○西暦一九九二年七月十四日
夏の日差しもきつくなりつつある昨今、汗ばむこの身が厭わしいです。
いくら夏とはいえ、汗の匂い漂わせているのは、乙女として如何なものかと……
本当に毎年の事ですが、この季節になると、この地に都を置いた古の帝と、首都と定めた当時の方々に、無礼とは思いつつも恨みがましい気持を抱いてしまいます。
……ふぅぅ……やはり唯依は、まだまだ未熟な様です。
さて、そんな自省に苛まれながら授業を終え、帰宅した唯依でしたが、軽く汗を拭い身支度を整え直すと、真理亜叔母さまの下へ。
珍しく。
本当に珍しく風邪をひき、床についておられる叔母様。
鬼の撹乱と笑って居られましたが、風邪は万病の元とも言います。
やはり注意するに越した事は無いでしょう。
……叔母様も、その……あの……もうお若くはない訳ですし。
等と、ご当人にはとても面と向かって言えないような事を、内心で呟きつつ、叔母さまのお部屋に伺ったのですが、障子越しに中の様子を探ると、人の居る気配がありません。
……ちょっと頭痛がしてしまいました。
昨日に続いて、またなのかと……
一応、確認の為、声を掛けてみますが、予想通り応答はありませんでした。
次いで、不作法を承知で障子を開け放ちますが、やはりもぬけの殻です。
なんと評すべきなのでしょう。
この胸の奥から湧き上がる衝動は。
その衝動に突き動かされるままに、唯依の足が動きます。
必死に抑えつつも、それでも小走りの一歩手前の早歩きで進む先は、言わずと知れた中庭。
近づく毎に、微かな風切り音が、唯依の耳にも届いてきます。
眉尻が吊り上っていくのが、はっきりと分りました。
『叔母さまぁっ!!』
思わず怒声が飛び出します。
中庭の中央で、軽々と二刀を振りながら、剣舞の様に隙の無い動きを繰り返していた叔母さまの身体がピタリと止まりました。
……え〜……何なのでしょう?
そのひどく晴れやかな笑顔は。
まったく、これぽっちも、悪い事などしていませんと言わんばかりのソレを、唯依はジト目で睨みます。
昨日に続いて今日も。
あれだけ口を酸っぱくして、お諫めしたというのに!
今日という今日は、勘弁なりません。
お布団に引き摺っていって、きっちりとご意見して差し上げますからね!
○西暦一九九二年七月十六日
真理亜叔母さまの熱が、ようやく引きました。
……全くもう、退屈だと言って、唯依の眼を盗んでは修練などされているから、こんなにも拗らせてしまうのです。
本当に、困った叔母さまです。
とはいえ、しつこく残っていた微熱も引き、お医者様も全快と太鼓判を押して下さいました。
……まあ、もうお若くないのだから、あまり無理はしないようにと言われて、少し凹んでいた叔母さまでしたが。
正直、あの叔母さまに面と向かって、よく年の事など言えるなと感心していたのですが、お話を聞いていると、どうも枢木の掛かりつけのお医者様だそうで、叔母さまの事も小さい頃からご存じなのだとか……
流石の叔母さまも、頭の上がらない方なのだそうです。
……え〜……これはチャンスなのでしょうか?
チャンスなのかもしれませんね。
叔母さまの子供の頃の話を聞ける千載一遇のチャンスです!
家令の谷崎さんには、口止めがされていたので聞けませんでした……し?
……お、叔母さま?
なんで手をワキワキさせているのですか?
……えっ?
悪巧みしている困った子にお仕置き……って……
ゆ、ゆ、唯依は、何も考えていませんよ。
い、い、い、いつも通り、品行方正なだけなのですから……
……ううっ……分りました。
白状します。しますから!
だから、その丸々と太った子豚を見る狼の様な眼は止めて下さい。
…………
………
……
…
……結局、洗いざらい白状させられ、その上、お仕置きまで。
嗚呼、あんな辱めを受けるとは……
もし万が一、アレを兄様に知られでもしたら、唯依は生きていられません!
また一つ、叔母さまに弱みを握られてしまいました。
うう、これでまた叔母様に、更に頭が上がらなくなってしまいます。
これが舅の嫁いびりというヤツなのでしょうか?
