダイトを回収する際、目晦まし目的のダミーとして用意した小道具を利用しての小手先の策。
上手くいけば儲けもの程度の認識だったが、予想通りに嵌ったとなればやはり気分は良かった。
主演女優を演じた臣下を、労う声にも喜色が混じる。
「ならば良い。
全ては計算通りだ」
――大山鳴動して鼠一匹。
ここまで事を大きくしておきながら、得た物が『タダの石コロ』一つだけとなれば、さてどうなる事か?
彼の口元に、人の悪い笑みが浮かぶ。
今回の一件を鎧衣に命じた反枢木の連中が、どう責任の擦り付け合いをするか?
そしてソレを利用して、どう連中を引っ掻き回し、失脚へと追い込むか?
自らが主導し、演出するであろう未来の悲喜劇を想像し、少年は心底愉快そうに高笑いを上げた。
■□■□■□■□■□
―― 西暦一九九〇年 六月十二日 帝都・枢木邸 ――
「はぁぁぁぁっ!」
風切る音に、少女の気勢が混じる。
敬愛する父から誕生祝いに贈られた木刀を手に、篁 唯依は遥か高みにある敵へと挑み掛かり―――
「おっと」
―――かわされた。いともアッサリと。
振り切った得物の反動を殺しきれず、勢い余ってたたらを踏み、転びかける唯依。
そんな彼女の醜態を前に、名高き双刀使いとして名を馳せた黒髪の美女は、左手のみに携えた小太刀をダラリと下げたまま意味ありげにニヤリと笑う。
プチッと、何かが切れる音がした。
「くぅぅっ!」
「う〜ん、まだまだねぇ」
悔しげに唸りを上げる美少女と、余裕綽々といった風情で笑う美女。
見ているだけなら眼の保養になりそうな一組であるが、一方が放つピリピリとした雰囲気がソレを壊している。
調息を終え、足元を踏み締め直した唯依が、再び一閃を放った。
正眼の構えから放たれる突きが、一筋の矢と化して真理亜の喉元へと迫る。
「うぉぉぉ!」
「よっと」
渾身の気合と共に放たれた一撃が、軽い掛け声と共にスルリと外された。
わずか十センチにも満たぬ最小の見切り。
立ち位置を半歩たりとも変える事無く、自身の最高の一撃を往なされて、唯依の闘志がグラリと揺らいだ。
空かさず放たれた一閃が、延びきった腕ごと木刀を弾く。
ただそれだけで、完全に重心を崩された少女は、抗う事も叶わず尻餅をついた。
挫けた心が錘となって、唯依の手足を萎えさせる。
滲みかけた涙を隠すかの様に、彼女は吼えた。
「はっ、はぁ、はっ………叔母様、本気でやって下さい!」
悔しくて悔しくて堪らなかった。
目の前に立つ人が、まるで本気を出していない事が。
そして、本気を引き出せない不甲斐ない自身が。
追い付きたかった。
一日でも、一時間でも、一分でも早く。
………追い付きたいのに。
遥か彼方に在るあの人の背中。
それが一層遠のく思いに、唯依は苛立ちを抑える事が出来なかった。
そんな彼女の心情を逆撫でするかの様に、リラックスし切った声が響く。
「え〜〜充分、本気だけど?」
「嘘です!
なら、なんで反撃して来ないんですか!?」
普段の甘えっぷりは何処へやら、歯を剥き出さんばかりの勢いで唯依が噛み付く。
あまりのエキサイト振りに、珍しく真理亜が戸惑いを見せた。
困ったように頬を掻きつつ、さてどうしたものかといった表情で首を捻りながら宥めに掛かる。
「う〜ん……やっぱり、アレよ。
唯依ちゃんの珠のお肌に、傷とかつけられないでしょ?」
女の子の身体に傷など付けられないと、それなりに正論っぽい事を言ってみる。
だが、そんな程度の誤魔化しで納得させられる程、今日の唯依は甘くなかった。
キッと睨みつける眼差しに、真理亜は微かに気圧される。
「それが、本気でやってないと言ってるんです!」
叩きつけるような一喝を受け、真理亜は溜息を吐く。
何となく唯依の苛立ちの原因が理解出来たのだ。
そしてそれが、一朝一夕で解決が付くモノでもない事も。
焦ったところで届きはしないのだ。
彼女の自慢の息子が、これまで積み上げてきたモノは、決して易くなく、安くもないのだから………
……いや、唯依にもそれは分かっているのだろう。
分かっていても、焦る思いは止められない。
逸る気持ちが抑えられない。
所詮、人間の感情は、ロジックではないのだ。
――仕方が無いか。
そう胸中で呟くと、彼女は、今この時だけ道化を演じる事とした。
オヨヨとばかりに蹲り、目元を押さえながら嘆いてみせる。
「嗚呼、唯依ちゃんが虐める。
これが嫁の姑イビリというヤツなのね」
………何気にノリノリであった。
悲嘆にくれる様を演じながら、唯依の急所をピンポイントで抉る。
幼い美貌が、真っ赤に染まった。
手の平で隠された女の唇が、ニヤリとばかりに釣り上がる。
「はあわっ? だ――誰が、よ、嫁ですかっ!?」
「唯依ちゃんが、ルルーシュの――違うの?」
裏返った声で絶叫する唯依。
それに対して、打てば響く様に答えが返る。
少女の顔が、赤くなり、青くなり、また赤くなった。
「お、叔母様ぁっ!」
「あ〜ハイハイ、分かったから。
今日は、それなりに動いたし、もう終わりにしましょう」
喘ぐように絞り出された声。
春風駘蕩とばかりに緩んだ声。
酸欠状態に陥り、パクパクと口を痙攣させる唯依の手から、ヒョイッと木刀が取り上げられる。
得物を奪われ、頭に昇った血が降りる事で、彼女が正気づいた時には、既に真理亜は背を向けていた。
「う〜〜〜」
その背に恨めしそうな唸りが届く。
だが、その程度の事では、歳経た老獪な女狐様を振り返らせるには、力不足も甚だしかった。
そのままスタスタと歩み去る姿を、しばし睨みつけていた唯依だったが、プックリと頬膨らませつつも、根負けしたようにその後を追う。
稽古に使っていた広い庭を横切った二人は、良く磨かれた縁側へと腰掛けた。
「はぁ、もう随分と暑くなって来たわね」
先程の爆弾発言など無かったかの様に、涼しい顔でのたまう。
唯依の眼が、微妙に釣り上がった。
微かな笑みが、真理亜の口元に浮かぶ。
どうやら唯依の自省癖が発動する前に、お茶を濁せたと判断した真理亜は、用意されていた水出しの煎茶をグラスに注ぎ少女へと渡した。
渡されたソレを、しばし親の敵の様に睨んでいた唯依だったが、喉の渇きには抗い難かったのか、ムスッとした表情を崩す事無く口を付ける。
喉を過ぎる清涼感に、唯依はホッと一息ついた。
微かに吹く風が、稽古で火照った身体を冷ましていく。
身体の内と外を冷やされて、やや冷静さを取り戻した唯依は、まだ固い調子で口を開いた。
「……叔母様は、何故、唯依に剣を教えてくださらないのですか?」
それも又、彼女の不満の一つ。
どれ程乞うても、眼前の女性は、自分に剣を教えようとはしなかった。
稽古や打ち太刀の相手はしてくれても、である。
そんな彼女の姿勢は、唯依に不満と不安を抱かせるには充分だった。
どこか躊躇いを宿した眼差しが、チラチラと真理亜へと注がれる。
コトリとグラスが置かれた。
「………私のは我流に近い邪剣だからね。
それに唯依ちゃんは、篁中佐から正統な剣を学んでるでしょ?
