「ネギさんはいますか?」
リムから報告を受け取った翌日、午前中最後の講義を受け終えた教室の中に張りのある声が響いた。
その声の主は紛れもなくルヴィアであるが、尋ね人はその声に気付くことなく一冊の本に視線を落としていた。
私が呼びかけたのに気付かないなんて、そんな感じで少し文句を言ってやろうと思ったが、その本が気になり、静かに近寄って本の題名を覗き込んでみた。
『初級魔法理論の勧め』
6〜7歳くらいの生徒であれば読んでいても何らおかしいとは感じない書物だが、それを読んでいるのはネギ。禁術相当の魔法を使える程の術者だ。
少しばかり違和感を覚えながらも、彼でも基礎を確認することがあるのだろうと思い直した瞬間、その書物のカバーがブレたような気がした。
「あれ、ルヴィアさん。どうしたんですか?」
が、再び確認する前にネギに声を掛けられたため、その感覚は空虚の中へと流れていくこととなる。
「あ、いえ……ネギさんに尋ねたいことがありますの」
卒業を目の前にしたルヴィアが、わざわざネギのもとを訪れて尋ねようとしている。魔法実技にしろ、魔法理論にしろ、普通の生徒であれば逆の立場になるはずの構図。
「それは、今ここで話せる内容?」
「えぇ、それは大丈夫ですわ。……近頃、何か違和感を感じるのですが……ネギさんなら何か分かっているのではないかと思いまして」
「違和感?」
ネギは左手を顎にあてて最近のことを思い返してみる。
昨夜、リムに報告を受けてから周囲への警戒度を上げているが、自分が感じたことは報告にあった魔力の高まりだけ。
もしかしたらルヴィアもそれを感じ取ったのかもいれないが、それは集中していなければ知覚することすら叶わない程度。
正直、いくら魔法の才能が溢れているとしても、12歳……魔法使い"見習い"レベルを抜け出していないルヴィアでは感じることはできないはずだ。
「ええ。なんと言いますか、その違和感は……ああ!先程、ネギさんが手に持っていたその本に同じような感覚がしましたわ」
「……これ?」
「はい」
それは、ネギがこの教室に来ても肌身離さず手に持っていたもの。赤と茶色の中間の色のカバーに、3cm程あろうかという厚み。一見なんの変哲のない本だ。
「どんな違和感だったのか聞きたいけど、この本は暇つぶしに読んでる普通の教本だよ?」
「暇つぶし程度でしたら、どうして私が先程声を掛けたときにすぐ反応してくれなかったんですか?」
「……呼んだの?」
「ええ」
一拍間が空き、次に口から出てきたのは小さな溜め息だった。
その様子にまたしても癇癪を起こしそうになる自分を見つけだしたルヴィアは、それを自覚した瞬間、頬がほんのりと赤くなっていくような気がした。
「おめでとう、ルヴィアさん」
「え、どういたしまして?」
「これに違和感を感じたんだったらルヴィアさんの実力は順調に伸びて行ってるよ」
どこか感心したように、それでいて疲れを滲ませたような瞳を向けられた。ネギに誉められたことを正直に嬉しいと感じれば良いのか。それとも、どこに疲れを感じる要素があったのかと問いただすべきか。
ルヴィアが選んだのは、少しでも話を進めた方がいいと訴えてくる三番目の選択肢だった。
「で、どういうことなんですか」
「これはね、普通じゃ分からない程度の『認識阻害』が掛かってるんだ」
「『認識阻害』ですか?」
鸚鵡のように言葉を繰り返しつつ、自分が抱いている『認識阻害』の魔法を思い返してみる。
魔法を扱う人間ならば誰にでも修得できる、否、修得しなければならない魔法だ。これは魔女狩りが行われてきた時代から発展に発展を重ねた基本的な魔法で、一般人が多くいる中で魔法使いだとバレないために使われる。
"これは魔法なんかではない、魔法と言う超常的な現象があるわけがない"
"所謂普遍的な事象で、普通に生活をしている自分には関係の無いものだ"
大凡の認識阻害魔法にはこう言った概念が付与されており、麻帆良学園全体を覆うように張られている結界もこういったものである。
「ですが、『認識阻害』は結界のものしか思い浮かばないんですが」
「本当にそう思う?文明の利器を嫌う学者がいたとしたら、自分の研究内容を隠そうと思ったときに、真っ先に思い浮かぶ場所は?」
「……それが、『認識阻害』という訳ですか」
「そう。確かに結界じゃない魔法はポピュラーじゃないし、魔法使いが相手だと効きづらいこともある。けど、熟練した魔法使いや基礎に忠実な魔法使いであれば、こんな感じで"個別"のものに魔法を掛けることもできるし、ちょっとした先入観を生かして効果を十全に発揮することだってできる」
"敵わない"
今の話を聞いて真っ先に頭の中に思い浮かんだ言葉だった。周りで楽しそうに話をして笑い合ってる子たちとは一回りも二回りも、もしかしたらこの学校の講師よりもずば抜けた"何か"を持っているのではないだろうか。
気付くと、その本人から声を掛けられていた。
「どうしたの?」
「……いえ、なんでもありませんわ。それで、認識させないとするほどの本とは、一体どのようなものなんですか」
「……えっとねぇ」
なにやら言い難そうに言葉を濁し始めた。視線も、獲物を追いかけ水中を泳ぎ回る魚のように泳いでいる。
……いつだったか、前にこのようなネギの姿を見たことがあったような気がする。そう思い、自分の記憶を辿っていくと、確かに同じように視線を逸らして言い淀んでいたネギの姿を思い出した。そう……あれは、ネギが禁術を使って弁解をしていた時だ。
「……まさかっ!?」
「あ、分かっちゃった?」
この学校が取り扱っている教材は初級魔法に関する論述がされてあるのが一般的であり、全校生徒が同じことを習うので教材のカバーも同じ色となる。その色は淡い紺色で固定されているのだが、中級以上の魔法が載ってある書物というのは、魔法の属性の系統にしたがっていることが多い。たとえば、『雷』であれば黄色だし、『氷』であれば濃い水色であったり。
では、さっき自分が目にした本のカバーの色は?