……思わず溜息を吐いてしまう唯依でした。
○西暦一九九二年七月二十五日
今日、兄様がお戻りになられました。
屋敷を空ける期間が、最近、多くなっているような……
お忙しい事は分るのですが、やはり寂しいものがあります。
ですが、今日明日は、久方ぶりに連休を取られるという事で、今度はしっかりと唯依に付き合って下さるとの事。
思わず頬が緩んでしまいました。
とはいえ、激務でお疲れの兄様です。
今日は、屋敷でゆっくりと休み、明日、改めて遊びに行こうという話になりました。
少し残念ですが、兄様にもお疲れを取って頂きたいですし、仕方ないですね。
今日一日は、唯依が付きっきりでお世話して差し上げて、充分に骨休めしていただかなくてはなりません。
その為にも、家令の谷崎さんには念押しして、月詠家には連絡しないように釘を刺してあります。
これで、備えは万全です。
今度こそ、月詠真耶には邪魔されず、兄様とゆっくり過ごす――もとい、兄様にゆっくりと過ごして頂ける筈なのです!
……思い起こせば、初めて会った時より、唯依の邪魔ばかり。
何度、唯依と兄様の貴重な時間に乱入し、場を掻き乱してくれた事か……
将棋を指しては、飛車・角落ちでもコテンパンに叩きのめされ。
世界情勢について討論を挑んでは、ぐうの音も出ないほど論破され。
最後は、剣で勝負を賭けても、鎧袖一触で打ち破られ。
その度に、泣きながら帰っていくクセに、また暫くすると性懲りもなく挑んで来る諦めの悪さ。
……アレは、絶対に、兄様に気が有るのです。
唯依の乙女の勘が、そう告げています。
何より、先日邪魔してくれた際に、ふとした拍子に兄様の横顔を見て頬を赤らめていたのを、しっかり、きっちり目撃しているのですから。
当初は、悠だか、なんだかいう紅蓮閣下の姪御さんの頼みを受けてのモノと勘違いしていましたが、絶対に間違いないのです。
おのれ女狐!
そうと分かれば容赦はしません。
兄様を狙う敵として、断固、排除するのみです。
絶対に、絶対に近づけさせはしません。
兄様は、兄様は、唯依がお守りするのです!
○西暦一九九二年七月二十六日
え〜………何故、唯依はこんな場所に居るのでしょう?
確か昨夜は、兄様と一緒に枢木のお屋敷で床に就いた筈なのに……
目が覚めたら、まったく別の部屋の中にいました。
一緒に休んだ筈の兄様も居ません。
思わず混乱してしまった唯依でしたが、不様を晒す前に部屋の扉が開き、咲世子さんがひょっこりと姿を見せてくれました。
物問いた気な唯依の様子を察したのか、こちらから尋ねる前に事の次第を教えてくれます。
何でも、急なお仕事が入った兄様が、約束を破ると唯依が臍を曲げるだろうとおっしゃって、眠っている唯依をそのまま連れて来たのだとか……
そしてそのまま、神根島の別荘に唯依を置いて、式根島の方にお仕事に行かれたのだそうです。
そう言われてみれば、確かに何度か来た事のある神根島の別荘である事が分ります。
……分るのですが、流石にこれはひどいのでは?
そう思ってしまう唯依でしたが、これは譲れないところです。
唯依とて、もう充分に分別のつく年頃なのです。
約束を破られるのは楽しくありませんが、大事なお仕事とあれば我慢もしましょう。
ただ一言いって頂ければ、快く兄様を送り出した筈です。
これでは、唯依が兄様を困らせてばかりいる我儘な娘の様ではありませんか。
――等と憤っていると、咲世子さんが困ったように切り出しました。
………
……
…
……つまり唯依が、揺すってもまるで起きなかったので、仕方なく連れて来たと?
………
……
…
んっ……ま、まあ、そういう事情があるなら、仕方がありませんね。
兄様にもご都合というものがあるでしょうし、唯依にも非があった事を認めましょう。
……認めますから、笑うのは止めて下さい。
一昨日の晩、兄様が帰って来るのが嬉しくて、夜遅くまで眠れなかったのが拙かった様です。
何たる不覚。 猛省せねばなりません!
まあ、それはさておき、着替えを済ませた唯依は、兄様がどちらにいらっしゃるのかを咲世子さんに尋ねました。
事情は分りましたが、やはり一言くらいは言っておきたい事もあったのです。
何より、一緒に過ごすという約束を守る為に、唯依を拉致しておきながら、一緒に居て下さらないのは本末転倒というもの。
その辺りについて、兄様の存念をキッチリと聞かせて頂かねば!