妙な癖とか付けちゃうと、申し訳ないのよね」
苦笑混じりの答えは、彼女にしては、ある意味素直だった。
武人としての嗜みと言うべきか?
一応は、それなりに気を使っての事だったのだと告げる。
唯依の身体から少しだけ力が抜けると、変わって拗ねた様な空気が、その身に宿った。
「……ルル兄様には、教えていらっしゃるのに……」
「あの子は、私の剣と相性良さそうだったから、ついね」
愛らしい唇を僅かに尖らせ抗議する唯依に、真理亜の苦笑が深くなる。
……そう、思った以上に相性が良かった。
砂地が水を吸う様に、彼女独特の剣理を受け入れ、咀嚼し己が血肉へと変えていく様は、そうとしか評しようが無い。
以前、紅蓮が断言した様に、いずれは自分達を超えて行くだろう。
それも紅蓮や自身の見立てよりも早く。
そして飛び立っていくのだろう。
遥か彼方へ。
何人も至る事叶わぬ高みへと。
遠からず訪れるであろうその時に、親としての喜びと寂しさを感じつつ、これ以上は藪蛇と真理亜は話題を切り替えた。
「ルルーシュといえば、もう神根島についた頃かしらね?」
「ルル兄様は、お仕事で出掛けられたのでは?」
ピクンッと眉を跳ね上げて、唯依が食いついてくる。
用があるからと告げ、今朝方、腹心の面々と共に出掛けて行ったルルーシュ。
てっきり会社の仕事とばかり思い込んでいた少女は、ワタシ聞いてませんと真理亜に詰め寄った。
「う〜ん……半分は仕事で、半分は私用よ」
「私用……ですか?」
苦笑いを浮かべつつ返された答えに、スッと筆で刷いたような綺麗な眉を寄せながら、不機嫌そうな声が漏れる。
だがそれは、この場合は悪手だった。
その事に唯依が気付くよりも数瞬早く、獲物を見つけた猫の目で真理亜が混ぜっ返してくる。
「ああ、ムクれないの。
別に唯依ちゃんの知らない可愛い子と遊びに行った訳じゃないし」
「そ、そんな事、言ってません!」
慌てて否定するが、上ずる声が内心を如実に示している。
本当に?―――とばかりに覗き込まれるともうアウトだ。
心底楽しそうな笑い声が弾ける。
肩を震わせながら笑う真理亜を前に、唯依は真っ赤になって俯く事しかできなかった。
そうしてひとしきり楽しんだ後、笑いの余韻を深い吐息と共に吐き出した真理亜は、羞恥に震える少女を膝の上に抱き上げる。
複雑な表情をしながら、それでも大人しく膝の上に収まった唯依を抱かかえたまま彼女は静かに告げた。
「……昔の友人に会いに行っただけよ」
常とは異なる声。
どこか透明感のあるその響きに、少女は戸惑いながら首を傾げた。
「ご友人ですか?」
疑問が言葉となって零れ落ちる。
自身が兄と慕うその人は、複雑な出自と年齢に釣り合わぬ異才故に、同年代の友人という存在に縁遠い事を彼女は良く知っていた。
もう結構長い付き合いになるが、未だにその手の人物に遭遇した事が無いのが、その証拠と言えよう。
唯一、同年代で兄と接点があるといえば、事ある毎に突っ掛かってきては、その度に凹まされ悔し涙を流しながら帰っていく月詠真耶くらいのものだ。
そんな兄が、昔の友人に会いに行った等と聞かされれば、疑問に思うのは、むしろ当然と言えよう。
もどかしそうに探る視線で、真理亜を見上げる唯依。
そんな少女に向けて、真理亜は優しく微笑むと、どこか遠くを見る眼差しで東の空を見上げながら呟いた。
「そっ、遠い遠いところに住んでる古い友人に、ね」
■□■□■□■□■□
―― 西暦一九九〇年 六月十二日 神根島『遺跡』前 ――
つい数時間前の喧騒が、まるで嘘のような静寂が、その場を満たしていた。
遺跡を丸ごと内包する巨大な仮設ドームに覆われた空間には、先程運び込まれたばかりの無数のコンテナが所狭しと林立している。
石油に代表される油脂類が。
鉄、銅、アルミ等の鉱物資源が。
或いは金、銀、白金などの貴金属が。
更には、各種のレアメタル、レアアースが。
ある物は専用のタンクに収められ、ある物は鉱石のまま、又ある物はインゴットに姿を変えられ、それぞれが、それぞれのコンテナにギッシリと詰め込まれている。
そんな一財産どころか、一軍を編成出来そうな膨大な資源の只中、遺跡の前に置かれた薄赤く輝く複数のシリンダーの前に彼――枢木ルルーシュは居た。
シリンダーを満たすのは、世界中から掻き集めた遺跡の残骸より抽出された流体サクラダイト。
その量は、彼らが手にした総量の実に八割に達している。
事実上、地表上に存在するサクラダイトの殆ど全てが、今この場に集められていると言っても過言ではなかった。
そして、これらは全て、喪われる為に集められた物だ。
ドーム内に集積された膨大な資源と共に。
これから直ぐに。
全ては彼、ルルーシュの目的の為に。
その為の力を、手にする為の贄として。
ルルーシュの胸元で、三回だけ何かが震えた。
物思いに耽っていた彼の意識が、こちらへと引き戻される。
懐をまさぐり、懐中時計を取り出したルルーシュは、時が満ちた事を知った。
「――時間だ。行くぞ」
漆黒の衣が翻った。
振り返ったその姿を、此処とは異なるとある世界の者が眼にしたなら、皆、異口同音に同じ言葉を紡いだろう。
――悪逆皇帝ルルーシュ、と。
未だ未完成、そして白を黒へと変えて尚、その姿は、かつての彼そのものだった。
人類史上唯一、世界を統べた覇王。
そして、全ての罪と憎悪を背負い、仮面の英雄に斃されし魔王。
幼き少年の身でありながら、揺ぎ無い王者の威風を纏う彼の前で、彼の騎士達が一様に跪いた。
「「「「イエス・ユア・マジェスティ」」」」
膝を折る四人の男女が纏うのは、かつて一時だけ彼の騎士となった親友のソレを模した騎士服。
黒を白へと変えながらも、それは彼の騎士として、彼の円卓に座す資格を持つ証。
武を以って、あるいは智を以って、彼に仕える騎士達である。
彼らが造る道を通り、彼が地上に残った最後の遺跡へと歩み出す様は、一種の儀式を思わせる、否、これは儀式そのものであった。
終焉と生誕の為の儀式――彼が、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアから枢木ルルーシュへと移り変わった事を宣言する為の儀式が、今、この場にて始まろうとしているのだ。
彼の手が、遺跡の石扉へと触れる。
触発されるように赤い輝きが場を満たし、金色の残照へと変わった。
世界そのものが切り替わった様に、黄昏に沈む世界へと彼と彼の騎士達は再び踏み入っていく。
『一別以来だな。
愛しき我が魔王よ』
林立する朽ちた遺跡の石柱の奥から、年齢不詳の女の声が響く。
背に届く髪を揺らしながら現れた美女の出迎えに、ルルーシュの口元が微かに緩んだ。
「そちらでも、こちらと同じ時間が経っているというのが不思議だがな」
『やはり決意は変わらぬか?
