最初に、その異変に気付いたのはエルゼだった。
食事を残すことが多くなったり(もとから小食であるが完食していた)、毎朝の行動が遅かったり(低血圧のためか、普段から決して素早くはないが)ということが続いていた。
3日前からだ。きっと、体調を崩してしまったのに違いない。
「やっぱり、年のせいかしら?」
足元でしっぽを振っているダルマチアン種の老犬にむかって、エルゼはひどく失礼な台詞をつぶやく。左右に1センチほど大きくなったしっぽの振り幅が、エルゼの言葉を肯定しているかのように思えた。
「そうよねぇ、37歳といえば、立派な中年男性ですものねぇ」
そう言って老犬の背中をなでると、エルゼは立ちあがった。歩きながらエプロンを身につけ、予定の変更を脳にインプットする。
本当なら、朝食のメニューは毎朝ほとんど同じものだ。バターロールが2つ、簡単な卵料理に野菜サラダ。飲み物はホットミルクティーに固定されている。変化があるのはデザートで、今日は新鮮ないちごをそのまま食卓へ運ぶつもりだったのだが……。
「小さなカスタードケーキに変更ね。いちごは、消化によくないから」
主ための栄養管理は、厨房を任される者の使命である。
一方、「中年男性」呼ばわりされたことを知らない低血圧のオーベルシュタインは、ようやくのそのそとベッドからはい出したところだった。
シルフェニア6周年記念作品
「ラブストーリーは突然に」(中編)
──銀河英雄伝説──
暦が新帝国歴に改まってから約5カ月。キュンメル事件をはじめ、新王朝は歴史の中で休むことなく動き続けていた。直近ではフェザーンへの遷都、旧同盟首都ハイネセンからのヤン・ウェンリー脱出、その責任を取るかたちで自殺したヘムルート・レンネンカンプの密葬が行われるなど、その動きはますます大きなうねりを伴う。しかしながら、バーラトの和約の破棄についてはいまだその宣言がなされておらず、広大な宇宙は埋み火を抱いたまま、新たな戦火を待ち受けているように思えた――。
新帝国歴元年を宇宙規模の歴史で語ると大きな変革の年ということになるが、個人レベルでいうと、必ずしもそうではない。
易姓に伴い大きな変化を感じた人間も多数いると推測されるが、貴族でもなんでもないエルゼ・ラーベナルトにとっては、新しい就職が決まってから数カ月が経ったという程度の話だった。
実はこれまでのあいだに、彼女の内面では雇い主に対する感情の変化が積み重ねられていたのだが、今のところ、本人がそれに気付く様子はない。
そんな個人レベルのささやかな物語を内包して、歴史は続く。
* * *
朝食の席で、エルゼはそれとなく主の様子をうかがっていた。
やはり食が進まないようだ。心なしか手つきにも違和感がある。途中で水分を求めることが多く、結局半分ほど食事を残した。顔色が優れないのはいつものことだが、やはり一段と精彩を欠くように感じる。ここ最近の気温の変化と連日の疲労が、体に大きな負荷を強いているのではないだろうか。
食事を下げるとき、思い切って主人に声をかけてみた。
エルゼの主人というのは、パウル・フォン・オーベルシュタイン元帥のことである。エルゼは、数ヶ月前から、彼の屋敷で住み込みの使用人として働いているのだ。世間では「ドライアイスの剣」の異名でおそれられる厳格な軍務尚書閣下だが、初めて出会ったころよりずいぶんと心理的距離が縮まったと感じるのは自分だけではないだろうと考えている。
「旦那さま。お顔の色が優れませんけど、どこか具合を悪くされているのではないですか?」
オーベルシュタインはじろりとエルゼのほうを見た。
別に、睨んでいるわけではない。これで素の目つきである。それを知っているから、エルゼも怯むことはしない。
「お医者さまに診ていただくことをおすすめいたします。お仕事への影響がご心配でしたら、お戻りになってからでも構いません。かかりつけ医に連絡しておきますから、どうぞ今日はお早くお帰りになってください」
