第三章 未熟から程遠いもの La_Loro_Fede_in_Dio_è_Forte.
1
昼時の事。
ここはフィウミチーノ空港に近いとある総合病院。同じくとある大学付属の病院である。
今この病院には数多くの外国人観光客が詰め寄っている。
無論、今朝フィウミチーノ空港で起きた爆破テロ事件と暫定的に認識されている事件の急患やけが人の治療のためである。
といっても精神的に参ってしまった人や逃げる際に痛めてしまった足腰を診て貰うために人がいる程度。重患とされた人もいたが、その人達の傷は既に癒されており、今は入念な身体検査や精神検査が行われている最中である。
それでもこの病院に全ての人々がいるわけではない。それだけ建物の規模や被害が大きかったという事だった。
その院内で二人の神父が歩いている。
一人はローマ正教現主席枢機卿マタイ=リース。もう一方は身寄りのない少女を集めてローマ正教の実働的な部隊を作る事になった老司教の一人である。
二人は騒がしくならない程度に廊下をせわしなく歩いている。
「では、あの子は今もどこにいるのか分からないという事だな?」
「はい。モンク・ビットリオにも申し訳ない事をしてしまいました。」
「よい、お前達も何者かに襲撃されたのだろう。お前達が無事である事を喜ぶべきだ。」
そうは言ったものの、マタイ=リースの顔からも老司教の顔からも不安が拭われないでいる。
マタイ=リースはビットリオ=カゼラが匿っている少女を見失ってしまったという事を聞いていた。今も捜索されているが結果は芳しくない。
(彼の事を頼んだとはいえ、まさかこのような事態になろうとはな。)
どれ程後悔しようともその念は拭えない。
今回のフィウミチーノ空港爆破テロ事件での人的被害は、負傷者二名、行方不明者一名というだけで表向き済んでいる。しかし実際にはローマ正教一三騎士団の数名や何名かの十字教的な奇跡の再現を行える者(という建前の魔術的な実働部隊員)が意識を失い負傷している状態で発見されており、またビットリオ=カゼラやその匿っている少女が行方知れずとなっている。
それに加えて、何よりも物的被害が悲惨である。被害はフィウミチーノ空港の完全破壊。学園都市という常識外の科学から力を借りればどうにか元の状態に戻せるだろうが、その手を借りないとなると向こう数年は空港として機能できない。フィウミチーノ空港以外にもそういった空の玄関口は存在するため、イタリア国内の一部では早くも施設や機能の移動を考えている。
と、病院内で聞こえてくる数々の言葉を再び耳にする。
『ヤーウェの奇跡を、って彼が言って、それから皆がいきなり空港から市内に入れたの! ワープするなんて思ってもみなかった。』
『うん、うん、こっちは無事よ。あんな奇蹟を起こせる人間がいるなんてね。もちろんさっき言った防御のアレもなかなかに凄かったわ。目的とは全く違うけれど、良い物を見せて貰ったわね。』
『ああ、凄かった。学園都市の瞬間移動系の能力者でもあれだけの事はできねえ筈だ。まさに奇跡だ。』
『お母さんを助けてくれたのも、あの人だったわ。あの時は言えなかったけど、どこかで会えたらお礼を言わなくちゃね。』
異口同音とはまさにこの事だった。金髪碧眼の西欧女性も、ツーテールのゴシックロリータの西欧少女も、体格の良い東洋人の男性も、若い黒髪の東洋人の女性も、同じ内容を喋っている。
今の内容は連れ合いへの言葉ではなく、病院備え付きの電話が密集した場所での言葉ではあった。人々は皆自分がどれだけの奇跡的体験をしたのかについて電話先の人物と話している。
『謎の東洋人が崩壊するフィウミチーノ空港から人々を市街地に瞬間移動させて助けた。』
要約するとこうなる。
具体的に、そのウニのようなつんつん頭の東洋人は逃げる人々の前に立ち、ローマ方言で「この者達にヤハウェの奇跡を!」と発した。直後、人々は近くの市街まで転移させられたとの事である。例外として、少数で固まっていたりするイギリス人には正統派英語で、同じく少数の日本人のみの集団には日本語でといったふうに対象者の言語に合わせて「この者達にヤーウェの奇跡を!」と言ったらしいという事である。
マタイ=リースにはその人物に心当たりがある。というより、その人物こそビットリオ=カゼラに見守っていて欲しいとした対象である。
少しだけ電話をしている人々の中からオカルトの匂いを感じる事もあったが、マタイ=リースはそれを無視しようとして、ふと老司教の顔が複雑な表情を浮かべている事に気が付く。
「どうした、何か気になる事でもあったか?」
マタイ=リースは司教もオカルトの匂いを感じたのかと思って話しかけたが、当の司教は全く違う話をする。
「いえ、みだりに我らの父の御名を口にするのはよろしい事ではないと。」
やや怪訝そうな顔を見せる神父に、マタイ=リースは言葉を紡ぐ。
「何を言う。その東洋人らしき人物は、フィウミチーノ空港から人々の命を救うために我らの父の御名を口にしたのであろう。みだりに父の御名を口にしたのではあるまい。」
静かにそう言って、彼らはある二人のいるところまで辿り着く。
病院のとある一画にある椅子に座っている日本人の夫婦である。この夫婦は今回のテロ事件で唯一の行方不明者の両親であり、ゆえにマタイ=リースも一時的にでも精神的な支えになればと足を運んできたというわけである。
マタイ=リースは夫婦が落ち込んでいる様子に見える。夫の方は大きく肩を落とし、妻の方はそんな夫の背中を手で支えながらも、暗いものがある。
『失礼、カミジョウさんでよろしいですかな?』
マタイ=リースは病院だというのに騒がしい中で、はっきりと伝わるようにして日本語で尋ねた。
上条夫妻は声をかけられた事に気が付いて顔を上げる。
『はい、そうですが。私達に何のご用件でしょうか?』
『まさか、当麻さんが見つかったんじゃ!』
上条氏の奥方は思わずといったふうで身を乗り出してマタイ=リースに詰め寄る。
マタイ=リースの隣にいる司教はそれを遮ろうとするが、マタイ=リース自身が前に出る事で止められてしまう。
マタイ=リースは柔らかな声音で否定を述べる。
『いえ、我々はまだ力になれておりません。』
『……そうですか。すみませんでした。』
断じられて、やはり上条氏の奥方は明らかに落胆する。隣に寄り添う上条氏の夫も、目に見える程ではないが落ち込んでいる。マタイ=リースは多くの人々と触れ合う機会があったがために感情の機微にも聡い。
親が子を心配する事は当然ではあるが、この夫婦の表情は普通よりも遥かに重みがある。二人はそれぞれにマタイ=リースを気遣って表情を平常と変わらぬよう努めていて、苦しみが一層感じられる。
マタイ=リースは少しだけ服の着方を整えて、改めて発言する。
『自己紹介が遅れました。私はマタイ=リース。ローマ正教の主席枢機卿を仰せつかっている者です。こちらの者は付添いで一緒に来て貰った司教です。』
『主席枢機卿ですって? そんな高名な方とは知らず、とんだご無礼を。』
上条氏の夫は座ったまますぐに頭を下げる。ようやくといったようすで、マタイ=リースの服装からローマ正教関係の者だと理解できたようである。
礼節を欠かない言葉を選んでしまわないよう注意しつつ、マタイ=リースは答える。
『構いません。私はあなた方の心を少しでもいいから支えたいと思って来たまで。いらぬお節介でしかないのやもしれません。』
『そんな事はありません。私達を想ってくれている人がいる、それだけでどんなに嬉しいか。』
上条氏の夫は優しい笑みを浮かべている。マタイ=リースも自然とそれが表に出てくる。
誰かを想う心は素晴らしいものだが、素晴らしいからこそそれを持つ事は難しい。