無駄に苦労する事もあるまいに』
挨拶代わりの軽口を無視し、不老不死の魔女が切り込んでくる。
金色の瞳に映るのは凪いだ色のみだ。
初めて出会った頃に似た虚無を湛えた眼差しで彼を見つめてくる。
試す様な、誘う様な、その問いにルルーシュは一度だけ瞳を閉ざした。
僅かな間を置き開かれた双眸には、峻烈なまでの意志の光が宿っている。
「確かに逃げてしまえば楽だろう。
だが、それではオレが、オレでなくなる」
告げられる声音は、静かで、それ故に重かった。
背後に控える騎士達が、沈黙と共に主の言葉に耳を傾ける。
良くも悪くもルルーシュという人物の生涯に逃げは無い。
戦略的な撤退はあっても、本当の意味での逃走は無かった。
心折れかけた事はあっても、最後は常に戦陣へ立つ事を選んだ。
無論、それは彼を支えた者が居たからこそではあったが、それでもその生き方を選んだのは彼自身である。
その生涯は常に闘争の中にあり、そして戦い勝利する事こそが、彼にとって生きる事と同義でもあった。
だからこそ、この生き方だけは変えられない。
例え生まれ変ろうとも。
もし、それを変えるというのなら――
「――負け犬に成り下がり、無様に生き延びた処で、そんな生に何の意義がある」
ある筈が無い。
生きるという事は、ただ息をしている事と同義ではないのだ。
もし、それを生きると言うなら、彼は叛逆などしなかっただろう。
傲然と、あるいは超然としてルルーシュが胸をそらす。
これまでも、そうしてきた様に。
「この世界が滅び行く運命にあるというなら、その運命を変えてみせるだけの事だ」
告げる世界の命運を変える事を。
神でもなく、魔でもなく、ただ人の意志と力のみで。
「奇蹟が必要だというなら、何度でも奇蹟を起こしてみせよう。
英雄が必要だというなら、オレが英雄になれば済む話だ」
不可能を可能と為して、奇蹟を演出した様に。
徒手空拳の身から、世界の希望を束ねる英雄へと駆け上がった様に。
それが必要だというなら、何度でも、と。
傲岸不遜な王者の威を纏い宣言するその姿を前に、不老不死の魔女は眩しそうに眼を細めた。
虚無を装っていた瞳に、苦笑めいた色が浮かぶ。
『英雄の仮面は、アイツに譲ったのではなかったかな?
………まあいい、それがお前の選択であるというなら、これ以上、無粋な事は言わんさ』
いささか残念。
素直にそう思う。
だが、己が王が、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアではなく、枢木ルルーシュとしての生を、この世界で全うする事を選ぶと言うなら諦めよう。
そう胸中で嘆息しながら、コードの呪縛に囚われた女は、その身に架せられた呪いに生涯二度目の感謝をした。
彼等の魂は本来こちら側に属するモノ。
それが何故、異世界へと移ったのか?
その理由に見当がついていたC.C.は、それ故に、今生のルルーシュに固執することは無かった。
『いずれにしろ、お前は帰って来る。
いつか必ず私の元へ』
永劫を生きる魔女が、楽しげに笑いながら予言する。
今回は、あくまでもイレギュラー。
次の生は、再び、本来の世界に戻る筈。
ならば、それまで待とう。
人の生など、自分にとってはホンの一時に過ぎぬ。
だから、少しくらいの戯れは赦すと。
言外にそう告げる魔女に、彼女の魔王は微かに苦笑するだけだった。
そんなルルーシュの態度に、少しだけ面白くなさそうに鼻を鳴らしたC.C.は、彼の背後へと視線を向ける。
無言の問い掛けに、背後に控えていた騎士達は、それぞれに応じた。
「我が忠義は、ルルーシュ様の下に」
「ここで又、仲間外れってのはヒドイよねぇ〜」
「ご厚意だけは、ありがたく受け取らせて頂きます」
「まあ、色々とあるから……仕方ないですよ」
予想通りの返答に、魔女は、もう一度だけ鼻を鳴らした。
『フフン、まったく揃いも揃って馬鹿ばかりだ。
好き好んで苦労を背負い込むとは……マゾか、貴様等』
その美貌からは、想像し難い悪口雑言が、ポンポンと飛び出してくる。
そう告げながら楽しげに笑う魔女に、ルルーシュが短く応じた。
「ぬかせ魔女が」
聞き慣れた短い切り替えしに、魔女と呼ばれた女が破顔した。
――それでこそ我が魔王。
豊満な胸の奥で、満足そうに呟いたC.C.は、そんな心情を隠したまま、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべる。
厚意を謝絶された以上、少し位の悪だくみは許されて当然。
そう内心で嘯くと、巧みに一服盛る事にした。
『ああ、やはり確信したよ。
お前が何故、『ワイアード』と成ったのかが良く分かる』
前回の邂逅の際、自分だけ気付いた事実。
それを餞別として渡す。
ただし――
「『ワイアード』?
