楽しい時は早く過ぎる。
サイトとルイズは植物園を後にしてそれからまた、様々な場所を回るころには夜の帳が下りた。
二人は十分に楽しんだと判断し19時には屋敷へと戻った。
そのことでシエスタはサイトに対して怒っていたが。
その後夕食を3人でし、ささやかながらもサイトにとって最高のもてなしとなった。
そして、休日最後の夜。
ルイズはまたしても、サイトの部屋を訪れていた。
ただ、今日は大人しくベッドに座っているが。
サイトはと言うと、正反対に置かれた椅子の方に腰掛けている。
が、妙に警戒しているように見えなくもない。
「その態度はないでしょう?」
ルイズは口をとがらせたので、サイトは警戒を解いたものの前科があるだけにルイズの物言いもどうかと言うところだろう。
「それとも、今日はシエスタが良いとでも言うの? だとしたら、私はあんたの教育を間違えたと言わざるを得ないわ」
「その口を少しは閉じてくれませんか。私としても貴女の配慮無き言葉が胸に刺さり、心苦しいのです」
「それこそ誘っているのではないかしら?」
ルイズは唇をややサイトに突き出すように見せ、また艶やかに笑った。
「……本当、いい加減にしてくれませんと、シエスタに強制退去して貰いますよ?」
「あら、もう少し私の話に乗ってくれても良いのではないかしら」
「ご勘弁願いたい」
「今日からまた、貴方と長く離れると言うのに……?」
「う……」
ルイズは目を潤わせ、サイトに哀願するように言った。
これも演技だと分かっているのだが、サイトとしては放っておくわけにはいかない。
「お泣きにならないでください」
「だって、サイトが冷たいんですもの……」
「ああ、もう……」
サイトは立ち上がりルイズに歩み寄った。
「本当に、泣かないでください。たとえ演技だとして、貴女が悲しむ姿は見たくないのですから」
ベッドに座るルイズの横に座り、手持ちのハンカチーフでルイズの涙を拭う。
ルイズはサイトに黙って涙を拭かれるままになる。
今の二人の姿をかつての友たちが見れば「またやっているよ、あのバカップルは」という反応だっただろう。
それこそ、同期生ですら呆れるほどのサイトの忠誠ぶりだが、ついにはルイズの身内にすら言われる始末である。
特にサイトの態度がルイズに対して過保護であると称したのはヴァリエール家の次女カトレアだ。
彼女もルイズには止めどない愛情を注いでいたが、その人をおいて過保護と言わしむるサイトの態度はこれいかなるものか。
日本と呼ばれる国で空虚な人生を送ってきた男も、変われば変わるものだと賞賛すべきか悩むところである。
「これで大丈夫ですね」
そう言って下ろそうとしたサイトの左手をルイズは掴んだ。
思わぬことにサイトはハンカチーフを落とすが、それを気にもとめずルイズはそのまま自分の頬に当て、目を瞑った。
「……どうしました?」
「貴方の悲しみを和らげているのよ。こうすれば貴方が背負うものを、少しは私にも分けられると思う」
「離して、いただけないでしょうか」
「どうして?」
「貴女を苦しめる物は、出来る限り無くしたい」
「それは、私と共に歩むことを拒否したことに同じよ」
「……」
「私と貴方の関係とは、そんな安い物だったかしら?」
「決して、そのようなことはございません」
「なら私を信じなさい。貴方の主としての私ではなく、貴方を信じる1人の人間。そう、ルイズ・フランソワーズを」
その言葉を聞き、サイトは口答えをやめた。
ただ、疑問を口にする。
「何故、このようなことを」
「昨日見た、貴方の剣。一段と細身になっていた」
「……ええ」
「その露と消えた人々の為にも、貴方は戦わなければならない。そして当然――」
目を開き、ルイズはサイトの腕を掴むとそのまま上体を崩し自分の膝の上にサイトの頭を移動させた。
ちょうどサイトは、ルイズの顔を覗けるかたちになる。
ルイズはじっとサイトを見つめ、そして鍛えられた肩に触れた。
「双肩に背負った人々の為にも。戦争を終わらせるのよ」
「……はい」
サイトの業。
それはサイトが所有している剣を見れば分かる。
今もサイトが使用している剣は、戦争が始まる直前ルイズがサイトのために特注した長剣だった。
我々、現代世界においては「バスタード・ソード」と呼ばれる、斬ることも突くこともできる剣に一番近いだろう。
とは言っても、特注品であるから正しくはサイトの好みに合わせた物で、刃の長さは85センチメートル程、片手でしか使用することを想定していないので重心もそう不安定ではない。
そのサイトの剣だが、ルイズは昨日の鍛錬の時に敏感にその刃が減っていることに気づいていたのだ。
