「千冬姉っ、救護隊はまだなのか!!?
血が止まらない!シンの意識が戻らないんだ!!
千冬姉、どうすればいい!?千冬姉!!?」
『お、織斑くん落ち着いて下さい!!今織斑先生が
救護隊を率いてそちらへ向かっています!
だから、だからそれまで…………』
……誰かの声が聞こえる。
でもどういうわけか俺の意識は混濁していて、誰が誰だか
判別できない。
俺はボンヤリする頭を何とか揺り起こして耳をすませる。
一人は男の声で、随分慌てているようだけど、その声には
溢れんばかりの悔しさが滲んでいて。
それでいて今にも泣き出しそうに震えていて。
実に様々な感情が入り混じっていた。
一方どこか機械的にも聞こえる女性の声。
いや、もしかしたら何かしらの通信機器を通して声が
聞こえているからそう感じるのかもしれない。
彼女は努めて平静に話すようにしているみたいだけど、
その声は思いっきり涙声だ。
そんなんじゃ、余計に相手を不安にさせちまうぞ?
……というか、うるさいな。
人がせっかく心地良い眠気に身を委ねようとしていたのに。
と、今度は別の誰かの声が頭上から降ってくる。
どうやら声からして、女の子のようだ。しかも二人。
「シンさん、起きて下さいまし!!さきほどおっしゃっていた
ではないですか!?
『誰一人死なずに、傷つかずに、この戦闘を乗り切る』と!!
それなのにそれを言った当人が死ぬだなんて、私許しませんわ!!
だから、だから………!
死なないで下さい………。私は、近しい人の死に目に会うのは、
もう嫌ですわ……………」
片方の女の子は透き通るような声をしゃくらせて、最後の方は
悲しそうに呟いた。
だけどその呟きにはただの悲しみだけじゃない、もっと悲痛な
何かが含まれているように感じた。
「私のせいだ………。私を庇ったりしなければ、シンはこんなことには
ならなかったはずなのに…………。
私が、軽率に奴に突っ込んだりしたから………。
ごめん、シン……………。
ごめん………ごめん…………!」
もう一人の女の子は、ひたすら誰かに………って、
シンは俺のことか。
俺に向かって懺悔の言葉を繰り返し呟いていた。
まるで壊れたテープレコーダーのように。
でも彼女が俺に謝らなければいけないことなんて、何かあったか?
どうもさっきまでの記憶があやふやではっきりしない。
そういえばさっきから体中がやけに熱いというか、寒いというか……。
でもって少し痛みがあるものの、それ以上に暖かくて、そして
だるくて……………。
記憶が曖昧なことと、何か関係があるのだろうか?
何てことを朦朧とする意識の中考えていると、ふいに頬にポツポツと
何やら暖かいものが当たるのを感じた。
それは頬をつうっと伝って零れていく。
その間にそれは熱を奪われて冷たくなって、それが火照った顔に
気持ちの良い清涼感を与えてくれて。
その気持ち良さにまるで自分のものではなくなってしまったかのような
体に、ほんの少しだけ力が戻る。
その力を振り絞って、俺はまるでセメントで固めたように開かない瞼を、
僅かにこじ開けた。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」
そこには俺の顔を見つめながら大粒の涙を流す女の子がいた。
その均整の取れた顔を悲しそうに歪めて、チャームポイントである
ポニーテールを振り乱して。
おいおい、何をそんなに泣いてるんだよ?
お前の最大の魅力の凛とした雰囲気も、鋭くてそれでいて優しい
光を宿す瞳も、何もかもが台無しじゃないかよ?
それに、お前は「アイツ」のことが好きなんだろ?
だったら別の男の前で、そんな涙見せるなよ。
もし俺以外の男なら、絶対勘違いしちまうところだぞ?
と、彼女は俺が目を開けたことに気付いたらしく、顔をさらに
近づけて「何か」を叫んでいた。
…………あれ?おかしいな?
さっきまで他の声は聞こえていたのに、彼女の声が、全く聞こえない。
だけどその口の動きを見れば、何を言っているのかは分かる。
……ったく、アスカアスカって、何をそんなに必死になって叫んでるんだか。
とりあえず、俺は彼女に泣くのを止めるようにだけは伝える。
彼女は俺のことをいつも心配してくれて、毎夜うなされる俺の世話を
してくれた恩人だ。
そんな彼女の涙なんて、俺は一滴たりとも見たくはなかった。
だから何でか分からないけどろくに動かない口を根性で動かして、伝える。
でも結局、「泣くな」の一言しか言うことができなかった。
……情けない。
「〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!」
それを聞いた彼女はさらに顔をくしゃくしゃにして、縋りつくように
泣き出した。
って、これじゃ俺が言ったこととまるっきり逆じゃないか。
俺はもう一度彼女に泣かないように言おうと口を開こうとした。
でもそこで、今までのそれより遥かに強烈な睡魔に襲われる。
ぐ、ぐぅぅ……………不味い。
まだ、言うことがあるのに…………。
だけどその抗いようのない程の眠気が、全身にまるで麻酔のように広がって。
ついに耐え切れず、俺は未だ目の前で泣きじゃくる彼女に精一杯
微笑みかけて、瞼を閉じた。
それと同時に今までに感じたことのない倦怠感と疲労感が津波のように
押し寄せてきて。
それが眠気と合わさって、俺の意識は瞬く間に虚空の闇に溶けていった。
(そういえば、こんなに心地良い気だるさに包まれたのって、
いつ以来だったっけ………?)
