突然の轟音、振動、そして降り注ぐ大瀑布。
次から次へと襲いかかる意味不明な現象の数々に、魔法慣れし始めたばかりの明日菜も、一般人である夕映も、この上なく困惑していた。
「なななな何がどうなってるですか!?先ほどの地震に続きこの大雨、わけがわからないです!」
「そんなのこっちが聞きたいわよ綾瀬さん!ていうかこれ雨なの!?強いっていうか痛いわよ!?」
そんな風に喚きながらも、先ほどの轟音が聞こえてきた方角に走っていく。二人は合流してから、方角も分からずただ彷徨い歩いていただけだったので、せめて何かありそうな方向に行くしかなかった。
「うう、本当に今日は厄日です…。目を覚ましたら変なところに居るし、皆起こしても起きないし、外に出てみたら人がいっぱい死んでたし…うぅ…。」
囚われていた倉庫から出た瞬間に目に入った、血を流して斃れ伏す人間の姿は、そうそう忘れられるものではない。何回目かになる吐き気を何とか堪えていると、明日菜が不思議そうな声をあげた。
「え?し、死んでた?人が?」
「え?見てないんですか、神楽坂さん?あんなにたくさんいたのに?」
同じ場所に居たはずなのに、事実が噛み合っていない。夕映がふむ、と考え込む。
「神楽坂さんは、この山の巫女さんに起こされたんですよね?」
「う、うん…。」
「…でも神楽坂さんが出たときには、死体が無かった。私が目覚めたのは、神楽坂さんより前…。ということは…。」
「え、ど、どういうこと?」
困惑する明日菜を余所に、しばらく夕映は考え込んでいたようだが、やがてふぅ、と息を吐き、歩き出した。
「…行きましょう。神楽坂さん。」
「え?あ、うん。…綾瀬さん、何か考え事してたんじゃないの?」
「いいんです。」
「えっ、でも、その―――」
「いいんです。――――勘違いでした。ゴメンナサイです。」
有無を言わせない口調に、明日菜も渋々黙る。
夕映の表情はあからさまに凍りついていた。それが、気付いてはいけないことに気付いた、という表情であることは、明日菜にすら明白だった。
しばらくすると豪雨が止み、森の切れ目が見えた。同時に、何かが腐り落ちていくような臭いが立ち込める。顔を顰めて鼻を抓みながら、森の出口へと進んでいく。
そこにあったのは、大きな湖。それと――――――
―――――パン、パン、パン。
倒れ伏す人に向かって、銃らしき物を撃ち込む、一人の女性の姿。
足元を血で濡らすその女性の後ろ姿に、二人は確かに見覚えがあった。
「あ、あ、あ………。」
「ひっ…!」
人の命が目の前で奪われた。その現実を前に、悲鳴と吐き気が湧き上がり、それを上回る恐怖で抑え込まれた。今声を出したら殺される、そんな予感にかられ、必死で口を押さえ、茂みの中に隠れる。
「…見てたんだろ?出て来いよ。」
底冷えするような冷徹な声色に、一瞬で生への希望を断ち切られた。
指先まで震え、まともに顔を上げることすら出来ない。それでも、立ち上がることの出来た明日菜はマシな方で、夕映はがたがたと震えて座り込んでいた。
だが、駄目だ。無理にでも立ち上がらせなければいけない。
今自分たちを見つめているのは、正真正銘の死神だ。反発も、敵対も、等しく死。せめて従順でなければ、生き残ることなど出来やしない。
明日菜は夕映の腕を取り、立ち上がらせる。足が震え、歩ける様子ではないが、それは明日菜も同じだ。それでも、夕映を抱き寄せながら、震える歯を食いしばり、死神の元へ歩いていく。
長谷川千雨という、2年を同じ学び舎で過ごした級友の元へ。
#28 裏表ラバーズ
side 千雨
震える足取りで、神楽坂と綾瀬が近付いてくる。
距離的に、私と月詠の最後の会話は聞こえていないだろう。コイツらが見たのは、私が月詠を殺す瞬間のみ。
どの道、私が一般人でないことは知れただろう。
私は、不思議と落ち着いた心地で、その現実を甘受していた。もしかしたら、それを感じる感情すら、すでに麻痺しているのかもしれない。
