終 章 祈る言葉と募る想い (Non)Living_Dead.
バチカンに程近い暗い場所。そこである存在が起き上り、じろりと目で見回す。
「……。」
ほんの少しの間それは静止したが、すぐに全てを把握する。
まずはそこを出るところから始める。それは決断し、より深い闇に潜る。
ぱたん、と扉が閉じる音を確認しつつ、ビットリオ=カゼラは自身と少女の部屋に戻ってきた。
カーテンが閉められ、今朝の片付けた通りの整頓された自身の部屋。彼は部屋の明かりをつけながら、ここに帰れた事で心が安らぎ和やかになる。
それは一緒に部屋に入ってきた少女も同じであり、すぐに少女用に買った小さな椅子に座る。
『ふう、しばらくぶりのビットリオのお部屋に戻ってこれたね。』
『まあな。今日は流石に私も疲れてしまった。』
カーテンをやや開けてから聖書や一三騎士団の指南書が整然と並べられた机の前に対となっている椅子に腰かけ、彼も同意する。窓から見える景色は特に変わりもない、そして普段通りに美しい夜の星空である。
少女は自身の服をところどころ点検して、やはり汚れている事を視認する。
『あーあ、早くお風呂入りたいなぁ。』
少女はその両腕に大事そうにカエルの人形(日本語の独特な発音で『ピョンコ』という名前のキャラクターである。)を持って、カエルの人形に話しかける。
彼は微笑ましい光景を、そのまま微笑んで見る。
『そうだったな、今から沸かそう。』
『本当!? やった!』
一応ビットリオ=カゼラの部屋にも小さいながらも風呂が備えつけられている。彼は十分休まっていない体を立たせ、風呂を沸かすために風呂場に行く。
(しかし、今日はいろいろとありすぎたな。)
思い起こされる事は本日の事ばかりだ。フィウミチーノ空港からの爆音、上条当麻との出会い、オーレンツ=トライスとの戦闘、少女の誘拐、神の右席の存在、左方のテッラとの死闘、右方のフィアンマという男の出現。
あまりに一日の濃度が濃すぎて、彼も頭痛がする程に思える。
だが、頭痛や全身の疲労、痛みも吹き飛ばすだけの成果が得られたとも思っている。
(あの子も話せるようになった、テッラも心を改めた。……私も、少しは良く変われた。)
嬉しさに笑みをこぼし、次いで暗い影を顔に作る。
(トライスに奴隷同然に扱われていたという人々……カミジョウも体力の損耗が激しくすぐには行方を掴めないと言っていた。)
それは今回の事件で唯一救われていない人々の事である。上条当麻曰く、オーレンツ=トライスはいかなる方法かも分からないが、ローマ正教徒も含めた数多くの人々から思考力を奪い、奴隷のように扱っていたという。
その問題を考えながら、彼は風呂に湯を張っていく。
(できる事といえばどうしたら救えるのか、明日カミジョウともう一度相談する事ぐらいだ。幸い、今ならテッラも協力してくれるだろう。)
解決の糸口を見つけるための手段を断じていると、部屋からのくぐもった少女の声が耳に聞こえる。
『ビットリオー。お湯の温度はあんまり熱くしないでねー!』
『はは、分かっている。』
少女の注文は予想されていた事のため、彼は少女に温度を合わせるよう念頭に置いて湯を溜めている。後は機械が自動で行うため、浴室から出る。
少女は部屋の中でカエルの人形を綺麗にしており、椅子の上からぎりぎり届くごみ箱の上でカエルの人形を叩いているところである。
『汚れは落ちたか。』
『あ、ビットリオ。うん、何とか。』
言って、少女は部屋の隅にあるカエルの人形が集められている箱の中に、優しい手つきで丁寧に収める。彼の教育の賜物である。
少女は小走りに彼に駆け寄って、その足に突っ込むように抱きつく。
『おい、危ないだろう。』
『ごめんごめん。……でも、本当に良かった。あの時はもうおしまいなのかなって思ったけど、ビットリオとこうしていられるなんて、とっても嬉しい。』
少女の笑顔は曇りそうになって、それでも最後には笑う。彼は叱りの言葉も忘れて、少女を見つめる。
『そう、か。ありがとう。』
結局そんな月並みな言葉しか返せなかった彼は、少女を持ち上げて少女用の椅子に座らせ、向い合わせる形で自身の椅子に座る。
座らされた少女は一旦朗らかな笑みを浮かべていたが、突然何かに驚いたかのような声を上げる。
『あ! そういえば、あれは!?』
『何だ、何か話さなければならない事があるのか?』
『あの、私の上着に元々付いてたブローチを忘れちゃったの、すっかり忘れてた……。』
彼は少女に指摘されるまで気付かなかった。それは少女との生活の中で二つのブローチを付けている姿を見なかったからだった。
『済まなかった、私が持っている事を私もすっかり忘れていたようだ。』
『ホント!? 本当にあのブローチがあるの!?』
『勿論。』
彼は視線を少女から外し、戦いの中で痛んだ黒いローマ正教式の男性用修道服にあるポケットからブローチを取り出す。少女の北欧神話圏に伝わる特徴的な上着にある対となるブローチと同じ物である。左方のテッラに投げつけられたそのブローチにはその時付着した筈の赤い物がなくなっている。
『待っていろ、この程度の縫い合わせなら私もできる。』
体を捻って机の引き出しから裁縫道具を取り出す。中身のうち針と糸と鋏を取り、指を防護するキャップを付けて針の穴に糸を素早く通してから、適当な長さで糸を切る。
手際を見ていた少女が称賛する。
『ビットリオって器用だねえ。』
『術式を扱うにもある種の器用さや感覚が求められる。必然的にこういった事ができるようになった。自慢できる程でもない。』
『ううん、すごい事だよ!』
少女の強い肯定と褒める言葉に彼も少しだけ照れる感覚になる。それは決して嫌な感情を作るものではない。
少女から上着を借り、持っていたブローチを元の通りに縫い付けていく。一〇分もせずに少女の上着は元の形に戻る。
『わあ、ありがとう!』
『どういたしまして。』
喜びの感情を表に出して大事そうに受け取る少女の感謝に、彼も嬉しさが込み上げてくる。
受け取った少女は風呂に入る時脱がなければならないにもかかわらず、若干急ぎ気味で赤い子供用のドレスの上に着込んでいく。
(やはり、この子には華があるな。)
そう思って少女を見ていると、少女が少々俯いて両手を二つのブローチに重ねている格好になっている。しかしその表情に後ろ向きな感情は見受けられない。
彼の反応を窺いもせずに少女は語り始める。
『私はね、たぶん北欧神話を信じている人達が多いところに住んでいたんだけれど、そこまでその北欧神話について知っているわけじゃないの。勿論、ローマ正教を信じていたわけでもなかった。自分の服がどんな物なのかなんて、全く知らずにいた。』
ビットリオ=カゼラははっとする。今日は上条当麻の両親に会えた。少女も早く本来の家に帰りたいと思って当然である。
思い出しながら、少女は一言一言を大切に伝えていく。
『そんなある日、あの人が私にこの上着をくれたの。』
『あの人?』
反射的に質問した彼の顔を見ながら、少女は首を頷かせる。
『名前は聞きそびれちゃったけど、綺麗な人だった。キラキラ光ってるみたいな白くて長い髪の、男の人。でもあの人女の人に見間違えちゃうくらい美人さんだったんだよ。一緒に遊んで貰ううちに聞いて、すごく驚いちゃった。』
懐かしむような雰囲気で、少女は話す。その雰囲気に、ビットリオ=カゼラは胸を苦しく感じる。別れがやって来る事は理解していた筈だが、その前提を簡単に揺るがされている。
『その人と遊んで貰って、お別れの時にこの服を貰ったの。その時にね、その人から言われたんだ。
『いつか君を助けてくれるヒーローがきっと現れてくれる。』、って。』
『そのヒーローは、その人だったのか?』
『ううん、確かに最初はそう思ってた。けれど、私は違うんだって気が付いた。ビットリオ、私と初めて出会った時の事、憶えてる?』
彼には鮮明に思い出す事のできる事である。あの場所の路地裏とも形容すべき場所で衰弱していた少女を発見した時の事。
『ああ、憶えている。お前は最初私から逃げようとして転んでしまった事も含めて。』
彼は少女の身の安否を確認したらすぐにでも何かを食べさせてやらないといけない、そう感じていた。神の恵みがあるならば、この少女にも与えてやるべきだと。そして、彼が信じる己の道徳にも従って。
『あの時、ビットリオは私を助けてくれた。手を差し伸べてくれた。それがあの時凄く嬉しくて嬉しくて仕方なかった。そして気付いたの。
ビットリオが私を助けてくれるヒーローなんだって。』
しかし、部屋の明かりに照らされた少女の顔に初めて暗いものが見え始める。
『ビットリオが私を助けてくれるって事は、あのテッラさんに立ち向かってくれるって事だった。それは、ビットリオを傷つけてしまう事だったの。
嫌だった。絶対に嫌だった。ビットリオは何も悪くないのに、どうしてビットリオが傷つかなきゃならないのか、分かりたくもなかったよ。』
『だから、昨日は逃げ出したのか。』
『うん。ビットリオに傷ついて欲しくなかったから。想像しただけでも嫌だったから、逃げ出した。
でも、結局はビットリオの元に戻っちゃった。あの後マタイさんが遊んでくれたのも理由の一つだけど。』
面目ないといった表情に変えて少女は話を続け、彼は黙って聞き手に回る。
『実際、テッラさんとのいざこざでも、ビットリオは私を守ってくれた。私の感じた事、間違いじゃなかったんだ。』
聞き手である彼は言われた内容にどうして良いか分からず、無言で少女を見つめる。少女はそんな彼を気にせず言葉を発し続ける。
『ビットリオ、私はあなたに感謝してる。ううん、してもし足りないぐらいに、あなたが大好き。できる事なら、ずっと一緒にいたい。
でも、それは駄目なんでしょう?』
彼はようやく少女の言いたい事を理解する。少女はローマ正教に改宗したものの、あくまで誘拐されここローマに来た人間である。当然帰るべき故郷があり、いつまでも彼と共にいるわけにもいかない。
そして少女は家族と離れ離れになっている現状が嫌いというわけではなく、ビットリオ=カゼラとの別れがつらいと思っていると。
少女はそれを伝えたいのだ。
『駄目なのは分かってる、だからさ、私の故郷がちゃんと分かるまでの間、一緒にいよう?