それでも上条夫婦がそれを本当に持っている事は間違いようのない事実である。今まで多くの下心を見てきたマタイ=リースだからこそ、それはむしろ簡単に見つけられた。
『当麻さんは……どうだったのかしらね。』
ふと、騒がしい病院中で上条氏の奥方が呟いた。
憂いを帯びているというよりも、まるで過去を振り返っているような、そんな声色だった。
『と、言いますと何かあるのですか?』
『……ええ。息子はいなくなる直前、ある親子を助けようと言い出したんです。』
上条氏の夫は一つ一つ言葉を、まるで自分に言い聞かせるように言っていく。
『息子は、不幸な子です。周りからずっといじめられてきた。
誰もが息子を疎んじた。誰もが息子を疫病神だと指を指した。
正直、私自身も本当に息子を愛してやれたのか、自信がありません。』
『私達、結局当麻さんを助けてあげられないばかりだったものね。』
上条氏の奥方は夫の言い分を否定したかったのかもしれない。しかし、それをする資格とでも形容すべきものがない、そう彼女の全身が表現している。
『そうだな。私は当麻の代わりにあの親子を助けようとしておきながら、テロリストに殺されかけた。あの時その不思議な人が現れてくれなかったら、ちゃんと母さん達の元へ戻るという約束さえ破ってしまうところだった。
当麻を手助けする事も、守る事もできない。こうしている今も……。』
上条氏の夫は奥方の肩を抱き寄せ、また自身の肩と影を落とす。
『いや、違う。』
言わなければならなかった。
『え?』
『それは違います。』
マタイ=リースは断言した。
『あなた方のご子息は、誰かを助けようとした。それはカミジョウさん、あなた方がそういう人間だったからこそではないですか。』
その言葉は強く、優しい。
マタイ=リースはごくわずかに会話しただけでも、上条夫婦の心の本質を理解できた。
マタイ=リースの言葉を優しく否定し、受け入れてくれた事。自身らのせいでないにもかかわらず、息子を助けられなかった後悔。
それらは全て想いやる心があるからできる事だとしか思えない。
『カミジョウさんのご子息は、自分の意志で誰かを助けたいと強く思い、そして行動したのでしょう。それはあなた方ご家族が優しい暖かな家庭をきちんと作り上げてきているからの筈です。』
『……そうでしょうか?』
『ええ、きっと。だからご自身らをそう責めないで。笑顔で彼を迎えられるようにしていてください。
心優しい彼を、見知らぬ誰かを想いやれる心を持った彼を、今まで育て守り抜いたのは間違いなくあなた方両親なのだから。』
マタイ=リースなりの表現だった。芸術、音楽、舞踊、小説、いくらでも想いを伝える方法はある。その中でマタイ=リースが選んだ表現方法、それは対話としての言葉。
その言葉で想いを伝えようと努力する。人類が手に入れて、また十全に扱えない道具でもって。
結果。
上条夫妻はしばし聞き入り、そして笑顔を見せる。それは決して無理をして作った顔ではない。これもまた見て取れるだけは変化があった。
マタイ=リースの言葉はしっかりと相手に伝わったのだ。
『ありがとうございます。』
『いえいえ、私もローマ正教にある程度の影響力を持っています。ご子息のカミジョウトウマ氏の捜索をしてくれるよう頼みます。』
「リース主席枢機卿!」
「そう声を大きくするものではない。」
顔をわずかに老司教の方へ向けてぴしゃりと言った。そうして先程と同じようにきちんと面と面を向かい合わせる。
会話は司教からである。
「ご自分の立場を分かっての発言ですか? 次の教皇に最も近いと言われるあなたの持つ影響力は絶大だ。それをこういうふうに使えばどんな事になるか。この一件を口実にあなたを利用しようとする者が必ず現れます。」
「神の子はユダヤ人と長年敵対関係にあったサマリア人でも、心優しき人ならば我々の良き隣人だと説いた。ましてや、カミジョウトウマ氏は誰かに救いの手を差し伸べようとした者だ。良き、隣人なのだ。
たとえカミジョウトウマ氏が異教徒であっても、異端の教えを信ずる者であっても、救いを求めているならば我々は救うべきだ。
彼が我々にとって良き隣人であるように、我々もまた彼の良き隣人であるよう努めるのだ。」
マタイ=リースは決して穏健派というわけでもない。今回の事件を起こした人物が死んでいたとしても天罰だと思って、むしろその結果は正しいと思うだろう。
だからこそ彼は大切なものを見失わないようにしている。
信仰心だけではない、自分が持つ誰かを助けたいという想いを。そして、彼が唯一持つ想いの表現方法である対話としての言葉を。
司教は彼の想いを聞いてからしばらく無言であったが、根負けしたように切り出す。
「分かりました。では、私はこれからすぐに捜索を手伝ってくれるよう良き隣人達に頼みに行きます。」
「待て。それは私が……。」
「リース主席枢機卿、あなたの良き隣人ならこれくらいは誰に頼まれたところでやってくれる。違いますか?」
今度はマタイ=リースが手玉に取られる番となる。
そう年の離れていないはずの司教の顔は微笑んでいる。それにおかしみを感じたように、マタイ=リースも微笑する。
「ああ、分かった。頼む。」
「はい。あなたはカミジョウ氏のご家族と一緒に。」
そう言って神父は病院の廊下を歩いていく。マタイ=リースはその目で司教を追うが、そこに悲しみの色はもうない。
(簡単な事だった。)
マタイ=リースは多くの者達から慕われている。ローマ正教徒からも、ローマ市民からも、世界中からも。
ゆえにマタイ=リースには対話の機会がなかった。それによって信仰と尊敬をはき違える者さえ出てきた。
だが、それは当たり前の事だった。話し合いもせずにそんな事が分かる筈もない。神の子とて、その教えを広めるためにガリラヤ地方各地を回った。聖ピエトロも自身の口で、自身の言葉で教えを広めようとこのローマの地まで辿り着いたのだ。
言葉にすれば簡単に伝わるというのに。
(まったく、私もまだまだ。彼から教えてもらった筈だというのに、それさえ忘れてしまっては意味がないな。こんなことなら、術式など使わずにカゼラにもちゃんと伝えるべきだった。)
マタイ=リースは自嘲するような文句を脳内で並べて、しかしその顔は晴れやかな笑みである。
『あの、どうしましたか?』
心配そうな声は上条氏の奥方だった。イタリア語での会話であったためか、理解できていないようである。
『今の会話はあなた方には伝わらなかったでしょう。あなた方のご子息を探して欲しいと頼んでいただけです。いや、むしろ自主的にやってくれた。』
『そうでしたか。後であの人にもお礼を言わなければな、母さん。』
上条氏の夫は奥方にそう呟く。
マタイ=リースは頷いた後、今日は再びの回想が自身の頭を流れる。
その内容を少しだけ、独白するように二人に話しかける。
『あなた方のご子息を思うと、私はどうしようもないくらい思い出される人がいます。
私を助けてくれた恩人、誰かに言われるでも振り回されるでもなく、純粋に自分の意志で私と、そして関係のない人々を助けようと動いてくれたあの者を。
私はそう、この世を救ってくれる主とはまた別に、彼こそが人として戦う救いのヒーローなのだと、そう思っています。』
上条夫妻はマタイ=リースを見つめ、無言で聞いている。
窓から照りつける太陽を前に、マタイ=リースは想いを言葉に変えて祈る。
『願わくば、異国の地で見知らぬ誰かを助けようとできる小さなヒーローが、無事に帰ってくる事を。』
2
『ヒーローなんて現れませんよ。希望は捨て去りなさい。』
マタイ=リースが願っていた同時刻、緑色の男は笑いながらそう吐き捨てた。
緑色の男はそれほどあるわけではない身長に、トカゲのような目つきをしている。しかし、それは少女の記憶にある姿である。
