第34話『血の記憶』


―――アヴェル。

「(ん……誰?誰かに呼ばれている?)」

誰かに名前を呼ばれ、アヴェルは重い瞼を開く。

視界がぼやける。誰かが目の前に立っている。

「アヴェル、起きろ」

「(この声―――シオンさん?)」

視界がハッキリしてくる。目の前にはシオンの姿があった

今の自分は、どうやら地面に倒れているようだ。これはどういう状況なのだろうか?

彼と訓練していて気絶でもしたのか?

「やっと起きたか。そろそろ昼食の時間だ、屋敷に戻るぞ」

「うん、シオン兄」

「(あ、あれ?口が勝手に動く……?)」

アヴェルは自分の口が勝手に動くことに驚いた。否、それだけではない身体も勝手に動いている。

何が起きている?というか、屋敷に戻る?

屋敷というのは、故郷である炎の里の生家ディアス邸のことだろうか?何時、炎の里に帰って来たのだ?

「(そういえば、さっきシオンさんのことをシオン兄とか呼んだけど……)」

意識があるのに、勝手に口や身体が動く奇怪な現象に困惑しながらもアヴェルはディアス邸の前に辿り着く。

そこには見慣れない屋敷が立っていた。アヴェルが生まれ育った生家とは全く異なる建物だった。

「(え?場所は合ってるのに、どうしてぼくの知っている屋敷じゃないんだ?)」

屋敷の扉が開き、ひとりの老執事らしき人物が現れる。初めて見る人物だ。

「シオン様、アヴェル様。御食事の御用意が出来ました」

「ご苦労だった」

「ありがとう、サーク爺」

「(誰だろう、この人?うちは人を雇ってなんかいないけど……)」

自分の知る生家はそれなりに大きいが、使用人は雇っていない筈だ。家事などは母イスカや自分達の手でやっている。

サークと呼ばれた老執事に連れられ、ふたりは食卓へと案内される。

扉が開くと、大きなテーブルの上に食事が用意されていた。

テーブルには自分達を待っていたのか、先に席についている人間の姿が。

プラチナブロンドの美女と緑髪の青年が椅子に腰掛けていた。

「(あれ!?この人達―――み、見たことがあるぞ!)」

アヴェルは、先にテーブルについているふたりに見覚えがあった。

そう、確か始源の地でシオンが記憶石を通じて見せてくれた彼の記憶の中に出てきた―――シオンと知己だった人物達だ。

シオンにとっては元の時代、アヴェルにとっては500年前の時代の人間。

プラチナブロンドの美女はエリア・イグナード―――当時のイグナード家の次女で、シオンの治癒術の師だと聞かされた。師と言っても、年齢はシオンの方が上らしいが。

緑髪の青年はアレス・ロンド―――当時のロンド家の嫡男で、剣術修行の為にシオンに師事しているという話だった筈だ。

勝手に動く口と身体、自分が知る生家とは異なる建物、加えて500年前の人間が居るこの状況―――。

(も、もしかして、これって500年前の炎の里に居るってこと!?じゃあ、勝手に口を動かしているのはぼくじゃなくて―――ご、御先祖様!!?)」

漸く、勝手に動いているのが自分ではなく、同じ名を持つ祖先……即ち、シオンの実弟であるアヴェル・ディアスであると気付く。

今の自分はどういう状況なのか、先祖の中からこの光景を見ているようだ。

夢か何かかもしれないが、凄くリアルに感じる。そして、何故か懐かしい感じがする。

この懐かしさは……自身に流れるディアスの血がそう感じさせているのだろうか?

