○西暦一九九一年二月一日
今日、兄様が帰って来られました。
ええ、帰って来たのです。
………戦場から。
まったくもう、何を考えておられるのですか!?
ルル兄様は、枢木の嫡子。
それもただ御一人の直系。
万が一の事があれば、枢木の家は絶えてしまうのですよっ!?
それなのに……それなのに……
事もあろうに、一傭兵に身をやつして戦場に出るなど、言語道断です!
そんな怒りとも憤りともつかぬ想いを抱えつつ、唯依は兄様のお帰りを待っていました。
本当なら、今日は父様が帰っておられるので、篁の家に戻っていなければならなかったのですが、この際、それには眼をつぶった上で。
……まあ、唯依が今日は帰らないと言い張った事で、父様にご迷惑とご心配を掛けてしまったのは、申し訳なく思っていましたが。
でも、これも仕方の無い事なのです。
―――ここで兄様の無謀な放蕩を止めておかねば!
そんな使命感が、唯依を突き動かしていたのですから。
さて、そんなこんなで、唯依が万全の準備を整えて待ち受けていると、何も知らぬ気に兄様が帰って来られました。
玄関に座布団を敷いて待っていた唯依に、驚き眼を見開かれます。
次いで、しげしげと唯依を見つめ直すと、呆れたように呟かれました。
『篁の息女ともあろうものが、それはどうかと思うが?』
思わず唯依は、赤面してしまいました。
着膨れして、コロコロになった我が身を指摘され、顔から火が出るかと思った程です。
ですが、仕方が無いではありませんか!
一年の内で、一番寒いこの季節。
ましてや玄関先など、屋敷内でも一番冷える場所。
どうしてもここで待つと言い張る唯依に、叔母様が交換条件として出したのです!
………いえ、まぁ……自分でも、ちょっと着込み過ぎとは思いましたよ。
流石に、十二単ではあるまいし、袢纏も含めて十枚も着込むのは。
オマケに湯たんぽを抱えて、その上に毛布まで……
……って!
そんな事ではありません。
唯依は誤魔化されませんよ!
本当に相変わらず口の巧い兄様です。
危うく本来の目的を忘れるところでした。
さて、そこからが本番でした。
流石に玄関ではマズイだろうとの事で、兄様の部屋に場所を移しての再開です。
当初は、とぼけようとした兄様ですが、唯依が叔母様から聞いた事を知ると、流石に誤魔化しきれないと悟られたのか、今度は必要な事だったと言い始めました。
当然、その悉くに対し唯依は反論します。
――そもそも、組織のトップである兄様が、軽々しく戦争、それも前線に出る事自体が間違いなのだと。
これには兄様も、反論し辛いらしく渋い表情を浮かべられました。
珍しく口論に勝ちました。
そう、唯依はやれば出来る子なのです。
兄様がいつも言われている通りに。
そのまま暫し、唯依と兄様は睨み合いました。
見つめ合いではないのが残念でしたが、仕方ありません。
もう二度と、こんな馬鹿な真似はしないとの言質を引き出すまでは、決して退けなかったのですから……
そんな唯依の決意が伝わったのでしょう。
ルル兄様も、ひどく真剣な表情のまま唯依と向かい合い、そして口を開かれました。
ひどく優しく、静かな声で。
『王様から動かないと、部下が付いて来ないだろ?』と。
……唯依には、何故か返す言葉がありませんでした。
何日も、何日も考えたのに。
同じような言葉に、返す言葉も考えていたのに……それでも。
結局、話はそこで終わり。
唯依が先を続けられなかったから。
何故でしょう。
何故なのでしょう。
何故、唯依は、兄様のお言葉を否定できなかったのでしょう。
今の唯依には、まだナニか足りない気がしました。
兄様の隣に立つ為に、必要不可欠なナニかが………
……そして今、床につく前に、この日記を書きながら思い起こしました。
結局、はぐらかされてしまった事を。
唯依は、まだまだ未熟であると思い知らされた一日でした。
○西暦一九九一年二月二日
……ううっ。
頭が痛いです。
寒気がします。
天井がグルグルと回っています。
……結局、風邪をひいてしまいました。
ううっ、叔母様には呆れられてしまいましたし、咲世子さんにも迷惑を。
そして何より兄様にも……
ああ、穴があったら入りたいです。
……でも、ホンのちょっとだけ良かった事もあります。
唯依の心配をしてくれた兄様が、つきっきりで看病して下さったのです。
いまも、お粥を……っと、いけません。
戻って来られた様ですね。
日記など書いていたら、怒られてしまいそうです。
○西暦一九九一年二月十三日
お手紙が来ました。
海の向こうから。
以前、ルル兄様と一緒に米国に渡った際、知り合った日米ハーフの男の子レオン・クゼ君からです。
これまでも夏には暑中見舞い、年始には年賀状(封筒入り)等の時節の便りに寄せて、近況を伝え、そして尋ねる手紙がきていましたが、はて、この時期になんでしょう?
