空の境界
──変わりゆく日常──
「みんなとフィッシング/浅上藤乃編」
ICを下りて10分ほど車で走ると今日の目的地に着きました。うっすらと空に青みがかかっていますがまだ辺りは暗いです。周囲の風景は木々が多いというのがなんとなく確認できますが、それも照明がなければどこに来たのかわからないでしょう。
「よし到着だ。降りてもいいぞ」
蒼崎さんの合図で私と黒桐さんは車の外に出ました。蒼崎さんはお姐さんのような頼もしい女性ですが、運転が荒いのが玉に瑕(きず)です。駐車場に停める時も急すぎてハラハラどきどき状態で心臓に悪いです。
外に立ちました。肌を刺すような寒さが一気に私たちを襲います。コートだけでずっとそのまま立っているのはとても耐えられるレベルではありません。私と黒桐さんは周囲を見ることなく車内に戻りました。
「どうだ、やはり寒いか?」
蒼崎さんの問いかけにもすぐに答えられません。私と黒桐さんはしばらく震えていました。
「すごく寒いです」
ようやく黒桐さんが答えました。蒼崎さんは少し笑っています。
「まあ当然寒いだろうな。なんと言っても気温は氷点下7度だからな」
「ええっ! マイナス7度って……どうりで寒いはずね」
「本当にそうですね」
街に住んでいる私たちはとてもそこまでの寒さを経験することはありません。それでも冬用のコートやオーバーが手放せないのですから、こちらの寒さは私にとって未知の領域です。
「この地域なら時期的に早朝はそれくらいにはなるだろうね。これが一月に入ると気温が氷点下二桁台も珍しくないんだよ」
蒼崎さんの説明を聞いて黒桐さんが心底さむそうな顔をしました。私も驚きましたが、世の中を知るっていうのはそういうことですよね?
不意に何かを叩く音が聞こえました。視線を向けると御上さんが運転席がわの窓を叩いています。彼はなんだかとても暖かそうな白いラインの入った黒い色の防寒着を着ています。胸の部分に“TTW”とありますが、メーカーさんかデザインか何かでしょうか?
蒼崎さんがちょっと窓を開けました。
「どうした? 寒いんだが」
「ええ、すみません。俺は受付してきます。橙子さんたちは先に釣り場に行って準備しててください……はい、これパンフです。この駐車場がメインですが、各釣り場を車で移動可能です。
今、車が走っていった方向を進むと『ルアー&フライ専用区一の池』と書かれた案内表示板の立つ池があります。そこの池の前に駐車スペースが設けられていますから、そこに駐車してください」
という内容でしたが、正確に聞き取れたかわかりません。私は半分も話の内容についていけていませんでした。
ですが、受付をすると御上さんはおっしゃっていました。その場所は車から見えるロッジ風の建物のことでしょうか? もしそうなら興味があります。今後のためにもいろいろと知っておく必要があると思うのです。
それに御上さんのお手伝いもしたいし……
「あのう……」
私は、御上さんに声をかけました。声は小さかったけれど何とか届いたようです。彼はニッコリと笑顔を向けてくれました。
「浅上さん、どうしたの?」
黒桐さんが私を肘で小突きました。はい、勇気を出します。
「わ、私もご一緒してよろしいでしょうか?」
「えっ、受付に?」
「はい……」
「もちろんOKだよ。寒いからしっかり上着は着てきてね」
即答でした。私は準備をします。車を降りる直前に黒桐さんが「がんばってね」と声を掛けてくれましたが、ど、どうがんばればよいのでしょうか?
外に出ました。寒さは変わっていませんが、西の空が先ほどより明るくなっています。吐く息は白く、その白さが私には新鮮に映ります。冷たい空気に手をさらしてみました。たちまち指先が凍えます。刺す冷たさとはこんな感じなのでしょうか? なんだか……ちょっとイタイです。そのじわじわしたイタさが心地よく感じます……ウフフフ。
「……がみさん、浅上さん、あさがみさーん!」
私はハッとしました。目の前には長身をかがめた御上さんが私の目線に合わせた状態で怪訝な顔をしています。
「どうしたの? なんだかぼんやりしていたみたいだけど?」
顔が近づきました。ち、近いです! 近いです! 近いです。
ふ、藤乃はどうしたらよいのでしょうか?