テーブルについていたアレスが溜息を吐く。

「遅いですよ、シオンさん。アヴェル、またシオンさんに負けて寝てただろ?」

「大きなお世話だっての。アレスさんだって、この間ボロ負けしてた癖に」

バチバチと目線で火花を散らす先祖アヴェルとアレス。現代のアヴェルは、先祖の中からこの光景を見ていた。

「(こ、このふたり、仲が悪いのかな?)」

「ふたりとも、喧嘩しないで。さ、当主達も席について下さい。折角の食事が冷めてしまいますよ」

先祖アヴェルとアレスを宥めたのはエリアだった。

記憶石を通じて見たシオンの記憶。あの時も思ったが、彼女は息を呑んでしまうほどの美貌の持ち主だ。

意力の強さは、容姿にも影響を与えることがある。意力の強い女性は全体的に美女が多いと聞くが、彼女の美しさは別格といえる。

異性はおろか、同性すらも目が離せなくなってしまうだろう。本当に、この世の人なのかと疑いたくなってしまうほどだ。

そんな彼女が席に座るよう促すと、シオンと先祖アヴェルも席に座った。

食事をしながら会話する4人。先祖を通じて見る彼等の談笑。

一家団欒を見ているような気分。血縁関係があるのはシオンと先祖のふたりだけだが、まるで本当の家族のような温かさを感じる光景だった。

食事を済ませた後、シオンは執務室に入っていた。どうやら書類整理をするようだ。

自由時間になった先祖アヴェルは屋敷から出て行く。どうやら炎の里に向かう模様。

里に到着すると、先祖は町の人達に話しかけながら散策を開始する。

500年前の炎の里―――現代とは大分雰囲気が異なっている。当然だろう、自分の時代とは建物などの造りが大きく違っているのだから。

何よりの大きな違いは、障壁柱が存在しないことだ。この時代には、人工的に結界を発生させるあの巨大な柱自体が開発されていないのだ。

先祖を通じて見る炎の里内には、チラホラとセイバーやガーディアンらしき人間の姿が見られる。

結界が張られている現代とは違い、ブレイカーは四六時中、おそらく街中であろうと襲ってくる可能性が高いのだろう。

ふと、耳に聞こえてくる歌声が。とても透き通った綺麗な歌声だった。

一瞬、幼馴染のアンリの歌声を思い出したが、ここは500年前の時代だ。彼女であるワケがない。

先祖アヴェルは歌声の持ち主の下に足を運ぶ。場所は炎の里の噴水広場―――当然だが、この場所も現代の広場とはかなり雰囲気が異なっている。

広場にあるベンチに腰掛ける女性。彼女が歌声の主のようだ。

色素の薄い水色の髪が特徴的な美女。儚さを感じさせるその容姿は、エリアとは別の意味で目が離せなくなるタイプの女性だ。

「(あ、この人って確か―――)」

この女性にも見覚えがあった。シオンの幼馴染で、アンリと同じ浄歌の歌姫の素質を持つという―――。

彼女は先祖アヴェルがやって来たことに気付いたらしく、歌を止める。

少し残念そうな顔をする先祖。

「ルティ姉、別に歌っててもよかったのに」

「前に歌ってる時、後ろから目隠しされたもの。あの時はビックリしたんだから」

「ごめん……」

どうやら、先祖は悪戯心で彼女が歌っている時に後ろから両手で目隠ししたことがあるらしい。

反省しているのか、先祖は頭を掻いていた。そんな先祖の姿を見て、彼女はクスリと笑う。

御先祖様って意外とやんちゃ気質だったのかなと、現代のアヴェルはやれやれと呆れた表情に変わる。

それはそうとして、これは本当に夢なんだろうかと今更ながら思う。

意識だけが、先祖の身体を通じて500年前に居るという状況。夢にしてはあまりにも現実味が強過ぎるような感覚に陥っている。

楽しそうに談笑する先祖アヴェルとルティ。現代のアヴェルは先祖を通じてその記憶を見ながら―――ふと、あることを思い出す。

「(そういえば、アンリに浄歌を教えたお姉さんとこのルティさんがよく似てるって聞いたけど……やっぱり、何か関係があるのかな?)」

このルティという女性とアンリに浄歌を教えたという女性。外見がよく似ていること、浄歌が使えること―――どう考えても無関係とは思えなかった。

しかし、シオンが炎の里で調べた限りでは彼女は若くして死亡し、血筋は絶えているという。

では、アンリに浄歌を教えた女性というのは一体何者なのか。自分やカノン、他の里の人間は一度たりとも目にしたことが無い。

「ルティ、それにアヴェルも一緒だったのか」

談笑していたルティと先祖アヴェルに、誰かが話し掛けてきた。若い男の声だった。

先祖を通じて、その声の主の姿を見る―――が。

「(な、何だ―――顔がよく認識出来ない……?)」

目の前に立っていたのは、顔がハッキリと分からない青年だった。髪の色は白髪で、灰色のロングコートを纏っている。

白髪―――そうだ、この人は記憶石で見せもらったシオンの記憶の中に出てきた、シオンと互角に渡り合えるというセイバーだ。

どうやら、シオンだけではなく御先祖とも知り合いらしい。先祖アヴェルは手を振りながら、彼を迎える。

「お帰り―――■■■さん」

「ただいま、アヴェル」

「(今、御先祖様は彼を何て呼んだんだ?名前も聞き取れない……?)」

「ご苦労様、■■■」

「ただいま、ルティ」

そう言って、彼はルティを優しく抱き締める。彼女も彼の背中に腕を回して抱きしめ返した。

彼が帰ってきたことで、ルティは笑顔になる。見つめ合うふたり、きっと自分達だけの世界に居るのだろう。

先祖アヴェルがジト目でツッコミを入れる。

「いや、あのさ……ふたりが恋人同士なのは周知の事実なんだけど、目の前で見せられるとこっちまで恥ずかしくなるんだけど」

確かに、と現代のアヴェルも頷く。先祖を通じて見ている記憶とはいえ、こういった場面を見るとこっちまで恥ずかしくなるというのは凄い理解出来る。

すると、ルティが頬を赤らめながら言った。

「だって、私達恋人同士なんだもの」

「うん、知ってるよ!でも、人前でイチャつくのはどうかと思う!」

「いいじゃない、減るもんじゃないし。ね?」

「そうそう」

「ホント、バカップルもいいところだよ……」

溜息をつく先祖アヴェル。このやり取りから察するに、おそらく日常茶飯事なのだろうと現代のアヴェルは思った。

先祖を通じて、白髪のセイバーを観察する。やはり、顔を認識することが出来ない。

しかし、口調や態度からして、彼が穏やかな気質の青年であるということは何となく理解出来た。

白髪の青年が、先祖アヴェルに尋ねてきた。

「アヴェル、午後の鍛練は?大将が待ってるんじゃないのか?」

「シオン兄なら、事務仕事で手が離せないよ」

「ふむ……だったら、僕が付き合おうか?」

「いいの?」

「構わないさ。それに、最近はアヴェルと手合わせしてないからね」

この白髪の青年も、先祖アヴェルと手合わせの経験があるようだ。

もしかして、シオンと鍛練出来ない時は彼が代理をしてくれているのかもしれない。

「じゃあ、お願いしようかな」

「ああ、任せてくれ」

白髪の青年は快く引き受けてくれた。そして、先祖アヴェルは彼と模擬戦をすることになった。

場所はディアス邸の裏山に移動する。現代のアヴェルにとってもここは思い出深い場所。

自分も父も祖父も―――代々のディアス家の人間はこの裏山で修行に励んだ。

ふたりの肉体から意力が発せられ、それぞれの手に意刃が発現した。

ルティは、ふたりの邪魔にならない距離から見守る。

先祖アヴェルの手には、炎の刻印が刻まれた意刃が握られている。刻印はシオンと違って刀身の中心ではなく、刀身の最下部に刻まれている。

白髪の青年の手には、鍔が付いた長剣が握られていた。刻印は刻まれていないようだが、超一級の職人が仕上げた名剣と言っても差し支えない雰囲気を醸し出している。

お互いに向かい合い、呼吸を整える。先祖を通じて見ている、現代のアヴェルはゴクリと唾を飲み込む。

嵐の前の静けさ―――とでも表現すればいいのだろうか。

ピリピリとした空気が伝わってくる。先に動いたのは、先祖アヴェルの方だった。

地面を蹴った先祖アヴェルは一気に間合いを詰め、そのまま横薙ぎに斬りかかる。

その斬撃を、白髪の青年は冷静に見極めて最小限の動きだけで避ける。

しかし、避けたところを狙っていたのか、先祖アヴェルはそのまま身体を回転させ、回し蹴りを放つ。

だが、これもまた青年は容易に回避した。

先祖アヴェルの攻撃はまだ終わらない。次々と攻撃を繰り出していく。

縦に横に斜めに―――あらゆる角度から斬撃を繰り出すが、青年には悉く躱されていく。

「(何て無駄のない動きなんだ……)」

現代のアヴェルは、白髪の青年の洗練された動きに瞠目する。

無駄な動きが一切ない、正に数々の死線を潜り抜けてきた百戦錬磨の強者の雰囲気に息を呑む。

白髪の青年が斬撃を繰り出す―――凄まじい剣速、シオンに勝るとも劣らないほどだ。

先祖アヴェルは、炎の意刃を手にしたまま自然体となる。迫る斬撃を炎の意刃で受け止める―――先祖アヴェルの足下に罅割れが生じる。

ディアス流剣術二刃“静流”。柔らかな剣筋で敵の攻撃を受け流す妙技を用い、青年の斬撃による衝撃を地面に受け流したのだ。

しかし、その表情に余裕は見られない。炎の意刃を握る手に微かに震えていた。

静流を以てしても、衝撃の全てを受け流し切れなかったというのか?

