Muv-Luv Alternative The end of the idle

【伏竜編】

〜 PHASE 6-1:アヴァロンへの険路【後】 〜






―― 西暦一九九〇年 十二月十九日 帝都・枢木邸 ――



「このジェレミア・ゴットバルド、我が身命に換えても、必ずや、必ずや、この使命果たしてご覧に入れましょうっ!」

 朱塗りの大杯を片手に、真っ赤な顔でジェレミアが叫ぶ。
 周囲を囲むキャメロットの面々が、やんややんやと喝采を上げる中、手にした杯に口を着けそのまま一気に中身を飲み干した。
 空になった大杯が振り上げられるや、一際、歓声が高まり、座を華やかに彩っていく。
 『スヴァルトアールヴヘイム』の出航を間近に控えての壮行会兼忘年会は、関係者一同を巻き込んで、天井知らずに盛り上がりつつあった。

 あちこちで笑いが弾け、奇声が上がる。
 混沌の様相を呈し始めた大座敷でも、やはり一番目立っていたのはジェレミアだ。
 良くも悪くも一本気で、どこか憎めない気質の彼は、何気に部下からの人望は厚い。
 周囲を取り巻く部下達と共に浴びるように酒を飲みつつ、大声で忠義を語る様は、どこか微笑ましく、楽しくもあった。

「我が忠義は、不変不滅!
 折れず、弛まず、曲がらず、全ては我が主ルルーシュ様の御為にぃぃっ!」

 ………まあ、少しだけ暑苦しくもあったりするが。

 何はともあれ、そうやって意図する事無く、場を盛り上げているジェレミアを、少し離れた位置で眺めながら、ロイドがボソリと呟いた。

「相変わらず暑苦しいなぁ〜ジェレミア君は」
「………」

 まあ、そう言いつつもニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべている辺り、本音が垣間見えていた。
 何せ学生時代からの腐れ縁、それも同じ境遇の存在、いかにロイドが捻くれていても友情らしきモノ位は感じても不思議は無い。
 とは言え、そこで素直になれる程、真っ直ぐな性格をしている訳でもない奇矯な天才は、やはり素直でない憎まれ口を叩いた。
 それがどの様な結果を招くかも知らぬままに……

「ホント、もっとクレーバーにやって欲しいよねぇ〜」
「………うるひゃい……」

 ひどく小さく、そして平坦な声が左手から聞こえた。

「へっ?」

 何となく背筋が寒くなるようなソレに、ロイドの口から間抜け声が漏れる。
 恐る恐る振り向いた側には、白皙の頬を真っ赤に染めた女性が一人。

 個体名セシル・クルーミーと呼称されるソレは、妙に据わった目付きで、彼――ロイド・アスプルンドを見上げている。

「……うるひゃいって言ってるんら、このプリン野郎!」

 呂律が全く回っていなかった。

 左手に持った空の湯呑み茶碗、右手に握り締めた一升瓶――『美少年』のラベルが貼られたそれは、中身が三割程度まで減っている。
 ロイドの背筋をイヤな汗が、タラリと流れていった。

「……え〜と、セシル君?」
「なんら」

 恐る恐る掛けられた声に、ひどく抑揚に欠けた声が返る。
 完全にすわりきった眼は、とても虚ろで感情を読み取る事が出来なかった。

 ロイドの脳裏で、本能が警鐘鳴り響かせる。
 逃げ出したくなる衝動に駆られつつも、学者故の矜持か、理性的な対応を優先させてしまった。
 それが、大失敗へと繋がるとも知らずに………

「もしかして酔ってる?」
「よってなんかいにゃいろぉ」
「………」

 ――いやもう、完全に酔ってるから。

 内心で、そう突っ込みを入れながら、さてどうしたものかと考え込みかけた彼の前に、ズイッと一升瓶が差し出された。

「呑め!」

 額に脂汗が滲む。
 救いを求めて忙しなく動く目線、だが、その悉くがさり気なく逸らされた。

 世の無常を感じながら、ロイドは恐る恐る、なるべく刺激しないように答えを返す。

「あ、いや僕は、アルコールは、あんまり摂取しない方だから」
「ワラシの酒が呑めないっていうのかぁぁ?」

 更に低く、そして冷たい癖に背筋が炙られる様な感じの声が、彼の聴覚を鷲掴みにした。
 噴出す汗が眼に入るのを感じながら、ロイドは霞む視界に向けて頭を垂れる。

「……頂きますです。ハイ」

 明確に分かれる勝者と敗者。
 両手持ちで差し出されたグラスに、セシルは上機嫌で酒を注ぐ。

 ――と思いきや、急に瓶を引き、替わってズイッと真っ赤に染まった美貌を突きつけて来る。

「大体らな、ジェレミア卿にモンクいへる立場かっての。
 いつもいつもワラシに迷惑かけすぎっ!」

 女性としてどうなのだろうと思いたくなる酒臭い息を浴びながら、ロイドは天を仰ぎたくなるが、ここは頭を下げるべきと判断し、素直に詫びを口にする。

「……あ〜……スミマセン」

 セシルの双眸に、剣呑な光が宿った。

 バンッ!

 と畳の悲鳴が聞こえた。
 間髪入れず突き出された一升瓶の口が、ロイドの目と鼻の先に付き付けられる。

「誠意がぁ!
 かんじられぇないっ!」

 ロイド・アスプルンドは、深い深い溜息を吐く。
 彼が、日頃の行いの報いを受け終わるには、まだまだ時間が必要な様だった。



■□■□■□■□■□



―― 西暦一九九〇年 十二月十九日 十九時 帝都・枢木邸 ――



「……ふぅ……」

 宴会の人いきれの熱気に当てられた唯依は、部屋の隅の方に逃れ、ようやくホッと一息つく。
 壮行会を兼ねた宴会と聞き、今まで実家で経験した事のあるモノと同じと考えていたのだが、実態はまるで違っていた。
 年齢・性別はおろか出身や人種すらお構いナシに集まった一同が、思い思いに騒ぐ様は、唯依がこれまで経験した宴会が随分とお上品に見える程、混沌とした活気に満ち溢れている。

 どこか別世界の様に感じられるその喧騒を、そこに混じっている父達を、呆れと興味が半々の眼差しで眺めていると、少女の横手から柔らかな声が降ってきた。

「どうした唯依?」

 振り仰げば優しい笑みを浮かべた少年が、そこに立っていた。
 少女の幼い美貌が、喜びと安堵に彩られて綻ぶ。

「あっ、兄様」
「退屈だったか?」

 覗き込む様にして問うルルーシュに、壁の花になっていた自分を気に掛けて、ワザワザ来てくれた事を悟り、唯依は少しだけ胸を高鳴らせた。
 と、同時に申し訳なさも感じる。
 今回の計画の責任者として、この宴会のホストの役目もある兄が、自分だけにかまけていては不味い事くらいは、彼女にも理解出来たのだ。