どこかに連れてって貰って、遊んで貰って、食事を一緒にして。ベッドの上で一緒に寝て、またおはようって声をかけて欲しい。
……駄目、かな。』
また、それまでなかった不安が少女の目に現れる。恵みを待つように見上げる少女のその顔全体に、不安が見てとれる。
彼はそんな少女に、安心させるために笑いかけ、頭を撫でる。
『当たり前だ。お前のようにリース主席枢機卿のお手を煩わせるような者は、この私が監督してやらねばな。』
『な、なんでそういう事言うの! もう!』
にこやかに笑う彼を見て少女は思いの丈をぶつけるも、頭を撫でられているためそこまで強く発言できない。
彼もそんな少女の姿を見て、決心する。すぅ、と息を吸い込んで、準備を終える。
『その服、似合っているぞ。お前の可愛らしさがより良くなって、見栄えがある。』
それは今朝彼が感じて、しかし恥ずかしくて言えなかった言葉だった。少女の健気な言動を目の当たりにして、どうしても言いたくなったのだ。
突然、服装について褒められた少女は一瞬凍る。思ってもみなかったその言葉に、少女は反応できない。口を開いたまま、彼にその顔を見せ続ける。
数秒の長いようで短い時間が経ってから、少女は一つの答えをはにかむような笑顔で言う。
『もう、遅いよ。そういう事は最初の出掛ける時に言ってよ。
……ビットリオの馬鹿。』
『ははは、すまない。』
二人はどちらも小さな、だが幸せな笑みを浮かべて、どちらからともなく窓の向こうの夜空を眺め、じっと見続けた。
満月ではない月が、それでも優しく矮小な世界を照らしていた。
夜がまた更けてくる。すでにローマの時間で午前〇時を回っており、深夜と表現すべき時間帯である。満月ではない月明かりに照らされても、夜の黒は一層濃くなるばかりである。
そんなローマのある緑多き自然の公園に、一人の来園者が現れる。
それは夜の暗闇にまぎれるような真っ黒いつんつん頭、肌は黄色人種であり、特段変わったところのない黒いパーカーと青いズボンを着ている青年の男性だ。
そして、その彼を待っていたかのように対峙する者がいる。赤い髪に赤い服装、全身を赤という色で飾った、これもまた青年の男性である。
二人の男、すなわち上条当麻と右方のフィアンマは互いに相手の目をじっと見る。彼、上条当麻は鋭く睨み、右方のフィアンマは余裕のある視線を送る。
『予定時刻よりも少し早いな。日本人というのはそういう人種だとは噂に聞いていたが、お前にも当てはまる事だったのか。』
『あのな、敵対している実力の凄く高い魔術師に待ち合わせしようと言われたら、こっちだって罠が張られてないか待ち合わせ場所を入念に調べるもんだろ。高い精度の検証ってやつをやって、大丈夫そうだから今出てきてやったんだよ。』
イタリア標準語の会話の中で、彼はやや軟化させた表情で答えた。
彼が今向かい合っている右方のフィアンマという掴みどころのなさそうな男は魔術師として極めて特異であり、かつその魔術的な腕前は相当のものである。彼は右方のフィアンマ本人とは過去に二度戦いを経験したが、どちらの戦いもかなり厳しいものとなった。
彼こと上条当麻が特殊な人物である事に対応するように、右方のフィアンマは特殊な人物だ。
まず右方のフィアンマは十字教の最大宗派ローマ正教の暗部組織神の右席に所属している。名前もイタリア語で火を意味するfiammaから来ており、本名は彼でも知らない。また右方のフィアンマにとってはローマ正教徒である、という事が建前程度にしか機能していない。
またその思想も一般的なローマ正教徒および十字教徒とはかけ離れている。元々神時の右席の最終目標が天上にいる十字教徒の父親の右に位置する場所に到達する事、つまり十字教徒の父親と同等の存在になる事という、異端中の異端と表現できる考えである。
しかし右方のフィアンマの思想はそれを遥かに超えている。十字教徒の父親どころかそれすら超えた力を制御しようとしているのだ。それを知った時は流石の彼も驚きを隠せなかった。
そして今また、彼の頭の中には右方のフィアンマが特殊である事を理由づけるものが疑惑として渦巻いている。
『フィアンマ、一つ聞いて良いか?』
『何だ、言ってみろ。』
右方のフィアンマの許可が出たところで、彼は確かめていく形式で話していく。
『神の右席の目的っていうのは、お前らの親父さんの右位置に居座る事だったよな。』
『ああ。そんなどうでも良い事がどうかしたのか?』
彼は驚かない。右方のフィアンマは元来こういった考えを神の右席の目的には抱いている節が見受けられた。予想できる範囲の解答でしかない。
『テッラの話を聞いてて思ったんだが、どうにもお前らの親父さんと同じになる事が神の右席の目指しているところだとは思えなくなった。予想なんだが、神の右席の目的はただお前らの親父さんの右座席に座る事じゃなくて、座った後にお前らの親父さんと同等の力を用いてローマ正教全体、あるいは世界を救う事が目的なんじゃないか?』
『何を今更、決まっているだろ。お前は何を勘違いしていたんだ。』
殴られたわけでもないというのに、彼の頭に頭痛に似た感覚が起きる。
(普通お前の言動聞いてたら強大すぎる力を得たいだけだと思うってば! その先にちゃんと皆を救うって事あってそれが目的だろうに、手段だけ教えやがって!)
眉間に指を当てて脳内で叫んだ。
彼は神の右席という組織を、ただ十字教徒の父親と同じだけの力を得ようとする欲深い集団だと誤解していた。しかし蓋を開いてきちんと中身を吟味したら、その欲深さは全ての人々を助けたいという想いから来ている事を知った。そうなれば彼も少々は理解を神の右席に示す事が可能になれるにもかかわらず、彼の目の前にいる魔術師は先程まで教えなかったという事である。
『お前の言葉足らずに、上条さんもバッド上条になりそうな怒りが心の中で湧いてくるぞ。』
『知るか、勝手になっていろ。』
『良いのか!? バッド上条といえば泣く獣王も黙る獣の覇者的な、こう、すごーい感じになるんだぞ!?』
『ほう、獣王とやらは存在するのか?』
『ええと、いる事にはいるみたいだけど俺は会った事ない。って、それこそどうでも良い。』
彼は腕を払う動作で話を切り上げる。だが右方のフィアンマは珍しく嘲る意味のない微笑をして呟きを会話の最後に加える。
『獣王さえ泣かす、か。確かに今回は表も裏も怪物共が蠢き回っていたようだが、お前が一番の怪物だろうがな。』
『……何?』
その小さな音の声を逃さず聞いた彼は素で聞き返していた。
表も裏も、という事は今回の事件において表に当たる部分と裏に当たる部分、両方で騒動が起こっていた事を示唆する。
(裏に当たる部分が俺達の関わった事件? いや、フィウミチーノ空港での騒ぎは間違いなく魔術を知らない科学側と一般側にも報道機関によって伝わった筈だ。ならテッラとの戦闘が裏なのか?
……それも違う気がする。俺やカゼラも含めた、あの少女を見つけるための捜索は確実に神秘的な奇跡の再現を知らない、ただのローマ正教徒やイタリアの警察を動かしていた。表がどうしても関わっている。
けど、それなら裏に当たるできごとが存在するっていうのか?)
