Muv-Luv Alternative The end of the idle


【創嵐編】


〜 PHASE 16 :桜嵐 〜






 ――『ソレ』は思考する。
 ただひたすらに――

 『ソレ』が創造主より与えられた役目を果たす為に、最も効率の良い計画を思考(シミュレート)する。

 『ソレ』が与えられた役目――資源採掘と加工、そして搬出のスケジュールは、当初の計画より大きく遅延しつつあり、目下のところその是正が『ソレ』にとっての急務であった。

 スケジュールの遅延要因は、既に明白となっている。
 この惑星に蔓延る『災害』――『ソレ』の創造主とは異なる異星文明により創造された『物』と推測される暴走中の有機機械群による作業妨害こそが、『ソレ』のスケジュールを狂わせる主因だった。

 『ソレ』に架せられた制約により、知的生物の居住する天体における採掘活動は禁じられているが、知的生物により創造されたであろう『災害』のみが存在するこの惑星は、その制約に当て嵌まらず、故に資源の採掘と搬出はスケジュール通りに行わなければならなかったのだが、『災害』が『ソレ』の邪魔をする。

 なんらかの要因により故障・暴走を引き起こしていると推測される『災害』は、無秩序に採掘区画に侵入しては、『ソレ』の指揮下に有る採掘用機材を破壊し、採掘作業を妨害し続けており、『ソレ』にとっては有害なだけの存在でしかなかった。
 これまで発見次第、破壊または強制的な機能停止処置を行ってきたが、自己増殖機能を持たされているらしい『災害』による作業妨害の頻度は一向に減る気配がない。
 もはや『災害』によるスケジュールの遅延は、誤差として容認できるレベルを越えつつあり、作業遅延解消の為にも抜本的な対策を採る必要に『ソレ』は迫られていた。

 故に、『ソレ』は思考する。
 ……思考する。
 …………思考する。
 ………………思考する。



 思考して、そして……



■□■□■□■□■□



―― 西暦一九九七年 三月三十一日 午前五時半 神根島 ――



 まだ明けぬ暁暗の中、海鳴りの音に風切り音が混じる。
 ヒュンッ、ヒュンッ、と。

 砂浜へと続く野原で、一心に木刀を振る少女が一人。
 艶やかな黒髪が、海風と自身の巻き起こす風により舞う中、彼女はただ前のみを見詰めて愛刀を振り続ける。

 踏み込み、引き戻し、構え、また振り下しながら踏み込む。

 単調な一連の動作を、飽く事無く繰り返すその様は、愚直とすら言えたが、それ故にこそ、その剣の軌跡は乱れる事も、揺らぐ事も無かった。

 何年も、何年も、ただひたすらに磨き上げた真っ直ぐな剣。

 ある意味、彼女に最も相応しいソレを、今日も振るいながら、少女――篁 唯依は胸中で独りごちる。

『もうすぐ山百合女子衛士訓練学校の入学式。
 これでようやく本格的な衛士への道が始まる!』

 風切り音が、更に鋭さを増す。
 十三歳の少女としては、瞠目に値する程に。

『篁家当主として、そして枢木家次期当主の許嫁として、誰憚る事無い立派な衛士になってみせる!』

 誰に告げるでもなく、ただ心の内で誓う唯依。
 それだけで全身に力が満ち、今なら岩すら粉砕出来そうな程、心身ともに充実していくのを心地良さと共に実感する。

「ハァッ!!」

 裂帛の気合と共に振り下された締めの一刀が大気を裂き、白い額に浮かんだ汗が珠となって散った。
 そのまま残心を維持し、二呼吸だけ構えを解かずにいた唯依であったが、やがてゆっくりと全身から力を抜いていく。

 初春の冷えた海風が火照った身体に心地良く、暫しの間、風に吹かれていた唯依だったが、昇りゆく太陽を見て、やや予定より時間を過ごしてしまった事に気付いた。

 慌てて荷物を拾い、その場から駈け出す唯依。
 高く高く昇っていく陽が、その華奢な影を大地にくっきりと浮かび上がらせていた。



■□■□■□■□■□



―― 西暦一九九七年 三月三十一日 午前六時 神根島・枢木家別荘 ――



 思いの外、日課の修練に時間を費やしてしまった唯依は、住み慣れた屋敷へと舞い戻ると、そのまま真っ直ぐシャワーへと直行する。
 彼女的には、入浴と言えば湯船にゆったりと浸かるのが趣味だったが、流石に朝からそれは憚られたのだ。

 ザッとシャワーを浴びて、汗とほこりを手早く洗い流す。
 張り切った若々しい肌の上で水滴が弾け、珠となって成長途上の乙女の身体を滑り落ちていった。

「……むぅ……」

 最近とみにボリュームが増えだした双丘の谷間を勢い良くお湯が流れ落ちていくのを見ながら、微かな吐息を漏らす唯依。
 シャワーヘッドを壁に掛け、備えつけの姿見へと視線を移した少女は、まだ硬い蕾を思わせる初々しい膨らみにそっと手を添えた。

「………」

 手に平に広がる押せば弾き返すような張りとそれなりの重み。
 この年代の少女としては、充分な成長ぶりを示すそれらを実感しながらも、当の本人の眉は八の字を描いて固まっていた。

「…………」

 可聴域を僅かに下回る呟きが、淡く紅潮した唇から零れ落ちる。
 どこかなにかに憑かれた様な表情で、ぶつぶつと呟きながら、青い双子の果実から手を離した少女は、掛けてあったバスタオルへと手を伸ばし、やや乱暴な様子で残滓を拭い取るや、次なる目的地へと向かうべくバスルームを後にしたのだった。


 ――そして、数十分後。


「……よろしいでしょうか叔母様?」

 ドア越しに、やや大人ぶ――否、しとやかな落ち着きのある声で唯依が呼びかけると、室内より応えが返って来る。

「構わないわよ唯依ちゃん。 お入りなさい」

 聞き慣れた声。
 だがどこか活力に欠けている様にも聞こえるソレに、唯依の顔に一瞬だけ憂いの色が浮かんで消えた。
 そのまま一つ息を吸い、呼吸と表情を整えた少女は、手にした膳を片手で保持したまま、もう一方の手で扉を開けると、中へと入っていく。

 万能な某メイドによりきっちりと整えられた室内は、既に昇り切った陽の光に暖かく照らされていた。
 南方に位置するこの島は、未だ寒風が吹く帝都とは違い、春の気配に包まれているが、この部屋は更に暖かく過ごし易いよう充分以上の配慮が為されている。

 ――この部屋の主の為に、だ。

「おはよう唯依ちゃん」
「おはようございます。叔母様」

 ベッドの上に座す人と挨拶を交わす。
 初めてあった時よりも、わずかにやつれて見えるその姿に、胸中で心臓が少しばかり小さくなるのが、いつまで経っても慣れぬ唯依だったが、それを押し隠せる程度には成長したつもりだった。
 変わらぬ笑顔を心掛けながら、備えつけのテーブルを準備し、その上に用意してきた朝食を載せる。

 粥を中心とした献立の量は決して多いとは言えなかったが、以前より食が細くなった真理亜の為に、唯依が丹精込めて用意した物だ。
 それは彼女にも分かっているのか、ゆっくりと、だがしっかりと平らげていく。

 減っていく膳の上の品々に、隠しているつもりであろう唯依の表情の強張りが少しづつ解れていくのを目敏く見抜き、胸中で苦笑しながらも、こちらは平然とした様子を崩す事無く食事を終えた真理亜は、ゆっくりと箸を置いた。

 間髪入れずに差し出された湯呑みを両手で支えながら、どこか悪戯っぽい口調で声を掛ける。

「今日は気分も良いし、少しくらい長話してもお小言は喰らわないかしら?」
「そういった油断が、お身体に障るのです! この間も!」

 打てば響く様に、食ってかかる少女に、真理亜は楽しそうに眼を細めた。
 正体不明の病魔に憑り付かれてから、ひどく過保護、というか心配性になった唯依に、くすぐったさを覚えながら、無意識の内に穏やかな微笑みが浮かんだのを悟り、また内心で苦笑する。

『我ながら、随分と丸くなったものね』

 どうやら『閃光』の二つ名も捨てるべき時が来たようだ――そんな想いを抱きながら、それもまた良いかと思ってしまう。

 幸いにして出来の良い弟子も得た。
 優秀すぎる息子には、こんな可愛い許婚も居る。
 やるべき事は、もうほぼやり終えたと言っても良いだろう。

『後はまあ、先に逝ってしまった甲斐性無しなあの人への土産も兼ねて、孫を抱ければそれで御の字かしらね』

 その程度の時間は、まだ残されているだろうと、他人事の様に自分の寿命を計りながら、それをおくびにも出す事無く、彼女はいつも通りの調子で可愛い義娘を弄る事にした。

「そうね気を付けるわ。
 それに唯依ちゃんには、あまり時間が無さそうだしね」
「うっ……申し訳ありません」

 からかい混じりの切り返しに、一瞬、言葉に詰まった唯依が、申し訳なさそうに小さくなった。

 本当はつきっきりで世話をしたいんです!――と全身で主張している律儀な少女。

 その姿に眼を細めながら、微かな笑いを含んだ声で彼女は応じた。

「帝都に戻るんでしょ?
 衛士訓練学校も始まるし、その準備もあるでしょうからね」
「はい。 本当はもう少しお傍に居たかったのですが……」

 ますます小さくなっていく華奢な肢体。
 やはり(未来の)義娘としては、休学をしてでも看病すべきではないかという思いが少なからずあったのか、最後は小さく掠れた声を漏らす唇に、白い指先がそっと添えられた。

「それ以上は言わないの。
 今の唯依ちゃんがするべき事は、一生懸命勉強して、立派な篁家当主に成る事でしょ?」

 幼すぎる当主故、一門内に燻る不満も少なくない。
 篁家にとっての宗主である崇宰家が、唯依の当主就任を承認している現状、それらが表に出てくる事はないが、やはり一門を取り纏めていく為には、わずかな瑕疵も負う訳にはいかないのが彼女の現在の立場でもあった。

 更にソレに加えて――

「ルルーシュの件で、色々とあるでしょうけど、頑張ってね」

 なんとも厄介な相手に恋焦がれてしまった少女の行く手は、そうでなくても艱難辛苦に満ちているのだ。
 残念ながら、下手な手出しはかえって厄介事の種に成りかねぬ以上、直接的な干渉を手控えている現状では、言葉を掛けるだけしかできないのが、真理亜としては歯痒かったが、当の本人にしてみればそれで十分だったらしい。

「は、はいっ!!」

 敬愛する(未来の)義母に激励されて奮起したのか、頬を紅潮させ、手を握り締めた唯依は、元気良く答えを返す。
 見るからにやる気満々といったその姿に、真理亜も胸中でホッと安堵の吐息を漏らした。

 そのまま暫し母と娘は会話を楽しむ。

 昔からの友人との思い出話や、一緒に入学する衛士訓練学校への期待と不安。

 取りとめも無く、だが楽しそうにこれからの事を語る唯依の話に真理亜は耳を傾け、時折、自分の訓練生時代の逸話を語り、会話を弾ませていく。

 気付けば二時間ほどの時が過ぎており、無理をするなと言った本人が、長話をしてしまった事に、唯依は赤面する破目になるのだった。



■□■□■□■□■□



―― 西暦一九九七年 三月三十一日 午前九時二十分 神根島・枢木家別荘 ――



 白い頬を少しだけ染めながら、空になった膳を抱えて、磨き抜かれた廊下を歩く唯依。
 時折、立ち止まっては、自身の失態を思い出しプルプルと震えている様は、傍から見れば何とも微笑ましく見えただろうが、幸か不幸か廊下に居るのは彼女一人。

『……ああ……またやってしまいました……』

 原因不明の発熱とそれに伴う消耗を繰り返す奇病を患う真理亜には、充分な休息こそが最も必要だと知っていたのに、ついつい長話をしてしまう自身の馬鹿さ加減には落ち込む限りだ。

『……うぅっ……本当にもう……これで叔母様の容態が悪化したら、兄……もといルルーシュ様に合わせる顔をがありません』

 そう胸中で自戒しながら、堪え切れなくなった思いが溜息となって零れ落ちた瞬間、背後で小さな物音が起こる。

「――っ!?」

 一瞬、ビクンと硬直した身体が、次の瞬間、弾かれた様に180度ターンする。
 やや引き攣った表情の少女の視界に、別の人影が映り――

「……マオ……」

 ちょっと間抜けた感じの声音が、柔らかそうな唇の隙間をすり抜けていった。
 先程、唯依が通り過ぎたばかりのドアから出て来た幼馴染の少女が、どこか茫洋とした表情のまま彼女へと視線を合わせる。

「ん?……おはよう、唯依……」

 そう言いながら大きく伸びをすると、彼女――マオが着ていたピンクの子豚の描かれたパジャマの一部が、パッツンパッツンに突っ張った。
 圧倒的な物量を誇るその一部分に、思わず唯依は鼻白らむ。

 ――毎回毎回思うのだが、何を食べればこうなるのだろう?