銃口を下げ、指で「付いて来い」と合図を出し、二人に背を向けて歩いて行く。
神楽坂は一瞬呆けた後、怒鳴ろうとしたようだが、眼下の月詠の死体に怯んで何も言えなくなり、静かに後を追ってきた。綾瀬は何も言わない。
眠ったままの近衛を抱き起こし、初めて神楽坂たちの方を振り向いた。傍目にも顔を真っ青に染めている二人は、私の顔を見た瞬間、心臓を大きく跳ねさせた。
―――――怖い。
二人は全身でそう語っていた。
当たり前だ。こちとら最凶と名を馳せた殺人者。しかも人ひとり惨殺したばかりだ。クトゥルフの邪神と出逢うに等しい、精神的拷問だろう。こんなどす黒い姿を見せられて、平気でいられるはずがない。
―――――例え、2年を同じ教室で過ごした級友であろうと。
そんな
近衛を抱きかかえたまま、神楽坂に近寄っていく。
恐怖を噛み殺し、綾瀬を抱き寄せたまま、必死で私を睨む神楽坂。哀れで健気な小動物のようなその姿が、私にはとても眩しかった。
「近衛頼んだ。」
それだけ言って、神楽坂の右肩に近衛を引っかけつつ、その横をすり抜けていく。
無論、それで済むとは思っていないが。
「っ――――!ちょ、ちょっと待ちなさい―――じゃなくて、待ってよ長谷川さん!!全ッ然状況がつかめないわよ!?長谷川さんも魔法使いなの!?というか、何でこんな所に居て、こんな――――」
「―――私は魔法使いじゃない。」
多少ドスを利かせた声に、明日菜が一瞬で沈黙する。そして、二の句を告げさせる前に、横目で睨みをきかせる。
「…さっきの見てたんなら、分かるだろうが。私とお前たちが一緒だと思うな。
魔法が全てと思うな。世の中には、さらに踏み込んじゃいけない領域がある。お前たちが今見たのは、その一端だ。悪い事は言わない。近衛連れてすぐに立ち去れ。そして忘れろ。私も、お前たちとは関わらない。」
それだけ言い残し、さっさと去る事にした。
「――――――っ、ふざけないでよ、何バックレようとしてんのよ!?銃撃つところ見せられて、訳わかんない事言われて、ハイそうですかって引き下がれると思ってんの!?ちゃんと説明してよ長谷川さん!!アンタ何者なの!?」
が、すり抜けようとして、あっさり腕を掴まれた。かなり怒っている。納得するまで引き下がるつもりは無いだろう。
…にしても、神楽坂が腕を掴むのを躱せなかった事が、何気に衝撃的だ。左半身の怪我のせいだと思いたいが、そうだとしてもどれだけ手が出るの速いんだコイツ。
「…私も、聞かせてほしいことがあるです。」
それまで沈黙を保っていた綾瀬が、未だ小さく体を震わせ、神楽坂の胸に顔を伏せたまま、必死の思いで口を開く。
十中八九のどかの事だろう。恐怖で私の顔すらまともに見れないが、それでも問い質さねばならないと、勇気を振り絞ったのだ。
「…分かってる。のどかの事だろ?」
のどかの親友、綾瀬夕映。のどかとの付き合いの長さなら、私など及ぶべくもない。
そして、のどかを案ずる思いも人一倍だろう。
言い訳はしない。どんな罵倒でも受ける。
私は、綾瀬の方に顔を向ける。
そして、見た。
―――――神楽坂の真後ろ。
刀を振り翳す、鼻から上を失った、月詠の姿が。
サックスを咥える間も無い。銃弾を撃ち込んでもおそらく意味は無い。
私は咄嗟に、かつ自然に、その行動に移っていた。
神楽坂の胸倉を掴み、後ろに思いっきり引っ張る。ちょうど
引っ張られる勢いに負け、神楽坂が私の手を離したところで、私も神楽坂から手を離す。
その瞬間、月詠の剣が私の背中を斬りつけた。
鮮血が闇夜に舞う。
「ちょっと、何す――――――」
正面につんのめっていくのを、踏ん張って耐えた神楽坂と綾瀬が、文句を言おうと私の方を振り返り、硬直した。当然の反応だ。
亡霊が怨みを晴らす、正にその瞬間のような映像。
しかも、鼻から上が吹き飛んでいる、グロテスクな霊ならなおさらだ。
「ひっ―――――」