彼やビットリオ=カゼラが直面した二つの事件でも、かなりの世界の裏側である超能力でない異能が関わっている。しかしそれにより引き起こされた事件は異能に関わりがない人々へも影響してしまっている。裏という言葉だけでは片付けきれない面がある。
しかし、仮にそうだとするならば今回の事件には彼ですら知らない裏の事件が発生していた事になる。同時に恐ろしい予想も立てられる。
上条当麻。
オーレンツ=トライス。
右方のフィアンマ。
ビットリオ=カゼラ。
左方のテッラ。
彼自身も含めた、この世界以外の別世界を司る法則と奇跡を用いる、高度な術式と技術を持った五人の者達。この五人以外に、まだ強大な力を持つ何者かが今回の事件に関わっていたとすれば。
今回の事件は魔術側の実力者が潰し合う壮絶な戦いだったという事だ。しかも、彼が全貌を知り得ない程、ただでさえ綱渡りだった今回の件にほんの少しでも事件に異変があれば、そのまま世界を壊しかねない程の、一大事件だったのである。
(しかも、いくつかそれを裏付けそうな謎もありやがるし。)
例えば少女がフィウミチーノ空港に来た事。まず彼やオーレンツ=トライス、ビットリオ=カゼラといった実力者があの場にいて、なぜか少女に空港に入られるまで誰もその存在に気付かなかった。また、少女のか細い足と多くない体力でフィウミチーノ空港まで辿り着けた事もおかしい。左方のテッラという奇跡を再現し、十字教の天使に肉体を近づけている特別な男は別にしても、少女がフィウミチーノ空港に来れた事が変だ。
例えば、左方のテッラの潜伏場所までの道のり。実はその場所まで続く道の一つに、ある一点から道なりに伸びるようにして天使の力の線が途切れ途切れながらも確実に作られていた。問題はそれが攻撃性を持つような特性も備えていた事だった。早急に天使の力の線を除去しなければならず、ゆえに彼はビットリオ=カゼラの高速移動術式をその天使の力を消費する形である一本の道を辿りながら左方のテッラの場所まで行く事ができた。
しかし天使の力の線を引くような奇妙な事をする必要はなく、実際左方のテッラはやっていない。ならば誰が行ったのか、彼は疑問に感じているところである。
そういった謎が、その裏の事件によって起こされたものだと仮定すると、解消される可能性も見えてくる。
右方のフィアンマの表情からは読み取れないものの、大いにあり得る仮定である。
『それより、俺様の前に現れたお前の最初に見た顔から推測すると、何やら俺様に話したい事があるような雰囲気だったが。』
少しだけ彼を舐るような右方のフィアンマの視線で、しぶしぶ話を路線変更する。彼にとっても大事な事だ。
『じゃあ聞くぞ。
今回の事件、全部お前が何かしらの手引きをしていただろ。』
『ほう。』
右方のフィアンマは予想外とも想定内ともつかない言葉を上げておどける。相変わらず笑っていない両目を夜の闇で彩って、先を急かす。
『理由を聞こう。どうして俺様がそんな面倒な事をしなければならん。』
『テッラについては必要だったから。トライス共については分からない。』
飾り気なく回答した。彼の理解できている範囲内で正しく答えた場合、これが最善だった。
『いいだろう、付き合ってやる。お前の推理を聞かせてみせろ。』
尊大な態度で所望する右方のフィアンマに、彼は顔色を変えず説明し始める。
『お前はテッラをできる事なら使えるようにしたいと思っていた。そして焚きつけるためにどうすれば良いか計画を練った。それがお前自身によって光の処刑の的となる人、すなわちあの少女を宵闇の出口に連れて来させる事だった。神の右席でもかなりの能力を持つお前自らがテッラのために動く事で、テッラにローマ正教という存在と神の右席という組織を意識させたんだ。』
『待て、どうして俺様がお膳立てなどする? 強大な力を持つ俺様が、今更になって他人の力をあてにするとでも?』
解答を誘導するように右方のフィアンマは極めて平坦な顔つきで問いかけた。彼もまた淀みなく答える。
『さっきお前はテッラを休職処分にした。もし仮にテッラをどうでもいいと思っていたなら、責任をとらせるためにあの場で殺しにかかる筈だ。それをしなかったのはお前がテッラの価値を認めていたから。光の処刑という稀有な術式を編み出したあのローマ正教徒がお前自身の役にも立つと踏んでいた。
お前が宵闇の出口と取引したと推測する理由は二つ。一つは神の右席に在籍するテッラと直接会って連絡できる事、もう一つはテッラが異教徒との取引には応じない事だ。』
左方のテッラもまた右方のフィアンマと負けず劣らずの実力者であり変人である。そしてその存在自体がローマ正教最大の秘密である。そんな左方のテッラとやり取りできる人間がすでに限られている。
そして左方のテッラは病院での改心以前は相当な異教徒嫌いだった。異端も異教も無神論も科学も、全て纏めて叩き潰そうという気迫があった。その左方のテッラが一時的にでも宵闇の出口という最も十字教からかけ離れたような極悪集団に取引を申し込む事はあり得なかった。現に上条当麻も最初は譲歩できる部分を探ろうと持ちかけたが、にべにもなく断られた。
その事実を根拠として、彼は右方のフィアンマが宵闇の出口と取引をし、また裏切った張本人だと見なした。
『なるほど、確かに言われてみればそうかもしれない。』
『テッラの部下が独断で宵闇の出口をイタリアに入国させられるとも思えない。だったら答えは一つしかない。テッラの存在を知っていて、異教の魔術師とでも交渉をやりそうで、イタリアに密入国させられる人物、そんなのお前しかいない。ま、他の神の右席構成員って線もあるけど、俺も知らないから除外する。』
ローマ市に程近い自然保護区の緑が溶け込む程の暗闇の中で、彼の推理説明は続く。右方のフィアンマも時々質問しながらも、基本面白そうにして清聴している。
『そうやってテッラはお前にあの子と宵闇の出口の魔術師達という二種類の的を用意されて、意気込んで……アプリーリアに潜伏していた宵闇の出口を壊滅させた。ところがその時少女は逃げ出していた。しかも一日か二日か経って状況を確認すれば、ビットリオ=カゼラなんていうローマ正教の中でも奇跡の再現に長けて敬虔な信徒が少女を保護していた。これにはお前もびっくりしたんじゃないか?』
『さてどうだろうな。そんな報告をテッラから受けていた気もするが、我々は基本互いの行動に干渉しない。それと、これは俺様が調べた事だがアプリーリアではなくローマ市内じゃないのか?』
暗に自身が宵闇の出口と関わったのではないと言って、右方のフィアンマははぐらかす。飄々とした赤き姿には微塵の焦りもなく、それに続いた宵闇の出口がアプリーリアではなくローマ市内に潜伏していたという話にも嘘偽りはなさそうだった。
その言動は、右方のフィアンマの思惑とは別に彼の心中を揺さぶる。
(アプリーリア、じゃない? 俺が宵闇の出口の潜伏先について最初に調べた時はローマ郊外だった。カゼラもそう言っていたのに、なぜかカゼラはテッラとの戦闘の最中にアプリーリアと言っていたし、その後にリースに聞いた時もアプリーリアだった。
だけど、ここに来てローマ市内だって? なぜ、話が二転三転するんだ?)
彼は思考の中で不気味な謎を発見するも、右方のフィアンマへの尋問を進める。
『……ところで、お前は同時並行でもう一つの計画を進めていた。
それは俺を殺す計画だ。』
平然とした口調の言葉は、右方のフィアンマに何の痛みも驚きももたらさない。時折その切り揃えられた髪をいじくるだけだ。
彼もまた重々承知している事だ。殺す、という単語だけでは恐怖を感じない間柄である。今は同じく口を動かすだけに留める。
『そのためにお前は二人の魔術師に接触した。一人は俺も良く知るオーレンツ=トライス。一人は俺が昨日戦った呪術師だった。』
『呪術師? 誰だそれは。』
『とぼけるなって。お前があの呪術師と出会っていないなら、偶然に偶然が重なったって言葉で片付けられちまう。』
彼は強く言い放った。
『お前は二人の魔術師にこう話した筈だ。『上条当麻を殺す機会を与えてやる、だから協力しろ』、そんな内容の話をな。
実際二人の魔術師はそれに乗った。二人とも俺に恨みを募らせていただろうし、俺を殺すためなら手段を選ばない性格だったから。』
と、彼はビフロストの応用である場所に通じる黒い穴を作り、そこから再びマラキアスの予言の仕組みを利用した予言書を取り出す。無論彼の作り出した魔術道具だ。
彼はその本をめくっていき、『sinister』以外には何も書かれていないほぼ白いページを突き出す。
『日付も表示されない失敗作である俺作製マラキアスの予言の書だ。
ここに書かれてあるsinisterってのは、お前も意味分かるよな?』
『当たり前だろう。そもそもイタリア語のsinistraに当たる言葉だ。ラテン語を読めずともイタリア語が理解できれば自ずと分かる。』
『そうだ。それでこのsinisterの指している物事が何だか分かるか?