 そんな他愛なくも深刻な疑問を抱きつつも、それを圧倒的劣勢な胸の中にグッと押し込めた唯依は、軽く息を吐き、呼吸を整えると、やや咎めるような口調で切り返す。

「おはようマオ。
 ……ですがもう日も高いですよ。
 おはようと言うには、遅い時間でしょう」

 確かに、既に時計の針は九時を過ぎ、唯依の基準では、おはようという挨拶を使うには、あまり適切ではない時間帯だった。
 だが、彼女の幼馴染には、幼馴染なりの主張があったらしい。

「……さっき起きたばかり。
 だから『おはよう』で間違ってない」

 小さな欠伸を漏らしつつ、そう応じながら近づいて来る。
 向かい合ってみれば、秘かに姉貴分を自負している唯依にとっては不本意な事に、頭一つ程、マオの方が背が高く、必然的に――

「………」

 ――唯依の眼光が険しくなった。

 その視線の先、水平に伸びるその果てで、たゆんたゆんと揺れる双子の山脈。
 寝苦しかったのか、ボタンが一つ外された襟元からは、今の自分では絶対に太刀打ち出来ぬ程の深遠な峡谷が覗いていた。

 否応無しに、視界のど真ん中に映るソレに、若干の――本当にホンの少しの妬ましさを感じつつ、溜息混じりの問いがマオへと向けられる。

「……まったく。
 夜更かしでもしていたの?」
「……ロイドの研究に付き合ってた」
「……」

 半分寝惚けた表情で応じるマオに対し、今度は唯依の瞳の中に逡巡の色が浮かんだ。
 数瞬の躊躇いの後、恐る恐るといった風情で、少女は口を開く。

「……それはアノ……」
「これ以上は守秘義務違反。
 ――唯依が帝国に仕えるのを止めるなら話は別」
「……分かりました」

 引くべき線は引く。

 言外に込められた意思を正確に聞き取った唯依は、それ以上の詮索を止める。

 帝国と枢木の関係は相変わらずだ。
 そんな中、幼馴染の仕事の概要だけは知らされていた唯依は、斯衛軍士官候補生としての自分が訊いてはいけないとの言にも頷かざるを得ない。

 彼女が関わっているのは枢木の機密であり、そして政府や軍が喉から手が出る程に欲しているモノでもあるからだ。
 だからこそ、将来的には軍に身を置く事になるであろう自分が知ってはならぬと自制する。

 ――いつか聞かせて貰える様に成って欲しい。

 そんな願いを抱きながら、彼女はマオに別れを告げる。

「私はこれから帝都に戻ります。
 叔母様の事、よろしくお願いしますね?」

 今にも眠ってしまいそうだったマオの美貌に、何とも言えぬ表情が浮かぶ。

「……引き受けた。
 でもどうせなら、私がよろしくして貰いたい」

 この茫洋とした幼馴染には珍しく苦々しそうな声音が響き、それが唯依の眉間に小さな縦皺を産んだ。
 幼馴染の不機嫌さの理由に、心当たりがあった少女は、恐る恐るといった様子で問い掛ける。

「……叔母様の修練は、そんなにきついのですか?」

 何の気まぐれか、或いは、なにか思う事でもあったのか、半ば強引に真理亜の弟子にされた少女は、氷の彫刻の様に冷たく整った容貌を微かに歪めながら、溜息混じりに呟き返す。

「……あれは鬼、悪魔、天性のサディスト。
 普通の人間なら、半日で逃げ出す」
「………」

 返って来たなんとも反応に困る答えに、唯依は思わず口籠った。

 以前、教授を切望した人への思わぬ評価。
 だが漏れ聞く処によれば、勇猛を以って鳴る斯衛の衛士も、枢木真理亜の調練と聞けば裸足で逃げ出したという噂も耳にしていたし、何より実の息子への苛烈なまでの手ほどきも目の当たりにしていた身としては、否定したくても否定できない面があった。

 そうなると、途端に眼の前の幼馴染の身が心配になってくる。
 ここに来るまで剣の修練とは、全くと言っていい程、縁が無かった筈の彼女。
 そんな彼女が、ついていけるのだろうかと……

 その事を心配そうに問い質す。
 場合によっては、自身が掛けあってもいい考えながら、辛くは無いかと尋ねる唯依に、マオはどこか憮然とした表情のままボソリと切り返した。

「大丈夫、私も普通(・・)じゃない」

 ぶっきらぼうにすら聞こえるその答え。
 だが不思議と頷きたくなる響きを持つソレの意味を、唯依が本当の意味で知るのには、いま少しだけの時が必要になるのだった。



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―― 西暦一九九七年 四月六日 L5・『アヴァロン・ゼロ』 ――



 ジュウジュウと音を立てながら、鉄板の上でその存在を主張していたステーキに、上品な手つきでナイフが入れられる。
 スゥッと入っていく刃先から抵抗は余り感じられず、肉質の柔らかさを伝えてくる中、殆ど音を立てる事無く切られた断面からは、わずかに残った赤みと共にジュワッと肉汁が滴り落ちてきた。
 再び熱い鉄板から肉汁のこげる匂いが起ち上る中、一口サイズに切り取ったステーキを、ルルーシュは口へと運ぶ。

 そのままもぐもぐと口を動かしながら、口中に広がる味と香りと触感を吟味する青年。

 ――そう、正真正銘の『吟味』だ。

 一通り咀嚼したステーキをごくんと呑み込んだルルーシュは、口元の脂をナプキンで拭い、ミネラルウォーターで口の中の脂も胃に流し込むと、傍らに置いてあった書類を手に取り、いま食べたばかりのステーキ――正確には、それに使われた『肉』に対する評価を書き込んでいく。

 肉質は、まあ及第点。
 柔らかさは一般的な米国産よりも上、味もそれなりと評価する。
 脂に関しては、ややくどい気もしたが、目くじらを立てる程の物でも無いと感じた彼は、その点についてコメントしつつも、これなら充分に売り物になるとの最終判断を下し、この『肉』――大豆蛋白を主原料とした新型合成牛肉の量産開始にGoサインを出す指示書をサラサラと書き上げると、脇に控えていた食品部門の合成食品開発責任者へと手渡した。
 渡された指示書を凝視する責任者の顔から徐々に緊張が抜けていくが、それも無理からぬことである。

 その筋の専門家達が、日夜、試食と評価、そしてそれに基づく改良を繰り返した末に出来た逸品だ。
 その上で、これなら安かろう不味かろうと不評な合成食材市場に新旋風を巻き起こせると確信した上でのCEOによる試食会だったが、それでも不安が無かった訳でもない。
 なにせ従来の合成食材の様に魚や海洋プランクトンを主原料とした物とは、全く異なる原材料――農業部門が極秘に開発に成功したという新品種の大豆を主原料にして、一から創り上げた代物な為、製法自体がこれまでの物と大きく異なっているのだ。

 帝国でも大手の食品会社から引き抜かれ、技術者として相応の自負を抱いていた男にとっても全く未知の領域への挑戦は腰が引けぬ筈も無し。
 眼前の若きCEOから初めて新型合成食材の開発を命じられた際には、所詮は食品開発には素人と秘かに失望したりもしたが、サンプルとして提示された新品種の大豆を調べて、その考えも変わらざるを得なくなった。

 とかく評判の悪い合成食材であるが、客観的に言うなら決して不味い訳ではない。
 ……まあ、舌がとろける程に美味い訳でもないのだが。

 美味くは無いが不味くも無い。
 言うなれば、まあ喰えなくもない筈のソレが、食料事情の悪化から帝国でも主流と成りつつあるいま現在においても、不平不満の種になっているのにはキチンとした理由があるのだ。

 端的に言うなら味が多い(・・)――例を上げれば、豚肉の筈なのに豚肉以外の味もするというのがその答えである。

 まあコレは、ある意味止むを得ない事でもあった。
 原材料となる魚やプランクトンの味や匂いを極力無くす処理は為されているが、どうしても完全には消し切れない――否、消し切ろうとすれば食材の量が大きく目減りしてしまう為、コスト面から消せないという問題があったのである。
 結果、豚肉以外の味がする合成豚肉は、調理後も見た目と味との間にギャップが生じ、それが食べる者に『不味い』という印象を与えてしまうのだ。
 これは合成豚肉に限らず、殆どの合成食材について回る解決不能な問題だったのだが、サンプルを試食した瞬間、彼と彼の部下達は、その難題を突破し得る可能性に気付いたのである。

 平たく言うなら、新品種とされた大豆は、そのままでは絶対に売れない代物だった。
 そして同時に合成食材の原材料としては、間違いなく最高の代物でもあった――そうまるで合成食材の原材料に使う為に創られたかの様に……

 ほぼ完全な無味無臭。
 茹でようが、揚げようが、焼こうが、蒸そうが、まったく味も匂いも無いそのサンプルからなら、余計な風味のしない合成食材が作れる筈。

 そう確信した彼のチームは、すぐさま開発に必要と思われるだけの原材料の栽培を申請すると、新型合成食材の開発に取り組んだのである。
 以後、製造工程の確立に2年、更に味や匂い、そして食感を調えるのに1年。
 彼らなりのドラマの果てに辿り着いたゴールにダメ出しされないかと戦々恐々だった男達も、一仕事成し遂げた達成感に、ホッと安堵の息を吐く。

 そんな彼等をひとしきり労うと、多忙なルルーシュは試食会の開かれた食品開発部から足早に立ち去った。
 背後から聞こえる万歳三唱に、形良い唇に苦笑を刻みながら、彼は脳裏で一つのプロジェクトに完了印を押す。
 後は放っておいても、部門の責任者が生産から販売までのシステムを構築する事になっており、今年半ば辺りから、既に輸出の始まっている加工済の鉱物資源や高度工業製品と共に出荷開始となるスケジュールも既に組まれているのだ。

「これで少しは、地上の友人達の食料事情も改善されるだろう」

 本社へと向かう電気自動車内で、誰に言うでもなくルルーシュは呟く。

 現在アヴァロン内の食料プラントのかなりの部分を使い、新品種の大豆は絶賛栽培中だった。
 通常の育成なら4カ月程度掛かるところだが、太陽光や温度・湿度その他全てをコントロール出来るプラントでならその半分程度の期間で栽培が可能であり、アヴァロン単体でもかなりの量の調達が行える。
 輸送費削減の為、地球への輸出は途中まで加工した物を乾燥状態で出荷し、地上で最終加工するという手間があるものの価格的には、充分既存の合成食材に太刀打ち出来るという試算も出ていた。

 彼が呟いた様に買い手も既に決まっている。
 食品に対する宗教的戒律の厳しい中東と南亜細亜連合構成国の一部に試供品を提供した結果、かなり色良い返事を受けていたのだ。

 鱗の無い魚はダメ、豚もダメ、牛もダメ――この食料危機の時代に随分と悠長な事をと言うのが、宗教、否、神云々に懐疑的な彼の本音ではあったが、まあそれで自社の製品が売れると言うなら構わないと割り切っている。

「中東と南亜へのパイプも更に太くなる……結構な事だ」

 そう嘯きつつ、本社に到着したルルーシュは、そのまま専用エレベーターに乗り、自身の執務室へと向かう。
 ほどなくして到着した部屋には、既に、別の案件に関する報告が、山となって積まれていた為、彼の思考は速やかに切り替わった。
 後々、ビーンズビーフやビーンズポークと呼ばれ、地球だけでなく宇宙でも大きくヒットする自社製品の事など、脳内から完全に締め出した青年は、執務机の上に積まれた報告書へと手を伸ばす。

「ふむ……」

 ザッと斜め読みしただけで、ほぼ完全に内容を把握出来るのは、常人とは隔絶した頭脳の冴えであろうか。
 パサリと置いた報告書に決裁印を押し、処理済の箱へと放り込むと、淀みなく次の案件を取り上げた。

