第二章 決意は光と共に Frey's_Magic(k)_Sword.
1
ビットリオ=カゼラは最初、驚愕よりも使命感を感じた。
フィウミチーノ空港の爆発の時である。
ビットリオ=カゼラと少女は、マタイ=リースからの頼みである『ある知人がローマに来るから、その知人を見守って欲しい』という願いを聞き、茶色の家が立ち並ぶローマの風景雅やかな中をバスに乗って移動していた。もちろん、行き先はフィウミチーノ空港である。そのバスは最近になって運行が始まった物で、フィウミチーノ空港とローマ市内を結ぶ唯一のバスである。
丁度バチカンとフィウミチーノ空港の中間地点まで来た時、突然前方から爆音が襲ってきた。
バスにいた乗客や運転手、バス外の道行く人々がそれに大きな声を上げ、体をすくませた。
少女は恐ろしさから、隣に座っていた彼に抱きついた。
そして、彼は燃えるような使命感と凍てつくような冷静さで理解する。
(マタイ=リース主席枢機卿が知人を見守って欲しいと頼んだ理由はこれか!)
乗客が騒ぐ中、彼はバスが今は動かないと判断し、少女を両腕で抱える。バスの運転手も混乱しているが、なんとか少女を連れてバスを降りる。
次に彼が考える事は少女の事である。
(このまま主の奇跡の再現である術式を使用すれば、フィウミチーノ空港まではすぐに行ける。だが、この子はどうする?)
彼は普通ではない事を行動の勘定に入れ、それから今も彼の腕の中で怯えている少女を見つめる。思案の後、彼がまず思い至った案は誰か信頼の置ける人物に預かって貰う事である。
彼は誰か知人がいないか辺りを見回そうとして、彼にとって幸いな事にすぐに見つかる。
「ローマ教皇をお助けするべきでしょう! この一件が彼を狙ったものでないとどうして言えますか!」
「落ち着け、まずは近隣の者達の安全を確保すべきだ。」
その知人とは最近身寄りのない少女達を集め、実働的なローマ正教の部隊を作ろうとしているローマ正教徒の老司教達である。だが、もう一方で口論をしている者達を知らない。
その者達は男性用の黒いローマ正教式修道服を着ている集団で、どちらかというと彼らの方が頭に血が上っている。
ビットリオ=カゼラはまだバチカン市国に住むようになって日が浅いため、判断ができない。彼はすぐに司教達に駆け寄る。
「いったいどうしたのですか?」
「おお、モンク・ビットリオ。無事であったか。」
彼の知人である一人の老司教が声をかけてくる。明らかにほっと安心したような緊張の糸を少しほぐした顔をしている。
「はい。何やら言い争っておられるようですが。」
そう返した彼の表現に、修道服を着た男性が顔色を赤くする。
「我々は言い争ってなど……うわ!」
その叫びはフィウミチーノ空港から再び轟音が鳴った事によるものだった。近くにいるローマの住人達全員が肩をすくめる。少女も例外ではなく、頭を隠すように懐いている彼の胸に頭を隠す。
「くそ、今回のこれはテロリズムに違いない! だとするなら、ローマ教皇の安否こそ優先すべき事の筈です!」
騒音の中で若い修道士は言った。確かに、その者の言う事も一理ある。現在フィウミチーノ空港方向で爆発か何かが断続的に起こっている。それが搖動であり、本命がローマ教皇、あるいはローマ正教内部において重要な地位にいる誰かの命が狙われる事も十分にあり得る。
それを理解した上で、彼はその修道士の一団に面を向かわせる。
「だとしても、我々にできる事は近隣住民の不安を和らげてやる事だけだ。」
「何?」
突然話に割り込んできた彼に修道士は明らかな不機嫌を見せる。
「ローマ教皇ともあろうお方がこの程度の混乱で動じられる事もない。他の枢機卿や司教も同様にこういった事への対策はあるだろうし、何より専任の書記、つまり護衛官がいる。私達よりもはるかに頼りになる者達だ。彼らに任せておけばいい。」
「しかし!」
「しかしも何もない。」
正論を言われ苦しくなった修道士は声を張り上げるが、彼はそれさえ抑え込んだ。
「できる事は二つある。一つは先程言ったように近隣の住民達の不安を和らげる事。もう一つは神や主へ祈る事だ。」
修道士達ははっとして各々自身を振り返る。爆音が聞こえてからずっと、神にも主にも祈っていない事である。司教の中でも何人かが己を恥じていく。
彼は神への祈りをすぐに捧げたわけでもないため、それについて強く言う事はない。純粋に語るだけである。それで言い争いが収まるならば、彼にとっては安いものだ。
「我々にできる事はたかが知れている。だからこそ我々は天に召される父に祈るのだ。そして、それでもできる事があるならばそれは誰かの不安を和らげるぐらいしかない。精一杯それを頑張ればいい。」
彼の言葉を聞いた者達の中で、神妙な面持ちをした一人の修道士が答える。
「だが、我々でも盾ぐらいにはなれる。飛んでくる銃弾や向かってくる刃物から、ローマ教皇を庇うだけなら!」
その目は本当にそれだけの覚悟がある事を物語っている。
そんな目を、知っているからこそ。
彼は重い言葉で対応する。
「貴様はそんな事をされて喜ぶのか!? 自身を助けるために、誰かを死なせるような事をされて悲しまないとでも思うのか!?」
青年と言ってもいいその修道士は息を一瞬詰まらせる。
「貴様達ではどうせ盾にもなれず無駄に死ぬ。何のための護衛官だと思っているのだ、身の程をわきまえなさい。」
流石にその発言は胸に抱いている少女や傍らにいる老司教達を心配させたが、しかし若い修道士達には一つ前の言葉が強く心に響く。
『自身を助けるために、誰かを死なせるような事をされて悲しまないとでも思うのか』、それは考えてもみなかった事だったからだ。
彼も正直なところを表せば、現ローマ教皇の考えや思いを完全に理解しているわけではない。それに聖書に書かれている話の中には、あまり人の命を尊んでいるとは言い難い話もある。
しかし、それでも誰かが自分のために死んで良い思いをするかどうかという問いの本質は変わらない。自身がどう思うのか、つまり悲しむのか喜ぶのかを自身の中で推し測って得た答えは現実と別に存在し、また価値も違う。
そして数秒も間を置かずに一人の修道士が言う。
「あなたの言う通りだ。我々は人々を助けていく事ができる、ありがとう。」
その修道士をはじめとして、修道士達は周りにいる人々に大きな声で必死になって安全を訴えていく。住民達もそれによって、少しずつ平静さを取り戻している。
「いやはや、ありがたかったよ、モンク・ビットリオ。」
「誰かと話し合いをしていても平行線になる事がある。それを収めてくれて、本当にありがとう。」
柄にもなく説教をした彼は顔の筋肉を少し弛緩しつつ、かつて聞いた事を思い出す。
(司教達は確か、身寄りのない子供達を今よりさらに広く保護しようとしても他の派閥に反対され、結局はローマ正教の役に立つような集団としてしか保護しない、というふうになってしまったと言われていた。しかもそれも実施にはしばらくかかるとも言っておられたのだから、気苦労も酷いものだろう。)
何度も出される小規模な爆発と、それによる混乱を収めようとする修道士達の真摯な言葉を聞く。気が散りそうな背景の中、彼は思考をやめて、顔には出さずに冷静に返す。
「いえ、不躾にすみませんでした。そしてもう一点、頼み事があります。引き受けていただけませんか?」
ローマ正教徒達は返答に一瞬迷い、そして一人がこう答える。
「なんなりと。」
彼はかいつまんでその司教達に事情を話す。破壊音が響いてきているが、無視して。
「つまり、あなたがフィウミチーノ空港へ行っている間、この少女を見ていて欲しいという事ですね?」
確認のために老司教の一人が問う。彼は軽く頷き、屈んで少女を降ろす。少女の手が彼の頬をかすめる。
司教の一人が代表して答え、右手で十字を切る。
「分かりました。あなたに主の御加護がありますように。」
「ありがとう。あなた方にも、主の御加護がありますように。
……すまないがここで待っててくれ。」
同じく右手で十字を切ってから、少女に告げた。
彼にもそれが少女にとって辛い言葉だと理解できている。それでも彼はやらねばならないと使命感を放棄しない。できる程に器用な性格を生来していない。
案の定少女は悲しそうな顔を示すが、それをあえて無視して立ち上がる。
「では頼みます。」
司教達が再び了承して、彼は素早くその場から離れる。少女は安心できるただ一つの場所である彼の腕の中から離されて、ひどく悲しむ。
その彼が真っ先に向かう場所は変哲もない洋服屋である。このローマに古くからある店で、彼はそこまで利用頻度が高くないが、近隣の住人からは人気がある。
いくばくかして彼は目的地に着く。店内にいた客や店長は突然の爆音に驚き恐怖していた。彼は眉間に皺を作りながらも、あえて服も持たずに一目散に試着室へ駆ける。必要なのは店ではなく、その試着室にある物である。
目的の物はすぐに見つかる。
(よし、私の装備だ。これならば、テロリストだけでなく不埒な魔術師であっても対抗できる。)
そこにあった物は紅蓮の如き赤のマントを備える銀色に輝く西洋鎧一式と無骨で少し細身のアロンダイトという西洋剣、そして幾本もの剣やすらりとした槍、全長が八十センチメートルもある大きな弓である。
そう、ビットリオ=カゼラは魔術というオカルトを知っている者の一人である。
彼の正式な所属はローマ正教一三騎士団。ローマ正教の裏の仕事の中でも重要度が高く、規模が大きい事件を主に扱っている。彼は普段から特段する意味もないため、神秘的な能力の高い物品、『霊装』を身に着けていない。
しかし使命が下ったならば同じ十字教の分派であるイギリス清教の魔術師に匹敵する、あるいはそれ以上の技術でもって神に仇なす者を一時間もかけずに排除するほどの人物である。
なお、『神の奇跡の再現』と『魔術』に抜本的な違いはない。十字教にとっては分類が違うだけで、大多数の思想からすれば同じオカルトであり魔術である。
「施術鎧やアロンダイトに不調は認められない。いけるな。」
日頃の訓練の賜物として、彼は身に付けているローマ正教式の十字架と共に素早く鎧を身に着け帯剣する。使い慣れたアロンダイト以外はかさばるため、今回使わない。
なぜなのかは彼も理解していないが、ローマでは必要な時に必要な物がすぐ手に入るといったふうに、ローマ正教にとって都合の良い事がよく起きる。
今回はローマ正教一三騎士団の経験則に従ったものである。それは、ローマの地が有事の際に、ローマ正教一三騎士団としての装備がその構成員の手元にない時、その構成員に一番近い大人一人が隠れられるような場所に装備一式が存在するというものだ。
彼は急いでその装備を着こみ、移動速度を速める術式を発動させる。正確に言えば主が行った事を瞬間移動と解釈して再現する術式だが、彼はまだ瞬間移動として奇跡を再現できず、またローマの地でしか使えない。そのため、効果がこういった条件下で移動速度を速めるだけになってしまっている。
「主よ、あなたの奇跡を、わずかばかり私にお与えください。あなたを信じる力なき人々のために、瞬く間を超える奇跡を。」
高速移動の術式発動のための言葉を声に出し、瞬く間に彼の全身と法具たる西洋鎧に主の奇跡が再現される。
具体的には、『神の祝福』という魔力とはまた異なる異能の力の源を全身と鎧に張り巡らせ、特に足の方に空間と空間を縮めるような術的作用をもたらす。
『神の祝福』は本物の天使を構成する力で、人間が作れる程度の魔力ではできない事もできるようになるからこその技である。この他に『神の祝福』を人が扱いやすいように変換した『界力』という力もある。
彼は人以上の力である神の祝福を使いすぐに店を出る。
鎧を太陽の光で一層きらめかせ、赤いマントを風に任せて奔走する彼の耳に、爆発音が妙に高い音程で鳴り響く。ドップラー効果によるものである。
(不愉快だ。)
彼は心の中でそう吐き捨てた。それはドップラー効果の音を指していない。そんな物はとうに彼の魂を刺激しすぎてしまっていたからだ。
(ここは聖ピエトロが殉教した地。当時の悪逆帝の圧政下にいた人々を救うために、自らを犠牲にしたという土地だ。その思いがどれ程のものかなど、まだ未熟な私には理解できない。言葉を交わせない程度の事で、少女一人笑顔にできぬのだから。)
彼は自分の力で少女を笑顔にできた事がなかった。
食事の時はそれを作った者達がいる。寝ている時は安らぎをベッドが与えているだけ。マタイ=リースは、彼がしてやれなかった人形遊びに付き合ってやり何時間も少女を楽しませた。今回の外出も離れてしまっていて、少女を笑顔にできるわけがない。
彼はそれを意識せざるを得なかったが、といって今日まで少女を笑顔にさせられるように努力する事もなかった。考えてみればそれもまた彼の未熟の一面でもある。
(だが。)
民衆の誰もが驚きすくみ上っている中、彼だけは違う。自身の中で自身に命じるその感情に突き動かされ、より速度を上げていく。
竜の唸り声にもとれるような爆音を受け、より冷たい空気を兜のスリットで感じ、ひた走る。先に何が待ち受けようとも、その目はただ一点を見つめるのみ。
(かの者の想いを踏みにじって良いわけがない事くらい、この地に住む者を傷つけてはならない事くらい、視野が狭く未熟な私でも分かる!!)