今は違う。少女は目隠しをされて、緑色の男以外の誰かに運び込まれていた。何の手段でそこに運び込まれたのかも分からないため、当然のように少女には場所が把握できていない。
そことは、今少女と緑色の男、そして若い男の人がいる場所である。暗い洞窟のようでいて、奥には変に大きく人を怖がらせるような門がある。
『あー、あなた達はこちらには入らないように。意外と面倒な術式が働いていましてねー、解除するのも億劫だ。』
『はい、了解しました。』
少女はどこかで聞き覚えのある若い男の人の声を聞いて、首をかしげたくなる。しかしそれはできなかった。少女は目隠しと共に、何かの縄で縛られている。あの不思議で恐ろしい力による物なのかただきつく縛りつけているだけなのか少女には判断できなかったが、とにかく動けない。
と、重たい物が引きずられるような音がしたかと思うと、少女の鼻を石の臭いがくすぐる。
『ところで、件の洗礼を願い出た者達ですが、本当に行って差し上げるおつもりで?』
『その通りです。違うわけがありません。たとえ最初は邪教にまみれた人生を歩んできたとしても、改心するべきだと気付いたのですからねー。ちゃんと洗礼を施してやらなければ。』
感じている嬉しさを隠さず、緑色の男は笑う。その間に少女は自身が若い男の人から緑色の男へと渡された事を理解して、しかし何もできない。
『それより、彼らはフィウミチーノ空港では発見できなかったんですねー?』
『はい、申し訳ありません。初動で我々が動けていれば良かったのですが。』
声と共に活気まで失っていくその若い男の人に、緑色の男の声は優しく語りかける。
『いーえ、邪悪な魔術師に怯える無辜の民を安心させるためにあなた達が行った事は尊ばれるべき事ですよ。そのように卑下せずに、自身をさらに精進させて行く事を目的として励む事ですねー。』
そう言って、色の男は固い石でできた床を、音を立てて一歩踏み出す。
と、頭を後ろに回転させて一言。
『では、あなた達は帰りなさい。あなた達に主の御加護があらん事を。』
『はい。あなたにも、主の御加護があらん事を。』
その言葉と十字を切る動作を最後に、緑色の男と少女はさらに奥へと移動する。
再び少女の後方で重い物が引きずられるような音がして、少女はようやく目隠しをやや乱暴に外される。
少女は目の中にその光景を焼き付ける。
そこは地下室と思わしき場所である。地下室と言っても、中の空間はとても広い。冷たく硬い石でできた灰色一色の部屋で、まるで秘密のパーティー会場のようである。奇妙な事に、明かりはついていないにも関わらず部屋の明るさは保たれている。
そして少女が確認した男はやはりフィウミチーノ空港でビットリオ=カゼラを襲った緑色の男と同一人物。
緑色の男は目隠しをどこかへやると少女をおざなりに置き、部屋の奥にある大量の酒瓶に詰められた葡萄酒とパンに近づく。その近くには小さい緑色の机と椅子が置いてあり、あの時も使っていた小麦粉の袋も大量にある。
『ふう、やはりというか何というか、あまり芳しくない傾向ですねー。私の部下達ももう少し心を広く持って欲しいものです。』
少女が理解していれば絶対に怒ると断言できるような言葉を吐いた。自身のような女の子を誘拐しておいて、広い心を持って欲しいと他の人に頼む事など許せないと思うだろう。
しかし少女からすれば、緑色の男はビットリオ=カゼラの使っている言葉と同じ言葉で話している、という認識でしかない。
緑色の男はため息を一つつく。
『歩き回された上に術式を結構使いましたからねー。天使の力と違って、こっちは補給をしなければなりません。全く、私としては早くあの者達に洗礼を授けたくてうずうずしているというのに、厄介な事です。でもまあ、今は昼食といきましょうかねー。』
緑色の男はブローチを緑色の机の上に置き、さまになるような座り方で緑色の椅子に腰を下ろす。そして静かに目をつぶる。
少女はブローチを見て目を見開くが、それ以上に緑色の男が何をしているのかすぐに分かる。
『天に召します我らが父よ。あなたの慈悲深きに心から感謝致します。今私の前にある恵みに祝福をお与えください。私が健康であらん事をお約束ください。
父と子と聖霊の御名において。アーメン。』
右手で十字を切って、緑色の男は目を開く。
緑色の男のその言葉はとても綺麗だった。
それは少女も知っている言葉である。ローマ正教の人――正確には十字教徒の大多数――が食事の際に捧げる祈りである。食前や食後のどちらか、あるいは両方とも言う事もある。少女は今日の朝にもそれを聞いていたし、周りにいた人々も祈っていた。
だが、だからこそ少女は思った。
今まで聞いた事もない、綺麗で澄んでいる祈りだと。
ビットリオ=カゼラの祈りよりも、もしかしたら真剣な祈りかもしれないと。
それは少女がイタリアの言語を知らないがゆえにより強く感じた事であった。
少女の意識を知らない緑色の男は葡萄酒の瓶を一本開けると、ぐいっと一気に飲む。不味そうに飲む緑色の男を見て、今度少女は不思議に思う。飲んだり食べたりする事は、楽しくするべきだと思っているからである。それに先程の祈りの言葉にそぐわな過ぎる態度である事も一因である。
『異教にまみれながらも、ローマ正教に改宗したいと申し出た彼ら。まだまだ私も未熟者ですが、洗礼を授ける事はできますからねー。早く彼らに本当の救いと愛を教えてやりたいんですよ。お前如きや術式の調節さえ投げ出してしまいたくなる程に。』
ただ、やはり少女には話が理解できなかった。ローマ方言どころかイタリア語や英語も良く知らない幼い少女には、緑色の男が発する内容が全く掴めなかったという事である。
例外として少女を守ってくれていたビットリオ=カゼラの言葉は理解できた。主に身振り手振りによる効果が大きかったが、何より少女に対して優しさを持ち合わせていたからだった。対して少女の視線の先にいる緑色の男はビットリオ=カゼラとはまるで違う生き物のようである。
飲みたくない物を我慢して飲んでいるという風体の緑色の男。すると、緑色の男が着ている礼服の左ポケットからぽとりと何かが落ちた。
それは少女の大切なカエルの人形である。少女を抱えていた時に引っかかっていた。
『ん? なんですかこれは。』
緑色の男はカエルの人形を手に持ってある程度眺めると、いきなりそこらに捨ててしまう。
少女には怒りが込み上げてくるが、緑色の男は少女の弱い睨みつけにはびくともしない。
『こんなちんけな物、意味はありません。異教の偶像崇拝ですか、全く。あなたのような邪教の徒には相応しいのかもしれませんがねー。
ここはローマの地、ローマ正教のための場所。汚らわしい物を二度と運んでくるな、異教のクソ猿。』
そのトカゲのような目でじろりと見て少女の怒りが少しだけ減る。言葉には敵意しか篭っておらず、事実少女が『あなた』と呼びかけられた理由も、緑色の男が親しい間柄で使うような言葉で異教徒を指したくないからである。
だがそれでも少女は抗議したかったが、あいにく喋れない。縛られていて手足で抗う事もできず、立ち往生ならぬ座り往生をするほかない。
緑色の男は再び葡萄酒とパンに向かい、少女を見る気はないようである。
『このような異教徒を、なぜビットリオ=カゼラやマタイ=リースは大事にしていたのでしょうかねー。彼らのように真に神を信じ、神の子の言葉を実践しようと努力するローマ正教徒も少なくなってしまいました。大きな声では言えませんが、私の部下よりも強い信仰心を感じていますよ。
だから彼らは救われるべきなのですが、情という物は怖いですねー。所詮、聖書も偽典も読めない家畜以下の存在だというのに。言葉を操れる分、さらに厄介な者達ですよ、あなた達異教徒は。的にして貰えるだけありがたいというものです。』