「こちらも順調……といったところか」

 続いて眼を付けたM型小惑星の移動状況やアヴァロン・ゼロ内の各種生産施設の稼働状況報告をチェックしながらルルーシュは呟いた。

 未だ進行途上ではあるが、計画そのものは順調に推移している事を示す数値を見ながら、青年の秀麗な容貌には渋い表情が浮かんでいる。
 アヴァロン計画の表向きの目的は既に達成されつつあるが、裏の目的である対BETA戦への干渉という点から見れば、満足とは言い難い状況が形成されつつある為だ。

 日本帝国を主力とする国連の大陸派遣軍は健闘していると言って良かったが、それでも大陸東方の戦況を覆すには至らない。
 彼が主導して結成させた南亜細亜連合も、連合国土の死守という戦略目標こそは墨守しているもののそれ以上の事を為す余力は無かった。

 このまま時間が経過すれば、物量に勝るBETA側に徐々に戦局が傾いていく事は、ある程度の戦略眼の持ち主にとっては一目瞭然であり、何らかの決定的な打開策を打てない限り、人類側にとってジリ貧の状況である事に何ら変わりは無い。

「打つ手が無い訳でもないのだがな……」

 そう呟きながら手持ちのカードを脳裏に広げた青年は、暫し黙考すると黙って首を振った。

 ――やるなら一気呵成に。

 その基本方針を覆す程、戦況が逼迫している訳でもない。
 少なくとも、航空戦力の優位を過信して、光線級という決定的な戦力を産み出させてしまった愚行の二の舞はご免蒙るというのが彼の本音でもあった。
 強力な手札を切る盤面をどうやって創り出すかを思案しながら、その思考を更に推し進めていく。

「南亜と中東は一進一退、西は英国が奮闘中か……」

 南と西を注視するなら、そちらは千日手の様相と言える。
 反攻を試みる程の余力は無いものの現状維持は何とか出来ている状態。
 良くも無いが悪くも無いといった微妙な情勢は彼をしても選択に迷わせる。
 彼の意思で盤面を動かす事自体は可能だろうが、それが良手とは思えなかった。
 そもそもこれらの戦線が持ち堪えているのも、地理的な要因による事が多く、英国の場合はドーバー海峡が、中東には紅海という巨大な天然の防壁があり、南亜方面は、地形を利用して入念に造り上げられた重厚な防衛陣地が侵攻を阻む大きな力となって、辛うじてBETAの侵攻を跳ね返しているのが実情だ。

 基本、防衛側は侵攻側に対して優位にあるという戦術上の常識は、とかく非常識な事が多い対BETA戦においても変わらない。
 反攻に出ると言う事は、この戦理に逆らう事であり、その結果がどうなるか、余り想像したくはないというのが、彼の本音でもあった。

 両戦線については当面は現状維持で良し――と判断を下した彼の思考が残りの二方面へと動く。

「北は……まず問題無いか」

 こちらにも北極海という巨大な障壁があり、更にその先には地球最後の超大国が、自国への侵攻を阻むべく手ぐすね引いて待っている状況だ。
 BETAが如何に圧倒的な物量を誇るとも、そう簡単に侵入を許しはしないだろう。

 となると……

「やはり東が焦点か」

 幾度、シミュレーションを繰り返しても、結局、全てはそこへと戻るのだった。
 大陸東方戦線の行く末、そしてその先にある東方最後の防壁である日本帝国の存亡こそが、この絶滅戦争の趨勢を決定するだろうと彼自身も結論付ける。

 付けたのだが……

「……とはいえな」

 更に渋い表情が、ルルーシュの面に浮かぶ。

 長期に渡る対立により、枢木と日本帝国の関係は大いに拗れたままだ。
 現状のままでは、来るべき時に帝国内で上手く立ちまわれなくなる可能性もある。
 純粋に戦略的な観点から論ずるなら、この辺りで手打ちをして関係改善しておくべきなのだろうが……

「余計な野心を燃やす御仁が出てくるとはな……ままならぬものだ」

 ここ最近、旧宗主――少なくとも彼の視点では――の立場を盾に、枢木家を傘下に置こうと画策している人物の事を脳裏に浮かべながら彼は苦笑した。

 思惑そのものは分る。
 今代の政威大将軍が、その立場を回復させるには、相応の権力と武力、そしてそれらを支え得る財力が必要であり、今の枢木にはそれら全てが揃っている以上、誘惑に駆られるのも無理からぬ事だと。

 とはいえ武家の体面とやらに最も拘らねばならぬ立場の人間が、如何に隆盛を極めつつあるとはいえ、何代も前に放逐した筈の不忠者を再び招き寄せようと考えるとは流石に思わなかったのである。
 正直なところ予想外、彼の嫌いなイレギュラーというヤツだ。

 ――さて、どうしたものか?

 一端の剣士とは思えぬ細く形良い指先を顎にあてつつ思案する。

 彼自身にしてみれば、今更、武家の型枠に嵌ってやる気などサラサラ無かった。
 将軍の権威など歯牙にも掛けぬ不遜な青年にしてみれば、帝国との関係正常化の為の交渉相手としても役者不足と評するしかない。
 さりとて、ここで将軍からの秋波を無視すれば、逆恨みされる恐れも充分以上にある為、慎重な対応が要求される局面だ。

 唯依の事もある上、今後の帝国政府との折衝で余計な茶々を入れられても困る訳で……

「……本当に困った事だ」

 そう呟きながら青年は小さく嘆息すると、この件を一時棚上げし、次の書類に手を伸ばす。
 決済すべき案件はまだまだ多く、それが終わってから戦略を練り直し、その流れの中で打開策を巡らせるべきと判断したが故であり、そこに焦る気持ちは微塵も無かった。

 ――大事の前の小事。

 少なくともこの時点において、この一件は、彼にとってはその程度の認識だったのだ。
 人類の存亡、否、少しスケールダウンして日本帝国の存亡に置き換えたとしても、将軍が復権するかしないかという問題は、ルルーシュの観点からすればその程度の重みしかない。

 そう、あくまでも彼の視点・価値観においては、その程度の事(・・・・・・)でしかなかったのだが、世の中には別の視点・別の価値観というモノも厳然として存在しているという事を、この時のルルーシュは珍しく失念していた。

 そしてその小さな見落としが、帝国の内と外からの要因を肥料に育てられ、大きな読み違いになるまでに、さほど長い時を必要とする事はなかったのである。



■□■□■□■□■□



―― 西暦一九九七年 四月六日 帝都 ――



 日に日に暖かさを増す春の日差しの中、舞い散る桜の花びらを笑いさざめく少女達の声が揺らす。
 寮から校舎へと続く通学路を、思い思いのグループに分かれて歩く山百合女子衛士訓練学校の新入生達。
 未だ中学生気分が抜け切らぬその面々の内に篁 唯依も混じり、友人達と共に新たな学び舎へと歩いていく。

 今日は、栄えある山百合女子衛士訓練学校の入学式。
 しかも畏れ多い事ながら、五摂家の一角、煌武院家当主・煌武院悠陽様が来賓として来られ、祝辞を述べられるという噂も流れており、煌武院門下の武家の娘達は特に気合いが入っているのが傍からも分かった。

「煌武院悠陽様かぁ……」

 春休み中の彼氏との惚気話を語り終えてようやく満足したのか、軽く視線を上に向けながら、舞い散る桜の花びらを愛でつつ能登 和泉が呟くと、盛大な惚気に辟易としていたのか、これ幸いとばかりに甲斐 志摩子が追随して話題の転換を図る。

「私達と同い歳だそうですけど、どんな御方なのでしょうか?」
「まだ成人前だから、公の場には出て来ないし、写真とかも公開されてないんだよなぁ」
 と小首を傾げる志摩子に、どこかやんちゃな少年めいた風貌の石見 安芸が応じた。

 これまで殆ど露出の無かった煌武院家の若き当主に対し、同い歳と言う事も手伝ってか、それなりに興味を示す面々であったが、全く情報が無い相手の為か、いま一つ話が弾まない。
 話の接ぎ穂を見失いかけ、顔を見合す少女達の中、そんな空気を厭ったのか、やや自信無さそうに声のトーンを落とした和泉が、又聞きの怪しげな情報を披露した。

「煌武院に連なる武家の()に聞いた話だと、とっても綺麗で気品がある方だそうだけど……」

 と歯切れ悪く途切れる友人の言葉に、グループ内の盛り上げ役でもある安芸が、上手く話を合わせていく。

「まあ、一門の宗主を貶すのは無理だよねぇ」

 そう言いながら腕を組み、わざとらしく頷いて見せる少女の仕草に、一同の面にも微苦笑が浮かんだ。
 安芸のフォローで、やや澱みかけた空気が去り、軽くなった雰囲気の中、頬に指先を当てた志摩子が、再び小首を傾げながら呟く。

「話半分というところでしょうか?」

 思わず首を捻る三人娘。
 肯定するのは不敬かもしれず、さりとて否定すべき根拠もない。
 意図せずに揺れ動く三対の視線が、自然と最後の一人へと向かった。

「唯依はどう思う?
 白のあたしたちじゃ、五摂家の方々と直接お会いする機会なんて殆ど無いけど、山吹の唯依ならそれなりに噂とかを耳にする事もあるんじゃないの?」

 グループ内で唯一、頭一つ抜けている家の当主でもある唯依へと和泉が水を向けると、他の面々も興味深そうにジッと見つめて来た。
 少女の美貌に浮かぶ苦笑が、やや深くなる。

「ごめん……私もあの方については、全く知らないの。
 恭子様かルルーシュ様ならよく知っていらっしゃると思うけど、これまで余りお訊きする機会も無かったから……」

 そう答えながら、軽く頭を下げる唯依。
 彼女にしてみれば、煌武院家はあくまでも他門の宗主。
 あまり積極的に情報を集めるべき理由も無く、これまでは名前を聞いた事がある程度の方でしかなかったのである。

 とはいえ友人達の顔に軽い落胆の色が浮かぶのを見て、なにかの折りにでも恭子かルルーシュ辺りに訊いておけばよかったかと後悔するが、まあ今となっては意味の無い事でもあった。

 期待外れの回答に、和泉が行儀悪く頭の後ろに手をやりながらぼやく。

「あ〜あぁ、残念!」

 どこかおどけて見えるその言動に、再び苦笑の渦が湧き起こると、万事そつのない志摩子が軽く話をまとめてくれる。

「まあ、いずれにせよ入学式でお会い出来るんですから、それまでの楽しみにすればいいですよ」
「そうよね。後の楽しみにとっておきましょう」

 そう言って頷く和泉に、唯依を含めた他の面々も同意した。

 どちらにせよ、あと二時間もしない内に、本物に会う事になるのだから、その後で、色々と話した所で構わないだろうといった空気が、一同の中で広がっていく中、急速に近づいて来る『音』に、唯一気付いた唯依が、視線を空へと向けた次の瞬間。

「「「きゃああ!!」」」

 轟音と共に上空を通過していった何かが巻き起こした一陣の突風が、通学路の上を吹き抜け可愛らしい悲鳴を上げさせた。
 少女達のスカートが一斉に巻きあげられ、色とりどりの下着に包まれた若々しい下半身がそこかしこで開帳される。
 慌てて伸ばした両腕で舞い上がるスカートを必死に抑えつけたうら若き乙女達が、闖入者へと羞恥と怒りの視線を向ける中、皆よりも早くそれに気付き、被害を最小限に留めた唯依だけは、憧れと懐かしさを込めた眼差しで、『ソレ』の行方を追っていた。

「……も――っ!
 よく下を見て飛んでほしいですわ!!」

 白昼の往来で、下着丸出しにさせられた志摩子が、頬を真っ赤に染めたままプンプンと怒っている。
 武家の娘として、慎み深く育てられた彼女にしてみれば、とんでもない狼藉だったのだろう。
 普段のおしとやかさはどこへやら、眼を三角にして怒る様に、安芸と和泉が若干退く中、どこか晴れやかさを感じさせる唯依の声が一同の鼓膜を震わせた。

「皆さん、ご覧になって?」
「「「――?」」」

 友人の声に釣られて少女達が振り返る。
 転じた三対の視線の先には、通学路の石橋から身を乗り出しつつ、少し離れた斯衛軍の駐屯地を見詰める彼女が居た。

 着陸したばかりの巨大な人型を、懐かしそうに眺めながら、誰に言うともなく唯依は言葉を紡ぐ。

「あれが私達が卒業したら乗る事になる……82式戦術歩行戦闘機『瑞鶴』よ」

 そう告げながらも、彼女の視線は友へと戻る事は無い。
 まるで吸い寄せられる様に瑞鶴の雄姿を追うそんな姿に、友人の素性を改めて思い出した志摩子が、恐る恐るといった風情で問い掛けた。

