空の境界
─変わりゆく日常─



「みんなとフィッシング/黒桐鮮花編」


 私が御上さんの「計画」に飛びついたのは、幹也を式にとられっぱなしの現状を少しでも改善し、一人の女としての「私」をアピールすることだった。

 いろいろと守らなければならない注意事項こそあるものの、なんと御上さんはすぐに約束を実行してくれた。高速道路のSAの休憩場で幹也と私を向い同士にしてくれたのだ。

 式は幹也と同じ側の席に座ったが、私たちからは離れた左端の席位置にあり、その隣に御上さんが座って幹也からブロックするという実に見事な配置だった。ただ離しただけではなく、橙子師と御上さんが常に式を相手にし、私たちに気が向かないようにするという絶妙な配慮だった。

 あの式がまったく幹也に話しかけられず、橙子師と御上さんのペースに巻き込まれる光景は愉快爽快としか表現のしようがない。

 私が「凄い」と思ったのが、わりと中立な橙子師をさりげなく協力者に引き込むという事前戦略だろう。まさかここの管理釣り場に儲け話があったとは……

 師が今日のイベントに必ず興味をそそるように情報を伝える土台作りと、その内容にある師の価値観と心理をたくみに利用し、わかっていて協力をするように仕向ける策略だ。

  とてもじゃないけど私には到底なしえない手腕だといわざる得ない。

 「御上さん。ぜひお願いします」

 「そうか、どうやら二人の利害は一致したようだね」

 「ええ、うふふふふふ……」

 「ふふふふふ……」

 私たちはお互いにがっちり握手した。だってだってこれ以上の最高の舞台はなかなか作り出せないもの。「二人きり」という設定ではないが、「たいていそのシチュでは邪魔が入る」という御上さんの予想は的を射ていて、過去何度も「二人だけ」の時間を何者かにぶち壊されている。

 ──であれば最初からその障害となりうる人物を交え、「華麗かつ緻密なミッションを実行してしまおう!」となったわけ。

 そこで、いくつか私が守るべき項目がある。

 一 御上さんの指示に従うこと

 二 式をむやみに挑発しないこと

 三 自分を見失わないこと (うっ……)

 「一」は当然といえば当然だと思う。御上さんは式のあれこれを激写したいために今日の計画を考え付き、それを実現するために主要パートナーとして私、黒桐鮮花を選んでくれたのだ。

 私は、これまでのようなどんでん返しの失敗はしたくないので、しっかりと彼の指示に従い、幹也と楽しい時間を過ごすつもりだ。

 「二」は、あまり幹也とのコミュニケーションを過剰に式にアピールすると、120パーセントの確率で破錠するというお達し……

 ええ、まあその通りなので気をつけねば。

 「三」は「二」に関連するが、御上さんが一番心配している点だったりする。

 つまり、幹也と「ほぼ二人きり」になった私が「一」と「二」の注意事項を忘れ、暴走してしまうのではないかということ。

 「大丈夫です。任せてください!」

 と胸を張って言いたかったけど、十分ありえるので普段以上に気を引き締めねば。(はあ……)

 私は私で、御上さんに協力する代わりにある条件を出した。それは親友である藤乃をかまってあげてほしいという事。

 もちろん、藤乃が彼に想いを寄せ始めているからだ。


 私は藤乃が犯した罪を知っている。でも、それをとやかく責める気はまったくない。常人には決して理解できない、彼女がずっとずっと物心付いたときから秘めていた苦しみと葛藤に気づいてやれなかったからだ。

 私は藤乃の気持を受け止めて理解してあげるだけ。精一杯、藤乃の居場所はあるんだと教えてあげるだけ……

 藤乃は10月も終わりに近づいた頃、学園に復帰した。私は偶然のきっかけから橙子師より親友に起こった出来事のほとんど全てを知ることになったけれど、私は何も触れないことにした。

 ただ「おかえりなさい」といって彼女を強く抱きしめてあげただけ……


 私が心配したのは藤乃が以前にもまして塞ぎこんでしまったことだ。何かを少し取り戻したように思えたけど、親友の身に起こったつらい出来事を考えると、私もどう励ますべきかわからないでいた。