「いえ、知らない方も多かったので、少し……その……」

 せめて心配を掛けないようにとの虚勢を張るが、長い付き合いからか余り効果は無かったらしい。

「ふむ……確かにそうだな」

 そう言いながらルルーシュは、唯依の横手に腰を下ろした。
 しばらく相手をしてくれる事を、態度で示してくれた兄に、唯依の頬も、いけないと思いつつ緩んでしまう。

「ここしばらく忙しくて、まともに話す間も無かったからな」
「あ……はいっ!」

 そう言って話しかけてくれるルルーシュに、唯依も久方ぶりの充足感を覚えていた。
 思っていた以上に、兄との会話に餓えていた事を自覚した唯依は、何を語るべきかを一生懸命考える。

 アレも言いたい、コレも聞きたい、いやその前に、と。

 だが、予想に無い幸運に、グルグルと回る頭の中から弾き出されたのは、彼女にしても想定外のモノ。

「ルル兄様……差し出がましい口を利く事を、お許し下さい」

 言った瞬間、唯依は、自分が真っ青になるのを感じた。

 何故、そんな問いを口にしたのか、後になっても全く分からなかったが、ただその時は、滔々と流れ出す言葉の羅列を止められなかった。

「『アヴァロン計画』は、本当に必要なのでしょうか?」

 唯依は、自身の顔面から、更に血の気が引いていくのが分かった。
 きっとその時の自分は、紙の様に白い顔していただろうと後に思う。

 ――怒られる。
 ――嫌われる。

 そんな想いが、少女の心臓を締め付けた。

 だが……

「唯依は、必要とは思わないと?」

 どこか笑みすら含んだ表情で、穏やかに問い返される。
 失言と緊張に強張っていた少女の身体から、スッと力が抜けた。

 だが今度は、兄の逆鱗に触れずに済んだ事を安堵しつつも、自身すら意図していなかった問い故に、どう応じたものかと悩む。
 そうやってウンウンと唸る妹の姿を、ルルーシュは嬉しそうに見つめていた。
 やがて整理がついたのか、俯き加減であった頭を上げて真っ直ぐにルルーシュを見つめてくる。
 淡い桜色の唇が、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。

「………正直分かりません。
 でも、とても危険な賭けであると、多くの識者も言っています」

 ニュースで、新聞で、或いは教室で流れる噂で、絶え間なく語られる否定的意見。
 それを聞く度、見る毎に、心を痛めていた少女は、飾りの無い本音を吐露した。

 対してルルーシュはと言うと、一連の『識者の意見』とやらを思い出したのか、やや皮肉気な笑みを浮かべる。

「そうだな。
 もっとも、もう少し過激な言い回しだったがな」
「兄様!」

 少女の一喝が皮肉屋を打つ。
 一瞬、驚いた様に眼を丸くしたルルーシュであったが、自身の非を悟り素直に頭を下げた。

「……許せ、冗談だ。
 まあ常識的に考えれば、無謀な計画であるのは確かだな」

 それは認めよう。
 確かに、『この世界』の技術水準からすれば、成功する事が奇蹟に近い事業である以上、技術的な根拠から、それを否定するのは誤りではなかった。
 どちらかと言えば、ズルをするつもり満々の自陣営が非難を受けるのは正当と、彼は胸中で苦笑する。

 とはいえ、それを表に出すようなヘマはしない。
 理由はどうあれ、可愛い可愛い妹に叱られたくはないのだ――シスコンだから。

 故に、そんな胸の内を覆い隠し、真剣そのものといった表情で彼は言葉を繋ぐ。

「だがそれでも、オレは断言しよう。
 『アヴァロン計画』は、如何なるリスクを負おうとも遂行されねばならないと」
「……ルル兄様……」

 力の篭った答えに、唯依は困惑の色を浮かべる。
 ここまで言い切る兄を信じたい気持ちと、世相に流れる批判、そして何よりどこか常と違う兄の姿勢に戸惑う気持ちを隠せなかった。
 そんな彼女の内心を慮ったのか、声を和らげてルルーシュが問う。

「そこまで拘るのが不思議か?」
「……はい、兄様らしくありません」

 疑問を正確に突かれ、一瞬、眼を見開く唯依。
 だが、長い付き合いから来る慣れからか、速やかに切り返す。
 少年の相好が少しだけ崩れた。

「らしくないか?」

 重ねられた問いに、唯依は、白い飾り布を揺らしながらコクリと頷いた。
 一度だけ眼を閉じ、言葉を整理した彼女は、ゆっくりと慎重に答えを返す。

「いつもの兄様なら、一つの計画に固執したりしないと思います」

 そう、それが不思議。
 どんな時でも、どんな状況でも、余裕を持って対処してきた兄には似つかわしくない執着。
 そこが、とても引っ掛かる。

 言外に、そう告げる妹を前にし、ルルーシュの双眸には楽し気な色が浮かぶ。
 元々、聡明であった娘が、より深く細かく物事を見れる様に成長しているのが、彼にはとても嬉しかったのだ。
 緩みそうになる頬を、意志の力で抑え込みながら、さてどう答えたものかと思案する中、抑え切れぬ想いが言葉となって少しだけ零れる。

「まあ、確かにそうだな」
「……ルル兄様、唯依の言葉を真面目に聞いて下さい!」

 ……どうやら誤解されてしまったようだった。
 彼の呟きを、誤魔化しと感じたのか、白い頬をプクリと膨らませながら睨みつけてくる。

 ルルーシュは、幼い頃からの変わらぬ癖に、微笑ましさを感じながら、誤解を解くべく口を開いた。

「そういう訳では無いのだがな……
 ……ふむ、なんと言えば良いのか」

 珍しく言葉を濁すルルーシュに、唯依も不審気に眉をひそめる。
 誤魔化すつもりが無い事は理解できたが、この切れ過ぎる程に切れる兄が、言葉を濁す様に奇異さを感じたのだ。

