彼の夢は、まず闇から始まる。
突き刺すような冷気が体に纏わりつき、痺れるような痛みに堪らず瞳を開ける。
その先に広がっていたのはまたも闇、闇、どこまでも続く果てのない虚空。
遥か遠くに極小の点が散らばっている。
星の光? 彼はその儚い光に縋るように手を伸ばす。
戦う事しか知らず人間らしい感情をどこかに置いてきた空虚な心。
それでも彼は光を欲する。
死ぬのは怖くない。
怖いのは兵士としての責務も果たせず、仲間の盾となることもできずに消え去ること。
自分の生に意味はあるのだと、証明できなくなること。
不意に彼方で瞬いていた淡い光が音もなく霧散する。
代わりに辺りの極小点を覆いつくすように迫り来る黒い影。
まるで羽の如き醜悪な翼膜を広げ飛来する異生物。
ヒディアーズ、人類の敵!
人類の生存領域を脅かし、ただ自身を殖やす事しか考えない『おぞましきもの』!
奴らの蠢く触手に絡め取られ、またその嫌悪感を催す体躯に備わった器官から吐き出された
熱量によって、数多の同胞が蒸散していった。
いつの間にか天地左右後ろにもヒディアーズがにじり寄っていた。
その強剛な外骨格より生えた無数の触手が目前の獲物を捕食せんと蠢いている。
身をよじろうとするが全く動かない。
そのおぞましい形姿に竦み上がってしまったからか。
全身から冷汗が噴出し、体がまるで岩のように硬直する。
まるで現実味がない。
しかしそれも当然だと心のどこかで納得する。
次第に薄れゆく意識の中で思うのだ。
ああ、これは夢だと。
もうずっと過去のことのように思える。
まだ自分がマシンキャリバーのパイロットに憧れを抱いていたあの頃に。
鋼の巨人の一人となり同胞の為にこの身を散らす事にさえ意味があると信じていた
あの頃に見続けていた夢。
いつからかもう見なくなった夢。
まだ純粋なだけの、現実を知らなかったあの頃の、恐ろしくも甘美な夢。
この先の結末を彼は知っている。
神々しいまでの白光に包まれた巨人がその巨砲を振りかざし、瞬く間にヒディアーズを
粒子へと還す。
そして自分を連れて行ってくれるのだ。
幾多の命が弾けては消える、生と死の入り乱れる混沌の只中へ。
彼はそれに身を委ねる。
それも当然のこと、彼は兵士なのだ。
どこにいようがどれ程時間が流れようが変わらない事実。
変えようのない事実なのだから……。
― それは違うよっ、レドきゅんっ! ―
不意に無窮の空間に鳴りわたる一際甲高い声。
次に真空空間であるはずなのに香り漂ってくる胸がすくような磯の匂い。
その匂いに包まれたからか体に自由が戻る。
彼は高鳴る鼓動を抑えながら振り向く。
もう周りにおぞましきものは何もない。
追い払ってくれたのだ、磯の匂いを全身から放散させる緑の巨人が。
― わ……ワカメパンマン!! ―
魅惑的な緑のまだら模様の顔をにっこりと緩めた巨人は、慣れた手つきで自分の顔を
千切り取ると彼に差し出してくる。
食欲を刺激するワカメの匂い、彼の口端から涎が滴り落ちる。
― 怖かったねレドきゅん、よく我慢したね。
さあ僕の顔を食べておくれよレドきゅん。
これを食べれば君も勇気凛々元気百倍さ! ―
― あ、ああ! 有難うワカメパンマン! ―
彼は勢い良くワカメパンに齧りつく。
外はバリバリとした歯ごたえ、中は反対にしっとりとした食感で。
そして口一杯に広がる濃厚なワカメの味。
舌の上で踊るワカメが味覚を通じて彼に語りかけてくる。
私には食物繊維やアルギン酸が多く含まれているのよと。
レドきゅんを動脈硬化や心筋梗塞から守ってあげるわと。
その心馳せに深く感謝しながら慈しむような表情で見つめる巨人を見上げた。
口の中に未だ詰まっているワカメパン。
それが元々巨人の一部だったかと思うと背筋が妙にぞわりとした。
自分も彼のようになれるだろうか。
この夢は最終的に鋼の巨人と一つになり戦場へと向かうのだ。
もしかして今回も……。
期待を込めて巨人を見る。
その視線を受けた巨人も優しく見つめ返した。
― レドきゅん、君は確かに兵士かもしれない。
でもね、兵士にだって色々種類があるんだよ。
君のような少年兵から年老いた老兵。
歩兵、騎兵、水兵、砲兵……。
その中でも君は最高位の兵士である『ワカメ兵』になる素養を持っているんだ! ―
― ワカメ、兵……? 俺が………? ―
― そうさ、この広大な銀河系に二人として存在しないワカメの伝道師、ワカメを
統べるもの。 レドきゅん、君はまさにキング・オブ・ワカメなのさ! ―
ワカメ兵、ワカメを統べるもの……。
これ程までに素晴らしい食品の魅力を広める事ができるワカメの唱道者。
ただの一兵士を遥かに超えた領分に僅かに尻すぼみし、逡巡する。
だが未だ途切れることのない豊かな磯の匂いには抗えるはずもなかった。
彼は、心を決める。
― やる、俺はワカメ兵に……キング・オブ・ワカメになってやる!