それまで黙ってエルゼの話を聞いていたオーベルシュタインだが、ここで反論に移った。
「なぜ私が体調を崩しているという前提で話を進めるのかね。私の顔色が悪いのは、いまに始まったことではない」
自覚はあったらしいことにエルゼは軽く驚いたが、このくらいで引き下がるわけにはいかない。
「このところ、お食事を完食なさっていらっしゃいません。突然にわたしの料理の腕が落ちたのでなければ、いったいどういうつもりでお残しになったのです?」
「単に、気乗りがしなかっただけだ」
「旦那さまがご気分だけでそのようなことをなさる方でないことは、もうちゃんと存じ上げています。健康のためにと、お嫌いなメニューをお出ししたときも、きちんと召し上がってくださいましたね」
オーベルシュタインはふいと視線をそらした。
エルゼの口から、小さなため息がもれる。
「もう一度申し上げます。かかりつけ医の診察を受けてください。今日の夜8時に屋敷へ来ていただくよう手配しておきますから……お願いです、わたしのわがままだと思って。よろしいですね?」
これはずいぶんと傲慢な言い方だったかも……エルゼは内心で恐縮したが、態度は改めず強引に押し切った。主が「わかった」と言ったからには、それを無視することはしないだろう。主のためならば、ときにはその意向に逆らうことも厭わない確固たる決意も必要なはずだ。
強気な姿勢をそのように言い訳して、エルゼは主人を送り出した。
本心は、無理を重ねているのではないかと、心配のあまり医者にかかってほしかったのだ。当人がいらないと言っても、エルゼが安心できない。ではなぜそうまで不安な気持ちになったのかと聞かれると、うまく説明はできないのだが。
オーベルシュタインの信頼厚い執事、エルゼの伯父にあたるラーベナルトは「まぁ、お医者にかかること自体は悪いことではないし、いいじゃないか」と言ってくれた。
「ほんとうに、なんでもないならいいんだけど……」
主人を乗せたランドカーの走り去った方角を眺めながら、ひとりつぶやく。
冬の気配を色濃くまとう風が、エルゼの頬を冷たく叩いて行った。
* * *
登庁するランドカーの中、オーベルシュタインはため息未然の吐息をついた。
正直なところ、今日のスケジュールを考えた場合、仕事を早く切り上げて帰宅するには無理がある。
朝一番の御前会議に出席したのち軍務省に戻り、御前会議の内容をフィードバックするための幹部会議を開かねばならない。おそらくこれらの予定に午前中いっぱいを費やすことになるだろうから、その後通常業務に従事するとして、一日分の仕事量を半日で片付けなければならないことになる。そしてその通常業務とは、突発的に舞い込んでくる種々の問題を処理することである。彼は国政を預かる支柱の一本であり、不確定の未来をより良い方向へ導く責務を負う。帰宅時間の保障などできるはずもない。
ではなぜエルゼに対し、守られる保障のない約束などしてしまったのか。
一応、オーベルシュタインには、心当たりがあった。
いろいろな表現方法があるのだろうが、つまるところ、彼女に対して心理的に劣位に立ったということである。彼女の存在を無碍にできない、その懇願を無視することも心苦しい――そういう感情を世間一般ではなんと呼ぶのか。経験は多くないにせよ、その程度の知識はある。
しかしその先を具体的に想像することを、オーベルシュタインは行わなかった。
ランドカーが職場に到着したからであるが、思考の中断を余儀なくされたことをむしろ幸いに感じたことは否めない。
御前会議は予定時刻に終了した。
オーベルシュタインにとって宇宙でたったひとりの上司――皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラムの覇気に満ちた背中を見送ると、彼もまた速やかに会議室をあとにした。同格の僚友であるふたりの元帥と顔を合わせるのは久しぶりだったが、彼らとは親しく近況を語り合う関係にない。