何の事だ、C.C.」
予想通り食いついてくる様に、胸中でニンマリとほくそ笑む。
投げたのは、事実に由来する言葉の毒。
――まぁ、せいぜい首を捻れ。
胸の内で、そう呟いた魔女は、掛けられた問いに答える事無く、人を食った笑みを返す。
『さてな……まあ、私がワザワザ教える必要が無いとだけ言っておこう』
「C.C.!」
『折角の厚意を拒絶された事へのささやかな意趣返しさ。
その位は大目に見るのだな―――さて、始めるぞ』
はぐらかされ、怒りの声を上げるルルーシュを黙殺し、魔女は果たすべき役目に取り掛かった。
まあ、これ以上、続けるとこちらの手札をさらす破目になるのを、恐れた訳ではない。 ………多分、きっと、その筈だった。
C.C.の額に刻まれたコードの紋章が輝きを放つ。
呼応するかのように黄昏の間全体が、ゆっくりと光で満たされていった。
眩いばかりの光の中、一同は眩しそうに眼を細める。
世界を満たす黄金の光の中、いずこからとも無く、魔女の声が響いた。
『受け取るがいいルルーシュ。
お前が為した偉業からすれば、到底釣り合わぬ対価だがな』
そう、この程度では釣り合わない。
だが、この程度しか贈れない。
そんな不満を噛み殺し、彼女は遺跡の制御に全力を注ぎながら、最後に告げる。
『……そしてこれは、私からのささやかな贈り物だ』
そう、これだけは、彼女から彼への贈り物。
そして、彼女にしか出来ない贈り物。
そんな誇らしさと共に、魔女と呼ばれる少女は、久方ぶりに己の全力を振り絞った。
光が世界を満たし、暫しの時、異なる世界の間に架け橋を産む。
光の中に、薄っすらと黒い影が浮かび、やがてそれは一人の男となって顕現した。
予定に無い出来事に、相変わらずイレギュラーには弱い少年が固まる中、『彼』がゆっくりと口を開く。
「ルルーシュ」
聞き覚えのある声だった。
年月による変化を受けても尚、忘れる事の無い懐かしい声。
震える声が、『彼』の名を紡ぐ。
「……スザクか?」
ゼロの仮面を小脇に抱えた壮年の男性が、ゆっくりと首肯する。
歳経て尚、その容貌には、かつての親友の面影が色濃く残っていた。
「老けたな」
「君は小さくなったね。
昔を思い出すよ」
動揺する心のまま、思わず零れた本音に、スザクが苦笑した。
時の流れを考えるなら、彼は既に五十に近い。
対して自身は、ようやく十歳を少し越えたところだ。
親子ほど歳の違ってしまった親友達は、互いに顔を見合わせる。
「それが歳を取った証拠だろ」
「ハハハ、そうかもしれないな」
屈託の無い笑いが、互いの間で弾けた。
無駄に言葉を重ねる必要は無い。
彼等は、親友で、共犯者で、敵同士。
ある意味、これほど縁の深い相手は、どちらにも他に居なかった。
そして、それ故に、英雄の仮面は、彼に引き継がれたのだから。
小脇に抱えていたその仮面を、軽く掲げたスザクは、感慨深そうに呟く。
「この仮面を引き継いでから色々な事があったよ。
中には『ゼロ』にも、どうしようもない事も……あったね」
そう、本当に色々な事が――
――兄の意志を継ぐと称し、自国の臨時代表から正式な代表になろうとした政治的センスに欠ける少女を、秘匿された真実――首都と共に、その地に住まう億を越える民を虐殺したのが、本当は誰だったのか――を楯に阻止し、終生、公職から追放した事もあった。
――或いは、英雄の片腕としての虚名を武器に、一国の首相まで登り詰めた男が、能力不足故にメッキを剥がされ、顕職を追われる際の悲鳴混じりの救援要請を黙殺した事も。
――そして、とある君主国家が柱石たる男を病で喪った後、乱れた国を立て直す為、内政干渉紛いの真似までして、強引に立憲君主制に移行させたりもした。
正直、自分には荷が重かったそれらの出来事。
それでも英雄の仮面とあの日の誓約を支えに、何とか踏み越えてきたのだった。
その時の苦悩と苦労を思い出し、スザクは、ほろ苦い表情を浮かべる。
「……ああ」
そんな彼の心情を察したのか、ルルーシュも言葉短く相槌を打つ。
友に負わせた重荷を思い、申し訳なさと感謝の念が、彼に沈黙を強いた。
スザクの口元が、スッと綻ぶ。
「でも、それなりに頑張ったと思う。
少しは優しい世界になったかな」
「そうか」
どこか満足気に、やり遂げた男の表情で、そう告げる親友。
その姿を前にして、ルルーシュの相好も、わずかに崩れた。
向かい合うスザクの面にも、柔らかな笑みが浮かび、そこに一筋の陰がさす。
「君は、また戦うんだね」
「ああ」
気づかわしそうに掛けられた問いに、少年は小さく頷いた。
それは既に成された選択。
枢木ルルーシュとして、この世界で生きる為に戦う――その決定が揺らぐ事は無い。
言外に、そう告げる年少の親友に、スザクは苦笑を浮かべるだけだった。
一度言い出したら聞かない、どこか頑固な相手の性格を、よく分かっている彼にとって、それは無駄なだけなのだから。
だからこそ……
「頑張ってね」
ただ激励の言葉のみを贈る。
端整な面差しに、不敵な笑みが浮かんだ。
「もちろんだ。
オレを誰だと思っている」
「そうだったね。
君は奇蹟を起こす男だった」
小さな身体で、それでも傲然胸を張る友の姿に、懐かしさと嬉しさを感じながらスザクは応じる。
そう、何も案ずる事など無いのだ。
己の親友は、奇蹟を起こす男。
神すらも跪かせ、世界を壊し、世界を創った暴虐の覇王。
ベータだろうが、アルファだろうが、叩き潰し、踏み躙って、道を拓いていくのを疑う事自体馬鹿馬鹿しい。
そうやって安堵の念を新たにするスザクに、悪戯っぽい笑みを浮かべたルルーシュが軽く突っ込みを入れた。
「今は、それはお前の役目だ」
「………そうだったね。
忘れるところだったよ」
苦笑いと共に頬を掻く。
数十年ぶりに流れる優しい時間に、気が緩んだ自身を笑った。
だが、そんな刻は、いつまでも続かない。
そんな贅沢は、彼らには許されないのだから。
『オイ、気分を出しているところ悪いが、そろそろ限界だ』
どこか不機嫌そうな魔女の声が、いずこからか降ってくる。
終わり難い、終わりたくない時が、終わる事を、彼等は理解した。
向かい合う紫と緑の視線が交錯し、そして別れる。
「……それじゃあ」
そう告げながら、再び仮面を被ろうとするスザクの耳に、柔らかな声が届く。
「ああ、またな」
スザクの手が、止まった。
半ばまで被られた英雄の仮面。
その中で、未だ露出していた口元が綻ぶ。
「うん、またね」
最後の言葉に乗せて贈られた『約束』に応え、彼は再び、彼へと戻った。
大小二つの人影を呑み込み、世界を満たす輝きが力を増す。
世の理を引き裂き、異なる世界へと架けられた架け橋を越え、膨大な量の情報が、あちら側からこちら側へと押し寄せてきた。
本来なら、そのまま霧散する筈のそれらを、不老不死の魔女に制御された遺跡が集約し形成していく中、送り込まれた巨大な情報塊は、用意されていた贄を糧とし、己の血肉へと変換し実体化していく。
本来の用途を超え、限界を越えて崩壊していく遺跡を押し潰し、かの世界から、こちらの世界へと贈られた最初で最後の贈り物が顕現した。
そして、閉ざされていた眼を開いた時、魔王は、自身の身が、無数の電子機器にて囲まれた空間にある事を自覚する。
どこか斑鳩のブリッジに似たそれは、彼が望んだ物。
世界の命運を変える為、世界を渡った彼の艦。
親友が、彼の為だけに用意してくれた最初で最後の贈り物。
「……スザク……」
わずかな未練が、友の名となって零れる。
そんな自身の未練がましさを、軽く首を振って弾き飛ばしたルルーシュは、早くもコンソールの一角に噛り付いていたロイドに声を掛けた。
「どうか、ロイド?」
応えが無い。
……いや、呻きにも似た声を漏らしながら、肩を震わせていた。
怪訝そうな顔をする彼の前で、唐突にロイドが爆発する。
「……くっ……くぅぅぅっ!
