空の境界
─変わりゆく日常─



 「みんなとフィッシング/両儀式編」(其の二)





 「釣れねぇ……」

 私は12月の寒空の下、釣り竿を持たされた挙句に「ルアーフィッシング」とやらをやっている。寒い中に突っ立ってリールとやらをひたすら巻いているのだ。

 御上のヤツに拉致られたことはホントに頭にくるのだが、一連の疑惑に幹也はおろか橙子まで関わっているとなるとうっとおしいので抗議の声もあげづらい。

 「この辺で竿を放り投げてやるべきか?」

 とりあえず自重した。移動中の車内で目的を聞いたときに「ま、いいか」などと軽くスルーしてしまったことが今更ながら悔やまれるが、管理釣り場とやらにはたくさんの魚が放流されているので「余裕じゃん」とたかをくくって始めてしまったのも運のツキだった。

 後の祭り、身から出たさび……

 何を言っても言い訳になるだろう。

 それよりも

 「なんで釣れないんだよ! 魚いないんじゃないの?」

 とつい愚痴りたくなる。鮮花は好調みたいだ……おいおい、浅上にも先を越されただと?
たぶん、浅上の笑顔が私を哀れんでいるように映るのは気のせいではないだろう。

 「ちっ、こうなったら一人で帰るか……」

 実は私のサイフは抜かれていた。

 「こんな事はやめて近くを散策でもするか」

 ──山ばかりの荒涼とした景色しか見えない。殺したいヤツの気配なんかきっとあるはずがない! 何もない場所を歩くか、微妙だけど何かをしていることを選ぶか……

 答えは後者しかない。

 高速道路を1時間以上となるとかなりの距離だし……金のない私は自力で帰れる方法がない。秋隆を呼ぼうにもその手段がない。

 私は携帯電話なんか持っていない。めんどうだし、使う用途もないし……

 と思っていたけど、今回ほどその機能が必要だと痛感したことはなかった。

 前向きに検討しておこうと思う。

 それにしても私は安易に考えていた。もちろん「魚なんか余裕で釣れる」ということだ。

 ただし、私はすっかり「ルアーフィッシング」を誤解していたから、そういう意味では「待っている」というイメージの釣りのほうが良かった気がしないでもない。

 そう、単純にリールってヤツを巻けばいいわけじゃないことが難題だった。

 いや、タダ巻きしてもいいらしいが、それだけで釣れるほど魚もバカではないらしい。

 「えっ? タダ巻き? 別にいいですけど、ただなんとなくっていうのは確実にブルーになりますよ」

 御上の言葉が脳裏に甦る。なんとなく人を小馬鹿にしたような口調は私に対してあきれただけではなく、今の状態になることを少なからず予言していたわけだ。

 「腹が立つ……」

 最初から強引に連れられてきただけだから止めてもいいはずだが、幹也が楽しそうだし……

 いや、違う。あの浅上に釣れて私に釣れないなんて許せるわけがない。

 そう絶対に──たぶん。

 「式?」

 突然、誰かに声を掛けられて私は我に返った。声のほうに振り向くと、いかにも人のよさそうな笑顔の幹也だった。

 「どうしたの式、考え事?」

 「いや、別に……」

 「どうやって釣れるのか悩んでいるとか?」

 どうせ私はまだゼロだ。何が悪い!

 睨んでやった。

 「別にそんな怖い顔をしなくても……今度は僕が式の講師をするから一緒にがんばろう」

 「えっ?」

 幹也の顔が困惑気味だった。私はそんなに妙な言い方をしただろうか?

 「どういうことだ? 鮮花は幹也が教えていたんじゃないのか」

 「うん、そうだったけど、御上さんから式を教えてあげてって言われたんだ。鮮花は彼に別のテクニックを習いたいみたいだしね」

 「ふうん……」

 私は、疑うような目で御上を見た。あいつは鮮花と浅上に竿を片手に何らかの説明をしている。ときおりその内容が耳にわずかに入ってくるのだが、内容を到底理解できない。

 「妙な協定でも交わしてんじゃないかと思ったが……」

 私の考えすぎだったのか?