「う、あ―――――」
小さく悲鳴をあげる神楽坂と、失神する綾瀬。そして、ストラップを断ち切られ、地面に落ちる私のサックス。激痛と霞む視界の中で聴こえたのは、その二つだけだった。
一歩前に足を出すことも出来ず、無様に倒れ込む、かと思ったが、それより速く私の腰に足がめり込んだ。考えるまでもなく、月詠の脚だ。
「長谷川さん!!」
気絶しなかった神楽坂が、蹴飛ばされる私に視線を向ける。
その一瞬で、月詠は神楽坂の肩に乗る近衛を奪い取った。
私の体はずぶ濡れの地面に投げ出され、叩きつけられる。意識を力づくで引き剥がすような激痛が全身を駆け抜け、腕を動かすことすら許さない。
「ふん、ようやく倒れたか。」
嘲るような声が聞こえてきた。
首だけ起こして声のする方を見ると、初老の男が一人、湖上に立っていた。その男の元へ、月詠が水面を走り、駆け寄って行く。
「長谷川さん!しっかりして!」
私の方には神楽坂が駆け寄ってきた。今にも泣きそうな顔で、私の背中を抱き起こす。だが、触れられているはずの背中の感覚が薄い。…これは本格的にヤバそうだ。
「クハハハ―――仲の良いことだ。どうやら木乃香様は、級友に恵まれていたようだな?まさか月詠を誑かし、斃すような人間が居るとは思わなかったわい。おかげで儂まで此奴に殺されそうになった。転移符が無ければ危なかったわい。―――“出来損ない”め。最初からこうしておれば良かったわい。」
その言葉で全てを察した。コイツが月詠の“主人”なのだと。
そして今コイツは、月詠をあらん限りの言葉で侮辱している。最期の最期に、人間らしい安らぎを、温もりを得た月詠を、ようやく眠れた月詠を、無理矢理起こして。僅かに得た人間としての尊厳を奪い尽して。
―――お休みなさい、お母さん―――
「―――――っざけんなぁ!!」
激情のままに銃口を向け、引き金を引く。
が、束縛された月詠の亡骸が、銃弾を一身に浴びる。
「最期の孝行だ。しばらくそこで肉壁となっておれ。」
男が背を向け、祭壇があった地点に歩いていく。その後ろ姿を、月詠の体が覆い隠していた。
「ク…、ソッタ、レ…!!」
痛む体に鞭打つも、腕に力が入らない。サックスも手元に無いし、そもそもこの状態でまともに吹けるとは思えない。
「ダメ、それ以上動かないで!!死んじゃうわよ!?」
神楽坂が、私が腕を挙げようとしていることに気付き、肩を押さえる。
その瞬間、湖が青白く発光し始めた。男が湖上に立ち、祝詞らしきものを呟いている。それに呼応するかのように、湖底から差し込むような光は強さを増し、男の前で宙に浮かぶ近衛を照らす。
非常に幻想的で、時間を忘れて見入ってしまいそうな光景。
だが、そんな悠長なことをしている暇は無い。月詠が迫って来ている。まるで死体とは思えない速さだ。
耳を澄ませ、状況を判断する。
「神楽坂っ…!ちょっと時間稼いでくれ、10秒でいい…!」
「で、でも長谷川さんが―――」
「私のこと心配してる場合か!近衛が最優先だろうが!!」
戸惑う神楽坂を叱咤する。月詠が綾瀬を素通りし、一直線に向かってくる。
「っ、こ、この―――――近寄るなぁ!!」
神楽坂の蹴りが月詠の腹に当たり、月詠の体がよろける。が、すぐに起き上がり、剣を振り上げた。
「―――!伏せろ神楽坂!!」
後ろから迫る音に、慌てて指示を飛ばす。
驚いた顔で私に振り向く神楽坂に、いいからさっさと伏せろ、と目だけで合図する。何とか伝わったようで、その場にしゃがんでくれた。
その瞬間、私たちの頭上を通過する飛行物体。
物体Xは、月詠の胸に着弾し―――――炸裂した。
爆炎と爆風が、私たち3人の体を吹き飛ばす。
仰向けに転がっていた私の体は、爆風に煽られて浮き上がり、腹から着地した。左半身の傷口から悲鳴が上がる。
爆心地に近かった神楽坂は数メートル吹っ飛ばされた。私の方に飛んでこなくてよかった、と心から思う。