実は、『左方』のテッラじゃない。俺の『左』肩についてだったんだ。』
『お前の左肩?』
この会談で初めて右方のフィアンマの表情に疑問の色が表れる。右方のフィアンマからしても思ってもみなかったという事だ。
『ローマに来る前、俺はお前の誘いに乗った呪術師と戦った。その時あっさりと下したんだが、左肩に傷をつけられた。その事を俺の作ったマラキアスの予言の書は表していた。
迂闊だったと今でも思う。気付いたのはテッラに左肩を直に傷つけられたからで、それまでは変化霊装の上から傷つけられたのに脱いだ後もちょっとした違和感があるのにも疑問を抱かなかった。なぜそんな事が起こったのか、それは呪術師がこの傷を俺に負わせた時、傷口に呪として動物の悪霊も引っ付かせていたからだ。カエルの霊を、憑りつかせた。』
鳥のさえずりも虫のさざめきも聞こえない夜の中で、彼の話は紡がれる。
『その後、左肩にカエルの霊が憑いている事も分からなかった俺は家族と一緒にトライスが上空に潜んでいたフィウミチーノ空港に来航した。
ここでおそらく呪術師の呪の目的が一つ果たされた。空にいたトライスは俺の左肩にあった呪によって、俺がフィウミチーノ空港に到着した事を知ったんだ。トライスは気が触れていた部分もあったから、どこかで俺が来た事を伝えるための方法が必要だったろうから。
そしてお前の作戦を実行するため、トライスは使徒十字の異教の魔術の効果を極度に弱めるという力を阻害する目的で、マヤ神話世界の疑似再現魔術を発動させ、豊穣神フレイの剣を模した霊装でフィウミチーノ空港の破壊活動を開始した。しかしこれは俺をおびき寄せるための罠だった。』
右方のフィアンマにはすでに先の疑問の色がなくなっていた。代わりに、話し手の彼の表情は少しずつ硬く、暗くなってゆく。
『トライスは俺と戦っている間にさまざまな魔術や霊装を行使してきた。ルーンだの、ビーバーの死骸だの、投石機型のブリューナクだの、蔦だの、竜の牙だの、マンジェトだの、蜂だの。聖ジョバンニの異教系空中浮遊魔術の撃墜術式を同時に食らい合わせて落ちたりもして、本当に多すぎて憶えてられないぐらいだった。
それらは全て、マヤ世界観の再現魔術に必要な四つの石柱を配置していたところへ俺を誘導するためだ。なぜなら、マヤ神話世界観の疑似再現魔術が壊されると同時に、俺に途方もなくでかい損傷を負わせる事ができたからだ。
そこで登場するのがカエルだ。』
『カエルがどうした。トライスという男の魔術に必須な動物なのか? ビーバーや蜂がどうのと言っていたが。』
『それらはマヤ世界観には関係ない。いいか、マヤ神話ではチャクやバカブといった敬われている存在が、それぞれ四方から天空を支えているという世界観を持っている。そしてチャクの御使いはカエルなんだ。』
彼の言いたい事が分かってきて、右方のフィアンマは邪悪な笑みを取り戻す。
『俺はマヤ世界観の再現魔術に必要な四本の石柱を壊した。これらの石柱はチャクやバカブの象徴なんだ。それをぶっ壊すって事は世界観を破壊し、チャク達を殺したのと同義にもとれる。そこからチャクの御使いであるカエルの霊を通して、チャクの官吏でもある俺の肉体に甚大な被害の傷を作り出した! 俺もある程度チャクと繋がっている部分があるから、大本が壊れた分身体も消えていく、みたいなものだな。
しかもご丁寧にカエルの悪霊は俺の体の中を引っ掻き回した。おかげでろくに魔力も生成できずにトライスに殺されるところだった。
と、この後はカゼラが助けてくれた事だから、一旦区切ろうか。』
言いたい部分の概略を言って、彼は話に一つの区切りをつける。右方のフィアンマの反応を窺うと、複雑なようでいてその実楽しいと語っている両目が見える。
そしてまた、右方のフィアンマの口が動く。
『肝心なところが分かっていないぞ。俺様が仕組んだという証拠がない。まさかお前の思い込みで全てを片付けるつもりじゃないと思っているぞ。』
想定された通りの質問。彼は左手でズボンのポケットから一枚の小さな黄色い円盤を取り出す。左手の上に乗せて黄色い円盤を回し、円盤の上から透明な袋の中に入った黒、白、赤、黄の四色の石、正確にはそれらの残骸を出現させる。材料は黒曜石や石灰石もあれば、ルビーやトパーズもある。
『こいつが証拠になる。』
その言葉で右方のフィアンマの表情に電撃が走ったような違和感が混ざる。それは一瞬だったが、彼は暗闇の中でもそのわずかな変化を見逃さなかった。
右手で持たれた透明な袋の中身は、オーレンツ=トライスがマヤ神話世界の疑似再現魔術に使用した四つの石柱の残骸である。どれも直立した状態の上方向から衝撃を加えられたように、細長い破片を複数作り出していた。
『トライスも幻覚植物の副作用で狂っていたけれど、フィウミチーノ空港にこの四つの石柱を配置できないわけじゃなかった筈。だがお前はこの四つの石柱をフィウミチーノ空港に配置する役を買って出た。使徒十字のせいでな。
いかにマヤ世界観の再現魔術が使徒十字の異教の魔術の効果を極端に弱める力を阻害するって言っても、マヤ世界観の再現魔術自体が十字教からすれば異教の魔術だ。何の対策もせずに発動したら意味がない。だからある程度ローマという十字教文化圏に馴染ませる必要があった。』
使徒十字。ローマ正教が誇る高位霊装、聖霊十式の一つにも数えられる、巨大な十字架型の霊装。その効果は使用された半径約四キロメートルの範囲において、ありとあらゆる事がローマ正教にとって都合の良い事と認識される事。
どんな幸福でも、それが範囲内である限りにおいて全てがローマ正教によってもたらされたものであると認識される。
どんな不幸でも、それが範囲内である限りにおいて全てがローマ正教によってその程度の不幸で済んだと認識される。
それが世界中で使われれば、世界中がローマ正教にとって都合の良い、ローマ正教徒だけの世界ができ上がるだろう。それ程の効力を秘めた霊装である。
元々は聖ピエトロがローマの土地を訪れ、その死と共にローマを十字教の支配下に置くために使われたと伝えられている。歴史上使われた事はその一回だけだが、強力すぎる効果に恐れを抱いた可能性が一番高い。
そして、このローマの土地ではローマ正教にとって都合の良いように全ての認識を変える、以外にもさらなる効果がもたらされている。
聖ピエトロの遺骸は、当然殉教したこのローマに眠っている。また、このローマにはさまざまな十字教的な神秘のための仕掛けが施されていたり、天使の力が自然と効率よく集められたりする。そうした事が相まって、ローマの使徒十字の効果は認識だけに留まらない。
ありとあらゆる事象、事柄、人物がローマ正教にとって都合の良い過程と結果になる。それがこのローマの地の恐ろしさだった。人間の認識だけではなく、本当の意味で現実にローマ正教の都合の良い事しか起こらない。魔術も例外ではなく、異教の魔術はほぼ完全に効果を失う。これがローマという土地が陥落した事があっても、ローマ正教の管理下にあり続けている理由である。
だが、異教の魔術を使えないといっても、例外は存在する。
『そこでお前は天使の力を四つの石柱に封入したんだ。それも、神の右席であるお前の扱う、超がつくぐらい高純度の天使の力だ。微々たる量でもマヤ世界観の再現魔術をローマという十字教の土地に馴染ませるには充分だった。』
核心に触れた事で、ついに右方のフィアンマの顔が心の底から面白がる笑みに変わっている。
確証を得ると共に、油断をしないよう注意して彼は語る。
『最初におかしいと感じたのは騒ぎを聞きつけて空港にやってきたらしいローマ正教の術者の一人が、一つ目の石柱の近くにいた事だった。なぜそんなトライスの魔術の要となる場所に辿り着けたのかと思って、考えた。
単純に人払いの魔術の理屈と同じだったんだ。人払いの魔術は一般の魔術師にとっては、えーと、Opilaのルーンが有名だったな。あれの原理は風水で言う地脈や龍脈に似た、この世界にある不思議な力の流れを変える事で、無意識に人を寄せ付けなくする魔術だ。
同じように、この世界を満たす不思議な力である天使の力でも人を寄せ付けなくする事もできれば、逆に人を惹きつけさせる事態を起こせるってわけ。今回は四つの石柱に封入された微量ながら超高純度のに惹き寄せられたローマ正教の奇跡再現使える奴や一三騎士団の奴なんかがわんさか石柱周りに集まっていた。カゼラもその一人だったっつー事。ま、カゼラ以外は全員戦いの余波に耐えきれそうもなかったんで空港外に吹っ飛ばしたんだけど。』
それが真相である。右方のフィアンマが石柱に自身の天使の力を封入したため多くのローマ正教徒を吹き飛ばす事態になり、ゆえにこそ彼はビットリオ=カゼラと会えて、オーレンツ=トライスを倒せたのだ。
『石柱を壊すためにわざわざ天使を零落させる、みたいな意味を付加して上から地面に刺すように剣で壊したり、大変だったんだぞ。』
彼は苦労した事を疲れた色をにじませて語った。
天使の力は強力であり、高純度のものならば左方のテッラとの戦いでも使われたように爆発を起こす事も可能だ。左方のテッラの場合、司る神の薬の属性を極端に強くする事で不安定化させ、結果として爆発させていた。
右方のフィアンマが石柱に封入した天使の力は属性が決まっていないものの、純粋に高濃度で危ういものだった。そのため彼はアリーウスの剣とオリーウスの剣という、彼自身でも作れるかどうか分からない程の完成度や希少性、有用性の高い剣を用いる事にした。上から垂直に剣で突く事で、天使を地に張りつけ、零落させるという意味を付与して天使の力による被害をなくした。
これがそういった意味合いを持たないで破壊していたとすれば、微量の天使の力が暴走して周囲に被害が出て、最悪の場合は一時的にローマ周辺で十字教やかつては一緒だったユダヤ教、イスラム教の術式が行えなくなる事もあり得た。
『一応言っとくけど、四つの石柱全てに天使の力が封入されていた事は解析霊装使って解明済み。テッラでない理由はさっきも言った通り異教徒と交渉したり、ましてや協力したりする性格じゃなかった事。また何よりも、フィウミチーノ空港にいるであろう不特定多数のローマ正教徒が万が一にも傷つくような真似はできない性格である事だ。もしかするとテッラが空港に現れたのも、あの少女と関係なくてローマ正教徒を守るためだったのかもな。
それで、トライスのマヤの魔術に協力したって事はカエルの悪霊憑かせやがった呪術師とも接触している筈で、もっとテッラの可能性は低くなる。そして。』