ボクが……ボクが……ボクが完成させる筈だったのにぃぃぃ!」
眼を血走らせ喚き散らす姿は、どうみても危ない人だった。
流石に唖然とするルルーシュの横手から、恐る恐る声を掛けてきたセシルが、困ったように顔をしかめながら、狂乱の原因を告げて来る。
「ロイドさんの未完成の研究を、全部ラクシャータが完成させた上で、詳細なデータを送りつけてきたんです」
どっちも、どっちだった。
共に大人気ない事、甚だしい両者に、面識のあるルルーシュとしては、額に手を当て呆れる事しかできない。
とはいえ、無駄に時間を過ごしている程の余裕もなかった。
恐縮しきりといった様子で畏まるセシルに向けて、代わりに報告をする事を命ずる。
「……全てご要望通りです、ルルーシュ様。
ラクシャータは、良い仕事をしてくれました。
この艦により、私達は更に時を縮める事が叶うでしょう」
満足の行く報告に安堵する。
正直、妙なギミックでも仕込まれていたらとの僅かな不安も無くなった。
「そうか」
ホッとした様子で頷く主君に、気を取り直したセシルも笑みを浮かべる。
あちらの方で、ヒステリーを起こしている誰かさんを、華麗にスルーしているのは、どちらも手馴れたものだった。
そのまま手近な制御卓により、自身でも情報の引き出しを開始したルルーシュの頬が、面白そうに歪む。
「艦名は『スヴァルトアールヴヘイム』……『黒妖精の国』か。
ふん、『アヴァロン』に引っ掛けたな」
前世での最後の乗艦の名を呟きながら、霞む様な指捌きで次々に情報を引き出していくルルーシュ。
その指先が、不意に凍りついたように止まる。
「――ッ!?」
「ルルーシュ様?
………これはっ!?」
驚愕の表情を浮かべ固まった主君の姿に、不審そうに手元を覗いたセシルも同じく絶句した。
SSS級のプロテクトが掛けられ、彼にしか閲覧できないようにされた一塊の情報群。
そこに記された一節に、主従共に息を呑む。
「何を考えているスザクっ!」
魔王陛下の怒声が、ブリッジに轟き渡った。
――『Field Limitary Effective Implosion Armament』
ディスプレイに映し出されたソレは、かつての彼が親友と共に時代の闇へと葬った筈の物の名だった。
女神の名を冠する悪魔の兵器。
忌まわしきその名を、『フレイヤ』という。
■□■□■□■□■□
―― 西暦一九九〇年 六月十七日 帝都・榊邸 ――
十日前と同じ座敷、同じ場所に座しながら、榊は待ち人の訪れをまっていた。
今日は約束の日。
彼が、彩峰に依頼した件の結果を貰う日であった。
「…………」
瞑目したまま、微動だにせず時を待つ。
静寂に満ちた室内に、榊の呼気のみが微かに響く中、不意に襖の向こうに人の気配が生じた。
先日と同じく客人の到来を告げに来た第一秘書に、これまた先日同様、こちらへ通すよう伝える。
程なくして、秘書に伴われ彩峰が姿を見せたのも、先日と同じだった。
わずかな既視感に内心苦笑しながら、出迎えた榊に彩峰が遅参の詫びを口にする。
「お待たせしました榊さん」
「いや、こちらこそ無理を聞いていただき申し訳ない」
そう言いながら席を勧めると、前回同様、榊の対面に腰を下ろす。
茶を出した秘書が、以前と同じく退席するまで、互いに無言のまま対峙していた両者であったが、立ち去る秘書の足音が聞こえなくなった処で、榊が口火を切った。
「それで、どうでしたかな?」
「……純粋に軍人として評価するなら、見事と言わざるを得ません」
そこで一旦言葉を切ると、彩峰は出された茶を啜った。
これから告げる事は、正しくは在っても多くの反発を産む。
その事を、誰よりも理解していた彩峰は、緊張に乾く喉を潤すと再び口を開いた。
「枢木の提言は、大まかに言うなら大陸失陥及び後の大陸反攻を前提とした戦略案です」
そう、枢木は、人類がユーラシア大陸を失う事を前提に戦略案を出してきた。
現時点のBETAの推定戦力と人類の戦力、それも様々な要因による減衰分までも予測した上で、人類の戦略的敗北を冷徹なまでの視点から論じた上で断言している。
――そう、『人類の敗北』を、だ。
一人の人としては、それを否定したかった。
だが、誤魔化し様の無い数字と共に示されるソレを、理性的な軍人として彩峰は否定できなかったのである。
榊の眉が寄り、額に深い皺が刻まれるのを見ながら、彩峰は言葉を繋ぐ。
「初期段階においては遅滞防御を主体とした時間稼ぎにより、住民と資産の避難を可能な限り安全に行わせる方策を二十七通りの想定状況に基づいて示しています」
勝てないなら逃げる。それも出来るだけ被害を抑えて。
この試案を示されれば、多くの者が言うだろう。
所詮、枢木にとっては他人事だからと。
だが、勝ち目の無い戦で死ぬ兵士。
護って貰えるとの期待が裏切られ、家財も命も失う民。
その局面に到った時、彼らはきっと後悔する。
あの忠告を聞いておけば、と。
「続く中期における策として、戦線そのものを縮小していく事により、無駄な兵力の損耗を極力抑える利とその為の手順が九段階に分けて書かれていました」
徹底した割り切りと取捨選択。
切り捨てられる側は恨む筈だ。
枢木に、何が分かると。
しかし、両手一杯に荷物を抱え、疲れ果て消耗し尽くしたその果てに、BETAの腹に収まる時、彼らはきっとこう思う。
あの時、従っていれば、と。
「そして最終局面において、沿岸部の港湾都市を来るべき大陸反攻時の拠点とする為の絶対防衛線として整備し、時期が来るまでの持久戦術へ移行させる案が七個ほど記されています」
非情の策だ。
大陸を犠牲にして時間を稼ぎ、反攻の体勢を整える。
血も涙も無い魔王の戦略だ。
だが、資料を読めば読むほど、正しく思えてしまう。
考えれば考えるほど、これ以外は無いと思ってしまう。
それは、そんな提案だった。
詳細な説明を補いながら、そう思う彩峰の面前で、榊の顔色も徐々に悪くなっていく。
そして一通りの説明を終えた頃には、豪胆をもって聞こえた政治家も、青い顔で黙り込むのみだった。
両者の間に、重苦しい沈黙の帳が落ちる。
暫しの間、粘つくような空気の中、対峙していた両者の内、一方が均衡を崩した。
「彩峰少将は、上手く行くと?」
「少なくとも現在中華が採っている戦略よりは、遥かに優れています」
現在の統一中華、というか共産党政府は、国土防衛の美名の下、広過ぎる防衛線を敷いており、各戦線では戦力不足に喘いでいる。
そして薄い防衛線ではBETAの物量に抗しきれず、結果、各所で寸断された末に各個撃破され、無益な出血を強いられ続けているのだ。
中国が、国連で軍事援助――具体的には、日本を主体としたアジア諸国の出兵を要請しているのも、最早、自国の戦力だけでは、どうにもならない所まで追い詰められているが故である。
彩峰は、そんな現状に、苦い溜息を漏らした。
「正直、大陸は広過ぎます。
内陸部の諸都市まで防衛しようとすれば、戦線が長大になり過ぎる分、防衛線に厚みを持たせられません。
更に言うなら、枢木の建白書には、我が国の大陸派兵が行われた場合、派遣軍の補給線は早晩破綻するであろうとの予測も書かれていました」
この時点での中国大陸内陸部では、インフラの整備が余り進んでいなかった。
建白書にもロクな物流網が無い事が詳細に記述され、現状の物流事情で運搬できる物資の予測量までしっかりと書かれており、そしてそれは大規模な軍にとっては、お世辞にも充分と言えるものではなかった。
更には、軍需物資の横流しも日常的に行われ、潤沢とは言えぬ補給を、更に痩せ細らせているとの警告も為されている。
では、その充分でない補給路を、中華を含めた各国で取り合うとなればどうなるか?