だがそんなことより、こうなる事を分かった上で、ミサイルなんて物を撃ち込んできた真性の馬鹿には、衝撃波を喰らわせてやらなきゃ気が済まない。
真後ろで車がドリフトをかける音が響く。ドアが開くのに合わせて、大声で叫んだ。
「茶々丸テメェ!!もっとマシなやり方あるだろうが!!」
「助けてあげたのにその態度。最低ですね。どうせならあなたも吹き飛んでしまえばよかったのに。」
澄まし顔でそんなことをのたまう辺り、少し本気っぽかった。
茶々丸は私を乱暴に引き起こしながら、月詠が吹き飛んだ方向に、左手のマシンガンを向ける。その傍らで気絶する綾瀬の元には、調とかいう少女がヴァイオリンを構えた姿勢で付き添っていた。
だが、月詠は起き上がらなかった。
「っ――――…。」
ミサイルの直撃は、すでにボロボロだった月詠の体にはこの上ない止めとなり、手足だけを残して完全に消し飛んでいた。
肉片すら残さない、虚無なる死。
だがそれでも、今度こそ永遠の眠りに着けたのだ。
「…おやすみ。今度こそ、ゆっくり休め。」
それだけ言い残して、諸悪の根源に目を向ける。
湖の発光はさらに強くなり、水面が渦潮のように荒れ狂っていた。男の姿が数人に分かれる。分身符だろう。一人では心許ないと考えたのか、それとも術に必要なのか。
同時に、湖から8本の水柱が天高く立ち昇った。内心で舌打ちする。あのとぐろを巻く水柱の前では、銃弾やミサイルなど何の意味もあるまい。
「…八柱に両儀の陰、正面に杜門…?」
湖を見る天ヶ崎から、訝しげな声が漏れる。だが、それを気にしている暇はない。
「アーウェルンクス!旅館で使ってた、水を手に変える魔法、使えるか!?」
「――――いけるよ。」
言うやいなや、アーウェルンクスの足元の水たまりが、2本の細く透明な腕に変わった。跳ねるように湖に伸びていったそれは、着水した瞬間に十数本の太く力強い腕となり、次々と竜巻防壁の隙間を抜けていった。
「―――――終わりだ。」
その言葉と同時に、竜巻の向こうから、十数本の腕が殺到する音が聞こえてきた。そのうちの一本が人の臓腑を貫く音も、確かに聞いた。
しかし、祝詞のような詠唱も、変わらず続いていた。
「おい、アーウェルンクス!殺し切れてないぞ!まだ何か唱えてる!」
「…確実に腹部を貫いたはずだけど。」
そう言いつつも、私の聴力を信用しているのか、アーウェルンクスは油断なく、さらなる魔法を放とうとしている。
瞬間、水柱が一斉に砕け散った。
そして私たちの眼前には、水の腕に腹部を貫かれながらも、変わらぬ姿勢で詠唱し続ける男の姿があった。
「っ―――――…!」
ようやく、私たちの見通しの甘さを知る。
初めから、覚悟の度合いが違ったのだ。コイツらはこの計画に命を賭けていた。計画の完遂のためなら、路傍に果てることすら厭わない。ましてやこれは大詰めだ。
罪も、罰も、罵りも、嘲りも、理不尽も、不名誉も、甘んじて受ける覚悟。あの男は今、己の腹を貫かれている感触を、棘が刺さった程度にしか感じていない。仲間の、自分の、他人の死すら厭わない、後戻りの許されない悲壮な決意。
何事も無かったかのように詠唱を続ける男。その後ろ姿に、知らず圧倒される。
何の恨みが、何への怒りが、何の思いが、これほどまでの決意を生みださせるのか。きっと、私たちには一生理解出来ないことに違いない。
だが、それでも、一つだけ分かることがある。
―――最初から、私たちは負けていたのだ。
もしコイツらに勝ちたかったなら、始めに近衛を殺しておかねばならなかった。
その選択肢が無かった時点で、コイツらの執念に、私たちが勝てるわけが無かったのだ。
「…く、は、ははは…は…!」
唸るような笑い声に、全身が強張った。私だけでなく、茶々丸やアーウェルンクス、神楽坂、天ヶ崎も、全員緊張するのが分かる。
―――違う。そんなこと問題じゃない。
コイツが、詠唱を止めて笑い声をあげたということは―――!