と、彼はビフロストの応用魔術を用いて黒い穴の空間からペットボトルの水を取り出す。聖水でもなく、他の魔術的な物でもない。単なる飲料水だ。喉が渇いたというよりも、長々と話していた事による負担を軽減するためである。
一気に容量の四分の一程度を飲み干し黒い穴の空間に放って、彼は続ける。
『ふう。もう一つの証拠はお前があの病院にいた事だ。』
『俺様がいた事がそんなに嫌だったのか?』
からかいの言葉をかけられて、思わず彼は肯定したくなる。しかしそこは冷静に堪える。
『普通に考えてお前があの病院に来る必要はない。神の右席はローマ正教の最暗部である秘密組織だ。その構成員のお前が公共のところまで出てくる必要はない。それこそテッラの言っていた最奥とかいう場所から出なくてもいい。俺にもテッラにも、あの場所で伝える以外に伝達手段は存在する筈だからだ。なのにお前は出てきた。
理由は、謝罪のためだ。』
右方のフィアンマの表情が硬くなる。彼は見逃さずに畳みかける。
『お前は俺の魔術師としての実力を知っていた。知っていたからこそフィウミチーノ空港にあんな罠を仕掛けた。俺だったらフィウミチーノ空港にいる人々全てを無傷で救い出し、トライスと戦えると踏んだから。
ところがそううまく事は運ばなかった。俺の実力があくまでも魔術的技量にしかなく、経験不足な部分があって状況把握と瞬時の判断に長けているわけじゃなかった事を、お前は知らなかった。俺も、理解してなかった。
そうして負傷者は二人出た。上条刀夜と親船最中、共に日本人だ。それで、二人ともあの病院にいたんだ。俺達がそこで非公式相談会をしたのはリースが待っていたからだけど、お前の場合は負傷した二人が病院で検査を受けていたからだった。
お前は無意識の内でも、申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。だからあの病院に人知れず紛れていて、また冷静な判断ができず、俺達の非公式相談会に途中参加してきた。』
彼はそこで呪術師とオーレンツ=トライスについてを終えた。少しだけ風が出て木がざわめいてきて、周りの木の葉が揺れ動く。
右方のフィアンマは、固まっていた顔の筋肉を緩めた。
『面白いな。なかなかの名推理だが、それだけならばテッラへの関与は否定できる。』
『いや、お前が関わっていないとおかしな事がもう一つある。』
『ほう、まだあるのか。』
右方のフィアンマの発言に、彼は首を縦に振る事で肯定する。
『実はな、俺があのエジプトの脱出防止術式がかかった部屋でテッラと相対した時、こんな事を言っていたんだよ。『要注意と言われていた異教徒。』ってな。』
彼は夜の中でも右方のフィアンマの表情に変化が見える事を逃さない。ゆえに今、眉が不快そうに動いた事も理解できる。
『俺はフィウミチーノ空港までテッラとすれ違った事もないし、第一会っていたんだったら、言われていたなんて表現は使わない。誰かから俺について忠告を受けていたとしか考えられない。
そして俺を魔術師として知っている人物の中で、これまで話してきた条件に当てはまる、つまりテッラに会える立場にいて、そして俺がローマに来る事を事前に把握できるようなのは――お前しかいないんだよ、右方のフィアンマ。』
彼は言い切った。これで少なくとも呪術師とオーレンツ=トライスの事件、左方のテッラの凶行への関わりについてはできる範囲で追い詰めきった。
彼はフィウミチーノ空港を去る時、緑色の髪の毛を一本手に入れた。解析するため霊装で調べてみれば、かつて右方のフィアンマが語っていた神の右席の構成員、すなわち十字教の天使に限りなく近い存在の頭髪だという結論が出た。これで彼はオーレンツ=トライスの石柱には右方のフィアンマが関わっていて、髪の毛を緑色にした理由は気まぐれあるいは情報の攪乱が目的だと推測していた。少女を攫った襲撃者については全く知らない敵の可能性もあるとして、深く考察する事はなかった。
ところが、ビットリオ=カゼラが襲撃者を緑色の礼服を着ていた男だと証言した事で彼に疑惑が浮かんだ。襲撃者の正体が左方のテッラという名前を冠する何者かであり、緑色の髪の毛やオーレンツ=トライスに協力した人物も神の右席である左方のテッラではないか、と考えたという事である。
右方のフィアンマは赤の色には妙に拘っているものの、一方で服装に関してはあまり十字教を直接思わせる服装を好まない気性である。緑色の礼服という出で立ちは彼の腑に落ちなかった。
その後彼はビットリオ=カゼラと共闘し、左方のテッラに立ち向かった事で左方のテッラの性格や思想を知り、いくつかの事件を仕組んだ犯人は右方のフィアンマ以外にあり得ないと決めつけた。
冷たい風が一陣流れていく中で、右方のフィアンマは笑う。
『筋はしっかり通っているな。良いだろう、及第点を与えてやる。
お前の推理通り、俺様が仕掛け人というやつだ。テッラにあの根城を紹介したのも俺様だ。』
『案外にあっさりと認めるんだな。なら、テッラにカゼラをぶつけるのまで計算の内だったりするのか?』
『そこまではやっていないな。そもそもカゼラという奴は実力でバチカン住みになったようだぞ。おそらくはリースを次期教皇に担ぎたい派閥が、カゼラの能力と誠実さに目を付けて、ゆくゆくは教皇お付きの書記官にしたかったんじゃないか? もっとも、あれは一三騎士団がお似合いだろう。敬虔で堅物ながら、ローマ正教によって相容れない筈のお前を認めているような、矛盾したところがある。ローマ教皇の隣に置いておけん。
ともかく、カゼラに関しては何もしていない。テッラを焚きつけるのにはトライスの奴隷も使わせて貰ったがな。』
『な、何だと!? 説明しろ!』
激昂して両手にある円盤や石柱の破片の袋を握り締める彼を愉快そうに眺めながら、右方のフィアンマは彼の注文のままに答える。
『簡単な話だよ。左方のテッラという男は俺様が動くよりも異教徒が自らの過ちに気付き、改宗したい、洗礼を受けさせて欲しいと嘆願させる光景の方が効いたというだけの事だ。
その役のためにトライスの奴隷を使わせて貰い、上手い具合に演出できた。元々異教徒には複雑な感情とやらを持っていたんだ、気持ち悪いぐらい奮起してくれた。』
吐き気を覚える程ではないが、それでも彼に卑しいモノを見ている状態に似た気分が起こる。理解していた筈の相手の性格だが、簡単に下劣な行動を起こした事に強烈な嫌悪感を持たざるを得ない。
『じゃあ、お前に利用された人々はどこにいるのか分かるか?』
『知らないな。テッラを煽った後はどこかへ勝手に消えていた。』
彼は右方のフィアンマの回答に悪態をつきたくなる。せめて手がかりを掴みたいと願っていた気持ちが踏みにじられた気分である。
今にも怒りを叫びそうな彼の心情に、右方のフィアンマは用向きを済ませる事にする。
『この話はもう良いだろう。そろそろ俺様の用事を済まさせて貰おう。』
『……何だよ。早く言え。』
『神の右席に入れ。』
一秒間、彼の思考が止まる。
唐突だった。その上予想だにしない言葉だった。また少しだけ夜風が二人の人外の魔術師の肌を撫でても、彼は何とも思えない程だ。
右方のフィアンマは彼の反応に少しは満足できたようすで続ける。
『今回の件で完全に分かった。お前は神の右席に入るだけの実力があり、また資格も持ち合わせている。どこでも好きな名前をくれてやろう。『前方のヴェント』でも『後方のアックア』でも、あるいは『左方のテッラ』でも構わん。何なら『右方のフィアンマ』もお前に明け渡してやる。不服なら新しく役を作ってやっても良い。』
正気の発言でないと感じるべき台詞を、彼は正気の沙汰でしかないと思ってしまう。改めて右方のフィアンマの異常性、異端さを衝撃的に理解させられる。
(何が狙い、とかじゃない。こいつは神の右席でも異端なんだ!)
神の右席はローマ正教非公認の組織だが、長い歴史を持つ。その歴史の中で慣習や不文律もできている。
右方のフィアンマはその一切を無視した。異端でさえ扱いきれない例外にして異常な人物。
それが右方のフィアンマという男。
『悪い条件ではない筈だ。お前は以前から世界を救おうとする姿勢があった。今回のローマ旅行も世界を見守り見回るためだと簡単に予想がつく。何とも無駄の多い行動だがな。
そして神の右席ならばそんな無駄などしなくとも、世界の救済という夢見がちな目的の達成も不可能ではない。何せ神の右に位置する場所に到達する、右隣の天使になる事で世界を救わんとするのが神の右席なのだから。』
右方のフィアンマの目に、蛇の如き鋭さが宿る。
『それに、世界の救済なんて事は、歪みを正す事で達成されるのかもしれないぞ。』
『歪み?』
『なぜお前の円盤は黄色い?』
たじろいたように彼は身を震わせる。右方のフィアンマは彼の左手にある円盤を見やりながら、より一層場の空気を支配下に置き始める。
『十字教において円盤は土の象徴武器だ。そして土の象徴色は緑色だな。だからテッラも左と土を司る天使神の薬に対応する者として、緑の装束に身を包んでいた。
だがお前の円盤はどうだ、黄色い。おかしいな、お前程の魔術師がなぜ、風の属性の象徴色である黄色で、土の属性の象徴武器である円盤を染めている? そんな間違いをするわけがないのに。』
(こいつ、知っているのか!?)
右方のフィアンマは彼を詰問した。しかしそこには愉快という感情しかない。いるだけで周りの緑を赤で塗り潰す男は、確実に喜びを感じている。
反対に彼の方には疑念しかない。彼自身考えていて、理解者や協力者が欲しいと思っていた事に関して、思いもよらぬところから話を出された。信じたい気持ちになるが、それでも相手が相手である事を忘れず、じっと立ち続けている。
『さらに言えば、お前の右手にある石柱、俺様が天使の力を封入したわけではない。』
『本当か?』
『本当だとも。俺様が使徒十字の効果を受けないようにする細工を施そうとしたのは事実だ。しかしそれをする前に、それらの石柱に俺様が扱う程高純度な天使の力が入ってしまったんだ。自動でだぞ。
流石にこの俺様も驚いたもんだ。神の如き者の力を使う俺様の力が、たとえわずかでも勝手に漏れたんだからな。』
右方のフィアンマは危険性を理解している。その上で自身の発言を楽しんでいる。彼に楽しむ余裕がない事を知っていて、ゆえに彼を言葉で締め上げていく。
実は右方のフィアンマの言葉だけが彼を苦しめているわけではない事に語り手は気付かずに、右方のフィアンマは精神的な痛点を刺して苦しめていく。
そしてまた、ふと思い至ったようすで彼に質問をする。
『そういえばお前、なぜ右手を使わなかった?』
(げ!?)