青年の意刃を捌き、後方に跳躍して距離を取る―――が、青年は瞬時に先祖アヴェルの眼前に出現した。

先祖を通じて観戦していた現代のアヴェルは驚愕する。

「(―――速過ぎる、一瞬で間合いを詰めたのか!?)」

白髪の青年は意力で脚力を強化して加速、一瞬で間合いを詰めたのだ。あまりに速過ぎて、目で追うことすら出来なかった。

甲高い音と共に、両者の意刃がぶつかり合う。先祖アヴェルは何とか踏ん張ろうとするが、ジリジリと後方に押されていく。

白髪の青年の意刃には、莫大な意力が凄まじい密度で込められていた。あの刃先に掠っただけで、並のブレイカーなら即座に黒い意力となって霧散してしまうだろう。

あまりに強さの次元が違い過ぎる。御先祖には悪いが、逆立ちしてもあの青年には勝てないだろうと現代のアヴェルは思った。

嘘偽り、誇張など一切ない―――断言していい、あの白髪の青年の実力はシオンに匹敵する。

「(本当に居たっていうのか……シオンさんに匹敵する実力を持ったセイバーが)」

一体、この青年は何者なのだろう?これほどの強さの持ち主ならば、歴史に名を残していてもおかしくはない筈だ。

シオンは資料が殆ど存在しないが、名前だけは辛うじて伝わっている。しかし、この白髪の青年に関しては資料はおろか、名前すら後世に伝わっていない。

この後、幾度かの打ち合いの末にスタミナ切れした先祖アヴェルは地面に大の字になって転がる。

「はぁ〜〜〜〜〜〜〜っ……また、負けちゃったよ」

白髪の青年は涼しい顔で、先祖アヴェルに手を差し伸べる。

彼は汗ひとつかいていなかった。先祖アヴェルは青年の手を借りて立ち上がる。

後ろからルティが飲み物を持ってきて、ふたりに渡した。アヴェルと青年、ルティは近くの木陰に腰掛ける。

「流石は■■■さんだよ、“白夜”の異名は伊達じゃないね」

「僕としちゃ、そういう通り名みたいのは恥ずかしいんだけどね」

「えーカッコいいじゃん。ぼくも早くカッコいい異名が欲しいな」

ふたりは楽しげに会話している。先程までの緊迫感に満ちた模擬戦はどこへ行ったのやら。

現代のアヴェルはふと、思考する―――“白夜”。それがあの白髪の青年の異名。

記憶を辿ってみても、何も引っ掛からない。前に白髪の青年に関する資料を探したが、何一つ見つからなかった。

500年前のセイバー達の資料も当たったが、そんな異名で呼ばれたセイバーに関する資料は無かった。

ここに至って、辿り着いたひとつの答え。それは―――。

「(まさか、この人に関する資料もシオンさんと同様に意図的に抹消されているんじゃ―――しかも、シオンさん以上に徹底的に)」

名前すら後世に伝わっていないのは、シオン以上に彼に関する資料が徹底的に消されているからではないだろうか。

どれだけ考えても、白髪の青年の資料や記録が見つからない理由はそれ以外にあり得ない。

しかし、何故だ?何故、そこまでしてこの青年の資料や記録を消さなくてはいけなかったというのだ?

まるで、都合の悪い記録を残してはいけないとでも言わんばかりだ。

彼は犯罪者ではなく、セイバーだ。セイバーの記録を抹消する理由など何か存在するのか?