そう思って開けた中身は、ルル兄様の事。
先週、『MFU』の軌道変更作業が開始された事は、あちらでも話題になっているらしく、その件を尋ねる文でした。
正直、こちらでの報道は酷いモノばかり。
口を揃えて失敗を主張する声が、喧しいほどに繰り返されています。
そんな帝国の内情が、そのままあちらの報道にも流れる事があるらしく、クゼ君も心配になったとの事でした。
………ふぅぅ……です。
まあ、唯一の救いは、向こうの報道での評判は、帝国ほど酷くはないという事も、併せて書かれていた事でした。
無謀と言われる事に、果敢に挑戦する姿勢が、一部の方からは好意的に受け止められているとの事。
正直、興味本位の見世物の様にされているのは、やや不快ではあるのですけどね。
さて、何はともあれ、クゼ君にお返事を書かねばなりませんね。
しかし、表面的な事なら兎も角、兄様のお心の内までは、唯依にも分かりません。
これは正確な事を伝える為にも、一度、兄様にキッチリとお話を聞く必要がありそうです。
それに、いつも通り同封する写真も、一緒に撮らないといけませんしね。
○西暦一九九一年二月十七日
ふぅ………困りました。
本当に、困りました。
相変わらず父様と巌谷の叔父様は喧嘩中です。
少し冷却期間を置けば、また元通りになるかと期待していたのですが……
どちらも妙なところで意地っ張りな所為で、中々、仲直りができないご様子。
父様も、唯依が叔父様の事を口にすると、途端に不愉快そうに顔を顰めてしまいます。
でも、実は唯依は知っているのです。
お仕事が早く終わった日、つまり唯依が篁の家に戻る日ですが、夜、お独りで寂しそうにお酒を召し上がっている事を。
今までなら、そんな日は、叔父様を呼んで一緒に楽しく飲んでおられたのに……
叔父様も、叔父様です。
何も、開発衛士である叔父様が、直接、戦地に赴かなくてもよろしいでしょうに……
と、そんな想いを抱いていた唯依でしたが、それが傍目にも分かったのでしょう。
ルル兄様に、どうしたのかと問われてしまいました。
当初、父様と叔父様の問題を、話してしまっても良いのかと躊躇った唯依でしたが、兄様に隠し事というのも憚られます。
それに、どちらも身内の様なものですし、やはりここは、お伝えしておくべきかも?
そう考え、思い切って事の経緯を話し、お知恵を借りる事にしました。
そうして唯依が、父様と叔父様の仲違い、そしてその原因までもお伝えすると、兄様も少し難しい顔をして黙りこんでしまいます。
流石の兄様にも、この件は難しい事なのでしょうか?
そう唯依が、不安を抱いた時でした。
考え込んでいた兄様が、顔を上げられたのは。
まだ難しい顔をされていましたが、それでも黙り込む事は無く、唯依に二、三確認を取ります。
主に仲違いの原因の再確認と、それ以外に理由が無いかでしたが……
唯依としても、そこまで詳しく尋ねた訳でもないので、少し戸惑いはしましたが、あの仲の良かったお二人の間に、それ以外の諍いの種があったとも思えません。
ソレ等を素直にお話すると、兄様は、『そうか』とだけ頷かれて、ご自身のお考えを話して下さいました。
結局のところ、互いが互いを思いやった上でのすれ違いなのだろうと。
父様が、大陸へ渡る事を反対するのは、叔父様の身を案ずるが故に。
叔父様が、大陸へ渡る事を決断したのは、耀光計画で四苦八苦している父様を、何とか助けたいが為に。
互いに相手を思っての行動を、当の本人に否定された事で、意固地になっているのではないか?
それがルル兄様の見立てでした。
『こういった場合、双方の頭が完全に冷えるまで、放っておくのが一番だがな』
と、苦笑混じりに言われる兄様。
ですが、叔父様も春には大陸に渡るつもりとの事。
正直、あまり時間が無いのが気掛かりです。
もし、大陸で叔父様に万が一の事があれば、きっと父様は一生後悔されるでしょう。
そんな事は無いと信じたいのですが、戦場には絶対は無いというのが父様の教えでもあります。
やはり叔父様が大陸に渡られるのを阻止するか、それが叶わぬなら万一の際に心残りとならぬように、せめてお二人の仲を取り持って差し上げたい。
そう唯依が訴えると、兄様は、余り成功率は高くないだろうがと前置きして、一つの助言を下さいました。
それと、ご自身でも何とか骨を折ってくださるとの事。
正直、眼が回るほどにお忙しい筈の兄様に、これ以上、ご苦労を掛けるのは心苦しかったのですが、ここはご好意に甘える事にしました。
それに、唯依が上手く立ち回れれば、兄様のお手を煩わす事も無くなるのですから。
本当にありがとうございます。ルル兄様。
今は、ただ感謝を。
……え〜と……後々、このご恩は、きっとお返ししますから………その…あの……つ、つつ……つ……ぁ…として尽くす事で。
○西暦一九九一年二月二十四日
今日は、唯依から叔父様へアプローチしました。
……妙な意味ではないですよ。
叔父様は、あくまでも叔父様です。
何より、唯依には、もう心に決めた方が居るのですから。
コホン……話が逸れました。
まあ、今日は久しぶりに叔父様もお休みとの事。
兄様が、ワザワザ調べて下さったのですから確実です。
朝の内に準備を整え、それでは、いざ参る!