思えば俺はこの世界に来てから、いやそれ以前から、熟睡ってものを
したことがない。
どれだけ早く寝たって、一時間ごとに悪夢のせいで飛び起きる。
しかも見ているのが悪夢なので、夢の中でさえ心が休まらない。
唯一心が休まっていたのは、夜飛び起きた俺を彼女が介抱してくれる、
あのひと時だけだった。
でも、今日は違う。
今日のこの疲れは、眠気は、いつものそれと違う気がする。
でも、不思議だ………。
その眠気も疲れも倦怠感も、今のこの身にはとても温かく染み込んで
いくみたいで。
まるで朝から晩まで体力がなくなるまで遊んで、その後ドボンと
風呂に浸かった後のような、そんなだるさで………。
(今日は、本当に久しぶりにゆっくり眠れるかもな)
なんて考えながら、俺は意識を手放した。
その時聞こえなくなった俺の耳に、彼女の……篠ノ之の、
俺の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。
◇
クラス代表戦が謎のISの襲撃によって中止になってから、
今日でようやく三日が経つ。
決戦の場となった第3アリーナは、その破損の酷さから
修復には少なくとも二、三ヶ月はかかるだろうと言われていた。
まあそっちの方は片が付きそうだからいいのだが。
でも学園は、未だ元の活気を取り戻してはいない。
しかし、それも当然だと思う。
あのアリーナにいた生徒たちは、今まで経験したことのない
『命の危機』というものに直面し、今までISという兵器を用い
訓練してきた自分たちが無意識に目を逸らしていたものを、
半強制的に認識させられたのだから。
しかもクラス代表戦にはほぼ全学年の生徒が観戦に来ていた。
だから学園全体に蔓延しているこの消沈ぶりも、納得のできる
話ではある。
………何より、あの襲撃によってただ一人重傷を負い、今も
目を覚まさない男がいる。
その事実が、この学園の全ての人間の心に、深い影を落としていた。
私たちだって、そうだ。
いっこうに身の入らない授業を気だるげながらも終えて、
私と一夏とセシリアは、足早に教室を出る。
向かう先はアスカが運び込まれた学園内の医療施設。
教室から十分はかかるその道のりを、私たちは特に会話もなく、
ひたすらに歩き続ける。
施設に着くと私たちの歩幅も自然と大きくなって、広々とした
総合受付を通り抜け、一番手前のエレベーターに乗り込む。
五階まであるその中で、私たちは二階で降りる。
手術室や透析室などの特殊な治療を施す部屋が配置されたこの
フロアに、アスカのいるICU(集中治療室)もある。
看護師が何か異変があった時に素早く駆けつけられるように
ナースステーションのすぐ近くに設置されているので、
そこに声をかけてから中に進む。
といっても、アスカのいる治療室に入れるわけじゃない。
様々な医療機器が置かれているそこと面会室は壁で隔てられていて。
私たちはガラス越しに三度目の面会を果たした。
と、面会室には既に先客が二人いた。
「鈴………今日も俺たちより先に来たんだな」
「一夏………うん。だって私が来ないわけにはいかないじゃない?
シンがこんなになっちゃったのは、私のせいなんだから……」
「……何度も言うけどさ。シンは多分、怪我を負ったのが鈴のせい
だなんて思ってないと思うぜ?
むしろそんな風に自分のせいだって落ち込んでいる鈴を見る
ことのほうが、シンにとっては辛いことなんだと思う」
気遣わしげに話しかける一夏に少しだけコクンと頷いてから
鈴はまた治療室に視線を戻す。
その姿はとても頼りなさげで、いつもより小さく見えて。
……やっぱり彼女のショックが一番大きかったのだと再認識する。
自分を庇ってアスカはわき腹に重傷を負った。
事実だけ見ればそれは確かに正しいので、彼女が落ち込んで
自分を責めるのも無理ないことだと思う。
だが当然のことだがこの事件で唯一絶対的に悪いのは、
何の警告もなく戦いの口火を切り、目的も明かさぬままに
一方的な破壊行為を行ったあの正体不明のISだ。
あのアリーナにいた人間の中で鈴を責めようと思う人間など、
一人もいない。
一夏もそれを重々承知しているので、鈴の抱える自責の念を
少しでも和らげようとしているのだ。
流石にそのことにまで嫉妬するほど、私は醜くなかった。
私はそんな二人の姿を見ながら、さっきから気になっていた
もう一人のほうに視線を向ける。
ガラスにへばり付かんばかりに近づいて、アスカを見つめる彼女に。
「……秋之桜さん、何であなたがここにいますの?
シンさんへの面会は先生に許可を貰った人しかできないはず……」
「織斑先生から許可は貰っています。それにあの時アリーナにいた
あなたたちだけがお兄様と面会できるなんて、おかしいでしょう?
篠ノ之さんが面会を許されるのなら、代表候補生でない私でも
許されて然るべきでしょう?
……違いますか(微笑)?」
淡々と述べる彼女の顔には、何の感情も宿っていなくて。
その目には一切の光も見出すことができない。
だけどその言葉には普段の優しげな雰囲気の彼女からは
想像もできないくらいの激情と辛辣さが含まれていて。
私たちは静かな、それでいてとても重い彼女のプレッシャーに当てられて
少しの間硬直してしまう。
と、彼女は光彩の失せた瞳を、ぐりんと鈴へと向ける。
そして能面のような表情に少しずつ赤みが差していって。
それと同時にその日本人形のような端正な顔に、深い深い皺が
刻み込まれていって。
そしてその小さくて愛らしい口から出てきたのは、うっそりとした
どす黒い感情を内包した言葉だった。
「そもそもお兄様にこれほどの怪我を負わせた代表候補生さん(笑)が
ここにいることの方が、私にとっては不思議でならないのですが?
私がここにいることに疑問を持つのなら、彼女こそここにいる
資格などないでしょう?だって彼女は、お兄様を死に至らしめようとした
殺人未遂犯も同義の存在なのですから(怒)」
「っ!!!!!!!???????」
「なっ………、何てことを言うんだよ秋之桜さん!!
シンに怪我を負わせたのはあのISだ!
それにそもそも秋之桜さんもあの場で観戦してたんだから
分かってるだろ!?
あのISの凄まじい攻撃を!鈴はシンと一緒に皆を守るために戦って、
その過程で追い込まれたところをシンが庇ったんだ!
鈴は殺人未遂犯なんかじゃない!!
むしろ皆を守った英雄じゃないか!それを………!!」
突然の秋之桜さんの暴言に鈴はビクッと体を震わせて、唇を
噛み締めて俯いてしまった。
それを見た一夏は激怒して秋之桜さんに食って掛かる。
一夏だけじゃない、私もセシリアも胸に燃え盛った怒りのままに
秋之桜さんを睨みつける。
鈴の気持ちも考えずに無神経極まりない言葉を吐いた秋之桜さんに、
私はあの異形のISに感じたそれと同じくらいの怒りを瞳に
宿らせて、彼女にぶつけた。
でも秋之桜さんは全く怯まない。
むしろその身にさらに氷点下の真っ黒なオーラを纏わせて、
ドロリとした負の感情を吐き出した。
「いくら自分のご身内だからって、都合の悪い事実から目を
背けるのはいけないことですよ?
お兄様の必死の制止を振り切って無謀にもあのISに接近戦を
仕掛けたのは、そこで縮こまってすすり泣いている彼女ですよ?
彼女がそんな行動に出なければ、お兄様が庇いに行かなければ
ならないような事態は防げたのです。
つまりお兄様が重傷を負ったのは、彼女の身勝手な独断専行が
原因です………どうですか?