「…………」
そっと私の額に彼の手が触れました。私の頭はグルグルです。
「あれ、もしかして熱があるんじゃない?」
心地よい感触に私の心はとろけてしまいそうです。かあさま、藤乃はこのまま恋に落ちてもいいですか?
「浅上さん?」
私は、もういちどハッとして力の限り否定しました。
「あ、あの熱とかありませんから……そ、その大丈夫です。ち、ちょっと楽しくて気分が高揚してしまっただけですから!」
私は恥ずかしくて建物に向って全力で駆けました。意気地なしです。どきどきしたままドアをくぐります。
「えっ?」
私は、入ってすぐに立ち止まりました。明るい照明、丸太で隙間なく構成された内部、なによりも懐かしさと落ち着き感にあふれた木の香りに鼻腔をくすぐられました。
私が立ち尽くしていると、後ろから声を掛けられました。御上さんです。私はさきほど失態を犯してしまいましたが、彼は気にしている様子もなく、とても落ち着いています。
私もドキリとしましたが大丈夫でした。木の香りが気持ちを和らげてくれました。
「どう浅上さん、いい感じでしょ」
「ええ、木の香りがすばらしいですね」
「でしょう。いい木を使ってるからね。それにまだ施設が新しいからしばらくはこの木の香りを楽しめるよ」
私は頷き、フロアを見渡しましたが、一つだけ疑問に思うことがありました。建物に近づいてわかりましたが、入り口にあたる建物は山小屋風です。ですが、その後方にある建物は白い壁の洋風の建物です。中に入ると境界が明確です。フロントの奥に続く建物は何の施設なのでしょうか?
「ここは宿泊もできる施設なんだよ」
御上さんが疑問に答えてくれました。
「高速道路を一時間も走ればだいぶ北の方だからね。まだ暗いからピンとこないけど、ここの標高は500メートル近いんだ。明るくなればけっこう山のふもとだってわかるよ。ここはちょっとしたリゾート地にある管理釣り場なんだ」
「そうだったんですか。だから寒いのですね」
「まあね。新緑の季節になって来るとまた格別だよ」
「よくご存知なんですね」
「オープンからの常連だからね。今回の招待券は常連感謝祭でここが送ってくれたものなんだ。ちょうど6人だし、使うのは今しかないと思ったんだ」
御上さんはそう入って受付に向いました。私もついていきます。
木の香りがひときわ漂うフロントにはあごひげを生やした人懐っこそうな中年の方がいました。御上さんに「ひさしぶり」と声をかけていましたから、常連さんとしてよくお知り合いのなのでしょう。
私が驚いたのがフロントの後ろの壁に大きな魚の剥製が飾ってあったことです。種類はわかりませんが、あんな大きなお魚さんが水の中を泳いでいると想像すらできません。
ただ私が知らないだけでしょうけど……
二、三のやり取りが終わった直後、御上さんが5000円を支払いました。あれ? 無料招待券ではありませんでしたっけ?