そうやって勢い込んだ唯依に対し、咲世子さんは、少し困った様な表情を浮かべて告げました。
昼には戻ってくるので、それまではここで待っているように――との兄様の伝言を。
流石に、これにはちょっと憤りを感じてしまいます。
ここは、何としても約束の履行を迫らねばなりません。
そんな覚悟と共に、咲世子さんに兄様の処へ連れて行ってくれるよう頼みました。
当初は渋っていた咲世子さんでしたが、唯依が懇切丁寧に自分の主張を粘り強く展開し続けると流石に根負けしたのか、最後は首を縦に振ってくれました。
神根島の隣にある式根島までは、駐機してあったヘリで。
パイロットは、なんと咲世子さん。
何気に何でも出来る人ですね。 本当に。
まあ、だからこそルル兄様も、傍に置いて重用しているのでしょうが……
程なくして到着した式根島。
兄様の現在地を確認すると、すぐさま足を確保して移動します。
式根島の一角に設けられた白い建屋の奥深くに、兄様はロイドさんと一緒に居られました。
大きな大きな『人型』の前に。
見上げる様な巨体は、枢木の製品であるメアフレームでもなければ、KMFでもありません。
『……戦術機?』
思わずそう呟いた唯依の声に反応し、兄様達が振り返りました。
一瞬だけ、困った様な顔をなさった兄様。
それを見て少し気が咎めましたが、約束を履行して下さらない兄様も悪いのです。
そう自身に言い訳をしていると、軽く肩を竦めた兄様が、唯依を手招きして下さいました。
どうやら怒られる事もないようだと、ホッと胸を撫で下ろしながら近づいていくと、少しだけ眉を寄せた兄様が、どうして待っていなかったのかと尋ねてこられます。
これに対して唯依も、自分の主張を繰り返しました。
正義は我にアリです。
一緒に居てくれるという約束を、守って下さらなかった兄様が悪いのです、と。
そう力一杯主張すると、兄様も流石に分が悪いと思ったのか、それ以上は詰問しては来ませんでした。
ささやかな勝利の余韻を噛みしめながら、唯依は、眼前に立つ『人型』へと興味を移します。
剥き出しの機械が組み合わされている巨大な『人型』。
大きさから見ると戦術機だと思うのですが、枢木が造っているという撃震の改修機でしょうか?
そう思って尋ねてみると、兄様よりも先にロイドさんが反応しました。
どうも、眼前の『人型』を戦術機と言った事が、気に障った様で、立て板に水を流す勢いで捲し立ててきます。
専門用語が多く、半分くらいは理解できなかったのですが、残りの分った部分を繋ぎ合わせるとある程度、言いたい事は把握出来ました。
どうも、この人型は戦術機とは異なる物であるとの事。
KMFの技術をベースとし、戦術機サイズで建造した物なのだとか……
正直、とんでもない話です。
今はアラスカで帝国の次期主力戦術機の開発に従事しておられる父様ですが、それとて『
要するに、土台は既に存在し、それに帝国独自の家を建てている様なものという訳です。
それをロイドさんは、全く異なる技術によって造られた機体――即ち、土台そのものから創り上げたというのですから……
思わずマジマジとロイドさんを見てしまいますが、そこに居るのは、いつもと変わらぬ変な人でした。
やはりアレでしょうか?
天才と狂人は紙一重という……
以前、父様がロイドさんの事を天才と称していた事を思い出しながら、唯依は、改めて眼前の『人型』を見直します。
ですが、唯依も戦術機そのものを見た事は、数えるほどしかありません。
明確な違いを見出す事は出来ませんでした。
『父様か、巌谷の叔父様が居れば……』
そう思った唯依は、恐る恐る兄様に尋ねました。
この『人型』を、父様や巌谷の叔父様に見せてあげられないかと。
これには流石の兄様も、渋い顔で首を横に振りました。
やはりダメなのでしょうか……
そうやって、やや落胆した唯依に、兄様が見せる訳には行かない理由を説明して下さいました。
何でも、未だこの『人型』は開発途上の機体であり、枢木にとっても機密の塊なのだとか。
如何に、個人的に親しい付き合いがあるとはいえ、技術廠の人間に見せるには色々と憚りがあり、存在そのものを知られるのも困るとの事でした。
そして当然というべきか、兄様は唯依にも口止めをしてきます。
ううっ……困りました。
戦術機開発に心血を注いでおられる父様と叔父様。
このお二人にとって、目の前の『人型』がどれほど価値ある物かは、朧気ではありますが唯依にも分ります。
それを秘密にせよとは……ですが、兄様の頼みも無碍にはできませんし。
そうやって唯依が悩んでいると、兄様は屈んで目線を合わせると右手の小指を差し出してきます。
ぐぬぬぬ……ズルいです。 兄様。
その様に約束を迫られれば、唯依とて断りづらいではありませんか。
……ふぅっ。
仕方ありません。
兄様のお願いですし、父様達も、コレの存在を知れば、立場上、問わずにはいられないでしょう。
ここは唯依が沈黙を保てば丸く収まります。
……ですから兄様。
これで貸し一つですよ?