刃が減っているということはそれだけ刃こぼれなどが激しく、研いだ証拠でもある。
先程ルイズがサイトの左手を掴んだのも、サイトが左腕でその剣を振るっていることを知っているから。
「紋章(ルーン)の方は、どうかしら」
「問題ありません。ただ、また少し赤み帯びましたが」
「そう……また」
サイトが天才たりえるのは、何もサイトの才覚もさることながら、別の力があることも今や周知の事実である。
ガンダールヴと呼ばれる、ハルケギニアにて起こる戦争に轟くその名。
ガンダールヴの紋章は時として人の腕に刻まれ、常人ならざる力を与える。
その紋章は今、サイトの左手の甲に刻まれている。
その紋章が紅くなってきていると気がついたのは、戦争が始まって2年程の時。
文献によるとガンダールヴの使い手と称される者達の末路は悲惨であり、そして共通することは紋章が全て紅き色で刻印されていたということ。
ただし、この事実はルイズを含め極僅かな人間しか知らない。
いつ破滅がサイトに訪れるか分からない。
そうであってもサイトは戦わなければならないのだ。
サイトの業は募るばかりであり、それでいて救いがないなど、あまりに酷い仕打ちだと誰もが思うだろう。
だが、それでも今のサイトは戦うのだ。
戦いの果てに何があるのや知れぬ。
だが、その先に少しでも希望の光が差しているならば。
己の身が滅ぼうと、その光をトリステインに届かせねばならないのだ。
己の愛する国、民を守らんがため。
己の愛する輩、彼等の志を貫くため。
己の愛するシエスタ、また優しき隣人達のため。
己の愛する――
「頼みが、あります」
サイトは思考を中断した。
これ以上考えることは、それこそ無駄であると悟ったのだ。
「何かしら」
「もう少しだけ、こうしておいて頂けますか」
それより今は、ただルイズのぬくもりがほしかった。
「少しと言わず。ずっと、こうしていたいものね」
「……すまない」
「良いのよ」
この時のルイズはのちにサイトの回想で「聖母のごとく」と述懐されるほど、慈愛に満ちた声をしていた。
「だって私は貴方の――」
だが次第に遠のく意識の中、サイトはルイズの言葉を最後まで聞くことはできなかった。
静かに寝息を立てているサイトを見て、ルイズは胸が張り裂けそうな気持ちになった。
どうして、サイトがこんなに辛い目にあわなければならないのか、と。
それなのに。
「私は」
初めて会った時の印象は最悪で、こんなヤツが使い魔だなんて死んでもゴメンだと在りし日のルイズは思っていた。
だが、互いを知るうちに2人は共にいることが当たり前になり、ルイズはその中でサイトのことを多く知り、好きになっていた。
いつも軽口を言ってみたり、巫山戯てしまうのも、サイトは全て許してくれると分かっているからである。
だけど、それだけにどうしても本心で語ることができない自分がもどかしく、いつもサイトがルイズの思っていることに気づいてくれるのを待ってばかり。
今もそうだ。
ようやく心から言えた言葉も、サイトが自分に甘えてくれたからとの自覚がある。
サイトの額に手をかざす。
少しくすぐったそうな顔をサイトはしたが、すぐに戻る。
その表情はとても安らかで、本当にルイズに全てを委ねていることが伺える。
「ふん、隙だらけよ」
そうは言ったものの、ルイズは今サイトに安らぎを与えられていると、嬉しく思っていた。
既にルイズは肩を並べて戦場に立つことはできない。
ならばせめてサイトが背負った業を分かち、助けたいと思い、先程の行動に出た。
サイトとしては複雑な心境だっただろうが、拒まなかった。
やはり1人で背負うには、彼の業は深すぎ、重すぎたのだ。
愛する人々をすでに戦争で失った。
敵同士となり、かつての友を殺した。
だがそれでも、敵を憎みはせず、己が奪ってしまった多くの人生のことを思い泣き、自身の境遇を嘆きはせず、戦場に立つ多くの兵への安寧を願う。
数多の血を啜り、剣は本来の姿から変質し、魔剣へと変貌しつつ有る。
サイトの人を想う力が強靭であるから、その狂気も今は放出されていないが、いつその均衡が崩れてもおかしくない程、剣は不気味に紅く光る。
ガンダールヴの紋章もそうだ。
紋章が全て紅くなった時、どんな災厄がサイトに襲うのか、想像するだけでルイズは怖くなった。
当然サイトも分かっているはずである。
自分を覆い尽くすような、恐ろしい闇がすぐ後ろに迫っていることを。
それでも、それでもサイトは戦う。
業を一身に背負い、それで全ての罪過を清算されるならば、死を選ぶことも厭わぬ。