その決意を胸に、若き修道士にして騎士は悪竜より恐ろしい怪物達の下へと急ぐ。
2
未だ爆音が止まない空港に近づくにつれてだんだんと人が多くなっていくが、幸運な事にビットリオ=カゼラに気付ける者はいない。そしてそれはなぜか空港の周りからは消えている。空港にいた人々は既にそこまで避難しているという事でもある。
それをいぶかしげに思いながらも、彼は速度を緩めず向かう。
そして驚くべき事に一分も経たないうちにフィウミチーノ空港前に到着する。
着いた瞬間、彼はそれまでも見えてはいた無残な光景の全貌を見る。
巨人が踏み潰した跡。そういった表現が一番合っている。
複数あったターミナルは全て天井がなくなっており、時代を感じさせた壁も破壊されている。一部は残っているが、もはや原型を思い出すための材料にしかならない。かえって今回の事件の惨状を想起させてしまって不快になる程だ。
幸い、先程見てきた通りもう人は辺りにおらず、この空港から離れた場所に避難している。しかし、逃げ切れていない人がいる可能性もある事を彼は忘れない。
(まずは逃げ遅れた人がいないかどうかの探索や人命救助を優先するべきだな。私に使命は下されていない、その私が勝手に振る舞い犠牲者を出すわけにもいかん。
……しかし、紅蓮の神槍でもって悪を討ち滅ぼす『グレゴリオの聖歌隊』の聖呪爆撃でもこれだけの事を起こせるかどうか。少なくとも、初撃だけでは無理だな。)
彼はこの惨状に、自身を含めた一三騎士団全員で使う最大攻撃の術式を使用した場合はこの惨状ほどの破壊を生み出せるのかを考えながら、破壊されたターミナルへと急ぐ。
が、その前に。
紅蓮のマントを着け、銀色の輝きを放つ鎧をその身に付けた同僚が彼に投げこまれる。
「なっ!?」
綺麗な放物円運動の軌道を描いたその人物を、彼はどうにか鎧にかけられている加護のおかげで同僚を受け止める事に成功する。
鎧の中身は彼よりベテランの騎士であり、今まで何度も神に仇なす者を屠ってきた歴戦の人物である。彼は自身より早く空港に着いていたと思われるその同僚を見て愕然とする。
「おい、大丈夫か! しっかりしろ!」
それでも、その場に横たえさせている同僚に話しかけるが、その同僚はピクリとも動かない。
任務中は敬語を使わない。これは統率者や一三騎士団の精神的な要の人物を特定されないようにするための規則である。
(く、まずは伝達だな。彼の救護と応援を呼ぼう。)
彼は術式を編んで使用する。通信術式の一種だが、彼が使おうとしている術式は一方的に情報を伝えるための物である。
通信術式により光を集め、鎧をすり抜けて彼の体に集約させようとする。
が、どうにも光が集まらない。
(通信の妨害がなされているのか? だとすれば、敵はまず間違いなく魔術師だが。)
頭の中では冷静に状況を分析するが、その実、次の言葉の方が彼の心境を正確に表している。
「くそ、どこだ。神とこの地に仇なす邪悪はどこにいる。」
彼は大量の瓦礫で彩られるフィウミチーノ空港を見回す。それで見つかりはしない。
ぶつけようのない感情を制御しながら再び空港の中へと駆け出すと、異様に太陽に照りつけられているような感覚に襲われる。
それでもその中、というかただ壁で隔てられているだけの大きな空間は寒い。人がいなくなった事や今のローマの気候のせいもあって、一段と冷たい。だというのに空気そのものは渇いている。
また破壊された空港内には逃げた人々の荷物や所持品が散乱している。不思議と瓦礫の類はほとんどなく、砕けたコンクリートの破片やセメントの粉が床を埋め尽くしている。
(砕かれたコンクリート、しかもセメントの粉状になる程に破壊されている。これはやはり、魔術以外にない。そして、騎士団の中でもあれ程優秀な者が意識を失わせられた、という事は。)
相当の実力を持った魔術師がいる。彼は確信を持ってそう結論付ける。
しばらく探し回るが一向に逃げ遅れたような人間を発見できなかったため、彼は魔術の要となる物品がないか探し始める。
魔術は基本的に、それ相応の準備を必要とする。例えばルーン魔術は場にルーンを書くという下ごしらえが必要になる。天使や悪魔といったこの世界にいない存在の力を借りたければ召喚のために必要な材料を揃え、魔法陣を描いて呪文を唱えなければならない。
魔術とは誰もが力が手に入る反面、それだけ面倒な手順を踏まないと力を手に入れられないものでもある。
(だからこそ、そんなものに手を出し人生を費やしてしまう愚か者も出て来るのかもしれん。主の愛を知らず生きている事に愚を感じぬとは、私には到底理解の及ばないところだ。)
そう思いつつ彼はそのターミナルを探しているうちに、奇妙な物を発見する。
「これは、何だ? トパーズか?」
それは黄色い石であるため、彼はトパーズかと思った。
その大きさは普通の宝石店ではお目にかかれない。どうにか彼の片手に収まるかという程で、円柱状の形をしている。
彼は惹かれるように直立しているそのトパーズに近づく。
トパーズは特に光ったり、音を発したりしているわけではない。しかし、そういった遠くからでも分かりやすい示しがない方が敵地に侵入する魔術師には好まれる。また、どこにもコンクリートの粉がついていない事も怪しい。
彼は破壊できるように細身の剣を鞘から抜いておく。
(これが元凶……の、一つだろう。だが、魔術の正体が分からぬ以上、下手に扱えも――。)
「そいつが最後だな!」
突然、人間がビットリオ=カゼラの視界に入る。その人間はとげとげした髪型に、黒いパーカー、青いズボンを身に着け、両手に二本の剣を備えている。
人間は彼の視界に入った瞬間、まるで巨大化したように錯覚させる程の速さで彼に迫る。
(敵か!?)
人間と接敵する。
ビットリオ=カゼラは咄嗟に全身でトパーズの石柱を庇う。敵と打ち合うよりも、下手に魔術に干渉して被害が大きくなる方を危惧しての事である。
一瞬のうちに、向かってきた人間は体を大きく捻り、ビットリオ=カゼラにぶつかる事を避ける。
「おわっ!?」
人間は無理に動きを変えてそのまま彼の横に滑って転ぶ。粉が舞ってその人間の全身を白くする。それでも、剣は握ったままである。
「あーもう! ここにもいるなんて不幸すぎるだろ!」
人間、というより、青年の魔術師はそう言って起き上る。全身を手で叩いて白い粉を払い、ビットリオ=カゼラに話しかけようとする。
しかし。
「……貴様、魔術師だな?」
ビットリオ=カゼラはすでに青年の首筋に自身のアロンダイトを突き付けている。青年の魔術師は目を大きく見張ったのち、降参して両方の剣を離しその両手を高く上げる。
「俺は加害者じゃない。これを引き起こした魔術師は別にいるぞ。……って、あれか? 標準的なイタリア語の方が良いか?」
その言葉や先程の言葉を聞いて、流暢なローマ方言だとビットリオ=カゼラは感じる。東洋人である事は間違いないが、それでイタリアの方言、アクセントや発音の違いのようなものまで完璧な人間というと、ビットリオ=カゼラの知っている人物ではいない。
そしてもう一方の質問。青年の魔術師は当たり前だが標準イタリア語もできるという事が分かる。
(活動しているのはイタリアかヨーロッパ全土か、あるいは世界的に活動しているのかもしれないな。だが、私が知っている魔術師の中にこいつと合致する者はいないぞ。)
兜の中で冷静な状態を作り出し、もう一度問う。
「いや、どちらの言語でもかまわん。まず質問に答えろ。貴様は魔術師だな?」
それを聞いて青年の魔術師は何を思ったのか。
「しょうがないな、答えてやるか。
俺は世に名だたる怪人――フジヤマ芸者レディーだ!」
ビットリオ=カゼラにはよく分からないゲイシャの真似をして青年の魔術師は返す。なぜか妙に決まっていて、滑稽さよりも芸の細やかさに目が行く。しかもローマ方言であるため、雰囲気は台無しである。
「……つまらん、それとちゃんと質問に答えろ。三度目はない。」
本当につまらなかったため、ビットリオ=カゼラはアロンダイトの切っ先をより青年の首筋に近づける。というより、気持ちが悪い。
ビットリオ=カゼラと青年は、今度こそ互いに睨み合う。
睨みを利かせつつ、青年は答える。
「ったく、戦場の緊張を程よくほぐしてやろうと思ったのに。
ああ、答えるよ答えますよ私は魔術師です!
