とある魔術の未元物質
SCHOOL147 想いの生んだ奇跡の恋の歌
―――奇跡。
フィアンマは自分の右手を『奇跡を起こす右手』だと言った。人は単なる偶然では考えられぬ幸運が起きた時、それを奇跡だと言う。しかし本当にそれは単なる幸運だけが為し得たものなのだろうか。そうではない。奇跡に理由はなくともなにかがある筈だ。奇跡を為し得るなにかが。
インデックスは一人、イギリス清教女子寮の一室で佇んでいた。仮の住まいとして取り敢えずインデックスに宛がわれた部屋である。
垣根のことに気を遣われたのか、長くイギリスを離れていたにしては待遇は悪いものではない。誰も垣根と旅をしていたことを咎める者はいなかった。
窓から外の景色を眺める。インデックスの心境に反して天気はとても晴れやかだった。真っ青な空は雲一つなく澄み渡っている。
「ていとく」
そっと一人の少年の名を口にする。口にした言葉は窓に反響して儚く消える。
垣根帝督は死んだ。漸くそのことがインデックスの中に実感を持って刻まれてきた。確かに肉体は生きている。垣根の心臓も身体の重要器官も問題なく動いており命に別状はない。寧ろ健康そのものといえる。けれど垣根帝督は死んだのだ。肉体ではなく垣根帝督の『精神と魂』が死んでいる。
「ていとくも、私が全部忘れちゃった時、こんな気分だったのかな」
完全記憶能力を持つインデックスははっきりと覚えている。自分が記憶を失ったと知った垣根がどのような表情を浮かべたのかを。涙のない悔し涙を流したところを。全てインデックスは覚えていた。
胸が締め付けられている。棘のついた鎖にがんじがらめにされ縛り上げられた心が悲鳴をあげている。枯れるほど泣いたのにまた涙が溢れてきた。
「もしかして……私が全部忘れちゃったことの罰なのかな。ごめんね、ていとく。ていとくをこんな気持ちにさせて」
誰よりも大切な人が自分のことを全て忘れてしまうという現実。その人と一緒に紡いだ思い出が幻想となってしまったことの憤りと悲しみ。
頭では辛いと理解していた。しかし本当の痛みを自分が同じようになって初めて知った。
ある人は一年毎に記憶を消さなければ死んでしまうなんて可哀想だという。しかしインデックスはこう思う。記憶を失った当人よりも、その周りにいる人達の方がよほど辛いではないか、と。
失った方は良い。これから一年、新しい思い出をただ無邪気に作っていけば良いのだから。しかし周りにいた人達は自分達のことを忘れてしまったという事実を噛みしめながら、無邪気に思い出を作る人を眺めているしかない。
「ごめん、なさいっ」
インデックスは謝った。勿論この部屋にはインデックス以外に人などいない。この謝罪を聞いている者なんて誰もいない。それでもインデックスは謝った。自分がその『痛み』を知ってしまったからこそ、自分が同じような『痛み』を周りの人に与えてしまった事が許せなかった。
「ごめんなさいっ! 私が……全部、忘れちゃったから。本当に、ごめん…なさい」
インデックスの隣にいつも当たり前のようにいた少年はいない。
垣根は思い出だけでなく知識や運動動作などの記憶も忘れてしまったという。しかし垣根の頭脳だ。直ぐに人間として暮らしていけるだけの知識は取り戻すだろう。早くても一年、遅ければ三年。
そして超能力や魔術を忘れた垣根はただのイギリスに住む一般人として、自分とは違う人と一緒に日々を過ごして、自分とは違う女性と恋をして、自分とは違う人と……。
嫌だ、と思う。
だけど同時に垣根を異能の世界に巻き込んではいけないと思った。
超能力と魔術を失えば垣根はただの人として生きていける。もう危険な事と一切関わる事もなく、平穏に生きていける。しかし十万三千冊を記憶する自分と関われば、垣根は再び危険な世界に引きずり込まれてしまうだろう。
それはしてはいけない。垣根をこれ以上、危険なことに巻き込んではいけない。
だけど……それでも最後に。
「ごめんなさい。でも、これで最後だから」
インデックスは立ち上がる。
向かう場所は決まっている。垣根の眠る病室だ。
垣根の病室には先客がいた。
黒い髪をポニーテールにした神裂と目の下にバーコードのような刺青をいれたステイル=マグヌスだ。
「インデックス……もう大丈夫なんですか?」
気遣うように神裂が言う。
何気なく接してくれるこの人だが、この人も自分が忘れてしまった人の一人だということを思い出すと申し訳ない気持ちで一杯になった。
「なんなら私達は席を外しますが」
「ううん、大丈夫。最後にお別れの挨拶を言いに来ただけだから」