だが、現実に罪過は清算されるどころか増え続ける。
常人ならば既に精神異常をきたし、死んでいるはずだ。
だが、サイトは死を選ばず、戦う。
死することより過酷な、修羅道である。
その修羅道を選び、歩み続けるのが、サイト・ヒラガと言う男なのだ。
いつか、修羅道を抜けた時に全ての人の罪過が清算されると信じて。
サイトは決して死を恐れていない。
ただ、何も成せずに死ぬることが恐ろしいのだ。
だが、サイトのここまでに至った考えの根幹はとても簡単な感情で構成されている。
そう「愛」である。
たった1人の女性に向けた「愛」がいつしか、サイトの構成する人の輪に「仁愛」として伝播するようになっていた。
たった1人の女性と言うのは当然、ルイズのことに他ならない。
ルイズが聞けば、きっとヤキモチをやくだろう。
ルイズの愛の感情はサイト一身に向けられているのに、サイトの愛は周囲にまで広がっていると。
しかし逆に考えればサイトのルイズを愛すると言う想いが無ければ、人への仁愛も喪失する。
ルイズなくして、サイトの愛は存在しないのだから結局のところルイズもサイトの愛を一身に受けているに他ならないだろう。
それに度合いが違うとはいえ、ルイズもサイトと同様に周囲の人々を愛していることに変わりない。
やはり、この2人は似たもの同士だと言えるだろう。
仮令彼等の愛が戦争に邪魔されようと、変わることはない。
それがサイトとルイズが出会い相互に理解してからというもの振れることのない、人としての軸なのだろう。
だけど今はささやかな幸せを噛み締めたいと、ルイズは胸に溢れる恐怖を押さえた。
サイトも変わらず、安心しきって寝ている。
「ちょっと、釈然としないわ」
そう言いながら、サイトの頬を指で突く。
あまりに緊張を解いている表情を見て、どうして自分ばかり心配しているのだと思えるくらいにルイズもいつもの調子には戻った。
だが、いつまでもこうはしていられない。
外はまだ寒く、お互い風邪をひいてしまうだろう。
「しようがない」
ルイズは慎重にサイトの上体を起こし、きちんとベッドに横たえる。
まだ全快とはいえない身体でサイトの屈強な身体を運ぶのは大変だったが、幸いルイズはバランスを崩すことはなかった。
掛け布団は畳んでベッドの端に置かれていたので苦労せずサイトに被せられた。
「これでよし、と」
ルイズは満足気に言うと、すぐにサイトの部屋の扉を開け、周囲にシエスタがいないか確認した。
「こっちもよし」
シエスタの気配が無いので、すぐに扉を締めベッドの方に戻る。
歩行難でいるとは思えぬ、さながら猫のような敏捷さである。
ちなみに、シエスタはルイズがサイトの部屋にいったことを知っているし、だからと言って邪魔をするほど野暮ではないのでとっくに寝ている。
閑話休題、ルイズは満を持して? 眠るサイトの横に入った。
サイトの腕をそれこそ技で固めていると思えるほどしっかりと抱きつく。
もしもサイトが寝ていなければ、二の腕にあたる柔らかな感触に赤面していただろう。
ルイズも普段は涼しい顔してサイトに迫るわりに、内心では酷く恥ずかしく思っているが。
今はサイトが寝ているので気兼ねなく抱きつくことができる。
昔はよく夜1人で寝るのが怖くて姉と一緒に寝ることがあったが、まさかこの年になってまで恐怖にかられて寝ることになるとは、等のルイズも思わなかっただろう。
ただまあ、姉にせよサイトにせよ愛する者、代わりない者である。
もう一度溢れかけた不安を、サイトにより強く抱きつくことで払拭すると、ルイズもすぐに眠ることができた。
夜中、サイトは腕の感触に気がつき目を覚ました。
隣には、昨日と同じくルイズがいる。
流石に2度目、驚きはしない。
後数時間で別れる辛さはある。
だが、植物園でのことを思い出し、サイトは辛さを無視することができた。
おそらく、自分達が投入され前線が動くことで戦いの帰趨に何らかの関与はできるとサイトは踏んでいた。
両国共に、国境線近くの住民は既に厭戦気分であるし、特にトリステインは国力の限界を越える兵力の投入をしている。
これがまだ1年前の戦いであるなら、マザリーニ含め政治屋はガリアへの徹底抗戦を叫んでいたことだろうが、よもや兵が無ければ講和に動くしかあるまい。
本来、戦争と言うのはどのように戦いを終わらせるか精査を重ねるところなのに、トリステインは勝てると踏んでろくに終戦工作に力も入れず戦ってきた。
だが、その前提も遂に雪崩作戦の事実上の失敗により覆された。
因果応報と言うには、あまりに払った代償は大きいが今ならまだ、ガリアを講和のテーブルにつかせることも無理ではない。