憎悪の目つきで緑色の男は少女を見下す。
そして唐突に。
『優先する。―――人肉を下位に、小麦粉を上位に。』
緑色の服のポケットから小麦粉が這い出てくる。
少女はえも言われない感覚に全身を震わせ、そして思考が止まってしまう。
そう、這い出ているのだ。
本来ならばその小麦粉は刃物へと形を整え、即座に少女を切断してしまう物である。だというのに、小麦粉は刃を形成するどころか這い出てくるだけで一向にまとまる気配もない。どころか、時折小麦粉が浮遊できずに冷たい石床に落ちていく。
『ままならないものですねー。慣れるまではあまり設定を変えない方が良いようです。フィウミチーノ空港でもアドリブを入れなくて良かった。』
緑色の男は腕を音楽の指揮者が最後にやるような締めの動きを行う。それで小麦粉は床に落ちていた分も含めて全て緑色の服のポケット内に収まっていく。
不機嫌な目つきを変えず齧りかけのパンを再び片手に持った緑色の男はふと、それで思い出したかのように呟く。
『そういえば、ビットリオ=カゼラは眠っているだけでしたねー。あなたを助けに来てくれるかもしれません。』
少女はその言葉で救われたように顔を輝かせる。言葉が完全に分かったわけではなく、自信を助けてくれた人の名前が出ただけで反応しただけだった。
いけないように思えても、かつて自身を助けてくれた者が来てくれるかもしれない、そんな希望を勝手にも持ってしまって、心が明るくなる。
が、緑色の男はそれを打ち砕く。
『ま、無駄でしょう。私の術式が効いている限りは起きられない筈。それに、この場所が分かるとも思えません。
よしんばそれらをどうにかできたところで、私には敵いません。』
顔を歪め、にやりと、にたりと、笑う。
『それでも刃向かってくるならば、少々、痛い目に遭って貰いますかねー。』
暗い余裕が、緑色の男を邪悪に彩る。
3
「おい、そろそろ起きろ!」
ビットリオ=カゼラに投げかけられた言葉は少し乱暴だった。
「う。……ここは。」
老朽した小さな電球の明かりで、彼はようやく目を開ける。
「ようやく起きてくださいましたかこの寝坊助騎士様は。」
しかし明かりを遮るようにビットリオ=カゼラの眼前に子供の顔が映る。子供の影がビットリオ=カゼラに落ちる。
子供は東洋系で、つんつんの黒髪頭を持っており、年は四歳から五歳程度である。
子供は腰に拳を当てて、怒っているかのような姿勢を作っている。
「君は、一体誰だ?」
枕元の横にいる子供に対しビットリオ=カゼラは質問する。彼にとって見覚えのない子供。緊急事態であった事をおぼろげながらも理解している彼の頭は、すでに子供が敵である可能性と排除方法を検討している。しかし同時に、ある事を思い起こしてもいる。
すると子供は今自分が子供であると気付いたように目をぱちぱちとさせ、思わずと言った意味での失笑をして素性を明かす。
「俺は上条当麻だ。フィウミチーノ空港でトライスを倒すために一緒に戦った、な。」
「……は?」
ビットリオ=カゼラの口が自然と動いた。
「驚くのも無理ないよな。あの時は俺謹製の、火除けも完璧な変化霊装を使っていたから。でも話し方とか容姿とか、なんとなく分かるだろ?」
そう言われてビットリオ=カゼラはじっくりと彼を見る。東洋人の区別をつける事はなかなかに大変だが、それでも髪型の特徴や先程からの自身と比べても遜色ないローマ方言を鑑みてようやく納得する。
それでも納得できない事はある。
「貴様、どうやって生き延びた? あの時小麦粉の刃で斬られていただろう。」
「ああ、あれか。実はそもそもあんなに負傷していなかった。服の方に傷を移すというか、そんな術式を使ってもいたし。」
そう言われてもビットリオ=カゼラは把握できない。あれ程の傷を負っていた筈が軽傷だったと言われて、すぐに納得できる性分ではない。
「傷を負っていなかったわけじゃないぞ? ただ、回復魔術を行使できないわけじゃなかったってだけ。むしろ変化霊装の修繕の方が大変だよ。あーあ、不幸だー。」
それで上条当麻はもう説明する気をなくした様子である。
ビットリオ=カゼラはしぶしぶ頷く事で理解を示し、自身の姿を確認する。鎧は全て脱がされている。これは安静のために必要な事であるからビットリオ=カゼラも怒らない。
次に自身らのいる場所を見回す。内部は石を積み上げた造りになっていて、柱のみ木材でできている。そのため空気はとても冷たく感じられ、外の寒さとはなんら変わりないように思える。
部屋の四隅にはそれぞれ大きな木の箱が積まれ、麻袋が集められている。
ビットリオ=カゼラが使用する一三騎士団の鎧は彼の視線で追える場所にちゃんとある。ところどころ焼けていたり溶接されていたりしているが、機能的にはまだ使える。あの時放り投げた兜や落としてしまったアロンダイトも無事である。
驚いた事に彼がフィウミチーノ空港まで持っていかなかったはずの天弓のレプリカや槍、幾本もの剣までもが壁に立てかけてある。
彼はその疑問を一旦脇に置く。
「ここはどこだ?」
「俺の隠れ家の一つ。その中でもいろいろとかさばる物を放り込んでおくための地下室だな。ローマ市内にある場所だから、フィウミチーノ空港からはさほど離れていない。
それとあの槍とか弓とかは何か知らないけど途中で落ちていたから拾ってきただけだ。たぶん『使徒十字』の効果だと思うけれど。」
上条当麻は横から顔を覗き込む体勢をやめ、ビットリオ=カゼラが冷たい石床から起き上れるようにする。
ビットリオ=カゼラは寝起きから『使徒十字』という聞き慣れない言葉を深く考えず、上半身をゆっくりと起こす。
と、その目におぼろげな電球の光をただ浴びるだけの、横たえられた黒服の人物が飛び込んでくる。黒服の人物の隣に六メートルもある巨大な魔剣を見て、ビットリオ=カゼラは誰なのか見当をつける。
「オーレンツ=トライスか? なぜここに。」
冷たい石床に横たえられていたものはオーレンツ=トライスだった。あるいは、オーレンツ=トライスだった死体、と表現すべきかもしれない。
上条当麻は一回だけため息をついてからニガヨモギを噛み潰しているような顔で言う。
「あのまま空港に置いてきても意味はない。魔術的な治療をすれば、一縷の望みくらいあるんじゃないかと思ったんだが。」
伏し目がちに上条当麻は言葉を切る。上条当麻の手が行き場のない力を込めて拳に変わる様子を見て、ビットリオ=カゼラが続ける。
「生き返りはなかった、という事か。」
「ああ。傷口を塞いで体もくっつきはしたんだ。でも、駄目だった。」
上条当麻はその拳を開いて、すぐそばに置いてあったcenのルーンのみ欠けたフレイの魔剣を撫でる。子供の手にはひどく不釣り合いな光景である。
胃もたれするような重たい空気の中、喉から絞り出すように上条当麻は続ける。
「人間の不死性の研究は俺自身完璧じゃないから、どうしようもない面もある。あんまり深刻に考え込む余裕もないしな。」
余裕がない、と言われてビットリオ=カゼラは起きてからずっと思っている事を口にする。
「……あの子が連れ去られた。」
「状況的にはそれが一番あり得ると思ったが、やっぱりか。」
上条当麻は驚きもせず冷静に受け止める。ビットリオ=カゼラよりも早くに起きていたからか、ある程度の予測を立てているようである。
対してビットリオ=カゼラは石床を拳で叩き、大きな音を響かせる。彼にはその拳を見つめ、吐露するしかない。
「私は、あの子を傷つけてしまった!! 一緒に出掛ける事は、あの子を危ない目に遭わせないだろうと油断して! 自分一人で解決できない頼みを浅はかにも了承して! その結果がこのざまだ!
