【Side:水穂】

 一向に出口の見えない森の中を、半日の間、私はずっと彷徨っていた。
 すでに日は沈み、辺りは薄暗くなっている。そろそろ今日中に森を抜けることは諦め、野営の準備をしなくてはいけない。
 正直、土の汚れも落としたいし、長い時間、森の中を彷徨って居ただけあって、汗で肌がべたついて気持ち悪い。

「はあ……お風呂に入りたいわ」

 せめて湖でもあればいいのだけど、発見したのは水浴びには向きそうにない小川だけだ。
 それに、森の中だけあって少し肌寒い。この地方の風土や、季節的な事柄も、大きく関係していそうだ。
 森の様子を観察すれば、ある程度のことは察することが出来る。
 実りのある果物や木の実が少ない。足元の木の葉を掻き分ければ、まだ花開かぬ芽の息吹が湿った土の上に顔を見せ、春の訪れを教えてくれている。
 これから、この辺りも徐々に暖かくなっていくのだろう。しかし、私が困っているのは今だ。
 こんな状態では、寒くて水浴びなど出来るはずもない。精々、体を拭いて汗を拭う程度のことだ。
 とは言っても、突然のことで、殆ど何の準備も出来ないまま放り出された所為もあって、タオルなどは当然持ち合わせていない。

「さすがにこれじゃ、駄目ね……」

 着物の袖に忍ばせて置いた小物入れは無事だった。しかし、これは困った。
 所持している物と言えば、精々、ハンカチや(くし)に手鏡など、幾つかの小物程度だ。手帳やペンなど森では何の役にも立たない。他に入っている物も同様だ。
 食料くらいなら、どうにか確保できそうではあるが、まさかここに来てサバイバル生活を余儀なくされるとは思いもしなかった。
 このまま何日も森の中を彷徨うなんてことになれば、事態は最悪の一途を辿ることになりそうだ。

「せめて、天然の温泉でもあれば……」

 そんな都合の良いものが、おいそれと転がっているはずもない。
 とは言っても、何よりも、一番に私が求めているのは風呂≠セ。
 それさえあれば、取り敢えず、このサバイバル生活にも諦めがつく。

「そんな都合良く行くはずもないか……」

 と、諦めかけていた矢先のことだった。
 鼻を刺激する微かな硫黄の匂い。気持ち、周囲の気温が上がっている気がする。
 まさか――と思い、私は慌てて木々を掻き分け、匂いのする方へと足を向ける。
 大きな岩が重なるその先に、段々と見えてくる湯気の姿。間違いない。

「本当にあった……」

 そう、それは紛れもなく、探し求めていた温泉≠セった。

【Side out】





異世界の伝道師 第43話『温泉と美女』
作者 193






【Side:マリア】

 太陽が沈み、外も薄暗くなり、屋敷に明かりが灯される。
 今は初春、寒さに堪え忍ぶ厳しい冬も終わりを迎え、土の中から力強く姿を見せた瑞々しい草木の息吹が、春の訪れを感じさせてくる季節。
 まだ、この時期は夜ともなると少し肌寒い。屋敷の中と違い、外は更に冷える。
 念のため、橙色のストールを肩に掛け、風呂桶にタオルや洗面用具を詰め込むと、私はそっと客室から抜け出した。

「あの侍従達は居ませんわね」

 物陰から、侍従達の姿がないことを確認しながら、少しずつ移動していく。
 目指す場所は、タロウさんの書斎だ。

『マリア様、メイド隊の侍従が二人、西口よりそちらに向かっています』
「了解。引き続き、監視をお願いしますわ」

 ユキネは屋敷の警備室から、侍従達の動きをモニタしてくれている。
 私は胸元に仕込んだマイクと、耳元のイヤフォンでユキネと連絡を取りながら、その指示に従って慎重かつ冷静に、少しずつ目的地へと距離を縮めていく。
 ここで侍従達に、特にマリエルに見つかることだけは避けたかった。

 現在のところ、一番の強敵はあの子だ。主人に献身的に尽くし、何か事情がない限りは片時も主の傍を離れようとしない。
 タロウさんと二人きりになるために、一番に警戒しなくてはいけないのは、間違いなく、あの子の存在だった。
 風呂に行くなどと言う話をすれば、まず間違いなく、彼の背中を流しに現れるはずだ。
 それでは、温泉を利用して彼との距離を縮めようと言う、私とユキネの計画は破綻してしまうことになる。
 マリエルが現れれば、他の侍従達も必ず嗅ぎ付けて来る。そうなってからでは、計画の修正は不可能だ。

「はあはあ……どうですか? 状況は?」
『オールクリアです。その辺りに、侍従達の姿は見当たりません』

 ようやく、タロウさんの書斎の前に辿り着いた。私は深呼吸をして息を整える。
 侍従達をやり過ごすために、身を潜め、迂回する必要があったため、結構な時間が掛かってしまった。
 しかし、その苦労もようやく報われる。後はさり気なくタロウさんの仕事を労い、温泉に誘い出すだけだ。