名前は上条当麻、見ての通りの日系人、性別は男、所属する魔術組織はなくて、身長は……。」
「聞かれていないところまで言わんで良い。」
早口言葉のように自分の情報を喋る青年の魔術師を遮る。実際、敵の情報も多い方が良いが、逆に嘘の情報を聞いてしまいその情報のせいで死ぬ可能性も否定できない。
何よりビットリオ=カゼラがこの空港へ来た理由はこの青年の魔術師の情報を集める事ではない。
「次だ。その両腕に持っていた剣は何だ、答えろ。」
「これは霊装だ。名前はアリーウスの剣とオリーウスの剣。北欧のサガに登場する剣で、立ち会う者全てを切り伏せるっつー代物。俺が作ったわけじゃないけど、すげえ霊装だよ。言っとくけど、この惨状とは関係ないからな。」
上条当麻と名乗った魔術師は離していた二振りの剣をまた手に取って、見せつけるように両手からぶら下げる。両方とも金色の柄を持った金属製の長剣である。
ビットリオ=カゼラは不審な素振りを見せたために動こうとするも、魔術師がまた手を離したために止まる。また不審な動きをしたならば即座に斬れるよう注意しつつ、次の質問をする。
「この石柱は何だ?」
ビットリオ=カゼラは足元にあるトパーズの石柱の事を青年に聞く。無論剣も両の眼もかの青年魔術師、上条当麻から離さない。
「そいつはマヤ系の魔術だと思う。お前、マヤ神話には明るいか?」
「多くは知らない、きちんと説明しろ。虚偽の情報を伝えた場合は首を刎ねる。」
脅された上条当麻はため息を一回ついて、それから話し出す。
「マヤ神話ではバカブやチャクなどの……マヤの地で敬われている存在が、四方から天を支えているという世界観を持っている。つまり、東西南北をそれぞれの敬われている存在が柱となって支えているって事。ここまでは大丈夫か?」
「問題ない。続けろ。」
「よし。それで、いろんな文化圏にそれぞれ方角を象徴するいろんな色があるように、マヤでも東西南北に対応する色がある。今はえーと……西は黒、北は白、東は赤、そして南は黄色のままだな。」
何かしっくりこない口調だったが、そこまで言われてビットリオ=カゼラも合点がいく。
「つまり、この石柱は南に対応しているという事か。」
こくりと上条当麻も頷く。
「そうだ。話を続けるけど、もともとマヤではその方角に合わせた色に塗った石とかを、宗教的な意味合いから方角通りに家に置いたりしていたんだ。これもそういう意味があるんだろうな。
でも、魔術として順序立てて使われ、かつ塗られるまでもなくその色である石が使われたなら、話はそれだけじゃ終わらない。これはまんまマヤ神話の世界観を、疑似的にこの空港内に作り上げているのさ。
具体的にはドーム状に広がっているな。この空港に着陸した時とかに俺が感じていた違和感の正体だと思う。」
ビットリオ=カゼラはその説明を聞いて大体の事を把握する。
(空間を支配する型の魔術か。おそらくは伝達の術式が使えなかったのもそれのせいだろう。)
しかし、分からない事がないわけでもない。彼はそれを尋ねる。
「感じていた事はどうでもいい。それより疑似的に、とはどういう事だ? 何のためにそんな空間を作る必要があった?」
「決まってる、ここはローマだ。かつて聖ピエトロが死んだ土地、そしてそこには……。」
突然、上条当麻が横を振り向いた。上条当麻が出てきた方向である。
次いでビットリオ=カゼラもぞくりと感じる。
大量破壊兵器を連想させる程の、巨大な魔力である。そのまま見ないでいるだけで押し潰されそうな圧覚を感じ、思わずビットリオ=カゼラはそちらを振り向く。
『haァアアhahaハアぁ……。』
そこには早朝の冷たい風を受けてゆらゆらと波立たせ、時々変に空間ごと揺らめいている灰色のような黒いローブがいる。
その右手には六メートルはある巨大な剣が握られている。剣にはいくつも文字が刻まれており、ビットリオ=カゼラには一目でその文字がルーン文字だと分かった。
「おい、早くその石柱壊せ! でないとやばいぞ!」
「何!? どういう事だ!?」
「いいか、この石柱はローマ正教のとある加護をこの空港からなくすために使われているんだ。加護に対してマヤ神話的な世界観で阻害して弱めて、あの剣の威力をより本来の力に近づけるために。逆に言えば、そいつを壊せば剣の威力も多少は弱まるんだ!」
上条当麻が言い切った瞬間、灰色がかった黒いローブはその巨大な魔剣を地面に叩きつける。
いきなりの破砕音がその場を支配する。
セメントの粉が舞い、床だった破片はそこら中に飛び散り、ビットリオ=カゼラの視界からは周りも上条当麻も見えなくなる。
辺りに充満した白い粉は彼にある事を想起せる。
(粉塵爆発か!?)
ビットリオ=カゼラの鎧はその程度の爆発ならば防いでくれる。しかし、それは今逃げ遅れた人がいるかもしれない状況下である。動かなくてもよい事にはならない。
ビットリオ=カゼラは瞬時に自身の体内に留まらせている神の祝福を、洗礼の際に浸水した聖水を甦らせるように作用させ、施術鎧やアロンダイトに伝わらせる。
そして先程の高速移動の術式を併用し、全身に漲らせる。
すうっと、四大天使の一体である『神の力』を象徴する水が舞い出でる。
そして、じわりと覇気が現れる。
場を支配する、張り詰めていて美しい不可視の力の流れ。
水の力がビットリオ=カゼラの周りに作用し、辺りのセメント粉を洗い流す事で、その場だけが澄んだ空気を持つようになる。副次的に、渇いていた空気に水分が溶け込んでいく。
水の属性になった神の祝福と、主の奇跡の再現たる高速移動術式がぶつかりせめぎ合う。
まるで水の結界を持った聖人のように。
「おおおおおっ!!」
ビットリオ=カゼラは敵目掛けて駆け出す。駿馬でさえたどり着けない速さで、光の矢さえ超える勢いである。
敵は魔術師。容赦はいらない。
(そこだ!)
神の祝福を伝えたアロンダイトを水平に持つ。狙いは魔術師の右腕。この際切り落としてしまおうと考えている。
が。
(……!?)
体が熱い。
思わず立ち止まり、そして熱さはビットリオ=カゼラの体の全身を捕えて、焦がす。
「う、ぐあああ!!?」
ビットリオ=カゼラの体は身に纏う神の力の力も空しく、ゲヘナの業火に焼かれるかの如く燃え上がる。一時的に湿度は高くなっている筈だが、それでも轟々と炎はその勢いを増す。
思わず、手を抜けた天井に伸ばす。ローマ正教式に加護を施された鎧も熱し燃やされ、一部は溶け出している。
からん、というアロンダイトを落とした音さえ聞こえない生き地獄に彼は囚われる。
「ちっ!」
ビットリオ=カゼラからは見えなかった上条当麻が突然傍に現れ、杯の描かれたカードを投げる。
途端に自身の体から熱が消えていく事を感じる。がしゃん、と音を立てて膝を床に着ける。
「はあ、はあ、はあーっ……。」
「馬鹿野郎、何考えなしに突っ込んでんだ! 相手は魔術師、接近戦を挑む相手にも対応策ぐらいあるに決まってるだろ!」
いつの間にか、舞っていたセメントの粉が空港内から取り除かれていた。
それによってビットリオ=カゼラは短剣の小アルカナのカードが二枚近くに置かれている事を視界の端で捉える。二枚はエースのカードと七のカードである。
上条当麻は今また一枚をその場に置く。杯の小アルカナのカードで、数字は三である。
ビットリオ=カゼラはそれを気にせず、せき込みながら返す。
「やっていた! 私は、神の力に変化させた、げほっ、神の祝福を全身に伝えていた。だが、奴はそれを突破して、ごほっ、私を焼いた!