私は……私は……。」
「嘆くのは後だ。」
一言。
上条当麻が遮る。その五歳児とは思えぬ気迫に、ビットリオ=カゼラは上条当麻を見上げる。
「反省なんて後でいくらでもできる。忘れろってんじゃない。俺だって今日も誰かをけがさせちまった。それは絶対に忘れちゃならない。
でもそれよりも今は、あの子を救い出すためにどうするべきか、一緒に考えようぜ。」
ビットリオ=カゼラは言葉を遮られた事よりも、上条当麻の言動に驚いた。上条当麻のビットリオ=カゼラを見つめる視線は真剣そのものである。言葉にも瞳にも嘘など一つもない。
「本気で言っているのか?」
「もちろん。日本語の表現だけど、乗りかかった船から降りる気はさらさらないっての。そういうのはヨナだけで充分だろ。」
上条当麻はやはり当然だろうという顔で答えた。
ゆえにビットリオ=カゼラの声が震える。
「なぜだ。」
「え?」
「なぜ貴様は見ず知らずの子供を助けるために協力してくれるんだ。貴様には何の得もないはずだろう。」
ビットリオ=カゼラには理由がある。最初少女を助けた者は間違いなくビットリオ=カゼラ自身で、少女をこんな目に遭わせている者も同じくビットリオ=カゼラなのだから。
だが、上条当麻は違う。
上条当麻は少女の知り合いではないのに。
上条当麻はそんな義務も義理もないのに。
宗教的な道徳や考えからですらないのに。
それでも、上条当麻は少女を一緒に助けようと提案した。
それがビットリオ=カゼラには理解できない。ビットリオ=カゼラが思ってしまったあの自己嫌悪を簡単に、そもそもそこに至る過程を無視できるような上条当麻に、嫉妬すら超えてある種の畏怖を感じざるを得ない。
問いかけられて上条当麻は仕方がないとでも言いたげなため息を一つついて、明るい表情で答える。
「誰かを助けるのに理由なんて要るかよ。見捨てる理由もない。
自分で助けたいと思って、助けるために動いて。そんなの、当たり前だろうが。」
ビットリオ=カゼラは今度こそ思考が停止する。
上条当麻は十字教徒の父である神を信じているわけではないのだろう。主に対しても同じはずだ。上条当麻の戦いぶりからは、他の宗教の神への敬いも同様に感じられなかった。
それでも、上条当麻は誰かを助ける事が当たり前だと言った。確かにそれはそうだろう。
しかしそれをできる人間はほんの一握り。
上条当麻は幼いながらもそのほんの一握りにいる稀有な人間のようである。
「それじゃ、教えてくれ。俺がやられていた間に何があったのか、包み隠さず話して欲しい。」
いつも通りの、真剣な眼差しである。
射抜かれたビットリオ=カゼラは思う。自身に上条当麻と同じ事ができるのか、そんな今必要ではない事を考えようとして、やめる。
ビットリオ=カゼラはもう少女を助ける事が決定されているのだから。
悩む必要などない。
(主よ、お許しください。私はあなたの愛する心を未だ理解も実践もできていない愚かな子羊です。この事はいくら反省し心身を鍛え直したところで消える事のない過去になります。
ですが、今だけは。今だけはあの子を助けるため、自責を行わない愚行をお許しください。)
決心となる祈りを捧げて、その目をはっきりと開き答える時を受け入れる。
「分かった、まずはあの子の事から話そう。
あの子とは数日前、ローマ郊外のとある路地裏で出会った。さらに数日前には黄金系の魔術結社がイタリアに入って来ていて、その調査のために赴いていたところだった。
本来ならば私のような者ではなく、ちゃんとした孤児を保護する教会があるのだが、引き渡す時にはあの子はそれを嫌がった。私がけがを見てやったり食事をしてやったりした事が、あの子が私に依存する原因になったのだろう。」
「侵入していた魔術結社ってのは確か『宵闇の出口』とかいう木っ端も良いところな結社だったはずだ。一応旅行先のオカルト事件は調べてあるから知ってる。
それはいいとしてだ。あの子はロクに、例えばお前の名前すら喋っていなかったけど、そういう事なのか?」
上条当麻は問いかけをしつつ、生み出した黒い円状の空間の穴からリンゴを取り出し、ビットリオ=カゼラに投げる。五歳児にしては良い投げである。
ビットリオ=カゼラはそれを難なく受け取りつつも、質問の答えより先に新たな質問をしてしまう。
「その黒い穴の空間は一体なんだ? 空間を繋げているとしても、聖母マリアの聖なる家ではあるまい。」
「え? ああこれか。これもビフロストの応用だな。ほら俺、トライスとは何度かやり合っていてさ、その中で勝手に習得したんだよ。それと何にも食べないのも健康に悪いし、リンゴは食べとけよ。」
ビットリオ=カゼラは上条当麻がリンゴに齧り付く前に話を進める。
「そうか。すまない、先程の質問に答えさせて貰うが、多分貴様の思う通りだろう。それに、どうやらイタリアの生まれではないらしいから、話せたとしてもイタリア語系以外だろう。
それで、あの子攫った奴の事だ。まず奴のあの小麦粉の術式についてだ。優先する、とか言っていたが憶えているか?」
「それは聞こえていた。人体を下位に、刃の動きを上位に、ってやつだろ?」
しっかりと食べている分のリンゴを飲み込んでから、上条当麻は喋る。別に黄金色でもなく善悪を判別できるようになるわけでもないリンゴだから、特に変わる事はない。
「私の場合は目覚めを下位に、眠気を上位に、だった。」
「ふむふむ、まーた優先順位を変える術式、ねえ。でもかなり応用が効くみたいだったから、十字教的にも魔術的にもあんまり思いつかない異能だな。」
上条当麻の異能という言葉に、ビットリオ=カゼラは心の奥底で震えるものを感じる。その震えるものはビットリオ=カゼラの口を勝手に動かす。
「……科学、か?」
それはおそるおそるとした聞き方だった。予想外の事に弱いとはいえ、はきはきと話すビットリオ=カゼラらしくもない。しかしそれは仕方のない事である。
内心を慮ってか、上条当麻は安心させるような声音で否定する。
「それはない。あれはあくまで『こちら側』だろう。超能力にもいろいろあるけれど、あそこまで不条理な超能力はまだ開発されていない筈だ。」
科学とオカルトは相容れない。それゆえに科学とオカルトの境界線を破るような事は避けたいという理由がある。
そのため、科学側でないと聞いてビットリオ=カゼラは目に見えて安堵した様子を見せる。
「ならいい。それから奴は緑色の服を着ていたな。顔は分からなかったが、全身緑色だった。おそらくは礼服だ。」
礼服という事は襲撃者であり誘拐犯である人物は十字教徒である可能性が高い。そして、土地柄も考えるとローマ正教徒としか思えない犯行である。