 そうやって、ちょっぴり恐い顔になった唯依の前で、しばし考えを纏めていたルルーシュは、ゆっくりと十を数える位の間を置いて、ようやく重くなった口を開く。

「確かに、いつものオレなら一つの計画に固執したりはしない。
 何故なら、常に変化する情勢に合わせ、複数の計画を用意するのがオレのやり方だからだ」

 そこで一旦、言葉を切ると、彼が続きを言うよりも先に唯依が問い掛ける。

「一つの計画が潰れても、別の計画が替わる、或いは補うという事でしょうか?」
「ああ、その通りだ。
 唯依は聡いな」

 全て言わずとも悟る妹を、少年は手放しで褒めた。
 微妙に兄馬鹿の気が仄見えるが、それはいつもの事である。

 一方、褒められた側はというと、頬をわずかに上気させつつも、誤魔化されないぞとばかりにルルーシュを凝視していた。

 少年の整った容貌に薄い苦笑が浮かぶ。

「だから、お前が違和感を覚えるのは無理の無い事ではある」
「………」

 肯定に返されるのは沈黙。
 この後に続くものが有るのを、敏感に察していた少女は、沈黙を以って先を促す。

「……とは言えだ、常にオレの思う通りの情勢を作り出せる訳ではない。
 大変遺憾ではあるが、一つの計画に望みを託さざるを得なくなる事もある」

 経験した事のある大変遺憾な策――富士決戦での乾坤一擲の勝負を思い出す。

 のるかそるかの大博打。
 本来の自分らしくないやり口ではあったが、必要とあらばその手も取る。
 そして今回の計画についても、それは同じだった。

「アヴァロン計画がソレだと?」
「そうだ」

 可愛らしく首を傾げる唯依に、言葉短く応じた。
 しばしの間、綺麗な眉根を寄せて考え込んだ少女は、少し疲れたように首を振る。

「……やっぱり分かりません。
 枢木の会社は、順調そのものと聞きます。
 何故、そこまでのリスクを取る必要があるのですか?」

 今の会社に、そこまで無理をする必要が何処に有ると問う妹に、兄は静かに間違いを指摘する。

「枢木の為ではない。
 いや、枢木だけの為ではないと言うべきか」
「………帝国の為……ですか?」
「少し違うな。人類の為だ」

 ひどく重く静かな声が、その場に響く。
 いつの間にか喧騒が鎮まっていた事に、唯依はようやく気付いた。

 座の視線が、彼女の目の前に座す少年へと集中している事が分かる。
 余人なら気圧されるような不可視の圧力。
 それは、皆が皆、どこかに抱いていた不安感の具象であると、そしてそれ故の大騒ぎであったのだと、少女はようやく気付いた。

 多くの視線と、そこに宿る想い全てを一身に受けながら、彼女が敬愛する兄がゆっくりと口を開く。

「世界は滅ぶ。
 そして人もまた然り。
 ……今のまま時を過ごす限り、それは避けられん」

 絶対の予言を告げるが如き声が、一同の耳を打つ。
 冷厳そのものといった宣告に、殆ど全ての者達の顔が青褪めた。

「そ、そんな事は……」
「有り得ないか?」

 震える声に重なる声。
 唯依は思わずブンブンと首を縦に振る。
 振って振って、そして……

「父様も、叔父様も、そして何よりルル兄様も、帝国を、いえ世界を護る為に必死で――」

 父の、叔父の、そして何より、兄その人の努力を掲げ、否定の言葉を紡ぐ。
 だが、対峙する兄の双眸には、哀れむような色が滲んだ。

「それでもだ。
 それでも世界は滅ぶだろう」
「……兄様……」

 再び放たれる非情の宣告に、唯依は呆然と呟く事しかできなかった。

 ――何がなんだかサッパリわからない。
 ――目の前の人が言っている事が。

 理解を拒否しかかる少女の前で、どこか悲しげな笑みを浮かべた少年は、幼子に説くかの様に、ゆっくりとした口調で話を続けた。

「今の人類は、水の入った鍋に放り込まれたカエルの群れと同じだ。
 鍋の中の水は、まだ温く心地よい。
 だからカエル達は逃げ出さず、内輪もめにご執心だ。
 鍋の底が、業火に炙られている事にも気付かぬままに」

 整った容貌に、一瞬だけ冷たい笑いが浮かぶ。
 思い当たる節があるのか、その場の人間の多くが苦々し気な表情を閃かせた。

 かつて神の島で、彼が腹心と語り合った様に、未だ人類はバラバラのまま。
 目の前に迫る滅びにすら気付く事無く、様々な領域で内部抗争を繰り返している。

 溜息が出る様な現状。
 だが、己が身を、そして部下達を守る為にも、その無益な闘争に勝利すべく尽力せざるを得ない矛盾。
 何ともやりきれない思いを感じつつ、彼は己が抱く存念の一部を明かす。

「このまま時を過ごせば、人類は徐々に消耗していく。
 そして遠からず破断点を迎える事だろう。
 明日、その日が来る事にすら気付く事無くな」

 厳し過ぎる断定に、無意識の内に否定を求めた唯依の視線がさ迷う。
 だが、求めたモノが彼女に与えられる事は終ぞ無かった。
 父達を含め、誰もが皆、真剣な、或いは深刻な表情で兄を見ている。
 その意味が理解できない程、愚かではない自分が今は恨めしかった。

 そんな彼女を他所に、冷厳たる声が響く。

「国も世界も頼りにならぬと言うなら、それはそれで良し。
 まあ本音を言えば、『もう勝手にしろ』だな。
 だからオレも、勝手にする事にした訳だが………」

 そこで言葉を切ったルルーシュは、一同をザッと見渡す。
 不安、疑念、葛藤、その他様々な感情を宿す皆の顔を見ながら、誰もが見惚れるような笑みを浮かべた。

 不敵にして不遜、そして何より力に満ち溢れた微笑に、誰もが惹きつけられる。

 ゆっくりと掲げられた手の平。
 そこに、その場の全てを載せる様な仕草を見せた少年は、それを力強く握り締めた。

「後は、この手で掴み取れるモノを、掴み取るだけの事。
 全てを救えぬとあらば、九を切り捨て一を救う――それも、一つの選択の形だろう」

 告げられた言葉の意味を噛み砕いた時、その場には再び無数の感情が溢れた。
 正と負の感情が、後ろめたさと安堵の念が拮抗し、混じり合う。

 そんな微妙な均衡の中、わずかに険を帯びた問いが、ルルーシュへと突きつけられた。

「君は、『箱舟』を造るつもりか?」

 そう言って鋭い眼差しで、こちらを見る篁に、ルルーシュは挑戦的な笑みを返す。

「さて、どうでしょうか?
 ですが、最悪の場合に備えた選択肢は必要でしょう」
「だが、その力を別の方向に向ければ、活路が開けるかもしれんのだぞっ!」

 僅かに離れた位置から放たれた巌谷の舌鋒。
 皮肉を湛え、ルルーシュの口元が歪んだ。

「砂地に水を撒いたところで、大輪の華が咲く事は――イタッ!」

 ゴキンッと痛々しい音が鳴った。

 脳天を押さえて沈む彼の背後には、いつの間に忍び寄ったのか、右手の拳骨を振り下ろした姿勢の真理亜が佇んでいる。

 頭蓋を叩き割られたような強烈な衝撃と痛みに、涙目になったルルーシュが背後の加害者へと食って掛かろうとする。

「は、母上!?」

 ……いや、したのだが。

「なに悪役ぶってるのかしら、コ・ノ・コ・ハ」
「………」

 笑顔でありながら、全く眼の笑っていない母を前に、思わず腰砕けになった。
 メデューサすら裸足で逃げ出しそうなドス黒いオーラを撒き散らす美女の姿に、彼のみならず、この場に居る面子の全てが思わず後ずさる中、白い指先が息子の背後を指し示す。

「ほら、唯依ちゃんが涙目になってるじゃない」
「うっ」

 振り返ったルルーシュの視界に、涙で潤んだ双眸が映る。
 思わず呻き声が漏れたが、ジィィっとばかりにこちらを見る眼は微動だにしなかった。
 背後に感じる黒い怒気、前で涙ぐみ悲嘆に暮れる妹の姿。