核心を突かれた。
右手。それは彼にとって、今最も触れて欲しくない事柄である。左方のテッラとの戦いで一度は咄嗟の判断から右手を向けたが、その事は簡易ながらも反省して自身の課題と認識している。
その、どうしても触れて欲しくない事に、右方のフィアンマは言及した。
『お前程の魔術師でも、テッラに対してあの浄化の力を使わなかった筈がない。テッラも相当の力を持った奴だ、使わなければ確実な勝利を望めない。だが、使ったのならテッラもその事について俺様に反応がある筈だ。上条当麻の存在を教えたのは俺様だが、神聖なる浄化作用についてはわざと伏せてやったんだから。ならば、なぜ……待てよ?』
右方のフィアンマは独り言のように呟き、ある事に気が付いた。彼の額に一滴分の汗が浮き出る。同時に、怒りの片鱗も。
『使わなかったのではなく、使えなかったのか? 未だ不完全なのは分かり切っていたが、出力に関しても行える時と行えない時がある、という事か。
なるほど、なるほど、なるほど。』
察しの良い者が放つ、冷たい微笑みである。彼の心を凍てつかせる程ではないが、それでも不気味さで警戒心を強くさせるには事欠かない笑い方である。
『全く、どこまでも俺様達は似ているんだな。右に神聖なる力を宿している事も、それが不完全すぎるところも! ラッキーデイだな今日は! それを知れた事が何よりのラッキーだ!』
場違いな歓喜の声がイタリアの自然保護区の一角を満たした。右方のフィアンマの姿が月光を浴び、その異様さを際立たせる。
『……ちくしょう。』
品のない言葉を吐いた彼からすれば、右方のフィアンマの光景は耐え難い事である。知られたくない事を、たった一つの間違いとすら呼べない事から理解されてしまったためである。
彼は右手を確認する。変化霊装を着る事で成長した、五歳程度の子供の手には見えない大きな手だ。神聖な気配はどこにもなく、黄色人種の肌色を晒している。
そして右方のフィアンマはその右手に神聖なる浄化作用が付属していて、しかもそれが使えないと言った。彼が最も指摘して欲しくない部分だというのにもかかわらず。
ここまで土足で人の心の中を蹂躙する行為に、彼も苦しみと苛立ちを募らせる。
右方のフィアンマはそんな彼の顔を読み取ったのか、素直に謝る。
『これはすまない。俺様の力も人の事を言えたような代物じゃないからな、不快にさせた事は謝ろう。』
傲慢な言葉の多い右方のフィアンマにしては珍しく、殊勝な態度と表現できる。
彼もその態度に感情をいくつか心の中に押し込める。その次に来た右方のフィアンマの話を聞く体勢に入り、それを理解した右方のフィアンマはゆっくりとした口調で開始する。
『だが、本当に、どうしようもなく歪んでいる。先に言った二つといい、俺様やお前の右といい、この巨大な歪みはかなりのところまで影響を及ぼしているようだ。歪みを正すためには限りない努力が必要になる。常人では方法も手段も分からない事だ。
しかし俺様は、神の右席は違う。先の見えない努力や準備をしなければならないとしても、確実に実行できるようにする。それだけの力が、ある。』
右方のフィアンマは月に向かってその右腕を伸ばし、握る。度の強い酒よりも悪酔いさせられそうな、魅力的で人を惹きつける言葉と動作だった。
そして右方のフィアンマが同類にして唯一同格、あるいは格上だと認めた彼に向かって、願う。
『さて、少々性急に過ぎるが、返事を聞かせてくれ。』
燃えるような赤と深遠を思わせる闇に彩られた、怪しき右方のフィアンマに返答を迫られた彼は、苦しみや怒りを息と共に深く深く吸い込んで、返答する。
『お断りだ。』
『……理由を聞こうか。』
少しだけ落ち着いた雰囲気になり、右方のフィアンマは彼に断りのわけを問う。
彼も真剣に応じる。
『俺は特定の組織に入りたくない。少なくとも魔術側に関しては、自由に戦える立場にいたい。』
『お前程の強力な魔術の使い手がか? 責任逃れだとは思わないのか?』
辛辣な意見だった。夜のローマの寒さよりも耐え難いと感じて、彼はなおも真っ直ぐに伝える。
『俺はまだやらなきゃならない事がある。責任はそれが終わった後に全て果たすさ。それに、あの事もある。』
『あの事?』
右方のフィアンマは苛立ちを隠そうともしなかった。
『結構前に学園都市に侵入したんだ。その時の話。』
『それがどうかしたのか。科学側の総本山である学園都市に憧れでも抱いたというのなら、第二のアレイスター=クロウリーの誕生だな。』
『はは、そっちの方がまだマシだったかもしんねえ。』
乾燥した声に、右方のフィアンマも軽口を閉じて彼を観察する。
『お前にだから話すよ。
今回の事件で、トライスの暴挙やテッラの純粋すぎる思い込みを『闇』と形容できるなら。
『闇』は学園都市にも存在する。それを確かめに侵入して、確定してしまった事実さ。』
彼は夜の暗闇を何とも思わずに、闇を語る。
『幼い子供達に、下らねえ『闇』が災厄を振り撒く。正直、魔術側の『闇』を知っていなかったら嘔吐してたかもしれない。そのぐらいには性質の悪い『闇』が、学園都市にも巣食っている。
そんな『闇』が誰かを傷つけ、殺そうとするなら、俺は学園都市であっても立ち向かう。』
右方のフィアンマは、はっとして小規模の剣幕を作る。
『上条、お前は学園都市に超能力開発を受けに行く気か!? 本気で、魔術も神秘も捨てると!?』
彼の表情から、右方のフィアンマは見当違いの答えを導き出してしまった。彼はほんの少し笑い顔を作って否定する。
『違う違う、科学には科学のやり方があるってだけだ。それを知ったからな、魔術師としてじゃなく科学側の人間として学園都市の『闇』に刃向かうつもりだ。
勿論これまでと同じように魔術師として魔術側の『闇』とも戦う。どっちも両立させてやる。だから神の右席には参入できないんだ。学園都市に潜り込むには、その肩書きはちょっと重たい荷物になってしまうから。』
『ふ、ざけるなよ!!』
今日初めて右方のフィアンマは憤りを見せる。否定してくる右方のフィアンマに、彼も理解を示せるし、思いも汲み取れる。
オカルトと科学は相容れない。今でこそ超能力は科学の分野に入っているが、その前までは眉唾物として空想上の事だと考えられてきた。同じようにオカルトも科学の手法で証明されるまではあり得ないものとして扱われる。
しかし、本質はそこにはない。
実は魔術側と科学側はある協定を結んでいる。魔術側の代表組織は十字教の中でも周りに被害を及ぼす魔術師を倒す事に特化したとされるイギリス清教。科学側の代表組織は世界最先端の科学技術を有する学園都市。
この二つの組織の長が取り決めた協定こそ、オカルトと科学が相容れない本当の理由である。
その内容とは、魔術は魔術、科学は科学、それぞれの領分を侵す事なくするというものだ。
背景には、先程右方のフィアンマが話した当時最大の魔術師であるアレイスター=クロウリーが魔術を捨てて科学に走った事、一〇年程前に魔術と超能力両方を扱える人間を生み出そうという計画がイギリス清教と学園都市の間で秘密裏に行われた際、被験者であった超能力開発を受けた人物が魔術を使用すると身体を傷つける事が発覚した事などがある。
この協定によって今日まで世界がオカルト対科学という世界大戦を迎えておらず、表面上の平和が保たれている。
『ま、いろいろと面倒なのは覚悟している。その上でやらせて貰う。協定違反なんて関係ない、俺はどんな『闇』をも打ち砕いて手を伸ばす。科学には科学で叩けば良い。魔術やお前らの奇跡の再現なら同じような力で壊せば良い。幸い、傷を治す術式なんて世界中で事欠かない。超能力開発を受けても魔術行使自体はできる筈だ。』
『お前は、社会に反する行為を肯定するのか? 非公式に結ばれた協定だが、これまでどれだけ魔術と科学の両方に貢献してきたか、分からない筈がない。』
『お前がそんな事言うとはなー。
俺の言ってる『闇』が、そもそも社会に反する行為をしているんだっての。そいつらに傷つけられようとしている無辜の人々を助ける事が犯罪だってか?
