○西暦一九九〇年三月一日
今日、ルル兄様から、思わぬ誘いがありました。
……逢引の誘いでは無いですよ。少しだけ残念ですが。
先月、枢木の会社が、米国から買い取った軌道ステーションへのお誘いです。
一度、宇宙からこの地球を、見てみないかとの事でした。
正直なところ、心惹かれるお誘いです。
ルル兄様からというのもそうですが、唯依は今まで国外に出た事はありませんし、ましてや宇宙へなど……
そう思うと、とても行きたい気分になります。
……ルル兄様も、一緒に行かれるからではないですよ。
あくまでも、あくまでも、知的好奇心からのモノなのですから。
……唯依個人としては、とても行きたいのですが、ここはやはり父様に相談してみるのが筋かと思います。
父様が、どう判断されるか分かりませんが、唯依にとって悪いようにはしないと思いますから。
明日にでも、父様に相談してみましょう。
それでは、お休みなさい、ルル兄様、父様。
○西暦一九九〇年三月二日
ルル兄様からのお誘いを、父様にお話したところ、しばらく考え込んでおられましたが、その後、兄様に連絡を取り、詳細な予定を聞いた上で、許可していただけました。
正直、ホッと一息です。
何故かと言うと父様が、とても難しい顔をしておられたからでした。
もしかして、折角のお誘いを断らねばならないかも―――そう思わせる程に。
それは、ルル兄様と話されている間も変わらず、むしろ余計に険しくなった様にも。
やはり唯依が、宇宙へ行くというのは、早いと思われたのでしょうか?
ですが、唯依も、もうすぐ八歳。
それなりの分別くらいは、つくつもりです。
正直、父様の態度は、唯依を信じられていない様で不満でしたが、とにもかくにもルル兄様が上手く説得して下さったのか、最後は許していただけました。
これでようやくルル兄様のお誘いに応えられます。
本当に良かったです。
……でも、少しだけ気になる事がありました。
出立の許しをくれた父様が、とても真剣な眼差しで、唯依に、こう言われたのです。
『お前は今回の旅で、多くの物を見るだろう。
中には、目を背けたい物、認めたく無い物もあるかもしれない。
だが、それらを見、それらを理解する事を、止めてはならんぞ』
その場は、素直にハイとお応えしましたが、正直、唯依には父様が何を言われたいのかが、良く分かりませんでした。
ルル兄様が、唯依に目を背けたくなるような物など、見せるとも思えないのですが……
……本当に、父様は、何をおっしゃりたかったのでしょう?
○西暦一九九〇年三月九日
今日、唯依は、初めて異国の地を踏みました。
米国西海岸最大の都市ロサンゼルスというとても大きな街です。
この街の空港に降り立ったのが、こちらでの朝八時。
時差のせいでとても眠たかったのですが、それでも帝都でも見た事が無いような建物群に圧倒されてしまいました。
ううっ、ちょっぴり悔しかったです。
とはいえ、この街も最終目的地ではなく、ここから更に飛行機でフロリダ州のケープ・カナベラルというところに移動して、そこからHSSTに乗り込むのだとか。
帝国も、一応、航空宇宙軍を持っているのですが、そちらの施設は使わせてもらえないそうです。
何故かとお尋ねすると、ルル兄様は少し困った様な顔をして、色々と事情があるのだと言葉を濁しておられました。
唯依に心配を掛けたくないと思われているのが、なんとなく伝わってきます。
でも、本当のところを言うと、唯依も事情は、それなりに知っていました。
真理亜叔母様が、そっと耳打ちしてくれたからです。
英国人の血を引いている兄様と、そんな兄様を産んだ叔母様を疎む方達が、帝国上層部に居られる為、何かと嫌がらせをされるのだとか。
今回の件も、そのあおりだそうです。
仕方なく当面は、米国の施設を借り受けると同時に、夏に遊びに行った神根島の隣にある式根島に、枢木専用の発着場を建設中との事でした。
それを聞いた時、正直、我が耳を疑いました。
枢木は、帝国の企業としては数少ない国外にも通用する技術と資本を持つ会社です。
それを援助するどころか、足を引っ張る事を考えるなど………その方々は、一体何を考えているのでしょう?
そんな人達が、国の舵取りをしている帝国は、本当に大丈夫なのでしょうか?
……等と、唯依がガク然としていると、今度は咲世子さんが、こっそり教えて下さいました。
枢木に敵対的な人の多くが、昔、叔母様に言い寄っては袖にされたり、演習で叩きのめされたりして、恥をかかされた人達だと。
……ええっと……叔母様?