 前門の狼、後門の虎を地で行くシチュエーションに、彼に残された手段は一つしかなかった。

「……最悪の場合、そういう選択もあるという事だ。
 本来の目的は、BETAの脅威が及ばない安全な後背地を築く事にある」
「……本当ですか?」

 白旗を揚げた筈の彼に、非情の追い討ちが掛かる。
 彼と同じ色の綺麗な瞳に、ジワリと涙を溜めたまま唯依は問い質してきた。
 乙女の涙というある意味、最終兵器の連打に、ルルーシュは深い溜息を吐く。

「唯依に嘘は言わん」
「……嘘吐いたら、針千本飲ませますからね」

 そう言って掲げられた小さな指に、少年の指が絡む。
 誓いを交わして指を離すと、ようやく泣いた子雀が笑ってくれた。

 何故か、今日に限って微妙な距離を感じさせる親馬鹿コンビの肩からも、ホッと力が抜ける。
 様々な意味で、枢木ルルーシュという台風の眼が、帝国から離反する事を、彼等も恐れていたからだ。

 一方、何故か一人負け状態に追い込まれたルルーシュは、憮然とした表情を浮かべながらも、告げるべき忠告を告げる。

「……まあ、何はともあれだ。
 危なっかしい状態にあるという自覚すらないのが、現在の世界、いや、一握りのお偉方という事だけは覚えておけ」
「あ……はい……」

 唯依は、小さな手でグシグシと涙を拭いながら、どこか半信半疑といった様子で頷いた。
 その様に、苦笑を浮かべた少年は、ハンカチを取り出すして、優しく涙を拭いながら、重ねて告げる。
 教え諭す様に……

「信じられんという顔だな。
 そうだな、客観的に見れば愚行の極みでも、当人から見れば最善手と思い込む事がある――そう覚えておけば良い」

 どこか毒のある兄の言葉に、唯依は、サラサラと黒髪を揺らしながら小首を傾げた。

 ――案外、兄様にもその気があるのでは?

 などとちょっぴり失礼な事を胸中で呟きつつ、それでも素直に頷いてみせる。
 これ以上、大好きな人の口から、悲しい話を聞きたくはなかったから……

 そんな彼女の心情を知ってか知らずか、先程から姿が見えなくなっていた咲世子が、いつの間にか彼らの傍にやってきてルルーシュに声を掛けた。

「ルルーシュ様」
「どうした咲世子?」

 返された問いに答える事無く、主の耳元に口を寄せ何事かを囁く。
 紫の瞳に、一瞬だけ辛辣な光が浮かんで消える。

 そして最後に一度だけ、唯依の頭を撫でると、ルルーシュは腰を上げた。
 そのまま座を占める一同を、ゆっくりと見回しながら声を掛ける。

「申し訳ないが、来客があったようだ。
 少し席を外すが、皆はこのまま愉しんでいてくれ」

 そう言い残すと彼は、咲世子を伴い去っていく。
 その背を、どこか寂しそうに見つめる唯依を、後に残して。



■□■□■□■□■□



―― 西暦一九九〇年 十二月二十日 帝都・料亭『瓢』 ――



「おおぉぉっ!」

 ――歓声が弾け。

「盛大な火祭りですな」
「いや、まったく!」

 ――抑え切れぬ歓喜が満ちる。

 闇の中、轟々と燃え盛る紅蓮の焔を見ながら、彼らは勝利の美酒に酔い痴れていた。
 式根島沖に配された特殊潜航艇から、リアルタイムで送られてくる大火の光景に、嬉々として浮かれ騒ぐ。

 忌々しい宿敵の失墜。
 そしてそれにより齎されるであろう栄華と富。
 今宵、彼らは、その生涯における幸せの絶頂にあったと言っても過言ではあるまい。

 そんな幸福な連中の下に、最大の功労者から連絡が届く。

『いかがでしょう。
 ご期待に沿えましたかな?』

 無線を通して聞こえる伊達男の声に、一同がこぼれ落ちそうな笑みを浮かべた。

「ああ見事だ。
 よくやった鎧衣!」
「報償は思うがままだ。
 期待するが良い」

 喜びに沸く高位・高官にあるやんどころ無い方々は、実に気前良くお褒めの言葉と望みどおりの報酬を手駒へ与える事を約束した。
 その程度の事は、気にも成らぬ程、気が大きくなっていた証とも言えるだろう。

 そうやって浮かれ騒ぐお偉方を他所に、無線機越しに聞こえる男の声が、形式的なお愛想と共に響いた。

『ありがとうございます。
 それでは、後始末がありますので』
「ああ任せたぞっ!」

 笑いが止まらぬと言ったところだろうか?
 喜色に溢れた大声で、そう告げた軍人は、そのまま無線を切った。
 その脳裏からは、既に汚れ仕事を押し付けた男の事など、綺麗サッパリ消え失せている。
 いま彼の、否、彼らの意識を占める事は、今回の『重大な事故』で産まれたであろう犠牲者の事でもなければ、無念の内に斃れた反枢木の同志達の事でもない。
 その胸中を満たすのは………

「さて、後は『事故』の隠蔽などさせぬようにせねばな」
「うむ早速、調査団を編成させよう。
 奴等に建て直しの猶予など与えるべきではない」
「世間への周知も徹底させるべきですな。
 こちらの息の掛かったマスコミに、大々的な報道をさせるべきです」

 如何にして、枢木にトドメを刺すか。
 そして―――

「ここで揺さぶりを掛ければ、枢木の中の不満分子もこちらになびく筈だ」

 その富を、技術を、権益を、如何にして掠め取るかだけだった。

 互いに欲望にギラつく眼を向け合いながら、彼らの枢木解体への密談が急加速していく。
 これからは、如何に迅速に事を運ぶかが鍵だ。
 折角、乾坤一擲の大博打に勝ったと言うのに、トンビに油揚げを攫われては眼も当てられない。
 場に満ちる粘つく熱気が、更に強くなった。

「多少の無理はしても、資金の調達を急ぎましょう。
 枢木の株は非公開ですが、それでも二割程は枢木家以外が所有しています。
 その内の幾らかは、内々にですが、相応の値段でなら譲るとの言質も取ってありますのでね」
「二割では、意味が無いのではないかね?」

 欲に溺れつつも、それなりに理性は残っているらしく、議決権すら覚束ない数に不安を述べる者もいた。
 だが、事を主導した形になる枢木のライバル企業の重役は、自信満々といった態で、及び腰になる同志を叱咤する。

「なに揺さぶりには使えます。
 それに此処が押し処でしょう。
 投下した資金についても、後々、株式を公開させれば元は取れます」
「そうだな……」

 欲望をくすぐり、そして焚きつける説得に、やや気後れしていた連中も積極的になってくる。
 それほどまでに、枢木の保有する物は彼らにとっても魅力的だった。
 それ等全てを手にする事が叶えば、彼ら自身の元々の権力・財力とあいまって、帝国そのものを牛耳る事すら可能だろう。