「アヴェル、随分とボロボロだな」

裏山に来訪者が―――シオンだった。後ろにはアレスとエリアの姿も。

「まぁ、相手がシオン兄とタメを張れる人だしね。勝つ方が無理って話だよ」

「弱音を吐くな。何時かは俺達を超えるセイバーになってみせろ」

「ハードルが高過ぎでしょ……」

現代のアヴェルもうんうんと頷く。ハードルがあまりに高い。

大げさかもしれないが、シオンとあの白髪の青年は数千年続くセイバーの歴史の中でも並ぶ者が居ない実力者ではないだろうか。

彼等を凌駕するなど、果たして出来るかどうか。それほどまでに、彼等のセイバーとしての実力は次元が違う。

白髪の青年が、アヴェルの頭の上に手を置く。

「アヴェル、大将だけじゃない。僕も楽しみにしているよ、君が僕等を超えるセイバーになることをね」

「ま、その前にオレがふたりを超えるつもりですけどね〜♪」

「もう、アレスくんったら……」

鼻歌交じりに、シオン達を超える宣言をするアレスに苦笑するエリア。

和やかな雰囲気が彼等を包んでいる。見ているだけで、心が和むようだ。

6人は裏山で談笑する。やがて、彼等の前には綺麗な夕日が見えた。

「(綺麗だな―――何時の時代でも、この裏山から見える夕日は変わらないんだな)」

現代のアヴェルも、子供の頃からこの裏山で夕日を見続けてきた。父や母、祖父、アンリやカノンと一緒に見てきた夕日だ。

こうして、誰かと一緒の時間に見る夕日の美しさは格別だろう。

胸にずきりとした痛みが走る。昏睡状態にある父グレンのことが脳裏を過った。

「(―――父さんにも、またこの夕日を見て欲しい)」

「―――みんな」

先祖アヴェルが口を開く。全員が一斉に視線を向ける。

「何時か、何時かはみんなとこの夕日を見られなくなっちゃう日が来るんだよね……」

彼は寂しげな表情で呟く。彼の言っていることに間違いはない。

シオンと白髪の青年とルティは兎も角、アレスはロンド家の当主になる時が来るだろうし、エリアもずっと里に留まるとは限らない。

永遠に続く日々など存在しない。何時かはそれぞれの道を歩み出すのだ。

別れというものは、いつの日か必ず訪れるだろう―――沈んだ表情の彼に白髪の青年が語り掛ける。

「アヴェル、別れは辛いものだよ。だからこそ、思い出を作るんだ」

「■■■さん……」

「その思い出が大切であればあるほど、僕達の心に強く残る―――そうだろ?」

そう言って、白髪の青年は微笑む。先祖アヴェルは目頭が熱くなった―――それは、現代のアヴェルも同様だった。

どんなに辛くて悲しいことがあっても、楽しい思い出や嬉しい思い出を積み重ねていけば、きっと乗り越えていける。

白髪の青年の言葉が、胸に染みた。彼が言う通りだと感じる。

「■■■さん、また今度鍛練に付き合ってくれる?」

「ああ、勿論」

「約束だよ。絶対、シオン兄や■■■さんを超えるセイバーになってみせるから―――」

先祖アヴェルのその言葉と共に、視界がグニャグニャと歪み出した。

突然の事態に、現代のアヴェルは困惑する。

「(な、何だ……?視界が歪んで―――)」

場所が急に変化した。書類の山が机の上に置かれ、本棚には難しそうな本が並んでいる部屋。

現代とは異なるが―――ここは、ディアス邸の執務室?どうして、急にこの場所に変わったのだろう。

カリカリという音が聞こえる。これはペンを走らせている音か?

先祖アヴェルが机について、書類にペンを走らせていた。

「クソッ……終わらないな。どうも、こういう作業は苦手だな」

不機嫌な言葉が溜息と共に呟かれる。

先祖は書類仕事をしているようだ。だが―――それは、当主であるシオンの仕事の筈では?

慣れない書類仕事に没頭する先祖アヴェルだったが……執務室の外から、何やら騒がしい声が。

「サークさん、そこを退いてくれ」

「困ります、アヴェル様から誰も通してはいけないと―――」

「退いてくれ!」

執務室の扉が乱暴に開かれる。執務室に入って来たのはアレスだった。

様子がおかしい。息を荒くして、先祖アヴェルを睨みつけていた。

先祖を通じて見ている現代のアヴェルも、思わず緊張してしまうほどだ。

「アヴェル―――どういうことか説明してくれ」

「あのさ、ぼくは仕事中だからまた今度にして欲しいんだけど」

「ふざけるなッ!」

アレスは先祖アヴェルの襟首を締め上げる。サークが慌てて止めようとするも、彼は止まろうとしない。

「本当なのか!?シオンさんに関する資料や記録の一切を抹消するよう命じたのは!?」

「(……え?)」

現代のアヴェルは息を呑んだ。

「(シオンさんに関する資料や記録の抹消を命じた……?御先祖様が……?)」

「理由を教えろ!何の為に、シオンさんの記録を抹消する!?あの人は、お前の実の―――」

「仕事中だって言ったのが聞こえなかったの?」

思わず寒気を感じるような冷たい声が、先祖アヴェルの口から紡がれる。

襟首を締め上げているアレスでさえ、頬から汗を流す。

「お前……どうしたって言うんだ?何があったんだ……?」

「仕事の邪魔をしないで」

「……ッ!」

アレスは怒り任せに先祖アヴェルの顔面を殴りつけた。壁に叩きつけられ、ズルズルと床に沈む先祖アヴェル。

サークが慌てて駆け寄る。アレスは背を向けて執務室から出て行く。

「お前を弟弟子と思うのも今日限りだ……ッ!二度とその面を見せるな!!」

訣別と受け取れる言葉を残し、彼は去っていった。

先祖アヴェルは殴られた頬に手を当てながら、去っていくアレスの背中を見つめていた。

「(御先祖様、どうして追いかけないんだ!?共に剣を習ってきた兄弟弟子じゃないか!)」

当然だが、現代のアヴェルの言葉が届こう筈もない。これは、あくまで500年前の光景に過ぎないのだ。

先祖アヴェルは何事も無かったように、机に戻ると書類仕事を再開した。サークは複雑そうな表情をしていたが、仕事の邪魔にならないようにと、退室していった。

アレスが出て行った後、しばらく沈黙していた執務室に再び来訪者が。

仕事に集中する彼の耳に、執務室の扉を叩く音が聞こえて来た。

「―――アヴェルくん、入ってもいいかしら?」

「どうぞ」

素っ気ない声で返事をする。執務室に薬箱を持ったエリアが入室する。

「……アヴェルくん。アレスくんは里を出ていったわ。さっき、見送りをしてきたわ」

「ああ、そう」

興味など微塵も無い顔で、先祖アヴェルは書類にサインしている。

そんな彼に、エリアも複雑な表情を浮かべている。当然だろう、剣術の兄弟弟子ふたりの仲が拗れてしまったのだから。

「それで、エリアさんはどうするの?」

「え?」

「ここから去るの?去らないの?」

「……暫くは、里の人達の治療に従事するつもりよ。それはそうとして、頬の手当て」

「いいよ、別に。大したことないし」

「……アレスくんが怒って、あなたを殴るのも無理ないわよ。あの方に関する記録をひとつ残さず抹消するなんて言い出すんだから」

「……」

「アヴェルくん、何か理由があってのことだと思うけど―――教えてくれないの?」

「言えない」

「即答しなくていいでしょ。仮にも姉弟子に対して」

「妹弟子の間違いでしょ。一番弟子は―――」

「だったら、どうして実の兄の記録や資料を消すのよ!そんなことをする子に、あの方の一番弟子を名乗る資格なんてないわ!!」

声を荒げるエリア。我慢の限界だったのだろう、冷淡な彼の態度に。

彼女の瞳には涙が浮かんでいた。現代のアヴェルは、そんな彼女の姿を見て胸が痛くなる。

先祖アヴェルが椅子から立ち上がった。彼は歩き出すと、執務室のとある一角で足を止めた。

壁に一枚の絵が飾られていた。そこにはシオンやアヴェル、親しかったと思われる人物達の姿が描かれていた。

先祖アヴェルの口から寒気を感じさせる冷たい言葉が発せられる。

「ああ、それもそうだね。一番弟子なんて肩書も、もう必要ないな」

「……アヴェルくん?」

「もう必要ないんだ―――こんな物も必要ない」

「(御先祖様、何を―――ま、まさか……)」

先祖アヴェルの右手に意力が集約され、炎の意刃が発現する。

一閃―――彼は意刃で絵を切り裂いた。壁に掛けられていた絵が真っ二つになって床に落ちる。

唖然とした表情でそれを見つめるエリア。彼女は震える手を伸ばそうとした。

先祖アヴェルは、床に落ちた絵を踏みつけていた。

何度も、何度も絵を踏みつける。まるで、過去を全て否定するかのように。

「(やめろ……やめてくれ……。どうして、どうしてそんな酷いことを―――)」

現代のアヴェルは見ているのも嫌になった。先祖は、何故こんなことをする?