これでもまだ、彼女は英雄だなどと叫びますか、織斑くん……(冷笑)?」
「くっ…………お前はっ!!!」
その人を食ったような態度に頭に血が上ったらしい一夏は、
思わず彼女に掴みかかろうとしたが、その直前で手をガシッと掴まれる。
驚いてその手の主を見ると、彼女はまるで授業中に居眠りしていた
生徒を見るような厳しい目で、私たちを見下ろしていた。
「何を騒いでいるのだ馬鹿者共。ここは病院だ、もう少し
静かにせんか」
「ち……千冬姉!だけど、彼女は……………いや。
確かに病院で騒いだのは悪かったよ。
でも、どうしても我慢できなかったんだ。だって、彼女は………!」
「分かっている。扉の外までお前たちの声が響いていたからな。
………秋之桜」
そこで言葉を切った織斑先生は、ゆっくりと秋之桜さんに顔を向ける。
秋之桜さんはその圧倒的な迫力に、僅かながらも息を呑む。
「これはどういうことだ?私はお前がアスカのことを本気で心配
していたから、面会を許可したのだ。
決してこのような騒ぎを起こさせるために許可したのではない」
「そ、それは……。でも、私はやっぱり納得できません!
彼女は直接的ではないにしてもお兄様が怪我を負うことになった
一因であることに間違いはありません!
そんな人間がお兄様を見舞うなんて、私にはどうしても………(必死)!」
彼女は織斑先生の無言の圧力に気圧されながらも、必死になって
喋り続ける。
しかし対する織斑先生の反応は冷ややかなもので、ただ一つ、嘆息。
そして冷たく秋之桜さんを見やる。
「……秋之桜、お前に出した面会の許可は取り下げる。
これから一週間、アスカに面会することは許さん。
………少し、頭を冷やせ。いいな?」
「なっ………!?いくら先生だからって、そんなこと承服
できるはずが………!!」
「頭を冷やせ、いいな」
未だ食い下がろうとする秋之桜さんを、有無も言わせず黙らせる織斑先生。
秋之桜さんはそれでもすぐにはその場を動かず、じっとガラス越しのアスカ
の姿を見ていたが。
やがてキュッと唇を噛んでくるりと踵を返す。
そして面会室から出ていく際に、怨嗟の言葉を吐き出した。
「私は、絶対に許しません。お兄様をこんな辛い目に遭わせたあのISを。
そしてお兄様が重傷を負う原因を作った彼女を。
私は…………許しません。
……お兄様、しばし会いに来れませんけど、今はゆっくり休んで、
怪我の回復に努めてくださいね………」
そう最後にとても優しい声で呟いた秋之桜さんが出て行くと同時、
場を包んでいた緊張が一気に和らいでいく。
彼女が出て行った扉をじっと見ていたセシリアは、口早に文句を
言い始めた。
「何ですの、彼女のあの態度は!?彼女もアリーナにいたの
ですから、鈴さんの心情を察してもいいでしょうに!」
「……ああ、確かにそうだけど………。何か彼女の態度、
おかしくなかったか?他が見えてないっていうか、
この変な違和感は………?」
「一夏、何を生易しいことを言っている!
流石にあの態度は私も酷いと思ったぞ!
織斑先生、何故彼女に面会を許可したのですか!?」
落ち着いて秋之桜さんのさっきの態度を冷静に考察している
一夏を差し置いて、私とセシリアは憤慨しながら先生に詰め寄る。
先生はまた一つ溜息をついて、何故か手に持っていた出席簿で
私たちの頭をポコッと叩く。
「だから騒ぐなと言っただろう馬鹿者。……秋之桜の憔悴ぶりは
あのアリーナでの戦い以降顕著だったのでな。
今日面会の許可を求められた時もあまりに必死だったから
許可したのだ。
しかしまさか凰を前にしてあそこまで豹変するとは
予想できなかった。……凰、すまなかったな」
「い、いえ………私は…………」
そう小さく呟いてまた俯いてしまった鈴を少し見つめていた
織斑先生は、優しくその頭を撫でる。
そして私たちに向き直った。
「お前たちの気持ちは分かるが、今日はもう帰れ。
もう面会時間も終わりかけだ。
……それに、アスカはあと一日、二日で目を覚ますわけではない。
アスカが受けたダメージは人間の許容量を遥かに超えている
のだからな」
先生の言葉に、私たちは沈黙して言葉を失う。
誰もが鈴と同じように目を伏せて俯く中、私はアスカの方に顔を向けた。
そこには全身に包帯を巻かれ、酸素マスクを取り付けられた
アスカがベッドに寝かされていた。
その痛々しい姿に、思わず目を背けそうになる。
(アスカ……………………)
私は声には出さず、心の中だけで名前を呼ぶ。
応えてくれないことは分かっていたけど、だけど私には
そうするしかできなかった。
そうしないと、そうやって努めて冷静なフリをしていないと、
また私はあの時のように酷く取り乱してしまいそうだったから。
私は自分の心を押さえ込みながら、ただアスカの無事だけを
一心に願っていた。
◇
「………………………………………」
俺の目の前には周りに何もなく、ただ舗装もされてない道が
延々と続いていた。
道の周りを覆いつくす少し背の高い緑の絨毯が、柔らかい風に
撫でられてサワサワと揺れている。
その心地良い風を肌で感じながら、俺はその道をただただ
ゆっくりと歩いていた。
「……やけにリアルな夢だな」
そう呟く俺が今身に纏っている服は、軍服以外の数少ない私服、
ネズミ色のパーカーに、これまた冴えない色のTシャツとズボン。
でもこれは俺の元の世界にあるはずのもの。
それに俺は今いるこの草原など見たこともなければ、
どうやってここに来たのかも覚えていない。
気が付いたらいつの間にかここにいて、先の見えない道が
目の前にあったから、何の気なしに歩き始めただけだ。
だから、分かる。
これは、多分夢だ。
いつもとは全然違うけど、この感じは間違いなく夢なんだろう。
いつの間に寝たんだろうとか、寝る前に何をやっていたかとかは
全く思い出せないが、だけどそんなこと全くどうでもいいと
思えるほど、今日の夢は穏やかだった。
……こんなに優しい空気が満ちる夢は久しぶりなんだけど、
それだってどうせすぐに冷めてしまうだろう。
目が覚めたら、また「どうしようもない」俺が待っている。
でも、せめて起きてしまうまではこの夢を満喫しようと思う。
だって本当に、こんな夢は久しぶりなのだから。
と、ぼんやりそんなことを考えながら歩いていた俺の横の草むらが、
突然眩いばかりの光を放ち始める。
それは徐々に大きくなって、何かの形を形成していく。
そしてそれが露になって、俺は目を剥いて叫んでいた。
「と………父さんっ!!?母さんっ!!?マユッ…………!!?」
光の中の父さんたちはリビングのテーブルに座って、
母さんが手料理を並べていくのを、にこやかに見守っていた。
メニューは自家製のパンとスクランブルエッグ、そして色とりどりの
野菜が盛られたサラダ、ドリンクは母さん特製のフルーツジュースだった。
どれもこれも、俺が久しく忘れていた料理で、胸の奥から何かが
込み上がってくるのを感じた。
と、ふと気付く。
父さんたちが座っているテーブル。
そこは母さんが座る席以外に、もう一つ席が空いている。
あそこの席って………………。
戸惑っている俺に気付いたのか、皆が俺の方を向いて、笑いかけてくる。
そしてマユが笑いながら、俺に向かって呼びかけてきた。
― そんなところで何ボ〜ッとしてるの、お兄ちゃん!