 そうやって多くの者が、胸中で取らぬ狸の皮算用を始める中、それでも尚、踏ん切りがつかぬ風情の官僚の一人が、恐る恐るといった様子で意見を差し挟んだ。

「しかし、今回の件のダメージを考えると……」

 老人の目に、呆れた様な光が宿る。
 ここまでやっておいて、今更なにを言うというのが、老人の本音だ。
 この手の輩を下手に放置すると、思わぬところで足を掬われる事を経験上知っていた男は、押し込むような口調で捲くし立てていく。

「場合によっては、特許や資産を切り売りするという手もあります。
 腐っても鯛――決して赤字にはならないでしょう」

 きっぱりと言い切る様に、場の空気も完全に決まる。
 最後まで逡巡の色を見せていた官僚も、やや不安げな表情は残るものの同意へと転じた。
 最早、この場で枢木接収に反対する者は居なくなる。
 そして、一座の意向が固まった事を見取った政治家が、最後の確認を取るかの如く、或いは自身を鼓舞するかの様に強い口調で断言した。

「いいだろう。
 確かに此処が勝負所だ」

 さざめく様に各所から同意の声が上がった。

「可能な限り金を掻き集めよう」
「ああ、ここが正念場だ」

 一同が、互いに顔を見合わせ立ち上がる。
 具体的な獲物を目の当たりにする事で、バラバラだった集団が一つへと纏まった瞬間だった。

 こうして、枢木の全てを奪うべく、彼ら反枢木の要人達は活発な動きを開始する。
 より多く、より美味いところを貪るべく、欲に塗れた獣達が宵闇の中へと散っていった。



■□■□■□■□■□



―― 西暦一九九〇年 十二月二十日 大阪 ――



 クライアント、否、元クライアントへの連絡を終えた鎧衣左近は、ダンディズムに溢れたニヒルな笑みを浮かべた。

「やれやれ、大はしゃぎと言ったところですな。
 他人の不幸が、余程嬉しいと見える」

 常とは異なる毒を含んだ口調に、対面より嘲りを含んだ声が返る。

「好きなだけ騒がせてやればいい。
 どうせ直ぐに覚める夢だ」
「これはこれは……手厳しい事で」

 歳に似合わぬ辛辣なセリフを平然と口にする相手に、鎧衣はジロジロと無遠慮な視線を送った。

 ここは敵陣のど真ん中。
 少しでも妙な真似をすれば、或いは、こちらの癇に障っただけでも消されかねない状況。
 それら全てを承知した上での無作法に、対峙する相手――枢木ルルーシュは、秀麗な容貌に苦笑いを浮かべた。

「……狸が良くほざく。
 煮ても焼いても食えないヤツと咲世子が言っていたが、確かにその通りの様だ」
「ハハハ、随分と高く評価されたようで。
 光栄の至りとでも言っておきますか」

 そう言って面白そうに笑う少年に、狸と評された男が上品に応じた。

 互いに何枚も、或いは、何十枚も毛皮を被った者同士。
 どこか通ずるモノを感じあった可能性も皆無ではなかったろう。
 だが所詮は、どちらにとっても、これはメインの前のオードブル程度の感覚でしかない。

 それを証明する様に、互いの間にある張り詰めた空気が緩む事は無かった。

 そのままひとしきり嘘くさい笑いを交し合った両者は、やがてそれにも飽きたのか無言のままで睨みあう。

 一方は全てを見下す傲岸不遜な支配者の眼差しで。
 そして、いま一方は、狡猾を極まりない年経た獣の眼差しで。

 睨みあう。
 睨みあう。
 その心底を見透かさんとして。

 ……紫の双眸に、冷たい光が宿った。

「フン……まあ前ふりは、この程度でよかろう」

 切り裂くような鋭さが、少年の声に篭る。
 にこやかな笑みを湛えたまま、それを受け止めた鎧衣に向けて、間髪入れず二の太刀が放たれた。

「何故、寝返った?」
「寝返り?
 はて何の事やら。
 私は、公僕として当然の務めを果たしただけ……そうではありませんかな?」

 掛けられた問いに、実に心外と言わんばかりの表情と声が返される。

 式根島に侵入するや、自分から率先して出頭してきた挙句、事の次第を洗いざらいをぶち撒けた男。
 更には、元クライアントを嵌める片棒を担ぎながら、その事に一片の後悔も無さそうな男。
 そんな鎧衣の態度に、ルルーシュの眼差しが、スッと細くなった。
 裏切りと言う行為に、余り良い思い出の無い彼にしてみれば、男の行為は、評価を下げる事はあっても上げる事は無い。

 問い質す声も、更に冷たく堅くなった。

「ほう……公務か?」
「はい、帝国の安寧を護る為、私憤・私欲により公権力を私し、無意味な騒乱を起こそうとした者達を取り除く――立派な公務と思いますが、枢木氏はどう思われますかな?」

 明らかにこちらの気分を害した事を承知の上で、しれっと毒を吐く。

 私事で、公の権力を振りかざした連中を、罠に嵌めて排除しただけ――堂々とそう言い切る姿には、迷いも躊躇いも、ましてや後悔など微塵も感じられなかった。

 どこまでも人を食った物言いに、彼に余りよい感情を抱いていなかったルルーシュも、毒気を抜かれて破顔する。

「成る程、確かに立派な仕事だな」

 嘲りと感心が、合い半ばする。
 そんな年少の相手の態度に、鎧衣は、軽く肩を竦めて見せた。

「ご納得頂けて幸いです。
 不幸な行き違いは、時として無駄な血を流す元となりますからな」
「それは否定せんよ」

 飄々とした答えに、笑いを含んだ声が応じた。
 だがそこで、言葉と共にプツリと切れた感情の色に、鎧衣の眼が微かに細くなる。

 今までと同様、ソファに深く背を預けたままこちらを見るルルーシュ。
 ホンの数秒前とどこも変わらぬ筈なのに、鎧衣には、彼が全く別人に見えた。

 見下すでもなく、嘲るでもなく。

 全てを貫き通すような眼差しが、彼の奥底まで覗き込んでいる様な。
 精密極まりない不可視の秤で、彼という存在そのものが推し測られている様な。

 そんな不思議な錯覚を、鎧衣は覚えた。
 未だ崩れる兆しすら見せぬポーカーフェースの裏側に、粘り気のある汗が滲む。

 自身が、人生の分岐路――生と死を別つ分水嶺に立たされている事を、彼はその時、理解した。

「で、確認だが、貴様の公務とやらは、これからも同じ方向を向いているのかな?」

 何気ない声で、変わらぬ仕草で放たれた問い。
 だが、これに返す答え如何で、自身の未来が決まる事を鎧衣は悟った。

 誤った選択を為した瞬間、目の前の少年は己の生命を奪うだろう。
 まるで路傍の草花を、戯れに毟って捨てる程度の感覚で、何の感慨も持つ事も無く。
 数多の修羅場を潜り抜けてきた筈の男が、らしくない緊張を感じた。