「瑞鶴って確か、唯依のお父さんが開発に関わっていたっていう……」
「ええ……」

 志摩子の問いに小さく頷く唯依。
 それだけで彼女の心情を察したのか、志摩子も和泉も、そして安芸さえもが、黙ってその後ろ姿を見守る事になる。

 『瑞鶴の英雄』――篁祐唯中佐。

 その名を知らぬ者は、軍関係者ではまず居ない。
 国産戦術機開発の途を死守した最大の功労者であり、同時に外国からの技術導入を積極的に推し進め、一部では売国奴と謗られる毀誉褒貶の激しい人物として知られ、死後もその評価は一定していなかった。
 彼女達の親族にも、その功績を讃える者も居れば、行動を貶す者も居り、未だ未熟な少女達には良く分からない人という印象が強い。

 とはいえ、友人である唯依が、今は亡き父親を心から尊敬している事も、これまでの付き合いから理解しており、その父親が開発主査として関わった『瑞鶴』に、相当の思い入れがある事を察した面々は、入学式までまだ時間があるのを幸いに、唯依に付き合うべくその場で足を止めた。

 さざめきながら流れる少女達の群れが、そんな彼女達を不思議そうに横目で見ながら追い抜いていく。
 そんな中、少し離れたところで立ち止まり振り返った黒髪の少女が、鋭い眼差しを彼女等――否、唯依へと注いでいたのに三人娘はもとより、当の本人すらも気付いていなかった。

「……あれが、篁 唯依」

 黒髪の少女――山城 上総の唇から零れた呟きに硬く鋭いモノが混じる。
 そのまま仇でも見る様な敵意に満ちた眼で、暫し『瑞鶴』を眺めている唯依を睨んでいた上総は、やがてつまらない物を見たと言わんばかりの表情を取り繕うと、その場を後にしたのだった。



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―― 西暦一九九七年 四月六日 L5・『アヴァロン・ゼロ』 ――



 荒れ果てた大地、赤茶けた土と僅かに残った剥き出しの岩のみが点在する荒野で無数の異形と一体の『巨人』が果ても無く相争っていた。

 ハドロン砲の赤い光が、灼熱の奔流となって巨大な異形――要塞級の半身を削り取る。

 ――兵器選択変更

 倒れ行く要塞級の脇をすり抜けていく機体の中で、一つの思考が走り、それを読み取った『システム』が、スーパーヴァリスをマウントに戻し、替わって二振りのMVSを引き抜かせる。

 超低空を滑る様に飛ぶ巨体。
 巻き起こる砂埃を引き連れながら、白銀の機影は眼前の敵へと突進していく。

 蒼い瞳に投影される無数の異形。
 戦車級、要撃級を筆頭に、数えるのも馬鹿馬鹿しくなる程の数がひしめいているのが見えた。

 だが今の目的は、アレらではない。
 その奥に居る厄介な目玉の化け物共だ。

 多くの兵士の血と慟哭を糧に築かれて来た対BETA戦のセオリーに従い、最優先で排除すべき目標(ターゲット)に向かう道程に存在する障害物でしかない。ならば――

 ――エナジーウィング展開

 再び思考が走り、『彼女』の分身と化した機体は、忠実にソレをトレースする。
 飛翔する白銀の機体の背中から翠色の翼が広がった。

 ――斉射

 翼面一杯に煌めきが広がり、次の瞬間、無数の光の羽が前方へと撃ち出された。

 それは水平に降る豪雨。
 或いは、全てを押し流す土石流の様に、目の前に立ち塞がる異形の生物の壁へと叩きつけられ、その悉くを抉り穿った。

 ――突撃級の強靭な装甲殻が薄紙の如く貫かれ、その内側の柔らかな肉を抉る。
 ――盾の様に掲げられた要撃級の前腕衝角が、いともあっさりと切り裂かれ、その後ろの白い巨体をも断ち切っていく。

 戦車級、闘士級、兵士級の小型種については、もはや語るに足らず。
 乱舞する光の羽に蹂躙された証である赤黒い体液が大地を穢した死の道の上を、輝く機体は一気に突き込んでいく。

 ――抜刀

 紅い風が奔る。
 無数の光の軌跡を残像として残しながら、『彼女』のイメージ通り(・・・・・・)に振るわれる二本のMVSが、撃ち漏らしや死に損ないを容赦なく斬り伏せ、光線属種群へと続く道の最後の舗装を済ませていった。

 ――目標確認

 投影される映像に、異様に肥大した目玉の様な器官を備えた異形の群れが映る。
 大小取り混ぜたソレ等を、その視界に納めると同時に、管制ユニット内に照準照射警告(アラート)が鳴り響くが、次の瞬間、『彼女』の脳内で最後の思考が走った。

 ――殲滅

 再び放たれる無数の光弾。
 奔流となって殺到する光の羽の嵐が、醜悪な異星起源種(BETA)共を容赦なく呑み込んでいき、そして――



「ん〜〜〜……ぐぅれいとっ!
 ……とでも言うべきかねぇ」

 ディスプレイに表示される『PERFECT』の一文字を、満面の笑みと共に一瞥しながら、ロイド・アスプルンドは、ひどく楽しげに笑った。
 鎧袖一触――全く危なげなく困難な筈の光線級吶喊シミュレーションをこなして見せた自身が手塩に掛けた機体と、その乗り手を、手放しで称賛する彼に、脇でデータ収集と分析をしていた相棒(セシル)も感心したように呟く。

「確かに素晴らしい数値ですね」
「いやはや大したもんだよ。
 まさかココ(・・)で、()に匹敵するパーツ君が見つかるとは夢にも思ってなかったからねぇ」

 手元に表示される分析結果を流し読みながら破顔する。
 彼にとっての最高のパーツであった『彼』にすら匹敵し得るその数値に、内心の興奮を押さえつつ、いつも通りの軽薄な口調で戯れに問い掛けた。

「ジェレミア君には感謝かな?」

 あの堅物な悪友に、多少の感謝はしてやっても良いかもしれない。
 この天才故の傲慢さを兼ね備えている奇人ですら、そう思う程に、今回の実証試験で示された結果は素晴らしかった。

 キーボードの上を走っていたセシルの手が止まる。

「運命だったのかもしれませんね。
 彼女とジェレミア卿が出会ったのは」

 感慨深げな呟きが艶やかな唇から零れ落ちたが、それを聞いたロイドの片頬が皮肉気に歪む。

「運命ねぇ……」

 あの方の嫌いそうな言葉だねぇ――と、言葉にはせずに呟いた。

 己の力と意志こそを頼る自身の主にしてみれば、そんな言葉で全てを片づけられるのは不本意な事だろう。
 人知を超えた経験をし、そこに何らかの意図を薄々感じ取っていようとも、それでも全てが超越者の掌の内にあるなどとは、あの傲岸不遜な主は絶対に認めはしない筈。

 神すらねじ伏せるその気概と矜持は、運命とて踏み躙り、従えさせる事を望むだろう。
『まあ、だからこそ面白いんだけどねぇ』

 表には出さぬまま、そう呟いて苦笑したところで、ロイドはディスプレイ越しに、こちらを真っ直ぐに見据える視線に気づいた。
 多少、思考が脱線していた事を自覚した彼は、いつも通りのヘラヘラとした笑みを浮かべながら、少女へと指示を出す。

「ああ、もう上がっていいよ」
「お疲れ様、マオちゃん」
「了解した」

 労いの言葉と、了承が回線越しに交差した。
 次いでブラックアウトしたディスプレイを、なんとはなしに眺めながら、ロイドは静かに思考する。

 人機一体の極致を産み出す直接思考制御システム――神経電位接続技術の発展形たるコレは、ハード・ソフト両面でほぼ理論上は完成した物と見て良かった。
 乗り手が規格外である事を差し引いたとしても、今回の実証試験――本来なら陽動も含め連隊規模の戦力を投入して、ようやく達成できるであろう光線級吶喊シミュレーション――で示された結果は瞠目に値するものである。
 だが貪欲なまでに技術の進歩を欲するロイドは、まだこの程度では満足できていなかった。

 もっと強く、もっと先へ――そんな衝動が、彼を内部から突き動かそうとする。
 だが既に統合仮想情報演習システム(JIVES)で出来る試験は粗方やり終えてしまった今この先を目指すなら――

「さて、そろそろ実戦試験の頃合いかなぁ?」
「…………」

 ――と言う事になるのだが、そう呟いた瞬間、相棒のセシルが露骨に顔を顰めた。

 私情がたっぷりと入りまくったその反応は、ロイドにしても予想した通りのもの。
 日本語を教えたり、女の子の常識を教え込んだりと、なにかと構っている内に情が移っていた彼女が、マオを戦場に立たせる事に難色を示すのは分り切っていた彼は、からかう様な口調で一石を投じて見せる。

「そう厭な顔しないでよセシル君。
 どちらにせよ、実戦で使ってみなけりゃ生きたデータは採れないんだからさぁ」

 あくまでも正論を突き付けるロイドに、セシルの眉が不快気に寄った。
 技術者としての彼女は、それが正しい事など言われるまでも無く知っている。

 如何に良く出来たシステムとはいえ、統合仮想情報演習システム(JIVES)は、あくまでも仮想現実でしかないのだ。
 実際に動かし、戦わせてみない限り、本当の意味での完成には至り得ない。

 そんな事は百も承知な彼女だが、やはり知り合い、それもまだ十代前半の少女を戦場に送り出すのには、それなり以上に躊躇うモノがあるのは確かなのだ。

「……分かっています。
 ですが、彼女にはまだ早いのでは?」

 目線を逸らし、歯切れ悪く反論するセシル。
 自身の言葉に理が無い事を、自覚している分、その声は小さく弱くなる。

 そんな相棒を前に、ロイドは小さく肩を竦めて突っ込みを入れた。

「スペック的には充分過ぎると思うけどねぇ」

 充分どころでは無い事は、先程、示されたばかりだ。
 何でもありの条件(・・・・・・・・)でやり合えば、養父であるジェレミアですら及ばないだろう事は、双方にとっての共通認識でもあるのだが……

「ですがっ!」

 それとこれとは別。
 そう言いたげに声を荒げるセシルに、ロイドは冷徹な指摘を返す。

「この世界じゃ別に珍しくも無いでしょ?
 そもそも彼女は実戦経験者だよ」
「…………」

 再び視線が逸らされた。
 この滅びに瀕した世界の過酷な現実を前に、セシルは悔し気に唇を噛む。

 理性がロイドの言葉を肯定し、感情が否定したがる中、黙り込むしかなくなったセシルをチラリと一瞥したロイドは、埒が明かないと判断するや、背後へと振り返るといつの間にやら管制室内に入って来ていた小柄な人影に問い掛ける。

「ふむ……キミの意見はどうかな?」

 ごくごく軽いいつも通りの口調。
 今日のランチを尋ねるような気軽さで放たれた問いに、小さく肯定の返事が返る。

 ロイドが再びへらりと笑い、セシルの眉間に深い皺が刻まれた。

「決まりだね。
 それじゃ近いうちに適当な戦場を選んで始めるからよろしくね」
「分かった」

 新たなステージへと進む通達に、告げられた本人――マオ・ゴットバルトは簡潔な了承を返すと、纏っていた騎士服の上にジャケットを着込み踵を返す。
 その背へと、なにか言いたそうに向けられたセシルの視線が突き刺さるが、それが言語化されるよりも先に、彼女の背後で静かにドアが閉まっていった。



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―― 西暦一九九七年 四月六日 L5・『アヴァロン・ゼロ』 ――



 秘匿研究区画からキャメロット専有区画へと続く通路に規則正しい足音が響く。
 キャメロット内でも未だ少数派である騎士服の上にジャケットを纏って通路を進んでいたマオが、不意にその歩みを止めた。

 十数メートル先のベンチ、キャメロット用のシミュレーター・ルーム前に置かれたソレの上に、ぐったりとした様子で腰かけている知り合いを視認した彼女は、軽く小首を傾げると少し増速しながら歩みを再開する。

「レオン?」

 涼やかな声が、肩で息をしている衛士強化装備を身に着けた少年――レオン・クゼへと掛けられる。
 ノロノロと上げられた視線の焦点が、ゆっくりと調整されていき、やがてようやく相手が誰か分かったのか、掠れた声が絞り出す様に響いた。

