第18話




 部屋を沈黙が支配していた。
 映像があまりにも常識はずれで、誰も彼も、脳内で情報を処理するのに時間がかかったのだ。

 既に悠陽の機動について、ある程度情報を持っていたからか、あるいは衛士ではなく司令官であったからショックが少なかったのか。議論の口火を切ったのは、ロンメルであった。

「さて……。諸君には、先のBETA戦闘における、煌武院お嬢様の戦闘映像を見てもらったわけだが……。諸君らの評価を聞きたい」

 そう言って、会議場を見渡した。
 参加しているのは、第12大隊の生き残り28人、東条少佐、悠陽、神野などである。東条は本来、戦術機戦闘には詳しくないのであるが、ロンメルのささやかな意趣返しとして、参加を求められたのであった。

 誰も反応しないのを見たロンメルは、

「東条少佐。同じ日本人である貴官の忌憚ない意見を聞きたい」
 と東条を直接指名した。明らかに、楽しんでいる。

 困ったのが、東条である。
 彼に言わせれば、悠陽の機動は常識ハズレもいいところであり、悠陽が一般兵であったら、即座に対BETA戦闘の補習を命じていたところだ。それも、みっちりと。

 だが、不幸にして悠陽は煌武院家の次期当主であり、迂闊なことは言えない。彼としても、彼女に擦り寄っておけば、将来少しはいい思いができるのではないか、という打算もある。特に、初対面の印象が最悪であっただけに、ここでこれ以上彼女の心象を損ねるようなことはしたくない。

 苦悩の末に彼が出した結論は、意外なことにハマーンや悠陽と同じであった。

「ハッ。煌武院大佐の巧みな戦術機操作の数々、この東条士郎感嘆の極みにございます。特に、乱数回避プログラムすら起動せずに、空中にて無数のレーザー照射を回避した手腕、余人には到底真似の出来ぬ操縦の極地。なれども、余人が習得できぬ一個人限りの操縦技法は、戦術の前提とすることは相成りません。誠に遺憾ながら、戦術は標準的な戦闘技能を有した衛士を前提として組み立てるべきものでありますゆえ」

 そう述べて、東条は着席する。

――ほう。青白いヒヨコかと思いきや、存外きちんと理解しているな。

 ハマーンが意外だ、という口調でつぶやく。

 そう。東条の議論は正論だ。
 どれほどハマーンの戦闘技術が優れていようが、他の人が誰もマネできないようでは、意味はない。一人のエースでは、局地戦闘を勝利に導くことはできても、戦争そのものを有利に導くことなどできないからだ。エースは、士気高揚のために盛んに祭り上げられるが、一個人でできることなど、高が知れている。

 ハマーンの操縦方法について無闇に賞賛したり、逆に非常識だと非難したりするのではなく、戦術論への影響という観点から考察できている東条を、ハマーンと悠陽は少しだけ見直したのであった。ほんの少しだけ、だが。

 東条の主張に同意する声が、第12大隊からも上がる。彼らも、ハマーンの戦闘映像には衝撃を受けたし、空中はともかく、地上での操作からは得られるものもあったと考えている。だが、空中飛行は無理だ。悠陽は、どうやら完全に勘だけでレーザーを回避しているようだが、そんなことは彼女にしか出来ない。真偽の定かでない噂として、ソ連ではリーディング能力者が戦術機を操縦しているというが、彼女らをもってしてもできるかどうか、という領域だ。

 すごいとは思うが、空中機動については得られるものはない。これが第12大隊の総意であった。

 だが、悠陽やハマーンがこの戦闘映像を見せた意図は別のところにあった。そして、ロンメルも悠陽の意図を支持していた。

「たしかに、私の空中機動は曲芸の領域で、戦術機操作教典に載せられるようなモノではありません」
会議室のテーブルに腰をおろす軍人たちを見回しながら、悠陽が発言する。

「ですが、短時間の空中跳躍を利用した三次元機動は、決して非現実的なものではありません。現に、このような操縦法は、斯衛第25大隊では全員習得しております。これは、元来はハイヴ攻略戦を念頭に置いたものですが、レーザー級が闊歩する地上戦闘においても使用可能です」