それに、粉塵爆発を止めなければならなかった!」
それを受けて、上条当麻は呆れたような表情を取る。
「あのな、粉塵爆発なんざ起こりっこないの。セメントやコンクリートは燃えないから、その粉も燃えない。あれはただの牽制のための攻撃だ。分かったか?」
上条当麻は片手に持っていた二本の剣の一本を持ってない方の片手で持ち、ビットリオ=カゼラの後ろに向けて構える。
「ほれ、あっちを見てみろよ。」
言われるままにビットリオ=カゼラが後ろを見れば、なんとトパーズの石柱の傍に魔術師が立っている。
先程と同じく、灰色がかったフード付きの黒いローブに、人間には不釣り合いな巨大な魔剣を持っている。
驚きを隠せず、ビットリオ=カゼラは呟く。
「いつの間にあそこに……。」
「あいつはビフロストっていう北欧神話系の魔術を応用して空間から空間へ移動できる。時々あいつの体や周りの空間がおかしな感じに歪んでいるのはその余波ってところか。それで電磁波もうまく送受信されなかったと。
俺は最初にロレートの家のまじゅ、じゃない、術式を使ってあいつごと空間転移してみたんだが、見事にビフロストの応用術式をかぶせてきやがったんでな。目的の場所とは違うところに出ちまった。だからまだ石柱を三本しか破壊できてなかったんだ。
にしても『天使の力』の属性変化、か。」
少々どもりつつ、平然と上条当麻は口にしたが、ビットリオ=カゼラからすれば途轍もない事であった。
「ロレートの家の術式、だと。貴様、十字教の、しかも聖母マリアに関連した奇跡も扱えるのか。」
上条当麻は微笑するのみである。
ロレートの家。聖母マリアの住居だったと言われ、過去に二度もその建築場所を転移したと伝えられる。その正規な効果は距離を無視した物体の移動である。
本来、空間移動の術式はとても難しい。行うならば魔術道具を設置して、限られた場所を空間移動する事になる。
ビットリオ=カゼラは瞬間移動の術式を扱っているが、それは彼が十字教徒だからである。聖水で洗礼を受け、ローマ正教一三騎士団として毎日訓練し、清く正しい生活をする。それでようやくローマ限定で瞬間移動の術式を高速移動の術式として扱えるようになっている。無論、ごくごく短い距離ならば(それが十字教の術式かという事も別として)彼でもできない事もない。
しかし設置型の魔術道具を使わず準備なしに即興で、しかも他者と一緒に転移するとなると、できる魔術師は世界でもあまりいない。そしてそれをビットリオ=カゼラの信じる十字教関係の術式で行ったという。神の祝福を天使の力と近代魔術師ふうに言い換えているが、十字教に関する知識も並のものではない。
ゆえに、上条当麻がやっていた事は驚愕どころかある種の畏怖さえ感じられる事だった。
そうしてビットリオ=カゼラが驚きを処理していると、魔術師が再び巨大な魔剣を振りかざす。
(今度はカミジョウとやらを焼く気か!?)
ビットリオ=カゼラは立ち上がろうとするも、まだ体中に力が入らない。すぐに膝をついてしまう体らくである。そんな自身に一番強い感情をぶつけていると、上条当麻がビットリオ=カゼラを見ずに話しかけてくる。
「おい、たぶんローマ正教の騎士さん。」
「はあ、はあ、何、だ。」
「まずは自分を助けなさい、そうすればお前らの親父さんとかが助けてくれるかもっていう諺があるだろ?」
「それが、はあ、どう、はあ、した。」
「自分を助けるだけの技量ってのがどんな物か、お手本としてちょおっと突っ込んでくる。」
返答するより早く上条当麻は動いていた。両手のそれぞれの剣を突出し、魔術師へ脇目も振らず邁進する。気迫はビットリオ=カゼラが見たどんな人物よりも溢れている。
対する魔術師もその頭をえぐれたように歪ませて、巨大な剣を真正面に振り下ろす。
「馬鹿はどっちだ! 私が焼かれるのを見ただろう!」
ビットリオ=カゼラの警告は簡単に無視される。第一、上条当麻にとっては無意味である。
なぜならば、上条当麻は馬鹿な所業であろうとも必要ならば火の中だろうが走り抜く人間だからである。
魔術師の近くまで来た上条当麻はアンドレア十字、あるいは×の字を組むかのように両手の剣を交差させる。
魔術師はただ迎え撃つのみ。
『かあみじょー、トーウーマークゥゥゥゥゥン!!』
『お前程君付けで呼ばれたくない人間もいねえよホント!』
魔術師と魔術師が交差する。
交差して、止まる。
優しき人外の二本の剣と、狂った人外の巨大な魔剣が押し合い、削り合い、引き合う。
上条当麻は歯を食いしばり、魔術師はケタケタと笑う。
両者の表情は正反対であるが、それでも実力は拮抗しており、余波で発生した魔力の残滓が球状にまとまり、即席の闘技ドームを作り出す程である。
「ぐ、くそ。私も、動かなければ。」
未だ立ち上がれないビットリオ=カゼラを尻目に、人外の魔術師はいつまでもその姿勢でいそうである。
闘技ドームでの静寂の中、転機は訪れる。
魔術師の持つ、巨大な魔剣にあるいくつかのルーンが薄赤く光り始める。
「あれは、cenのルーンか!」
ビットリオ=カゼラは看破した。
cen、ken、kenazというふうに紹介される、日本語の平仮名の『く』の字にも見えるルーンである。その意味は松明や火。まさしくビットリオ=カゼラを焼いた原因である。
ビットリオ=カゼラが急ぎ目で巨大な魔剣のルーンを確認すると、輝いているルーンは全てcenのルーンである事が分かった。
(魔術は既に発動している。つまり!)
効果はすぐに表れる。
上条当麻の全身から、炎が噴き出る。彼の体に当たっていた冷たく乾いた空気が燃焼し、灼熱の火だけが持つ独特の響きが闘技ドームを満たす。
まさに太陽さえ陰る程の炎獄である。
だが。
「は。」
と、声が聞こえた。
「は、は、は。」
再び、聞こえた。
ビットリオ=カゼラは耳を疑いたくなる。あれは笑い声だ。
「は、はははははははははは!」
上条当麻は笑っている。ビットリオ=カゼラには見えないが、その目も時折炎に舐められているというのに、固い意志を感じさせる。いや、炙られるほどにそれは強くなっていく。
『ほうら、やっぱりな。そら!』
獄炎の中でそう言って、上条当麻は左の剣を鍔迫り合いから離す。
魔術師は好機とばかりに込める力を強くする、が。
上条当麻は残った右の剣で、彼の視点から時計回りになるように半円を描く。魔術師の巨大な魔剣も引っ張られてしまい、さらに力を込めた事が災いして、巨大な魔剣は派手な音を立てて床にめり込む。
上条当麻はその隙を見逃さない。
『一回っ!』
上条当麻は右の剣を巨大な魔剣への抑えとして使い、左の剣で近くにあるcenのルーンを削る。ほんの少しだが、上条当麻を包んでいる炎の威力が弱まる。
そして、そのまま巨大な魔剣の先端に向かって走る。
勿論左の剣でcenのルーンを潰し、右の剣で巨大な魔剣を押さえつけつつである。
「な、なんという。」
ビットリオ=カゼラは言葉に詰まる。
解決方法として実に妥当である。上条当麻の採っている方法は、魔術の要となる部分を潰しているだけ。真っ当な方法である。
だが、誰が焼かれたまま平気で動けるだろうか。ビットリオ=カゼラは先の自分の生きながらにして焼かれる感覚を思い出して、その光景を疑いながらも注視する。焼かれていても大丈夫な魔術的防護を全身にかけているとは推測できるが、ビットリオ=カゼラは皆目見当もつかない魔術である。
とうに力の闘技ドームは解体され、上条当麻の全身の炎も半分は消えていた。
上条当麻は残りの半分のため、左の剣を巨大な魔剣の刃に当て、右の剣を離す。
もう一度、今度は反時計回りに半円ではなくほぼ円を描くように、回す。
『次は反対側!』
掛け声と共に、半円を描いて巨大な魔剣をまた床にめり込ませる。しかし、今表面になっている部分は先程裏だった部分である。
そこにはまだ薄赤く光り輝いているcenのルーンが残っている。
『もう半分だ!』
彼は次々とcenのルーンを削り、今度は反対に魔術師に向かって駆けていく。
それを魔術師が黙って待っているはずもない。かの魔術師には逃走手段がある。ビフロストの魔術の応用術式という逃走手段が。
ただし、阻む手段を持ち合わせている者もいる。
『無駄だって事を思い知れよ、いい加減。』
強く言い放ち、上条当麻は呪文に当たるものを唱える。
「慈悲ある聖母はその安住の場所に奇跡を残し、世界を見守る!」
今度は流暢なローマ方言に戻って唱えた。瞬間的に神の祝福が集まりだし、ロレートの家となって上条当麻と魔術師を覆う。
ロレートの家の術式が歪んで、そしてそれが雲散霧消すると。
立ち位置的には何の変化もない二人が現れる。ただし、魔術師は顔をさらに気持ち悪く歪めている。
『この戦いの中で、お前のその応用術式を何度見たと思ってる? 対策なんざ練るまでもねえ、感覚で十分だ!』
最後のcenのルーンを削り、炎の消えた条当麻は魔術師に迫る。
魔術師は特に何をするでもなく、上条当麻の右手にある剣の腹で殴られ吹っ飛ぶ。
そして、上条当麻は残った左手にある剣を垂直に突出し、足元のトパーズの石柱を砕く。
砕いたと同時、太陽がそれほど照りつかなくなり、空気も寒さはなくならないがほどよい湿気を取り戻していく。疑似的なマヤの世界観の再現が終わったという事である。
上条当麻は燃えた以外に被害もないまま終えたのだ。
「はい、終了。対策すれば十分いける。じゃあ次に――」
どぽり。
言い終わるよりも前に、血を吐いた。
「な、んだこれ!?」
もう一度大きな赤の塊を吐き出し、そのまま上条当麻は自身で作り上げた赤い池に体を沈める。パーカーにもズボンにもそれは染み渡って、汚れていく。
アリーウスの剣とオリーウスの剣のそれぞれは手放され、床に刺さり直立する。
「カミジョウ!」
ビットリオ=カゼラは叫び、アロンダイトを掴んで杖のように使ってどうにか立ち上がろうとする。
しかし、できない。足にはまだ力が入らないのだ。
上条当麻も、思った以上に大きな攻撃を食らったのか、口を押さえて這いつくばっている。一回えづく度に、上条当麻の口から真っ赤な液が漏れ出る。
「……げほっ、まさ、げほ、ごほ! マヤの世界観の疑似、再現魔術と、ぐ、俺の体を対応させて、げほっ! 壊した時に、ごふ、俺の体も、壊れるように……?
あの変な力のドームも、ごほ、マヤの世界観の疑似再現魔術と、対応、げふ、させるた、げほっ!」
『ソーi兎こトda。』
はっとして、上条当麻は正面を見上げる。
弱まった太陽の光を浴びる、悪魔より恐ろしい魔術師が、命を刈り取る魔剣を掲げて立っている。
「まずい! カミジョウが!」
黙って見ているわけにもいかない。
自身に言い聞かせて、ビットリオ=カゼラは立ち上がろうとする。
だが、やはりどうしても動かない。手は動く。足も動く。それなのに、立ち上がれない。
(このままでは、……このままでは、何だ?)
不意に思い至る。
そもそも、ビットリオ=カゼラが彼を助ける理由はない。
ならばなぜ、そんなふうに足掻く必要があるのか。
(そんなことを考えている場合じゃない!)