「……マオ……か……」

 幽鬼の様なとでも言いたくなるほど青くやつれた顔が、少女へと向けられた。
 体中の水分を絞り取られたかの様に皹割れた唇が痙攣するように動くが、そこから先が言語化される事は無い。

 見ればその手には、水分補給用のドリンクが握られていたが、口を着けた様子は見えなかった。
 恐らくは、液体であれ何であれ、飲めば吐き出す程に消耗しているのだろう――と、自身の経験に照らし合わせて判断したマオは、首を上げるのも辛かろうと彼の前にしゃがみ込むと改めて見上げる姿勢で声を掛ける。

「大丈夫?」
「――っ!?
 だ、大丈夫だっ!?」

 何故か驚きに眼を見開いた少年は、嗄れていた筈の声を振り絞り、同時に飛び退く様に後ろへ仰け反った。
 思いもよらぬ反応と、想定外の元気さに、マオは再び小首を傾げるが、良く見ればその顔色は未だに青い。

「顔が青い。脂汗も出ている」
「大丈夫! 大丈夫だからっ!!」

 不審そうに更に顔を近づける少女と、更に狼狽の度を深めならがも彼女をチラ見する少年。
 その原因――見下ろす形になったジャケットの合わせ目から覗く大きく形良く実った膨らみを目の当たりにし、レオンの顔が真っ赤に染まる。

 マオの双眸に困惑の色が滲んだ。

「今度は赤くなった?」
「それはオマエがっ!!」

 本当に不思議そうに首を傾げる少女に、無意識かつ一方的に追い詰められた少年の悲鳴が上がる。

 キャメロットが独自に開発した装備――通称『騎士服』は、世界で広く採用されている衛士強化装備ほど露骨に身体のラインが出る造りではないのだが、それでもスキンタイト系の装備であり、それなりに体形は分るのだ。
 特に彼の幼馴染の少女の様な主張の激しいプロポーションの持ち主の場合、それは顕著なのである。

 まあハッキリ言ってしまえば目の毒、或いは、素直に言うなら眼福な光景が、彼の血圧を大きく押し上げる中、そんな年頃の少年(レオン)の心の機微にはとことん疎い純粋培養な少女(マオ)は、疑問のポーズ――腕を組み、頬に手を当て考える仕草を見せた。

「――っ!?」

 更に強調される双丘に、思わずクラッと来る。
 このままではマズイ――そう直感したレオンは、残された体力の全てを吐き出す勢いで叫んだ。

「と、とにかく! 大丈夫だっ!!」

 決死の形相で、そう言い募る少年を、数瞬、見定める様に見上げていたマオは、やや不満そうな表情を浮かべつつ不承不承頷いた。

「……そう」

 呟く様にそう言うと、静かに立ち上がる。
 吸い寄せられる様に――多分、胸ではなく――マオを見上げるレオン。

 そんな彼へと、柔らかな声が降って来る。

キャメロット(ウチ)の訓練は厳しいけど必要な事。
 必ず、後で役に立つと父上も言っていた」

 そこに籠る労わりと励ましの念が、色々な意味で消耗し切っていたレオンの中に活力と成って沁み込んでいく。
 先程まで、指一本動かせないと思っていた筈の身体が、喉が、軽やかに動き出した。

「ああ、この程度でへこたれやしねぇさ」

 そう言いながらガッツ・ポーズを取って見せる。
 今なら本当に何でも出来そうな気分だった。
 父の勧めを袖にしてまで此処に来た初心を、今更ながらに思い出す。

 あの日、あの時、出会った『あの方』に憧れた。
 そして『あの方』の歩みを憧憬と共に見ている内に、いつしかそれだけでは満足できなくなっている自分に気付いた。

 ――あの方と一緒に。

 溢れ出た想いは至極単純だった。
 『あの方』の歩く道を共に歩みたい。
 
 ただそれだけだ。
 ただそれだけの為に、開かれていた軍エリートへの道を捨て、父が、祖父が、血を流し、塗炭の苦しみを味わいながら築き上げて来たクゼ家と決別し、此処へとやってきたのだから……

 ――この程度で、へこたれていられるか。

 そんな負けん気がレオンの中で、再び燃え上がり、それがマオにも伝わったのだろう。
 安堵の色を滲ませながら、この寡黙な少女には珍しく柔らかな笑みを浮かべると、激励の言葉を口にした。

「その意気。 頑張れ」
「応っ!」

 力強い返答が、マオへと返される。
 汗も退き、顔色も平常に近くなったのを見て取った少女は、安心したように一つ頷くと踵を返した。

 歩み去るその背を、感謝と共にレオンは見送る。
 その視線が何時の間にか、ジャケットの裾から覗くフリフリと揺れる形良いお尻に引き寄せられてしまったのは、まあ年頃の少年にしてみれば仕方のない事だったろう。
 百人いれば九十九人は、そういって苦笑し済ませる筈だ。
 そうただ一人の例外を除いて……

 彼――レオン・クゼにとっての本日最大の不幸は、その唯一の例外が直ぐ近くで事の次第を見聞きしていた事と言えるだろう。

 ボォ〜っとした様子で、遠ざかる幼馴染を見送る彼。
 そしてその姿が、曲がり角の向こうへと消えた瞬間、音も無く忍び寄っていた不幸は、彼へと襲いかかる。

「――っ!?」

 唐突に両肩に載った重荷。
 同時に万力で締めあげられるような激痛が、肩の骨を軋ませた。
 いきなりの出来事に、思わず悲鳴を上げかけるレオンだったが、背後から響いたおどろおどろしい声が、それを呑み込ませる。

「クゼ訓練兵……貴重な休憩時間に我がむ――いや、女の尻を追うとは、まだまだ余裕という事だな?」

 ひいた筈の汗が、ぶわっと滲み出るのを少年は自覚する。
 思わず逃げ出そうとする身体を、肩を鷲掴みにした背後の人物が強引に押さえ込んだ。

 押し潰されそうな重圧の中、油の切れたカラクリ人形の様にぎこちない動きで、レオンは背後を振り返る。

 ――鬼が居た。

「……い、いえ……そ、それは……そのぉ……」

 声が震える。
 先程の高揚がまるで嘘のようだった。
 それ程までに、いま眼前に居る『鬼』は怖かった。

 救いを求める視線が、縋る様に『鬼』の背後に居る坂井副長へと向けられるが――逸らされる。

「…………」

 絶望的な状況に、青を通り越して、白に変わるレオンの顔色。
 それを嘲笑う様に、『鬼』がニヤリと嗤った。

「みなまで言うな!
 貴様が、今の訓練では物足りないと言う事は良く分かった」

 と一方的に決めつける。
 思わず反論が上がり掛けるが、それを圧殺するかの如く、肩を締め上げる力が凶悪なまでに強くなった。
 余りの痛みに眼の前が一瞬白くなる。そして――

「この私――ジェレミア・ゴットバルトが、直々に、徹底的に鍛え上げてやろうではないかっ!」

 ――『鬼』の咆哮が、白い世界に轟々と響いた。



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―― 西暦一九九七年 四月十八日 帝都・山百合女子衛士訓練学校 ――



 教壇に立つ真田教官の声が、講義室内に広がっていく。

 そんな中、生真面目一筋な筈の唯依は、ノートを取る事も忘れ、独り胸中で頭を抱えていた。

『……うぅ……あの方が……あの方が……煌武院悠陽様だったなんて……』

 思い出すのは先日の入学式。
 演壇へと昇った見覚えのある――あり過ぎる人物。
 そして一瞬、本当に一瞬だけ、だが間違いなく自分だけに向けられた視線と笑顔。

『ルルーシュ様も、ルルーシュ様です。
 一言くらい教えて下さっても良いではないですか!』

 ――なんだ、知らなかったのか?

 シレっとした声で、恨み事に切り返された事を思い出しながら、唯依は独り苦悩する。

 紅蓮中将の姪として紹介された『あの方』にした数々の無礼な振舞い。
 表沙汰になったら篁家がお取り潰しになりかねないという事実に、目の前が真っ暗になった唯依に、彼女の許婚は平然とした口調で、『それは無い』と断言してくれたのだが、あの入学式から数日は、心配で心配で夜も眠れなかったものだ。

 あれから既に十日余りが過ぎ、その後、何の音沙汰も無かった事から、やや落ち着きを取り戻しつつある唯依であったが、それでも常とは大きく異なる様子に、友人である三人娘も困惑と興味を押し殺す事は出来なかった。

「一体どうしちゃったのよ唯依は?」
「入学式からあの調子ですからねぇ」

 ひそひそと声を潜めながら疑問を交わす少女達。
 内一人が、不意に思い付いた事を口にする。

「何かあったのかな?
 許婚の枢木様に冷たくされたとか」
「えっ?」

 打てば響く様に返った志摩子の声が、ちょっぴり、ホンの少しだけ跳ねた。
 和泉の目にからかう色が浮かぶ。

「……志摩子、声が弾んだよ」
「そ、そんな事はっ!」

 友人の突っ込みに思わず少女はうろたえる。
 彼女にしてみれば、そんな不純な気持ちは無いのだ。

 ……無いのだが、友人の許婚に対し、『格好いいな』とか、『素敵だな』と思う気持ちが少しだけあるのは事実。
 まあ年頃の乙女なら、掃いて捨てる程はある程度のちょっとした好意というか憧れレベルの感情はあった事が、彼女をあたふたとさせただけなのだが、格好のからかいネタを提供してしまったのは間違いなかった。
 安芸の眼に、楽しそうな色が滲み――

「確かに弾んだなぁ。……まあ確かにとびきり佳い男だとは思うけどさぁ、友達の許婚に色目を使うのは――っ!?」

 ――不意にそれが消え、声が途切れた。

 自身の背後を見て、ピキリと固まった友人の姿に、からかわれて頬を染めていた志摩子の顔に不審そうな色が浮かぶ。

「安芸?――ひっ!?」
「……志摩子、そこの処、じっくり聞かせてくれないかしら?」

 いきなり肩に食い込んだ誰かの指先に、思わず悲鳴を上げた少女の背後から、じっとりと湿った声がかけられた。
 振り返らずとも分かるその声の主に志摩子の整った貌が引き攣る。

 挙動不審に陥っていても、友人の恋敵探知機(レーダー)は健在だったようだ。
 不埒な事を考えていると認識された彼女の肩をガッチリ鷲掴むと、有無を言わせぬ気迫をまとい追及してくる唯依に、志摩子の声が震えを帯びる。

「ゆ、唯依?」

 ギギッとばかりに、ぎこちない動作で振り返った志摩子と眼だけが笑っていない完璧な作り笑いの唯依が向かい合い、そして……

「そこぉっ!! 何を騒いでいるかぁ!?」

 教壇に立つ真田教官の怒声が、講義室内一杯に響き渡った。

「――っ!?」
「は、はいっ!」

 横合いからの不意打ちに、一杯一杯になっていた志摩子は完全にフリーズ。
 対して、攻め手であり精神的に余裕のあった唯依は反射的に立ち上がってしまう。
 必然的に講義室の視線は、彼女一人に集中してしまう訳で……

 眼帯をした強面の教官の鋭い視線が、射抜く様に彼女を見据える。

「ほぉ……篁……篁 唯依。譜代武家の篁家の者か」

 ドスの利いた声が、彼女だけでなく訓練生全員を打ち据える様に響く。
 思わず首を竦める一同を一瞥した真田は、数瞬、思案するような顔をしてからおもむろに口を開いた。

「では篁訓練生、BETAの名前の由来を言ってみろ」

 それで騒いだ事は不問にする――と言外に告げる教官に、唯依やその友人達は、ホッと胸を撫で下ろし、それ以外の者達の内の幾らかは不満そうな表情を浮かべた。

 譜代武家の当主という地位に、教官が遠慮したと思ったのだろう。
 思いのほか軽いペナルティーに、不公平だという思いを露骨に顔に出す者達を、脳裏でチェックしつつも、真田はその点を訂正したりはしなかった。

 良くも悪くも何かと曰くのある篁家の娘。
 恐らく、今後の訓練生生活の中でも、何らかの形でトラブルの元となる可能性が高い事は教官達の予想の範囲内でもあり、早い段階で訓練生内での彼女の大まかな立ち位置を把握しておく事は、以後の教練をスムーズに進ませる為にも有用と判断したからだ。