 私は、てっきり鮮花と幹也を一緒にしてそのままずっとさえ疑っていたのだ。

 だが、そうではなかった?

 私があれこれ思案をめぐらせていると幹也の声がした。

 「僕だったら式はもっと素直に学ぼうとするんじゃないかってことなんだ。実際、式は頑張っているし、まずは一匹釣るように力を貸すよ」

 「オレが頑張っている?」

 不本意な言われようだ。私が飽きもせずにずっと釣りをしているのが意外らしい。

 「式って意表を突くものにハマるよね。犬のぬいぐるみとかハーゲンダッツのストロベリーとか、チロルのダブルチョコ&チーズケーキとか」

 別にハマったわけじゃない。幹也、それは違うんだ。意地……いや、どうにも釣らないわけにはいかない状況に追い込まれただけなんだが……

 とはいえ、幹也の指摘も的外れじゃない。事実、私は自分でも「奇怪」と思うほど馬鹿みたいに竿を振り続けている。浅上がどうのこうのとか、つい数週間前ならそんなことを気にせずにすぐに放り投げたはずだ。

 しかし現実は不平を言いながらも「馬鹿にした釣り」をずっとやっている。

 これがアイツのもたらした「日常の変化」なのか? それとも私の「心情の変化」なのだろうか? たった一人が徐々に周囲を巻き込んだ結果なのだろうか?

 「じゃあ、式。まずはルアーをピックUPしてから、もう一度おさらいをしよう」

 「うん……UP?」

 「ごめん。ルアーを投げる前の状態にするんだ。つまり巻き取ってくれってことだよ」

 どうやら専門用語だったらしい。ホントにいつの間にそんなことを覚えたんだと不思議でたまらない。

 御上が教官だろうが、幹也と会ってからまだ3週間しか経っていないはずだ。本格的にアイツが(血迷って)トウコの事務所でバイトするようになって10日くらいだし、その間、とても釣りなんて行く余裕はなかったはずなんだが?

 「幹也、お前……」

 私は追及しかけて止めた。幹也の能力というのか、驚異とかいいようのない捜査能力が短い時間のうちに釣りの知識をばかみたいに高めたような気がしたのだ。

 あいまいな見解だが十分ありえる。

 それに事実を知ったところで得した気分になれるわけでもない。幹也が新しい知識を身につけた。しかも楽しそうだということだ。ただそれだけだし、それでいいと思う。



◆◆◆

 幹也は、私がルアーを回収すると、咳払いをして真剣な顔を向けてきた。

 「ねえ、式、釣りたい?」

 この問いにそれまでの私なら素っ気なく「別に」とか「どうでもいい」とか否定的に答えただろう。

 しかし、今回は感情的に否定することはしなかった。

 「とりあえず一匹釣りたい……」

 そう小さな声で言ったときの幹也の顔はこの世のものではない何かを見たような反応だった。

 「失礼な」

 と内心で呟いただけで口には出さない。私だって場合によっては自重くらいする。

 ちょっと横目で絶句する幹也を見ると、徐々にあいつの顔が笑顔になっていた。

 「うん。よし、式がやる気なら僕は全力でサポートするよ!」

 なぜそこでガッツポーズをとる?

 「じゃあ、一匹目指してあらためてレッスンスタートだ!」

 「ああ……」

 静かにはしゃぐ幹也の態度は、それはスイッチが入ってしまった事を意味している。乗った私が悪いのだろうか? それとも上手く乗っかっている幹也が凄いのか?

 とりあえず、まあいい……

 「じゃあ、おさらいをする前に……」

 幹也は私にレクチャーを始めた。

 「ねぇ式、一回投げてみてくれないかな?」

 「えっ? 投げるのか」

 「そうそう。そして実際にさっきまでと同じように釣りしてみてよ」

 「なんだ、おさらいするんじゃないのか?」

 「うん、そのために必要なんだよ」

 「まあ、よくわからないけど釣りをすればいいんだな」

 私は幹也を一瞥し、御上のヤツに教えられた通りに竿の弾力を利用してルアーを投げた。

 それはコツを掴んでから調子が良かったように、ほぼ狙った場所にまっすぐ飛んだ。

 「えーと、底まで落とすんだったな」

 私は、ルアーが着底するまで待ち、糸のたるみに注意してゆっくりとリールを巻き始めた。
ここまでは御上に指導を受けたとおりだ。アイツも合格点をくれている。

 でも全然だめ。

 やっぱり当たりもせずにルアーは私の手元に戻ってきてしまった。

 「うーん、なるほど」

 幹也は手を叩いて一人で頷いている。なんだこいつ?

