オーベルシュタインが突然に倒れてからというもの。

 軍務省の内外は「鬼の霍乱」の一語で持ちきりだった。特に、オレンジ色の髪を持つ猛将として名高いある提督は、ひじょうに嬉しそうに、その事実を率先して語った。彼の家訓に乗っ取り、堂々と大きな声で。

 それらの話を聞いた人々、中でもオーベルシュタインとは近(チカ)しい(とはいえ友好的ではない)関係にあった人々は、最初に驚き、次に意地悪く皮肉を言おうとして……結局は驚きを表現するだけにとどめた。軍務尚書がどれほど冷徹で周囲との調和を重んじない人物であったとしても、彼が王朝の開闢に多大な貢献をしたことは事実であったし、そうして発足した新王朝の中で地位にふさわしい重責を担っていたことも否定できないのだから。

 オーベルシュタインとは同格で、しかし彼よりまだ若い元帥たちは、

 「他人事だからと言って笑えんなぁ。おれたちは老いぼれるには早いが、もう若くもない。おれの健康管理は妻に任せたらいいが、おまえは自分自身でじゅうぶん気をつけろよ」

 「なさけない忠告だな。だが、ありがたく受け取るとしよう」                                                              

 非公式の場で、こういう会話を交わした。

 彼らの僚友で、砂色の髪と瞳が温和な印象を与えるある提督は、なぜかゴシップシーンによく遭遇することで知られている。このたび、オレンジの髪の猛将にお株を奪われるかたちになったわけだが、彼は小さく笑ってそれを甘受し、芸術家提督に「彼の声は大きくてよく通るから、小官などよりもよく噂話を広めてくれます」と語った。

 そんな具合で各所に話題を提供したオーベルシュタインの療養休暇は、ちょうど1週間で幕を閉じた。

 本当なら6日目にはじゅうぶん動けるようになっていたのだが、忠実で可憐な使用人にベッドに押し戻されたため出仕が遅れたということは、僚友たちの誰も知らないことだった。

 







『ラブストーリーは突然に』(後編)

──銀河英雄伝説──


 

 

 

 皇帝ラインハルトに公務を滞らせた謝罪を済ませると、オーベルシュタインは軍務省に戻り、休暇中にたまった仕事を精力的に片づけ始めた。

 単純に書類の数だけを見ても膨大な量になっているが、想像していたよりはずっと整理整頓されている。誰の采配かはよく承知していた。彼には、至急な案件や重要な処理を役宅に運ぶ役目も任せていたから、状況が落ち着いたら、なんらかの個人的な謝礼を考えなくてはならないだろう。

 膨大な処理をこなしながら合間にそのようなことを考えていると、時間はあっという間に過ぎていった。

 夜の帳がおり、建物の人影が少なくなるころになると、厳しい目つきの副官がやってきて、オーベルシュタインを自宅へ追い立てた。不快にも不満にも思い、抗議すると、

 「病み上がりの方にはおとなしく従っていただきます。そんなに仕事がしたいなら、家に帰ってからなさったらいいでしょう」

 と冷たく一蹴され、しかも直接ランドカーに押し込まれた。

 オーベルシュタインは、いまいましく舌打ちをしたいと思ったが、それは彼の流儀ではなかったので実行しなかった。

 まったく、副官はよく理解している。帰宅してしまえば、仕事などできないということを。

 可憐な使用人が、形の良い眉を吊り上げてお説教を始めるに違いないのだから。

 





* * *
 
 医師の処方で高熱は落ち着いたものの、一日中微熱が続き、体がだるい。そんな状態がもう5日も続いている。 

 オーベルシュタインが発熱して以降、エルゼの看護は献身的だった。

 これまでも使用人として主人に忠実であろうとする姿勢が顕著だった彼女だが、いっそかいがいしいといっていいほどの働きぶりである。病床にあったオーベルシュタインが逆に心配したくなるほどだ。

 特に、ほとんど眠っていないらしいことが気にかかっている。

 日中でも夜間でも、ふいに眼を覚ました時、つねに彼女の気配がそばにあった。喉の渇きを覚え水差しに手を伸ばすと、横からそっと伸びた白い手がそれを取り上げてしまう。汗で貼りついたシャツが不快で着替えようとすると、かたわらに寄り添って介添えをする。