お母さんのご飯、冷めちゃうよ?
早くこっちにおいでよ! ―
それを聞いた俺は込み上げてきた何かを抑えられなくなって、
居ても立ってもいられず、俺が座るのを待っている三人の元に走り出した。
「ああ………ああっ!分かってるよ、マユ!
母さんの作ったパン、とても美味しいもんな!
早く食べないと、父さん遅いって怒るもんなっ!
俺もすぐそっちに行く!すぐに――――――!!」
早足から全力疾走に切り替えて、俺は皆の待つ食卓に勢いよく
飛び込んで………すり抜けた。
地面にべしゃっと顔をへばりつかせながらも、慌てて起き上がって
後ろを振り向く。
でもそこには、もう皆の姿はなかった。
ただ無限に続いているとも思える道と草原が広がるのみ。
キョロキョロと周りに視線を走らせる。
でもやっぱり、そこにはあの暖かい団欒は影も形もなかった。
「………父さん、母さん、マユ…………………………………っ!!?」
呆然としていた俺の目の前にまた淡い、それでいてとても優しい光が
集まって像を成す。
その光の中に映る光景を見て、一瞬頭が真っ白になる。
そこはとても薄暗い洞窟で、その中では焚き火が焚かれ、ユラユラと
揺れる鮮やかな炎で辺りがぼんやりと照らし出されていて。
その焚き火の側に誰かがちょこんと座っていた。
下着を一枚しかつけていないというやけに際どい格好で、その柔らかい
金髪をしっとりと濡らして、焚き火に当たっている肌がほんの少し
汗ばんでいて。
そしてその無邪気ないつまでも変わらない微笑みをこっちに向けている。
「…………ステラ……………」
知らず漏れ出した言葉に応えるように、ステラは少し首をかしげて。
笑みをさらに深くして、その小さな口をゆっくりと開いた。
その姿に何か自分の中に抗いようのない感情が渦を巻き始める。
− ステラは、死なないよ………?だってシン、いつもステラ、
守ってくれる。
シン、初めてそう言ってくれた、ここで…………。
だからステラ、ここ、好き…………。
ここ、とても安心できる…………。
シン、こっち、来て…………?
シン、一緒に、あったかくなろう………?
ステラ、シンとずっと、一緒にいたいよ…………… ―
俺の中で渦巻いていた激情が、一気に溢れ出す。
気が付いたら俺は、ステラの待つ洞窟に向かって駆け出していた。
「俺も………俺もだよ、ステラ!俺もずっと一緒にいたいよ、君と!
だって約束、したもんな!『君は俺が守る』って!『必ず守る』って!
だからステラは死なない!俺がずっと傍にいるんだからっ!
だから―――――――――!!!!!」
俺はステラを抱きしめようと両手を大きく広げて、その光の中に
飛び込んで………地面に倒れ込んだ。
またしてもすり抜けたということに気付くまで数秒を要し、
頭を上げた時には、そこには光の残滓すら残っていなかった。
俺は地面に投げ出していた手をギュッと握り締めて、フラフラと
立ち上がった。
「ステラ……………………」
俺は呆けながらも、自然と顔を道の続く先、遥か地平線の彼方へと向ける。
この道がどこに続いているのかは分からない。
けど………、この道を歩いていたら少しの間とはいえ、父さんたちや
ステラと出逢えた。
じゃあこの道をもっと進んでいけば…………。
「……もっと、皆と話したりできるのかも………」
そう呟くと同時、俺の足は勝手にその道を歩き始める。
でも俺はそのことに特に違和感を感じない。
だってこれは夢なのだし、もっとステラたちと話したいというのは
紛れもない俺の願望だからだ。
夢はまだ続いている。
だったら俺はもう少しこの夢を堪能しようじゃないか。
だってこの暖かい世界のどこかに、この道の先に、俺の大切な人たちが
いると感じているから。
今はその直感を道しるべにして、歩いていくとしよう。
俺の夢は、まだ終わらない。
◇
IS学園に併設された医療施設、といってもここは学園の敷地の
ほぼ端に構えられていて、地域の医療連携、高度医療の提供という
観点から、一般市民にも開放されているのが特徴だ。
だけどそんな医療施設でも一般患者が立ち入れない階がある。
それが最上階、IS学園の関係者でなければ立ち入ることができない場所だ。
あの事件から十日が経ち、症状が危篤状態を脱したアスカはICUから
ここの特別個室に移された。
この部屋はICUと同じくナースステーションがすぐ近くにあり、三十分毎に
看護師が巡回にやってくる。
そんな個室に運ばれたアスカは、しかし未だ目を覚まさない。
呼吸はしているのだが、意識のほうがいっこうに戻らないのだ。
私たちはアスカが静かに呼吸する音だけが聞こえる部屋で、アスカを
見守っていた。
その静寂を打ち破るように最初に口を開いたのは、やはりセシリアだった。
「どうしてですの………?もうあれから十日も経ちますのに、
何故シンさんは目を覚ましませんの………!?
ドクター!シンさんの怪我は快方に向かっているのですわよね!?
でなければシンさんを一般病棟に移すわけがありませんもの!」
「オルコットさん、病院ではお静かに………。
ええ、確かに彼の怪我は常人では考えられないスピードで
回復してますよ。あくまで常人に比べれば、ですが………。
それに彼の場合なかなか目を覚まさないのは、当然なのですよ。
こんな体の状態であれだけの重傷を負ったのですから。
……本当に、彼には驚かされますよ」
アスカの執刀医である舛田ドクターは、その白髪の総髪を
グシャグシャとかきむしりながら、重苦しくそう語る。
と、そこでドクターの話を聞いていた一夏が、何かひっかかることが
あるように眉をひそめて、尋ねる。
「あの……先生。今『こんな体の状態』っておっしゃいましたけど、
シンの体、そんなに怪我をする前からヤバイ状態だったんですか?」
「……織斑先生。彼らにアスカ君の事情を話してないのですか?」
「ええ、あれは一応機密事項になっていますし。
それに何より、アスカがそれを話されるのを嫌うでしょうから」
………?