 「何がなるほど、なんだ?」

 「うん。式がなぜ釣れないのかわかったと思う」

 「なっ!」

 私は大いに驚いた。幹也がたったあれだけを見て何が問題なのか掴んだというのだ。

 「こいつ、釣り○三平かよ……」

 私だってそれくらいは知っている。知ってちゃ悪いのか?

 「それで……」

 私の声と誰かの声が重なった。いや、聞き覚えのある声だ。声のした方を振り向くと、浅上の竿が(生意気にも)大きくしなり、隣で鮮花が網をもって待ちかまえている。

 「く……そぉ……」

 浅上が釣り上げた魚は大物ではなかったが、「スカ」の私には十分なプレッシャーだった。(たく、アイツをあの時助けるんじゃなかった)

 しかも、何食わぬ笑顔を向けてきやがって! すごく腹が立つ!

 浅上のヤツ、なんか最近お調子に乗っていないか?

 私は浅上に向って「白い牙」を見せたと思う。

 「しーき!」背後から幹也に呼ばれて私ははっとして振り返った。一瞬、幹也の顔がが怯えていたのは、きっと私の感情が露になっていたからだろう。

 「ま、なんだ……」

 私は咳払いをして、ごく平和そうな男に尋ねた。

 「で、オレの問題点はなんなんだ?」

 「そうだね」

 幹也の説明によると、私は完全に状況を外した釣り方をしていたらしい。

 「俺は御上の言うとおりにやったんだけど」

 と言ってやったら、アイツが私たちに教えた当初の方法が日が昇って気温と水温が上がり始めたことにより、状況が変わってきたとのことだった。

 「御上さんも鮮花を見たり浅上さんを指導したり、式の面倒も見ていたんだから変わり目の状況をアドバイスし忘れたんじゃないかな」

 単純にアイツのうっかりならそれはそれで理解できる。

 しかし、それが計算づくで私を意地にさせる企みだったら?

 「いいや……」

 私は疑惑を振り払った。おそらく──それでも御上のヤツは私を心理的に追い込むのが目的だったに違いないのだ。いかにも私が無理そうな「釣り」なんていう地味な嗜好に付き合せざる得ない状況にもっていくのが当初からの計画だろう。

 それはすでに2日も前(たぶん本人はもっと前から)から計画していたのだから、早朝に何もわからない状態で車に拉致られた時点で私の敗北は決定したようなものだ。

 「ま、いいか……」
 
 車中での一言が決定的だったし……

 まったく橙子以上に厄介なヤツだ。事件のときより冴えているんじゃないか?

 幹也が天使に見えてくるから不思議だ。



◆◆◆

 幹也の講義は続く。

 「今の時間帯は早朝より気温が3度も上昇しているし、太陽の位置も高くなって池にあたる日差しの面積も多くなっているね」

 と言って幹也は池のほうを指差した。

 「ねえ式、水面を見てごらん。何か朝と違わない?」

 疑問を呈されて始めて気が付いた。たしかに早朝とは違う。陽光が当たっているという単純さではなく、もっと視覚的に訴える明らかな内部的な違いだ。

 「魚が浮いているな」

 「そのとおり!」

 幹也は勢いよく声を上げた。ただ、視線を合わせなれないようなほくほく顔を向けるのは勘弁してくれ。私が恥ずかしいだろ!