もしかして、ルル兄様のご苦労の大半は、叔母様が原因なのですか?
恐る恐る問う唯依に、叔母様は何故かニコニコ笑っているだけでした。
……はぁ……ルル兄様のご苦労、お察しいたします。
○西暦一九九〇年三月十日
………唯依は、もしタイムマシンがあったら、昨日に行って思い切り自分を引っ叩いてしまいたい気分です。
ルル兄様のご苦労を、お察しする?
……そんな事を言う資格は、唯依には無かったという事を、今日、とことん思い知らされたのですから。
切っ掛けは、唯依が兄様の言いつけを破った事でした。
昨日は時差ボケもあり、市内で取ったホテルで一泊し、今日の午後、フロリダに移動する事になっていたのですが、ルル兄様はお仕事があるので、午前中、唯依はホテルで待っているようにと言われたのです。
それと、決して外には出ないようにとも。
無論、ルル兄様の言いつけに背くつもりなど、唯依にもありませんでした。
唯依が素直に頷くと、ルル兄様も安心され、ジェレミアさんと一緒に出掛けて行かれたのです。
ですが、やはり退屈ではありました。
退屈で、退屈で、それでも我慢して待っていたのですが、時計を見るとまだ一時間も経っていません。
そこで、つい魔が差してしまったのです。
ホンの少し、ホテルの周りを回る位なら……と。
そうやって唯依は、ルル兄様と交わした約束を破り、程なくして、その報いを受けたのでした。
初めて自分の足で歩く異国の街は、不思議で、そして興味深く、唯依は兄様の言いつけも忘れてウロウロとしてしまいました。
そして、その結果、ものの見事に迷子になったのです。
いつの間にやら見覚えのない場所に出てしまい、出てきたホテルの建物も見えず、それどころかどちらの方角にあるかすら分からず……
道行く人に声を掛けようとしても、汚いものでも見るかのような冷たい視線に足が竦んでしまいました。
それでも何とか勇気を振り絞って、声を掛けた相手からは、『寄るな!黄色い小ザルが!』と罵倒される始末です。
米国では、人種差別がヒドイと噂では聞いていましたが、これ程とは思いませんでした。
兄様の言いつけは、きっとこんな事を心配しての物だったのだと思い至りましたが、文字通り後で悔いる――後悔にしかなりません。
そうやって、このまま兄様にも再会できず、異国の地で果てるのかと唯依が途方にくれた時です。
激しい言い合いが、唯依の耳に飛び込んできたのは。
なんとなく声のする方に行ってみると、一人の青みがかった黒髪の少年を数人の白人の少年が囲んでいるのが見えました。
スラングが激し過ぎて、何を言っているのか持っている翻訳機では判別できなかったのですが、険悪な状況である事だけは分かります。
そして、どうするべきかと唯依が迷った瞬間、殴り合い……いえ、多勢に無勢の一方的なリンチが始まってしまいました。
黒い髪の男の子も必死に抗いましたが、数には敵わず押し倒され、あとは殴る蹴るにされるまま。
唯依には、そんな男の子の姿が、帝国内で様々な圧力を受けるルル兄様と重なって見えました。
そう見えてしまったのです。
そして、気付いた時には、男の子を取り囲んでいた少年の一人を投げ飛ばしていました。
思わず身体が動いてしまったのです。
突然の乱入に、少年達は一瞬呆気に取られていましたが、唯依が自分達より小さな東洋人の女の子と見て取ると、途端に聞き取れないような叫びを上げながら殴りかかってきました。
正直、力任せなだけのソレをさばく程度の事は、唯依にも出来ます。
伊達にルル兄様や父様に、稽古をつけてもらっている訳ではありません。
……ですが、それが油断へとつながりました。
投げ飛ばされ地に伏した少年の一人が、そんな唯依の油断を突くように、スカートを引っ張り転ばせたのです。
これには唯依もたまらず、地面に倒れたところを寄って集って押さえつけられてしまいました。
ニヤニヤと見下ろす少年達。
唯依は、正直怖かったのですが、それでも衆を頼んで一人をいじめる様な相手に弱みは見せたくありません。
必死の気力を振り絞って睨みつけると、それがカンに障ったのか、一人の少年が拳を振り上げました。
悔しさと怖さに目を閉じた唯依の耳に、一瞬遅れて何かを殴る音が聞こえました。
……でも、まるで痛くありません。