織斑先生とドクターは、一体何の話をしている?
その会話を聞くに、あまり公にできる話ではないことは
想像できるが………。
怪訝な顔をしている私たちをチラッと見て、「……まあお前たち
なら他言はしないだろう」と呟いてから、私たちに問いかけてくる。
「『正体不明のISによる市街地襲撃事件』について知っているか?」
「……?ああ、一ヶ月ちょっと前にIS学園近くの街が突然現れた
正体不明のISの襲撃を受けたっていうあれだろ?
俺の友達の家も被害に遭ったから、よく覚えてる。
だけど千冬姉、それがどうしたんだ?」
「その事件なら私も知っていますわ。そのISは確かIS学園から
出撃した部隊によって退けられたと聞いていますが?
まあ結局犯人は取り逃がしたらしいですけど」
私もその程度のことなら知っている。
一時は連日ニュースのトップを飾っていて、特番だって何本も
組まれていた。
ただその犯人のISについては何の映像も残ってなかったらしく、
目撃者から寄せられた情報による憶測ばかりの内容だったが。
さらにその目撃者の情報すら乏しく、一部では情報が規制されて
いるのではとさえ囁かれていたな。
しかし、それが今何の関係が………?
「そのISを撃退したのは、IS学園の部隊ではない。アスカだ」
………………は?
「その襲撃者はIS学園に輸送中の『打鉄』を強奪するために街を襲った。
その混乱の中アスカはコンテナに積まれていた打鉄を起動させ、
襲撃者と戦いこれを退けた。
その時我々はアスカが『二人目』だと知ったのだ」
織斑先生の淡々としたカミングアウトに、私をはじめ誰もが
ポカーンとして、呆けてしまって動けない。
私たちはその言葉をゆっくりと反芻して、噛み砕いて。
やっとその意味を理解した時、皆の間に驚愕と動揺が広がっていった。
「ちょっ、ちょっちょっちょっと!?
お、織斑先生っ!?何か今、さらっととんでもない事実を
ぶっちゃけられたと思うのですが!?
といいますか、もしそれが本当ならその話はとても興味がありますが、
それがシンさんの体調と、どう関係がありますの!?
私、話がすごい勢いで脱線してしまったように感じてるのですがっ!?」
「驚きすぎだ馬鹿者。……脱線などしてないぞ。
アスカはその戦いで重傷を負い、生死の境を彷徨うことになった。
その時の傷は、アスカの体に一生傷として残っている」
「え……………」
髪を振り乱しながら騒いでいたセシリアは、織斑先生の言葉に固まる。
私も、その言葉に衝撃を受け、全身が硬直するのを感じた。
それはその事実が予想だにしないものであったからでもあるし、
私の中にずっと引っかかっていた疑問が、氷解したからでもあった。
ずっと、気にはなってたのだ。
私とアスカが学園の大浴場で初めて出逢った時、私は織斑先生から
アスカの怪我について『数年前に事故で負った傷』と説明されていた。
でも私も武道を嗜んでいるんで、よく生傷を作っていたから分かる。
あの傷はとても新しかった。
数年前に負った傷とはどうしても思えなくて、それが気になっていた。
でもまさか、そんな事情があったなんて………。
アスカのやつ、そんなこと一言も………。
「………シンのあの左腕の傷、その傷だったんだ………」
織斑先生の話を俯きながら聞いていた鈴は、少しだけ顔を上げて
アスカを見つめる。
その瞳には、相変わらず光は戻っていない。
「で、でも千冬姉!その怪我はもう完治してるんだろ!?
だったら………!」
「織斑くん、確かに怪我の方は完治していました。
それは担当医であった私が保証します。
しかし、ね…………。
あれだけの重傷だったんです。たとえ傷は癒えても、
落ちてしまった体力の方は、そう簡単には戻りません。
ましてや彼は織斑先生の話では、ろくに夜も眠れていなかった
らしいですし………。
彼は肉体的にも精神的にも、相当限界に近かったと思いますよ。
……こんなことになるのなら、やはり彼をもう少し入院させて
おくべきだった。
彼を各国から守るために早期に入学させたのが、裏目に出る
だなんて…………」
深い後悔を滲ませながら語るドクターを見ながら、私も言いようのない
後悔に苛まれていた。
毎日毎晩アスカを見ていたのに、精神的消耗は分かっていても、
肉体的な消耗は察知することができなかった。
……それが、とてもとても、悔しかった。
「……アスカ……」
今度はアスカの名を口に出して呟いた。
やっぱりアスカは何も応えてはくれなかったけど、もうアスカを
心配する心を抑えられなかった。
だってアスカは、この十日間、一度もうなされていない。
まるで何か良い夢でも見ているかのような穏やかな寝顔で。
一ヶ月もアスカを見ているから、本当ならそれを喜ぶべきなんだろうけど。
……何故だ?
その安らかな寝顔が、私の心をこの上なく掻き立てる。
言い知れない不安が、思考を支配する。
私は、いや私たちは今も安らかな呼吸を続けるアスカを見つめて、
早く目を覚ますよう、祈っていた。
◇
……どれくらいこの道を歩いただろう。
ステラに出逢って以降誰にも出逢えないので、俺は漠然とした焦りを覚えて
もはや駆け足でどこまでも続く道を進み続ける。
でも、何も見えなくて。
変わったことといえば、周りが草原から色とりどりの花が咲き乱れる
花畑に変わったことくらいで。
その花の何とも言えない甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
と、今までずっと花畑しかなかったそこに、大きな一本の木が見えてくる。
「この木何の木」のそれではないけど、まるで何百年も生きているかのような
巨木が堂々とそびえ立っていた。
俺はそれに何かを感じて、足早にそこへと向かう。
そして、目を大きく見開いた。
今まで何キロも続いていた道は木の下で途切れていて、
そこから先は一面見渡す限り花畑で、そして花びらが舞い散る中に、
皆が佇んでいた。
「……父さん、母さん、マユ……。ハイネ、レイ、議長、艦長、ステラ…………」
皆はとても優しげな笑みを湛えて、俺を見つめていた。
ハイネもグラディス艦長も笑みを見せたことはあれど、それでも
いつどんな時でも、そこから緊張感や警戒心を解くことはなかった。
議長については、俺はあの人の本当の笑顔を見たことがない。
微笑んでみせることはよくあったけど、いつもその瞳にはとても冷たくて、
それでいて強い何かが光っていた。
レイに至っては今だからこそ分かるけど、アイツは常に自分が
背負っている運命に押しつぶされまいと必死だったように思う。
クローンであるが故の短命。
それが当人にとってどれほどの重荷だっただろうか。
襲い来る発作を抑えるために薬で命を繋ぎとめて、どれだけ辛かったことだろう。
「レイの運命は変わらないのか?」と聞いた時の、その儚い笑顔が
忘れられない。
でも花畑の真ん中に佇む皆は、そんな重荷も悩みも、まるで何も背負っていない
かのように、ただただ純粋な笑みを浮かべていて。
まるで俺が願った世界が、こうであって欲しかった皆が、目の前に顕現
したかのような錯覚を受けて。
その胸の高鳴りのままに、俺は皆の元に駆け出していた。
夢だって、これが甘美な夢だってことは重々承知している。
だってそうじゃなきゃ、俺の両目から涙が流れることなんて、
有り得ないんだから。
でも、いいじゃないか!