戦争に直接関与していないが、ガリアに次ぐ国力を持つゲルマニアに仲介を頼めば何とかなるだろう。
ゲルマニアとて、トリステインに大量の兵器、物資を輸入し富を得たから文句を言うまい。
だが、これ以上前線が押されるようなことがあれば一転、ゲルマニアすら宣戦布告しかねない危うさもある。
全て、時間の勝負だ。
その為には、敵の要衝を押さえ、勝つことはなくとも負けぬ体勢を敵国内で展開することが必要であり、その構築は容易ならざるものがあるが、サイトには秘策があった。
「やめよう」
サイトはつぶやくと、もう1度目を瞑った。
戦争の集結も大事だが、今は愛する人のそばにいるのだから、と。
サイトは常々、自分を律するためにルイズから距離を置こうと考えていた。
それも、サイトはルイズといると自分というものが危うくなることを自覚していたからだ。
ルイズの様々な表情、声音、挙動、どれもがサイトを、サイトの心を危うくさせる。
ルイズといると、何もかも忘れてただ共にいたいと願わずにいられない。
だが実際にサイトは軍人で、国防の義務がある。
サイトは愛する民を守るため、死ぬことは厭わぬがそれでもルイズといるとその決意すら鈍ってしまう。
それは軍人の気構えには非ず、ただの『甘え』だと、ただの『臆病』だと他の軍人には唾棄されることだろう。
だが、知人から言わせればその『甘え』こそがサイトの正体なのだ。
圧倒的な強さに内包するその弱さが、サイトなのだと。
そして何より、ルイズがその弱さを理解しているから。
だからサイトは、自分を律することなく全てさらけ出したのだ。
腕越しに伝わる、やわらかな感触と甘い匂いに、今は溺れていよう。
今日もプロポーズ、とはいかないものだがそれに準じることは言えた。
正式には、この戦争を終わらせてから、ルイズに自分から、面と向かって言おうとサイトは思った。
全て、サイトの全ての源であるルイズの傍にいるために。
夜明けの空は、薄暗かった。
一足先にルイズは部屋を出ていき、サイトもすぐに支度をするとダイニングへと向かった。
すでにシエスタは朝食の用意をしていて、妙ににやけていたがサイトは気にしないことにした。
シエスタはすぐさまサイトに追求しようとしたが、ルイズが現れたので自重した。
そして3人、朝食を終えると片付けも適当に、玄関へと向かった。
「良い休日が過ごせました」
「それは良かったわ」
玄関先で、互いにそれだけ言った。
「ちょっと、それだけですか!?」
不満気に口にしたのはシエスタだ。
「何か文句があるのかしら?」
「だって、その……おふたりは付き合っていられるのだから、別れ際にキスの1つや2つくらい……」
「妙なことを考えるメイドはクビよ」
「そんな! 酷いです!」
2人のいつもどおりの会話。
それを見て、サイトの顔には自然と笑顔がこぼれた。
「それでは、本当にこれで」
サイトは答礼した。
「ええ」
「あ、はい! お気をつけてサイトさん!」
2人が答えてくれたことに満足すると、サイトは背を向け玄関から出て行った。
部下の駐屯する場まで戻り、幕舎へと入るとすぐにサイトは、副官のマティアス中佐に近況を聞いた。
「どうだ、この2日で何かあったか?」
「王都にて合流予定であった部隊が、本日合流致します。他はありません」
「よろしい。して、その名簿は?」
「こちらに」
マティアスは部隊編成の書かれた名簿を手渡した。
「ふむ。本当に合計で4万名の増加か」
「はい。これで我が独立部隊は12万を擁することになります」
「末端まで指揮がきちんと届くかね?」
「それは問題ないかと。少なくとも、新兵はそれほどいませんし、将官には閣下のお知り合いも多数いらっしゃります」
「どれ」
サイトは将官のリストを確認した。
すると確かに、知っている名が多数見受けられる。
と言うよりも同期生まで配属されていることに驚きを隠せなかった。
レイナールは事前にいることを知っていたとはいえ、他に同期生ではギムリ、ロレーヌ(共に少佐)がいて、後輩であったケティ(中尉)、ベアトリス(大尉)もいた。
「中々の陣容だな、これは」
「はい。これほどのスタッフが集まっていることには驚きが隠しきれません」
「いや、今までが酷すぎたのだよ」
「おっしゃるとおりです」
マティアスはひとしきり笑うと、唐突に表情を変えた。
「そうでした閣下、1点のみお伝え忘れていることがございました」
「めずらしいな、君が忘れていたんなんて。それで?」
「は、先程一足先にクルデンホルフ大尉が幕舎を訪れ、非公式で閣下に用向きがあるとのことでした。小官の判断で認めるわけにはいかなかったので、一応お引き取り願いましたが」