それどころか、唯依を押さえつけていた手が、残らず離れていきました。
恐る恐る開いた瞳に映ったのは、見慣れた背中でした。
同時に、大きな手が優しく唯依を抱き起こしてくれます。
振り返ると、そこにはホッとした様子のジェレミアさんが居ました。
『ジェレミア、唯依と一緒に後ろを向いていろ……なに、五分で済む』
それは始めて聞く冷たいルル兄様の声でした。
ジェレミアさんは、兄様の命令に短く応えると、唯依を抱きかかえたまま後ろを向き、ついでとばかりに、耳も塞ぎます。
……耳を塞がれて尚、唯依の耳にはナニかが聞こえていました。
正直、唯依は、あの少年達に少しだけ同情してしまいました。
そして、ホンの少しだけ、うれしくもあったのです。
ルル兄様は、唯依の、唯依だけの為に、怒ってくれているのですから。
そうして五分が経った後、そこにはうめき声をあげるナニかが幾つかと、少しすっきりした顔になったルル兄様、そして青い顔で腰を抜かしている黒い髪の男の子が残ったのです。
その後は、さすがに少しやり過ぎたと思ったのか、兄様は唯依をジェレミアさんから受け取って背負うと、腰を抜かしている少年を連れてくるように指示し、そのままその場を離れました。
程なくして、ホテルへと辿り着いた唯依と兄様は、そのまま取っていた部屋へと戻りました。
言いつけを破った事を叱られるのではと、ビクビクしていた唯依に、ルル兄様は、転ばされた時、汚れた服を着替えるように言いつけると、一緒に連れてきた男の子へと向かいます。
青かった男の子の顔が白くなり、助けを求めるような目線が唯依へと向けられました。
え〜と……多分、大丈夫だと思います。
兄様は、事情を聞きたいだけだと思いますから……そうですよね?
そうやって、内心で決着をつけた唯依は、お部屋に向かいました。
良く見ると髪にも泥が付いていたので、まずシャワーを浴び、それから着替えを済ませます。
三十分ほどして、兄様の下に戻ると、ひどく恐縮した様子の男の子が、それでもそれなりに落ち着いた様子で、ココアを啜っていました。
ほら、やっぱり大丈夫。
と心の内で、ホッと一息ついた唯依に、兄様がココアを差し出してくれます。
ちょっぴりほろ苦く、それでいて甘いココアを飲んでいると気分が落ち着いていくのを感じました。
……ですが、それもルル兄様が、男の子から聞き出したらしい事の顛末を話してくれる事で吹き飛んでしまったのです。
男の子の名前は、レオン・クゼ君。
日系のハーフだそうで、親御さんのお仕事の都合で、こちらに来られたそうです。
唯依と同様に、初めての街が珍しかったらしく、散策していたところで彼らに絡まれたとか。
その絡まれた理由というのが、日系(まあ東洋系としか分からなかった様ですが)のハーフだから……ただ、それだけの理由だそうです。
それを聞いた瞬間、唯依は思わずルル兄様の顔を伺ってしまいました。
でも、兄様の顔には、何の表情も浮かんでいません。
そんな事は、先刻承知―――そう言わんばかりに。
唯依の胸が、ズキリと痛みました。
ルル兄様にとって、それが当然と感じられている事が、とても悲しかったのです。
そして、それを今まで気付かなかった自分が、とても恥ずかしかったのです。
そうやって唯依が落ち込んでいる間にも、話は進んでいきます。
当初は、無視してやり過ごそうとしたクゼ君ですが、ご両親の事を馬鹿にされて堪忍袋の緒が切れてしまったとか。
唯依が耳にした言い合いは、その辺りからだった様です。
後は、唯依が目にし、体験した通りとの事でした。
一通り話を聞き終えた唯依は、どうしていいか分からず黙っている事しかできません。
そんな中、クゼ君は、どこか憧れるような眼差しでルル兄様を見ながら、しきりに話しかけています。
どうも、事情を聞く過程で、兄様も日本人と英国人のハーフである事を話したらしく、それで兄様に親近感を抱いた様でした。
普段なら、唯依以外の人が兄様に馴れ馴れしくする事に不快感を感じるのですが、この時ばかりは別でした。
なにか両者の間に入り難いモノを感じてしまったのです。
何より、漏れ聞こえるハーフであるが故の苦労が、唯依の口を重くしていたのでした。
唯依は、今まで何を見ていたのでしょう?
何を聞いていたのでしょう?