 今まで感じた事の無い感覚。
 威圧感と共に、膝を折りたくなるような重圧が、その身に圧し掛かる。

 渇いた喉が、ホンのわずかだけ声をひび割れさせた。
 微かな掠れと共に、男の答えが放たれる。

「……しがない宮仕えの身としては、帝国の安寧の為、身を粉にして働く事になるでしょうな」
「帝国の安寧か……」

 含み笑いが少年の声に篭る。
 先程までの剣呑な気配が消えていく感覚に、鎧衣は自身が正解を選んだ事を理解し、ホッと胸を撫で下ろした。
 そして同時に、わずかな意外さを覚える。
 彼の見立てでは、当の昔に帝国を見限った筈の相手が、帝国に忠誠を尽くすと返した自身の事を認めたのだ。
 意外と言えば、意外としか言えぬ反応である。

 対して、訊くべき事を聞き終えたルルーシュは、やや雰囲気を軟化させつつも、一旦切った会話を辛辣な言葉で結んだ。

「まあ良かろう。
 我等が安寧を乱す元にならない限り、敵にはならないという訳だ」

 逆に言うなら、状況次第では敵に回るのだろうとの問いに、鎧衣の表情も再び渋くならざるを得ない。
 もし、そうなったとしても、それは鎧衣自身に非が無い話だからだ。
 少なくとも、武家として帝国に有る以上、その安寧を乱すというなら、非はルルーシュの側にある。
 正直、理不尽とは思うが、武家と言う特殊な立場に有る以上、それは避けて通れぬしがらみだった。

「私としても、そう有り続けて欲しいと願っておりますよ」
「ああ同感だ」

 言外に、そちら次第と告げる答えに、当の本人は誠意の欠けた返事を返した。
 その態度に、鎧衣もわずかに眉を顰める。
 再びの衝突を予感しつつも、今は分が悪いとの判断が、この場から速やかに退去する事を選択させた。

「さて、それでは私も、後始末がありますので……」

 そう言って、この食えない男にしては、やや忙しなく立ち上がる。
 微妙にペースを狂わされるモノを、少年から感じた彼は、三十六計とばかりにそそくさと立ち去ろうとした。その時―――

「待て」

 制止の一声が、その足を留める。
 振り返った鎧衣の右手が、ごく自然な動作で飛来した物を受け止めた。

「持って行け。
 それを持って、煌武院の姫君に会うが良い」

 どこか年相応の悪戯っぽさを秘めた眼差しで、少年が告げる。
 左手の人差し指と中指の間に挟まれた一通の封書を、胡散臭そうな目付きで一瞥した男は、確かめる様に問い返した。

「煌武院悠陽様に……ですか?」
「そうだ。
 帝国の安寧を口にするなら、会っておいても損は無い筈だ」

 躊躇う事無く返された答えに、鎧衣が僅かに眼を細める。
 数瞬、脳内で事の次第を吟味した男は、探るような視線を向けてきた。

「……ふむ、確かに。
 しかし、どのようなご関係で?」

 次期将軍殿下の名は、それだけ重い。
 少なくとも、帝国に忠誠を尽くすつもりの鎧衣にとっては。
 ましてや、発言者が発言者である。
 容易に聞き流せる言葉ではなかった。

 だが、おいそれと答えてくれる程、甘い相手であろう筈も無い。
 氷細工の如く冷たく美しい笑みを浮かべたまま、ルルーシュは冷たく言い放った。

「好奇心は猫を殺すそうだが、狸はどうかな?」

 そう言うと、ルルーシュは、ゆっくりと唇の端を吊り上げる。
 背筋に走った怖気を、自身の内に押し込めたまま、鎧衣はおどけた風情で口をOの字にしてみせた。

「おお、恐い恐い。
 やはり貴方は、恐い方だ」

 道化を演ずる男に向けられるのは、底知れぬほどに深い紫闇の瞳。
 ルルーシュは、冷笑を浮かべたまま、軽く手を振り退出を促す。
 君臨し、命ずる事を当然とするその仕草に、鎧衣は軽い会釈を返して従った。

 もうこの場で、交わすべき言葉は無い。
 互いに、そう理解したが故に。

 重々しい音と共に重厚な樫の一枚板で作られた扉が閉じる。
 一人の男を飲み込んで閉ざされたソレを、冷たい笑みと共に眺めていた少年の背後で、聞き心地の良い女性の声が湧き起こった。

「よろしかったのですか?」

 それまで美しい彫像の様に、微動だにせぬまま彼の背後に控えていた咲世子が、彼女にしては珍しく不満気な様子を見せる。
 だが、ルルーシュは、それを振り返る事無く前を見たまま応じた。

「構わん。事を成すには良く聞こえる『耳』と、良く見える『眼』が必要だ」
「彼の者は、今後、ルルーシュ様に、仇なすかもしれませんが……」

 控えめな懸念を口にする。
 彼女にしても、鎧衣左近という男は無視しえぬ脅威だ。
 今回の一件でも、侵入に気付くのが僅かに遅れ、左近の叛意が無ければ被害ナシで済ませたられたかは微妙である。
 わずかな隙を巧みにすり抜けて来るアレは、叶う事ならサッサと始末してしまうべき相手と言えた。

 ――命令さえあれば、生かしては帰さなかったものを。

 そう言外に告げる咲世子に、少年は苦笑を浮かべた。

 彼女の危惧は良く分かる。
 あの手の人物は、生きて有る限り、足掻き続ける事を諦めないものだ。
 今後も、こちらの周りを、さぞ五月蝿く飛び回ってくれる事だろう。

 だが、それを承知の上で、彼は鎧衣を生かす事を選択した。
 お節介、或いは、要らぬ気遣いと思われる事を承知の上で。

 何故なら……

「オレには、お前が居るからな。
 あちらにも、アレくらいの者が居なければ不公平と言うものだ」
「恐れ入ります」

 忌憚の無い本音が、絶対の信用と共に篭った主の言葉に、白い頬をわずかに染めながら、彼女は見惚れるほどに見事な一礼を以って応じてみせた。



■□■□■□■□■□



―― 西暦一九九一年 一月十五日 軌道ステーション ――



 青と黒のコントラストに彩られた宇宙に、漆黒の船影が浮かんで見える。
 つい昨日まで、船の周囲を取り巻いていた様々な構造体も撤去あるいは収納を終え、今はもう遮る物すら無いままに、軌道ステーションからも、その威容が垣間見えた。

『ルルーシュ様、出港準備完了致しました』
「そうか」
『お言葉を』

 正面に設えられたモニターの中で、礼を取るジェレミアに頷き、一歩前に出る。
 管制室の中央へと到った少年に向け、数え切れぬ程の視線が集中した。

 今この場の出来事は、肉眼のみならず機械の眼を通して、世界中へ配信されている。
 悪意による脚色や編集をされては面倒との判断から、枢木自身によるリアルタイムでの中継のみが為されていた。
 無論、この後のニュース等で録画配信される際には、さぞ色々と手が加えられるであろうが、オリジナルを先に公開してある以上、その辺の影響は予想の範囲内と割り切られている。
 あまり性質の悪い真似をするようなら、法的措置を取った上で、見せしめに二つ三つは潰してしまおう―――そう嗤って見せた当人が、そんな素振りはそよとも見せず、ヘッドフォン一体型のマイクをオンにした。