思考は、すでに次の幹部会議にうつっていた。待たせていた部下に会議の進行に対する支持を与える。まだ新人士官らしい若い部下は、「ヤー(了解)」の一言を発するだけでも緊張するようで、オーベルシュタインの質問に答えるときなどは例外なく言葉を詰まらせていた。軽く一瞥すると、まるでそれが伝説のゴルゴンのひと睨みであるかのように沈黙してしまう。
そこへ、副官であるアントン・フェルナーが姿を現した。萎縮して使いものにならない部下にいささか苛立っていたところだったので、彼のタイミングの良さを褒めたい気分になる。むろんそんなことはおくびにも出さず、副官の敬礼に対しては、ごく形式的な首肯を返しただけだった。
フェルナーは、新帝国が旧姓のゴールデンバウムを名乗っていたころ、当時のローエングラム公の敵対勢力に属する人員だった。それも、時代の流れに不満を愚痴るだけの無能で無害な輩ではなく、暗殺部隊を組織してローエングラム公を亡きものにしようと試みた危険因子である。それが失敗に終わると悪びれもせず自身の才能を売り込み、その主張に陰湿さのないことを認めたローエングラム公がオーベルシュタインの部下に任じた。以来、誠実さには欠けるが忠実に任務をこなし、その有能さはオーベルシュタイン自身も認めるところである。
その有能な副官の持ち込んだ問題は、少しばかり複雑だった。
関係省庁の横領疑惑が持ち上がった、というのである。
「規模は?」
オーベルシュタインの低い問いに、フェルナーも声を低めて答えた。
「ごく小規模ながら、個人レベルの問題ではありません。組織的な隠蔽が見受けられます」
早急な真相解明が必要である。軍務省は軍紀の要であり、その関係省庁に不正があるとなれば、他の機関からの信頼を著しく損なうことになる。ことは迅速に、かつ隠密に進めなくてはならない。
同じランドカーに乗り込み、疑惑に関する詳細な説明を受ける。どうやら複数の部署にまたがる問題のようだ。幹部会議の開始は、少し遅れることになるだろう。
そして当然、帰宅時間もずれ込むことになる。
「閣下? どうかなさいましたか」
「いや、問題ない」
そう答えはしたものの、急速に体調が悪化したような錯覚に陥るオーベルシュタインだった。実際、頭痛がひどくなってきたようである。
無意識にこめかみを押さえるしぐさを見て、フェルナーが眉をしかめた。
車内にしばしの沈黙が訪れ、その後、フェルナーは逡巡を押し切った顔つきで上司に語りかける。
「無益なことかもしれませんが、今から少々生意気を申し上げます。幹部会議のあと、休養されるか、せめて軍医の診察を受けてください。先延ばしにできない問題を持ちこんでおいてなんですが、体調の回復をはかるほうが優先ではありませんか」
直球である。できればさっさと医務室に放り込んでベッドに縛りつけておきたいとでも言いたげな雰囲気だ。
自身の不調を知られていたことにいささか驚いたオーベルシュタインだったが、その程度のことで動揺するような可愛げがあれば、宇宙の反対側から「帝国印、絶対零度の剃刀」などと陰口を言われたりはしない。
「無益なことと知りつつそれを口にするのは、愚の骨頂とは思わんのかね」
「古来より、わたしと同じようなことを行った人間が多くいたからこそ『余計なお世話』などという言葉が生まれたんじゃありませんか?」
「余計なことなら実行しなければよい。わたしは卿に、そのような愚行は求めていない」
するとそれまで、半分からかうような成分が混じっていたフェルナーの口調が、真剣味を帯びたものに切り替わる。
「副官の職務は、上官の補佐であると考えます。小官の為すべきことは、閣下が任務を遂行しやすい状況を整えることです……愚かで結構。そのために必要なら、愚か者にだってなりましょう」
それ以降フェルナーは口を開かず、ランドカーはいくらかの緊張を孕んだまま軍務省のオフィスに到着した。
* * *
そして幹部会議も終わり、執務室に戻ったオーベルシュタインの見たものは、整然と積み上げられた書類の山である。