そう思っても、心の囁きは止められない。足は動かず、鎧の中で汗が滴り落ちていく。
(私が助ける理由はない。カミジョウトウマという人間は魔術師だ。主の愛を知りながら、ロレートの家の……神聖なる奇跡を再現しながら、彼は神も主も信じていない。
そんな彼を助けるべきではない。ここはこの惨状や首謀者たるあの魔術師について報告するための術式を編むべきだ。)
立ち上がる事もできずにそう考える。考えてしまう。ビットリオ=カゼラは底なし沼に放ったような感覚を覚える。
一方、上条当麻どうにかしようと足掻いているが、魔術師を睨みつけているだけで起死回生の一手を打てそうもない。先程までの天才的な魔術は不自然になりを潜めている。あるいは、魔術を妨害される攻撃も受けているようにビットリオ=カゼラには見える。
魔術師は上条当麻の頭をかち割りたくてうずうずしている。手にある魔剣もまた、血の色をさらに欲してか薄らと赤く光る。
それでも声は大きくなるばかり。
(彼が殺される数秒で、連絡のための術式を編んで使うべきだ。すでにマヤの世界観の疑似再現魔術は破壊されたからできるはずだ。
そうすれば、私などより遥かに強く、この状況にも対処できる者達が来てくれる。それでいい。)
どんどんビットリオ=カゼラの心にその選択が膨らんでいく。下らない、一笑にふしたい思惟に、彼自身が沈んでいく。
(……見捨てろ。)
それは、抗い辛い言葉。
『げほ、ち、くしょうが……。』
上条当麻に、剣が落ちる。そう言っている間にも、突発的に血を吐く。
(見捨てろ。)
それは、魅力的な言葉。
魔術師の姿が、周りが、大きく歪む。上条当麻の死を楽しむように。
(見捨てろ!)
それは、蠱惑的な言葉。
「……そうじゃあ、ないだろう!」
そう叫んだ心は本物だった。
ビットリオ=カゼラは下らない思考から脱却し立ち上がる。
「主よ、あなたの奇跡を、わずかばかり、私にお与えください! あなたを信じる、力なき人々のために、瞬く間を超える、奇跡を……!!」
それは魂からの言葉だった。
天にも響かせるかのように高速移動の術式を唱える。
そして紅蓮のマントを羽ばたかせる程の速さでその先へ飛び込む。
地獄の業火のような炎からビットリオ=カゼラを助けてくれた、優しい魔術師のために。
「ぬおおおおおおお!!」
3
人間の脳は、飛ばなかった。
間一髪、ビットリオ=カゼラは巨大な魔剣と倒れ伏している上条当麻の間に立ち、その細身の剣で巨大な魔剣を止めたのだ。
「ぐ、ぐぐぐ。」
とうにオーレンツ=トライスに突っ込んだ時の術式を解除してしまったため、肉体には高速移動の術式用に調節した神の祝福しか残っていない。筋力増強など到底望めない。ましてやビットリオ=カゼラのアロンダイトは通常の西洋剣よりも細く、頼りない。
それでも、彼は耐える。
「お前、何を……。」
上条当麻の目に映ったのは、ところどころ焼け焦げている赤いマントと、変に溶結している部分のある、不格好な銀色の鎧の後ろ姿である。足は震えており、腕に力も入っていそうにない。火傷を完治させたわけでもないその身体は、どう考えても強者には見えない。
だがその後ろ姿は、とても頼もしい。
「ふんっ!」
ビットリオ=カゼラは巨大な魔剣に競り勝つ。
次に連続で巨大な魔剣を上方に叩きはじく。当然、魔術師に隙ができる。
見逃すはずもない。
「はあ!」
左足による強力な蹴りが魔術師を襲った。防御も取れなかった魔術師は布切れのように軽く吹っ飛び、かろうじて残っていた反対側の壁に激突する。
ビットリオ=カゼラはそれを気にせず、上条当麻の方に振り向く。
「貴様、回復のための奇跡再現は大丈夫か?」
「え? あ、ああ。ごほ、体質とか問題はない。」
小さな血の塊を吐きつつ上条当麻は答えた。
ビットリオ=カゼラはすぐさま奇跡の再現を行う。どこからか取り出した五枚ある、イチジクの木の板材を一瞬で桶にする。まるで独りでに組み上がったようだったが、これは単にそういう術式を使用しているだけの事である。
そして場にある水分をかき集め、桶の中に溜める。桶の水からは薄らと湯気が立ち上っている。
「げほ、エクス=ヴォトと、ごほっごほっ! ……ナザレのイエスが生まれた時に浸かったっていう、げほ、飼葉桶の再現、か。そんなふうに組んで使えるんだな、ごほ!」
「流石に分かるか。」
エクス=ヴォトは十字教的な奇跡の再現をするための術式であり、第三者を介し何かを奉納して奇跡を起こしやすくするものである。
飼葉桶はその通り、主が生まれた時に産湯の入れ物として使われた物の再現である。
今回はエクス=ヴォトで飼葉桶を組み、それの再現による奇跡を起こしやすくしている。
「でも、どうやって使うんだ?」
「簡単だ。貴様のような奴にはこう使う。」
ビットリオ=カゼラはおもむろに飼葉桶を持ち、そして。
ぶっかける。
驚く間もなく熱湯はかけられた。
「あ、アチ、あちい! テメェ、あっつ、熱いわぁ!!」
目が点と化していた上条当麻は顔面からまともに受けてしまい、その全身から湯気でも出そうである。
「ふん、異教徒にはちょうどいい洗礼前の清めだ。第一、貴様は先程まで全身を燃やされていたがなんともなさそうだったではないか。」
当のビットリオ=カゼラは先程の火傷を同じく飼葉桶に溜めた湯で癒す。最も、神の祝福を神の力に変えて、鎧の隙間から湯を通し全身に行き渡らせる形である。少しだけ痛みと熱さはあるものの、耐えられない程ではない。
上条当麻は無表情に飼葉桶の中の熱湯を自身の上からかけられた上にビットリオ=カゼラ本人の回復方法に怒りを感じ、それも無碍に扱って、アロンダイトに先のぶつかり合いによる傷がないかどうか点検しているビットリオ=カゼラに思いの丈をぶつける。
「いやあれだって霊装の意味を抽出しつつ魔力を精製してから、っておお! 治った!」
中断された後の言葉通り効果はてきめんである。上条当麻は素直に自身の傷が消えた事を喜ぶ。
ビットリオ=カゼラはそんな上条当麻に手を差し出す。
「貴様……いやカミジョウ、立てるか?」
上条当麻は一瞬だけ間抜けた顔をして、すぐに笑う。
「ああ、ありがとう、ローマ正教の騎士さん!」
ビットリオ=カゼラは笑顔で言われたその言葉に純粋に嬉しさを感じる。誰かを助ける時にこのような想いは非常にありがたい。
だから少しだけ、訂正して貰う。
「私はカゼラ。ビットリオ=カゼラだ。」
「じゃあカゼラ、ありがとう。」
上条当麻はもう一度礼を言った。ビットリオ=カゼラも礼を言われて、悪くない気分になる。
ビットリオ=カゼラは上条当麻の手を掴み、二人は立つ。
黒いフードを被った歪な魔術師もまた立ち上がろうとしている。
それに気を配りながらビットリオ=カゼラは話す。
「全く、自分を助ける技量がどんな物なのか、だったか? よくもまあ大言壮語できたものだ。」
「なーに言ってんだよ、お前らの親父さんが助けてくれたろ? お前っていう助けを寄越してな。俺はそういう事が言いたかったのさ。」
「ふん、へ理屈にもならんな。」
鎧と肉体に再び神の祝福を張り巡らせ、ビットリオ=カゼラは微笑する。
「これからどうする?」
服を魔術で乾かしていた上条当麻は面食らったようすでビットリオ=カゼラを見る。
「何だ、変な顔をして。」
「いや、お前がもう協力してくれるの前提で話してるから。正直、もっと頭がお堅いと思ってたんだ、カゼラの事。」
「何を馬鹿な事を。」
鎧の中でビットリオ=カゼラは大きく笑う。朗らかに心外だと主張する笑いである。
「貴様は確かに魔術などという得体のしれない邪悪な物に手を出している。しかも、聖母マリアに関連した奇跡まで再現しているにもかかわらずだ。間違いなく貴様はローマ正教として認可できない存在だ。
だがな、神も主も、誰かを助けようとする事をお咎めになされたりはしないだろう。貴様のような奴でもな。」
「そっか。そうだな。」
上条当麻も笑い、二人とも程良い協力関係と、戦いにおいての緊張を手に入れる。
そして、上条当麻は行動方針を口にする。
「できればあの魔術師、いやオーレンツ=トライスは生きたまま捕縛したい。」
「なぜだ。そんな無駄に労力を使う事を、なぜ。」
ビットリオ=カゼラは鎧越しから上条当麻に疑問の視線を投げかける。同時に、上条当麻が魔術師と交戦中致命傷を与えていなかった事にようやく気付く。
「……トライスは何人かの一般人を奴隷にしている。魔術で思考力を奪ってな。」
「何?」
目線を交わさず、上条当麻は告げる。
「本当だ。どうやっているのかまでは知らないが、トライスは他人から思考力や心を一時的に奪って使役する事ができるんだ。その中には多分、ローマ正教の教義でお前らの親父さんを唯一の神様として信じている人もいる。」