「ほんの一瞬でしたけど、あれは確かに『黒』でしたわ。……ネギさん、貴方はどこからこれを持って来たのですか?」
『黒』……この色を聞いた人は、大体が『闇』系統か『影』系統の魔法の論述がされているのではないかという想像をするのではないだろうか。
実際この考えは合っているが、これはほんの一部のことにしか当てはまらない。
と言うのは、『闇』と『影』系統の魔法を表しているものがこの学校にある魔導書の大半であることは間違いないが、昔の学者などは禁術相当のものや、自分で研究した結果を記すのに用いられた色の大半が黒だ。この学校の生徒が使うものが指定された色を使っているだけで、学者などは色の区別をしていないものが多く、上級魔法の術式が載っていたり、古代魔法の理論が書かれている。ちなみに、前にネギが使った幻覚魔法は黒色の魔導書に記されてあった。
「ははは……『黒』がそこら辺の人が持ってると思う?勿論、書庫からちょいと拝借してきたに決まってるじゃないですか」
「そんなに誇らしげに言わないだください……」
少し背中を逸らして誇らしげに胸を張るネギ。または、これを開き直りとも言うが、そんなネギに付き合うことになった私の事も考えて下さい。
そんな思いを籠めてネギを見やったが、それはルヴィアの想像通り軽く逸らされるのだった。
◇ ◇ ◇
意識を集中する。
文字にするのは簡単だが、一体どれだけの人が自分の意識を集中すると言うのが大変であり、かつ大事なことだと理解しているだろうか。
普通に生活をしている人がいきなり集中しようとしたところで、どれだけ集中し続けることができるだろうか。
集中するということは、意識──関心・態度・自覚、または目や耳などの感覚器官──の全てを一つの物に集めると言うことだ。
日々平穏を過ごしているだけでは会得することが難しい完全な"集中"を、ネイルはごく自然に、まるで息をするのと同義であるかのように扱っていた。
「……」
自分の身が、この部屋に溶け込むように自身の魔力を馴染ませていく。
校長用に作られた座り心地の良い椅子に深く腰を下ろしているが、精神はまるで宙を漂うかのように。
魔力の高まりが多いという報告を受けてから、仕事を終わらせてから何か異変が起きていないか、自分を中心とした魔力感知の感覚を広げていた。何か事が起きた時にすぐに動けるように、魔力を媒介に送ることができる念話の術式を紙に書き記して、校長室の入口から死角になり、かつすぐ手の届く場所に貼ってあった。
緊急時でも、魔力を籠めるだけで発動できるようにとネイルによって考慮されたものだ。
校外で魔力の高まりが起きた場所へすぐに人員を向かわせることができるようになった。……しかし、その結果に芳しいものが上がっていないことは、未だ身を削って位置特定に勤しんでいるネイルの姿から想像できるだろう。
今日だけでも幾つか報告があがっていることもあり、集中が続かなくなってきたネイルはそろそろ休憩を挟もうかと自分の肩を揉み解そうとした。
そのとき、魔力の波が揺らいだ。
「む……?」
主に校舎の外に注意を払っていたネイルだが、まさか校舎の中で魔力の高まりが検出されるとは思ってもなかった。つい、念話の術式に魔力を籠めそうになってしまったのを止め、校舎内ということで"遠見"の魔法で現場を覗いてみることにした。
学校に多々いる魔法使いにその存在を露見することなく潜り込むことができる者なら、この学校の魔法使いの中で何人そのものに敵うことができるのか……確かに人海戦術で捕まえることはできるだろうが、それではどれだけの人員を犠牲にすることになるのか想像できなかった。
が、いざ"遠見"の魔法を介して目の前に広がった光景には、驚愕を隠すことはできなかった。
「な、何故そこにおるのじゃ……ネギ」
そこでは、自慢の孫であるネギが、得体の知れない何かと対峙していた。
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