しかし上条当麻はそんな重大な事を無視して気になる事を口に出す。
「緑? まさか……。」
「何か心当たりがあるのか!?」
詰め寄るビットリオ=カゼラを前に、上条当麻は憮然としたようにも取れる表情で睨みつける。
五歳児の視線でしかないにもかかわかず、ビットリオ=カゼラの背筋に何かが走る。
「前言撤回。カゼラ、俺の予想が的中しているのなら、言いたくはないがこの件からは降りろ。」
「なっ!?」
突然の言い渡しにビットリオ=カゼラは驚愕し、
数瞬だけ沈黙する。
ビットリオ=カゼラは冷たい空気で心を落ち着け、決意を胸に話す。
「降りる気はない。私はあの子を助ける。」
「世界を敵に回しても?」
上条当麻はただ事実を述べただけ、そんな雰囲気である。
ビットリオ=カゼラは答えられない。唐突に世界なんて言葉を聞かされても実感は湧かないものである。
ビットリオ=カゼラの心情を構う事なく上条当麻は続ける。
「予想でしかないけど、本当にそうなる可能性が否定できない。いや、むしろ高い。相手が巨大すぎる。さっきのトライスの比じゃない、本当に恐ろしい相手なんだと思う。くそ、こっちはあいつの方だと思ったのに。」
最後の方は苛立ちを見せていた。子供の拳には余りそうなリンゴが、少しだけひしゃげている事からもそれは分かる。
ビットリオ=カゼラがどうしようもなく座り込んでいる事を再認識した上条当麻は、苛立ちをどこかに隠し再び話し出す。
「確かに誰かや何かを助けたいと思えば助けようと頑張るのは当たり前だよ。
だけどな、お前は関わらない方がいい。そりゃ相手もローマ正教かもしんないし、一三騎士団のお前としては黙って見ていられないだろうが、この件は世界そのものを敵にするかもしれないんだ。
無理なら無理と言ってくれ。」
上条当麻の瞳はむしろ優しい色を宿している。それでも、ビットリオ=カゼラをその目で射抜くようにして訴えかけてきている。
曰く、「お前に決意はあるのか?」と。
それに対してビットリオ=カゼラの口が先行する。
「私は……。」
「その時になってみないと分からない、なんて言うなよ。今がその時なんだ。」
そんな言い訳をしたかったのではない、しかしビットリオ=カゼラはまた言い淀んでしまった。
世界。それがどの程度なのか、ビットリオ=カゼラには判断できない。
ビットリオ=カゼラはローマ正教一三騎士団の一人として任務のため外国の地へ赴いた事もある。だがそれはあくまでも任務としてでしかない。
それでもとても広大で、人間一人の力ではどうしようもない事ぐらいは理解できる。この場で決めた程度の覚悟でどうにかなる物でもないと、どうしようもないくらいの先入観で分かっている。
だから。
「ふん、何を馬鹿な事を。」
ビットリオ=カゼラは笑った。
優しい色の中にわずかに怪訝そうな思いが混ざる上条当麻の瞳を見て、ビットリオ=カゼラは真顔で答える。
「私は視野が狭くてな、世界の広さなど知らん。敵に回ったと言われたところでその恐ろしさを一かけらも理解できん。我らの父の恩恵も、主の愛も、使徒達の言葉でさえ、本当のところで理解していない未熟者だ。それらに対し熟達したいとは思ってもな。」
それは普通ならば恥じるべき内面の事である。自身がどうしようもない愚か者だと自身から名乗り出ている、そんな発言だからだ。上条当麻という内面ですらビットリオ=カゼラを凌駕するような人物の前でこんな事を宣言する事は、ビットリオ=カゼラの心を深く傷つけるだけである。
上条当麻も疑惑の目線を送ってくる。
「だからこの件に首を突っ込むってか?」
「そうだ。」
怪訝よりも困惑が上条当麻の顔に広がる。構わず続ける。
「私はオーレンツ=トライスとの戦いの中で、奴を捕縛するという貴様の案に乗り気ではなかった。それでも実行しようと思えたのはローマ正教の信徒達が囚われているかもしれんという可能性だった。
分かるか? 私はその発言がなければトライスを殺そうとしていたかもしれないんだ。異教徒だからと他の者達を見捨ててな。」
辛く、苦しい言葉だった。自身の醜い部分を他者に吐露するという、下手な拷問よりも痛みが伴う行動だった。上条当麻の顔も直視できない。
だから、あえて。
「そんな私にさえ、私の知る人々は、世界は優しくしてくれた。
時に支えてくれた、時に癒してくれた、時に厳しくしてくれた、時に寄り添ってくれた、時に愛してくれた。」
ビットリオ=カゼラは見ていないが、上条当麻はその表情を変えていた。
ビットリオ=カゼラは精一杯に自身の答えを紡いでいく。
「私の知る世界は矮小なものだろう。このローマの地にいる者や遠い異国のローマ正教徒達で親しい者、イタリアの者に友人がいる程度だ。子供のお前よりも小さいかもしれん。」
それがビットリオ=カゼラの知る全てである。
彼とは比べ物にならない人徳を持つマタイ=リース主席枢機卿。たまに冗談を言ったり励まし合ったりする、毎週のミサで出会う同僚の神父や騎士達。イタリアに数多くいる孤児達のためにどうにかしようと頑張っている司教達。行きつけとまではいかないが、顔見知りではある洋服屋の気のいい主人。目の前にいる優しい五歳児の魔術師。
そして、あの少女。
そういった人々がビットリオ=カゼラの知る世界。
もう一度、上条当麻と面と面を向い合せる。
「彼らは誠実で優しい者ばかりだ。そんな彼らが、世界が、たとえ愚かな私がとる行動だったとしても、それを知って敵になる筈がない。」
本心からそう思えて、彼は本当に嬉しかった。
もちろん、世界には悪意も存在する。先程のオーレンツ=トライスが良い例である。邪悪な意思を持って、人々を傷つけようとする者など腐るほどにいる。ビットリオ=カゼラが出会った事はないが、今回の件でも予想される通りの悪意がローマ正教内部にもあるかもしれない。
それを分かっていてなお、ビットリオ=カゼラは神が作った矮小な世界を信じている。
「世界は優しいばかりではない。我らの父もそういった面もある。それでも、優しさがないわけじゃない。
なら、それを信じよう。私は世界を信じられる。それに、どうせなら世界を味方につければいいのだ。敵に回せば厄介なら味方にすればこれほど心強い事はない。」
そしてきっと、誰かを信じる事もまた当たり前の事だから。
しばらくの間、上条当麻は呆けていた。そうしてようやく口を開いたかと思うと。
「……あははははは!!」
突然高笑いを挙げる。五歳児には全く似つかわしくない、尊大な笑いだった。
「そんな答えを出してくるとはなぁ。世界を味方にか。俺もまだまだなってねーや。」