 三次元機動。

 言わずと知れた、白銀武発案の画期的な戦術機操縦法だ。かつての世界において、戦術機訓練を受けていた悠陽は、当然、この操縦法にも習熟していた。XM3というこの機動に適したOSは開発できなかったが、XM3なしでも十分に有効なものである。特に、マグネット・コーティングや姿勢制御用モーター、新CPUなどによって、かつての世界よりも平均して5割程度反応速度や運動性能が強化されている、この世界の戦術機を用いれば……。

 この三次元機動とて、本来は非常識なものだ。だが、ハマーンの信じられないような空中機動を見て、ショックを受けていた会議参加者たちには、これは「普通」であるように見えてしまった。これなら自分たちもできる。現に、1個大隊全員がマスターしているというではないか。ならば、訓練次第でなんとかなる、と。

 本来ならば、変態扱いされかねないような型破りの操縦法なのだが、それ以前に見せられたモノがその遥か上を行くものであったために、「変態的機動」がせいぜいのところ「革新的機動」にしか感じられなくなっていたのだった。

 この言わばショック作戦によって、三次元機動の有用性を広く知らしめる。これが、ハマーンの戦闘映像を最初に見せた悠陽の意図であった。

 そして、このショック作戦は、最も頑固な「常識人」東条少佐その人の発言によって、その効果のほどを明らかにした。

「素晴らしい操縦法です、煌武院大佐。これは、対BETA戦術に革新的影響を及ぼすことでしょう。早速、参謀本部に報告を送り、入念に戦術シミュレータで演習するよう提言いたします。実戦証明を経たということですが、実戦は所詮偶然が作用するもの。徹底的なシミュレーションによって完璧な理論を構築することこそ、参謀たる我々の使命であります。この演習を元に新戦術機戦闘理論が出来上がりましたら、『軍事学雑誌』に投稿いたしますが、その際の共著者として、もちろん、煌武院大佐の名を挙げさせていただきます」

 東条の予想以上に好意的な反応に少し驚いていた悠陽であったが、最後の一言は完全に彼女の不意を衝いた。二度の人生を経て、表情を繕うことに長けた彼女であったが、思わず引き攣った表情のまま絶句したのだった。後に、神野からこの話を聞いた雷電は、東条少佐最大の武勲だ、と大笑いしたという。そして、そのときの孫の顔を見たかった、写真すら撮らないとは神野も気が効かない、と自由行動時間を利用して訓練校から戻ってきた唯依にこぼすのであった。

 結局、東条の見解が会議の総意となり、翌日から第12大隊は新戦術機操作法習得に励むことになった。

「煌武院大佐、申し訳ありませんでした」

 会議室から退出しようとした悠陽であったが、突然呼び止められた。

 振り向けば、そこにはイルマ・テスレフ、村上竜也、ターヤ・コルピの三人。
 呼び止めたのは、どうやらイルマのようだ。

「最初にお会いしたときに、大変失礼なことを申し上げてしまって……」

 なおも謝ろうとする三人に対して、悠陽は気にする必要はありません、と受け流した。
 彼女からすれば、年齢ゆえに軽視されるだろうことは最初から理解していた。
 日本と違い、彼女に向けられる視線は極めて単純なものであった。すなわち、使えるかどうか。今や、彼女は戦場において、自らが 使える人間であることを証明したのである。基地の人間の視線が変化したのは、当然のことであった。

「明日には、神野が第12大隊の方々に、三次元機動のブリーフィングを行う予定です。そのときは、皆さんよろしくお願いしますね」
 悠陽は、なおも恐縮する彼らに向かって、別れ際にそう告げた。




 相変わらず、武家の正装は動きにくい。髪の毛をまとめている簪の重いこと。
 そんなことを考えながら、悠陽は、スウェーデン国王グスタフ8世に拝謁していた。
 本来ならば、斯衛の軍装でいいはずなのであるが、今回は政威大将軍の名代として、斉御司殿下の親書を手渡すという任務がある。斯衛軍の一大佐としてではなく、五摂家筆頭の次期当主として謁見するのである。
 和装といっても、振袖のような所謂「和服」ではなく、公家の正装である十二単でもなく、男性の直衣に近い形状のもの。五摂家の色である青で染められている。