「ベア――いやクルデンホルフ大尉だな?」
「はい、そうであります」
「大尉は今、どこにいる」
「現在は合流予定の部隊の集合場所の見回りをしているはずです。後1時間ほどで合流時間になりますので」
「そうなると9時か。王都での行進は確か、1時半からだったな?」
「はい。ただし、閣下は辞令を受け取らなければなりませんので、12時には軍令部に出頭なさってください」
「よしわかった。では11時になったら今度は、私の幕舎に来るように大尉に伝えてくれ」
「本来ならば一介の尉官が許されることではありませんが、了解しました」
「助かる」
マティアスはあえて事情を聞くことなく、侍従兵に伝令させた。
「では、私は一足先に戻る。また、緊急の用向きがあればその都度呼ぶように」
「は」
マティアスが答礼するのを見て、サイトは幕舎を出た。
サイトが自分の幕舎に篭り、気が付けば既に10時50分になっていた。
すると、不意に仮設扉特有の乾いたノック音が聞こえた。
「どうぞ」
と短く答えると、扉が開くと、一足早い夏が訪れた。
実際に今は春先であるが、その人物、クルデンホルフ大尉の髪の色がサイトにはひまわりのように見受けられたのである。
「クルデンホルフ大尉、ただ今参りました」
サイトが将軍であるので、当然敬礼をする。
しかし、それ以上にクルデンホルフ大尉の表情を見るに、別の言葉を言いたくてウズウズしているようだ。
クルデンホルフ大尉(本名ベアトリス・ジャネット・ド・クルデンホルフ)はルイズの遠い親戚筋にあたる人物で、かつて存在したクルデンホルフ大公国の姫である。
かつてと言うのは、クルデンホルフ大公国がトリステインに先王よりも過去の時代に併合されたからに他ならない。
今ではクルデンホルフ侯爵家として、トリステイン貴族に名を連ねるにとどまっているが、王位継承権もあり依然として高位な家柄の女性である。
また、その間柄からヴァリエール家とも親戚にあたり、ルイズとは昔から親しくしてもらっていたのである。
その関係もあり、サイトも面識のある女性である。
また、何と言ってもクルデンホルフ大尉は軍学校第72期生。
サイトとルイズが軍学校最高位出会った時に入学してきた、れっきとした後輩である。
「お久しぶりですね、サイト兄様」
テーブルを挟んだ向かいに座るなり、クルデンホルフ大尉は昔ながらの呼び名でサイトを呼んだ。
「ああ、久しぶり。と言うか未だにその呼び方なのかい?」
サイトは苦笑し、口調も親しい者に対するものになっていた。
ここからはベアトリスと表記する、はとてもルイズに懐いていた。
ベアトリスが一人っ子だったことがあり、それでルイズのことをお姉様と呼んでいたのだ。
殊の外サイトも気に入りルイズと同様、サイトのことも「兄様」と呼ぶようになった。
過去には爵位も何もなかったので、その言い方は不味いだろうとサイトはベアトリスを諌めていたが、今ではそうも言えないサイトの昇進ぶりは、やはり驚嘆すべきことだろう。
「ええ、兄様は兄様ですもの。それよりルイズ姉様の件、心よりお見舞い申し上げます。兄様も、辛かったことと存じます」
「生きていたから、良かったよ。辛かったことは確かだけどね」
「ルイズ姉様は今?」
「息災だよ」
「それを聞いて安心しました。わたくしのところに姉様が負傷したとの連絡が来た時、思わず震え上がりましたの。あの姉様が戦傷するなんて、考えられなかったものですから」
「まあ、ね。でも現実にルイズは傷つき、退役を余儀なくされた。信じられなかったことだけど」
「ええ、でも。不謹慎を承知で言いますけどわたくしは姉様が退役されて安堵もしています」
「なぜだい?」
「少なくとも、退役されれば戦場で死ぬことはないでしょう? わたくしにとって姉様は大切な人ですから」
「……ああ、そうだね」
「どうかしました?」
「いや。それよりベアトリス。私は君が生きていたこと、素直に嬉しく思うよ」
「あら、兄様はとっくにわたくしが死んだと思っていましたか?」
「『雪崩作戦』の時は色々と情報が錯綜したからね、君の安否も良く分からなかったんだ。君が生きていると知ったのは本当、最近のことなんだ」
何せベアトリスにとって初陣ともいえる戦いでトリステイン軍は大敗北をした。
サイトが心配しなかったわけではないが、情報もさることながらルイズのことなども重なり少々ないがしろにしていたことをサイトは後悔していた。
サイトのことを割合知るベアトリスは、サイトが後悔していることがわかり、少しばかり笑った。