上条当麻は吹っ切れたような顔をしてビットリオ=カゼラに向き合う。
「カゼラ、お前の気持ちは理解した。一緒に戦おう。」
「元よりそのつもりだ。異教徒で子供の貴様に手を貸してもらうがな。」
そうして晴れやかな顔で二人は決意を共有する。ビットリオ=カゼラの思いは正真正銘本物であったし、上条当麻の決意も嘘偽りのない本物だ。
「言いっこなしだ。それとさ。」
「どうした。」
上条当麻は一泊置いてから、彼が伝えたい事を織り出す。
「ローマ正教徒を助けようと思えただけでも、お前は十分に立派だよ。だから別にそんな自分を卑下しなくてもいいんじゃねえかな。」
ビットリオ=カゼラは、最初はただ驚いた。自身をそう肯定してくれる事は全く予想できていなかったから。そんな癒しを与えくれる事などないと思っていたから。
二回目には理解しようとする。自身がその言葉に値するのかどうか、それを自身の中で緻密に分析する。
そして終わりにはたった一滴、左頬を零れ落ちる水を認める。口元に達して、唇から口腔へと流れていく。
矮小な世界で確かに感じられる尊い優しさが、ほんの少しのしょっぱさと共に、もう一度ビットリオ=カゼラの心に沁みていく。
上条当麻もそれ以上に重ねる事はなく、表情をより戦いへの物に変える。
「さて、始めよう。
敵の正体予想はローマ正教の暗部組織、『神の右席』。
正確にはその一人。そいつの名前はたぶん、こんな感じだろう。」
一泊置いて、上条当麻ははっきりと明言する。
「左方のテッラ。」
「左方のテッラ、か……。聞いた事がない名前だ。」
ビットリオ=カゼラは涙の味を心の中に仕舞い込み、その聞き慣れない言葉に疑問符を浮かべる。テッラとは地を意味する言葉で、日本語では『テラ』というふうに表記される事が多い。
テッラを人名として使う事はあまりなく、ビットリオ=カゼラにはどう考えても組織員としての名前であるとしか思えない。
上条当麻はそれが当然であると表情に表している。
「暗部組織だからな。自分で言っておいて何だけど、『テラデラ!』ってなんか中学生高校生向け小説でありそうだよなー。
……と、分かんないか。じゃあ神の右席の説明からやるか。神の右席ってのは、元々は数百年前だか千年以上前だかに発足したローマ教皇の相談役程度の組織だったらしい。だけどながーい年月を経る内に立場が逆転。今ではローマ教皇に命令さえできるらしい。」
突然だが話が理解できない。ビットリオ=カゼラは心底そういう思いになる。
上条当麻がある程度単調な口調で説明しているのに対し、ビットリオ=カゼラは戸惑いの色を隠せない。戦闘時には隠してくれる兜も今は部屋の壁に接して置いてあるだけである。
つい、口に出してしまう。
「それは、本当の話なのか?」
そう、ビットリオ=カゼラにとっては途方もない話だった。
二十億の信徒を持つローマ正教の事実上の一番が全く違う謎の組織である。
自身もまたローマ正教徒であるビットリオ=カゼラが、それをすぐに受け入れられないのも無理のない話である。それを理解している上条当麻はひとまず頷いて、少し凹んだリンゴを一噛みしてから話を繋ぐ。
「神の右席の目的はその名の通りだ。神様の右側の席に座る事。あー、分かると思うが神様ってのはお前らの親父さんの事な。それで、確か光を掲げる者は右の席にいても良いとされた唯一の天使らしいけれど、連中はさらにその先を行こうとしている。神様に一番似ているっていう意味の名前を持つ神の如き者が右という方向を表すように、十字教では右は特別な意味合いを持つ。そして、まさしくお前らの親父さんと同様、同等の存在になろうとしてるのが神の右席だ。」
今度こそ、ビットリオ=カゼラは絶句する。
話の規模が大きすぎる。とてもではないがビットリオ=カゼラの頭では許容できない量の内容が次々に彼の頭に入ってくる。
(我らの父と、神と同等になる? 何を、馬鹿な。)
昨夜の少女とマタイ=リースのおままごとを目撃した時とは次元が違う。ビットリオ―カゼラという個人の根幹さえ揺るがす程の話である。
「理解し辛いのも無理はない。けどな、俺が世界を敵に回すって言った意味ぐらいは分かるだろ?」
「……ああ。頭痛がする程良く分かった。」
世界最大の宗教、ローマ正教。信徒数二十億人を数えるその宗教の、本当の頂点。
ある程度はローマ正教の『闇』(闇といっても対魔術部隊所属というだけだが。)に関わってきたビットリオ=カゼラだけに、その底知れぬ深淵を覗き込んだという認識は強い。
「神の右席は今のところ通常のローマ正教の舵取りには口を挟んでいないらしい。ローマ正教全体や世界そのものに影響する部分は違うらしいけど、あくまでさっき言ったお前らの親父さんの右側の席に座る事を最優先目的としているみたいでな。全部又聞きのような物だからもしかしたら全然違うかもしれないが、そこは勘弁してくれ。」
そこで、ビットリオ=カゼラは右の手のひらを開いて上条当麻に見せる。
そのままいろいろとビットリオ=カゼラも知らないローマ正教の実情を話す上条当麻に、ビットリオ=カゼラは待ったをかけたのだ。
「そのくらいでいい。ところで、なぜお前がそこまでの事を知っているのか聞かせてくれないか。確証がないとはいえ、私でさえ知らぬローマ正教の真の姿を知っている理由を。」
「簡単簡単。俺は少し前に神の右席と戦ったってだけだよ。左方のテッラじゃないけどな。名前の予想は前に戦った方の神の右席がそんな感じの名前だったからだな。四方と四大属性のそれぞれ一つを組み合わせて名乗ってた。」
上条当麻はリンゴを片手に隠さずに伝える。ビットリオ=カゼラはそれを聞いて呆れに近い思いを抱いてしまう。話の規模が違うとは言っているが、それはあくまでもビットリオ=カゼラにとっての事。上条当麻にとっては普通のできごとなのかもしれないと感じたという事である。
「ええっと、敵が左方のテッラって予想した理由は二つ。
一つはお前の言った全身緑色の服。トライスのマヤ神話的な世界観の疑似再現魔術は憶えてるよな? あの時の方角と色の話を十字教的に当てはめると、左、つまり東は……緑を象徴色とする筈だな、今は。お前には言われるまでもないって感じだろうが。
で、もう一つはこれだ。」
上条当麻は一本の毛を出す。その毛は薄い緑色をしており、短い。
「空港から出る時にお前の近くに落ちていたんで持ってきておいた。こいつを俺特製解析霊装にぶちこむ、と。ちょっと待ってくれ。」