 だから12月のある日、藤乃を誘って久ぶりに「アーネンエルベ」に顔をだしたら「幹也」にばったり会った。

 私は、藤乃の怯えと困惑、抑えがたい感情の高鳴りを今でも忘れることができない。ここに居てはいけないという「否定」とこのままここに居続けたいという「願望」がせめぎあっていたのだ。

 最初、その感情の衝突が何であるのかわからなかったけど、まさか藤乃が想いを抱いていた中学生時代の「先輩」がよりによって幹也──私の兄だったなんて……

 ちょうど半年前、私は藤乃から中学生時代の「出会い」を打ち明けられ、捜すのが得意な幹也に人捜しを依頼しようとした。

 結局、兄は急な用ができて来れなかったのだけれど、今、考えれば神様が存在するならなんて酷い仕打ちをしたのだと思う。

 だって、そのとき藤乃が幹也と会っていたら、きっと何かが変わっていたかもしれないのだ。

 でも、もう全ては過去の出来事。後戻りはできないのだ──

 ──できないけれど、あのときの「再会」は戻っては来ないけれど、奇跡というのは本当に起こるのだと思った。

 藤乃はようやく「先輩」と再び会うことができたのだから。

 
 幹也と藤乃が何を話していたのか、正直なところ私はよく憶えていない。ちょと嫉妬していたという事実は否定できないけれど、親友の穏かな表情を奪い取る権利もないから時間とともに変わりゆく外の景色をぼんやりと眺めていたと思うのだ。

 そして運命の瞬間がやってきた。アーネンエルベに背の高い、クセのある赤茶色の髪の幹也の友人が姿を現したのだ。

 「御上真」というその人物に会ったのはそれが最初だった。どこか既視感を漂わせる彼は幹也と喫茶店で待ち合わせをしていたのだという。

 「黒桐鮮花です」

 私は自己紹介をした。けれど御上さんの視線は私の隣に座る親友に向けられていたのだ。

 「浅上藤乃……」

 ぽつりと呟いた彼は信じられない行動に出た。その長身がみるみるうちに崩れ、額を床にこすり付けて藤乃に向って土下座をしたのだ。

 「すまない、浅上藤乃……」

 私は、このとき初めて藤乃をずっとずっと心配していた一人がいることを知ったのだ。行動しなかった自分を責め続けていたもう一人と邂逅することができたのだ。

◆◆◆

 その後、私たちはアーネンエルベを出て近くの公園に向った。御上さんが藤乃と話したい内容がとても店内で交わせるものではなかったからだけど、あの土下座をされた状況でそのままお店にいるのも問題だった。

 御上さんと藤乃はしばらく、冬の日差しをいっぱいに浴びるベンチに座って話をしていた。私は二人の様子を幹也と一緒に少し離れた別のベンチに座って見守っていたけれど、最後に藤乃が見せた笑顔が会話の全てを物語っていたと思うのだ。

 その日を境に藤乃に変化があった。それまでの生活から脱出するように自分から様ざまな事に積極的に関わろうとするようになったのだ。笑顔も増えたし、一番の驚きは決して足を運ぶことのなかった橙子師のビルに顔を出したことだ。命のやり取りをした式に声をかけたとき、式の実に迷惑そうな顔は今でも忘れられない思い出になった。

 それから度々橙子師のビルに足を伸ばすようになったけれど、私は気づいたのだ。藤乃は幹也より御上さんと話をしていることが多いということ。彼と話をする藤乃の顔がとても輝いていることに気が付いたのだ。

 「ふむふむ、なるほど」

 私は、ふとある日、学園に戻る途中に藤乃に単刀直入に尋ねた。彼女は否定せず、頬を赤くして視線を逸らせてしまう。

 しかも、私は藤乃が夜こっそり御上さんにTELしている事実を知ってしまったのだ。

 「これって本物よね」

 だから私は藤乃の想いを成就させるために全面的に応援することにした。藤乃はちょっと控えめだったけど、追及すると否定はしなかった。

 御上さんは妙なところで鈍いんだけど、まんざらじゃないみたいだから、今日の計画に協力する代わりに「藤乃にかまってあげて」という条件を出したのだ。

 ふう……最初、藤乃が幹也に想いを抱いていたと知ったときはどうなるかとあたふたしたけど、きっと藤乃は「あこがれ」から「本当の恋」を見つけたんだと思う。拠所となる人に出会えたんだと思う。

 それだけ御上さんが差し出した手はとても温かったのだろう。

 け、決してライバルが減ったなんて思っていやしないんだからね!