「――――全ては終わった。」
その言葉でようやく、男の足元で湖に沈んでいく近衛の姿を視認した。アーウェルンクスが水の腕を伸ばすが、もう遅い。近衛の体は完全に見えなくなり、波紋も残さず視界から消えた。
「木乃香!?」
神楽坂の悲鳴のような声があがる。
同時に、アーウェルンクスが水の腕を消す。男の腹を貫いていた腕が消え、空洞から血飛沫が弾けた。
「…今さら、だな…!すでに術は発動した…!本当は、制御下に置きたかったが、致し方ない…、存分に暴れろ…!」
会心の笑みを浮かべ、溢れる血もそのままに、湖上に立ち尽くす。
そこに横槍を入れたのは、天ヶ崎だった。
「…制御できない、やと?近衛木乃香は召喚用魔力炉兼コントローラーやと踏んどったけど…さっきの陣といい、何を仕込みはったんどすか?」
男は会心の笑みを崩さぬまま、天ヶ崎をちらりと見やる。
「見れば、分かるさ…。20年を、この術式の構築に費やした…。味わうがいい、圧倒的な鬼神の力を、根こそぎの絶望を…!儂等と同じ、大切な物を壊される喪失感を!」
その瞬間、湖全体が激しく渦巻き始めた。飛び込めば一瞬で引き千切られてしまいそうな程の渦流。
「関西は滅んだ。関東も滅ぶ。―――老害は消え、古き時代は終わりを告げる。」
男の声に、痛覚を取り戻したかのように、苦しげな息が混じる。限界なのだろう。
その視線が、私を、神楽坂を、アーウェルンクスを、そして天ヶ崎を捉える。
「貴様らの造る新時代…、仲間たちと、地獄で、見届けよう―――」
その言葉を最期に、男の体が崩れ落ち、渦流に飲み込まれていった。
最期まで、笑みを崩すことなく、勝ち誇ったまま。
全員が呆然とその姿を見送る。
そして、唐突に気付いた。湖の水位がどんどん下がっている。
「ふぇ、フェイト様!?み、湖の底の方から、何か、も、物凄い魔力が…!」
綾瀬を抱きかかえる少女が、青ざめた表情をしていた。茶々丸に視線を向けると、肯定の返事が返ってきた。どうやら、かなり不味い事態になっているらしい。
「…おい、そこのヴァイオリニスト。」
「えっ!?な、何よ…じゃなくて、な、何でしょうか!?」
あからさまに怯えられていた。コイツにそんな非道をした覚えはないのだが。
「いいから、綾瀬を安全なところに連れてってくれ。ついでに私のサックス取ってくれ。後ろの変身女は、神楽坂を。」
ヴァイオリニストも変身女も、戸惑ったような顔でアーウェルンクスを見て、指示を仰ごうとしていた。アーウェルンクスはちらりと私を見てから、二人に頷きを返した。
「じゃ、じゃあ…。」
「ちょ、ちょっと!何がどうなってるのよ!?あんた達、昨日旅館で襲ってきたやつらじゃないの!?何で長谷川さんと絡繰さんと仲良くしてるの!?」
目まぐるしい状況の変化に脳の許容量を超えてしまったらしい神楽坂が、意識を取り戻したかのように喚き始めた。混乱というよりは、パニック状態に近い。変身女の手を振り払い、私に近寄ってきたので、気絶させてくれ、とアーウェルンクスに目配せしておく。
「ねえ、何がどうなってるのよ、長谷川さん!全部知ってるんでしょ!?
すでに私がこの一連の騒動に深く関わっていると確信しているらしい。良い勘働きだが、ここで働かせないでほしかった。
詰め寄る神楽坂の視界を塞ぐように手で覆い、動きを止める。
「言っただろ、神楽坂。これ以上は踏み込むな。そして忘れろ。ここからは、素人が出張っていいような領域じゃない。後は私たちに任せてくれ。」
「っ…!分かってるわよ、私が足手まといなことくらい!けど、長谷川さんも、絡繰さんも、ここに残るんでしょう!?木乃香のために!素人がしゃしゃり出るなって言ってるけど、長谷川さんたちだって十分危険なんでしょう!?だったら―――だったら放っておけるわけないじゃない!!」
目を覆う私の手を力づくでどけ、私の目をまっすぐに見る。
「大切な友達なんだから!!」
思考が、心が、静止した。
神楽坂の曇りない瞳が私を見据える。溜まった涙は今にも零れ落ちそうで、心から私や、絡繰や、近衛を心配していることが分かる。
―――のどかが、私の部屋で、共に戦うことを誓った時と、同じ眼差し。
私と共に死地に踏み入り。
私以上に傷ついてしまった親友。
そうだ。のどかを傷つけたのは、他ならぬ――――――
その時だった。
ズドン、という、腹に重く響く衝撃が駆け抜けた。
「ッ―――!おい、天ヶ崎!」
「…生憎やけど、もう手遅れみたいやな。」
そう語る天ヶ崎は、顔中にびっしりと大粒の汗を張りつけていた。神楽坂の真後ろに立つアーウェルンクスも、自分を抱きかかえたままの茶々丸も、湖を凝視したまま動かない。
「な…何よ、コレ…。」
神楽坂すら、正体不明の悪寒に震えている。この場で魔力を感じ取れないのは私だけだが、それでも、月詠と相対した時に勝るとも劣らぬ異様な空気だけは感じ取れた。
湖全体に耳を澄ませる。風の唸りが、完全に干上がっていることを伝える。
そして、湖底に佇む何者かの存在も。