こんなことをする男が自分の先祖だというのか?その絵に描かれていたのは、大切な人達ではないというのか?

エリアは無言のまま、執務室から出て行った。これ以上、その場に居たくなかったのだろう。

彼女の姿が完全に消えた後、先祖アヴェルは床に落ちた絵の一部を拾い上げる。

ポツポツと、何かが床に落ちた。透明な雫―――それは、彼の瞳から零れていた。

「……こうするしかないんだ。どれだけ非難されてもいい、誰にも理解されなくていいんだ―――」

絵の一部を握り締める彼の瞳から流れ落ちる涙が床を濡らしていた。それを見ていた現代のアヴェルの胸に耐えがたいほどの痛みが走る。

「(い、痛い……胸が、心が痛い―――)」

これは、先祖の心の痛みが子孫である自分にも伝わっているというのか?

違うというのか?あの冷淡な態度は、全て演技―――嘘偽りなのか?

自分に流れる同じ血が告げている―――先祖は良心の呵責に苛まれている、と。

「(一体、何があったんだ?御先祖様、何が―――)」

先祖アヴェルの姿が遠のいていく。手を伸ばそうとしても届かない、そもそも干渉することなど出来ない。

現代のアヴェルの意識は、漆黒の闇の中に溶けていった。










「―――ル、アヴェルっ!」

「―――ッ」

名前を呼ばれて、アヴェルは目を覚ました。場所は見慣れた風景。

集い荘の自室のベッドの上だった。意識がはっきりしてくると、傍に誰かが居ることに気付く。

心配そうな表情でカノンが見つめていた。

「カノン……?ぼく、一体……」

「アヴェル、疲れているから少し自室で休むって……」

「そうか……」

確か、アークシティの巡回を終えて少し眠気があったから仮眠を取ることにした。

そうだ、他のみんなはブレイカー討伐や町の巡回中。ここには残っているのは、今日は何の予定も入っていないカノンだけだ。

集い荘に戻って来た時、暫く休んでいるから夕食前に起こして欲しいと彼女に頼んだ記憶がある。

窓から見える空はまだ夕刻という感じではない。時計を見ると、仮眠を取ると言ってから2時間くらいしか経っていない。

ベッドから上半身を起こす。カノンが話し掛けてくる。

「アヴェル、何か怖い夢でも見たんですか?アヴェルの意力が凄く乱れていて、気になって部屋に入ったんです。それに―――」

「それに?」

「アヴェル、涙が……」

「え―――?」

瞳から涙が頬を伝う。それは、紛れもなく自分が流した涙だった。

―――夢から覚める前に見た、涙を流す先祖の姿を見たことで心が痛んだ。この涙は、心の痛みを感じたゆえに流したものだ。

アヴェルは涙を拭った。夢の内容を思い出す。

先祖の涙を目にしたことで、心に激しい痛みを覚えた。

夢の光景が頭から離れない。先祖の見せた悲しみが、アヴェルの心を激しく揺さぶっている。

どうして、先祖はシオンに関する記録を抹消するよう命じたのだろう?現代にシオンの記録が無いのは、彼が記録を消したからなのか?

アレスとエリア、親しかった人達を突き放してまでそんなことに手を染めなくてはいけなかったというのか。

もうひとつ気になることがあった。あのふたりとの訣別の光景―――おそらく、あれはシオンが居なくなった後の出来事だと推測出来る。

ルティと白髪のセイバーはどうなったのだろう?