サイトに心配されたことが嬉しかったのだ。
「確かに、あの時のトリステイン軍の混乱ぶりときたら滑稽でした。ルイズ姉様のいる中央軍が崩壊した瞬間に、両翼の軍まで新雪のごとく簡単に崩されましたもの」
「ベアトリスはあの時、どの部隊にいたんだ?」
「ちょうど兄様の反対、右翼の軍にいました」
「右翼だって? 1番犠牲者の多い場所じゃないか。良く生き残ってくれた」
右翼の軍団には練度の低い将、兵で多数構成されていたため、多くの犠牲が出たのだ。
「いいえ、わたくしだけでしたら、部隊ごと全滅して死んでいました。今、ここに生きて兄様に会えたのも縁、なのでしょうね」
「縁?」
「はい。わたくし達多くの新兵を逃してくれたのは他ならぬ兄様の御友人、マリコルヌ大佐殿ですから」
「マリコルヌ。そうか、彼が……」
マリコルヌは気さくで優しい、とても戦争が似合う男ではなかった。
それに洞察力の優れたかなりの切れ者であり、それでいてシエスタなど平民をまったく差別すること無いことからサイトはマリコルヌを「偉大な政治家になる」と評していたのだが。
マリコルヌが死んだことに、衝撃を受けずにはいられなかった。
「やはり、ご存知なかったですか」
ベアトリスは情報の錯綜が原因だと思ってそう言ったのだろうが、サイトは内心で違うと思った。
そう、サイトは同期生が戦死したと言う現実を知りたくなかったのだ。
「……ああ、誰が死んだかまでは分からなかったんだ。そうか、マリコルヌは新兵を守って死んだのか」
「とても勇敢な方でした。怯えるわたくしたちを励まし、最後に後退の時間を稼ぐため陣地に1人残り、果てたとのことです。わたくしたちは早期に後退していましたので、大佐殿の最後は聞いた話なのですが」
「彼らしい、よ。人一倍、人のことを思いやれる男だったから」
サイトは目元を抑えると、力なく言葉をつないだ。
「また私は、大切な人を失ったんだな」
「……お察しします」
「ベアトリスも、失ったのだろう?」
「はい、同期生の2割は戦死しました。ですけど兄様の同期生は既に6割、いえ7割を越える損害を……」
「そうか、7割。数値にすると感覚も麻痺するな。まだ3割いる、とね」
「あ……。そ、そう言うつもりでは」
「すまない、ただ言ってみただけだよ。ベアトリスがそんなつもりで言ったわけではないと、分かっているよ。だけど、どうしてもね……」
「兄様……」
「もう同期達の声も、思い出せなくなってきているんだ。『大侵攻』作戦の折、3分の1の同期が死に、『雪崩』作戦でついに7割が死に。私は、確かにルイズのために、彼女の愛する国のために戦うつもりだけど、もしかしたら彼等の弔いの意味も、あるのかもしれない」
大侵攻とは、ガリアと開戦してから半年あまりの快進撃と、その後の撤退戦までのことだ。
あの撤退戦だけで、多くの同期生が傷つき、死んだ。
雪崩作戦でもそうだ、多くの同期生が死んでいる。
同期生が皆、戦死したのは撤退戦の時ばかりである。
70期生の犠牲の上に、現在の両国の膠着はなんとか保っているのだ。
逆に言えば、その虎の子の70期生の大半を喪失したことにより、今その膠着も失われようとしている。
「分かっているんだ、復讐で戦うことの愚かさはね。相手にだって恋人や家族、大切な人のために戦い死んでいるのだから」
「ですけど、これは戦争です」
「そうだよ、ベアトリス。だけど、そう言って割り切ることがとても難しいんだ」
「兄様は、優しいから。本音を言えば、わたくしは兄様にだって戦争に出て欲しくないです」
「それを言うなら私だって、君を戦争なんかに出したくない。ルイズの大切な妹分で、私の可愛い妹分でもあるから」
「でも、戦わないといけません」
ベアトリスはこんな時に不謹慎だと思ったけど顔を少し赤らめてしまった。
その様子を見て、サイトも平常心を取り戻した。
「そうだね。私達は軍人。本来の職務である国体、国民を守らなければね」
「はい、分かっていますわ兄様」
「うん、良い返事だ。だけど、私の指揮下に入ったからには区別せずに厳しく接するからね? その点は注意するように」
「私からも、そのようにお願いいたします。でも今は」
「分かっているよベアトリス。今の私はトリステイン軍中将のサイトではなく、ベアトリスの兄貴分のサイトだ」
「わたくしの前では、ただの青年にはなっていただけないのですか?」
「こら、からかうものではないよ」
「はーい、ごめんなさい兄様」
ベアトリスはイタズラっぽい笑った。
「分かればよろしい。さて、それでは久々にあった可愛い妹との再会を祝して、ささやかなプレゼントをあげよう」