……きっと、何も見ず、何も聞かずだったのでしょう。
ルル兄様や父様、叔母様や叔父様、その他多くの人に大事に大事に護られているだけで……
そうやって唯依が落ち込んでいると、そろそろ出立の時間が近づいたらしく、ルル兄様がクゼ君に空港に向かいがてら送って行こうと提案しました。
当初はクゼ君も遠慮していたのですが、やはり初めての土地故、キチンと帰れるか自信が無かったらしく、最後はルル兄様のご厚意に甘えるという形になりました。
用意された車で、クゼ君が宿泊しているホテルへと向かう途中も、やっぱり彼はルル兄様と話しています。
時折、唯依にも視線を向けるのですが、こちらが反応するとスッと目を逸らしてしまいました。
……女だてらに男の子を投げ飛ばしたのを見て、恐い娘と思われたのでしょう。
唯依の方から特に話す事も無かった為、結局、互いに会話を交わす事も無く、目的のホテルへと到着しました。
別れ際、何故かクゼ君がルル兄様と唯依の連絡先を聞きたがりました。
ルル兄様も、問題ないだろうと判断されたらしく、特にためらう様子もなく教えてしまいます。
こうなると唯依だけが、ごねる訳にもいきません。
すこし戸惑いつつも、連絡先を紙に書いて渡すと、クゼ君はとてもうれしそうにそれを受け取り、代わりに自分の連絡先を書いた紙を渡してくれました。
そうやって互いに連絡先を教えあった後、クゼ君とはお別れになりました。
走り去る車の窓から後ろを見ると、クゼ君が大きく手を振っているのが見えます。
遠ざかるそれを見ながら、唯依は小さく溜息をつく事しか出来ませんでした。
今日一日、いえ、半日で、見たもの、聞いたもの。
出立前に父様が言っていた言葉の意味が、少しだけ分かったような気がしました。
○西暦一九九〇年三月十三日
今日、枢木の軌道ステーションに到着しました。
ケープ・カナベラルについてから簡単な座学と訓練(講習?)を一日だけ受けた後、そのままHSSTに乗せられて、気付いた時には宇宙でした。
昔は、もっと大変だったそうですが、今はそこまで手間ひま掛けている余裕が無いそうで、余りにも呆気ない宇宙旅行となりました。
でも、気付けば今日は唯依の誕生日。
ルル兄様は、それまでに間に合うように段取りを組んでくれた事が言わずとも分かります。
ありがとうございます、ルル兄様。
さて、そんな兄様の心づかいに感謝していた唯依ですが、さすがに初めての宇宙は勝手が違います。
フワフワと浮く体は、ちょっとした事で右へ左へと……
思わず目を回しそうになった唯依を、微笑ましそうに見ている兄様達。
……少しは、助けてください。
そうやって、ちょっぴりいじけていた唯依を、優しく抱きかかえてくれた兄様は、そのまま居住区へと連れて行ってくれました。
遠心力と言うそうですが、それが働いている居住区では、一応、足が床に着きます。
まだ少しフワフワする感じが残っているのは、地上のそれよりも弱い力になっているからだそうです。
構造上どうとか、回転半径と速度の関係がどうとか、難しい説明を先に来ていたロイドさんがしてくれましたが、正直、今の唯依にはまだ理解できませんでした。
まあ少しだけ不便ですが、何とか歩けるだけマシだと割り切った唯依に、兄様が見せたいものがあるとおっしゃいます。
ルル兄様が、わざわざ唯依に見せたいもの?