 水差しに満たされた水は、胃腸に負担をかけないよう、つねに冷たいと常温の中間くらいの温度に保たれていて、どうしても冷たいもので喉を潤したくなった時は、細かく砕いた氷を飲ませてくれた。着替えもいっしょに用意されていて、それに腕を通す前には、彼女が熱いタオルで体を清めてくれる。心地よさと熱による倦怠感でうっかり見逃すところだったが、相当熱い温度のお湯だったらしく、小さな手が真っ赤に染まっていた。気が付いてよかった。そうでなければ、彼女からはなにも言って来なかっただろう。次回からは普通のお湯で良いと言い渡すと、小さく首肯した彼女は、着替えを手伝ってベッド横たわらせ、最後に冷水に浸したハンドタオルを額に乗せてくれた。もちろん、このタオルが生ぬるい状態のまま長時間放置されたことはない。

 

 そうして明けた6日目の朝は、これまでに比べるとずいぶん症状が落ち着いていた。

 頭痛やのどの痛みを感じなくなり、思考も明晰だった。体のだるさは完全に抜け切ったわけではなかったが、ベッドに半身を起こし、室内を見渡す程度の余裕はある。

 必要最低限の調度品しかない寝室に、見慣れないものがいくつか増えていた。

 氷に満たされた水桶、清潔なタオルが数種類、医師の出した薬と一般人が使用できる医療用具、きちんと折りたたまれた着替えがいくつかと、それを膝に乗せて座ったまま眠っている若い女性の姿。

 年齢は25歳だというエルゼは、普段はそれよりずっと若く、というよりむしろ幼く見える。よく動く表情と、好奇心を映して輝く黒い瞳のせいだ。しかしそれらが皮膚の下に隠されている今は、年相応の娘に見えた。まつ毛の落とす影が疲労の濃い印象であるが、みずみずしく張りつめた皮膚や、すらりと伸びた長い手足が健康的でまぶしい。日ごろはさっぱり結いあげている黒髪が首筋にかかるさまも、大人びた雰囲気をまとわせるのに一役買っているようだ。

 カーテンの隙間からもれる朝日の筋から逃れるように、ひっそりと片隅で眠っている彼女をもう少し見つめていたい気分になったが、そのままにしておいては彼女が風邪をひいてしまう。そして、彼女を抱えて運んでやる体力が戻りきっていないのは明らかだった。

 オーベルシュタインは再びベッドに戻ると、もそもそと動きながら、軽く咳払いをした。するとほどなく、人の気配が動いて、彼女がそばにやってきたことが分かる。

 体を傾けて水をくれるよう頼むと、

 「よかった、意識がはっきりなさったのね」

 ひとり言のようにつぶやくと、すぐさま水差しを差し出した。

 オーベルシュタインは身を起こし、彼女の手からそれを受け取って、自ら口に含んだ。それを見届けて「伯父夫婦を呼んでまいります」と駆け出して行った彼女の後ろ姿を見送り、ガラにもないことをしたなと軽く嘆息する。

 まるで今起きたばかりのように装ったのは、小さな気遣いだった。眠っている姿を見られるのはさぞバツが悪いだろうと思ったのだ。この数日間、立場が逆だったのだからよくわかる。若い娘ならなおさらだろう。

 さきほどのエルゼの表情を思い返してみる。

 嬉しさと安堵のにじむ親しみのある笑顔を、好もしいと感じた。そういう感情をまだ失っていなかったことに驚くが、不愉快ではない。むしろ自然な流れであるように思う。あれほどまっすぐな気持ちを注がれて、好意を抱かずにいられるだろうか。

 オーベルシュタインとしては、そろそろ自身の気持ちと向き合う時期が来たことを認めていた。

 

 しかし、それとこれとは別問題だ。

 「旦那さま。お体をお拭きしますから、お召しものをこちらへ」

 そう言われて、では遠慮なく……と衣服を脱げるほど、オーベルシュタインは非常識人ではないつもりだ。熱で朦朧としている状態ではないのだし、すでに着替えくらいのことならひとりでできる。洗濯かごを傍らに微笑んでいる若い娘の前で、ぽいぽい脱ぎ散らかす気分にはなれない。

 とりあえずその場は「ラーベナルトにやってもらうから、下がりなさい」と逃れたものの、エルゼがなぜか傷ついたような顔をするので、つい「今日明日と休暇を取るつもりだから、軍務省へ連絡を入れておいてくれ」と言ってしまった。病み上がりに早速出仕しようとすれば、彼女が心配するだろうことは簡単に想像できたからだ。

 案の定、エルゼは喜びを隠さず「はい、ではそのように」と弾むような声で答え、その場をあとにした。

 自分の決済を待っているであろう仕事の山を考えるとそのようなことをしている場合ではないのだが……鉄面皮と恐れられるオーベルシュタインも、苦笑せずにはおれない心境だった。

 