まさか、あの時点でルティは命を落としているのか……?では、白髪のセイバーの彼は何処に―――。

「……アヴェル」

「え、カノン?ああ、ごめん、少し考え事を―――ッ!?」

言葉を紡ぎ終える前に、温かい感触が身体に伝わって来た。

カノンが抱きついてきたのだ。両手を自分の背中に回して、密着している。

「か、かかかかかかカノンっ!?」

幼馴染の予期せぬ行動に戸惑ってしまう。

カノンは内向的な面が強い子だ。ゆえに、彼女がこんな大胆な行動を取るなんて思いもしなかった。

彼女の温もりが伝わると同時に、心地良い匂いも鼻孔に届く。甘い香りに、頭がクラクラしてしまう。

何よりもアヴェルを動揺させているのは、彼女の豊かに実った胸が自分の胸板に押し潰されていることだった。

柔らかく、それでいて弾力のある胸の膨らみ――その感触に理性が飛びそうになる。アヴェルの鼻孔がヒクヒクと動き出した。

「(ヤ、ヤバイ―――は、鼻血が……)」

「アヴェル―――ひとりで、抱え込まないで下さい」

「……え?」

「辛いことや悲しいことがあるなら、話して下さい。私達、幼馴染なんですから」

カノンは顔を上げて、潤んだ瞳で見つめてくる。アヴェルの心拍数が跳ね上がった。

彼女は優しい女の子だ。きっと、自分のことを親身になって考えてこんな行動を取ったのだろう。

心配を掛けたことに罪悪感を感じつつ、彼女の肩に手を掛ける。

「大丈夫、少し不思議な夢を見たんだ―――遠い過去の時代の夢を」

「遠い、過去の時代ですか……?」

「うん。その夢にはシオンさんも出て来たんだ。シオンさんが帰ってきたら、色々と話し合ってみようと思うんだ」

「そうですか……その時は、私やアンリも一緒ですからね?」

「ああ、分かったよ。シオンさんだけじゃなくて、みんなにも話すつもりだよ」

「はい、約束で―――」

約束ですからね、と言おうとしたカノンの言葉が途中で止まる。

アヴェルは首を傾げた。彼女は、一体どうしてしまったんだろう、と。

よく見ると、彼女の顔がみるみる真っ赤になっていく。

「(あれ……ぼ、ぼく、何かしたかな?)」

何か、彼女にやましいことでもしてしまったのかと考えたが、特に何かしたつもりはない。

理由を訊いてみようと、カノンに話し掛けようとしたのだが―――彼女はスッと瞳を閉じた。

そして、唇を軽く突き出す。予想外の事態に、アヴェルは目を丸くし思考停止に陥る。

心臓の鼓動が速くなり、体温が上昇していく。混乱が最高潮に達する。

「(か、かかかかかカノンさん、何をしていらっしゃるんですかっ!?)」

混乱のあまり、心の声が思わず敬語口調になってしまう。

いや、これはどう見てもアレを待っているのではないだろうか。口づけ―――即ち、キスを。

よくよく考えれば、今の自分は彼女の肩を掴んでいるし、自分と彼女の顔の距離は相当近い。

このまま、流れに身を任せれば、彼女は拒むことなく自分の唇を受け入れてくれるような気がする。

ゴクリと唾を飲み込みながら、カノンを見つめる。

綺麗なセミロングの紫髪、殆ど日焼けしない透き通るような白い肌、長いまつげ、整った目鼻立ち、艶やかな唇、抜群のプロポーション……。

改めて、彼女の美貌に息を呑む。子供の頃は可愛い女の子といった認識だったが、成長するにしたがって女性らしさが際立ってきた。

同年代の中で、彼女以上の美人は居ないだろう。その美しい容姿を持つ幼馴染の女の子が、自分にキスを求めている。

心臓の鼓動がどんどん速まる。動揺を隠すことが出来ない。

「(い、いやいやいやいや、落ち着くんだ!カノンのことが嫌いなワケじゃないけど、ぼくはアンリのことが……)」

もうひとりの幼馴染のことを思い浮かべて、何とか踏み止まろうとする。

しかし、そんな考えとは裏腹にカノンの顔に自分の顔を近付けていた。

「(ま、待て待て待て待て!な、何やってるんだ、ぼくは!?拒まないと、カノンを拒まな―――)」

必死で自分を言い聞かせようとするが、ふわりと漂ってくる彼女の甘い香りに脳髄が蕩けるような感覚に陥る。

―――駄目だ、抗えない。彼女を拒むことが出来ない。

カノンと唇を重ねたいという感情が湧き上がってくる。あの唇の感触を味わいたいと本能が訴えている。

彼女の唇はとても柔らかそうで、瑞々しく潤っている。まるで、甘い果実を彷彿とさせる。

その唇は、アヴェルの心を虜にする魅惑の果実。触れ合えば、蕩けるような美味を味わえるだろう。

アヴェルの理性は、音を立てて崩れ始める。心臓が張り裂けそうなくらい高鳴っていた。

幼馴染の少女は、待ち侘びるように頬を紅潮させて瞳を閉じている。

もう、何も考えられない。彼女と唇を重ねたいという欲求が勝り始める。

アヴェルの手がカノンの頬に触れる。カノンはビクリと身体を震わせた。

彼女は閉じていた瞳を開いた。開かれた瞳は潤んでいた。

彼女の顔に、自分の顔をゆっくりと近付けていく。

5cm、3cm、1cm―――あと少しで唇が重なり合う、正にその時。

コンコンと、アヴェルの部屋の扉をノックする音が聞こえる。ハッとなったふたりは、バッと離れて距離を取った。

部屋の外から聞こえてきたのはシオンの声だった。

「アヴェル、居るか?カノンも居るようだが……入っても構わないか?」

「は、はい。どうぞ」

入室を許可され、シオンが部屋に入って来る。彼が目にしたのは、真っ赤になって視線を逸らしているアヴェルとカノンの姿。

「どうした、何かあったのか?」

「い、いえ……アヴェル、少し仮眠してまして。私、起こしに来たんです」

「そうか……む?アヴェル、何をしているんだ?」

彼は恥ずかしさのあまり、布団を頭から被って隠れてしまっていた。カノンとのやりとりを思い出し、悶えていた。

しかし、そんなことを知らないシオンは首を傾げていた。

カノンは深呼吸した後―――。

「そ、それじゃあ、私はこれで―――」

「ああ」

彼女はそそくさと、アヴェルの部屋から去っていった。

シオンはある程度察していた。ふたりの間に何かあったことを。

まぁ、ザッシュと違ってそういったことに口出ししたり干渉するつもりはないが。

アヴェルが布団から顔を出す。少し落ち着いたようだ。

「あ、あの……シオンさん、な、何か用ですか?」

「ん?ああ、そうだった。実は総本部でリューからコレをお前に渡すように頼まれてな」

そう言って、彼が取り出したのは通信機だった。今まで使っていた物よりも小型で、見たことも無いタイプだ。

「新型の通信機だそうだ。旧型の通信機は回収するから、後日総本部で渡して欲しいとのことだ」