いつかきっと、返して頂きますからね。
そう胸中で呟きながら、唯依は差し出された兄様の小指に自分の指を絡めたのでした。
○西暦一九九二年七月三十一日
今日は、枢木のお屋敷に、珍しいお客様がいらっしゃいました。
会社の方は、時折来られるのですが、今回は違います
あの遠田技研の社長さんを始めとした重役の方々。
唯依はびっくりしてしまいましたが、兄様は特に驚いた様子もなくお客様方を応接間へとお通しします。
どうやら予め面会の約束が出来ていた様です。
……ふぅ……折角、二週続けて兄様とゆっくりできると期待していたのですが、どうやらそれは夢と終わりそうだと諦めた唯依でした。
とはいえ、ただ諦めて不貞腐れている様では、ただの我儘なお子様です。
武家の女としての唯依の鼎の軽重を問われる事ではありますし、ここは一つ、お茶くらいはお出しするのが筋でしょう。
そう考えて、台所へ向かおうとした唯依でしたが、途中で鉢合わせした咲世子さんの持つお盆を見て、自身の気配りが一歩遅かった事を悟ります。
ううっ……流石は咲世子さん。
唯依の料理の師匠と言うべきでしょう。
ここは素直に負けを認めるべきと考えた唯依でしたが、そんな唯依の考えを察したのか、咲世子さんは唯依にお盆を渡すと、兄様のところへ持っていって欲しいと言われました。
ああ、本当に流石です。 咲世子さん。
唯依が、その……あの……あ、兄様と……その………ま、まあ何はともあれ、今後とも枢木の家の内向きの事を咲世子さんにお願いしますからね。
などと内心で誓いつつ、お盆を受け取った唯依は、そのまま兄様のところへ向かいます。
人数が多い分、湯呑みも多かったので多少は難儀しましたが、この程度の事でへこたれる訳にはいきません!
程なくして応接間に無事辿り着いた唯依は、一旦、お盆を廊下に置いた上で、扉をノックしました。
そこで許しを得ると、ゆっくりと丁寧に扉を開けてから、お盆を持ち直して室内にお邪魔します。
向かい合う形で座っている兄様と、お客様方。
兄様は、わずかに眉を動かした程度ですが、お客様方は、そうはいきません。
やや驚いた様子で、唯依と兄様を交互に見られていました。
やはりまだ小さい唯依がお茶を持って来たのが意外だったのでしょうか?
第三者の眼から客観的に見ると、自分がまだ子供に過ぎないと理解させられるのは、やや凹んでしまいますが、ここでめげてはいられません。
例えなりは小さくとも、唯依は立派な武家の女なのです。
その事を、行動で示すべく相応の振舞いを心掛けつつ、お客様方と兄様の前にお茶をお出ししていきます。
その際に、テーブルの上に置かれていた白い書類がチラリと眼に入りました。
『……飛鳥計画?』
なんでしょう?
枢木と遠田が共同で行う事業の計画書でしょうか?
ふと、そんな疑問を抱いた唯依でしたが、ここで兄様にお尋ねする様な不作法は出来ません。
そのまま作法に従って、軽くお辞儀をしてお茶をお勧めすると、お客様方に褒められてしまいました。
なんでも皆さんも、唯依と同年代のお孫さんが居る方が多いそうですが、この様にキチンと礼儀作法を守れないのだとか。
良く出来た娘と褒められてしまいました。
兄様も、心なし嬉しそうに唯依の頭を撫ぜてくれます。
とても誇らしい気分になりつつも、何処かで妹の様な娘と紹介された事には、少しだけ、本当に少しだけですが不満も残りました。
やはりまだまだです。
いつの日にか、妹ではなく、そ、そ……その……こ……こ…び……とと、紹介される様になって見せます!
そうやって誓いを新たにした唯依でした。
どうもねむり猫Mk3です。
今回は、題して『唯依姫の普通の日々』の巻。
特に変わったイベントもなく、平穏な日々。
見た目上は。
でもまあ、唯依が気付かないだけで、色々な事が起きているという事で。
幾つか仕込んでもいますし、大きくなったらきっと、気づくでしょうね。
色々な事が起きていたのだと。
さて、それでは次回は本編で。
一応、『風雲編』も、あと二話位で終わりにする予定ですので、宜しくお付き合いの程を。
ではでは。