 そんな真田の思惑が読める程、人間として熟達していない唯依は、予想外に軽い罰に内心で困惑しつつも、質問に答えるべく口を開く。

「ハ、ハイッ!
 BETAの名前の由来は、えと……人類に……対して敵対的な――」

 混乱する思考を取り纏め、所々で言い淀みながらも、頭の中に入っている知識を言葉に変えていくが、その動揺を嘲笑うかのような冷たく澄んだ声が彼女の後方から響いた。

「『Beings of the Extra Terrestrial origin which is Adversary of human race』――人類に対し敵対的な異星起源種の略称が由来ですわ」

 自分が言わんとしていた事を先取りされ、驚きに眼を見開きながら背後を振り返る唯依。
 そんな彼女を見下すように長髪の美しい少女――山城 上総は、微かな冷笑を浮かべながら唯依を見詰め、否、睨み返して来る。

 ぶつけられる明白な敵意。
 その意味も理由も理解できなかったが、無意識に唯依も反発し睨み返す。

 美少女同士の無言の鍔迫り合いが、講義室内の緊張を一気に高めようとする中、無骨な男の声が、彼女等の間に割って入った。

「……篁、座って良し。
 あと山城 上総訓練生、私は貴様に質問はしていない」
「……はい」
「申し訳ありませんでした」

 声に籠る不快の念を察したのだろう。
 唯依は面目無さそうに肩を落としながら、一方の上総は微かに眉を顰めつつも、どちらも同じく頭を下げた。

 喧嘩両成敗――表面上は、それで一応の決着は付く。

 だが、双方共にわだかまりが残ったのは明白だった。
 上総はその後も鋭い眼差しで唯依を睨み、唯依は唯依でその視線に敏感に反応する。

 互いが互いを意識していくその様を、強面の表情を取り繕ったまま観察していた真田は、胸中で小さく呟いた。

『……篁に、山城か……』

 譜代武家の中では色々と曰く付きな篁家と外様とはいえ多くの衛士を排出し経済的にも恵まれている山城家。
 特に山城家にしてみれば、世が世なら自分達も譜代武家に名を連ねていた筈との思いもあるらしく、その分、上の家格の者達への対抗心が強いらしいと聞き及んでいた真田は、上総の唯依に対する態度も、そんな家の空気を吸って育った者特有の反発心かと分析する。

 ――真田の口元に、微かな苦笑が浮かんだ。

 大陸戦線で死闘を繰り広げて来た彼にしてみれば、そんなモノに囚われている事に呆れるよりも先に同情を感じてしまう。
 あの化け物共(BETA)の前では、そんなモノに何の意味も無いのだ。
 乗っている機体が、白だろうが、山吹だろうが、或いは赤だろうが関係ない。

 強ければ生き残り、弱ければ死ぬ。
 運が良ければ明日を迎え、運が無ければ今日朽ち果てる。

 そこに家格などという要素は絡まない。
 ……まあ、赤以上の高位武家ともなれば、お伴の者が身を挺して窮地を救うという事もあるのだろが、それとて取り巻きが尽きれば、そこで終わるだけの事だ。

 戦場を往来した者ならば、ごく当たり前に感じるその感覚も、未だ小さな世界しか知らぬ少女達には分らぬのも仕方ないかと思い、そしてそんな少女達を戦場へと駆り立て様としている己を真田は自嘲する。

『どちらもまだまだ子供。
 ……こんな子供達を、兵士として戦場に送り出さねばならんとはな』

 順調に行けば数年後には、彼女等は戦場に立つだろう。
 そしてその大半は、野辺に躯を晒す事すら無く、化け物共(BETA)に食い殺されるか、自ら命を断って骨すら残さず消え去るかだ。

『…………』

 やり切れない思いを隠す様に、黒板へと向き直った真田は、生徒から見えぬのを幸いに小さな溜息を吐いた。

『……叶う事なら、そんな日が来ない事を願いたいものだ』

 叶わぬと承知の上で、それでも叶わぬ願いを、男は小さく呟いた。



■□■□■□■□■□



―― 西暦一九九七年 四月二十七日 帝都・二条城 ――



「――煌武院としては、殿下の提案を受け入れる事は出来ません」

 二条城の最奥、元枢府の会合が開かれている会議室内に、若々しく凛然とした声が響いた。
 上座に座す現将軍・斉御司経盛と真正面から向かい合いながら、そう言い切った悠陽へと鬱陶しげな視線が返される。

 しばし双方が睨み合う中、荘重な壮年の男の声が、威圧感と共に重々しく放たれた。

「心得違いをせぬ事だ。
 そもそも我は、煌武院の承認など求めてはおらん」

 暗に他家の出る幕では無いと仄めかしながら、言い切る斉御司に悠陽は躊躇う事無く切り返す。

「事は斯衛軍の体制そのものに関わる事。
 如何に殿下であれ、独断で事を決するのは乱暴すぎると申し上げているのです」

 そう、如何に現将軍であれ、そこまでの独断が許される筈も無い。
 斯衛には、各五摂家毎の派閥というものも存在する以上、その有り様を大きく変える事は、将軍の権威を以ってしても容易ならざる事なのだから。

 そうやって反対を主張しながら、同意を求める様に周囲を見渡す悠陽。
 だが思いの外、他の三家の反応は鈍い――否、悠陽と将軍の言い争いを冷徹な視点で測っているというべきか?

 彼等にしてみても、今回の会議でいきなり経盛が出してきて提案には、頷き難い物が在るのは確かだが、まだその損得勘定まで行きついていない以上、頭から反対するのは自家の立場からも避けたかったのだ。
 そんな中、一番歳若い悠陽が、率先して反対の論陣を張ってくれている事は、彼等にしてみれば有り難かったのである。

 悠陽との論戦で、経盛の本音の一部なりと垣間見えれば、そこから今後の対応を考える事も容易くなる筈。
 そんな思惑からも、沈黙を保ち成り行きを見守る三家の前で、悠陽は真っ直ぐに経盛と対峙したまま、堂々と否定の弁を述べる。

「そもそも法的にも許されません。 民間企業を強引に斯衛軍に組み込むなどと言う暴挙は」

 そう、そんな事は許されない。
 内心はどうあれ、法の下、それを順守して活動している私企業を、勝手に軍に取り込むなど、現政府も肯ずる事はないだろう。

 そういった意味でも経盛の提案――枢木傘下の民間軍事会社(PMSCs)キャメロットを斯衛軍に吸収する――は、無謀であり、はっきり言ってしまえば荒唐無稽でもあった。

 以前から、枢木を傘下に戻そうと躍起になって画策していた事は、鎧衣から聞き及んでいたが、ここまで強引な動きに出るとは、流石に予想もしていなかった悠陽は、胸中で訝しさを感じつつも、その心底を見極めるべく経盛を凝視する。

 両者の視線が、虚空で衝突し、火花を散らした。
 無言の睨み合いが暫し続き、やがて一方が忌々し気に視線を逸らしながら吐き捨てる様に言い返す。

「彼の家は、我が斉御司の一門。
 主命とあらば、喜んで馳せ参じよう。
 自らの意思で、献上するとあれば、法に問われる事も無い」
「有り得ません」
「「「「―――っ!?」」」」

 経盛の主張を、悠陽が一言の下に斬って捨てた。
 あまりにも躊躇いの無いその言い様に、場の空気が一瞬固まる中、昂然と胸を張りながら、彼女は言葉を紡ぐ。

「殿下も、本当はお分りの筈。
 彼の家――いえ、あの方が、その様な真似をする筈も無いという事を」

 ただひたすらに真っ直ぐな物言いに、気圧される様に経盛が口籠った。

 悠陽自身が言い切った様に、あの不忠不遜な家が、そのような殊勝な真似をする筈も無い事など、彼にとっても分り切った事でしかない。
 今回の提案も、これまで数度に渡る呼び出しにも応ずる事無く、平然と斉御司の権威を無視するあの無頼漢に、痺れを切らしたが故の警告であった。
 五摂家全ての総意という形を取る事で、枢木への圧力を強める事こそが目的であり、本気で斯衛軍に組み込もうなどとは発言した経盛自身微塵も思ってはいないのだから……

 とはいえ……だ。

 彼には彼の立場、それも非常に大きく重いモノが在る以上、悠陽の断定を受け入れる訳にはいかなかった。
 この小娘の言葉は、裏を返せば、斉御司は枢木を従える器ではないと言っているに等しく、それは五摂家の一角としての権威を大きく損なうものである。

 ……である以上――

「……悠陽よ。 それは煌武院家当主としての発言と取って良いのだな?」

 ――その点について、強い口調で詰問するしかないのだった。

 斉御司の鼎の軽重を、煌武院の当主が断ずるのかとの意と威を込めて強く悠陽に迫る。
 すなわち、煌武院の意志として、斉御司と事を構えるつもりなのか――と。

 単なる口先だけでの争いではなく、斉御司と煌武院の全面戦争の引き金を引く気なのかと、暗に問うその詰問に、他の三家もハッキリと纏う空気を緊張させる。

 表向きとはいえ、協調して帝国の舵取りをしてきた筈の五摂家。
 その関係に明確な終焉を突き付けるのか否かを問う問いだ。

 生半可な答えでは、かえって答えた方の不利になるであろうその問いに、悠陽は一つだけ深く息を吸い込むと、再び面を上げて将軍と向かい合う。
 覚悟を決めた眼差しが、真っ直ぐに経盛を射抜いた。

「言うまでもありません」

 シンと会議室内の空気が鎮まった。
 耳が痛くなる程の静寂の中、ただ五人分の息遣いのみが広がっていく。

 己の予想を完全に裏切る明確な返答に経盛が凍りつき、他の摂家の面々も驚愕に固まる中、ただ一人、斑鳩崇継のみが面白そうに口元を綻ばせた。

『……ふむ……まだまだ子供と思うていたのだがな』

 そう胸中で呟きながら、悠陽に対する評価を修正する。
 悠陽の言が、勢いに任せての売り言葉に買い言葉などではなく、彼我の立ち位置、勢力まで念頭に置いた上での物である事を充分に理解した上での事だ。

『いかに殿下とて、煌武院としての意見を完全に無視する事は叶うまい』

 それほどの力は、今の将軍には無い。
 五摂家の力の均衡の上に、政威大将軍が在る以上、その一角である煌武院と真正面から争うのは得策とは言えぬのだ――少なくとも今は。

 そういった視点から見れば、悠陽の対応は充分に評価に値する。
 もし、政威大将軍の看板に遠慮して、温い返答を返していたなら、悠陽のみならず、煌武院家そのモノが五摂家内で侮りを受ける事になっただろう。

 だが、彼女はそんな愚かな選択はしなかった。
 将軍の恫喝を、真正面から受けて立ったその態度に、感心する事はあれ、侮りを受ける要素はない。

『――さて、どうこの局面から切り返される気か?』

 そんな意地の悪い興味を抱きつつ、斑鳩は将軍へと視線を注いだ。

 煌武院が、ここまで堂々と異を唱えた以上、将軍の側にもそれなりの対応が求められる。

 権威に任せて怒鳴り散らすのは下策。
 さりとて、このまま流すのは、将軍・斉御司経盛の株を大きく下げる事になる。
 上策は、理を以って悠陽を論破する事だろうが……

 と、そこまで思考を推し進めた斑鳩の眉がヒクリと動いた。
 同時に、厳重に閉ざされていた元枢府の扉が、荒々しい音と共にいきなり開かれる。

「「「「「――!?」」」」」

 一同の視線が一点に集中する中、飛び込んできた城内省高官が、真っ青になったまま叫んだ。

「し、失礼致します!!」

 上座より怒気が湧き起こり、同時に斑鳩の唇が皮肉気に歪んだ。

「何事か、元枢府の会議中ぞ!?」

 怒声が高官へと叩きつけられる。
 その中に微かに滲んだ安堵の念に、ただ一人を除き気付く事は無く、当然、怒鳴りつけられた当の高官はと言えば、既に青を通り越し紙の様に白くなった額に冷や汗を滲ませながら、その場に平伏した。

「ハッ! 申し訳ありません。 ――ですが、事は一刻を争うこと故……何卒、何卒」

 なにかと事無かれ主義、先例主義に走る事の多い城内省の役人が、珍しく食い下がる様に、一座の中にも不審の念が広がった。
 数瞬、相手を睨みつけていた経盛は、苦虫を噛み潰した様な表情を造りつつ、吐き捨てる。