「そ、そうですか……ありがとうございます」

新型の通信機を受け取って、操作してみた。確かに旧型に比べて、起動スピードが格段に上がっている。

通信可能範囲も、旧型よりも大幅に向上している。

更に小型化したことで、持ち運びが容易になった。これなら、いざという時に素早く連絡を取ることが出来るだろう。

シオンが来たことで、アヴェルはハッと思い出す。そう、自分が見た夢のことを。

「あの、シオンさん……夕食の後で話があるんです。聞いてもらえますか?」

「ん?ああ、構わない」

さて、一方その頃―――アヴェルの部屋を出たカノンは自室に駆け込むと、ベッドの上に倒れこんだ。

枕を抱き締めながらゴロンゴロンと転がる。顔は火が出るくらい真っ赤になっていた。

理由は言うまでもあるまい。アヴェルにキスを求めた自身の行動に、激しく悶えているのだ。

自分の大胆な行為に驚きを隠せない。今までの自分なら、あんな行動は決して起こさなかっただろう。

「(わ、わわわわわ私、どうしてあんなことを……)」

仮眠を取っていた筈のアヴェルの意力の乱れを感じて、彼の部屋に駆けつけた。

魘される彼を起こし、目覚めた彼が涙を流す姿に酷く胸が痛んだ。少しでも、彼を落ち着かせようとアヴェルを抱き締めた。

……考えてみると、抱擁している時点で何時もの自分からは考えられない行動だったかもしれない。

少し落ち着いた彼が、何らかの夢をみたことを話し、シオンとそのことで話し合うと決めた。

その話し合いの時は、自分やアンリ達も一緒だと約束させようとした時だった―――彼が自分の肩に手を掛けていること、互いの顔が近いことに気付いたのは。

全身から熱が込み上げてきて、心臓が激しく脈打ち始めた。そして、何かに突き動かされるように瞳を閉じて唇を差し出していた。

自らの衝動を抑えることが出来なかった。いきなり、こんなことをしてもアヴェルに迷惑を掛けるだけかもしれない。

暫くすると、頬を触れられる感触が伝わり、ビクリと身体を震わせた。恐る恐る、瞳を開くと頬にアヴェルの手が触れていた。

彼は、ゆっくりと顔を近付けてきた。互いの吐息を感じる距離感に、心臓の鼓動が一層激しくなった。

距離が縮まるにつれ、胸の高鳴りは増していき、心臓が張り裂けてしまいそうだった。

アヴェルに拒絶の意思は見られなかった。もし、シオンが来訪しなかったら、彼は自分を受け入れて唇を重ねてくれていた。

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ」

枕を抱き締める力が強くなる。元々真っ赤だった顔は一層赤くなり、今にも気絶してしまいそうだった。










―――夕食後、1階に集い荘のメンバーは集まっていた。

アヴェルは自身が見た夢の内容を語り出す。最初に語ったのは、シオン、先祖、アレス、エリアの4人で食事をしていた場面のこと。

それを聞いていたシオンの眉がピクリと動く。

「シオンさん……その時のこと、記憶にあるんですね」

「ああ、ある」

「おいおい、マジで?アヴェルくん、本当に御先祖様の記憶を夢で見たってことかい?」

「んなこと、あり得るのかよ……?」

信じられない表情でザッシュとソラスが顔を見合わせる。シオンはポツリと呟く。

「―――“血の記憶”だな」

「血の……」

「記憶……?」

シオンの口から紡がれた聞き慣れない単語に、アンリとカノンは首を傾げる。

彼は語り始める―――“血の記憶”のことを。それは、意力を扱う家系に稀に起こるという。

簡単に言えば、自身が生まれる前に起きた出来事……親や祖父、あるいはもっと昔の祖先の身に起きた出来事を何らかの形で見ることがあるという。

ある時は夢という形で、ある時は何らかの景色を見ることで自身の知らない過去の記憶が頭の中に流れ込んでくる。

血筋が長い家系ほど、それが起きる可能性は高くなる。数千年続くディアス家の人間であるアヴェルに起きても不思議はない。

何よりも―――。

「俺も同じ経験があるからな」

「シオンさんも?」

「俺が10歳くらいの頃になるか……ディアス邸の裏山で親父と夕日を見ていた時に、全く知らない光景が頭の中に流れ込んできた」

シオンの場合は、父親と思われる赤髪の男が3人の子供に意力の手解きをしている光景を垣間見た。

父シェイドの話では、それはもしかしたらディアス一族の始祖とその子供達ではないかという。

「始祖って一番最初の御先祖様ってことですよね?」

「ああ、それが事実ならおよそ数千年前の出来事を垣間見たことになるな」

数千年前の記憶―――途轍もなく悠久の彼方の時代の出来事を見たというのか。

自分たちなど、まだ微塵も存在していない頃の記憶と言われてもピンと来ないだろう。

「それと、シオンさん。あの白髪のセイバーも出て来たんですが……」

以前、シオンが始源の地で記憶石を通じて見せてくれた記憶の中に出て来た白髪のセイバー。

夢の中、先祖を通じて彼と接触したが、どういうワケなのか、彼の名前も顔立ちも認識出来なかったことを告げる。

シオンは腕を組んで考え込む。

「顔も名前も分からないか……」

「どういうことなんでしょうか?」

「……こればかりは、俺にも分からないな」

「―――あ、そういえば、彼の異名だけは分かりました。“白夜”の異名で呼ばれているとか」

「……“白夜”―――ぐ、ぅ……ッ!」

「シオンさん!?」

その異名を耳にした瞬間、シオンの頭に激しい頭痛が襲う。

頭を手で押さえて、その場に片膝をつく。一同は慌てふためく。

アヴェルは慌てて彼の身体を支える。他の面々が心配する声を上げるが、シオンはそれに応えず、ただひたすら痛みに耐えていた。

何か頭の中に入って来る―――これは、記憶?

シオンとルティ、そして白髪の青年がディアス邸のリビングで談笑している光景が頭に入って来る。

『白夜か。ふむ、悪くないんじゃないのか?』

『いやいや、僕はそういう異名みたいなのは欲しくないんだけどね……』

『そうかしら?似合うと思うけど』

『俺は神炎(かみのほのお)なんて大仰な異名だぞ?それに比べればずっとマシだろ―――なぁ、■■■』

名前、名前は何だ―――?あの白髪の青年の名前は?

彼は戦友ではないのか?自分は、何故彼の名前を思い出せない?

「(―――いや、違う。思い出せないのではなく……)」

あの白髪の青年の顔や名前を思い出せないのではない―――逆だ、“思い出したくない”のではないか?

白髪の青年のことを思い出すことを恐れているのではないか?