ずっと悪夢ばっかり見てきて、こんな暖かい夢は久しぶりなんだ!
一日くらい!一晩くらい!
この暖かさの中に埋もれていたって………!
だから俺は泣きながら皆の元へ走った。
その暖かい世界に飛び込もうとした。だけど……………。
「―――――っ!!!???
おい………どうしたんだよ!!?
何で俺の足、動かないんだ!!?
おい、動けよ!目の前に俺の望んだ世界があるってのに、どうして………!?」
突如足が地面に縫い付けられたかのように動かなくなる。
どれだけ力を入れても、身をよじっても、そこから一歩も動けない。
と、その時混乱しながらも必死にもがいている俺の後ろから、
どこかで聞き覚えのある得体の知れないヌメッとした声が聞こえてきた。
『ほーーぅ、流石に最後の最後では踏みとどまるか。
やはり深層意識の最奥ではブレーキがかかっているらしいな。
………おい、いつまで前に進もうとしてるんだよ。
寂しいじゃないか。こっち向いてくれよ、ご主人サマよぉ』
その背筋が凍るような感覚に全身が総毛立ち、反射的に振り向く。
するとさっきまではビクともしなかった足がいとも容易く動く。
そして振り返った俺の目の前には、俺もよく見知った顔があった。
赤で統一されたザフトの軍服に身を包み、その瞳にはいつも以上の
ギラギラした光が宿っている。
そしてニヤニヤと下品な笑い方でこちらを嘗めるように見ている
ソイツは…………。
「なっ………、アンタ、は…………」
『アンタって、おいおい………。毎晩顔を合わせている相手に向かって
「アンタ」とは随分つれないなぁ、自殺願望全開のご主人サマよぉ。
……よぉ、やけに驚いてるなぁご主人サマ?
そんなに俺様が喋ったことが意外かい?』
俺は開いた口を中々戻せず、しばらく呆然としていた。
目の前にいるソイツ………もう一人の『俺』とは確かに毎晩
悪夢の中で会っている。
でもいつもはソイツは色を失った瞳で俺を睨みつけるだけだったんだけど、
奴はどうだ?
まるではっきりとした意識を持っているようだった。
『ふはっ、その間抜け面!流石は我がご主人サマ!
三途の川に投身自殺をかまそうとする貴方サマには、
まさに相応しい面構えってわけだ!
まあ無意識にでも一線を越えなかったことだけは褒めてやってもいいけどな』
「あ、アンタ何言って………?俺は自殺なんて馬鹿な真似は絶対にしないぞ?
俺にはやらなくちゃいけないことがある。
それを成し遂げずに死ぬなんて選択は………」
混乱の極致にあっても、俺は何とか反論する。
コイツは何を言っている?
俺が自ら死を求めるなんて、天と地がひっくり返ったって………。
と、ソイツは俺の言葉を聞いてクックッと笑っていたかと思うと、突如
犬歯をむき出しにして、赤い目をさらに血走らせ、狂ったように
叫びだす。
それにはあからさまな侮蔑の感情も含まれていて………。
『強がってんじゃねぇよバァァァァァァァァァカァ!!!!
いくらテメェが頭ん中でそう強く思ってても、擦り減った心が
それに関係なく死を望んでんだよ!!
テメェは矛盾野郎だ!!
誰よりも生きることに執着しているくせに、誰よりも死を望んでる!!
他人が傷つくことには人一倍敏感なくせして、自分の危険については
まるで無頓着だ!!
まぁテメェのそういう矛盾のお蔭で、俺様は順調に力を蓄えられる
んだけどなぁ……ヒィーーーーーヒヒヒヒヒヒィ!!!!!』
そう叫んで天を仰ぎながら哄笑するソイツを見ながら、俺は早鐘を打つ
心臓を必死に押さえつける。
それはソイツの言葉で何故か激しく動揺してしまったから。
俺は滝のような冷や汗を流しながら、カラカラに乾いた喉で、何とか呟いた。
「アンタは一体………何なんだ………!?」
『はぁ、今更かよ?コントやってんじゃねぇんだぜご主人サマよぉ?
……まあいいか。どうせ長い付き合いになるんだからなぁ。
いいか、よく聞けよ?
俺様はテメェの………「傷痕」だ』
「傷………痕?意味が分からない。どういうことだ………?」
『ちっ、察しが悪いぜご主人サマよぉ。十日ほど前も俺たち一緒になって
暴れたじゃねぇかよ。もしかして、忘れたか?忘れちまったのか?
……じゃあ、思い出させてやるよ。
俺たちの、アツゥ〜〜〜いあの頃の記憶をよぉ!!!!!』
そう言うとソイツは瞬き一つの間に俺の前に移動してきて、おもむろに
俺のわき腹を撫で回してきた。
驚いて固まっている俺をよそに、ソイツは撫でていたその手をどける。
と、今まで撫でられていたそこに強烈な痛みを感じて、見やる。
そこには今まではなかった穴がぽっかりと開いていて、血も大量に
噴き出していた。
「は………………?な、何で………………ぁが………………。
が、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア
アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア
ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ
ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ
ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ
!!!!!!!???????」
『ヒィーーーーーーーーーヒヒヒヒヒヒヒヒィ!!!!!
イイッ!イイねぇ!!
テメェからダイレクトに伝わってくるこの焼きつくような痛み!
その悲鳴!そして恐怖!!
俺様の体がメキメキと力を増していくのが分かるぜ!!