考えるまでも無く分かる事だろう。
古来より補給の断たれた軍は悲惨な物だ。
特にBETAを相手にする場合、圧倒的な物量に抗するには、どうしても大量の弾薬の供給が不可欠となる。
それが維持できないとなれば、彼の地に派遣されるであろう帝国軍将兵の末路は決まったも同然だった。
だが、枢木の案なら、その悲惨な未来を回避できる。
最終的に設ける反攻時を想定した橋頭堡的な絶対防衛線も、海に面した港湾都市を主軸として形成するなら、常に大量の物資を海上輸送で送り込める分、補給線の維持も容易な筈だ。
その辺りを、門外漢である榊にも分かり易く説明する。
そして同時に告げられる現状の危うさに、榊の顔も更に曇っていった。
「……そうですか」
「…………」
「それでは質問を変えますが、彩峰少将は、この戦略案を我が国が取り得ると思われますかな?」
なにかを確信しているような榊の問い。
それは、きっと自分と同じだと感じていた彩峰は、気負う事無く本音で答えた。
「……無理でしょう」
「何故です?」
予想通り、動揺の欠片も見せずに問い返す榊に、彩峰は微かに苦笑しながら告げる。
「一つは政治的な問題です。
この戦略案は、統一中華、いえ共産党にとっては到底受け入れられる物では無いからです。
中国人は特に面子に拘る面がありますが、そんな彼らにしてみれば自分達の領土を根こそぎBETAに進呈するような真似はできる筈も無い。
台湾総統府に対する意地からも、断固として拒否する事は明白です」
大地を打つ槌が外れても、この予測は外れない。
それだけの自信をもっての返答に、榊もゆっくりと頷いた。
「否定できませんな。
特に我が国に対する彼の国の感情は複雑だ。
こちらから提案しても意地になり、かえって拗れるかもしれん」
先の大戦とそれ以前の関係が、両国の間に見えざる溝を穿っている。
BETAの侵略が無ければ、中国と日本の関係はもっと冷たくギスギスとしたものになっていた筈だ。
それを理解している彼らにとって、中国の反応など想像するのは容易いことである。
とはいえ、分かるから手が打てるという物でもなかった。
端的に言ってしまえば、手詰まりなのは同じ事である。
無論、とことん追い詰められれば、手の平を返す事は有り得あるが、その時には既に詰んでいるのが確実だった。
そして、彩峰の側には、それ以外にも懸念している事がある。
「更に言うなら我が国……いえ、帝国軍内部の問題もあります。
言い難い事ですが、我が軍はBETAと本格的に刃を交えた経験が乏し過ぎます」
「BETAを甘く見ていると?」
無念そうに告げる彩峰に、榊が問い返す。
微かな期待を帯びたその問いを、彩峰は頭を振って肯定した。
「遺憾ながら……実感としてBETAの脅威を知らぬ今、枢木の案を出したとしても、消極的過ぎるとして反発を招く可能性が高いでしょう」
そこまで言うと、彩峰は辛そうに溜息をつく。
釣られる様に榊も嘆息した。
「……政治・経済の建白書についても穴は無い。
だがやはり、受け入れられないでしょう」
「……損をする人間、恥をかく人間が多過ぎますか?」
切れ過ぎる男は、口にしない事情まで察して見せた。
榊の頬が、苦渋に歪む。
図星だったからだ。
枢木の案を実行すれば、失脚する政治家・官僚・企業家達で一個連隊くらいは編成できるだろう。
そして、そんな彼等の抵抗を排し、枢木の献策を実行する程の力は榊にも無かった。
ままならぬ現状に、男達は天を仰いで慨嘆する。
「ああ……枢木の意見は正しい。
だが、正しいからと言って、それが採用されるとは限らん。
情けない限りですな………」
その一言に全てが集約されていた。
正しい筈の事が、押し通せずに潰される。
それがこの国、日本帝国の現状なのだ。
そんな国の未来を憂い、苦々しさを噛み締める榊を他所に、彩峰はより直近に迫った未来、大陸派兵により彼の地にて玉砕するであろう兵達の事を思う。
せめて一人でも多くの兵を連れ帰りたかった。
その為にも、現在編成中の大陸派遣軍への編入を、何としても通すと決意を改める彩峰に、榊が険しい表情で問いかける。
「彩峰少将、貴官は大陸派遣軍への編入を希望していると聞いたが、事実ですかな?」
「はい、そういう意味でも、今回の件は勉強になりました。
これで少しは兵達を、護ってやれるかもしれません」
確かに得難い勉強だった。
焼け石に水であっても、わずかなりとも兵達の生存率を上げられる多くの知識を得れたのである。
その点で、榊に深く感謝していた彩峰であったが、続く言葉が、その思いを揺らがせた。
「……私としては、貴官に本土軍に残って欲しいと思っている」
「榊大臣――」
ひどく遺憾そうな表情を浮かべ、反論しようとする彩峰を、榊は手を上げて制した。
「貴方の気持ちは良く分かります。
枢木の予想通り、大陸派遣軍が彼の地で磨り潰されるなら、その犠牲を少しでも減らしたいと思うのは私も同じだ」
そこで男は言葉を切った。
整理できない思いを無理矢理捻じ伏せ、苦渋に満ちた声を絞り出す。
「だが、そうなると、残された帝国はどうなります?