 話が逸れた。

 私は頷き、どういうことだったのかおおよその想像をつけた。

 「つまり、オレは魚がいなくなった底の方を一生懸命ルアーで引いていたということか?」

 「まあ、そうだね」

 そりゃ釣れない。私はド素人だけど魚のいない所にえさを投げていたってことはわかる。

 「今日は天気がいいから水温の上昇も早いんだ。この池に日差しが当たりやすいのも水温の上昇を早めているかもね」

 ニジマスの適水温は10度〜20度くらいだという。ここの管理釣り場は湧水を利用しているから10度以下になることはないそうだが、それでも10度というのは十分冷たい。適水温といっても活動できるギリギリのラインといえるらしい。

 今はそのラインより2〜3度水温が上昇しているんだとか。

 つまり、早朝、魚たちは水温が一定の底の方に固まっていたけど、水温の上昇とともに動き出し、活動がしやすい適水温の層まで浮いているということだった。

 「だから式は底を狙うのを止めて表層近くを狙えばいいんだよ。浮いている魚はそれなりに捕食行動を積極的に行う魚だからね」

 「ふうん……」

 見える魚は釣れないって聞いた事があるけど、周囲に気を配ればターゲットになりえるとか。あと、岸からすこし離れて投げろってことだ。

 「よし、じゃあ投げるぜ」

 「ちょっと待った!」

 まだ何かあるらしい。私はいやな顔をせず、幹也のアドバイスを素直に聞くことにした。

 「その位置からだと魚は釣りづらいよ」

 私はずい分怪訝な顔をしたと思う。

 「なぜ?」

 「そうだね。式が釣るためのもう一つのポイントを教えるよ」

 魚は流れに対して頭を上方に向ける。

 つまり、川と違って一見、流れがないように見える池にも「流れ」はある。それは湧水の作りだす流れであったり、風が作り出す流れであったり、流れ込みと流れ出しが作り出す水の動きだったりする。

 「魚の目にルアーが見えないと当然釣る以前の問題だよね。じゃあ、魚の目の前にってことになるんだけど、必ずしも正面に通す必要はないんだよ」

 魚に向ってルアーを引くのはまずいそうだ。向ってくるものに対して警戒してしまうからだという。後方から前に縦断するように通すのも正しくない。魚の背中を通るわけだから気づかないってこと。

 じゃあ、どういった角度でルアーを通せばいいのかというと、魚の向きに対して横断するように通すのが最適らしい。

 つまり上から下、下から上という感じだ。それは斜めの場合もある。

 管理釣り場だと、当然個体数が多いから放流される魚は自然と固まるようになる。ツアーを魚体に対して「垂直」に通すことによって多くの魚にルアーが目に入るだけではなく、横から飛び出してきたルアーに対して反射的に食ってしまうこともあるんだとか。

 「へえー、なるほどね」

 私は少なくとも二つも重大な間違いを犯していたわけだ。

 「管理釣り場の魚はスレやすいけど、その分数も多いし、毎日定時にあらたな放流もあるから、必ず活性の高い個体はいるものなんだよ──

 ──ああ、スレっていうのは魚がルアーに慣れてしまって見向きもしなくなることを言うんだ」

 あともう一つ。ルアーを地味目に変更した。池の透明度が高いのと陽が昇って水面に陽ざしが差し込んでいるから魚の視覚に対してシルエットとして認識させるためだという。

 なんかすげーな。

 私は、幹也の講義を聞き終えるとやや右のほうへ移動し、浮いている魚に対して縦に横切るような角度から竿を降った。

 「よしよし」

 着水は静かだったし、狙いとおりのの方向に飛んだ。今度はもちろん底に沈めたりせず竿をややもち上げた状態から表層近くをゆっくり引いた。

 「おっ!」

 私の引くルアーに一匹の魚が反応した。だが速度をゆるめてしまったら魚は急に追うのを止めてどこかへ行ってしまった。

 これを見ていた幹也がすかさず私に言った。

 「今のは急に速度を落としたから見破られたみたいだね。魚にルアーを追いつかせようと無意識的に巻くスピードを落としてしまうことがあるけど、スピードを落とさずに巻き続けるか、逆にすこしだけスピードを上げるほうがいいよ」