「遠路ご苦労であった、ミス・コーブイン。日本帝国の政威大将軍殿下の親書、確かに受取った」

 悠陽に、そう告げるグスタフ8世。62歳と初老でありながら、BETAに国土の半分を奪い取られたことへの心労ゆえか、やつれているように見える。すでに、国民の半分近くはBETAとの戦闘に兵士として参加したり、予期せぬBETAの侵出に巻き込まれたりして帰らぬ人となったという。

 ストックホルム自体、二度もBETAの侵攻にさらされ、市街も半壊した。その爪痕は今なお生々しい。そうした中にあって、グスタフ8世は、首相や側近たちの助言を断り、ストックホルムにとどまったという。斯衛と違って、実戦をあまり想定していなかった親衛隊を引き連れて、彼は前線兵士を慰問し、士気を大いに高めた。

 更に、BETAがストックホルム最終防衛線を突破し、市内に流入すると、姪のジグマリオン公爵ビルギッタが率いる親衛隊を戦線に投入。国連軍と共同で、なんとかBETAを押しとどめることに成功した。

 それゆえ、スウェーデン国民の信望は極めて厚い。
 そのグスタフ8世の衰えを見ながら、かつての自分を見ているようだ、と悠陽は思う。勿論、日本の政威大将軍と異なり、スウェーデンの国王は純粋に象徴的存在。主権は国民にあり、行政権は首相が握っている。それでも、国家の象徴として、自分にできる限りのことをしようと姿勢には、共感を覚える。

「先日のスンツヴァル防衛戦でも、スウェーデンのために戦ってくれたと聞く。スウェーデン国民に代わって礼を言いたい。貴女に感謝を、ミス・コーブイン」

「BETAに対処するのに国も人種も関係ありません、陛下。たまたま近くに私が居合わせ、そして私にはBETAを倒すだけの武力がありました。ただ、それだけのことでございます」

 名高いスウェーデン産の来賓用の椅子はさすがの座り心地ですが、この和装との違和感は筆舌に尽くしがたいものがありますね、などと考えながら、悠陽はにこやかにグスタフに返答する。

「そう言ってもらえると、ありがたい……。ああ、ここに控えているのが、私の姪で親衛隊長のビルギッタだ。ミス・コーブインと同じく、自ら戦術機に乗ってBETAと戦っておる」

 そう言って、自分の後ろに直立するビルギッタを紹介するグスタフ。
 プラチナブロンドの髪をストレートに伸ばした、典型的な北欧美人である。アイス・ブルーの瞳が、冷たい北欧の水を思わせる。身長は恐らく180cm近くあろうか、女性にしては身長が高いともいえるが、スタイルは見事である。第一次及び第二次ストックホルム防衛戦で、戦闘に不慣れな親衛隊を率いて、絶大な戦果を上げた英雄であり、その容姿から「極北の妖精」と呼ばれているらしい。こちらを見て、優しい笑みを浮かべているその容姿は、到底30歳とは思えない。

 謁見自体は恙無く終わり、夜の晩餐会に是非とも参加するように、という有難くない招待をもらって退出した。悠陽に興味を持ったのか、それとも老王の気遣いか、ビルギッタが宮殿の庭園を案内してくれることになった。

 庭園へと抜ける通路を歩いていると、ビルギッタが話しかけてきた。
「その髪飾り、重くないのかしら、ミス・コーブイン?」

 やはり、初めて見る五摂家の和装が奇異に移るらしい。

「勿論、重いです。ですが、貴婦人が優雅に着こなすというドレスのコルセットから比べれば、物の数ではないかと……」

「そうね……。あれは本当に苦しいわ。最近、私も昔のドレスが着づらくなってね……。コルセットで腹部を締め付けるのだけれど、あれでは晩餐会の料理なんて味わっていられないわ」

 お互い、社交儀礼には精通している。まずは服装を話題にしつつ、相手の反応を探りながら話を広げていく。それが、会話の作法というもの。

「公爵閣下のように、細身の方でもそうなのですか?」
「ビルギッタでいいわ。その代わり、私もユーヒと呼んでいいかしら?」
「よろこんで」

 お爺さま以外の方に悠陽と呼ばれるのは、白銀以来ではないか、そう思う悠陽であった。純粋に外交典礼に則れば、公爵位にあって現国王の姪にあたるビルギッタのほうが、五摂家とはいえ次期当主にすぎない悠陽よりは目上に当たるが、そのビルギッタのほうからファースト・ネームで呼び合おうと提案されたのである。悠陽に反対はなかった。