上条当麻は二振りの剣を床から引き抜いて構える。その目は敵――オーレンツ=トライスをじっと見据える。
「問題はトライスを殺してその人達が元に戻るかだ。一時的って言ったけど、今までに解かれた事なんてない。最悪、戻らずに二度と思考力や心を持てないまま、一生を病院の隔離病棟で過ごす事になるかもしれない。」
「その魔術や解法に心当たりは? 見当もついていないのか?」
ビットリオ=カゼラも剣を構え、魔術師を見据える。
「今のところゴエティアとかギリシャ占星術あたりを睨んでいるんだけど、正直なところ全く分からない。だから、トライスを殺すわけにもいかないんだ。」
「難儀だな。しかし、やらねばならんか。」
ビットリオ=カゼラはその話を聞いて当然のようにオーレンツ=トライスを捕縛する事に同意する。ローマ正教の信徒達が邪悪な魔術師に操られている事は受け入れ難い。
(……ふん、受け入れ難い、か。)
そう考えてビットリオ=カゼラは居心地が悪くなる。
先程上条当麻はビットリオ=カゼラを助けた。それは打算ではない。打算ならばビットリオ=カゼラを助けずにオーレンツ=トライスに向かっていけば良かった。そうすればビットリオ=カゼラに魔術を行使しているオーレンツ=トライスの隙を突けたかもしれない。
だが上条当麻はビットリオ=カゼラを助ける事を優先した。打算からではなく、誰かを助けたいという想いからの行動をとったのだ。
対してビットリオ=カゼラはどうだろうか。
ローマ正教徒が囚われている、それだけでしか心は動かされなかった。オーレンツ=トライスに捕まり奴隷のように使われているであろう他の人々には何の関心も示さずに、だ。
ビットリオ=カゼラはそんな自分が嫌に思えてきて、剣を強く握りしめ前を向く事で逃避する。
ふらり。そんな表現が適切にさえ思えるような行動で、オーレンツ=トライスは立ち上がる。
「そんじゃあ、始めるぞ。」
上条当麻の一声と同時に、冷たい空気が一段と張り詰める。
『オオoぉォ!』
オーレンツ=トライスは奇声を上げる。獣が上げるような、相手をすくませ出鼻をくじく叫び。
同時に、フレイの魔剣でまた文字がほんの少し暗く光っている。しかしそれは先程のものとは全く別のルーン文字である。
不気味に輝く文字をビットリオ=カゼラは見やる。
「今度は、isaか。」
ビットリオ=カゼラの目で捉えたものは、isa、isなどと表されるルーン文字である。縦棒が一本あるだけのような記号で表され、その意味は氷となる。
オーレンツ=トライスは重量をものともせずにフレイの魔剣の切っ先をビットリオ=カゼラと上条当麻に向ける。
フレイの魔剣のisaが一際大きく輝く。そこから発射される弾は当然氷である。
「来るぞ!」
上条当麻が注意を促す。
次の瞬間には氷の塊が二人の目の前に迫っている。
しかし二人は慌てない。二人とも踊るように剣を振るい、発射された氷の塊を弾き、斬る。
上条当麻は一呼吸分防ぐ動作のみ行った後、オーレンツ=トライスの方へ疾走する。
上条当麻は迫りくる氷の塊を時に剣で防ぎ、時に避け、時に砕く。
彼は反撃を忘れず、どこからか取り出した小さな黄色い円盤を投げつけるが、これはフレイの魔剣で弾かれる。しかしそのおかげもあって五秒も経たずにオーレンツ=トライスの前まで両の剣を伸ばせる位置に届く。
「うおおおおお!」
両の剣を一度に突き出す。その瞬間にオーレンツ=トライスはフレイの魔剣を盾のように突き出して防ぐ。秒単位では測れない応酬が連続し連撃されていく。
そしてまた次の瞬間、フレイの魔剣が大きく振るわれ上条当麻が吹っ飛ぶ。
だが、上条当麻もただでは転ばない。ポケットからまた一枚のカードを取り出し、オーレンツ=トライスに投げつける。
その円盤の描かれた小アルカナの一のカードは前触れなく大量の白い粉を吐き出す。破壊されたフィウミチーノ空港を演出していた、あのセメントの粉である。上条当麻はセメントの粉を吹き飛ばさずに集めていたという事である。
その直後にオーレンツ=トライスの眼前にビットリオ=カゼラが出現する。
『ホぉう!』
セメントの粉もあって不意を突かれたオーレンツ=トライスは、それでもくすんだ色の喜びを表情に出している。
「ふんっ!」
対してビットリオ=カゼラはセメントの粉を無視して、真っ直ぐにアロンダイトを突き刺す姿勢である。だが、上条当麻の方針通りに致命傷は避けて腹部を狙う。
ぶよぶよとした小さな不快音がたてられる。
傷は浅い。だが、肉を突き油と血が流れる感覚がビットリオ=カゼラの手に知覚される。
その時、背筋が凍る。
(これは、この感覚は!)
鎧の中で瞳が大きく見開かれる。肉を突いた感触ではない。それとは別な感覚がビットリオ=カゼラを襲ったのだ。
剣で突かれたにもかかわらずオーレンツ=トライスは笑う。呼応するようにすぐさま異変は現れる。
『ギャオオオオオォォォ!!』
雄叫びを上げるそれは恐怖そのものだ。
血が赤黒く固められる度に上塗りされたと錯覚させる程黒い爬虫類の皮膚は、十字教における聖人ですら耐えられないかもしれない邪悪を含有している。頭の後ろ側に広げるように生えている何本もの棘は、それだけで威嚇の効果が絶大に存在する。人間よりもはるかに大きな目は瞳孔まで白く、怨嗟という表現が一番適格になるような敵意の目である。
極めつけはその巨大な顎。人一人をまるごと飲みかねないそれは、食われるという恐怖を強烈に感じさせる。
それは竜。
聖ジョルジョの伝説に出てくる竜にも匹敵する、邪悪の化身である。
上条当麻は急いで駆け付けようとするが、すでに遅い。
ビットリオ=カゼラが反応するより早く、竜はがっぷりと噛みついている。
そのまま竜はビットリオ=カゼラごと首を大きく天に突き出す。ビットリオ=カゼラの鎧がさらに不格好に、より凄惨に軋んでいく。ビットリオ=カゼラは弱音や苦痛の叫びこそ出していないが、その痛みは彼の人生の中でも五指に入るだけの痛覚を覚えさせている。それでもアロンダイトを手放さず、彼は思考する。
(この物理的攻撃に対して格段の防御を誇る施術鎧を傷つけるとは!)
竜と同じくらいに顎を噛み締め、ビットリオ=カゼラは耐える。
竜の全体は一対の翼を持つ有名な姿である。その人間とは比べ物にならない強靭な四肢や、黒く淀んだ光沢を放つ鱗は、人を恐怖させるに十分である。
竜はその巨大な影という暗幕を作り出している翼を大きく動かし、自分の存在を誇示する。先程のセメントの粉がまたも破壊された空港内を満たす。
「ぐおおおおお!!」
青空に突き上げられているビットリオ=カゼラは堪らず、今度こそアロンダイトを落とす。
「カゼラぁー! ……っ!」
目をこすりながら駆ける上条当麻の前方に、黒い歪からオーレンツ=トライスが現れ、立ちはだかる。ビフロストを応用した空間移動の魔術である。
血が服に染み込んでいくオーレンツ=トライスに、上条当麻は即座に迎撃用の魔術を放つ。
『ピナカ!』
上条当麻の額から一筋、眩しい光が放たれる。意識が飛びそうになってもなお上条当麻を見ていたビットリオ=カゼラの目が失明するかと思われるほどの光の強さである。
これはインドのシヴァ神が持つ、ピナーカという武器を模した魔術である。日本語ではピナカとも表記される。実際には『ピナーカ』という存在の形や術効果、使役方法が定まっていないために、ピナーカとはどういうものなのか色々な解釈ができるからこその魔術であり、即断が求められるときの迎撃用として使い勝手の良い魔術だ。
当然、本来のピナカより威力は下がっているが、破壊神の力は絶大である。
だが、両断。
ピナカの雷撃はフレイの魔剣の振り下ろしでいとも容易く縦方向に切り裂かれ霧散する。
空間の歪みで両腕がひしゃげていくオーレンツ=トライスの体には、ピナカの傷は一つもない。代わりに、オーレンツ=トライスを模して作られたような、半身が焼け焦げた人形が転がっている。
『雷切と類感の魔術か! 雷切の伝承にある負傷を人形におっかぶせて!』
そう言っている間に、上条当麻に氷の塊が飛来する。上条当麻は両手にある剣で全て落とすが、フレイの魔剣による斬撃という二段構えの攻撃に襲われる。
位置の関係でフレイの魔剣を一本の剣で防がなければならなかった上条当麻の顔は一気に辛さをにじませる。何度も紙のように吹き飛ばされているオーレンツ=トライスだがフレイの魔剣による攻撃はひどく重みがある。
(ぐ、救援は期待できんか。)
でろでろとした竜の涎と噛まれている痛みを苦しく思いながら、ビットリオ=カゼラは遠目で戦いを目視する。
(ならば、私がカミジョウを手助けしてやるまでだ!)