「…湖底に誰か―――――」
居る、と告げようとした瞬間、その湖底から、地を蹴立てる音と土煙が巻き起こる。
何か聞こえたわけでも無いのに、咄嗟に上を向く。何かが来る、という凄まじい悪寒。
そして、それはやってきた。
天より飛来し、悠々と着地を決め、私たちに向き直る。
その姿は。
「木乃、香……?」
神楽坂の震える声が、私たちの感情を物語っていた。
そこに居たのは近衛木乃香。しかし、つい数分前までの彼女とは、何もかもが違う。
端的に言えば、近衛は成長していた。
身長は目算で20cmは伸びており、持ち前の黒髪も腰まで届く程の長さとなり、瑞々しさを増している。足腰は均整の取れた細さで、肌は真珠のように白い。着ていた麻帆良の制服はサイズが合わなくなり、ミニスカートでへそ見せルックのようになっていた。
ちょうど近衛が10歳年を取ったような美女。
だが、その美しさ以上に、隠しきれない禍々しさが、私たちの肌を焼く。
感情の感じられない瞳。
全身から溢れ出る闘気。
そして何より、顔の右半分を覆い隠す、真紅の鬼面。
知らず、全身から汗が噴き出る。
「は、は、ははは、あはははは…!」
後ろから哄笑が聞こえた。天ヶ崎だ。一瞬恐怖で錯乱したのかと思ったが、その顔は喜色満面だった。
「まさか『神卸』とはなぁ…!とうに廃れたもんやと思うてたけど、何処から引っ張り出したのやら…。ハハッ、ホンマに
ケタケタと笑う天ヶ崎は、まるで今の状況を把握していないかのように見えた。その実、誰よりこの状況を熟知しているのだから、始末に負えない。
――――――瞬間。
天ヶ崎の腹に、近衛の拳がめり込んだ。
「「「「「「なっ――――――――!?」」」」」」
天ヶ崎が豪快に吹き飛んでいく。
全員の驚愕が重なる中で、私は目の前の現実の、さらに裏側の事実に驚愕していた。
(今、近衛の動きが捉えられなかった――――――!!)
動体視力と反射神経。聴力と並んで、私を
砂の星で培ったこれらは、私自身が自負する能力だ。
だがそれらを以てしても、今の近衛の初動を捉え切れなかった。捉えた時にはすでに一歩目を踏み出しており、その一歩で近衛は天ヶ崎に肉迫していた。
私の視力、聴力、反応力を、なお置き去りにするほどの、圧倒的な身体能力――――――!!
鬼が振り向く。
視線はすぐ近く。無防備に怯える、神楽坂に。
鉄槌が、振り下ろされた。
「
間一髪アーウェルンクスが割り込み、防壁を展開する。
だが、拳が触れた途端に粉々に砕け散った。そのまま振り落とされた拳は、その勢いで大地を爆砕させた。
アーウェルンクスが神楽坂を背負い、こちらに逃げてくる。
そのまま土煙の方へ右手を翳した。茶々丸もマシンガンの銃口を向ける。
「
アーウェルンクスの手から、無数の石の刃が飛ぶ。同時に、茶々丸のマシンガンも火を吹く。
「こっち!!速く!!」
綾瀬を背負ったヴァイオリニストが、神楽坂の肩を掴んで立ち上がらせた。神楽坂は一瞬抵抗を見せたが、本能が最大級の危険を察したのか、為すがままに連れて行かれた。
―――が、その直後、土煙の向こうの有り得ない現実を、私の耳が告げてきた。
「下がれ茶々丸、アーウェルンクス!!」
私の言葉で、二人が素早く下がった。
土煙が晴れる。
「なっ――――!?」
「そんな――――!?」
二人だけでなく、神楽坂やヴァイオリニストも息を呑む気配が伝わってくる。
腕全体を覆う、赤鬼を連想させるような太い腕甲。
肩口から生える、もう一振りの腕。
合計4本の鬼の腕が、アーウェルンクスの刃と茶々丸の銃弾を全て掴み取っていた。
4本の巨腕が静かに動く。
即座に叫んだ。
「防げ!!」
アーウェルンクスが防壁を展開するのと、近衛が掴んだ刃と銃弾を投げ返すのはほぼ同時だった。鼻先で散弾銃を乱射されるに等しい。
「―――今だ。」
アーウェルンクスがそう呟いた瞬間、足元の水が私たちを包む。
そして次の瞬間には、世界が変わっていた。
果てしない空。底のない世界。小島ほどもある浮遊物の数々。エヴァの別荘ですら、ここまで広く、遠く、荘厳でなかった。
正に無限の世界という言葉がしっくり来る。ある程度ファンタジー世界には慣れたつもりだったが、ただの驕りであったらしい。
着地すると、目の前に天ヶ崎が居た。その隣には感情の読めない無口娘と、肩で息をするヴァイオリニスト。
「誰も死んでへんようやな。重畳重畳。」
天ヶ崎は腹を擦っている。見ると、破れた服の裏地に符が縫い付けてある。おそらく防御用の物だろう。さすが、抜け目ない。
「ここ、何処?」
「環はんのアーティファクト『
無口娘がこくんと頷く。確かにこれは褒めてしかるべき判断だ。一応サムズアップをしておくと、無口娘もサムズアップで返してきた。
「神楽坂と綾瀬は?」
「外。栞はんがついてる。一応眠らせといた。」
「そうか。」
神楽坂たちのことも気がかりだが、まずは聞くべきことを聞き出さねばならない。