ワカメパンマン教えてくれ! 俺はどうすればワカメを極められる!? ―
― レドきゅん…よく言ってくれたね! 大丈夫、道は険しいけれど君にならできる!
今までヒディアーズと生死を賭けた戦いに身を投じながらも、戦場における数々の
矛盾に心を痛め続けてきた優しい君になら!
僕も出来る限り手伝うよ!
さあ往こう! あの宇宙の果てに光り輝く翠の星に向かって!
君に翠の海の、ワカメの加護あらんことを! ―
そう言うと巨人は彼の右手をギュッと握り、天高く飛び上がった。
超加速で翠の星へ向かう中彼の意識は徐々に混濁していき、そして途切れた。
しかし右手の温もりだけは、闇の帳の中にあっても消えることはなかった。
・
・
・
・
…見慣れた錆だらけの天井が映る。
ワカメパンマンは? ゆっくりと首を振るがそこには朽ちかけた薄暗い格納庫があるのみ。
夢、だった? とてもリアルな夢だった。
現実とも虚構とも区別がつきかねる。
しかしふとワカメパンマンに握られていた右手を嗅いでみる。
妙に、磯臭かった。
『レド少尉の覚醒を確認』
静まりきった格納庫に無機質な音声が響き渡る。
チェインバーだ。
レドの愛機であるマシンキャリバー、対ヒディアーズ殲滅兵器。
その全てを見通しながらも何も映さない緑色の瞳が、音声に合わせて律動的に明滅する。
『睡眠中貴官のアドレナリン分泌量の増大を確認。
貴官の生命維持を脅かす量ではなく、また速やかに基準値に回復したが、
しばしの休息が必要であると提言する』
どうやらこの機械は俺の体を気遣ってくれているらしい。
チェインバーはパイロット支援啓発インターフェイスなのだからそれも当然なのだが。
しかしその気遣いは無用というものだ。何故なら……。
「気にするなチェインバー。俺は至って健康だし休息の必要もない」
『根拠の提示を要請』
「これからエイミーの家で、朝食にワカメパンを食べるからな」
『全面的に同意する』
俺は備え付けられた水道で顔を洗うと、勇んで格納庫を出る。
目指すはエイミーの居宅があるステュムパリ号。
エイミーが朝食に手製のワカメパンをご馳走してくれるらしい、さっきから
腹の音が鳴り止まない。
さらに今日からピニオンの元でサルベージを手伝う事になる。
報酬として美味しいワカメパン食べ放題らしい。
俺の前途は洋々だった。
◇
ピニオンは焦っていた。
その懸念は他ならぬレドのこと。別にそれは仕事のことではない。
レドとブリキ野郎ならば海底に沈んだお宝捕り放題なのは明白だし、ベローズ等の
サルベージ屋に頼むより遥かに安上がりで済む。
それに伴いレドにそれなりの給料を支払っても余裕でお釣りがくる。
本心を言えばブリキ野郎に手伝ってもらって霧の海にあるクジライカの巣に赴きたいのだが、
流石に人々の畏怖の対象であるクジライカにはブリキ野郎といえど勝てないだろう。
一匹でもブリキ野郎がクジライカを倒してくれれば希望を持てるのだが、現時点では
確証もなくそれに賭けるわけにはいかない。
今は素直に諦めるしかなかった。
問題は、別のところにあるのだ。
「ワカメパン、どうすっかなぁ……」
そう、あの時はやけくそ気味に叫んでしまったが、ピニオンには美味いワカメパンの
当てなど全くなかったのだ。
だってワカメパンである。どこの家庭でも作られている一般的な食物だ。
味に大差などあるわけがない。
レドはワカメパンの事になると目の色が変わる。
普通のワカメパンを持って行ったらどんなお礼参りをされるか…。
あの不気味な茶こけた磯臭いパンのどこに魅力を感じるのか、理解に苦しむ。
うんうん唸りながら歩いていると、不意に声をかけられる。
それは自分の部下として機械整備に携わっている褐色肌の少女。
「あ、ピニオン! 何そんな所でうんうん唸ってるんだよ!
今日は朝一でオケアヌス号の動力部の点検するって言ってたじゃんか!」
「げ、マイタ!? ちょ、ちょっと待ってくれよ!
俺ぁ今ワカメパンの件で頭一杯でよぉ!」
「はぁ? ワカメパン!?
そんなのあたしが作ってやるから、早く仕事っ!」
「ちょっ、ホント勘弁してくれって……………おい。
マイタ、お前今何て言った?」
「え? な、何だよそんな真剣な顔して……。
ワカメパンくらいあたしが作ってやるって言ったんだけど……?」
「…………………………それだぜっ!!!」
「ひゃっ!?」
ワカメパンの磯の匂いはガルガンティアの住民を静かに包み込みだした。
エイミーのワカメパンに浮かれるレドは、それを遥かに凌駕する
褐色肌のワカメパンの女神との出逢いが待ち受けていることを、まだ知らない。
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