 主を迎えたジェレミアが、最敬礼の姿勢を取るや、腹の底からの大音声を張り上げる。

『総員傾注っ!』

 精神的に背中を蹴飛ばすその一声に、モニターの中で、或いは彼の周囲で、一斉に敬礼の姿勢が取られた。
 シンッと静まり返る室内に、微かなファンの駆動音と人の呼気のみが取り残される。

 ゆっくりと、そして昂然と胸を反らすルルーシュの口元が、微かな笑みを湛え、そして動いた。

「――告げる」

 決して大きくはない、だが、どこまでも届くような不思議な響きが、今、この時、この場を注視する者達全ての意識を惹き付けた。

 興味本位で見ていた者も居ただろう、或いは、マスコミの報道を鵜呑みにし嘲りと共に見下す者また然り、もしかしたら純粋にその挑戦に好意を寄せていた者も居たのかもしれない。
 それら全ての人々が、ただ一声を以って、老いも若きも、男も女も、人種、性別すら超えて、吸い込まれる様に、ただ一人の少年に己が眼を奪われていた。

 彼自身は、恐らく強く否定する。
 だが、『双方を知る者』なら、この光景を前にして、間違いなく肯定するだろう。

 ――似ている、と。

 滅びを待つだけだった老いさらばえた弱小国を、ただ一代で世界最強国家まで押し上げ、世界の半ばを手にした彼の征服帝に。

 理性を消し飛ばし、常識を踏み砕き、混沌と熱狂の渦へと人々を誘い巻き込む力。
 カリスマと呼ばれるその才においては、この親子は似過ぎる程に良く似ていた。

『彼らこそ稀代の暴君、一度世界を滅ぼした暴虐の覇王達。
 だが、だからこそ彼ら親子は、世界を造り替える大英雄足り得たのだ』

 全てが歴史となった時、かつて有った筈の恩讐さえもが、ただの情報へと変わるほど時経た後に、とある高名な歴史学者が、この似た者親子を評した名言だった。

 ――彼らは暴君、そして、それ故の英雄。

 そんな覇王の片割れの声が、意志が、いま再び、人々の心を震わせ、その魂を突き動かす。

 後世、『アヴァロンの宣言』と呼ばれる事になる演説は、こうして始まりを告げたのだった。

「かつて人類は、千数百万キロもの距離を越え、火星にまでその手を伸ばしかけた。
 だが、今となっては、その栄光も見る影もなく、火星はおろか眼前に在る月すら奪われ母なる星に逼塞するのみ」

 淡々とした声が、誰もが知る事実を語る。
 染み込む様な響きが、皆の胸に、かつての屈辱と怒りを呼び覚ました。

 ――自らが宇宙の孤児でないと知った時の歓喜。
 ――その期待が、流血を以って切り裂かれた時の絶望。
 ――そして、手にした筈の新たな版図を、数多の生命と共に理不尽に奪われた時の憎悪。

 己が胸中に沈殿していた想いを掻き立てられ、やり場の無い怒りを膨らませ、人々の耳が更に彼へと傾けられる。

「全ては忌まわしき異星起源種(BETA)の仕業―――殆どの者が、そう信じて疑わぬだろう」

 滔々と語られる言葉が、そこで不意に途切れた。
 ゆっくりと紫の瞳が巡らされる。
 そこに居る誰かを、何かを見渡すように。

 画面越しに、見つめられたような感覚を覚え、数限りない人々が一瞬、息を詰まらせた。

 形良く整った唇が、再び開かれ、再び聴衆達の心を抉る。

「だが、果たしてそれは、正しいのだろうか?」

 『常識』に、敢えて疑義を呈する一言。
 余韻を伴い放たれたソレに、随所からざわめきが起きる。

 広がる混乱の渦、それに巻き込まれ行く人々が、縋るように彼を見つめた。
 答えを求めて――

 ただ一人、超然とした姿勢を崩さぬままに、ルルーシュの声が再び響く。

「確かに、我等人類から、月を、そしてユーラシアの大半を奪ったのは忌々しき化物共(BETA)の所業。
 ――だが、奪われた我等の先人達には、本当に何の落ち度も無かったのだろうか?」

 いま一度問う。
 重ねられた問いに、聴衆達の脳裏に、未だ明確な形を取らぬ曖昧模糊としたナニかが浮かぶ。

「無論、恭順派の説く隷従も、和平派が夢見る共存も、どちらも語るに足らぬ狂人の妄想に過ぎぬ。
 人類とBETA――この二つの種族の決着は、いずれかの滅び以外は有り得ないと断じよう」

 次に重なるのは否定。
 神の試練を謳う狂信者と理想と夢想の区別すらつかぬ幸せな連中を、まとめて無造作に切り捨てると、辛辣かつ冷厳な事実を突きつけた。

 突きつけて、そしてその上で、再び問う。

「ならば先人達は、『何処』で『何』を間違えたのか?」

 仕草で、声で、大きく問い掛ける。
 この場に臨む者全てに。

 己自身が、直接問い掛けられている様な錯覚に、多くの者達が囚われた。
 囚われて、思考して、そして……

 ある者は苦悶の表情を浮かべ、又、ある者は、己の血の巡りの悪さを恥じ入る。
 そして、掛けられた問いに、答える術を見出した一握りが、続く言葉を息を呑んで待ちわびた。

「私は断言しよう。
 彼等は傲慢であり、そして怠惰であった。
 それこそが彼等の過ちであり、今の世界を招いた罪そのものであるとっ!」

 今の世界を形作ったモノ全てを、彼は糾弾する。

 七つの大罪たる『傲慢』と『怠惰』。
 それにより齎された悲劇を、彼は人の罪であると断じてのけた。
 先人の罪を糾弾する声が、烈火の如き怒りを宿し木霊する。

「かつて先人達は、火星にて接触したBETAを『傲慢』故に侮った―― 凶暴なだけのタダの獣である、と」

 誰かが、何処かで唇を噛む。
 血が滲むほど強く。

「そして彼等は、それ故に『怠った』。
  凶獣(BETA)の本性を解き明かす事を。
 再び、接触する日に備える事を」

 苦渋に満ちた呻きが零れた。
 この声が響く全ての地で。

「重なった二つの大罪の贖いとして、我等は月を失った」

 そこで言葉が途切れたのは、言うべき事を言い終えたのではない事が、誰の眼にも明らかだった。
 虚空を睨む鋭く激しい眼差しが、彼の胸中を如実に示している。
 続く言葉を悟り、大陸東方に追い詰められつつある中華を称する者達が、彼の地にて罵声を上げていたが、それが此処まで届く筈も無かった。