持ち込まれたままの状態でなく、誰かの手が加えられていることは明らかだった。至急扱いのものを筆頭に重要度の高い順に並べ替えられており、要所には印も付されている。
誰の仕業かは、考えるまでもないことだ。
「本日届けられた分のみで、このありさまです」
オーベルシュタインの背後で、フェルナーが言った。執務室にはふたり以外いない。
「むろん、軽視してよい案件など存在しませんが、これらすべてに手をつけていたら本当に体を休める暇なんてありませんよ。どうか昼食のあとは、急ぎの用件だけ済ませてお休みになってください」
オーベルシュタインは、並べられた書類にざっと目を通した。フェルナーの分類は要点を押さえている。彼の示した優先順位は、おそらく間違っていないだろう。
普段の飄々としたしぐさが印象深いためか、失念しそうになっていた。この男は、その意志ひとつで良薬にも毒薬にも自身を変化させる男である。与えられた命令を忠実にこなすだけの受動的な能力にとどまらず、自ら考え最善を尽くさんとする柔軟性に富んだ思考の持ち主だった。
オーベルシュタインの部下になってから2年と少し。能ある鷹が、隠した爪の先をわずかにのぞかせたのだと気付く。
「いささか、副官としての度を超えているな」
嫌味を言われるのは覚悟のうちだったのだろう、フェルナーの返答は揺るぎない。
「言ったはずです、自分は愚か者にもなれるとね。処罰はちゃんと受けますよ。ただし、あなたが完全に復活なさったあとの話ですが」
義眼と、そうではない視線が交錯し……そしてその硬直を解いたのはオーベルシュタインのほうだった。書類をデスクに置き、腰かける。デスクに備えつけられた椅子ではなく、応接スペース側のソファーに、である。
「おそらく、疲労か風邪だろう。察しの通り、しばらく前から微熱が続いている」
正直な告白に「ではやはり軍医を呼びましょう」と退室しかけたフェルナーだが、その必要はないと上官に呼びとめられ、なおも抗弁しようとした。
オーベルシュタインは軽く手を挙げてそれを制すると、今朝の出来事を話す。
「そういう次第で、軍医の診察は必要ない」
「わかりました。ではなるべく早く帰宅できるよう、微力を尽くします」
その後、フェルナーは別室にある自身のデスクへはほとんど戻らず、オーベルシュタインの補佐に従事した。新たに持ち込まれる案件に目を通し、必要なものだけ上司に渡す。それと並行して本来分担していた作業も行っているのだから、実に使える男である。
結局食堂へも行かず、従卒の少年に運ばせた昼食をほとんど機械的に胃へ流しこんだふたりは、午後7時までにはどうにか予定を消化することができた。
エルザとの約束に、じゅうぶん間に合う時刻だ。
しかし、オーベルシュタインの体力には、ほとんど余裕などなかった。頭痛は激しさを増していた。全身も鉛のように重い。熱が上がっている証拠だ。
周囲にそれと悟らせなかったのは、オーベルシュタインの顔面筋がそれほど発達していなかったからかもしれない。とにかく、喜怒哀楽が表面化しない性質なのである。血色が悪いのも常であったから、ほかの部下たちはだれも異変には気付いていなかった。
ただひとり、フェルナーを除いて。
半日かけて有能であることを上司に再確認させた副官は、職務終了後も、当然のようにあとをついてきた。その理由を尋ねると、
「だって、自宅にも仕事を持ち帰っているでしょ? いくらかもらって帰ります」
皮肉を言うことにも疲労を感じたオーベルシュタインは、彼の好きにさせておいた。
帰宅したオーベルシュタインを迎えたのは、心配顔のエルゼとかかりつけ医だった。
彼らの姿を認めた途端、背筋をささえる緊張の糸が切れたらしく、唐突に膝から崩れ落ちた。衝撃を覚悟したが、背後からフェルナーが抱きかかえる気配がする。
エルゼは小さく悲鳴を上げた。かかりつけ医が駆け寄って来る。ラーベナルトと同い年のこのかかりつけ医は、フェルナーに指示して、患者を寝室へ運ばせた。