「ユーヒ。今日の晩餐会もその衣装でくるの?」

「そのつもりでおります。ドレスも一応持ってきてはいるのですが、締め付けがきつくて折角の晩餐が楽しめなくては勿体無いですから」

「それもそうね。その日本衣装を着たユーヒ、とても綺麗よ。宮殿には東洋の陶磁器や絵画を飾った「中国の間」や「日本の間」もあるのだけれど、「日本の間」にある綺麗な人形そっくり。きっと、ドレスよりもその衣装のほうが、貴女には似合うわ」

 いかに悠陽が美少女とはいえ、まだ9歳。幼女体型では、コルセットで無理矢理腰を締め付けてクビレを演出したところで高が知れている。

 大体、過去の将軍としての経験から、和装のほうがまだしも慣れているし、ドレスよりはこの衣装を選びたい。そう思う悠陽であった。

「ありがとうございます。ビルギッタはやはりドレスで?」
「そのつもりよ。晩餐会といっても、非公式なものだから、そこまで気にしなくてもいいのだけれど……。彼が来るからね。ちょっと頑張らないと……」
「彼、ですか」

 誰か意中の人が来るのだろうか、と思う悠陽。それに対して、ビルギッタは少し驚いたような顔をした。
「あら、聞いていないかしら。先のスンツヴァル防衛のお礼として、陛下はロンメル将軍と第12大隊の方々を招待したの。国軍からも、防衛戦に参加した将校が何人か来るわ」
「そうですか……。ということは、彼というのはもしや……」
「ええ、ヨアヒムのことよ」

 ロンメルとビルギッタが並ぶシーンを想像して、悠陽はあまりにも不釣合いなカップルだと思った。ロンメルの指揮能力は卓越していると思うが、あのふてぶてしい不良軍人と、一々作法が様になっている美人とが連れ添う姿が想像できないのである。

 結局、ビルギッタから、ロンメルの素晴らしさと、男としての甲斐性のなさに関する説明を受けた後、一度基地に戻って小休憩をとった悠陽であった。



 これだから、王宮晩餐会は嫌なんだ、とロンメルは思う。
 晩餐会は恙無く終わり、今や招待客は、室内管弦楽団の演奏を聞きながら、カクテルやワインを片手に、自由気ままに動き回り、談笑している。そうした中にあって、両脇をがっちりと固められていて、自由に動き回ることができない数少ない人物の一人が、ロンメルであった。

 左隣には、自分と同じくらいの身長のビルギッタが控えていて、彼の左腕をしっかりと抱きかかえている。右隣には、ビルギッタ同様スウェーデン人のアニタ・エクルンド少佐が、これまた彼の右腕をがっしりと抱えて、ビルギッタに対してトゲトゲしい視線を送っている。

 アニタは、スウェーデン国軍第15戦術機甲大隊長であり、しばしばロンメルの作戦のもと、対BETA戦闘に出動していた。年は20代後半であろうか、赤味がかった金髪を肩まで垂らした、小柄な女性である。濡れたエメラルド・グリーンの瞳は、生き生きとしていて、見るものに強い印象を与える。顔の造形自体は、可愛らしいといった程度だが、彼女の内面から滲み出る生き生きとした表情は、非常に魅力的であり、彼女に恋心を抱く将兵も多いという。

 要するに、ビルギッタにしろアニタにしろ、不精なロンメルには勿体無いくらいの素晴らしい女性である。そして、この二人の美人は、ロンメルを挟んでお互いに視線でジャブを交し合っているのである。

 当然、パーティーの花二人を連れ去れてしまった他の男たちは面白くない。ロンメルに突き刺さる男の嫉妬は凄まじいものがあった。
 ロンメルとて、男である。彼女たちが好意を寄せてくれるのは嬉しいし、素直に寝室まで同行してしまいたいとも思う。だが、同時に、彼には恐怖もあった。彼女たちは、二人とも衛士であり、自ら戦術機を駆って第一線で活躍することを誇りとしている。ゆえに、死亡する確率も、指揮官であるロンメルよりも格段に高い。もし、肌を重ねて、彼女たち相手に本気になってしまったら、彼女たちが散ったとき、自分は再起不能なまでにダメージを受けるのではないか。そんなことを考えているために、どうしても一線を越えられないロンメルであった。