音も立てずに上条当麻は飛び上がり、オーレンツ=トライスの死体近くにあった木箱の塔の頂きに着地する。子供の身体能力ではありえないが、魔術師が行う事であるからビットリオ=カゼラもそこまで不思議に思わない。
一回リンゴを齧ってから、ビットリオ=カゼラは思っていた事を口にする。関係ないが、結構固く噛み応えがある。
「なあカミジョウ。」
「うん、どうした? 化粧室ならこの部屋を出てすぐの突き当りにあるぞ。」
「催してはいない。全く関係ない話だが、お前はマタイ=リース主席枢機卿を知っているか?」
ぴくりと、上条当麻の小さな姿が動く。
上から見下す形で上条当麻はビットリオ=カゼラに伝える。
「知り合いだよ。ていうか、もしかしてあの心配性の爺さんが俺になんか言ってたのか?」
返ってきた答えは質問者の予想通りだった。
実は、ビットリオ=カゼラは幼い上条当麻を見た時、マタイ=リースから見守って欲しいと頼まれた知人の特徴と全く一緒である事に気付いていた。その考えは当たりだった。
『心配性の爺さん』発言に若干顔をしかめつつも、ビットリオ=カゼラはまた口に含んでいたリンゴを飲み込んで返答する。
「ああ。お前を見守って欲しいと頼まれてな。」
「ったく、そういうのいらないって事前に言っといたんだけどな。」
どこか苛立ちの中に申し訳なさを含んで、上条当麻は木箱の塔の頂きにあった霊装を持って飛び降る。そのまま持って降りたビットリオ=カゼラに提示する。
それは正八角形の盤である。基調は黒で、漢字が円を描くように連なって書かれている。中央には方位磁石が備えられており、盤の縁取りにあるそれぞれの角からは細い銀の棒が出ている。その棒と棒とを結び八角形を描くかのように赤い糸が繋がっていて、糸の一辺一辺の真ん中からは日本の陰陽術で使いそうな札が下げられている。
しかしそれだけではない。盤の方を見ると、ケルトのオガム文字や北欧のルーン文字、マントラに梵字のようなものが漢字と漢字の間にところどころ書かれている。シジルという魔術も利用されているようで、他にもアブラメリンのマジックスクエアやカバラのセフィロトの樹、密教の曼荼羅など、多くのオカルト要素が入っている。見様によってはイコンとも解釈できそうである。
要はオカルト要素超満載の霊装だ。そしてそれはビットリオ=カゼラも全容は分からない。
じっと見ているだけのビットリオ=カゼラの思考を理解してか、上条当麻は説明を始める。
「基本は風水の羅盤。そこにいろいろぶち込んで解析に特化させたのがこれだよ。」
上条当麻は二つの水が入った杯を黒い穴の空間を作り取り出して、乾杯させるようにちん、と鳴らし合わせる。それからいきなり中身を盤にぶちまける。
しかし水は盤まで届かず、その前に玉の形で浮遊する。当の盤は七色とでも言えばいいのか奇怪な色で満たされている。水の球がその奇怪な七色に映し出されて、豆電球の光を霞ませる。小さな石部屋全体を綺麗に彩り上げている。
上条当麻は本命である薄い緑色の毛をそこに入れる。
瞬間、場の気配が変わる。
ビットリオ=カゼラはまるでその部屋にいる者全てを宇宙全体に見られているような感覚に陥る。
(う、ぬぬ……っ!)
ビットリオ=カゼラはどうにかそれに飲み込まれないように自信を強く保っている。大津波の水圧と表現しても、それさえ不足に感じる程である。
本題は盤の上に展開されている文面だ。
そこには、『極めて十字教の天使に近い人間の頭髪』と書かれている。その下図には薄い緑の毛の詳細図が出ている。
「こんな感じの事を寝坊助騎士様が起きる前にやっていたわけですよ。」
不敵に笑う上条当麻を見て、ビットリオ=カゼラは言う。
「よくもまあそれだけの事ができるものだ。」
率直な感想である。ビットリオ=カゼラもここまでの霊装と魔術を見る事は初めてである。まさしく神話の時代に出てきてもおかしくない、いやそれさえ超えているかのような魔術だ。
「そして、これが敵の正体か。書かれてある通りだな。」
「天使っぽい人間が相手だってだけだけどな。お前らの親父さんから見て右側の椅子に座ろうとしているんだ、天使化ぐらいはやってる。」
気楽そうに言う上条当麻に対し、ビットリオ=カゼラは神経を疑う。
ビットリオ=カゼラも対オーレンツ=トライス戦で天使化のような術式を行って巨大な竜を倒したが、この図面に映し出されている髪の毛の詳細図は想像を絶している。この髪の毛に比べれば、彼の行った術式は単にごく少量の神の祝福を纏っていただけに等しい。
それでも驚きが少なかった理由は解析霊装の力に圧倒されてしまったためである。
「服装の色とこの毛髪から、俺はあの子を連れ去った犯人が左方のテッラだと推測する。」
上条当麻は話を締めた。
重苦しい雰囲気、という物がある。ビットリオ=カゼラはそれを感じざるを得ない。上条当麻の顔は平素を表していたが、ビットリオ=カゼラからすればやはりこの話は重圧を加えられる。
(それでも、私はあの子を助けねばならん。私の愚かさであの子に危害が加えられる事など、絶対にあってはならない。)
心中で呟いた。それはビットリオ=カゼラの立ち向かう理由であり、決意でもある。それを携えていれば臆する事なく事件を追える。それがビットリオ=カゼラの強さである。
重圧を受け止めきったビットリオ=カゼラはまず質問をする。
「術式の正体は?」
「不明。小麦粉だからミサか何かに関係した術式なんじゃないか? あるいは象徴色と方角的に司る属性が風、じゃない、土だから大地の恵みとかそんな感じに何かあるのかもな。」
ミサとは簡単にいえばパンと葡萄酒を特別なものとして飲む儀式である。パンや葡萄酒は司祭のように十字教的身分の高いものが聖別して聖なる物にさせる。それらを十字教徒で飲む習慣がミサである。
なぜそのような事が行われるかといえば、有名な最後の晩餐において主がパンを自分の肉だと言い、葡萄酒を自分の血だと言ったと聖書に書かれているからである。
「ミサ、か。ならば小麦粉は主の肉体を表すという事か? いや、聖別されていない状態のパンにそこまで意味があるわけでもないだろう。」
「つーか、そもそもパンにもなってねえしな。普通に考えればタネか仕掛けがあるんだろ。」
上条当麻はリンゴを芯の部分以外食べ終えて、気軽に言う。
「ま、他にもいろいろ考えよう。一応敵の居所を探る魔術道具も稼働させているし、お前の施術鎧の修繕もある。その間に救出の作戦案とかなぜあの子が攫われたのかとかを話し合おうぜ。」
再びリンゴを取り出しながら、上条当麻はそう話しかけた。
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