◆◆◆


 「じゃあ鮮花、まずは教えたとおりにやってみよう」

 「はい、兄さん」

 私は教えられたとおりに竿を構えた。幹也にレッスンを受けたとおりに投げる。

 投げるんだけど近くに感じるこの幸せ感がたまらないわぁ……


 幹也が私にアドバイスしてくれる。

 「鮮花、もうちょっと腕を曲げて……そうそう」

 ああ、幹也の声が耳元に響く、幹也の息が、幹也の香りが……

 な、なんて幸せすぎるの!!


 私はすっかり御上さんの懸念どおりの行動をとってしまい、あろうことか幹也を釣ってしまった。

 「ご、ごごごごめんなさい! 兄さん大丈夫ですか?」

 私は、慌てて幹也の背中にざっくりと刺さった疑似餌の針を抜こうとするが、意外にすぐ抜けない。

 「うおーい鮮花ちゃん、俺が外すよ」

 あたふたしていたら御上さんが助けてくれた。幸い厚手の防寒着のおかげで大事には至らなかったものの、恩をあだで返すよう失敗に当然ながら御上さんから厳重注意を受けてしまった(泣

 「たしかに今のはまずかったわ。せっかくのチャンスを自分から不意にするわけにはいかないわ」

 私は反省し、冷静になろうと気持を落ち着かせた。ムネに手を当てて3度深呼吸をする。

 「うん、大丈夫。黒桐鮮花ファイトよ!」

 御上さんが嬉しいことに幹也とのツーショット写真を撮ってくれると、なんか俄然やる気になってきた。(わたしも案外単純よね……)

 再び挑戦!

 幹也はいやな顔一つせず要点をアドバイスしてくれた。おかげでずっとまっすぐ静かに疑似餌は水面に着水した。

 「うん、いい感じだね。鮮花、ルアーが底に着いたら糸のたるみを取って竿先に神経を集中してリールをかなりゆっくり回すんだ」

 「は、はい兄さん」

 幹也のアドバイス通りに疑似餌が底に着いたのを確認し、糸のたるみに注意してゆっくりとリールを巻いた。

 正直なところ最初は疑似餌が底に着いた感覚がいまいちわからなかったのだけれど、「糸が出て行かなくなったら底に着いた証拠だよ」と幹也が教えてくれたので、それを見極めるのはさほど難しくなかった。

 私は、ゆっくりとリールを回す。思っていたよりも速度は遅い。また、糸を張ったまま回すということだけど、幹也が言うには竿を立てすぎると疑似餌がうまく底付近を泳がないから、やや竿を横に倒して巻くといいのだという。

 なるほど。ただ単に巻けばいいってわけでもないのね。まだ水温が適温になっていないから、早朝の時間帯、魚は底のほうであまり動かないらしい。

 ということは、水温が適温になるとまた回し方が変わるって事よね?

 「たかが魚、されど魚。橙子さんがこれも修行だっていった意味がわかった気がするわ」

 集中した一投は空振りに終わった。底のあたりを疑似餌が通っているので時折底に当たってしまう感触を魚のアタリというものと勘違いし、かかってもいないのに合わせをしてしまったくらいだ。

 幹也が気合を入れてくれた。

 「鮮花、いい感じだよ。その調子で次投げよう!」

 「はい、ガッテンです」

 幹也が御上さんに教えてもらったところによると、管理釣り場の魚を疑似餌で釣るには大まかに次の条件が必要なのだという。

 一 疑似餌を魚の面に通す

 一 好みのスピードを見つける

 一 好みの色を見つける

 一 イラつかせて攻撃させる

 一 水の流れを読む

 管理釣り場は魚がいるから安心だけど、油断すると釣れないこともあるらしい。連日、大勢の釣り人に疑似餌を投げられているせいで、自然に棲息する魚よりも疑似餌に慣れてしまって見破られてしまう確率が高いのだという。