「…で、ありゃ何だ。見たところ近衛っぽいが。」
「ん、あれは近衛木乃香とは違います。強いて言うなら、近衛木乃香の殻を被った鬼神様、やな。」
―――全身の細胞が凍るような錯覚。
近衛木乃香の、殻。それが意味するところは―――
「あれは『神卸』―――その名の通り、体に神霊を宿し、その言葉を伝え、行動を起こすっちゅう術や。シャーマンみたいなモンやな。今の近衛木乃香は、その体と魂に、この湖で封印されとった鬼神『両面宿儺』を宿しとる。無理やり剥がそうとすれば、近衛木乃香の魂も傷つくくらいに、強固にな。」
つまり、近衛の身体を鬼神の魂が無理矢理乗っ取ったということ。私たちが知る近衛木乃香とは全くの別人、ということ。
天ヶ崎の淡々とした説明に口を挟んだのは、茶々丸だった。
「ですが、そうした降霊儀法は受容体となる人間にも相応の魔力が求められるはず。仮にも鬼神を宿すとなれば―――」
「だからこその近衛木乃香であり、その結果があの姿っちゅうことやな。爺共が何を思ってたかは知らんが、憎い近衛家の血に仇名す手段としては、これ以上最適な物件は無いやろ。成長したんは単に、体の最適化っちゅうとこやな。女子中学生の体のままやと戦いづらいやろし。」
復讐対象であり、最大の駒。関西の幹部たちの怒りは、恨みは、それほどまでに激しかったのか。私は彼らの絶望を知る由もない。無いが故に、その嘆きを思い知らされる。
桜咲はこの事を知らなかったのだろう。知っていたら、協力しているはずがない。だが、麻帆良からは去っていたかもしれない。木乃香を連れて、二人で遠くへ。
まぁそれはさておき、という天ヶ崎の言葉で、ようやく思考の海から脱出した。
「…さて。今の近衛木乃香は正真正銘鬼神。それも、力はそのままに人間サイズに圧縮されて、機動力が大幅に上昇。F1カー並の速度で走れる戦車同然や。しかも―――」
そこで天ヶ崎は一度言葉を切る。はぁ、とため息をついてから、憮然とした口調に変わった。
「奴さん、ほぼ間違いなく、自己再生機能を備えとる。か弱い人型やと鬼神の力を受け止めきれんさかい、自壊せんよう修復能力はずば抜けとるやろな。」
それじゃどうしようもねぇじゃねぇか―――と言おうとしたが、続くアーウェルンクスの言葉で鎮静化した。
「つまり、自己修復に時間を割かせれば、その隙に何とか出来るってことだろう?」
「その通り。手酷い傷負わせれば、その再生に時間がかかる。そこでウチが封印処置施せば
天ヶ崎が私たちを見回すのにつられ、私も全員を見る。
「…アーウェルンクスと、茶々丸だけか。」
「…せやな。」
誰があの鬼神に傷を負わせるのか。
天ヶ崎と無口娘は不可だ。天ヶ崎はこの作戦の肝。万が一にでも負傷されては困る。同時に、この世界を展開する無口娘も欠くことは出来ない。
私は万全ならば勝てる自信があるが、月詠との戦いで負った傷が深すぎる。
ヴァイオリニストはそもそも勝ち目が薄い。
そして誰か一人、天ヶ崎と無口娘の護衛に回らなければいけない。
すなわち。
あの鬼神と
まぁここはアーウェルンクスが最適だろう。
そんな意図を含めて視線を送ると、アーウェルンクスも分かってる、といった感じで立ち上がった。
「…方針は決まったな。」
天ヶ崎の言葉に頷く。
さあ――――この長く、陰惨な夜の
Side out
まるで空気そのものになったかのような身体の軽さに、思わず感動した。それでいて自らの誇る腕力は微塵も衰えず、むしろ速度が増してより鋭い一撃を繰り出せるようになった。
確かに、慌てふためく矮小な人間共を見下す楽しみを失うこと、そして脆弱な人間の体に留められることは、少々気に障りはするが、その引き換えに韋駄天の如き身軽さを手に入れたとなれば、諦めもつく。
―――今ならばあの、憎き赤髪の魔法使いなど取るに足らぬ。
だがまずはこの妙な空間から抜け出さねば、と合理的思考に移り変わったところで。
「―――
空から石柱が落ちてきた。
気だるげに見上げ、膝をほとんど曲げずに跳躍する。
迫り来る石柱を、真正面から殴りつける。
一瞬の均衡の後、石柱に縦に亀裂が走り、呆気なく粉砕された。
残骸を蹴って進み、手近な浮遊巨石に指を捩じ込んで掴まり、周囲を探る。
おそらくはあの中で魔力量の一番大きい、白い少年だろう。狙いは最初に吹き飛ばした陰陽師による再封印か、と当たりをつける。
ちょうど良い性能テストだ、と嗤う。
まずはこの、煩わしい空間内に居る数名を血祭りにあげ、悠々と娑婆に出て、不遜な人間共に、鬼神の威光を見せ付ける。
まずは京の都。続いて坂東、奥州、火の国。そして海を越え征き、我が栄光と破壊の道程を三千世界に轟かせよう――――
その時だった。
先ほど砕いた石柱の瓦礫――その中でも一際大きい物が、他の瓦礫が墜ちていくのを尻目に、自分の眼前に迫って来ていた。
―――この程度で。
内心嘲笑いながら、左の腕1本で受け止める。そして残る腕で瓦礫を完全に砕こうとした直後。
瓦礫が、爆発した。
――――――!?