私が首をかしげていると、御上さんは気づいたのか教えてくれました。
「一日の釣り券は無料なんだけど、バーベキューは半額なんだよ。それで6人分はらったんだ。ああ、これは橙子さんのお金だからご心配なく」
「バーベキューですか?」
「あれ、やったことない?」
私は頷きました。今まで学校でそういった催しはありませんでした。礼園の場合はなおさらです。私自身が友達に誘われても行かなかったということはあるかもしれません。
「このフロントから右手のちょっと奥に屋根つきの長い建物があるでしょう? そこがバーベキューのできる場所になっているんだ」
御上さんがそも方向を指差します。木が少し邪魔ですが、照明に浮かび上がった彼の言う建物が見えました。
「ここは事前に予約しておけば必要な材料や道具を全部用意してくれるんだ。まあ、他に食べたいものとか飲み物は自分たちで調達しないとだめだけどね」
「そうなんですか。どうりでお荷物とか身軽なはずです。便利ですね」
「そそ。バーベキューの材料とか道具とかはけっこうかさばるからね。ごみの処理とかも大変だしね。でも施設が酔用意してくれるから、あとのごみもちゃんと処分してくれるんだ。ここは釣りがメインだからね。バーベキューは二次的だけど、気軽に楽しんでもらえるようにサービスはしっかりしているんだ」
「なんだか楽しみですね」
「うん。その時は浅上さんにも手伝ってもらうからね、よろしく」
「はい、よろこんで!」
私は心からそう言いました。先輩や蒼崎さん、黒桐さん、式さんや御上さんたちとともに過ごす日々は私にどれだけの存在意義を見出させてくれたかわかりません。だから私は過去の大きな罪を背負いつつも、ゆっくりと前に進めているのです。
御上さんが入漁券だというピンクのリボンを渡してくれました。これを付けていないと不正(密漁)になるそうです。なるほど。
「さて、みんな待ってるから行くとしましょう」
「はい」
外に出ました。ずいぶん明るくなっています。なんだかとても厳かで幻想的ですらあります。駐車場に車がどんどん入ってきます。寒さはこたえますが、私はおもいっきり伸びをしました。見上げる空は青く、今日一日が晴天だということを教えてくれます。
「うん。日中は気温がけっこう上がるそうだから、午前中だけ我慢できればお昼にはきっと日差しが気持ちいいと思うよ」
御上さんがさわやかな笑顔を向けてくれました。私も自然と笑顔になります。笑顔になれるんです。
だってこの人は私にとっての拠所だから……
私は中学生の時、体育祭で怪我をしましたが、痛覚のなかった私は苦しさを我慢していました。そのときに優しくしてくれた先輩がいました。名前も知らなかった先輩は実は黒桐さんのお兄さんだったのです。
でも先輩にはとても大切に思う女性がいたのです。入り込むのが不可能なほど、二人の絆は強かったのです。私は先輩の想い出を胸につらくてもずっと生きていこうとしました。
ですが、私を守りたいと言ってくれた人がいました。私の罪も私の能力も知った上で「守ってあげる」と言ってくれたのです。
「自分の存在意義を取り戻してほしい」
彼はやさしい瞳で私を勇気付けてくれます。先輩と同じ優しさで私を支えてくれようとしているのです。
そのわりにたくさんかまってくれるわけではありません。黒桐先輩と同じく、この人もまた周囲の人を気遣うやさしい為人なのです。
それでも私にとっては今は彼が拠所……
でも、彼はいつでも私に振り向いてくれます。私のことを見ていないようで気遣ってくれています。
だから、藤乃はもっともっといっぱい生きていけそうなのです。
「では御上さん、急ぎましょう」
「おっ! 張り切ってるね。その調子さ」
「はい!」
私は駆け出しました。駆け出してしまいたいくらい心が躍っているのです……
──浅上藤乃編END──
……御上真編に続く
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
あとがき
浅上藤乃編です。なんか久々に「ふじのん」中心の物語が書けました。嬉しいです。もう一方のSSは藤乃主人公なんですが、進んでねーorz
一応、「心情交差」は「変わりゆく日常」の前の物語なのです。本来ならふじの編が終わって日常編になるはずが、いろんな誤算で藤乃編が後回しに!
このSSを投稿した日、ついに第七章が公開されました。一年以上にわたる公開でしたが、それがついに夏をもって終了です。
初の映像化となった「空の境界」……はたして知名度をより確立させることができたのでしょうか? 二次SSとか増えるかなぁ……
2009年8月8日──涼──
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
押して頂けると作者の励みになりますm(__)m
<<前話 目次 次話>>