 それを象徴したのが4つ目の条件だろう。疑似餌を「えさ」として認識させるのではなく、「敵」と認識させて攻撃させるのだという。

 魚に腕や脚はないから、大抵は口で攻撃する。または何度も投げることで魚の神経を逆なでして攻撃させるのだ。

 それで「釣る」というのは意外だ。

 それを専門用語で「リアクションバイト」と言うのだそうだ。


◆◆◆

 私は、5回ほど投げたところで反応がないので幹也のアドバイスに従って疑似餌の色を変えることにした。朱色から蛍光グリーンに変更して再チャレンジ。投げる場所も先までとは違ってやや岸と並行するように斜めに投げる。池のの流れは手前に向かっている。

 ふと右のほうに目をやると、式と藤乃がなんだか睨み合っている。

 「なんだろう?」

 と思ったけど、私は釣りに集中することにした。5回以上も投げたから、なんとなく疑似餌を通して底の状態が思い描けるようにようになっていた。着水時点からしばらく巻くと何かに軽く引っかかる。たぶん障害物か何かが沈んでいるのではないか、と私は考えた。

 だから私はもう少しだけ左側にずらして疑似餌を投げることにした。

 「鮮花、きれいに投げれたね」

 幹也が褒めてくれた。さっきから自分は釣りをしないでずっと私をフォローしてくれる。なんだかとても恥ずかしいのだが、幹也に見られているかと思うと私の身体は熱を帯びてくる。

 「あっ?」

 ガン、という感触が襲った。それまでとはまったく異なる生命感の振動こそ、魚が疑似餌を食べたのだと確信した。

 私は反射的に竿を引いて合わせていた。

 「やったよ鮮花、ヒットだよ、ヒットだ!」

 「ええ……」

 竿が曲がっている。魚が抵抗する感覚がひしひしと伝わってくる。

 「鮮花、慌てずに糸を巻くんだ。糸を緩めたり、竿を寝かせすぎてはいけないよ」

 「はい、兄さん」

 冷静に言葉を返したものの、気持はずい分焦っていた。人生初瞬間にどう対応したらいいのかぐるぐると思考が回ってしまい、なんか情けない悲鳴を上げながらずいぶん乱暴にリールを巻いたと思う。

 「よし鮮花、一匹釣れたね」

 幹也が人生初の獲物を網ですくってくれたとき、私は表現できない感動に包まれていた。

 「兄さん、私釣りました!」

 「うん、おめでとう。けっこう大きいよ」

 今まで感じたことのない達成感と興奮が私の心を一杯にしてくれた。一緒に喜んでくれる幹也の笑顔がとてもまぶしい。

 「はい、鮮花」

 幹也から魚の納まった網を受け取り、朝陽に反射して輝くきれいな魚体をじっと眺めた。

 「えーと、なんて魚でしたっけ?」

 「ニジマスだよ。英名ではレインボートラウトかな。名前の通り虹色に輝く魚体の模様が特徴かな」

 「ああ、なるほど」

 魚の大きさは30センチに届かないくらいだけど、幹也が言うにはレギュラーサイズより大きいらしい。

 私は、すぐに御上さんを呼んで幹也と一緒の写真を撮ってもらった。

 なんかめちゃくちゃ幸せー!! 

 幹也と「ラブラブツーショット写真」がまたまた撮れるなんて滅多にあるもんじゃない!

 御上さん、ほんとーに感謝します。

 「ああ、できればこのまま二人の時間がエンドレスに続けばいいのに……」

 至福よ! 至福のときだわ!

 時々目障りな女の姿が視界に入るけど、すくなくとも今日はあまり邪魔にはならないわよね!

 このチャンスを生かして少しでも幹也に私が「妹」じゃなくて「女」であることをアピールするのよ。

 うん、今回しかないわ! 負けてはいけないわ、黒桐鮮花!



 より勝利(幹也)は近くなるのよ!

 「うふふふふ、なんか萌えてきたわ!」

 「さすが鮮花、飲み込みが早いね。さあ、次行こう!」

 「え? ええ……」

 「この調子でどんどん釣ろう。鮮花なら初めてで二桁も夢じゃないよ」

 うう、なんか勘違いされたみたい。幹也が私を応援してくれるのはいいんだけど、なんとなく体育会系のノリが気になるところ。

 「よーし、今度は僕も釣るぞ! どっちが早く次を釣るか競争だ」

 なんか幹也の目が燃えてみえるんだけど……これってある意味、私だけをかまってくれてるってことよね?