ほら………ご主人サマ、何をのた打ち回ってるんだよ?
みっともねぇぜ……………?』
もがき苦しむ俺を顔を歪めニヤニヤしながら見ていたソイツは、
今度はまるで子供でもあやすかのように、左腕をぽんぽんと叩き、
左足のふくらはぎを優しくさすった。
するとそこにも凄まじい痛みを感じて、恐る恐る目を向けると、
そこも皮膚が破れて、肉が露出し、血が噴き出していた。
それを見て、その焼けるような痛みで、俺は曖昧だった夢を見る
「前」のことを、ようよう思い出した。
クラス代表戦の最中正体不明のISが乱入してきて、俺は凰と共に
奴と交戦。
一夏やセシリアの助けもあって奴を倒すことには成功。
だけど最後の最後で奴は自爆し、俺はそれを食い止めたものの、
余波をもろに喰らって………。
その後のことはよく覚えていない。
「ゥグググググググググ……………!!
くっ………ガハッ………カハッ!
お、思い出した………全部、思い出した……けど……!!
ゲブッ!!……ぐっ……な、何でアンタは……こんな
『傷』を俺に思い出させる………!?
それに、ふくらはぎのこの傷は、もう既に……塞がってるはずだぞ……!?」
『傷ってのはなぁ、肉体的なモンも精神的なモンも一緒だ。
たとえ一度塞がったと思ってもふとしたキッカケで開き、
鮮血が噴き出す。
まあ俺が今開いたのは実際の傷じゃねぇ。
その傷を負った時のテメェが感じた恐怖、憤り、ストレスを
傷として再現したモンだ。
現実の傷は回復してるだろうが、今のテメェは精神的外傷で
血まみれなのさ。
で、何で傷を思い出させるのかって?
そりゃテメェ、俺様がそれを必要としてるからさ』
「グブッ………!ど、どうして……………!!?」
『さっき言ったろ?テメェが感じた痛みが、俺様の力になる。
それは実際に肉体に負った傷でも、PTSD……トラウマ……
つまり心の傷でもいい。
そうやってご主人サマであるテメェが血を流し苦痛に
悶えることが、俺様に他の追随を許さない力を与えるのさ。
……そんな怖い顔すんなよ?
それは別に悪いことばかりじゃねぇ。
だってテメェ、この前の戦闘でさっそく俺様の「力」を
引き出して使ったじゃねぇか。
俺様の………「最後の力」をよぉ!!!!!』
その言葉に、心臓が跳ね上がりバクバクと鳴り始める。
コイツは今、何と言った………!?
「俺様の、『最後の力』」だと…………!?
まさか、まさかコイツは………!?
「………アンタ、まさか………!?」
『やぁれやれ、やっと気付いたかご主人サマよぉ。
つかさっき言ったべ?俺様はテメェの「傷痕」だとよぉ。
感謝してくれよ?あのセシリアっつー色ガキの攻撃から
テメェを守ってやったのも俺様なんだからよぉ。
だってテメェがくたばっちまったら、俺様は力を吸い取る
餌場を失っちまうわけだからなぁ!!
……まあ、この前の戦闘は流石にヤバかったがな。
俺様に寄生してやがるあの物狂いに、初めて感謝したぜ』
愕然とする。
目の前のコイツが、今も口が裂けんばかりに口角を上げて、
ニヤニヤと下品に笑いながら血走った目を俺に向けるコイツが、
ヴェスティージ………!?
確か授業で習った。ISにはそれぞれ意思のようなものがあるって。
その時は鼻で笑って「何言ってんだ?兵器に意思なんてあるわけ
ないだろ」とか思ってたけど………。
でも、もちろんそんな簡単に信じられるものじゃない。
だって目の前のコイツは人間で、ISは機械だ。
擬人化とか、どうやって信じろと………?
だけど、何故かそれをすんなりと信じてしまっている自分もいて。
だって、感じていたから。
目の前にいるソイツに、何故かとても親近感を。
まるで今までずっと俺の隣でくすぶっていた炎を見たような、
そんなデジャヴを。
……………?
そういえば、ヴェスティージの奴、今変なこと口走ってなかったか?
物狂いがどうとか………。
『ぁん?ご主人サマよどうした?そんな不思議そうな面してよぉ。
………ああ、あの物狂いのことか?
いつのことだったか、俺様の知らないうちに装備として設定
されててよぉ。
しかもそいつ自身に意思があるせいで、未だ俺様の支配下にも
入らねぇ面倒くせぇ奴でよ。
ほら、あの「蒼い絆」とかいういけすかねぇ大剣。
本当なら俺様の剣は「鮮血の衝撃」
っていうイカした赤い大剣だったはずなのに、そいつも
いつの間にかはずされてるしよぉ。
まさに踏んだり蹴ったりだったぜ。
……おっと、話が脱線しちまったか。……さぁて、ご主人サマよぉ……?』
一人でいきり立っていたヴェスティージは、血まみれで蹲る俺の前に
腰を下ろして、耳元でまるで囁くように粘ついた言葉を吐き出す。
その言葉には計り知れないほどの悪意が内包されていて………。
『いい加減本題に入らせてもらうが、今回俺様がわざわざテメェの前に
姿を見せてやったのは、テメェが心身共に疲れ果ててわざわざ
くだらねぇ死に方しようとしたから引止めに来てやったんだ。
ったく、こんなふざけた夢なんぞ見やがって………。
……なぁ、ご主人サマよぉ。人間にはそれぞれ見ていい分相応の夢
ってもんがある。
ご主人サマよぉ、テメェにこんな甘酸っぱい夢なんざ似合わねぇ。
まさに分不相応ってやつだ。
……顔を上げな?そこに、テメェに相応しい「夢」がある……』
言われて、顔をヨロヨロと上げて、息を詰まらせる。
そこには既にヴェスティージの姿はなく。
今まで歩いてきた果てしなく、暖かい花畑もなく。
あったのは俺が常日頃見る「悪夢」。
忘れたくても忘れられない、焼け野原と化したオーブの廃墟だった。
「あ……………ああぁぁぁぁぁ……………………」
歯をカチカチと鳴らして、体を震わせて呻く俺の頭上から、
ヴェスティージの神経に障るねっとりとした声が聞こえてくる。
それはまるで俺の脳に直接聞こえてくるようで……。
― それがテメェの見るべき「夢」、テメェの居るべき「場所」だ。
簡単に楽になれると思ったら大間違いだぜ。それは、テメェが
一番よく分かってるだろ?それにアンタに死なれたら、何より
俺様が困る。
……せいぜい足掻いてくれよ?