その言葉に、強く興味を惹かれた唯依は、兄様に導かれるまま展望室へと向かいました。
二面ある強化ガラスの一方からは、宇宙に浮かぶ円筒形の籠の様な物が見えました。
兄様が説明してくれたところでは宇宙船を造る為のドックの骨組みとの事です。
そしてもう一方には、地球の姿が望めました。
青と白と緑で彩られた星は、とてもキレイで、溜息が出る程です。
でもそれも、ルル兄様が指差す一点を見た瞬間、消し飛びました。
そこは、ユーラシア大陸の一角、いえ、大半を占める場所。
赤茶けた領域だけが延々と広がっている地。
BETAの支配地域と化した領域でした。
BETAは全てを削り取る。
緑も、大地も、そして数多の生命も。
知識として知っていたそれを目の当たりにし、立ち竦む唯依にルル兄様が告げます。
『このまま行けば、この星そのものが、ああなる日もそう遠くない』
ガランとした展望室に響く兄様の声は、いつもとは違う鋭く硬い声でした。
傷ついた星を見下ろす眼は、とてもキレイで、恐いほどに透き通っています。
普段とはまるで違う兄様の姿に、思わず息を呑んだ唯依へと振り向きながら、兄様は問いました。
『唯依、お前は以前、父上の志を継ぐと言った。
その思いに変わりは無いか?』
気圧されながら、それでも首を縦に振りました。
答えなければならない――そう感じたからです。
『……ならば、その眼に焼き付けておけ。
アレが、お前が挑むべき敵の一つなのだから』
そう言って兄様は、再び指差します。
青く美しい星を蝕む色を。
唯依の、いえ、全ての人類の敵。
忌まわしき異星起源種――BETAを。
兄様に導かれるまま食い入る様に、それを見つめていた唯依でしたが、ふとある事に気付きました。
『敵の一つ……ですか?』
思わずこぼれた胸の内を耳聡く聞き取ったルル兄様の眼が、少しだけ細くなりました。
『唯依は聡いな。
だが、もう一つの敵も、お前は既に見ている筈だ』
もう一つの敵。
兄様のその言葉に、首を捻りかけた唯依の頭の中で閃くモノがありました。
背筋が震えました。
恐怖と嫌悪で。
……でも、そんな、そんな事って。
唯依の顔色が、明らかに変わったのだと思います。
兄様は、わずかに苦笑を浮かべると、唯依の頭にポンッと手を載せました。
優しく髪を撫ぜる兄様の手の平。
普段ならホッと安堵させてくれる筈のそれも、その時の唯依の震えを止める事は出来ませんでした。
『ああ、唯依は本当に聡いな。
―――人にとってのもう一つの敵、それは……』
途切れた兄様の言葉に、繋がる言葉が、唯依の口から自然にこぼれ落ちました。
『……人……ですか?』
兄様は、そこから先を続ける事はありませんでした。
ただ震える唯依を、優しく抱きしめてくれます。
細身ながらしっかりとした強さを感じさせてくれるルル兄様の腕の中で、唯依は震え縋りつく事しかできません。
そんな情けない唯依を、兄様はいつまでもいつまでも抱きしめていてくれたのでした。
○西暦一九九〇年三月十七日
四日間の滞在を終え、今日、唯依は地上へと戻ってきました。
地に足を着けた瞬間、ずっしりとした重みを感じます。
………別に、唯依が太った訳ではないですよ。
普段は意識する事の無い重力という物を感じつつ、それ以上に肩に圧し掛かるモノを唯依は感じていたのです。
本当に色々な物を見、色々な事に気づく事になった旅でした。
帝国を発つ時には、思いもよらなかった事ばかり。
正直、こんな事になろうとは、夢にも思わなかったです。
でも、きっと父様は、初めからこうなる事を知っていらしたのでしょう。
それが、あの時の言葉だったのですから。
ヒドイとは思いません。
恨むつもりも無いです。
これらはきっと、唯依がいずれ必ず知るべき事だったのです。
そして兄様が、それを教えてくれたのは、唯依が成長したと認めて下さったからでしょう。
あの後、落ち着いてから、ゆっくり考えた結論がそれでした。
………落ち着いた後は、兄様に抱かれていた事を思い出して、赤面してしまいましたが。
――コホンッ
とにかく、唯依は見るべき物を見、知るべき事を知ったのです。
後は、それにどう答えを出すかは唯依次第。
そうですよね?
ルル兄様。
○西暦一九九〇年三月二十日
ようやく帝都へと戻ってきました。
わずか十一日間の旅、でも途方も無く長く感じられる旅でした。
ああ、お味噌汁とご飯が懐かしいです。
……言っておきますが、唯依が食いしん坊という訳ではありませんよ。
これは海外に出た方の殆どが感じる事なのですから。
さて、篁の屋敷に戻った唯依を待っていたのは、珍しくお仕事を早めに切り上げた父様でした。
父様のお部屋にて、旅の報告も兼ねた帰還のご挨拶をします。
彼の地にて見た事、聞いた事、感じた事を、とつとつと語る唯依の話に、父様は黙って耳を傾けられていました。
やがて、全てを話し終えても、父様はそれについて特に何かを言われる事はありません。
ただ、大きな手の平で唯依の頭を、撫でてくれただけです。
ルル兄様とは少し違う大きな手、伝わる暖かさも異なりますが、やはりホッと安堵させてくれます。
唯依の肩の重みが、少しだけ軽くなった気がしました。
そして今日は、久しぶりに父様と一緒にお風呂に入り、一緒のお布団で寝る事になりました。
これを書き終えたら、もう就寝です。
それでは、お休みなさい、ルル兄様。
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