ビットリオ=カゼラは痛みを強靭な精神力で無視し、自由に動かせる二本の腕で自分の鎧の兜を取り外す。先程よりも冷たく乾いた空気が顔を覆う。
冷たさを感じつつ素の顔を晒して目を見開くと、上条当麻の危機が見える。フレイの魔剣が迫っている光景である。
「当たれえぇい!」
未だ残っているなけなしの神の祝福で腕力をほんの少しだけ強化し、不安定すぎるその体制から兜を投擲する。
竜の大きすぎる翼をかすめて見事にオーレンツ=トライスの頭に当たり、目標物はよろける。
その隙を上条当麻は見逃さない。先程の戦闘と同様に左の剣でフレイの魔剣を押え、右の剣の柄で顔を横殴りする。
上条当麻は体勢の崩れたオーレンツ=トライスを捨て置いて、ビットリオ=カゼラの手から落ちてしまったアロンダイトを取りに行く。
「カゼラ、待ってろ! 今剣を持っていく!」
「その必要はない!」
しかしビットリオ=カゼラは拒んだ。
そのビットリオ=カゼラの全身は光り輝いている。右手には七つの小さな石が握られており、淡く光っている。
「その頭と髪は羊毛に似て雪のように白く、目は燃え盛る炎のよう、足は炉で洗練された真鍮の如き輝き、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣を出し、顔はまさに強く照り輝く太陽の如く。」
ビットリオ=カゼラは一呼吸置いて、鎧で覆われた左手を口の中に突っ込む。
そこから一気に両刃の剣を引き抜く。
竜は慌てて自らの首を左右に大きく振ろうとするが、時すでに遅い。
上条当麻が呆気にとられる中、ビットリオ=カゼラは宣言する。
「神に仇なす敵は、私が倒す!!」
左手で持った『鋭い両刃の剣』で竜の口をざっくりと斬る。ビットリオ=カゼラの手にはこの奇跡の再現でなければあまり感じない、妙な手応えのなさを感じる。
『ギャオオォォォオオ!?』
竜はビットリオ=カゼラを離すが、逆に彼は竜のべとべととした牙を右手でつかみ、その体制から自身を上へと放る。
(神の祝福を『神の如き者』に変更して解放。)
世界を満たしている力を再び操り集め、その性質を変化させて神の如き者へと移行させる。
鎧から疑似的な一対の赤い翼が生える。しかしその疑似的な赤い翼はあまりにも薄く不安定で儚い。神の祝福を練って翼を作っても、空を飛ぶ事を目的としていないからである。
(姿勢制御さえできれば後はどうでもいい。この邪竜を倒せるならば、今は構わない。)
竜の頭にうまく乗り、ビットリオ=カゼラの翼はなくなる。
痛みで暴れる竜の上でビットリオ=カゼラは『鋭い両刃の剣』を両手で持ち、刃を下にする。
「滅びろ、邪竜。」
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その一言の後、ビットリオ=カゼラは力の限り『鋭い両刃の剣』を落とす。
『グラアアアァァア!!』
一際大きな雄叫びを上げた竜は、まるで何もなかったかのように消える。同じくビットリオ=カゼラに付着していた竜の唾液も綺麗さっぱりなくなる。
竜の高さ分だけビットリオ=カゼラは落下する。彼はセメント粉の絨毯に片膝を着く形の綺麗な着地を見せる。
が、うまく立ち上がれない。そこに上条当麻が駆け寄る。
「ヨハネの黙示録、か。竜は翼持ってるから堕天使の暗喩にもなっているんだったよな。驚かされたぞ、あんな高度な術式。」
言いつつ、上条当麻は手を出す。
「ああ、流石にこの剣の再現は奇跡というよりも天使化に近い。まあ本当の天使化など無理に決まっているが、それを神の如き者で強化した。かの天使は剣を使い『光を掲げる者』を討った事もある。
きつかったが、なんとかなった。」
消えゆく『鋭い両刃の剣』を目にして、ビットリオ=カゼラは上条当麻の手を掴んで立ち上がる。
天使はその身に膨大な量の神の祝福を宿し肉体を構成している存在であり、その能力は人間とは桁違いである。当然それを模倣して術式を行使する事も難しい。
上条当麻はそんな芸当をやってのけたビットリオ=カゼラを興味深そうに聞く。
「で、それは話していいのか? 俺って魔術師だぜ?」
「お前なら言われなくとも仕組みが分かるだろう。なら逆に嘘を織り交ぜて話せばいい。」
「……えげつねぇ。」
ビットリオ=カゼラは上条当麻の言葉を無視してアロンダイトを拾い、再びオーレンツ=トライスを見つめる。いつの間にかビットリオ=カゼラの鎧のへこみやマントの傷もなくなっており、竜そのものが幻のような物であったと理解する。
そしてまた、両雄は再び並び立った。
その瞬間。
『ス気をめっke他ゾーう!』
できの悪い悪夢のように。
背後の数メートル上から、大上段にフレイの魔剣を持ったオーレンツ=トライスがいる。
べっとりと顔に卑屈さと明るさを併せ持った笑顔を塗りたくり、時折その顔や全身が黒く歪む。
ビットリオ=カゼラはコンマ数秒の差で反応が遅れる。そのままいけばビットリオ=カゼラの頭は割れて、地獄の悪魔が晩餐に選びそうな血と肉の塊となるだろう。
ゆえに。
上条当麻はそれを受け止める。ビットリオ=カゼラとオーレンツ=トライスの間に割って入り、二本の魔剣を引っ提げて圧倒的な質量であるフレイの魔剣を受け止める上条当麻の表情は余裕しかない。
『その程度なら予測済みってわけだ、トライス!』
しかしオーレンツ=トライスもそれで引き下がるような者ではない。受け止められたと察知してすぐに一際力を込めて食い下がり、しかも次の瞬間にはその反動でフレイの魔剣を引く。
そして、オーレンツ=トライスは芸もなくまたフレイの魔剣を振り下ろす。
それには先程とは違う要因が混ざっている。
空間の歪みだ。
『――ぐ!?』
神の鉄槌にも似たその攻撃に対し、上条当麻はどうにか両の魔剣で防御態勢を整える。だがわずかに黒い空間の歪みに引っかかり、上手く勢いを相殺できない。
右目部分が小さく歪んだオーレンツ=トライスはまた剣を反動で引き、そして振り下ろす。
単調であるが強力かつ効果的ゆえに、対処はし難い。オーレンツ=トライスはそれを知っている。
投下される圧迫感に上条当麻は食らいつこうともがく。二度目のフレイの魔剣による攻撃で態勢を崩されて回復する時間もないままに、半ば無自覚の反応に頼って守りを固めてもどこかぎこちなさが残る。
そして。
銀色の鎧による細身の西洋剣が介入する。
『ま多邪ma!?』
感想を漏らした者はオーレンツ=トライス。介入したビットリオ=カゼラ本人は無言で自身のアロンダイトに力を込める。ビットリオ=カゼラは先程もフレイの魔剣を腕力で受け止めて勝った。それを自身にして、ビットリオ=カゼラは踏み込んだのだ。
オーレンツ=トライスは不利になるとわずかに苛立ちを見せる。
そこに、真横から魔剣が出現する。
苛立ちよりも驚愕を優先したオーレンツ=トライスの表情に、ビットリオ=カゼラは一層の気迫でもって力を込める。
オーレンツ=トライスの両腕は扱っている魔剣の大きさとは裏腹に、巧みな手首使いで細身の剣を受け止める形はそのままに、二振りの魔剣、アリーウスの剣とオリーウスの剣という魔剣を止める。しかし、それはどちらも剣の刃の部分ではなく腹の部分で受け止める形になってしまう。
頼りなささえ感じさせるビットリオ=カゼラのアロンダイトと、ほんのりと暗色に光るオーレンツ=トライスが振るうフレイの魔剣。すでに拮抗する二本に、新たに二本の魔剣が参戦した事でオーレンツ=トライスのフレイの魔剣は押される。
上条当麻はそれを見て含んだ笑いを作る。
『これでも食らえ!』
と、上条当麻は後ろで球体の何かを蹴ってオーレンツ=トライスに当てる。
ヨハネ黙示録、そこに書かれた硫黄の炎を限定的に作り出す、何千枚もの羊皮紙を張り合わせてできた球体を。
上条当麻とビットリオ=カゼラ、両方が鍔迫り合いを解除した直後、間もなく爆発する。
痛みと苦しみが撒き散らされ、辺りに腐食が蔓延する。当然オーレンツ=トライスは下がらなければならないが、魔術を行使しようとしていたために回避行動に移れない。
それと同時に、ビットリオ=カゼラと上条当麻は下がって態勢を整える。
その筈だった。
『ちくしょう、トライスめ。』
後ろに下がった二人の内、わずかに顔をしかめさせて発言した者は上条当麻の方。
「手助け感謝する。が、何かあったようだな。」
ビットリオ=カゼラはようやく口を開く。流石に術式強化もしていない素の腕力ではかなり無理をしていたからである。戦いの中で腕の痺れ具合も半端なものではなくなっている。
「あの魔術師はとんでもねえヤツだって話だ。元々isaで氷の攻撃をしようとしていたらしいんだが、どうにも俺が硫黄の炎で攻撃した時に咄嗟にthurisazのルーンと組み合わせて氷の防壁を作ったっぽい。おかげで相手も傷一つ負ってない。」
thurisaz、あるいはthornとも表記されるルーンには、いばらや巨人といった意味だけでなく守りの意味も抽出できる。オーレンツ=トライスはそれを用いて硫黄の炎をどうにか凌いだ。
その証拠に、足元をふらつかせながらも空間を歪ませつつ立ち上がっているオーレンツ=トライスには焼け跡一つない。周りで少々の光が見える理由は、その氷の障壁が壊れて破片が太陽の光を反射するからだと、ビットリオ=カゼラは考える。
改めて敵の異常性を示させられ、ビットリオ=カゼラは自然と肉体の重心を落とす。
「まあいい、仕切り直しと――ん?」
不意に上条当麻は言葉を切る。
また同時にビットリオ=カゼラもオーレンツ=トライスも気付く。
今まで誰もいなかった筈のその場所に、誰かがいる事に。
「誰だ!?」
ビットリオ=カゼラが大声を上げて振り向くと、その少女は驚いて慌てふためく。服装は赤を基調とした少女用のドレスと、ブローチ着きの上着である。ドレスには白いフリルがところどころに取り入れられ、とても可愛らしい。そして両腕で日本製のカエルのキャラクター人形を大事に抱えている。
ビットリオ=カゼラが匿っている、今は信頼の置ける司教達に預けている筈の少女である。
「お前が、なぜここに!?」
ビットリオ=カゼラもまた驚き少しの間硬直してしまう。
少女は一旦落ち着いたのか、ビットリオ=カゼラの元へ一直線に向かってくる。
「何やってんだ! 早くあの子をこの場所から引き離せ!」
はっとしたときにはもう遅かった。
ビットリオ=カゼラが上条当麻の言葉でやるべき事に気が付いた時には、既にオーレンツ=トライスが空間移動して少女を掴んでいる。
「トライス、貴様!」
ビットリオ=カゼラは剣を構えて走り出そうとする。
「O舞えハ,チかづクna。」
そんなビットリオ=カゼラに、オーレンツ=トライスの口から到底流暢とは言えない標準イタリア語が返ってきた。この男の底知れぬ狂気を垣間見るような、そんな胆の冷えそうな声である。
少女はこの状況に頭が追いついていないのか、ただビットリオ=カゼラを見つめているだけである。少女からして左、オーレンツ=トライスの腹からにじみ出ている血で混乱していないだけましだとも言える状況である。
ビットリオ=カゼラがなおも前に出ようとする事を上条当麻は手で制し、彼が一歩前に出る。
『何が望みだ、とでも聞けばいいのか? トライス。』
いぶかしげな目つきで上条当麻は問う。先程と変わらぬ、オーレンツ=トライスと同じ言語で喋っている。
「綿シのネgaいはタ陀hi突。上条当麻、お前ヲkoroす琴だ.」
雑音に勝るとも劣らない発音やアクセントの雑さでオーレンツ=トライスは答えた。
どうにかビットリオ=カゼラにも聞き取れたが、実際にはオーレンツ=トライスとしては私ではなく俺という一人称的な含みを持って喋っていたりする。
そんな舌足らずで言葉足らずな内容は兜越しで見えないビットリオ=カゼラの顔を厳しくさせる。
「まさか、その子の命と引き換えにカミジョウに自殺しろとでも? カミジョウ、それは許されていない行為だ。絶対にやるな。」
「分かってる。俺も、言っちゃなんだけど自分の命が大事だからな。」
ビットリオ=カゼラは厳しい口調で言うが、上条当麻は落ち着いて返した。
上条当麻は淀みなく続ける。
「つーわけで、俺はその子を助けない。そう、俺は。」
話し終えた途端に爆発が起きる。
オーレンツ=トライスの前でいきなり、セメントの粉が押し出していくように爆発が起きたのである。爆発の中心地にあったのは、上条当麻が捨て置いていた小アルカナのカード三枚だった。竜の羽ばたきで舞ったセメントの粉の下に隠れていた物だ。
「主よ、あなたの奇跡を、わずかばかり私にお与えください。あなたを信じる力なき人々のために、瞬く間を超える奇跡を。」
爆風で空気が熱されマントが揺れる中、再びビットリオ=カゼラは詠唱し、飛び出す。
ビットリオ=カゼラはその頼みを聞き届けているからだ。
(俺は助けない。という事は、私に助けに行って欲しい。
そういう意味なんだな、カミジョウトウマ!)