大陸派遣軍を丸々喪った状態で、前線国家としてBETAと対峙する事になるのですぞ」
「………」
「枢木の予測は、最悪の未来予測なのかもしれん。
だが、そうなる可能性があるならば、我々はそれに備えなければならない」
大陸が陥落した後は、帝国が前線となる。
その為の入念な準備を、早期に行うべきと。
非道非情は承知の上、それでも帝国の舵取りを預かる者として断ずる榊に、彩峰の顔に苦悶の色が浮かんだ。
仁将として知られた男にとって、部下が犬死するのを指を咥えて見ていろと言うに等しいそれは、我が身を切られるよりも辛い。
だが同時に、榊の心情も察せてしまう彼にとって、どちらも選び難かった。
「……申し訳ありませんが、即答出来そうにありません。
少し時間を頂けませんか?」
無言のまま考え続けていた彩峰であったが、袋小路に陥った思考が活路を見出す事はなかった。
申し訳無さそうに頭を下げる男に、榊も又、済まなそうに首を振る。
「……すみません、無理を言います」
「いえ……政治家としては当然の事でしょう。
むしろ事が軍事に属する分、軍人として恥ずかしく思います」
互いに己の無力さを噛み締めながら、男達は揃って溜息をつく。
この件は今日はここまで、といった暗黙の了解が、互いの間で成立すると、場の空気を換える意図も込めて、榊は、もう一つの懸案を口にした。
「……しかし、色々と引っ掻き回してくれる。
これは一度、枢木と接触すべきかもしれんな」
投じられた一石は、古式ゆかしい建白書が一つ。
ただそれだけで、自分達を苦悩のドン底に突き落としてくれた枢木に嫌味の一つも言ってやりたいのも事実。
だが、それ以上に気になる事を、榊も彩峰も、確かめずにはいられなかった。
「これ程の智者が居るなら、会っておいても損にはならないでしょう。
それに、その真意を質しておく必要は、有るかもしれません」
そう繋ぐ彩峰に、榊も黙って首肯する。
受け入れられないであろう建白書を、これ見よがしに出した理由。
それを確認せずに、捨て置くのは危険過ぎる気がしたのだ。
これ程のものを作り上げる人間が、彼らが気付いた受け入れられない理由を見逃すとは思えない。
ならば、そこには別の意図が隠されていると考えるべきであった。
その事を、直接問う必要性を彼らは感じ、枢木との接触の機会を探る事で合意すると、機を見てその時を作る事で、この場は散会となる。
―――だが、この日の決定が、この後、枢木の取るある行動により、大きく実現が遅れる事となるのを、神ならぬ身の彼らが知る由もなかった。
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―― 西暦一九九〇年 六月二十日 帝都・枢木邸 ――
「むぅ……少し薄いですか?」
身長の不足を補う為、台の上に乗った唯依は、小皿に移した味噌汁を味見し、わずかに顔を顰める。
彼女的には、これでもアリだが、他人に振舞うとなれば別だった。
ことに……
「もう少し濃い目の方が、兄様は好まれるかも」
台所に立つ姿も、それなりに様になってきた唯依は、煮立たせて味噌の風味が飛ばないよう注意しながら、心もち味噌を溶きこんでからズラして蓋をすると、今度はトロ火でじっくり煮込んでいた隣の鍋へと注意を移す。
初めての成功から早半年。
おぼろげな母の記憶と自身の舌を頼りに、更に改良を加え続けた自慢の一品こと肉ジャガは、父からも母の味そのものとのお墨付きを得るに到っていたが、彼女の研鑽はまだ止まってはいなかった。
試行錯誤しつつ、自分の味と言うよりは、食べさせたい人好みの味を追及する。
そんな少女の姿を、いつの間にやらやってきた真理亜が楽しげな笑みを浮かべて見つめていた。
「頑張ってるわねぇ」
「叔母様っ?………と、当然の事です。
今夜の夕食を任された身として、無様な物は出せません!」
唐突に掛けられた声に、一瞬、ビクッと背を震わせた唯依であったが、振り返った先で面白そうに笑っている真理亜の姿に、まだ膨らむ兆しも見えぬ胸を張って見せる。
真理亜の目元に悪戯っぽい光が浮かんだ。
「うんうん、やっぱり唯依ちゃんは、良いお嫁さんになるわよ。
………まあ、私が言うのもナンだけどね」
料理はからっきしと公言して憚らぬ女傑は、そう言ってカラカラと笑う。
このところ生来の真面目さに拍車が掛かったかのように、唯依は勉強に、習い事に、或いは家事にと精力的に取り組んでいた。
誕生日に合わせての宇宙への旅で、何か思うところがあったようである。
彼女個人としては、この愛らしい少女が、息子同様あまりにも早く大人になってしまうのはつまらないと思っていたが、これから更に厳しさを増すであろう時代の流れを思えば、それも仕方ないかと諦めていた。
―――されど、である。
「お、叔母様っ?」
真理亜の目論見通り、『嫁』の一言に動揺しまくった声が、淡い桜色の唇から漏れる。
まあせめて、その日が来るまでは、せいぜい楽しませて貰おうかと割り切った根性悪な女狐様は、最近、嫁云々に過敏に反応するようになった唯依を、イジって遊ぶのを期間限定の趣味として存分に満喫していたのだった。
「ほ〜らほら、早くしないとルルーシュ達が帰ってくるわよ」
「わ、分かってます!
焦らさないで下さい」
煽られてあたふたと鍋に向かい合う唯依。
だが、真理亜の遊びは、まだ終わらない。
「やっぱり夕食とお風呂の準備を整えて、三つ指揃えて旦那様を迎えるのが妻の役目よねぇ」
「つ、妻ぁっ!?」
幼い美貌が真っ赤に染まる。
そのままフリーズし、ナニやら妄想状態に入ったらしき唯依の背を、しばらく間を置いた真理亜が軽く叩いた。
「ハイハイ、急がないと間に合わないわよ」
「わ、わ、分かってますっ!」
再起動を果たし、裏返った声で唯依が叫ぶ。
だが、その返答とは裏腹に少女の手元では、加熱され過ぎた鍋の際から、ブクブクと白い泡が立ち上り始めていた。
空気に混じるやや強めの味噌の香り。
微妙に焦げ臭さを増した醤油の匂い。
―――どうやら彼女が、一人前になるのは、まだまだ先の話の様だった。
■□■□■□■□■□
―― 統一暦二十九年 六月十二日 神根島 ――
崩壊した遺跡の前で、ゼロは一人、物思いに耽っていた。
打てるべき手は全て打ち、やれる事は全てやったとの思いと、まだ何か出来たのではという疑念。
相反する思いを持て余すように、崩れた遺跡を眺めていた彼の背後から、今回の一件のみの共犯者が声を掛けてくる。
「どうしたゼロ」
「……いや、何でもない」
からかう様な口調で掛けられた問いに、ゼロはゆっくりと首を振る。
自身の内にあった未練を、その一振りで飛ばしたゼロは、肩越しに背後の魔女に問うた。
「それでC.C.
君はこれからどうするつもりだ?」
「どうするも、こうするも無いさ。
当面は、やりたい事も無いからな、『Cの世界』に篭るだけだ」
返された答えに、仮面の奥の双眸が細まった。
今更、『Cの世界』に何の用があるのか?