その間、意識が途切れることはなかったため、ひじょうに騒がしい夜を経験することになった。
ラーベナルト夫妻は真っ青になって飛び込んでくるし、普段は剛胆ともいえるエルゼがそわそわと室内を動き回っている。それでもかかりつけ医が動きやすいように先回りして準備を整える姿勢はさすがだと思ったが、どうやらじっとしていると余計に不安になるようだった。
この状況で冷静だったのは、診察を行った医師と、壁際でじっと様子を見守っていた副官だけである。
医師が「単なる風邪に疲労が重なっただけで、大事には至らないだろう」と見解を述べたことで、ようやくその場は落ち着いた。翌日以降に詳しい検査を行う運びとなり、いくつかの薬を処方される。その成分が効いたためか、それともやっと訪れた室内の静寂が心地よいためか、オーベルシュタインの意識に淡い色のヴェールがかかり始める。
それでも、完全に眠りの境界を超えていたわけではない。
やわらかな手が、ためらうように額に触れたことで、意識はやや現実のほうへ傾いた。
それはエルゼだった。白い小さな手は、人体の熱さに驚いたように引っ込み、今度は冷たいタオルを持ってもう一度オーベルシュタインのもとを訪れた。なにか傷つきやすいものでも撫でるように慎重な手つきで額や首筋の汗をぬぐい、水がしたたる音が聞こえたあと、そのタオルは額から瞼にかけての場所へおさまる。
視界が暗転し、オーベルシュタインの意識は、今度は完全に眠りの世界へ滑り落ちていった。
* * *
エルゼは放心したように、ベッドで眠る主の姿を見つめていた。
氷水に浸したタオルを額にかぶせてしまったから、表情がよくわからない。苦しんで、つらい思いをしているのでなければいいと心から祈る。
(やっぱり、無理にでも休んでいただくべきだったわ)
エルゼは自分に腹を立てていた。
主の体調不良を知りながらそれを放置し、結果として悪化させてしまった。これでは、使用人失格だ。針のむしろに座る思いだった。
後悔にひたるエルゼの背後で、なにか大きなものが動く気配がした。
はっとして振り返ると、まだ30歳前後に見える軍服姿の青年が、部屋を横切ろうとしているところだった。そういえば、主は彼を伴って帰宅したことを今更ながら思いだす。
「申し訳ありません、なんのお構いもできませんで。それで、あの……」
なんと続けてよいかわからず、言葉が途切れてしまう。
青年は、気にしなくていいと表情と言葉の両方で語り、身分を明かした。
「仕事が待っていると思えば、ゆっくり静養しようなんて考えられない人だからね。横取りしてやろうと思ってついてきたんだけど、今日のところは退散させていただくよ」
アントン・フェルナーと名乗った彼は、気さくに笑って部屋の外へ出た。一瞬、主のそばを離れるか否か迷ったエルゼだが、きちんとしたもてなしもできず、その上見送りすらも省略することはあまりに失礼だと考えて彼に従った。すぐに、伯父夫妻も戻って来るだろう。
玄関に向かって彼を案内しながら、エルゼはもう一度非礼を詫びた。
「それどころじゃなかったのは、その場にいたんだから知ってるよ。ところで、これは個人的な興味から尋ねるんだが、君はいつからここで働いてるんだ?」
「4カ月ほどになりますが、それがどうかなさいましたか?」
「4カ月ね。ふぅん」
フェルナー准将は、なにかを納得したような、そんな小気味よさげな笑みを口元に浮かべたが、エルゼにはなんのことかわからない。
そのことには触れず、彼は現実的な内容を口にした。
「今夜のうちに大本営に連絡して、明日以降休暇をいただけるよう手配しておく。だから、閣下にはゆっくりご静養いただくようお伝えしてくれ」
ここまではまじめだったが、急に皮肉っぽい口調になり、
「ま、目が覚めたら仕事したがるだろうけどね、あの方は。したがるからって、ほいほい与えたらダメだよ。実際指示を仰がなくちゃならないことは山ほどあるが、基本的に、今後数日間のあの方の仕事は体を休めることなんだから」