そんなふうに認識する社会こそ反社会的だよ。そんな社会があるなら改善するよう努力する。協定が人を傷つけ陥れようとする『闇』になるなら、当然協定もぶっ潰す。』
静かに、決意を語った。
彼もまた魔術師である。魔術というオカルトに手を出すだけの思いが、想いがある。どこまでも自分勝手で、規則や法律を破る事になっても、彼は行う。本物の危険人物である。しかも、魔術師の腕は世界的にも上位に位置する。いつ何時暗殺され抹殺されても文句が言えないような、そんな人間が上条当麻なのだ。
人を助けるために、何をしてでも。そのための被害を最小限に食い止めて、その後の補填まで行って。
絶対に肯定されるわけでもない、独りよがりのままに、人を助けるという子供の我が儘を通す。
誰かを助ける事は当たり前だ。確かにそれはそうだろう。
それをできる人間はほんの一握りであり、よって行える人間を尊ぶ。
だが、それを魔術的で暴力的な手段で押し通す事が美徳になるだろうか。社会として未成熟だからといって、その社会の中で手続きを無視して人々を助ける事が正しいとは言えない筈である。彼の考えは異常で危険だ。
以前よりも誰も傷つかず、死なない、幸せを手に入れる機会が平等に来るような、そんな甘美で理想的で。
十字教に存在する世界の終末よりも、科学的に解明されたいくつかの宇宙の死よりも。
圧倒的に、おぞましい世界。
『そう、か。お前は、俺様の元には、来ないか。』
恐怖に感じ入っていた後の、妙に間隔を感じさせる話し方で、右方のフィアンマは呟いた。
『残念だけど、そういう事だ。だけど、もしもお前が助けて欲しいのなら、遠慮も恥もいらない、俺を呼んでくれ。』
透明な袋の口を持った右手の親指で自身を指して、混じり気のない言葉を伝えた。右方のフィアンマは少しだけ呆けた後、それまでの怒りを鎮める。
『では、その時は使い倒すとするか。骨の粉まで使ってやろう。』
『言い方酷くないか!?』
『ならば今ここでお前を倒そうか? 今の言葉でも分かったがな、不穏分子は早急に消すのが定石というものだろ。』
その瞬間、彼らのいる一帯に不可視の重圧がかかる。
隠喩ではない。右方のフィアンマが天使の力を大量に操り、その場に溜めこんでいる。天使の力の濃度が上がった事で、息が詰まるような圧力がかかっているという事である。
だが。
彼は全くそれを気にも留めず、ただ聞く。
『この場で戦うのか?』
『それでも俺様は構わない。二度の戦いに関しては負けを認めたが、今回もそうなるとは思うなよ。』
冷酷な声音を聞いて、彼の目の色も変わる。魔力を魔術用に精製し、左手で小さな黄色い円盤をポケットに戻して、右手で黒い穴の空間に石柱の残骸を入れた袋を投げ入れる。
そして、代わりの品を引き抜く。
それだけで彼の周りに存在した天使の力の二割が薙ぎ払われた。
引き抜かれた物体は、想像し難い程の巨大さを持つ棍棒である。先端には八つの突起が存在し、印象に凶悪さを加えている。
『それは十字教の武器じゃないな。良いのか、俺様は十字教で説明可能な力しか使わんぞ。』
『お前みたいな怪物級の魔術師に出し惜しみできるわけあるかっての。第一、お前の力を十字教だけで語っていいものかどうか。』
言い合い、二人の魔術師は、一歩だけ前に進み出る。
彼が出した巨大な棍棒を両手持ちにして、右方のフィアンマは赤く彩られた右腕を指揮棒の如く持ち上げる。
『さあ、始める――』
右方のフィアンマの言葉はそこで途切れた。
彼の顔が、筋肉の収縮をやめてある一点に視線を集中させていたためである。小さく口を開けて、唖然としている。
次に右方のフィアンマも気が付く。その背後に邪悪で強大な何かが、いる。
壊れたビデオテープの再生よりは早く、その首を回して背後の何かを見る。
そこには。
『……オーレンツ、トライス……?』
死人が立っていた。
死んでいた筈のオーレンツ=トライスは、生前と全く同じ姿をしている。緑の背景には浮いてしまう灰色がかった黒いローブを全身に纏い、右手にはルーン文字の刻まれた六メートルはある巨大な剣が収まっている。まるで、巨大な魔剣よりも持ち主の方が強大であるかのように、収まっているのだ。
死人はもう周りの空間を歪ませる事もなく、一般人と変わらぬ赤い唇で朗々と話し出す。
『一日ぶりだな、上条当麻。そして、右方のフィアンマ。』
オーレンツ=トライスの使う、欧州の言語だった。そこには幻覚植物により狂わされた精神の気配がない。彼がフィウミチーノ空港で出会った時の発音や韻の踏み方のおかしな口調は見られなかった。
無言の右方のフィアンマを差し置き、彼は狼狽えながらもオーレンツ=トライスに買わせた言語で捲し立てる。
『どう、やって。どうやって生き返った!? 吸血鬼に噛まれたか、仙人になる秘薬を手に入れたのか、アンブロシアでも食べたのか!? トライス、お前……!?』
不老不死の研究は彼も行っているが、しかし不完全だったり不透明な部分もまだまだ多い。
それを一足飛びで行った可能性のあるオーレンツ=トライスを見て、彼は慌てた。
『そう怯えるなよ。お前らにも分かるよう話してあげようじゃないか。』
本心から笑いながら、オーレンツ=トライスは口を動かす。
が。
『生きてくれていたんだな、トライス……!!』
彼はその光景に対して、喜んでいる。
昨日フィウミチーノ空港をほぼ全壊させた極悪人だとしても、彼は生存を喜べる人間だ。先程の狼狽もその延長線上にある喜ばしい事に対する反応でしかない。
しかしそれは異様にしか見えなかった。これにも右方のフィアンマは夢を見ているような目つきで彼を見ている。
オーレンツ=トライスの場合は想定していた反応とは全く違う事にやや不機嫌になりながら、彼の呟きを無視して話を始める。
『俺は上条に負け続けていた。何か飛躍的に自身の力を引き上げなければ、このまま惨めに敗北を重ねるだけだと、悟った。
そこで安直に考えたのがその時手元にあった幻覚植物だ。幻覚植物を使えば精神的な破滅、および肉体的な破滅と引き換えに魔術行使の速度が格段に上がり、魔力も莫大な量になる。
だがそれでは意味がない。』
右方のフィアンマは訝しげにしながらも、その話を興味深く聞いている。反対に彼は生存の事実に嬉しさを感じ、同時にその内容で悲痛な表情で聞かざるを得ない。
その両者の違いにようやく楽しむ表情を見せて、オーレンツ=トライスは言葉を紡ぐ。
『俺自身が破滅するのでは駄目なんだよ。自身の力を段違いに引き上げなきゃいけないのに、使う俺が狂ったら元も子もない。暴走して野垂れ死にだ。だからどうにか破滅の部分だけ取り除けないかと考えた。ま、直接的にはできないという結論に達したよ。おかげでこんな回り道をさせられた。』
フレイの魔剣を片手で軽々と持ち上げ、闇の中で薄く発光するフレイの魔剣を見上げる。
『回り道とは何だ。』
右方のフィアンマが聞いた。珍しい事に、イタリア標準語ではなくオーレンツ=トライスの使う言語だ。
『幻覚植物に目を付けるよりも前に、フレイの魔剣を霊装として作りたかった。上条と戦うためには強力な武器が必要だからな。だけど、ただ作ったんじゃ面白みがない。何か特異な付与ができないかと考えた。正攻法じゃどうやっても上条を殺せないんでな。
そこでだ、幻覚植物の副作用はまず精神に表れる事から、精神をどこか別な、例えばフレイの魔剣に逃がしてやればいいと気が付いた。そのためにアレイスター=クロウリーの作り出した魔術理論体系magickを研究し、精神であるアストラル体をこのフレイの魔剣に封じ込める機能を追加する事を思いついたんだ。』
黒いローブを風で揺らしながら、オーレンツ=トライスは歪みなく話していく。
アストラル体とは、基本的には精神の事を指す。魔術的には魂や心に定説がない事も相まってアストラル体という言葉の定義は難しいものの、精神という答えは魔術師世界の一般に広く認められ得るものだ。
そのアストラル体に関してはアレイスター=クロウリー自身が生まれ変わる前の姿とした魔術師が提唱したとされている。そのため、アレイスター=クロウリーが生み出したmagickという魔術理論体系にアストラル体に関する事が組み込まれている部分もいくつか存在する。
『幻覚植物にその身を染める前にフレイの魔剣を作製し、俺のアストラル体を移した。そこで俺は幻覚植物を使用した、という事さ。
だがそれだけでうまくいくわけじゃなかった。俺が一度死んだ後じゃないと意味がないんだ。一度死体となった、生命力の生成量や魔術を繰る能力だけは飛び抜けた俺の体に再びアストラル体を入り込ませる必要があった。
特に生命力に関してはいろいろと面倒だったなぁ。死体でもちゃんと生命力が循環できるように工夫しなきゃならなかった。おかげで切り裂かれてもくっつける事には問題なかっただろ?
フィアンマとかいうの、本当に感謝してるよ。俺を殺してくれてさ! 実験も大成功で、こうしてまた上条を殺せる機会を与えてくれたんだ、特別に殺さないでやるよ。』
傲慢な物言いだった。元々オーレンツ=トライスは自身の力量を把握しているにもかかわらず相手を見下すおかしな部分が存在したが、右方のフィアンマに対してまで同じ事が言えるとは、彼にも予想外である。
案の定、右方のフィアンマも辛口に返事をする。
『ふん、お前程度が俺様を殺すだと? 思い上がりだな、上条と戦う前に実験の成果も試せないで消えたいとは、自殺志願者の気持ちは分からんな。』
『何とでもほざいていろ。勝手に攻撃して貰って結構だ。俺は上条を自分の手で殺せればそれでいい。』
オーレンツ=トライスは最早右方のフィアンマを見ておらず、視線の先には彼しかいない。彼も右手にある巨大な棍棒を手前に持って来て、迎撃の態勢を整えている。
オーレンツ=トライスは空間の歪みよりも醜い微笑みを浮かべる。
『莫大な魔力と術式の組み立ての高速化、二つの恩恵を存分に使うだけでもなかなか様になる。』
瞬間、世界が揺れた。
フレイの魔剣が、一層その身を魔力で強化し、禍々しく光る。その変化はただの魔術ではない。
『豊穣神の、剣!?』
彼の驚きに、オーレンツ=トライスは喜びの色を一層濃くする。
彼も右方のフィアンマも驚愕している。
豊穣神の剣とは、結局はフレイの剣と同様である。北欧神話では珍しく銘の入っていない武具のため、持ち主のフレイという名前やフレイの豊穣神という特性からフレイの剣、豊穣神の剣と呼ばれる。また魔術にも大きく関わっているため、フレイの魔剣とも呼称される。
だが彼の呟きで出てきた豊穣神の剣は、その元となったフレイの剣を魔術として再現したものを指している。それだけならば大それた事ではない。
しかし。
『霊装としてのフレイの魔剣に、魔術としての豊穣神の剣を重ねる。初めての試みだったけど、掛け合わせでここまで桁違いの出力になるとは思わなかった。単純に二倍でも二乗でもないぞ、素晴らしいなこの方式は!