彼は上条当麻の言葉を理解し、愚かな魔術師に向かって行く。
その一方、オーレンツ=トライスは不意を突かれはしたが、すぐに顔を歪めて邪悪な表情を作る。そして魔術的な回避行動を取ろうと試みる。
それは踊り。
上条当麻がピナカを使ったため、意趣返しとして同じシヴァ神のピナーカを用いる。しかしそれは雷の魔術としてではなく、霊装としてのピナーカである。シヴァ神にある舞踊の神と破壊の神というそれぞれの側面から、オーレンツ=トライス自身に向かってくる攻撃を迎撃するという魔術である。
オーレンツ=トライスは少女を羽交い絞めしている方の袖からピナーカを出して手に持ち、腰辺りの空間を歪ませながら足で舞踏の最初を踏もうとして――できない。
『co、れは!?』
凍ったように顔が固く強張る。
なぜか両足が土で覆われ動かせない事で動けなくなってしまう。困惑の中でオーレンツ=トライスは次の一手を見いだせない。その眼前にビットリオ=カゼラが来てようやく反応できる程度である。
しかし、その反応も瞳孔を小さくするに留まる。
「ふん!」
白い粉の床を走破して、鋼の拳に高速術式の速さを乗せた弾丸の如き右が炸裂する。
オーレンツ=トライスは耐えられずによろけ、少女を掴んでいた右腕もフレイの魔剣を持っていた左手も離してしまう。当然ピナーカも同様である。
ビットリオ=カゼラは見逃さず素早く少女を抱きかかえ、即座に後ろに戻る。
「大丈夫だな。」
少女は腕の中で頷き返す。
ビットリオ=カゼラは目の端で、近くにあった黄色い円盤を捕える。上条当麻がオーレンツ=トライスに放ち、ここまで弾き飛ばされた円盤である。
黄色い円盤は少しだけ浮き、減速しつつ高速回転している。円盤は魔術的な意味合いから土の象徴武器だ。オーレンツ=トライスの足を捕まえていた土はこの円盤による魔術である。
一方、目を回すオーレンツ=トライスだが、上を見るようになってしまう体勢から見つめてしまう。
オーレンツ=トライスの真上に、太陽に隠れた上条当麻がいるから。
オーレンツ=トライスには今手札がない。フレイの魔剣とピナーカは離してしまい、服に仕込んでいた竜も使ってしまったからである。頼みの綱であるビフロストの応用魔術も、上条当麻のロレートの家の術式で相殺されてしまう事は証明済みだった。
オーレンツ=トライスにとっては絶望的である。とうに円盤の回転が止まっており、土による足の拘束が解かれている事にも気付けない。
『さあて、トライス。』
その絶望を作り出した上条当麻は左手に拳を作って宣言する。もうオーレンツ=トライスまで数メートルもない。
『お前の幻想、ここで強制中断させてもらうぜ!!』
絶対に狙いを外さない矢の如く、破壊の拳が放たれる。
放たれた直後にオーレンツ=トライスの顔と真下にあった床が歪む。今日一番の歪みである。
そしてその真横に、上条当麻は優雅に降り立つ。
ビットリオ=カゼラは少女と共に上条当麻を見る。
上条当麻はそれに気づいて振り向いてこう言う。
「やったな、カゼラ。」
「ああ、とりあえずはな。」
ビットリオ=カゼラは少女を抱えて上条当麻のところまで行く。
「いやー、流石の上条さんでも大変でしたよ。でも、その子を助けられてよかった。」
「そうだな。貴様自身のけがはあるか?」
ビットリオ=カゼラは少女を降ろし、上条当の左手を見る。少しだけ血が出ている。
「まあ、お前のやってくれた術式を真似すれば良い。」
そう言って、上条当麻はどこからかイチジクの材木でできた小さな桶を取り出す。
それは一瞬で消え、代わりに大きな飼葉桶ができ上がる。また、杖の描かれた小アルカナのカードと床に落としていた杯の描かれた小アルカナのカードを用いて飼葉桶に湯を張る。
上条当麻は躊躇なく左手を湯の中に突っ込む。
「あー痛いーしみるー。けど治りも早いー。あー、あとでトライスにもぶっかけとこー。」
ビットリオ=カゼラが今まで聞いた事のないような棒読みである。
若干の呆れを感じつつ、ふとビットリオ=カゼラはその言葉でオーレンツ=トライスの倒れているところを見やる。
驚くべき事に、オーレンツ=トライスの顔には少しだけ鼻から出血している他には目立った外傷がない。小さなクレーターができていたにもかかわらずである。
「んー? あー、トライスもトライスでいろいろと防御術式組んでいたんだろうさ。こっちもこっちで殺さないように手加減していたから、首の骨とか折れてないと思うけど。」
などと上条当麻が言っている内に、その左手は見る見るうちに治っていき完全回復する。
(一回見ただけで使えるようになるとは、恐ろしい奴だ。)
ビットリオ=カゼラはそれを心中で感嘆しつつ見届けてから、少女の視線まで屈んで向き合う。当然それは叱るための事である。
「なぜここに来た!!」
上条当麻が振り向いて驚きの表情を作る程強い叱咤の声だった。
少女もすくみ上っているが、ビットリオ=カゼラは気にせず叱りつける。
「確かに私はお前にちゃんとは頼まなかったかもしれない。約束とも言えない事であったし、状況的にお前を不安がらせてしまっただろうとも思っている。
だがな、それでここに来て良い事にはならない! お前を預かってくれた司教の方々も心配――」
いきなり、少女は恐怖を顔に浮かべる。しかしその目線は叱りつけているビットリオ=カゼラよりやや上向きである。怪しみながらビットリオ=カゼラは少女が見ている先の後方に振り向く。
そこには、小麦粉がある。
ビットリオ=カゼラがセメントの粉と小麦粉を見分けられる理由は単に見慣れているからとしか言えない。十字教の習慣であるミサにおいて、小麦粉は重要な意味を持つからだ。
小麦粉は宙に浮いており、集まったり拡散したりを繰り返している。それは普通ではあり得ない現象であり、だがビットリオ=カゼラは少々呆然としている。
「これは、いったい。」
ビットリオ=カゼラが呟いたその瞬間、小麦粉は『白い刃』を形成した。平べったいギロチンのような、台形の刃である。
「何!?」
「ちっ。」
白いギロチンはそのまま横たわっているオーレンツ=トライスへ一直線に飛ぶ。
舌打ち一つで行動に移った上条当麻がすぐ横にいるオーレンツ=トライスを庇おうとする、が。
それよりも早く、真っ赤な彼岸花が咲く。
数瞬遅れて新鮮な血が上条当麻の顔を汚し、染め上げる。
『あ、あ、ああああああああああ!!』
上条当麻が叫んだ。
オーレンツ=トライスの体は心臓を真っ二つにするように袈裟斬りのような斜めの斬撃を残している。全てはあの白いギロチンのせいだった。
『トライス、トライス、トライス!!』
上条当麻がいくら名前を叫んでも、いくら手を握っても、オーレンツ=トライスだったモノは何の反応も示さない。空港内を包む冷たい空気が否応にもオーレンツ=トライスだったモノから熱を奪う。
もう一人の戦闘可能な人物、ビットリオ=カゼラは上条当麻よりも少女を優先する。状況的に見ても守る術のない少女を守る事は間違いではない。
ビットリオ=カゼラは少女の頭を一方の手で覆い、もう一方の手で拾い上げていたアロンダイトを握りしめる。
「カミジョウ、嘆くのは後だ。まずはこの襲撃の正体を知るべきだ。」
上条当麻はゆっくりと立ち上がる。震えながら、少しだけ沈んだ表情で振り向く。
「……分かった。ありがとう。」
その時。
「優先する。―――人体を下位に、刃の動きを上位に。」
オーレンツ=トライスの体、正確には斬撃の隙間から小麦粉でできたギロチンが出でて上条当麻を切り裂く。気付ける者は誰もいない。
背後からの二枚の攻撃だった。上条当麻の体はまるで三枚に下ろされた魚のように、三つに裂かれた。
またも赤い液体が飛び、ビットリオ=カゼラの鎧に付着する。
「な、んだ?」
焦げ付きがくっきりと残っている鎧が震える。
ビットリオ=カゼラはその光景を信じられない。いや、受け入れられないでいる。
真ん中にあった四肢の付いていない物が一番先に床に落ち、続いて左と右の肉塊がばたりと倒れた。少しだけ、とろりと綺麗なピンク色の内臓が漏れ出ている。
滑稽な程に、凄惨。おかしみさえ感じられてしまう、そうでも思わないと処理できない視覚情報である。
そしてもう一つ。
たかが一時間にも満たない戦いの中で感じた程度の感情であっても、その誰かを失う事は彼に受け入れ難い思いを募らせる。
「優先する。―――目覚めを下位に、眠気を上位に。」
募らせる事しかできなかったから、どこから響いているのかも分からない言葉に反応できず、ビットリオ=カゼラは少女の目を覆っていた手とアロンダイトを握っていた手を離してしまう。
「ふう。いやー、手間取りましたねー。都合良くそれがここに来てくれて助かりましたよ。」
ビットリオ=カゼラは意外にも近くにいるその声の主をかろうじて視界の端で捉える。
(みど……り……?)
「しかしある意味では僥倖でしたねー。まさか不穏因子をこんなに簡単に取り除けるとは。」
緑色の服装の何者かはそう言って少女を捕まえる。少女の抵抗はむなしいだけで、何の効果も示さない。
「ふん、大人しくしていなさい。ようやくこれの調節ができる段階に入ったんですからねー。」
その言葉が発せられる頃には、ビットリオ=カゼラの意識は睡魔によって刈り取られていた。
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