* * *

 主人であるオーベルシュタインが回復したのは喜ばしいことだったが、そのこととは別にエルゼの気分は晴れなかった。

 少し疲れがたまっていることも関係しているのだと思う。この数日は、看病のために睡眠時間を削っていた。しかしそんなものは体を休めればいいだけの話だから、大した問題ではない。

 エルゼの悩み。それは、主人にあまり必要とされていないのではないか、という疑念だ。

 看病するなら医療従事者、家事ならハウスキーパーなど、オーベルシュタインはプロを雇うこともできるのだ。それなのに、ただ家事が得意というだけのエルゼを使ってくれていることは、本当にありがたいことだと思う。できるだけその厚意に報いたいと努力しているつもりなのだが、なにせ主人は、エルゼの仕事ぶりに対してなんのコメントもくれない。

 余計なおしゃべりを好まない性質だということは、理解しているつもりだ。だから、主人の無言の期待を背負っているつもりで、頑張って来たのに。

 今朝、実は期待などされていなかったのかもしれないと、エルゼは感じた。ほんのささいな出来事だったが、それによってエルゼが負った心理的なダメージは大きかった。

 

 オーベルシュタインが病床に伏してから7日目の朝。体調もほぼ回復し、明日から復帰という日である。

 まるで主人を祝福するかのような、良い朝だった。空は高く青く、風は穏やかであたたかい。

 早朝から洗濯物を干し終えたエルゼは、浮き立つような気持ちで、主人の寝室を訪れた。

 「おはようございます、旦那さま。ご気分はいかがですか?」

 エルゼの問いかけに、ベッドに腰掛けたままのオーベルシュタインは軽くうなずく。

 「旦那さま。お体をお拭きしますから、お召しものをこちらへ」

 ほっとしたエルゼは、この一週間ずっとそうしていたように、主人に寄り添い衣服に手をかけた。

 その瞬間、オーベルシュタインの腕が伸びて、エルゼの手を押し返す。

 エルゼは驚いて一歩後ずさる。

 「あ、あの、旦那さま…?」

 「なにをやっている?」

 オーベルシュタインの苦い声に、エルゼはますます萎縮してしまった。

 「申し訳ありません。その、お召し替えをお手伝いしようと思ったのですが……」

 すると、オーベルシュタインははっきりとため息をついた。

 「ラーベナルトにやってもらう。いいから、君は下がりなさい」

 顔を背けてそう言われ、エルゼの胸は、泣き出しそうに痛んだ。

 主人がエルゼの行動に対して明確な発言をしたのはこのときが初めてで、しかもそれは彼女を拒絶する内容だったのだ。

 

 この一週間に、なにか失礼なことをしてしまったのだろうか。

 悶々と考えていると、ついうっかり現在進行中の作業を失念してしまった。

 ガシャァァァン……!

 足もとで、花瓶がガラスの破片へと姿を変えた。慌てて手を差し出すが、後の祭りである。鋭利な先端に触れた指先に、小さく血が滲んだ。

 「痛っ…! なにやってるんだろう、わたし」

 全身でため息をつく。屋敷の備品を壊したのは、ここへ勤め出してから初めてのことだった。これまでの経験からしても、さほど多いことではない。

 今朝は清々しい気持ちで見上げた空が、今はただ遠い。

 

 その夜。

 エルゼは、オーベルシュタインの書斎に呼ばれた。

 彼は、帰宅後すぐにシャワーを浴びたようだった。室内にはかすかに石鹸の香りが漂っている。

 服は軍服ではなく部屋着で、落ち着いた色合いのガウンを羽織り、わずかに濡れた髪は軽く後ろへ撫でつけていた。書斎の窓辺で存在感を放つ大きな机の前に立ち、薄暗い照明の中でエルゼを一瞥すると、ふいと視線を外して小さく手招きする。

 エルゼは、これから浴びせられるであろう悪い台詞を予感した。

 やはり、主人は今朝の出来事を怒っているに違いない。確かに、許可もなく身体に触れるなど馴れ馴れしい行為だった。それとも、ずっと前から不快さを感じていて、今朝決定的な気持ちになったのかもしれない。

 普段の居心地の良さに慣れて、すっかり失念していた。彼は厳格な主人であり、エルゼはその使用人にすぎない。厚情に甘えすぎてこのような事態を招いたのだ。

 (辞めろ、と。きっとそうおっしゃるつもりなんだわ。でも……)