「最後?」
インデックスはそっと垣根のベッドに近付いていく。
くーくーと穏やかな寝息をたてて垣根は寝入っていた。これだけ見ればとてもじゃないが信じられない。彼があらゆる記憶を破壊されて廃人になってしまっただなんて。
包み込むようにインデックスは小指で垣根の髪を撫でる。
二人の距離は遠かった。いつも直ぐ側にいたのに、どうして今はこんなに遠いんだろう。こうして触れられる距離なのに二人を分かつ距離は月よりも遠い。
「ていとく、私……決めたよ」
私はあなたが本当に好きだった。
世界で一番、大切なんだと思う。でも、だからこそ、
「今日はね。お別れを言いにきたの」
もう彼を危険なことに巻き込んではいけない。
自分のために苦しめてはいけない。
「一緒に色んなところを行ったよね」
偶に喧嘩もしたし口論になることもあった。
乱暴に扱われたこともあった。
「それに色んなこともあったんだよ」
辛いこともあった。
何度も命の危険はあったし死にかけたこともある。
だけどそれを含めて、二人で過ごした日々はしっかりと心の中にある。
何気ない一つ一つの在り来たりな記憶。それが今では最高の宝物。
「だけど、もう私のために生きないで。ていとくは、ていとくのために頑張って」
例え大好きな人が自分のことを忘れてしまっても。
他の誰かと一緒になってしまっても。
彼がこれから先、どうか幸せになれますように。
「本当にありがとうね。インデックスは……貴方の事が大好きでした」
心の中で主に謝る。これが今生の別れなら最後に彼の温もりを覚えていたい。インデックスは眠る垣根をそっと抱いた。決して傷つけないように優しく。
「くそぉ!」
憤怒に顔を歪めたステイルが部屋の壁を殴りつける。余り強く殴ったせいで手から血が流れたがステイルはそんなもの知らぬとばかりに再度殴った。
「神よ! 貴方はそこで聞いているのか! これを見て一人ほくそ笑んでるのかっ! どれだけだ。一体貴方はどれだけこの子一人に重荷を背負わせようとするっ! この子がなにをした! この子が貴方にどんな無礼を行った! 彼女は僕の知る誰よりも優しい……優しいだけの女の子だッ!」
「……ステイル」
神裂が止めようとするが、ステイルは尚も天に向かって毒を吐いた。
「どうして彼女に人並みのちっぽけな幸せすらも与えてくれない! 貴方はそれほどまでに悲劇が好きなのかっ! 惨劇が好物か!? もしも聞いているのなら、たった一人の女の子を救うくらいの奇跡を用意してみせろぉ!」
バタンっと、ステイルが言い終わるのと病室のドアが開くのはほぼ同時だった。
何やら小包をもったシスターはステイルの形相を見てひっと縮こまる。
「……なんだい、君は」
怒りを抑えきれないステイルがシスターを睨みつける。ステイルの剣幕に怯えながらもシスターの少女はしどろもどろに切り出した。
「そ、それがシルビア様よりインデックス様あてへと小包が届いていまして……それで……」
「シルビア? 王室派の近衛侍女の…あのシルビアか? ボンヌドダームの腕を磨く為国外に出ていると聞いていたが」
「そのシルビア様で間違いありません。で、では私はこれで!」
小包だけをテーブルに置くと、シスターはさっさと退室してしまった。
余程ステイルの剣幕が恐ろしかったのだろう。
「……君にだ、シルビア…………英国に仕える聖人からだよ」
「しるびあが、私に?」
ステイルがインデックスに小包を手渡してくる。インデックスは垣根から離れるとその小包を受け取った。
シルビアといえばルーマニアで一度出遭った聖人で、オッレルスと一緒に旅をしていた女性だ。言ってみればそれだけの関係であり、わざわざ小包を疎遠となっているイギリスに届ける理由は見当たらない。
少しづつインデックスは小包の包装を開いていく。
中から出てきたのは一つのオルゴールだった。何の変哲もない古めかしいオルゴール。アンティークという言葉がピタリと当て嵌まる外観をしていた。
首をかしげるインデックスだったが次いで出てきたオッレルスのメモを見ると表情を一転させた。
「もしかしてっ!」
いてもたってもいられずインデックスは垣根に駆け寄る。
ごくりを唾を飲み込んだ。もし此処に書かれたことが事実なら、
「インデックス、どうしたんですかっ!」
「ごめんね。でも、もしかしたら……ていとくは!」
オッレルスのメモにはこう記されていた。
垣根がフィアンマの奪った遠隔制御礼装を奪還しにロシアへ行く際に偶然にもオッレルスと再開したこと。垣根が別れ際にある未完成な礼装の完成を託した事。そして、