 ――罪を数える声が続く。

「そして、更なる『傲慢』と『怠惰』の報いとして、母なる大地すら蝕まれる始末」

 BETAの猛威を知って尚、否、だからこそ地上なら勝てると『傲慢』にも思い上がった挙句、取り返しのつかないところまで事態を悪化させた『怠惰』なる者達を、彼は容赦無く吊るし上げた。

 悲鳴にも似た叫びが、彼の地で満ちる。
 自らを被害者として位置づけている指導者達は、ホンの二十年足らず前の事を綺麗さっぱり忘却し、蓋をし、狂乱の罵声を上げ続けた。

 紫の双眸に、憐れみとも、悲しみともつかぬ色が浮かんで消える。

「人は、何故過ちを繰り返す。
 何故、『今』も変わらないのか?」

 その一言に聴衆達が息を呑む。
 誤解しようの無い明確さで彼は語っていた。

 再び、人類が過ちを、犯そうとしている事を。

 世事に疎い者は、言い知れぬ恐怖に怯えた。
 世事に通じた者は、より深い意味を理解して背筋を震わせる。

 そして、見せ掛けだけの団結の下、机の下では足の引っ張り合いを繰り返す今の世界を形作る者達の内、ある者は怒りに震え、ある者は羞恥に身を縮こまらせ、そして又、ある者は嘲笑を浮かべる――少年の糾弾を幼さ故と見下して。

 そんな人々の心の機微を全て見通しながら、ルルーシュは、再び世界に向けて言葉を放った。

「今、ここに問う」

 世界が凪いだ。
 強くも無く、激しくも無い、だが抗い難い威厳の篭った声が、全ての思いを押し潰し、彼の膝下に引き据える。

 彼を認める者、認めぬ者、憎む者、愛する者、そしてその何れにも属さぬ者。
 何者も、今の彼を無視する事が出来なかった。

 正邪善悪、あらゆる区分を超えて、たった一つの問いが世界を駆け抜ける。

「我が言葉を聴く全ての者達よ。
 諸兄らは、滅びを受け入れるか、否か?」

 シンッと一瞬全てが鎮まった。
 呼気すらも止まった世界の中、ゆっくりと感情が、思考が動き出す。
 怒りが、拒絶が、人の意志として世界に満ちていき、それは此処、軌道ステーションも例外ではなかった。

 滅びに抗う意志。
 生きとし生ける者の根源でもある感情の爆発を、ルルーシュは心地良さげに受け止める。

 生きようとする意志、有り続ける事を望む想い。
 それこそが、彼にとって最も価値あるものなのだから……

 彫刻の様に整った美貌に、獰猛極まりない戦士の表情が浮かぶ。
 そして彼は、その胸中に猛る想いを、言葉に代えて解き放った。

「ならば立て!
 立って戦うが良い。
 滅びを招くモノ全てと」

 抗え、戦え、と。

「滅びの魔手を退けるのは、戦い続ける者のみと知れっ!」

 幼き日より、その生涯を闘争の中で生きた覇王の言葉が、意志が、広く広く世界へと広がっていく。
 呼応する意思と反発する意思が、世界中を駆け巡り、人々の心の中に様々な種を撒き散らしていった。

 この日より彼は、数え切れぬ程の熱狂的な信奉者を得、そして同時に、それに匹敵する数の敵対者を産む事となる。

 そして、それ等全て承知の上で――

「今日、この日の出来事は、その為の第一歩」

 ――少年は、再び剣を執る。

「いま我等は、再び宇宙へと手を伸ばす。
 いつの日か大地を、月を、そして失われた全てを奪い返す為に!」

 彼自身が生きる為に。
 彼が愛し、愛される者達の為に。

 その為に、失われた全てを奪い返す。

 そして、その意志を、世界に――

「――告げる」

 始まりと終わりの言葉を重ね、そして宣言する。

「今日、この日この時より、我等の反攻は始まる」

 歓声が弾けた。
 絶叫が迸り、怒声が木霊する。

 ステーションを雛形とし、世界中へ広がり行く混沌の中、渦の中心たる少年は右手を振り上げ、そして振り下ろした。

『出航!』

 忠実なる騎士の命令一下、彼等の希望を載せて『スヴァルトアールヴヘイム』が、ゆっくりと加速を開始した。



 星を渡る船が行く。
 いつか蘇るべき王の島を目指して。










 ――アヴァロンの宣言――

 西暦一九九一年一月十五日に行われたこの演説は、後の歴史家達にとって、様々な事象の開始点または転換点として大きく注目される事となる。

 その注目理由は、大きく分けて三点。

 まず一つ目が、この時代の歴史に不朽の名を刻む事になる枢木ルルーシュが、初めて歴史の表舞台に出てきた転換点として。
 次いで二点目としては、当のルルーシュが、後に帝国を見限ったのも、この時点からの既定路線とされている点が挙げられる。
 『アヴァロン計画』自体が、帝国からの離反を見越してのモノとされる所以である。

 但し、後者に関しては有力な反論も多く、特に有力視されるのが、一九九〇年代末期に起きたBETAによる予想外の帝国侵攻の際、当時の軍及び政府が取った不誠実極まりない態度に激怒した事が離反の主な要因であり、この時点では帝国を離れる意思は無かったという意見である。

 この辺りの事情に関しては明確な物証が殆ど無く、また彼の周囲には当人も含め筆不精が多かったのか、唯一残された資料――当時の彼に一番近かったとされる旧姓・篁唯依の日記から類推するしかないのが実情だった。
 ただ、その日記の記述についても、篁の個人的な記述が多く、逆にルルーシュ本人の意図を読み取れるモノは極端に少ない。

 それ故、この学説――帝国離反の契機――については諸説乱立し、未だ明確な結論が出ていないのが実情である。

 そして最後に残った三点目。
 実のところこれが、一番重要な点であったりする。

 この宣言を開始点として建造が始まった人類初の本格コロニー『アヴァロン・ゼロ』。
 存在しない存在――ゼロという名の記号を与えられたこの地こそが、ルルーシュの語った宣言通り、この後、BETA大戦を終焉へと導く計画群の中心として機能したからだった。

 当時、この一連の対BETA反攻計画群には明確な呼称が付けられる事は無かったが、後世の史家達により、同時期、国連主導で進んでいた対BETA極秘計画の総称『オルタネイティヴ計画』をもじり命名される。

 即ち、Wでも無くXでも無い、存在しない計画――『オルタネイティヴ・ゼロ』と。



 〜BETA大戦の真実〜【西暦二二一四年二月 民明書房刊行】







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どうもねむり猫Mk3です。

微妙に遊び心を入れすぎた気もチラホラと。
その分、唯依姫分が薄くなってしまいましたが、まあ仕方ないかな?

結びは、いつもと微妙に変更
『ぬぅ!
 アレはもしや!?』
『知っているのか、雷電!』

でした。
マブラヴにも、雷電氏は居りますのでね。

それでは次へどうぞ。




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