「……申してみよ」

 仕方なし――言外に、その意を滲ませながら発言を許可すると、冷や汗まみれになった顔を恐る恐る上げた男は、緊張と恐怖に声を詰まらせながら急報を報告する。

「「「「「――ッ!!」」」」」

 それは無形の爆弾だった。
 元枢府内の全てを震撼させるソレに、先程までの口論などあっさりと吹き飛び、五つの視線が驚愕に塗れて交差する。

 ――重慶ハイヴより、数個軍団に達する大規模BETA群の出現及び東進開始を確認。

 この日、この時、帝国宇宙軍より届いたその一報こそが、後にこの国の全てを揺るがせる嵐の時代の幕開け告げるものとなった。



■□■□■□■□■□



―― 西暦一九九七年 五月三日 9:40 中国・長江流域 ――



『おおおおおぉぉおっ!!』
『死ね! 死ねっ! 死ねぇっ!!』
『この下等生物共がぁぁっ!!』

 荒れ果てた戦野に、戦士達の咆哮が木霊する。
 間断なく火を吹き続ける砲火が、大地諸共にBETAを打ち砕き、振るわれるスーパーカーボン製の巨大な刃が、次々と異形を切り裂いていった。

 ――しかし

『ぎゃぁぁぁあぁぁあっ!!』
『母さん、母さっ!?』
『救援を、救援をっ!!』

 それに倍する悲鳴と救いを求める叫びが、通信回線をパンクさせんばかりに溢れかえる。
 必死に防戦の指揮を執る大陸派遣軍第二軍第一機甲師団所属戦術機連隊隊長・阿佐ヶ谷大佐は、歯軋りしながら現状に対応し続けていたが、既に限界が近い事も同時に感じていた。

 六日前、突如として重慶ハイヴより出現した複数の軍団級BETA群は、幾つかの梯団に分散しつつ、長江に沿う様に東進を開始し、四日前より日本帝国大陸派遣軍との間で戦端が開かれていた。

 この日あるを予期して備えていた帝国軍であったが、その想定を更に上回る物量を、一気に叩きつけられた最前線の防衛線は、急速な崩壊の危機に晒され、その窮状を受けて派遣軍本営は、最前線よりの撤退と後方での戦力再編を決定。
 殿を任された阿佐ヶ谷の戦術機連隊と師団より借り受けた砲兵大隊による混成部隊は、部隊の撤退を支援すべく、孤軍奮闘し今に至っていたのだった。

 とはいえ、戦い続ける事、既に一両日。
 圧倒的な劣勢の中、ほぼ不眠不休での戦いを強いられてきた彼等の命運は既に風前の灯と言えた。

 外周陣地・内周陣地ともに陥ち、今は最終陣地に拠って抗戦し続けているが、それもそろそろ限界に近い。
 指揮下の部隊がボロボロとなる中、それでも戦線を支えて来た阿佐ヶ谷だったが、流石に限界と見て取ったのか、後方の師団司令部に対し通信を入れさせる。

「撤退完了はまだですか!?」

 開口一番の問いに、師団長の顔が苦しげに歪み、それを見た男の顔にも暗い影が差した。

『……現在、本営からの命令に従い、不要な装備を放棄した上で撤退中だが、当初の想定よりも進捗が遅れている……アレ(・・)さえなければな……』

 溜息混じりの返答に、阿佐ヶ谷も苦い吐息を漏らす。

 本来なら既に撤退は完了していてもおかしくなかったのだ。
 長江という大水脈を利用した補給路を整備していた帝国軍にとって船舶を使った大量輸送による撤退自体は、充分、想定の範囲内に収まる筈だったのだが……

 予想外の要因――いずこからか湧いて出て来た避難民の乗る小舟の大群が、長江の川面を埋め尽くさんばかりに広がり、苦労して整備していた筈の輸送路を随所で寸断していたのである。

 海と見間違いかねない川面に、軍の警告と反発の怒号が行き交う情景を脳裏に思い浮かべた阿佐ヶ谷は、苦り切った表情のまま訊かねばならぬ事のみを問うた。

「……あと、どの程度の刻を稼げばよろしいのでしょうか?」

 今の彼にとっては、それだけが問題だった。
 撤退に関する作業は、師団司令部に丸投げし、それが叶うまでの時間を稼ぐ事にだけ注力している現状では、それ以上の事に気を回す余裕など無かったのだから。

 そんな彼の必死の問い掛けに、師団長の顔色は更に悪くなった。
 数瞬、躊躇った後、絞り出すような声が、通信機越しに男へと返される。

『……最後尾の部隊の撤退完了まで、およそ十二時間と見積もられている』

 一瞬、阿佐ヶ谷の視界が真っ暗になる。
 現状からみて、到底不可能と言える時間に、奥歯がギリリッと鳴った。

 両者の間に、暫し沈黙が落ちる。
 前線の状況は、師団司令部にも伝わっているのだ。
 要求が不可能事である事は、双方にとって当然過ぎる事実なのだから……

 深い吐息が、沈黙の帳を破る。
 覚悟を決めた眼差しが、モニター越しに師団長を射抜いた。

「……十時間」
『…………』

 悟りを開いた様な落ち着いた声に、沈黙が返る。
 それ以外の対応を取りようも無い上官へと、阿佐ヶ谷は吹っ切れた笑顔で静かに告げた。

「十時間だけ持ち堪えてみせます。ですから……」
『すまん……』

 互いの間に敬礼が交わされる。
 それが上官と部下の今生の別れとなった。

「――総員傾注!」

 司令部との通話を終えた阿佐ヶ谷は生き残っている全部隊に向けて回線を開かせた。
 死線を繰り広げる彼の部下達が、わずかな意識を裂いて、それに応じる中、いっそ淡々と言いたく成る程、落ち着いた口調で彼は語り出す。

「これより我が隊は、最後の攻勢を開始する」
『『『『…………』』』』

 返るのは沈黙のみ。
 現状を肌で感じていた面々も、無意識の内に悟っていたのだろ。
 不思議な程に反発する声も意思も伝わってはこなかった。

 守ったところでジリ貧。
 それどころか、このまま陥落寸前の陣地に籠った処で、圧倒的な優勢を保つBETA群の一部が、陣地を迂回して撤退作業中の部隊に襲いかかる恐れすらあった。

 打って出て、一時的にでも良いから押し返す。
 それ以外に、時間を稼ぐ術は既に無くなっていたのだ。

 一つだけ深く息を吸い込んだ男は、ゆっくりと、だが間違えようも無い程、明確な命令を下す。

「まず敵BETA梯団後方に位置する三つの光線属種群の排除を最優先とする。 ……無論、生半可な手段では、分厚い敵陣を抜ける事は叶うまい」

 さりとて迂回している余裕は無かった。
 そんな真似をすれば、例え迂回に成功したとしても、それ以前になけなしの戦力を光線級吶喊に割いた防衛線が圧力に押し負け瓦解する。

 ―――ならば。

「――アックス、ドライジン、チェリーブロッサム」

 男の喉を、この為(・・・)に温存してあった麾下の三小隊名が通り過ぎ、続く言葉が一瞬の淀みを伴い放たれた。

「……貴様等に特別攻撃の敢行を命ずる!」
「「「――っ!?」」」

 連隊司令部内に隠し切れない動揺の波紋が広がる。
 それを当然として受け止めながら、男は全てを呑み込んで下命した。

「各小隊、四発の電子励起爆薬(S11)をもって、光線級吶喊の道を切り拓け!」

 常道で通じぬなら、非道、否、外道を。
 統率の外道とまで言われる非情の命令を下す彼に、命じられた側は、ただ笑って応じた。

『――特命、受領致しました』
『武人たる者、一世一代の晴れ舞台ですな』
『帝国軍人の誇りに賭けて、必ずや目玉野郎共までの道を切り拓いてご覧に入れましょう』

 他に手段など無い事を、誰もが分かっていた。
 光線級を排除し、限定的であれ、制空権を回復しない限り、戦力に於いて圧倒的に劣る自軍が、十時間に及ぶ防衛戦をこなせる筈も無いと。

 それら全てを承知の上で、死んでこいと命ずる彼に、敬礼を返す部下達。
 それに答礼を返しながら、阿佐ヶ谷は軋む声で別れを告げる。

「高津、大里、館林――九段で会おう……」

 そう彼らだけを死なすつもりはなかった。
 例え光線級吶喊が成功し、制空権を一時的に握れたにせよ、彼我の戦力差を考えるなら、死力を振り絞って尚、十時間の持久はギリギリなのだから――だからこそ。

「連隊司令部は放棄する。
 各隊への情報伝達は、以後、後方の師団司令部に移管。
 戦術機・装甲騎(KMF)以外の連隊員は撤退し、師団司令部に合流せよ」
「「「れ、連隊長!?」」」

 再び同様の波紋が広がるが、それらを無言の圧力で押しつぶした男は、最後に一度だけ頭を下げた。

「すまんが大した護衛は付けてやれん。
 司令部直掩の中隊は、私と共に前線に出てもらう」

 有効に使える戦力は全て出し、今この場で役に立たぬ戦力は、後方へと逃がす。
 明確な生命の選別を告げながら、阿佐ヶ谷は部下達へと敬礼を示した。

「……今まで良くやってくれた。感謝する」

 そう言い残して連隊司令部を後にする彼の背を無音の悲鳴が叩くが、その歩みが止まる事はなかった。
 無情に閉まったドアを前に、啜り泣きの声が司令部内に満ちる中、複数の戦術機が飛び立つ音が響く。

 選ばれた三個小隊・十二機からなる特別攻撃隊の飛び立つ音だ。

 決死――否、『必死』の覚悟と共に飛び立っていく衛士達の奏でる葬送曲が、彼等の未練を断つ契機となる。
 我に返り涙を拭った司令部要員達は、マニュアルに従い、連隊司令部を放棄、撤退を指示された他の隊員達と共に、残された火砲を自動制御に切り替え、その他の装備の大半は遺棄して可能な限り身軽になるや残された車両を使い荒れ果てた最終陣地を後にした。

 その車列を戦術機の管制ユニット内から見送った阿佐ヶ谷は、小さく安堵の吐息を漏らすと、次の瞬間、その表情を引き締め最後に残った部下達へと檄を飛ばす。

「――我等は此処で散る。
 だが、我等の奮闘と献身は、決して無駄にはならない」

 無数の雄叫びが、同意するように湧き起こった。

 そう決して犬死などではないと。
 今日、自分達が身を挺して逃した者達は、きっと明日の反攻の刃となるのだと。

 皆が皆、そう信じている。
 例えそれが、何の根拠も無い思い込みであろうともだ。

 そんな面々の想いを束ね、言葉に乗せて、男は断言する。

「我等、帝国の――いや、人類の未来を拓く礎とならん!」

 その言葉を裏打ちするかの様に、ヒタヒタと押し寄せる忌まわしき化け物達の大群の前面に巨大な爆炎が生じた。
 荒れ狂う炎が戦車級や兵士級の群れを一瞬で焼き尽くし、吹き荒ぶ爆風と礫の豪雨が要撃級、突撃級の区別なく吹き飛ばし、穿ち、切り裂いていく。

 異形の津波に、三つの破孔が穿たれ、その動きを数瞬押し留めたその瞬間、覚悟を決めた者達の咆哮が戦野に木霊した。

「突撃っ!!」

 その一声を合図に、光線級吶喊を任された元第二大隊二十余機が、生命をもって舗装されていくか細い三つの隧道目掛けて突進し、残された戦術機・装甲騎(KMF)達も、それを掩護すべくありったけの砲口を開き前進を開始する。
 後方に遺された火砲群が、自動制御の下、機械的な砲撃の雨を降らせる中、醜悪怪異な軍団と機械仕掛けの巨人達が激突し、同時に、敵梯団に深く食い込んだ箇所で、二度目の爆炎が三つ湧き起こった。



 ――そして



「うぉぉおおぉぉおっ!!」

 文字通り血を吐く叫びと共に、愛機に残された左腕で振り切った最後の一撃が、要撃級の白い巨体を真っ二つに叩き割った。

 ドゥッ――と重々しい音と共に、異形が大地に沈み、同時に愛機・不知火の胴に深々と食い込んでいた前腕が、ズルズルと抜け落ちていく。
 管制ユニット内に、勝利の雄叫びは響かず、ただ咳き込む声と共に、液体が飛び散る濡れた音が陰々と響いた。

「かはっ……ゲホッ……くっ……」

 真っ赤に染まった口元を、まだ辛うじて動く左手で荒っぽく拭いながら、阿佐ヶ谷は網膜に投影されるブレた映像の一角を注視する。
 その顔は出血多量の所為で白蝋のごとく白く、額にはじっとりと脂汗が滲んでいた。