 「はい、兄さん! 私だって負けませんよ」

 まあ、幹也のテンションはどうであれ、間違いなく意識はわたしのみに向いている。幹也にもっとかまってもらうためにもどんどん釣らないとだめかも。


 その後、私は4匹追加し、幹也にめちゃくちゃ褒められてしまった!
 
 ああ、幹也が私のために一生懸命アドバイスくれて、私のために声を枯らして応援し、私のために網をもって魚をすくってくれるなんて、なんてすばらしい時間なの!!

 「鮮花、君の釣れっぷりに兄さんの心もオーバーヒートさ」

 「そ、そんな兄さん……」

 ふと見つめ合う二人。秘めた思いはふつふつと燃え上がり……

 「どうして今まで気づかなかったんだろう」

 「えっ?」

 幹也は私の手を取ってぐっと顔を近づける。

 「こんな近くに素敵な女性がいることに気が付かないだなんて……」

 「あ……幹也」

 「鮮花……」

  お互いの唇が急接近!

◆◆◆

 ──なーんてなったらいいんだけど、現実は厳しいのよね(ちょっとよだれが……)

 まあ、そこまでは無理でも式に邪魔された分を少しでも取り返すことができれば……

 鮮花、努力するのよ!


 私は勇んで竿を振った。いままでより遠く飛んだし、狙いもばっちりだった。

 「さあて、幹也に褒めてもらえるような魚が釣れますように」

 私は、全神経を集中して疑似餌の動きを感じた。手に伝わってくる情報から水の底を感じ、状況を想像し、魚のいる層をなるべく長く一定の速度で泳がせる。

 「なんかいい感じね」

 ちょっとだけ竿を立てた瞬間だった。「ゴン」というひったくったような感触とともに竿がものすごく曲がったのだ。

 「大きい」

 私は瞬時に確信した。竿が持っていかれる。糸が伸びて何かまずいことになりそうだった。

 「鮮花、ドラグだ。最初に教えたようにリールの先にあるツマミを緩めるんだ」

 「は、はい兄さん」

 言われたとおりにリールの先端にあるねじみたいなヤツを緩める。

 とたんに竿の緊張がほぐれ、糸が勢いよく出て行く。

 「だめだ鮮花、もう少しドラグを緩めないと逆に糸を切られるぞ!」

 「う、うん」

 私は、ブレーキを少しだけきつめにする。おかげで無秩序に出ていた糸がほどよく出ていくくらいに調整できた。(それにしても幹也はいつの間に釣りの知識を身につけたんだろうか? 御上さんのスパルタかな?)

 でも魚の勢いは止まらなかった。糸がどんどん奥のほうにもっていかれてしまう。

 幹也の声がした。

 「鮮花、魚の移動にあわせてこちらも動くんだ。固定された場所でやり取りをしていると糸はどんどん引き出されていくし、竿に負担をかけることになっちゃうぞ」

 「はい、兄さん」

 私は、魚が泳ぐ方向に竿ごと移動した。なるほど、魚との距離を縮めることによって糸と竿の緊張がだいぶ軽減された。常に距離を縮めることでこちらの対応を有利に運ぶということだろう。

 これって、「敵」より有利な位置を確保する訓練に通じるんじゃあ……

 「御上さんが鍛錬に取り込むわけね」

 魚を「敵」もしくは「目標」とみなした場合、おのずとその攻略法は見えてくる。

 「そういうことなら……」

 私は、対処法がわかってきた。すでに5匹も釣り上げてだいたい飲み込めてきたこともあるけど、大物を釣り上げるのは今までやってきたことに「機動力」をプラスすればいいだけ。

 私は、常に魚との距離が最短になるように移動しつつ、魚に抵抗されながらも竿のしなりとドラグってやつを利用してしのぎ、確実に糸を巻いて徐々に岸に引き寄せた。

 そして……

 「やったね、鮮花!」

 「はい、ありがとうございます兄さん!」

 幹也が網に収めてくれた魚は、それまでの大きさをふた周りくらい凌駕した一番の大物だった。すくい上げる直前にくるっと回って逃げようとしたけど、幹也は冷静に判断して見事に網に収めてくれた。