目の前で炸裂した石塊の破片が、鬼神の体を襲う。咄嗟に左手で目元を覆い隠した。再生は出来るが、目を潰されるわけにはいかない。やはり人間の体は不便だと、そう感じながら視界を開いた。
そして、真正面からのフックが、左頬を捉える。
惚れ惚れするようなクリーンヒット。さすがの鬼神も脳を揺らされ、軽く昏倒状態に陥る。
そしてその隙を見逃すことなく、左手から至近距離で放たれた
――――……!
上半分が砕けた浮遊石の上で、鬼神は己の不覚を恥じた。
今の人型――すなわち木乃香の身体は、鬼神の魂に馴染みやすいよう最適化されている。そのため、人型でありながら実質的に人間の身体を超越している部分が多く、鉄鉱石並の体の硬度も持ち合わせている。
なので、肉体的な損傷は少ないが、脆弱な人間の拳で昏倒させられかけたというのは、恥以外の何物でもない。
次はそんな無様は見せない、と己の名に誓おうとし―――
「―――この程度ですか。所詮は時代に淘汰される存在、ただのガラクタですね。」
この上ない侮辱に、一気に怒りが沸騰した。
―――殺す。肉片一つ残さない。
明らかな憎悪と殺意を以て、声のした方に目を向ける。
隣の浮遊石の頂点に立ち、鬼神を見下ろす、緑髪の人影。
「―――ああ、申し遅れました。」
太古の鬼神は驚愕する。
その正体は、人間ではなく。
ましてや、人形や人型などでもない。
彼女こそ新時代の至高。
人工の身で人間を超えんと欲する、最新にして最心の
「絡繰茶々丸。
(後書き)
第28話。成長したんだ…!僕を取りこめる年齢まで…!回。いやー一度言ってみたかったんだこの台詞。
そんなわけで夜はまだまだ終わらない。修学旅行編最終戦は茶々丸vs鬼神木乃香、略して鬼乃香。もちろんこの略称は本編では使わないですけどね。
鬼神憑依はプロットの時点で考えてました。千雨と月詠の決戦の後で、何とか噛ませにも時間つぶしにもならない感じで鬼神を出せるタイミングを作れないか、と思いまして、その結果考えついたのが木乃香の鬼神化でした。パワーはそのままに機動力大幅アップ。言うなればカイリキー+ガブリアス。
そして茶々丸ようやく参戦。フェイトが来ると思った?残念、茶々丸でした!ここ以外修学旅行で茶々丸の見せ場無いもの!本当は京都空中大決戦とかにするつもりでしたが、環のアーティファクト使わせたかったのと、そもそも鬼神空飛べんのかという問題から没に。ちなみにその場合、取材中のヘリコプターが巻き込まれた挙句、プロペラとかを武器にされる予定でした(笑)
…というか今回、思ったより長くなってしまって、完成を焦るあまり少し粗が目立ってしまってます。ゴメンナサイ。
今回のサブタイはwowaka氏作のミリオン級ボカロ曲「裏表ラバーズ」。おそらく他人…というか女性に紹介しづらいボカロ名曲の一つ。PVとかは言うに及ばず。前に見た東方キャラ総動員MMDはかなり良かった。惜しむらくは、お空の出番を…。
次回は茶々丸の本領発揮回。後2,3話で修学旅行編も終わりです。長かった…。ではまた次回!