「……八……時間……か……」

 最後まで踏み止まっていた師団司令部撤退の報を受けたのが、およそ一時間前。
 以後通信も途絶したが、未だ安全圏に逃れたとは言い難いところだ。

 だが――

 わずかに下がった視線に、赤黒い戦車級の遺骸に埋もれた装甲騎(KMF)達の残骸が映る。
 最後まで自分に付き従い、群がり来る小型種の大群と相打って果てた部下達の姿に、枯れ果てたと思っていた涙がジワリと滲んだ。

 周囲を見渡せば既に立っている機影は、己の機体のみ。
 壊れかけの網膜投影に映るマーカーにも、自軍を示す光点(フリップ)はたった一つだけだった。

「……無念……」

 自分の部隊――日本帝国大陸派遣軍第二軍第一機甲師団所属戦術機連隊の全滅(・・)を、その眼で見届けた男は、そこまでして尚、果たす事が叶わなかった使命を前にし慟哭する。
 部下達全ての生命を捧げてさえ、わずか十時間程度の時間すら稼ぎだせなかった事に絶望し、既にそれを覆す力は己には無い事を嘆いた。

「……申し訳ありません」

 今にも消え入りそうな謝罪の言葉と共に、辛うじて立っていたボロボロの不知火が、大地に崩れ落ちる。
 仰向けになった機体の随所で、青い火花が散っていた。
 このまま行けば、遠からず残された燃料に引火し、爆発炎上する事だろう。

「……それは、流石に芸が無いか……」

 苦しい息の下、男の口元に苦笑が浮かぶ。

 敵前衛群集団の光線級は、特攻とそれに続く決死の光線級吶喊で潰した。
 それに続く乱戦で、敵前衛の三割方は削れたとも思う。
 例え焼け石に水であれ、もう少し、あと少しだけ削っておけば、敵の追撃を鈍らせ、撤退中の味方の損害を少しは抑えられるかもしれない。

 そんな儚い望みを託し、感覚が失せ始めた左手を電子励起爆薬(S11)の起爆スイッチへと延ばした。
 透明なカバーの上に、赤い手形が付く中、阿佐ヶ谷は周囲からにじり寄って来る化け物共と、自身と愛機の寿命を秤に掛けて機を伺う。

 ――出来るだけ多く、一匹でも多く道連れに。

 そう念じながら、電子励起爆薬(S11)の効果範囲に入って来る敵の光点(フリップ)を凝視する。

 欲を掻き過ぎれば自滅するだけ。
 だが急ぎ過ぎては意味が無い。

 遠ざかりかかる意識を、必死に繋ぎ止めながら、最良のタイミングを測っていた男の機体に、赤い戦車級が群がって来た。

『今だっ!』

 最早、動かなくなった喉が微かに震え、左手が僅かに上がる。
 そして残された全ての力を込めて、それを振り下そうとした瞬間、『ソレ』は降って来た。

『――っ!?』

 視界全てが覆い尽くされる。
 輝く翠色の光に。

 降りしきる豪雨の様に、無数の光の羽が降り注ぎ、そして大地に在る物全てを切り裂いていく。
 要撃級も、突撃級も、戦車級も、闘士級も、兵士級も、そして巨大な要塞級すらもが、降り注ぐ光の雨の中、穿たれ、切り裂かれ、ズタズタの肉塊となって大地に沈んでいった。

 唖然とした男の眼が、天を仰ぐ。
 この奇蹟の様な出来事の根源を探す様に、宙を彷徨う視線が一点で止まった。

「……て……んし……」

 輝く光の翼を背負うモノ。
 白銀に煌めく鎧を纏った巨人を見上げながら、動かなくなった筈の男の口が微かな呟きを漏らす。

 彼自身、キリスト教徒という訳ではないが、昔、観光に訪れた神戸の教会でみたステンドグラスに描かれた神の使徒――それを想起させる姿に、思わず漏れた呟きも、数瞬の自失から返るや、自らそれを否定する。

「戦……術機……?」

 天空を舞う巨人は、神の使徒に非ず。
 人の手になる人造の巨人、己が今乗っている物と同じ――否。

『……アレ……は……』

 遠い記憶が刺激される。数年前の物だ。
 自分は、アレ(・・)を見た事があると……

 今も記憶に残る白い機影。
 斯衛軍の誇る瑞鶴五機を、たった一機で苦も無く捻り潰した白き騎士。

 今、天に在るアレ(・・)が、あの白き騎士と同種の存在(・・・・・)である事を、誰に教えられるでも無く彼は悟った。

「……は……ハ……ハハッ…は……」

 男の喉が、掠れ切った笑いを紡ぐ。
 歓喜の念が、今まさに燃え尽きんとしている生命の炎を一際強く燃え立たせた。
 震える手が、渇望と共に遥か高みに在るモノへと伸ばされる。

 ――アレ(・・)が在れば。
 ――あの機体が量産されたなら。

「……じん……類…は――」

 ――勝てる!

 そう確信した男の口元に満足げな笑みが浮かび、次の瞬間、彼の機体は紅蓮の焔に包まれた。



■□■□■□■□■□



―― 西暦一九九七年 五月三日 17:35 中国・長江流域 ――



「……ふぅ……」

 群がり来るBETA共の群れを蹴散らし終えた少女は、眼下で燃え盛る戦術機を見下ろしながら小さく溜息を吐いた。
 漏れだした燃料に引火したのか、小爆発を引き起こしながら崩壊していく不知火を、微かに眉を顰めながら見ていた彼女の耳に、お気楽そうな声が響く。

『間に合わなかった様だねぇ』
「……」

 筆で刷いた様な形良い眉が、一瞬、ぴくりと動いた。
 ソレを知ってか知らずか、軽薄な口調の声が続く。

『もう少し早く着けていれば、少しは助けられたんだけどね。 いやぁ〜残念、残念』
『ロイドさん!』

 眼鏡の青年の背後で、顔を真っ赤にして怒っている女性が映っていた。
 艶やかな唇から、小さな溜息が一つ零れ落ちていく。

『まあ、KGF用エナジーウィングの実戦試験には役に立った訳だしね。
 余計な茶々を入られても面倒だし、後ろから来る化け物共の本隊は流石に数が多過ぎる。
 今回の実戦試験はこれで終了と言う事で、サッサと引き上げておいでよ』
「――了解した。これより帰還する」

 全く揺らぐ事無く、マイペースを貫く仮初の上司に、少女――マオ・ゴットバルトは、いつも以上に平坦な口調で応じ、そして通信を切ったのだった。



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―― 西暦一九九七年 五月三日 17:35 中国・長江流域 ――



『――了解した。これより帰還する』

 そう短く言い残して切られた通信を前に、心配そうな顔をしていたセシルが、一転、怒りの感情も露わにロイドへと振り返った。

「ロイドさん、少しは気を使って下さい!」

 なんて無神経な――全身で、そう主張しながら詰め寄る相方に、ロイドはヘラヘラと軽薄な笑いを浮かべて応じる。

「ハイハイ、分かりました」
「ロイドさん!」

 全く反省の色が見えないその態度に、セシルの怒りの雄叫びが響くが、柳に風といった風情で、それら全てを受け流したロイドは、彼女に背を向ける。
 あまりと言えば、あまりな態度にセシルの美貌が真っ赤に染まるが、それが彼の興味を引く事は無かった。
 憤然として、管制室から出ていくその背を横目で見送りながら、ロイドはやれやれといった風情で肩を竦めながら、胸中で独りごちる。

『まぁ……妙な事で悩ませても何だしねぇ』

 どちらにせよ、彼等の命運は尽きていたのだ。
 今はまだ、『アレ』の存在を知られる訳には行かない以上、たとえ生存者が居たとしても、口を封じなければならなかったのだから。

 その場合、手を下す役目は、あの娘のモノ。
 義父に似て生真面目過ぎるきらいのあるマオなら、命じればそれを躊躇う事無く遂行しただろうが……

『未だ情操教育中の女の子に、そんな真似をさせたら、あの方に射撃の的にされかねないしねぇ』

 そう胸中で呟いた道化た天才は、小さく苦笑を浮かべると得られたデータの整理を開始しするのだった。










―― 西暦一九九七年四月 ――

 桜舞い散る季節、辛うじて表面上の安定を保っていた大陸東方戦線に大きな動きが生じた。

 四月下旬、甲16号・重慶ハイヴより出現した二個軍団相当六万余に達するBETA群集団が師団規模の複数梯団に分散しつつ東進を開始。
 長江流域に沿って東へと進むBETA群集団に対し、この地方の防衛を担当する日本帝国軍も全力を持って応戦するも、これまでとは段違いの圧力に押し負け、ジリジリと戦線を後退させざるをえなくなる。

 事態を重く見た統一中華政府は、国連を通じて更なる国連軍の派遣――有り体に言えば日本帝国とアメリカ合衆国に対し増派を要請。
 米国内の親中派へのロビー活動の成果もあり、時の米国政府は第七艦隊を主軸とした増援の派兵を決定すると共に、日本帝国政府に対しても露骨に更なる大陸派兵の圧力を掛け始めた。

 この様な米国の動きに対し、日本帝国内における親米派の首魁と目されていた時の首相榊是親は、ただ黙って天を仰いだという。

 既に大戦力を抽出し大陸に派兵していた日本帝国としては、更なる増派は不可能では無いにせよ困難ではあった。
 軍事的には大陸における防衛戦により、帝国本土に戦火が及ぶのを避けると言う大義名分があったにせよ、数年に渡る大陸戦線での戦闘による派遣軍将兵の損耗も既に無視出来る水準になく、増大する一方の戦費負担により経済的にも苦しいという面もある。

 だがそれ以上に問題だったのが、国民の心情的な面での忌避感・抵抗感であった。

 帝国軍を態の良い傭兵扱いしようとする統一中華政府やその国民に対する派遣軍将兵の不満や鬱憤は、戦地からの手紙や電話などを通じて、どうしても国内に流布してしまう上、潜在的に根強い反米感情がソレ等に拍車を掛ける。
 この時点で、既に領土の大半を奪われた中華は見捨て、日本海・東シナ海を堀に見立てた水際防衛の戦略に切り替えるべきではないかという本土防衛論も政軍民の隔てなく声高に叫ばれ始めていたのがその証左といえる物だった。

 とはいえ、お茶を濁す様な中途半端な増援ではBETAという名の大津波に全て呑み込まれるだけとの軍事面での知恵袋であった彩峰中将の進言もあり、出すなら最低でも軍団規模の機甲戦力を投入するしかない事を榊自身が理解していた事が、結果として彼の逡巡を深める結果となり、この時期の帝国は政府・軍共に、その動きに精彩を欠いていく事となる。

 だが事態は、決して帝国の決断を待ってなどくれなかった。

 ――翌一九九七年五月、更なる激震が大陸に走る。

 甲14号・敦煌、そして甲17号(・・・・)・ウランバートルの両ハイヴより、それぞれ一個軍団規模のBETA群が出現。
 既に東進を開始し、長江流域にて日本帝国軍・統一中華軍と死闘を繰り広げていた重慶発のBETA群集団とは別方向、大陸の東北地方へ向けて進撃を開始した事が米軍及び帝国軍の監視衛星網により確認され、帝国政府と軍は一時恐慌に陥るも、それすら前座に過ぎなかった事を否応無しに思い知らされる破目になる。

 その一報より十日後、四分五裂しかかる国論を強引に取りまとめ、なんとか第二次大陸派兵決定まで漕ぎ付けた首相官邸にトドメとも言うべき凶報が舞い込んだのだ。



 ――甲1号・喀什オリジナルハイヴより、推定七個軍団、二十万を越えるBETA群の出現及び東進開始を確認――と。



 ……後の歴史書に日本帝国受難の時代と記される嵐の時代の幕開けだった。







 どうもねむり猫Mk3です。

 いやぁ〜〜大変お待たせしました。
 なんかもう、書けなくて書けなくて煩悶する日々でした。

 時間経つの早過ぎだろうと愚痴りつつ、なんとか、かんとかようやく書き上げました。

 まあ、果たしてそれだけの苦労に、そしてお待たせし過ぎた皆様に、報いる出来になりましたか……微妙に自信がないんですけどね。

 さて、嵐の時代の幕開けと言う事で、ラストを締めてみましたが、どんな感じでしょうか?

 良い感じに書けていると良いんですけどね。

 あっちこっちで色々と埋めておいた伏線も芽吹きそうですし、それらを何とか生かしたいところ。

 さてさて、どうなりますやら?

 今後にご期待頂けると嬉しいかな?

 等と言いつつ、今回はこの辺で。
 次回もよろしくお願いいたします。





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