 「なるほど」

 いろいろテクニックとか魚の習性であるんだなー



◆◆◆

 私は気を取り直して再びルアーを投げた。まったく魚が見えない底よりもはるかに視覚に訴える結果があったからに他ならない。

 あとは幹也からのアドバイスを基本にしつつ、私なりの攻略方法を模索する必要がある。

 「とりあえず一匹、一匹……」

 最初に比べれば、私は今の状況をずい分楽しめていると思う。アイツに乗せられたのだとしても──だ。

 まず、「釣りなんて……」と馬鹿にしていたことは大いに反省することにしよう。

 私はしばらくして場所を移動した。これは幹也のアドアイスを受けたからでもあり、風向きが変わったことによって流れが変わったのが自分でもわかったからだ。

 最初の場所から10メートルくらいは移動しただろうか。その場所は池でいうところの右端のあたりだ。水面をみると何も変化がないように思えるが、浮いた魚は私が立つ位置からだとほぼ左向きの体勢で後方に弧を描くように群れている。

 つまり、水の動きがそのまま魚の向きになっているわけだ。

 私は先刻より軽めに竿を振った。魚が手前側に浮いているので遠くに飛ばす必要がなく、手数を多くするには無駄な遠投は必要がない。

 着水させたら沈めずにリールを巻く。幹也曰く「水面下20センチ〜30センチくらいがいい」らしい。

 なるほど。魚の浮いている層がまさにそのくらいの間だ。一投目に比べれば竿の操作はマシになっていると思う。その層を維持するのが難しいところだが、地味目に変更したルアーが今の状況に合っていて視認性はいい。

 「あっ……」

 またやってしまった。反転して追ってきた魚がいたので思わずスピードを緩めてしまった。当然見切られてささっと逃げられてしまった。

 「く……そう……」

 私は休まずに連投した。さっきとはややちがう角度に投げる。

 一度通した場所に投げるのは良くないらしい。私はまだ素人だから、御上のように再度同じ場所に投げて釣れるという応用性がない。魚に覚えられないためには微妙にコースを変えるほうがいいのだ。

 「う、わぁ」

 自分でもまぬけすぎるくらいの声を上げてしまった。ルアーが大きめの魚の背中を垂直に横切ったときだった。後方から突然ものすごい速さでルアーに食いつたヤツがいた。

 がくん、と私の腕に重みが加わった。

 「しきっ! かかったよ、竿を立てるんだ」

 そんなことは言われるまでもない。私を浅上藤乃と一緒にしないでほしい。

 とは言うものの、私の声は上ずっていたから、それなりにパニクっていたと思う。なにせ初体験だからということもあるが、あろうことかあの二人がニヤニヤしながらこっちを見ているのを視界に入れてしまったのが気持の焦りを助長しただろう。

 「逃げられちゃえばいいのに」


 絶対にそういう目だった。

 私には非常にウザすぎでプレッシャーだ。

 「式、落ち着いて落ち着いて。しっかりかかっているから無理にリールを巻かないほうがいいよ」

 幹也のおかげで私は少し冷静になることができた。ちょうど魚が沖に向って走り出していたから、幹也の静止と支援がなければ強引にリールを巻いて切られていたかもしれない。

 そして、冷静になった私は幹也のアドバイスに従って苦戦しつつもなんとか魚を手前まで寄せることに成功した。
 
 「けっこう大きいかもね」

 幹也の見立ては当たっていると思う。ルアーをひったくったヤツはあきらかにそのあたりに浮いているレギュラーサイズより大きかった。

 しかも元気がいい。ずい分走られてしまった。最後のほうで再び沖に向って突進されたときは竿がとんでもなく曲がって折れてしまうんじゃないかとハラハラした。

 私は、御上に教えられた「ドラグ」という機能のことをすっかり忘却していたから、幹也が対応してくれなかったら最悪の結果を招いていただろう。

 幹也が私の初の獲物を網に収めたのは、やりとりを始めて5分くらいだった。

 「やったね。40センチはあるよ。しかもブラウントラウトだよ」

 「ブラウン?」

 私が釣り上げた魚はニジマスと同じマス科の魚で、ニジマスより獰猛なブラウントラウトだった。

 「ブラウントラウトは名前が示すように体色がブラウンなんだよ。 横に伸びた身体の半分を占める黒と赤い斑点模様も特徴だね。あと和名では茶鱒って言うんだ」

 なるほど。たしかに体色や面構えは幹也の言うとおりだ。お腹の辺りは黄色い気もする。
私は、あらためてブランウンを眺めた。口をパクパクさせている。何か負け惜しみを言っているようにも思えるから笑ってしまう。