 ちなみに、そんな彼の内面を鋭く察した悠陽は、白銀を思い出して、どうして自分の周りの英雄にはヘタレが多いのだろうか、と嘆息する。本来、英雄色を好むというくらい、英雄とは手が早いはずなのに、と。

 アニタにしろ、ビルギッタにしろ、単純に恋愛感情ゆえにロンメルに付き纏っているわけではない。勿論、彼女たちもロンメルを慕ってはいたが、同時にひどく政治的な問題も絡んでいた。ロンメルは、ドイツ人であり、ドイツ連邦軍から国連軍への出向という形で北極海方面国連第3軍司令という地位についている。言い換えれば、彼とスウェーデンとを結び付けているのは、国連安保理の薄っぺらい命令書一枚であり、安保理の命令次第では、明日にも別の戦線に転任する可能性があるのである。そして、ロンメル抜きで切り抜けられるほど、北欧戦線は甘くない。そういう事態を避けるためにも、文字通り体を張って彼を北欧に繋ぎ止めておきたい。これが、彼女たちの意図であった。

 和装を珍しがって話しかけてくる欧州人たちに如才なく対応しながら、悠陽は見るとはなしに三角関係の修羅場を肴にワインを楽しんでいた。未成年だから、などと野暮なことを言うものは、ここにはいない。もはや、人類が二度と生産することはできないであろう、ボルドー産である。ワイングラスをゆっくりと傾けていると、話しかけてくるものがいた。

「大佐、ここ、よろしいですか」
「どうぞ」
 横を見ると、イルマが同じくワイングラス片手に歩み寄ってきた。

「テスレフ少尉、今晩は私は斯衛軍大佐としてではなく、煌武院家の次期当主としてきております。ですから、無理に堅苦しい言葉で話さなくても大丈夫ですよ。この場は悠陽と呼んでください。私も、イルマと呼びますわ」

 さすがに9歳の身体では、アルコールの周りが早い。久しぶりに美味しいワインを飲めたからか、上機嫌で悠陽はテスレフに告げる。

「わかったわ、悠陽。この間はごめんなさいね」

「その話はもう終わったはずですよ、イルマ。折角美味しいワインを飲んでいるのです、つまらないことは忘れましょう」

 そう言いながら、空のワイングラスをウェイターにあずけ、新たなグラスを取る悠陽。
 しばらく沈黙していた後、思い切って、という感じでイルマが話しを切り出した。
「悠陽も知っているかもしれないけれど、私、フィンランドのロヴァニエミの生まれなの。今では、ハイヴがあるせいで、世界的に有名になってしまったけれど、昔は何もない小さな都市だったのよ」
「……」

「BETAが侵攻してきたとき、父は志願してカレリア戦線に行って、戻ってこなかったわ。私は、母や妹と一緒に故郷を逃げ出して、なんとかストックホルムまで来たわ。そして、国連軍の衛士速習訓練校にはいって、簡単な訓練を受けた後、2年前からこの基地に勤務しているの」

「そう……」
「私ね……。いつの日か、かならずBETAから故郷を取り戻して、ロヴァニエミに父の墓を立てて、母や妹と一緒に暮らしたい。それが夢なの」

 ワインを飲んで、イルマは一息いれる。

「でもね。貴女も、この基地の現状を見たからわかるでしょうけれど、ここはBETAの侵攻を食い止めるので精一杯で、とても反撃なんて考えられるような状況ではないわ。誰もがわかっているの。ロンメル司令がどれほど有能であっても、このまま兵力を少しづつ減らしていったら、いつかはストックホルム基地は落ちるって。どこの国も、今は手一杯で北欧に兵力を派遣してくれるところなんてほとんどないわ」