「では、行きますわ」

 コンコンとノックを二回する。しかし、どれだけ待っても返事がない。
 私は首を傾げた。どこかに出掛けたにしても、夕食にはまだ早い。
 マリエル達の仕事を手伝っている? いや、それもない。ユキネが確認済みだ。
 故に、彼はずっと書斎に篭もって仕事をしているものとばかりに、私達は考えていた。

「タロウさん、入りますわよ」

 そう言って、私は扉を開けて部屋の中に入る。
 部屋の中を見渡すが、やはり、どこにもタロウさんの姿は見当たらない。
 正面にある執務机の上には、先程まで行っていたのであろう、仕事の痕跡がしっかりと残されていた。
 屋敷の帳簿や、領地の資料などが積み重ねられ、無造作に散乱している。帳簿に至っては、かなりの量だ。
 これを一人で目を通し、すべてチェックしていたに違いない。やはり、タロウさんは凄い。

「でも、一体どこに?」
『――マリア様っ!』

 その時だった。ユキネの焦った様子の声に気付き、私はハッと後を振り返る。
 油断していた。タロウさんの仕事振りに感心して、周囲に気をやることを忘れていた。
 案の定、私の後、開け放たれた扉の前に、マリエルが立っていた。

「マリア様、太老様の書斎で何を?」
「いえ、その……そう! タロウさんをお食事に誘いに来たのです!」
「ストールを羽織って、風呂桶をお持ちでですか?」
「う――っ!」

 言い逃れ出来るはずもない状況だった。
 この格好を見れば、どこに行こうとしていたかなど一目瞭然だ。
 私はガックリと肩を落とし、その場で観念する。ここにタロウさんが居ないのであれば、今日のところは諦めるしかない。
 今からタロウさんを捜したところで、すぐに夕食だ。そうなれば、侍従達が彼を風呂へと誘うだろう。

「マリア様」
「……何ですの?」

 嫌味の一つでも言われるか、釘を刺させるくらいのことは覚悟していた。
 いや、直接的なことは言われなくても、遠回しに侍従達と結託して、私達の計画を阻止するくらいのことはしてくるかも知れない。
 明日以降、私達は、より厳しい条件下に置かれると言う事だ。

「一緒に、お風呂に行きませんか?」
「……はい?」

 考えていた答えとは、まったく違う反応。
 それは想像もしなかった、マリエルからの誘いだった。

【Side out】





【Side:水穂】

 こんなところに温泉があるとは思いもしなかった。
 それも、どうやら共同浴場のようで、中央に仕切られた柵を境に男湯と女湯に別れ、丁度、利用中の女性客とも出会うことが出来た。
 困っている矢先、ここで人に会えるとは思っていなかっただけに、嬉しい誤算だった。

「ああ、いいお湯……本当に助かったわ」

 湯に浸かり、体の疲れを癒していく、天然の温泉に入るのは随分と久し振りのことだ。
 先程まで、色々と憂鬱なことが続いて気が滅入っていたが、そんな嫌なことを忘れられるくらい、今はリラックスしていた。

「あ、私の洗面用具を使ってくれて構いませんよ」
「ありがとうございます。何から何まで……」

 この共同浴場を利用している人達も、親切な人達ばかりで本当に助かった。
 年の頃は十代半ばと言ったところか? その少女達が三人。皆、年若い少女達ばかりだが、泥だらけの私を見て、お風呂に一緒させてくれたばかりか、こうして洗面用具を貸してくれたり、着替えの用意までしてくれた。
 他人の善意が、これほど嬉しいと思ったことはない。

「でも、森の中で遭難だなんて、大変でしたね」
「はい……正直、どうしようかと困り果てていただけに、本当に助かりました」
「いいんですよ。困った時は、お互い様です。
 私達もある御方に親切にしてもらって、助けてもらったことがありますから」

 本当に良い子達だ。何の承諾もなしに私をこんなところに放り出した、鷲羽様や瀬戸様にも見習って欲しい。
 口が裂けても、そんな事を本人の前で言えるはずもないのだが、それは切実な願いだった。

「とても凄い御方なのですね」
「はい! その御方に御仕え出来るのが、今の私達の誇りなんです!」

 どうやら、この子達の仕えている主人は相当に人の出来た方のようで、いつも民のことを考え、そのために尽力されているらしい。
 誰にも不可能だった数々の偉業を成し遂げ、今や世界中に注目される偉人なのだとか。
 軽く話を聞いただけだが、どこの世界にも凄い人がいるものだと感心した。
 こうして、温泉を利用できているのも、その方が、嘗ては貴族用だった温泉施設を改装し、使用人に解放されたのだそうだ。
 彼女達が、こうして一番風呂に入ることが出来たのも、その方が勧めてくださったかららしい。
 日頃の仕事疲れを労い、温泉で疲れを癒して欲しいと――

 何とも出来た主人がいたものだ。理想的な上司と言ってもいい。
 ほんの少しだけ、その方と瀬戸様を交換してくれないかと思ったのは、口には出さず、胸の中だけに留めておいた。