「…………主よ。一生のお願いです。もしも叶えて下さるのなら、他の何もいりません。だから」
垣根帝督はインデックスを『首輪』の呪縛から解き放つためにとある礼装を開発していた。
その礼装の名は『記憶保存』。一年周期で記憶を失うというのなら、失う記憶をどこか別の場所に保存して、記憶が全て削除された後に再び保存しておいた記憶を入れる、というコンセプトのもと開発されていたものだ。
オッレルスのメモにはサンプルのため試作礼装であるオルゴールの中に垣根自身の頭のデータ全てを保存したと書かれている。そしてオッレルスのメモにはシルビアの協力もありつい最近、礼装は完成したとも記されていた。つまり、
「…………うんしょ、これを回して」
インデックスがオルゴールのゼンマイを一杯まで巻く。
これで準備は完了だ。記憶は音楽の形をもって当人へと送られる。記憶にも色があるので、当人以外には記憶の伝達は送られない。
(お願いっ)
オルゴールから小さなメロディが流れ始める。
長い冬が明けて暖かな春の到来した波風のように暖かい音色だった。聞いてるだけで胸が暖かくなる。
短いような長い演奏。
インデックスもいつに始まったのか、いつ終わっていたのか正確には覚えていない。完全記憶能力をもっているのに記憶があやふやだった。ただ気付いた時には演奏は終わっていて、呆然と立ちすくむインデックスと神裂・ステイルの二人がいた。
もし本当にこの礼装が完成しているのなら、これで垣根は大丈夫な筈だ。
縋るようにインデックスは垣根に語りかける。
「ねぇ、ていとく。もう起きる時間なんだよ……だから、ね。起きて、ていとく」
短い静寂。そして祈りは届く。思いは届いた。
垣根の瞼がすっと開いていく。あの時のように支離滅裂で我を知らぬ者の目ではなく、理知的でありながらギラリとした目つきの悪い眼光。インデックスの知る垣根帝督の目だった。ゆっくりと垣根の口元が動く。
「よぉ。酷い……顔、じゃねえか」
枯れ果てた筈の涙がインデックスの目から垣根の頬に流れ落ちた。
ポタポタとポタポタと。垣根はただ薄く笑ったままインデックスを見つめる。聡明な彼のことだ。直ぐに自分の現状を理解したのだろう。
そして最悪の不幸な結末から一転して、全てが最高の幸福な結末になったことを。
「ていとく、良かった……本当に、良かったんだよ」
「何度も言っただろうが。俺は死なねえよ、まだ生きて、いたいからな」
それは一人の少年の小さな努力が生んだ大きな奇跡。垣根帝督、彼がインデックスという一人の少女を助ける為に重ねてきた数多の努力。彼が魔術を学んだのも学園都市から飛び出したにもインデックスを首輪の呪縛から解き放つ為だった。その真っ直ぐな想いは奇跡を齎した。垣根帝督の想いは垣根帝督自身を救ったのだ。
いや、それは少し違う。
垣根の想いはインデックスをも救っていた。奇跡はただの偶然で起きはしない。奇跡を為すのは想いだ。
強い想いが様々な因果を巡り巡って、渡り鳥のように再び自分の下に戻ってくる。奇跡という名の実をもって。
決して機械仕掛けの神によって与えられたご都合主義ではない。垣根達の想いが為し得た小っぽけだけど大きな奇跡だ。
垣根はインデックスの小さな体を抱きしめる。温もりを感じ合う。大切な人は今、こんなにも近くにいた。この幸福を二人は抱き合いながらも強く噛みしめていた
「……幸福って、こういうことなのかもしれねえな」
青い空はどこまでも晴れやかだった。
二人の未来を祝福するかのように。
後書き
最後の最期までバッドエンドにしようかハッピーエンドにしようか本ッッッッ当に悩みましたが最終的にハッピーエンドになりましたw
まぁ良くあるご都合主義の奇跡がおこって目覚めた、なんて風にはしたくなかったので垣根を救済するための伏線は物語の序盤から忍ばせてましたが。
そう。インデックスの記憶をどうにかする、つまりインデックスを救うための努力。皮肉な話ですが、それがそのまま垣根自身を救う事になったんですね。
本当は原作上条さんの如く思い出全消去にして二人の関係は振り出しに戻る、としたかったんですけど。ただ垣根が記憶を取り戻したのはクーデター編までなのでロシア編のことは一切覚えてません。一方通行との共闘は勿論フィアンマとの戦いも一切記憶してません。
イコールで聖書云々のことも全部忘却。
それとお知らせですが……「とある魔術の未元物質」。次回で完結します。
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