 「えーと、何センチ?」

 メジャーを当てる幹也が言うには「39センチ」という返答だった。

 「ふう……」

 私は一息ついた。大きさでは鮮花に及ばなかったが、なんとかスカは免れたのだ。
妙な言い方だが重圧から解放された感じだ。

 私は、ふとあの二人を見た。一瞬だけ目を合わせた二人はすぐに視線を外し、何やらヒソヒソと会話を交わしていた。

 「ふん、まあいい」

 私は伸びをした。これで二人からの視線も気にはならなくなるだろうし、嫌味にも我慢できると思う。

 「しーきさん!」

 予想通り、そら来たぞ。振り向くと案の定、カメラを構えた御上が嬉しそうにこちらに笑顔を向けている。

 「なんだ?」

 「なんだって、写真撮らないとダメでしょ! はやくトラウトもってください」

 「いや、別にいいから……」

 「だめだめ、式!」

 幹也が絶妙なタイミングで御上を支援した。

 「式、せっかくの一匹目だし、思い出として写真に収めておこうよ」

 「幹也の言うとおり。両儀式としての立派な記憶でしょ。それを形に残しておかないとダメじゃん」

 「ねえ、式!」

 「ねえ、式さん!」

 ダメだ。こいつら完全にマジだ。私が隙を見て魚を逃がそうとしたら御上がすばやく確保しやがった。それを幹也に渡して自分はカメラをさっさと構える。幹也は仏のような顔でオレに魚を渡すしな……