「まあ、本当ですか?」
「本当さ。それこそ可愛い妹を元気づけてあげないと。仮にベアトリスが暗い顔してここから出ていってごらん、確実に私は部下達に殴られる!」
おどけた調子でサイトは言った。
ベアトリスは少し間をおいて、笑った。
「もう、なんですかそれ。まるで兄様が上官じゃないみたい」
「そうとも、今はただの兄だからね。だから、兄からのプレゼントを受け取ってくれ」
「はい、喜んで。それで、一体何を下さるのですか?」
「うん、よくぞ聞いてくれた」
サイトはベアトリスに笑顔が戻ったことに安堵しつつ、前日植物園で買ったものを懐から取り出した。
「これは、押し花ですよね? ずいぶんと大きな花ですけど、これは何と言う花ですか?」
「その花は杜若と言うんだ」
「カキツバタ?」
「そう、東方から運ばれてきためずらしい花さ。偶然押し花として加工されていたから買ったんだ」
「まあ、大変めずらしい花なのですね。それにとても綺麗。ですけど、いいのですか貰ってしまって。これはかなり高価でしょう?」
「気にしないでくれ。久々にベアトリスに会えて、私は本当に嬉しかったんだ。それに、その押し花は女性が持っていたほうが似合うだろう?」
「そこまで言うのなら……プレゼントを受け取らせていただきます。ありがとう、兄様。それではわたくしからもプレゼントを」
「え?」
ベアトリスはそう言うとテーブルに手をついて身体を乗り出し、サイトの頬にキスをした。
「可愛い妹から、兄様へのプレゼントですわ」
「良い女性になったな、彼女も」
ベアトリスが退出した後、サイトも幕舎を出て、今は1人軍令部に向かう途中である。
護衛1人もつけないで歩くなんてアホか、と言いたくなるがゾロゾロと軍人が町中を歩くのも確かに問題だから、今回の判断は間違いではなかろう。
サイトは歩きながら、ベアトリスの成長ぶりに感動していた。
以前から品の良いお嬢様と言った感じであったが、今はそれにまた、慈しみが周囲に放たれていて、感動したのだ。
ルイズいわく、最初は高飛車でどうしようもないお嬢様だったらしいが、それもルイズ持ち前の力で矯正されたのだろう。
サイトにはベアトリスがルイズに叱られている情景が容易に想像された。
それもそのはず、サイトもルイズと出会った当初、態度が悪かった。
サイトも間然に態度を改められたのはやはり、ルイズの力があったからこそである。
その点で、サイトとベアトリスは似たもの同士である。
違う点があるとすればベアトリスは侯爵家の跡取り娘であることだ。
貴族は家名のために、平然と死を選ぶ傾向が強い。
ベアトリスもそうであるとは言い切れないが、それでも動向には注意した方が良いだろうと、サイトは考えた。
サイトが生まれ17歳まで育った国、その国が犯した戦争での過ち。
今のトリステインはその過ちをなぞっているようにしか思えなかった。
退くべき時に退かず、死んだ貴族将校は多い。
それこそ前線での将校の自決もあり、現場の兵にいらぬ混乱をもたらした。
名誉を守ることが大切であるのは分かるが、それ以上に守るべきもの、人命がある。
国力が無く、技術すら他国の流用であるトリステインに残された誇るべきは人材であろうに、それを『大侵攻』、『雪崩』作戦で無為に失っているのだから始末に終えない。
だが、今更嘆いても詮無きこと。
今は隷下の部下のことを気遣い、少しでも被害を抑えなければなるまい。
そうこう考えているうちに、赤レンガの建物がサイトの視界に入ってきた。
赤レンガで辞令を受け取り、さっさと軍営に戻るなり辞令を見ると、サイトは流石に呆れた。
作戦と言うが、その内容はどう考えても軍の全体を把握していない荒唐無稽なものであった。
主に防衛をしつつ、戦線をこじ開けるなど無茶な話だ。
たかが12万人でどうやって攻防をやってのけろと言うのだ、とサイトは憤りを隠せなかった。
そのかわり、独立部隊としての自由行動権もある程度認められているので、その点を活かせばあるいは自分の考えた終戦への道も見えてくるのではないかと、思えた。
ただ、問題はその終戦工作を誰がやってくれるのか、と思った時に該当する人物がアニエス近衛隊中将しかいないことが恐ろしかった。
その為、事前に用意した書簡は、先程赤レンガに行った時にアニエスの副官、ミシェル少佐に渡しておいたが……
それでも不安は拭い切れないし、そもそも自分の計画が頓挫する可能性もある。
そうなった時、どうやって戦争を終わらせ無ければならないのかと言われれば、領土の割譲と賠償しか思いつかなかった。