「すみません。こんな服しかなくて……私達の仕事着なんですが、サイズ合いますか?」
「贅沢は言ってられないわよね……ありがたく、使わせて頂きます」

 風呂から上がった私に手渡されたのは、首元に赤いスカーフ、裾にフリルをあしらったメイド服だった。
 私には少し可愛すぎる気がしなくはないが、丈は足元までと長く、紺を基調とした落ち着いた感じのクラシックなメイド服だったので、まだ何とか許容範囲と言える。
 太老くんが以前に話していた『メイド喫茶』と言う場所の、派手でスカートの短いメイド服でなくて安心した。
 こうした私の知識は、瀬戸様や太老くんの影響が大きい。
 あの二人が、そういう部分で結託すると、いつも私を玩具にしようと良からぬことを企むからだ。

「今日は屋敷の方にお泊り頂けるように、手配して置きましたから。あ、お腹も空いてますよね。
 私達、使用人と同じ食事でよければ、直ぐにでも、ご用意させて頂きますよ」
「何から何まで、すみません……」

 私は、彼女達の厚意に、ずっと頭を下げっ放しだった。
 ここまでしてもらって、さすがに何もなしと言う訳にはいかない。

「あの……よろしければ、何か手伝わさせて頂けませんか?」
「仕事をですか? でも……」
「このまま、お世話に成りっ放しと言うのも悪いですし、どうかお願いします」

 困った様子で、どうしようかと相談し始める侍従の少女達。
 しかし、私の真剣な思いが通じたのか? 他の侍従達と顔を見合わせ、「わかりました」と笑顔で答えてくれた。
 使用人の仕事など経験したことはないが、樹雷では太老くんの身の回りの世話は、大概、私がやっていた。
 彼はずぼら≠ネところがあるので、放っておくと部屋が大変なことになる上に、面白いことを見つけ、そっちに集中し始めると他のことが見えなくなって、食事を抜くこともあるからだ。
 幾ら口を酸っぱくして言っても、一向に改善が見られないので、いつしか、太老くんの身の回りの世話は私が担当するようになっていた。
 出来の悪い子ほど可愛いと言うが、そんな感じかも知れない。彼は、どことなく母性本能を刺激するからだ。

「では、お願いします」
「はい!」

 何れにせよ、今は自分の仕事に集中しよう。

【Side out】





【Side:マリア】

「…………」
「いいお湯ですね。マリア様」

 これは完全に想定外だった。いや、想定して然るべきだったのかも知れない。
 公爵が屋敷の外に作った無駄にだだっ広い露天風呂は、いつの間に入り口に『男湯』と『女湯』の暖簾(のれん)が掲げられ、中央に設けられた間仕切りで、男女別に区切られた共同浴場に早変わりしていた。

 マリエルに『人手を少し貸してくれない?』と言ったタロウさんは、あっと言う間に木材を組み合わせて間仕切りを作り上げ、何処からともなく持って来た暖簾(のれん)を入り口に掲げて、簡易の共同浴場を仕立ててしまったらしい。

 こうした無駄を嫌う彼のことだ。大方、こんなに広いのだから、自分達だけしか使わないのは勿体無いと思ったに違いない。
 完成して直ぐに、メイド隊の面々は、彼に一番風呂を勧めてもらったらしく、仕事が一段落した者から順番に温泉を利用することになったのだが、マリエルは持ち場を離れることが出来なかったため、一番遅くなってしまったらしい。
 この後、時間帯を決めて、屋敷の使用人達にも開放するように指示をもらっているとか。実に、タロウさんらしい采配だ。

「太老様は、いつも皆のことを考えてくださっている。御優しい方ですから」
「そう……ですわね」

 これは罰なのだろう。邪な計画は企てるなと言う警告に違いない。
 でも、それでも仕方ないかと思い始めていた。タロウさんのことだ。皆が喜ぶ顔が見たかっただけなのだろう。
 自分が真っ先に利用するならともかく、使用人達を先になど、本当に彼らしい。

「実はマリア様とユキネ様にも御声を掛けるつもりで、部屋にお伺いしたのですよ」
「え……」
「太老様が、『マリアちゃん達と仲良く、温泉にでも浸かって欲しい』って、そう仰ったんです」
「タロウさんが……?」

 恥ずかしかった。ずっとマリエル達に嫉妬して、対抗意識を燃やしていた自分が恥ずかしくて仕方なかった。
 タロウさんは、すべて気付いていたのだろう。だから、突然こんな事を企画したのだ。
 私達の計画を逆手にとって、マリエル達との仲を取り持とうとしてくれたに違いない。

「マリア様……」
「ユキネ……」

 他の侍従に案内され、ユキネも温泉にやって来た。
 彼女も事情を聞かされたのだろう。困惑した様子で、暗い表情を浮かべている。

「マリア様!?」

 マリエルが、驚いた様子で声を上げる。私が何の前触れもなく、湯に潜ったからだ。
 ここが温泉でよかったと思う。湯気が邪魔をして、細やかな表情は見抜けなかったはずだ。
 湯で、零れ落ちそうになった涙を洗い流す。

 こんな顔を、彼女には見せたくなかった。

【Side out】





 ……TO BE CONTINUED



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