 あ、日本の今回の援軍は本当に嬉しかったのよ、と彼女は付け足す。貴女たちがいなかったら、私たちは間違いなく死んでいたでしょうしね、と。

「私ね……。もうG弾でしか、フィンランドを取り戻せないと思うのよ。最近、戦術機の性能向上は目覚しいけれど、それでも現状維持で一杯一杯。反撃するには、G弾みたいな圧倒的な武器がどうしても必要になるわ。大隊のみんなはG弾は地球を破壊しすぎるから使うべきじゃないって言うけれど。仮に、もう二度とロヴァニエミに住めなくなるとしても、G弾によって、フィンランドのほかの地域がBETAから解放されるのなら、使うべきだと私は思う」

 一気にそう語って、イルマは口をつぐんだ。
 誰かに自分の意見を聞いてほしかったのだろう。ヨーロッパではほとんどの人が反G弾派であり、彼女の意見を頭から拒否するか、まじめに話しを聴こうとさえしなかったのかもしれない。

 だが、イルマの主張は真実の一側面を捉えている、と悠陽は思う。
 一般に、G弾派はアメリカやオーストラリアのような後方国家が中心であり、ヨーロッパやアジア諸国などのBETAに占領された国の生き残りや、前線国家は、G弾使用に反対である、と言われている。

 確かに、少しでも通常兵力によって国土を奪還できる可能性があるのなら、自分の故国にG弾を使いたいとは誰も思わないだろう。でも、ほとんどの戦線で、今のところ、BETA支配地域を解放できる見込みはない。それならば、たとえG弾で国土の半分が消失しようとも、残り半分を奪還するために、敢えてG弾使用も厭わないと思う人々がヨーロッパやアジアから出てきても不思議ではない。

 イルマは、そういう人の一人なのであろう。
 自分とて、オルタネイティヴ4を知らなければ、止む無くG弾使用に賛成したかもしれない、とも思う。

 各種技術開発によって、アジア戦線はかなり粘り強く持ち堪えているため、日本はBETAの脅威から遠い。そのため、BETAとの戦闘の悲惨さを、どこかで脳の片隅に追いやってしまっていたのではないか。この疑念を完全には払拭できない悠陽であった。

 そもそも、肝心のオルタネイティヴ4にしたって、佐渡ハイヴ攻略の折、G弾20発相当の爆発によって、佐渡は完全に消滅、新潟から能登半島にかけて大規模な津波に見舞われたのである。それを考えれば、国土を無傷で奪還するということが、如何に難しいかよくわかる。

 同時に、悠陽はイルマに代表される前線兵士たちの心の磨耗を感じ取っていた。彼らは、もはや希望を見出せないほどに追い詰められているのである。彼らに再び、精神を支える希望を与えるためにも、何としても通常兵力によるハイヴ攻略成功は必要だ、と決意を新たにする悠陽であった。

「ねえ、イルマ。G弾によって、本当に地球上からBETAを一層できるというのなら、私もG弾運用に反対しないかもしれない。でも、実際はそう甘くはないでしょう。なんといっても、G元素は、BETAが自ら作り出したもの。高確率で、G元素の作用を中和する元素を作り出すことでしょう。日本では、G弾は数回使用しただけで、BETAによって無効化されるだろうと計算しています」

 だから、G弾がどれほど魅力的に見えようと、賛成できないのです、と悠陽は続ける。
 イルマは、彼女にとっての頼みの綱であったG弾すら、BETA殲滅の決定的な一手になりえない、と聞いてショックを受けたかのように、黙り込んでしまった。

 この世界は、中途半端な技術革新などよりも、小さな希望が必要なのかもしれない、と悠陽は思う。パンドラが開けた災厄の箱ですら、最後には希望が残ったと言われている。しかし、この世界では、箱が開けられて大分たつというのに、未だに希望が生まれていない。

 ならば、と悠陽は思う。自分が希望を産む母になろう、と。



 時は1993年春。人類の命運を決めるスワラージ作戦の半年前のことであった。

 北欧の人々は、スンツヴァル防衛戦によって、しばらく時間を稼ぐことができた、と感じていた。
 しかし、BETAは、スカンジナヴィアに束の間の休息を与えることさえ拒んだようであった。
 悠陽が帰国に向けた準備を始めていた1993年夏に、BETAが再度南下を開始したのである。地表を移動する集団だけで、二個師団規模。前回同様、別働集団がいた場合、総勢6個師団規模になる大攻勢である。
 スカンジナヴィアは再び戦の時を迎えようとしていた。



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