思い出せば、何か恐ろしい記憶を呼び覚ますような気がしてならないのだ。開いてはいけない扉を開いてしまうような―――。

「シオンさん!」

アヴェルに呼び掛けられ、現実に引き戻される。

彼の顔を見ると、酷く不安そうな表情を浮かべていた。

シオンは息を整えながら立ち上がり、アヴェルの肩に手を置いて安心させるように微笑みかける。

「心配ない。少し、過去の記憶を垣間見ただけだ―――ひとつ、理解出来た」

「何です?」

「俺はやはりあの白髪の青年と親しい間柄だったらしい。だが、それでも思い出せない―――いや、思い出したくないのかもしれない」

「それは……」

「本能が、思い出すことを拒否しているとしか思えない。あの白髪の青年のことを思い出せば、何か恐ろしい記憶を呼び覚ますような気がする」

おそらく、彼とは同じ時代を駆け抜けた筈。共にブレイカーから牙無き人々を守り抜いた戦友に違いない。

それを思い出すことを拒絶するとは、彼との間に何かあったとしか思えない。

戦友との思い出を拒絶するほど、深い闇を感じさせる何かが―――。

沈むシオンの表情に心を痛めるが、もうひとつ言わなければならないことがアヴェルにはあった。

「シオンさん、もうひとつ―――言わなければならないことがあるんです。御先祖様の記憶の中には、シオンさんが居なくなったと思われる頃の記憶もあって……」

「聞かせてくれ。どれだけ話し辛いことでも、俺は全てを受け入れる」

「……結論から言わせてもらいます。シオンさんに関する資料や記録の抹消を命じたのは、御先祖様でした」

シオン以外のメンバーが絶句する。当のシオンは半ば予期していたのか、表情に変化が見られない。

沈黙を破り、カノンが複雑な表情で訊いてきた。

「アヴェル、間違いないんですか?」

「記憶の中に出て来たアレスさんが御先祖様に詰め寄っていたから、事実だと思う」

アヴェルは沈んだ表情で語り出す。

アレスが、シオンの記録を抹消したことに憤り、執務室に乗り込んでアヴェルに詰め寄ったこと。

まるで何も興味がないように仕事に没頭し、冷淡に突き放す先祖のこと。

怒り心頭のアレスが先祖を殴り飛ばし、訣別の言葉を告げたこと。

その後、やって来たエリアにも冷淡な態度を取って彼女を悲しませたこと。

大切に飾っていたであろう絵を切り裂いたこと。

正直、話しているだけで辛くなってくる。自身がやったことではなく、先祖がやったことなのに。

「アヴェル、あいつが絵を切り裂いたというのは間違いないのか?」

「はい、間違いなく。そこには、シオンさんや親しい人達が描かれていたのに―――見ているだけで、嫌になってきました」

「……」

「―――だけど」

「何だ?」

アヴェルは続ける。絵を切り裂いた後、先祖が絵の欠片を拾い上げていたことを。

涙ながらにこうするしかない、どれだけ非難されてもいい、誰にも理解されなくていいと言っていたことを。

先祖が良心の呵責の苛まれていたことを。あの光景を思い出し、再び心に痛みが走る。

顔を下に向けるアヴェル。ポツポツと、彼の握り締めた拳の上に透明な雫が落ちる。

それを目にした瞬間、アヴェルの両隣に座っていたカノンとアンリが動いた。

ふたりは、アヴェルの拳の上にそっと自らの手を添える。柔らかで、優しい温もりが伝わってくる。

その温かさに触れ、アヴェルの心は少しずつ落ち着きを取り戻す。

ゆっくりと顔を上げ、ふたりを見る。彼女達は優しく微笑んでいた。

ザッシュとソラスは、やや呆れ気味でそのやり取りを見ていた。

「(やれやれ、アヴェルくん―――果報者もいいとこだよ)」

「(もういっそ、両方とも嫁にしちまえってんだ)」

小声でそんな会話をしていると、シオンがこちらを睨んでくる。

それに気付くと、ザッシュとソラスは肩をすくめる仕草をして、視線を逸らして口を閉ざす。

「すみません、こんな時に」

「構わない、よく話してくれた―――すまん、少しひとりになりたい」

「シオンさん……」

アヴェルは彼の背中を見送る。他の面々も、黙って彼の後ろ姿を見送った。

集い荘を出たシオンは、西区をひとり歩く。既に日は沈んで、街灯が夜道を照らす。

暫く歩くと、誰も居ないベンチがポツンと置いてある場所に来ていた。

そこに腰掛けて、空を仰ぐ。満天の星が輝いている。

だが、彼の心はあることで占められている。美しい夜空に想いを馳せることが出来ない。

「(俺が居なくなって後、あいつに何があったというんだ……?)」

あいつとは、この時代のアヴェルではない。彼の祖先である、血を分けた実の弟のことだ。

自分は、何かを追跡するべく空間の裂け目に飛び込む前、弟に後事を託していた。

―――俺の所為なのか?俺が何もかも押し付けたことが、あいつを追い詰めてしまったのか?

親しかった筈のアレスとエリアと訣別してまで、自身の記録を消すという行為に及んだその真意は?

その疑問に答える者は、彼の傍には居なかった。










―――454年前、ディアス邸。

ディアス家当主―――否、既に先代当主であるアヴェル・ディアスはベッドの上で瞳を閉じていた。

60歳を迎えた彼だが、その顔立ちは40代でも通じるほど若々しい。強い意力を持つ者は、肉体の老化が遅くなる傾向がある。

歴戦のセイバーとして名を馳せた彼もその例に漏れないようだ。しかし、今の彼は死の床に就いていた。

長年酷使してきた肉体が悲鳴を上げている。近年は、剣を振るうことも困難になってきた。

―――いよいよ、この世との別れの時が来たか。

当主の座は、既に子供に譲っている。生まれてきた子供は娘だった。

歴代当主の中でも、数少ない女性当主となった娘だが、今では立派に務めを果たしている。

「(あの日から、もう半世紀近くか―――)」

閉じていた瞳を開き、アヴェルは数十年前の出来事を思い出していた。

空間に出来た裂け目、何処に繋がっているかも分からないそこに足を踏み入れようとする兄の後ろ姿。

―――自分を信じろ、お前は俺の自慢の弟だ。

あの時の兄の言葉は、今でも忘れられない。兄は、自分を信じて後事を託した。

それなのに、自分は―――。

「兄上、私は立派に当主の務めを果たすことが出来たのでしょうか……」

アヴェルは弱々しく呟く。その声は誰にも届かない。

自分のやり方は正しかったのか、それとも間違っていたのか……。

『自らの生き様を恥じるな』

「―――!」

『お前は、自身の為すべきことを為したのだ』

室内に聞こえてきた声。どれだけ年月が過ぎようとも―――この声を忘れたことは一度もなかった。

弱った身体を、何とか上半身だけ起こす。室内にひとりの男の後ろ姿があった。

自分よりも深い色合いの赤髪、雪のように白い外套を纏った青年の後ろ姿。瞼に焼き付いた、忘れることの出来ないあの姿。

『これからの明日は、お前の血を受け継ぐ者達に任せればいい』

青年が振り返る。その姿は、数十年前と何一つ変わっていない。

「あ……」

『胸を張れ―――お前は、俺の誇りだ』

「兄、上……」

アヴェルは涙を流しながら、掠れた声で目の前の人物を呼ぶ。

兄は、今まで見たことがないような穏やかな笑みを浮かべる。そして、アヴェルの前から消えていった。

夢か幻か―――いや、どちらでもいい。死に際に一目会うことが出来たのだから。

命あるものには何時か終わりが訪れる。永遠に続くものなどないのだ。

だからこそ、人は血を繋ぎ、その想いを次の世代に託していく。

兄が自分に託したように、これからの明日は後に続く者に託せばいい―――。

翌日、アヴェルの意力を感じ取れなくなった家族達が息を切らしながら、彼の寝室の扉を開いた。

そこには、安らかな表情で息を引き取った彼の姿があったという。

ディアス家第251代当主アヴェル・ディアス死去―――享年60歳。

実兄シオンに後事を託され、46年後のことであった。



・2023年05月09日/文章を一部追加しました。



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