 「わかった、一枚だけだぞ」

 結局私は折れた。どうも調子が狂っている。誰のせいとはあえて言わないが、日常が少しづつ変化しているからだろう。

 大はしゃぎの御上が去ったあと、私は初の獲物を池に放し、ふと太陽の光にまぶしさを感じて手で遮った。

 「冬の日差しってこんなに強かったけ?」

 それとなぜか暑い。着ているジャケのせいかもしれない。

 腕時計を確かめるともう11時を過ぎていた。

 「そうか……」

 私は一匹を釣るために3時間近くもかけていたんだ。

 我ながらよく飽きなかったとおもう。それだけ集中していたということだが、特に後半の30分は本当に短く感じていた。

 もっとも不思議だったのは、つりをしている最中、まったく他の事を考えていなかったという事実だ。

 別に私は煩悩の塊というわけじゃないから、普段からあれこれ思案を巡らせているわけじゃない。

 ──巡らせているわけじゃないが、本当に神経を研ぎ澄まして釣りに集中していたのだ。脳裏にそれ以外の思考はみごとになかった。

 ある意味、私は非日常の中で追い求めていたハンティングを擬似体験していたのかもしれない。相手は化け物でも異能者でもない。ただの魚だった。

 しかし、私は命のやり取りをする以上に苦戦を強いられてしまったのだ。

 「侮れない……」

 私は休憩することに決めた。

 「おい、幹也」

 私は、私の次を期待している男に右手を差し出した。

 「えっ?」

 幹也は怪訝そうに私の手を見返した。

 「どういうこと?」

 私は、あきれて軽く肩をすくめた。

 「オレ、ちょっと休憩する。コーヒー飲みたいんだけど」

 幹也は意味がわからなかったらしい。

 「オレ、財布ないんだよなぁ……帯から抜かれたんだよね」

 SAでは忍ばせていた500円でラーメンを注文したから今は無一文だ。

 幹也はようやく理解し、私に恐る恐る200円を渡した。

 「ぼ、僕は知らなかったんだ」

 そんな懺悔にも似た呟きを背に受けつつ、私は竿を幹也に預け自販機に向って歩き出した。

 途中、鮮花と浅上にすれちがったけど、御上が講義中だったためか特に何事もなく通り過ぎることができた。



◆◆◆

 「ふう……」

 私は冷たいのも苦いのも苦手だ。幹也の淹れるコーヒーは苦くてつい文句を言うのだが、慣れというのは恐ろしいもので、ついその「苦さ」を求めてしまう傾向にあった。

 「なんかなぁ……」

 私も普通だ。人と違う嗜好をしているといっても、内容によっては当たり障りのないものを選んでしまう。

 私は、そんなありふれた行動は否定していたがずだが、どうにも人が無意識にもつ「妥協」という名の防衛本能は拒絶していても機能してしまうらしい。

 いや、私はごく普通に日々を過ごしている。

 私にとっての日常は存在している。たとえモノを見ただけで何でも捻じ曲げてしまう少女と戦って左腕を失っても、もう一つの霊的な身体を持っていた女と高層ビルの屋上で対決しても、数百年も生きていた魔術師と死闘を繰り広げても、鉄柱さえ真っ二つにしてしまう風を操る少年と激突しても、どれも私にとっての「日常」であるのだ。

 「こんなことを考えること自体がおかしいな」

 そう、全ては過去の出来事だ。私、「両儀式」の記憶の一部となっただけで、失った記憶を取り戻したわけじゃなく、その代わりになったわけでもない。

 それでも私は「両儀式」という人格が手に入れた「記憶」を後生大事にしていると感じる時が多い。

 それは、もう一人の「私」を失ってから今ある「私」がその空白を埋めるように積み重ねてきた記憶の数々だ。

 そういう意味では、私が過去に踏み込んだ(もうどうでもいいと思っている)非日常も、全て私が獲得した「記憶」と「認識」だ。

 「あー、だめだ……」

 私は、ごちゃごちゃした思考を振り払った。どうも雑念が多い。つい数分前までは「釣り以外」に集中していたのが嘘のようだ。

 だから、

 「さて、もう少しだけ釣りしてみるか」

 私は再び池に足を向けた。駐車場は満杯だ。こんな寒い中でも多くの人が訪れるわけを私は少し前に知ったのだ。

 それも、「私の変わりゆく日常」だろう。

 途中、竿を抱えたやたらと黒ずくめの連中とすれ違った。なんかあたりを見回していたが、私と目が合うとそいつらは釣り場と駐車場の二手に分かれてそそくさと行ってしまった。

 「なんだ?」

 まあ、いい。おおかた受付場所でも探していたんだろう。

 私にも時間は貴重だ。

 「なんの時間?」

 と問われたら、本来なら答えないか素っ気なく無視しただろう。

 しかし、今ははっきりと言える。

 「今日を楽しむため」

 時間は11時半になろうとしていた。日差しは思ったよりも強さを増している。

 「しきさーん!」

 御上の声だった。アイツは陽気そうに手を振りながら私に歩み寄って協力を求めた。

 「ちょっとバーべキューの準備手伝ってくれます?」

 ああ、そういえば、昼食だっけ?



 ──両儀式編(其の二)END──
 

 ……黒桐幹也編に続く

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 あとがき

 空乃涼です。久々の空の境界二次です。脳内でもあいまいなストーリーが多いのか
さらさら書けないという……

 日常編はそこそこ書けているが、非日常編(外伝)が書けない!

 また、今のシリーズもあと三つくらいです。とっとと書きたいんですが……

 2010年5月24日──涼──

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 メッセージ返信コーナー

 こちらはいただいたメッセージの返信です。

 空の境界でのメッセージは、ようやくいただけることができました。内容がマニアックかと思いますが、応援していただいた方に感謝いたします。

 2010年01月29日1:6

 ふじのんと主人公のカップルのお話も読んでみたいです。


>>>初のメッセージありがとうございます。リクエストの内容のような構想はすでにありまして、今のネタが終わったら書く予定ですので、お待ちいただければ幸いです。
その場合、「鮮花のルームメイト」も出ますよ。


 2010年05月09日5:41

 久しぶりに読んでいて面白いものを読ませて頂きました。
 是非、内容を考えるのは大変だと思いますが
 最後まで読みたいので執筆頑張ってください。


>>>メッセージ感謝いたします。妄想することは簡単なんですが、それを文書化することは本当に難しいですね。面白いもの、ハッとするもの、ほろりとくる物語が書ければよいと思います。


 以上です。今回もメッセージがあればお願いします。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



押して頂けると作者の励みになりますm(__)m

<<前話 目次 次話>>

作品を投稿する感想掲示板トップページに戻る

Copyright(c)2004 SILUFENIA All rights reserved.