 窓の外を眺めたまま、こちらを振り返ろうともしないオーベルシュタイン。

 その横顔を見ながら、エルゼの胸にはひしひしと重たい後悔の念が押し寄せていた。

 部屋の中間まで歩み寄ったが、それ以上歩を進めることはできなかった。

 エルゼはその場で、深く頭を下げる。

 「先に言わせてください、旦那さま。至らないところは直しますから、どうかこのままこちらで働くことをお許しください」

 主の不興を買ったなら、これから挽回したい。

 エルゼの中に、この屋敷を辞して別の場所で働くという選択肢などなかった。

 掃除も料理も、日常の何もかもを主のために動きたいという願いが、エルゼを強く揺り動かした。

 屋敷に勤め出してからの数カ月。自身に起こった変化にようやく気付いたエルゼは、戸惑いながらも、それを真正面から受け入れる覚悟を決めた。

 





* * *

  驚いたのは、オーベルシュタインのほうだった。

 「……なぜ辞めさせられると思ったのだ?」

 淡々と問う。これでも、当人は穏やかに話しかけているつもりである。

 エルゼはうつむいたまま、

 「だって、旦那さまは怒っていらっしゃるのでしょう?」

 幾分拗ねたようにも聞こえる声音でそう言った。

 はて、とオーベルシュタインは自身の記憶を辿る。

 そういえば今朝、着替えを手伝おうとしたエルゼを押しとどめたとき、彼女は傷ついたような表情をしていたことを思い出す。

 「君は、今朝のことを言っているのか?」

 「ラーベナルトに代われ、と旦那さまはおっしゃいました。でも、わたしだって、旦那さまのお役に立てるようになりたいんです!」

 顔を上げ、まっすぐ自身を見つめるエルゼの目は切実な光を宿しており、それがオーベルシュタインを心地良くさせた。その光こそ、彼女が自分のそばにいたいと願っている証拠だからだ。

 オーベルシュタインに、彼女を解雇するつもりなど毛頭ない。

 「なにか誤解しているようだが、今日君をここへ呼んだのは、褒美を取らせようと思ったからだ」

 「褒美、ですか?」

 「そうだ。こちらへ来てから休みもなく働かせているし、特にこの一週間は世話になった。望みがあるなら、言いなさい」

 「では、わたしは、今まで通りここにいていいんですね?」

 「むろんだ」

 必死に言い募る様が、オーベルシュタインの頬を緩ませる。

 エルゼが、ほっと全身の力を抜いたのがわかった。彼女は首を傾いで考えるそぶりを見せたあと、小さな声で、自身の望みを告げた。

 「あの、名前を……」

 珍しく歯切れが悪い。

 「名前?」

 「はい。名前を、呼んでいただけますか? だって、一度も呼んで下さったことないでしょう?」

 言われてみれば確かにそうだ。『ラーベナルト』 と呼ぶと、古株の執事とかぶってしまう。

 エルゼの黒い瞳と、オーベルシュタインの義眼がしっかりと向き合う。

 オーベルシュタインは、彼女の言いたいことを正しく了解した。体を巡る血液が、急に体温を上昇させる。

 「エルゼ、と呼んでも構わないか?」

 「はい。旦那さま」

 きっと、エルゼも同じように感じているのだろう。紅潮した頬にそっと右手を添えると、温かさよりも熱さが伝わってきた。

 彼女は恥ずかしそうに目を伏せながら、でもじっと動かないでいる。

 そのことで彼女の気持ちも容易に察せられたが、この初々しい時間を失うのが惜しくて、それ以上言葉を重ねることはできなかった。

 

 翌朝。

 玄関で、いつものようにエルゼの見送りを受ける。

 「いってらっしゃいませ、旦那さま」

 「あぁ。留守を頼む、エルゼ」

 肩越しに振り返ると、そこには喜びに満ちた笑顔があった。

 思わず細い体を抱き寄せたくなる衝動を必死にこらえて出仕すると、「時間外労働の正当な報酬」として経過を知りたがったフェルナーについそのことを漏らしてしまい、遠慮なく笑われてしまう。

 

 

 たとえば、白い雪をばらまき始めた空の向こう側に人知を超えた何者かが存在するのだとしても、このときはまだ残酷な鉄槌を振り下ろす気分にはならないようだった。

 宇宙歴799年は、静かに過ぎ去ろうとしている。

 

 

≪完≫
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 あとがき


 こんにちは。ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。

 更新も遅れるし……うぅ、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 さて、オベさんの恋愛はいかがだったでしょうか? と言っても、ほとんど何も進展していませんが(笑)

 もどかしく思った方、許して下さい。あのふたりは手をつなぐまでに3年くらいかかりそうな気がします;

 恋愛を主題に書くのは初めてだったので、ドキドキです。厳しいご意見も含めて、コメントいただけると嬉しいです。

 それでは。

 
 2011年1月9日 ──路地猫みのる──

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