そんな疑問が、言葉となって口をつく。
「『Cの世界』に?」
「ああ、暇潰しがてら、向こう側を覗いて過ごすさ」
明らかに不審げなゼロに対し、C.C.は、いっそ堂々とすら言えそうな態度で、これまでと同様に向こう側を覗いて過ごすと宣言した。
ゼロの呼吸が一瞬止まる。
わずかに息を乱した仮面の英雄が、疑念と期待が半々の声で、いま一度、問い直した。
「向こう側って……あちらに、まだ無事な遺跡があるのか?」
「いや無い」
あまりにもアッサリと否定する。
ゼロは一瞬、我が耳を疑い、次に仮面の不調を疑うが、しれっとした態度を崩さぬC.C.に、聞き間違いではなかった事を確信した。
仮面越しにも、明らかに呆れている声が、変調器を通してこぼれ落ちる。
「無いって……君は、こちらとあちらの遺跡の力を利用して、覗き見していたんじゃないのか?」
「まっ、覗き見程度なら、他にもやりようはあるのさ。
なにせ私は、C.C.だからな」
ニヤリと笑って嘯く魔女に、仮面の下で苦笑が産まれた。
嘘か真か確かめる術は、彼には無い。
だが、この魔女がそう言うのなら、そうなのだろうと割り切った。
そんなゼロの心境を見切ったのか、魔女がつまらなそうに鼻を鳴らす。
「……さて、それでは、これでお別れだ。
また当分は会うこともあるまいが………まぁ、達者で暮らせ」
相変わらずの態度で、そう告げると、軽く伸びをして背を向ける。
立ち去る背中を見送ろうとしたゼロの脳裏に、不意に閃くモノがあった。
「C.C.」
「――何だ?」
呼び止められた魔女が、不機嫌そうに振り向く。
「『ワイアード』とは、何の事だ?」
魔女が魔王に投げかけた一言。
魔女の実体の隣で、それを聞いていた彼にとっても馴染みの無いソレが、何故かひどく気に掛かる。
金色の双眸が、面白そうに細まった。
「………言葉通りの意味さ。
『ワイアード』――世界と繋がりし者、世界の端末、あるいは抗体」
「世界と繋がりし者、世界の端末、あるいは抗体……それって……」
意味不明の言葉の羅列に、仮面の下で顔を顰める。
経験により様々なスキルを身に付けようが、本質的に体力勝負な彼にとっては、謎めいた言い回しをされても困惑するしかなかった。
そんな彼を、出来の悪い生徒を見るような眼差しで眺めていたC.C.は、仕方ないといった様子で肩を竦めると、ヤレヤレと言わんばかりに言葉を続ける。
「私も実物を見るのは初めてだったがな。
嚮団の古い資料に、わずかな記録が残るのみの稀少種さ」
「稀少種って……嚮団の資料に残っているって事は?」
嚮団の一言に反応したゼロに、ようやく気付いたかと言わんばかりに魔女が告げる。
「天然ギアスユーザー………いや、恐らくは、こちらが本来のギアスの形だったんだろう」
「本来のギアスの形……」
唐突に飛び出してきた思わぬ情報に、頭がオーバーフローした彼は、鸚鵡返しに呟く事しかできなかった。
対して、珍しく真面目な表情を浮かべた魔女は、滔々とした口調で秘事を語る。
「そうだ、世界が必要とした存在に宿る力。
大英雄、救世主、あるいは魔王と呼ばれる様な連中の力さ。
これは私の推測だが、遺跡やコードは、ソレを世界から盗み取る為の道具だったのだと思う。
―――そう、プロメテウスが、神々の手から火を盗み、人間に与えた様にな」
本来は、世界の物の筈だった力を盗んだのだと。
どこか苦々しい口調で、彼女は告げる。
無論、証拠とすべきものは無いが、コード保持者の直観が、そう囁くのだ。
コードを通して己が繋がるもの、そしてコードを通して契約により与えられるギアスもまた繋がるもの、その根源は同一の物なのだと。
世界、或いは万物の根源とでも称すべきナニか。
それこそがコードとギアスの源。
そしてコードという道具を経由する事無く、そのままソレに『繋がれる』者こそが、『ワイアード』――ギアスの本来あるべき形の体現者達なのだと。
C.C.にしては珍しい懇切丁寧な説明に、流石の彼も理解に及ぶ。
理解して、仮面の奥の顔が真っ青に染まった。
驚きが、叫びとなって迸る。
「それじゃ彼は、また絶対尊守の!――「それは無い」――えっ?」
「私のコードがもたらすギアスは、相手の深層心理、いわば願望を映すものだ。
だが、ワイアードギアスは、本人の素養に従い発現する」
ゼロの驚愕を遮った魔女は、平然としたまま断言する。
有り得ないと。
数瞬、呆けたゼロは、数秒、考え込むと、恐る恐ると言った様子で問い質す。
「願望と素養は別の物という事か?」
「そうだ。
まあ、全く影響を受けない訳でもなかろうが、多分、別物だな」
いとも軽い口調で返されて、ゼロは張っていた肩をがくりと落とす。
「……そんないい加減な……」
自分達の人生を振り回し続けたギアスを、ちょっとした毛色の違い程度に言い切る魔女に、彼は微かな怒りを覚えつつ抗議する。
だが、鉄面皮で鳴らした彼女にダメージを与えるには、その程度では力不足も甚だしかった。
ニヤリと人の悪い笑みを、その美貌に浮かべると、そのまま堂々と切って捨てる。
「フン、それもこれもアイツが、自分の立場を自覚してからの話さ。
いずれルルーシュは、あの世界に転生した理由に巡り会うだろう。
そして知る筈だ、己自身に課せられた役割をな」
そこで視線をゼロへと移した魔女は、もう一度、ニンマリと笑った。
とてもとても楽しそうに。
「まっ、それまでは、ちょっと異常な運動能力のあるタダの人だ………お前と同じでな」
「!?」
仮面の英雄の動きが止まる。
完全に凍りついた様に静止した彼の耳元で、甘やかな声が囁いた
「ああ、勘違いするなよ。
お前は『ワイアード』じゃない。
いいとこ成り損ないが、関の山だ」
硬直が解けた。
ギギギッと音がしそうなぎこちない動きで、仮面の正面が魔女へと向けられる。
「……脅かさないでくれC.C.」
「この世界の救世主殿が、その程度で動揺してどうする。情けない」
搾り出すような抗議の声を、女は鼻先で笑い飛ばす。
相変わらず、自分以外に激辛な彼女の態度に、仮面の奥で溜息が漏れた。
「ふぅ………君は、知っているのか?
ルルーシュが、あの世界に生まれ変った理由を」
「知らん。
だがアイツが、『ワイアード』として生を受けた事から予想は付く」
――貴様にも、予想はついているのだろ?
言外に、そう問い返す魔女に、ゼロは僅かに顔を顰めながら、彼女との会話で思いついた事を口にする。
「BETAから人類を救う為か?」
魔女の双眸が、冷たく輝いた。
赤点を取った出来の悪い生徒を見る教師の眼差しで、清楚と言って良い美貌に氷の笑みを浮かべる。
「フンッ、違うな。
世界を救う為さ」
夏の夜空に、冷たい宣告が響いて消えた。
―― 西暦一九九〇年 九月 ――
枢木工業は、軌道上にて建造していた新造艦「スヴァルトアールヴヘイム」を発表。
併せて、宇宙空間における大規模な居住空間――所謂、スペースコロニーの建造計画をも発表。
当初、資源採掘も兼ねて小惑星を掘削し居住スペースを造り、それをラグランジュポイントに設置するというこの計画は、技術的難易度の高さ、そして予想される巨費と時間から、荒唐無稽の絵空事として多くの嘲笑を浴びる破目になる。
更には、話を持ち掛けられた帝国政府も、計画成功の可能性を絶無と断じて出資を拒否、結局は、枢木の単独事業としてコロニー建造計画――通称『アヴァロン』計画はスタートする事となった。
そして初手から踏んだり蹴ったりな目にあったこの計画は、枢木の隆盛を妬む者達を大いに喜ばせる事となり、計画失敗による没落の時を虎視眈々と狙わせる事になるのであった。
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