 「やあ、とてもきれいな魚体だね。体高もあるし40センチちかいんじゃないかな?」

 幹也から網を手渡され、まだ暴れる「ソイツ」を好敵手のように眺めた。

 「やったぁ!」

 なんていうのか感無量! 幹也も一緒に隣で喜んでくれるし、萌えだよぉー

 このまま死んでもいいかも……

 撤回です。前言撤回です! 死んでたまるもんですか。両儀式から幹也を取り戻すまで私の戦いは続くのよ。


 測ったら42センチもあった。とてつもなく嬉しい。

 「ニジマスとしては十分大物だよ。これだけ体高があって魚体もきれいな固体はそうそう釣れるもんじゃないよ」

 鮮花、よくやったね、と言って幹也の腕が伸びたかと思うと私の頭を撫でてくれた!

 うにゃああああああー!! だ、だめよ黒桐鮮花、萌えすぎてお調子に乗ってはだめぇぇぇぇー

 でも、でも、もうたまりませんな!

 嬉しすぎてなんか泣けてきた……


 私は、御上さんがこっちを見ているので我に返り、急いで写真を撮ってもらうことにした。

 「御上さーん、大至急、写真撮ってくださーい」

 幸せの余韻が冷めないうちに全てを記録しておきたい!

 御上さんに大きなニジマスを見せると「すごいね、よく釣ったなー」とほめられたばかりか、もう6匹も釣っていることに驚かれてしまった。

 「すごいですか?」

 「ああ、よーく周りを見てごらん。鮮花ちゃんが一番釣ってたよ。みんな注目してたよ」

 「そ、そんなぁ……」

 なんとなく照れ笑い。まだ水温が上がりきっていない状況で短い時間にそれだけ釣れれば上々だそうです。

 「俺のハマリタイムには届かないけどね」

 そういって御上さんは私にウインクした。聞けば彼の最高記録は一時間で26匹なんだとか。

 さすがって感じ。まったく嫌味に聞こえないさわやかさが御上さんらしいです。

 その後も私は絶好調!

 とまではいかないけど、ぽつぽつと釣り上げることができていた。藤乃も初ゲットしたみたいだし、御上さんとコミニュケーションが取れてるみたいだから、まずはよしという感じ。

 ああ、式がまだゼロみたいだけど……

 あの貴女は殺気が邪魔しているんじゃない?

 動物とか魚ってそういう「気配」みたいなものに敏感だから「殺気」ならその比じゃない。寄ってこなくて当然かも。

 「鮮花ちゃーん!」

 声は御上さんだった。振り向くと右手の人差し指をくるくると回している。

 「ああ、交代てことね。式対策に移るみたい……」

 あれはサインだ。事前に御上さんとはいくつかサインを取り決めている。ずっと幹也と一緒にいたいけど、式をイラつかせるのは計画の失敗を意味する。式がどうのこうのではなく、結局のところ幹也が式を意識しないようにするためなのだ。適度に式の面倒を見させることで無意識的に発生する「おせっかい度」を和らげる効果をねらったものだ。

 これまで幹也とはいい感じだったけど、仕方がない。

 何よりも、ちゃんと約束を果してくれている御上さんに私も約束で応えなければならない。
一日をより多く幹也と過ごすためには多少の我慢は必要なのだ。

 これを戦略と言う。

 「はい、御上さんどうしました?」

 私はわざとらしく応じ、幹也を式に譲ったのだった。

 時間はもうすぐ10時半になろうとしていた。

 
──黒桐鮮花編END──

 

 ……両儀式編(その二)に続く

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 あとがき

 涼です。劇場版空の境界が終わり、新年二作目のSSです。

基本的に本編は日常編、外伝が非日常編となっているわけですが、肝心の非日常編が書けない現状……

 非日常編は「バトル」のはずなんですが……手が付けられません!


 2010年1月24日 ──涼──

脱字部分等、修正をしました。
鮮花の挿絵もちょい修正

2010年 3月16日 ──涼──


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