――と、気合を込めて出向きました。 叔父様のお屋敷へ。
しばらくぶりに訪れますが、あまり昔と変わりません。
門をくぐり、玄関へ。
丁度、居られた家人の方に、叔父様へ来訪を伝えて頂ける様お願いしました。
そのまま十をゆっくり数える程度待つと、慌しい足音と共に叔父様が出て来られました。
寛いで居られたのか、着流しの上から厚い袢纏を羽織っておいです。
いきなり訪れた唯依に少し驚いておられた様ですが、それでも笑顔で迎え入れてくれました。
そのまま唯依を伴い、居間へと場所を移された叔父様は、突然どうしたのかと尋ねて来られます。
そんな叔父様に対し、唯依は用意して来た品を差し出しました。
お裾分けです、と。
何故か、その瞬間、叔父様の顔が微妙に引き攣った様に見えたのですが、アレは見間違いだったのでしょうか?
まあ兎に角、その後、優しい笑みを浮かべた叔父様は、大層喜ばれて、唯依が持参した自作の料理に舌鼓を打ってくださいました。
余りにも、褒められ過ぎて赤面してしまった程です。
叔父様も、涙を流して喜ぶなど……さすがに少し大袈裟だなと心の内で思ってしまいました。
ともあれ、これで第一段階は成功でした。
そのまま唯依は、すっかり満腹になった叔父様に、お茶を淹れてあげながら、さり気なく本命を切り出します。
この他にも、新しい料理の勉強中なので、今度は篁の家でご馳走したいと。
……また、叔父様の顔が強張りました。
そして今度は、見間違えではない硬い表情のまま、優しく、でもはっきりと唯依の申し出を断られてしまいました。
その後、何度か会話の中で、それとなく食い下がってはみたのですが、やはりダメ。
叔父様は、頑なに篁の家に来るのを拒まれます。
結局、この日は夕方近くまでお世話になりつつも、本当の目的を果たす事は叶いませんでした。
ああ、本当にどうすれば良いのでしょう?
唯依には、もうどうすれば良いのかがわかりません。
○西暦一九九一年二月二十五日
今日は昨日の首尾、いえ、不首尾を兄様にご報告しました。
折角、兄様にお知恵を貸して頂いたのに……
そんな不甲斐ない自分を嘆く唯依を、ルル兄様は慰めて下さいます。
元々、成功の可能性は余り高くは無かったのだから気にするなと。
その辺りは、事前に言われていたので、唯依も理解はしていたのですが、やはり納得は出来ません。
唯依が、もう少し上手く話を出来ていたなら、結果が変わっていたのではないか?
そんな考えが、頭の隅にこびり付いて離れない唯依を、兄様は諭して下さいました。
『反省するのは良いが、それに囚われるな。
失敗したなら、それを糧とする事を考えろ』と。
自省癖は、唯依の悪い癖と言われていたので、仰る意味は分かります。
兄様と知り合ってから、随分と改善できたと思っていたのですが、まだまだの様です。
確かにルル兄様の言う通り、反省する事に囚われていては、先に進めません。
それに『失敗は成功の母』とも言うではありませんか。
そう考えたら、気が楽になりました。
こういった気分の切り替えこそが、これからの唯依に必要なものなのかもしれないと思いました。
そんな唯依の葛藤を、黙って見ておられた兄様ですが、唯依自身が決着を付けられたとみたのか、普段通りの優しい笑みを浮かべられると、黙って頭を撫でてくれました。
………兄様、兄様……唯依も、いつまでも子供ではありませんよ。
子供ではありませんが、今は、今だけは、まだ……あと少しだけ、このままで。
……と、甘えた気分を抱いてしまったその時の自分に、後から赤面してしまいました。
ううっ、恥ずかしいです。
これでは何時になったら、兄様に一人前の乙女として見ていただけるのやら。
こればかりは、兄様にご相談する訳にもいきませんし……
本当に、悩みの種が増えるばかりの今日この頃です。
どうもねむり猫Mk3です。
黒い話が多くなってきた本編。
ちょっと息抜きとして、軽めの閑話を贈りました。
題して、『悩み多き唯依姫』
相変わらずの冷戦中な親馬鹿コンビ。
まあ、巌谷さんはブルーベリーおにぎりのトラウマを乗り越えましたが。
さて、次は本編です。
師走ですので、何かと忙しくなる為、下旬辺りになりますが、
まあ出来ればクリスマスの三連休、最悪でも年内更新を目指します。
それでは次へどうぞ。