テメェが毎晩悪夢を見て憔悴していくほどに、俺様は力を蓄える。
テメェが誰かを守って傷つくほどに、俺様は自身の存在を
確かなものにしていく。
そうしていつか、テメェ自身を乗っ取って、俺がシン・アスカに
なってやる。いつかテメェの体を、明け渡してもらう。
それまで、せいぜい足掻いて、もがいてくれや。
『元の世界に戻って、戦争をなくす』、
『託された願いのために、大切な人のために、自分が傷ついても
戦う』なんて、背負いきれもしない下らないモンを背負って、
死なない程度に血反吐を吐き続けるがいいさ。
それが、テメェの『運命』だ。
そうだろ?ご主人サマよぉ……………… ―
ヴェスティージの一言一言が胸に、心に突き刺さる。
涙で前が見えなくなる。
嗚咽を上げながら、頭を垂れて俯いてしまう。
でも……………でも!!!
それを遥かに上回る怒りが体から噴き出し、俺は手をキツく握り締める。
歯を砕かんばかりに噛み締める。
何が………何がせいぜい足掻くがいい、だ!!もがくがいい、だ!!
当然だ!!俺が叶えたい願いのためなら、何にでも縋ったっていい!!
だが………、背負いきれもしないモン、だと!!?
下らない………だと!!!!!?????
ふざけるんじゃないぞ!!!
その下らないもののために、俺の世界では沢山の人々がその命を散らした!
議長だって艦長だってハイネだってレイだって!!!
本気で戦争をなくしたい、大切なもののために命を賭けて戦っていたんだ!!
それを、お前なんかに………!!!
俺の体目当てのお前なんかに………!!!!
それを、笑われてたまるかよ!!!!!
俺は燃えるような怒りに突き動かされて、顔を上げて絶叫した。
「やってみろヴェスティージ!!!!
お前なんかに俺の願いを笑わせたりしない!!!
必ず俺はそれを叶えてみせる!!!
お前に体を明け渡したりもしない!!!
お前の思惑通りになんか絶対にさせない!!!
逆に俺がお前を意のままに使い、飼い殺しにしてやる!!!
俺に取り付いたこと、必ず後悔させてやるからな!!!!!」
火の粉が舞い散る虚空から、奴の下卑た笑い声が聞こえてくる。
俺の必死の叫びも、どうやら奴の嘲笑を誘うだけのものだったらしい。
しばらく何もない宙を見つめていたけど、ようようフラフラと
起き上がる。
……どうやら、俺には暖かい夢を見る時間も、権利もないらしい。
ヴェスティージのああ言った手前、ここでいつまでも呆けている
わけにもいかないだろう。
夢は、覚めるもの。それが普通なんだから。
少しだけでもこんな良い夢を見れたんだ。
それでいいじゃないか。
…………………でも。
それでも、もう一度だけでいいから、俺は皆の笑顔が見たかった。
もしかしたらもう二度とそれを見れないかもしれないと思うと、余計に。
それを見たら、俺はこれから先に何が起こっても、それを支えに
前に進める。何もかもに耐えられる。
心の底から、そう思ったから。
「父さん………母さん………マユ………ステラ………………………
……………………………………………………………………………
……………………………………………………………………………
……………………………………………………………………………」
俺はゆっくりと振り向いて、そして、深く後悔した。
…………ああ。そう、だよな。
そんな甘え、今の俺には許されないよな。
今はただ前に進むだけ。頑張るしか、ないんだもんな………。
俺は悲しそうな表情を湛える皆に少しだけ笑いかけて、背を向けた。
もう、振り返らない。
そんな暇はもう訪れないかもしれないと、俺の直感が言っていたから。
今の俺の現実は、暖かい花畑じゃない。
目の前に広がる、醜悪な戦場、消えない『悪夢』なんだから。
俺は痛むわき腹を手で押さえて、足を引きずりながら『悪夢』へと戻る。
そして俺の視界が真っ赤な炎に染め上げられて。
意識が遠のいていく中、背中から「シン………」という、
ステラの悲しげな声が聞こえた気がした。
◇
一瞬、夢なんじゃないかと思った。
一般病棟に移ったアスカの看病を始めてから三日経ち、
私たちは少し小腹がすいたので、売店にパン等を買いに行って。
戻ってきたら、アスカが目を覚ましていた。
私たちは一瞬だけ呆けて、瞬間ワッと歓声を上げながら駆け寄った。
「シン………シンッ!!目が覚めたのか!?
良かった………!本当に、良かった………!!」
「シンさん………!こ、この私をここまで心配させて………!
後で、後で必ずこの償いをしていただきますから……!
うっ………ううう…………」
「シン………シン………シン………!良かった……良かったよぉ……。
ごめん、ごめん………本当に、ごめん………!
ぐすっ…………ぐすっ………」
「アスカ、アスカ、アスカァ………!この、馬鹿者っ!!!
どれだけ私を心配させればっ……………………?
…………アスカ?」
私は溢れそうになる涙を必死に抑えながら、アスカに寄り添うが。
すぐにアスカの異変に気づく。
アスカの瞳は長い眠りから目覚めたばかりとは思えないくらいに
はっきりしていたけど、まるで心ここにあらずといった感じで。
ただ光彩の失せた瞳を宙に彷徨わせるのみ。
私はその姿に何故か心がざわめいて、少し声を大きくして
アスカに語りかけた。
「……おい、アスカ?どうしたのだ?どこか……痛むのか?」
「……………………夢を、見てたんだ」
私の声に反応したのか分からないが、アスカは気だるげにそう答えた。
その声には何の感情も宿っていない。
ただうすら寒いほどの虚無を感じて。
そんなアスカを見て私は何故か胸を強く締め付けられ、今度は
優しく、気遣わしげに語りかける。
「……どんな、夢だったんだ?」
「とても、暖かい夢……。まるで、夢みたいな夢だった。
ずっと、目が覚めてほしくない。そんな、夢……………。
………………ああ…………………」
その時アスカが見せたその顔を、私たちは一生忘れることが
できないと思う。
アスカはとても優しく、そして儚げな笑顔を浮かべて、そして………。
「………こんなに幸せな気持ちになったのは、本当に、久しぶりだ…………」
そう呟くアスカの瞳からは、涙が溢れだしていた。
でもそれは涙と呼ぶには、あまりにも鮮やかな赤色で……。
私たちは喜ぶのも忘れて、アスカの姿をただただ見つめていた。
そのあまりにも痛ましい姿から誰もが目を離せず。
病室には、アスカの乾いた笑い声だけが、いつまでも木霊していた。
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