ハハハハハッ!!』
霊装とはこの世界に存在していて、確実さのある魔術的、神秘的な記号を埋め込まれた物だ。物質で作られており、その能力と効果を発揮しなければ何も起こさない物品も数多い。
つまりは魔術や奇跡の再現を行使する際に使用する物品の中で、それ以外の用途がない専用の物という事である。
対して魔術はこの世界の物質で形作られているとは言わない事が多い。空気や水を媒介とする魔術や奇跡の再現も存在するが、空気や水を霊装とは言わない。そこに魔術的な記号を見出す事が可能であっても、普通は霊装以外の物として扱うためである。
そういった意味では魔術的、神秘的な意味合いの度合いが薄ければ霊装ではない、度合いが高ければ霊装という分類になる、と説明する事も可能だ。
そして単なる霊装としてのフレイの魔剣でも、単なる魔術としての豊穣神の剣でも、威力は高が知れている。限界値としてはまだ先を望めるという事である。
しかし、霊装として魔術的に運用しているフレイの魔剣に、重ね合わせるように豊穣神の剣という魔術を発生させれば。
同じ伝承から模倣して使われる二つは相乗効果を発揮して、本当の意味で特出した威力を発揮するのだ。それこそ例えるならば本物の神話に出てくる程の出力である。使徒十字の効力さえ軽々と弾き返す。
風さえ吹く事もなくなった夜の自然保護区で、オーレンツ=トライスの持つフレイの剣はその存在を猛々しく誇示している。
『さあ、殺してやろう上条当麻! 早く俺に殺されろ!!』
ケダモノの如く吠えた。オーレンツ=トライスの目は光も闇も含まない。あるのはただの狂気だけ。
彼は身震いする。一度死んででも殺そうとする程の狂気を自身に向けられている事に、純粋に寒気と恐怖を感じている。歪んだ魔術師の歪みに晒され、その中で彼は必死に思考を巡らせる。
(トライスはまだ、一つ話していない事がある。どれだけ体内にある生命力の流れを保存したところで、一度死んだ身に再び精神を戻しても、それだけじゃ元のように肉体を動かす事なんてできない筈だ。まだ、何か残っている。トライスの決定的な切り札にして、隠しておきたい弱点が!)
『ハ、ハハ。俺様も踊らされていたとは。しかもどうやら、このままだと無粋な人間になりそうだ。』
全力で考えていた彼の耳に、そんな言葉が届いた。彼はオーレンツ=トライスよりも手前にいた右方のフィアンマを見やる。右方のフィアンマはオーレンツ=トライスに背を向け、彼の方に歩いてくる。
『俺様は退いてやろう。怪物同士、存分に殺し合え。』
その一言で、右方のフィアンマは退散しようとする。
そこに。
『待ってくれ。』
彼のイタリア標準語の言葉が待ったをかけた。
『何だ、加勢が欲しいのか。生憎だが、神の右席を拒んだお前を助けてやる程の義理はないんだがな。』
『分かってる。俺を助けて欲しいんじゃない。』
『何だと?』
彼は右方のフィアンマを見ておらず、威圧感を放ち彼を食らいかかろうと構えているオーレンツ=トライスに視線を注いでいる。それでも右方のフィアンマは彼の話に付き合う事にする。
『俺は今から全力でトライスを止める。勿論勝つつもりだ。だけど万が一の可能性もある。』
『だから何だ。はっきり言え。』
『最大限の努力をする。それでも俺がトライスに負けて殺された時、目的を果たしたトライスがどう出るか分からない。もしかすると、この辺り一帯を、ローマを破壊するかもしれない。』
それは十分に考えられる事である。魔術師には大なり小なり魔術師となって生きていく目的がある。オーレンツ=トライスの場合は彼を殺す事にある。そんなオーレンツ=トライスが、仮に彼を殺すという魔術師としての目的を達成すればどうなるか。
彼や右方のフィアンマでさえ驚愕するような力を持った、人を傷つける事を何とも思わない邪悪な人間が、そのまま平和的に去るとは考え辛い。むしろ行き場を失った圧倒的な暴力は近くにある物全てを破壊しようとすると予想した方が、遥かに納得がいく。
『もし、俺が負けるような事態が起こって、オーレンツの暴走が何かを壊そうとしてしまったら。』
巨大な棍棒の持ち手を握り直して、伝える。
『フィアンマ、お前にこのローマを守って欲しい。』
右方のフィアンマは小さくとも瞼を持ち上げる。
『俺様に、それを頼むのか? お前と敵対し、殺し合おうとしたこの俺様に。』
彼は力強く頷く。右方のフィアンマのそんな下らない思いを砕くために。
オーレンツ=トライスという脅威から目を逸らしてでも、右方のフィアンマの方を向く。
『お前だから、頼めるんだ。俺と一番長い付き合いで、俺よりも世界を救いたいと想っているお前にだからこそなんだ。
いや、そんな事がなくったって俺は右方のフィアンマって男を信じてる。……断っておいてあれだけど、神の右席への誘いも、実は嬉しかったんだぜ。』
偽りなどどこにもない、真心の言葉だった。笑って言える程に、彼にとっては誇らしい想いだった。
ローマには彼の大切な人々が多く滞在している。マタイ=リースも、ビットリオ=カゼラも、あの少女も、左方のテッラも。
そして彼を大切に想ってくれている、大切な両親もいる。
そんな大切な人々を、右方のフィアンマならば守り切れると彼は判断したのだ。その心には一点の曇りもない。彼は心の底から右方のフィアンマを信頼し、選択した。
右方のフィアンマは面食らったような、あどけなさを感じさせる表情を一瞬だけ見せて、またあの掴みどころのない余裕の表情へと戻る。
『本当、お前は面白いな。異常かと思えば、誰よりも純真なところもある。』
『聞くと恥ずかしくなる感想はやめてくれ。返事を聞かせて欲しいんだよ、こっちは。』
右方のフィアンマは少しだけ笑って返答する。
『確約しよう。お前が敗北した場合、トライスという魔術師の蛮行は俺様が叩きのめす。この事は貸しにしておこう。』
『ん、ありがとう。』
右方のフィアンマはもう一歩だけ前へ出て、彼の背中を超える。
『だが、無様に負けるなよ。』
『ああ、当然そのつもりだ。』
あり方の違う二人の魔術師は言葉と想いを交わし、終える。
右方のフィアンマは彼の返しを聞いた後、すぐにその場から消え去る。その速さに内心舌を巻きつつ、彼は表情から笑みを消してオーレンツ=トライスに顔を向ける。
邪悪な魔術師は彼の目を知って頬を歪ませる。
『お涙頂戴のお別れは終わったみたいだな。どうだ、遺言でも託せたかい?』
軽そうに、どうでも良さそうに、オーレンツ=トライスは話しかけてくる。
フレイの剣で右方のフィアンマが集めた天使の力もなくなった事を理解し、彼は言う。
『何でだ?』
『は?』
『なぜ、こんなになっちまったんだ。トライス、お前こんなすげえ力を持ってるじゃないか。フィアンマが驚くぐらいとんでもない魔術や霊装を使えて、どうしてそんなにまで俺を殺す事に執着する?
下らないだろ、そんなの。そこまでの力があって、何で、どうしてその力を傷つける事にしか使わねえんだよ! それだけの力があれば、たくさんの人達を助けられて、皆から尊敬され、認められる立派な魔術師にだってなれる! なのに、俺なんかを殺す事にどこまでも執念を燃やしちまうんだよ!
俺を殺す事なんか、本当にどうでも良い事だろうか!!』
それが彼の思っている本心の思いだった。心の底から意味も価値もない事に囚われていると思っていた。強力な力を持っているのに、人を救うどころか傷つけ、あまつさえ殺そうとするそのオーレンツ=トライスの姿勢が彼に大嫌いと思わせている。
それを伝えてられて、オーレンツ=トライスは。
『……下らない? どうでも良い? ハ、ハハハハハ。
ふざけるなっ!!』
彼の棍棒が、押し戻されそうになる。言葉に篭った強い怨念と怒りが、彼の身体に衝撃を与えた。
暗く冷たいその場所で、オーレンツ=トライスは憤怒の感情を前面に出して、激怒する。
『お前があの時俺を止めていなければ、俺はこんなふうにならずに済んだ! お前という越えられない壁を意識する事もなく、ただの魔術師でいられた!
ああそうだ、俺は三流の魔術師だったさ。どれだけ小細工が得意でも、お前がいなければこんな途方もない力を扱う機会なんてなかった。
だからどうした!? ただの木っ端の三流魔術師でも、お前なんぞに関わらずに済んだのに! 死ぬ事もなく、そんな覚悟もせずに、こんな力を手に入れずに生きれたのに! お前の言うように、お前を殺すために人生をふいにするなんて下らなくてどうでも良い事を選択せずに済んだんだ!
お前のせいで俺の人生はご破算だ! お前が元凶なんだ! 全部悪いんだよ、どうしてくれるんだ、ああ!?』
一方的で自分勝手な言葉だった。自分の悪い部分も顧みない、下劣な想いだった。フオーレンツ=トライスが持つフレイの剣という業物の現象ですら霞んでしまう程だった。物理的な、魔術的な歪みよりも、遥かに惨たらしい。
それが、彼が今の話で得られた、オーレンツ=トライスが抱く上条当麻への全てだった。
聞いた彼には、重すぎた。
『う、』
泣きたい。へたり込みたい。恥も外聞もなく、絶叫して弱音を吐きたい。
『ウウ、』
それが彼の率直で素直な感情だ。彼は魔術師として相当の腕前を持つとはいえ、まだ小学生にすらなっていない子供である。先程のオーレンツ=トライスの直接的で彼のみを悪いとする言い分は堪えた。左方のテッラが語った殺人の理由の方が、間違ってはいても優しさがあった分、ずっと受け止めやすかった。
『ウウ、グ。』
それでも、彼は決して泣く事も泣き言も行わず、目の前の『闇』を見る。
『グ、ウ、ウウウ。
……トライス、お前の幻想は、ここで完全に消し飛ばず!!』
絞り出すように、彼は宣告する。頬を伝う筈だった滴さえ、戦いの血へと変えてまで。
『ならばやってみせろ、俺を狂わせた元凶おおおおおオオオオォォォォオ!!』
対するオーレンツ=トライスも、幼稚すぎる身勝手な想いを言葉にして叫ぶ。フレイの剣の出力を一段と上げて、暗闇の中で恐ろしい光を放つ。
二人の魔術師は、互いに向かって、緑の草を踏み潰すように走り出す。人間が持つには不似合いな棍棒と魔剣を、当然と振り回して。
『ぐおおおおおオオオオオおおおオオおおオオオ!!!』
優しく気高き人外の魔術師と、邪悪で狂おしく歪んだ人外の如き魔術師は、夜の闇の世界さえ咆哮によって破り捨てながら再び交差し、そして――……
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