「えぇ、本当に、そのとおりです」
エルゼは力強くうなずいた。
フェルナーは楽しそうに笑うと、
「それじゃ、頼りにしてるよ。かわいいメイドさん」
不謹慎なほど明るい様子で帰って行った。
しかし、彼の態度を反芻しても、エルゼは少しも不愉快にならない。表面的にごくドライな人間を演じていても、主を気遣ってくれたことを感じられたからだ。
(ものすごくこわがられてるって聞いてたけど、案外、そうでもないのかも)
事実は、軍務省では職員の胃痛が多いと噂されるほどおそれられているのだが……。
心胆寒からしめた今夜の出来事に、フェルナーという軍人は、ほんの一滴だけあたたかな滴を落として行った気がするのだった。
* * *
一連の騒動に付き合った後、大本営への使者の役割を果たしたフェルナーが官舎に帰りついたのは、すでに零時をまわっていた。
さすがに体が悲鳴を上げていたが、まだ休むわけにはいかない。オフィスから、明日中に部下に指示しなければならない処理を持ち帰っていたからだ。
軽くシャワーを浴び、温めるの食事を胃に流し込んだ彼は、眠気をふりはらうためにも精力的に仕事に打ち込んだ。そして考える。上司がこんなことを連日続けていたのだとしたら、それは今日のような事態にもなるだろうと。
「ここのところ寒かったし。そろそろいい年だからなぁ」
エルゼはさらに失礼な表現を使ったが、フェルナーもそこまでは知らない。
ただ、若く愛らしい使用人が毎日上司の世話をしているらしいことに、なみなみならぬ関心をいだいた。ことに、主人を気遣う彼女の様子は、とてもただの使用人には見えない。
「ひょっとすると、あの方の倒れた原因は知恵熱かもしれない」
冗談交じりに口にしてみて、意外に、あり得ないことでもないのでは……という実感が脳裏をよぎる。
フェルナーは、不気味な含み笑いをもらした。
今日は確実に、給料以上の仕事をしたはずである。そして今後とも、上司のフォローに手を抜くつもりはない。むしろ全身全霊をかけてサポートしていく覚悟がある。そうであるからには、超過勤務手当を受け取る権利が生じるだろう……というのがフェルナーの主張だ。
なにも立身や名誉を望んでいるのではない。私的な好奇心を満足させてくれれば、それでじゅうぶんなのだ。
「これは、今後の経過を観察するのが楽しみだ」
周囲の反感を一身に集めながら、同時に畏敬の念を抱かせずにはいられないオーベルシュタインに対し、フェルナーとしては彼なりの敬意と好意を持っていた。彼の『忠誠心』ついての定義は「その価値を理解できる人物に対して捧げられるもの」であり、オーベルシュタインは十二分にその条件を満たしている。
この日から、鉄面皮の軍務尚書と可憐な少女の微妙な関係は、有能な副官の悪意のない観察対象となるのだった。
≪続≫
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
あとがき
ベタベタなネタで申し訳ないですが、逆にオーベルシュタインの場合これくらいじゃないと話が進まない気がしたので、体調不良で倒れていただきましたw
次回がラストとなりますが、さて、どこまで関係が進展するでしょうか? 楽しみにしているという奇特な方、がっかりさせちゃったらすみません(汗)でも精一杯やりますね。
最後になりましたが、ここまで読んでくださった方、またコメントまで付けて下さった方、ありがとうございます。励みになります。また、以前いただいた「漢字の使い方について」のコメントを参考にこのたび少し修正を加えていますので、この場を借りてお礼申し上げます。
それでは、また最終話でお会いできることを祈っています。。。
2010年12月12日 ──路地猫みのる──
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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