ともすれば、トリステイン王国は建国200余年の歴史に終止符を打つことになるだろう。
同時に、ルイズの願いを叶えられなかったことになる。
それは、死より辛いことである。
「いや……」
今は主敵に向け、全力で戦うべきだろう。
後は臨機応変に軍を動かすより無い。
サイトの計画した作戦の方針はあくまで敵前線の突破、しかる後に敵国要衝の占領だ。
よもや迷うことはない。
サイトは号令をかけ、兵を広場に集めることにした。
そろそろ王都内を行進し、戦地へと向かわなければならない。
露天壇上に立ちその姿を見るに、練度にあまり問題はないとサイトは判断した。
サイト・ヒラガ中将隷下の将兵12万。
おそらく、この兵力がトリステイン軍の出せる最後の兵力である。
予備隊の指揮や練度などあてになどならないから最初から戦力としては除外と考え、近衛隊が出撃する事も、もはやありえまい。
いくら暗愚といえども、アリエッタ女王も近衛隊が出ていく事態になれば戦争が不味い方向に向かっていると分かってくれるだろう。
そうなった後は、アニエス中将の動き次第だとサイトは思った。
だが、できることなら違う、自分の考えた計画で終戦へ向かわせたかった。
戦争の犠牲になるのは民なのだから、その被害はできることなら減らしたい。
そう、サイトの矜持にかけて民がこれ以上の被害を受けるのは食い止めなければならない。
その思いがあるからこそ、この王都行軍を前にサイトは自分の心境を兵に伝えると決めた。
12万の兵の視線が、サイトに集中する。
その圧力に屈することのないよう、サイトは力を入れて声を出した。
「私が諸君の指揮官、サイト・ヒラガ中将だ。王都の行軍を前に諸君を集めたのは他でもない。ここに、私の考えを示しておこうと考えたからだ。諸君も知っての通り、我が国の置かれた状況は芳しくない。最前線にて戦う我等が戦友は、援軍の到来が来ることを信じ、耐え忍んでいる。今なお儚くも散る、彼等の献身殉国なくば、我等が王国の均衡は既に無きものとなっていたに違いない。今、王国の荒廃は掛かりてこの一戦にある。我等が敬愛する女王陛下治める王国を、敵に渡すことなどどうしてできようか。トリステイン王家の威光は世に遍く差している。その光無くして、我等輩の繁栄は無く、よって当然ながら我々は王家に忠義を尽くし、戦わなければならない。我々は決して、屈しってはならない。集いし我等含め、前線の将兵も皆一徹、女王陛下の御為に。今世に暗雲が出、光を阻むも、我等が暗雲を取り払い我と我等だけでなく、ハルケギニアの隈無く民に光を与えるのだ。八紘一宇共栄を我等の手で勝ち取ろうではないか。諸君は全て、女王陛下の威光を伝播させる使命を持ち、女王陛下の名の下に集う、一騎当千の兵であるのだ。故に私も奮励努力し、諸君に恥じぬ戦いをする」
1度言葉を切ったが、誰も動く気配はない。
皆、サイトのまとう異様な空気に飲まれている。
するとサイトはあらかじめ壇上に置かれていた旗を掴み、掲げた。
旗は白地にただ一文字、黒で『才』と書かれている。
ハルケギニアの人々には読めぬ字だが、それでも構わないのだ。
白地の旗は、ハルケギニア広しと言えどサイトの物しかないからである。
「我が軍団の旗印である。この旗は決して倒れることはない。倒れぬから、負ける道理がないのだ」
サイトの言葉に呼応してか、旗は風に閃いた。
『才』の揮毫は当然、サイト直筆である。
それだけに、最後の演説を含め不思議な力が宿っているように錯覚されたと、後に副官のマティアスは言っている。
『才』旗をトリステイン王国軍の旗の横に掲げ、交差させる。
さながら交差された旗は、王家を守護する二槍に見えた。
「最後になるが諸君、敵は強大だが私は決して恐れない。諸君も我と思わば一歩も後に退いてはならない。命を惜しむな、名を惜しめ。死すべき時は今を於いて他にない。さすれば決して、義なき者と人は誹りはせぬ。我々が死力を尽くすことにより、金甌無欠、神国トリステインは盤石となるのだ」
大きな声で話したわけではない。
だが、サイトの固い意志によって紡ぎだされた言葉は兵達に強く伝わった。
その証拠に、兵達は一瞬呆気にとられ、すぐに気を取り直し一斉に雄叫びを上げた。
兵を見ながら、サイトはこれで指揮が上がったと確信した。
だが、同時に兵を騙したような、いたたまれない気になった。
一体この中の何人が、生きて故郷に帰ってくることができるのか。
それは、サイト自身にも分からなかった。
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