【Side:マリエル】
「――♪」
自然と鼻歌を歌ってしまうほど、私は機嫌を良くしていた。
「マリエル……何か悪いもんでも食ったのか?」
グレースが何やら失礼なことを言っているが、今日の私はいつになく機嫌がいいので、そのくらいで怒ったりなどしない。
姉として、心の広いところを見せなければ――
最近、水穂様と何かをやっている様子だし、きっとグレースも疲れているのだろう。だから、苛立っているに違いない。
たまには、そんな妹を労い、紅茶でも淹れてあげようと、グレースとその脇で静かに本を読んでいたシンシアに、紅茶と、午前中に焼いたクッキーを差し出した。
「小言も飛んで来ない上に……紅茶にクッキーまで……やっぱりおかしい」
「失礼なことを言わないの。少し嬉しいことがあっただけよ」
「嬉しいこと?」
訝しげな表情を浮かべながら、そう聞いてくるグレースに、私は笑顔でそう返事を返す。
そう、昨日はとても良い事があった。今でも夢のように思えてならないほど凄く嬉しい出来事が。
あの太老様が、私に向かって――
『マリエル。俺にはキミが必要≠ネんだ』
そう仰られたのだ。他にも何か仰っていたような気がするが、正直舞い上がってしまって殆どを聞き逃してしまった。
後になって勿体無いことをしてしまった、と後悔したが、今となっては仕方ない。
太老様によもや、あんな告白をされるとは思ってもいなかったので、あの時は頭の中が嬉しさと驚きで一杯だった。
それに気付けば、ギュッと太老様に抱きしめられていた。
恐れ多いことだとは思いながらも、その幸せから私は逃れることが出来なかった。
太老様に、心から必要とされることへの喜び。それは、主人を敬愛するメイドとしても、そして太老様を愛する一人の女性としても、これほど嬉しいことはない、夢のような一時だった。
「ああっ! でも、太老様になら……そんな、このようなところでっ!」
「……シンシア、向こうに行こう。これは駄目だ」
折角、紅茶の用意をしてあげたのに、シンシアを連れてグレースは談話室から出て行ってしまった。
でも、こんなに幸せでいいのだろうか?
そうは思っていても、やはり嬉しい事に変わりはない。
今は何も考えず、この夢のような幸せに浸っていたかった。
【Side out】
異世界の伝道師 第76話『太老の従者』
作者 193
【Side:太老】
マリエルに、俺の素直な気持ちをどうにか伝えることが出来た。
凄く喜んでくれたようだし、本当に素直に告白してよかったと思う。
これでまた一歩、マリエルと親しくなれた気がする。
「マリエルが居てくれないと、俺って本当に駄目だもんな」
その自覚は十分に俺にもあった。
マリエル達が居てくれなかったら、この屋敷の維持は愚か、領地運営と商会の仕事の両立など、まず出来ないからだ。
ミツキの話で、どれだけ俺がマリエル達に頼りっ放しだったかを気付かされた。
その働きに甘え、彼女達に感謝しているつもりでいながら、どれだけ身勝手な行動を取っていたかを。
それは不安なはずだ。
俺が言葉に出して何も言ってやらなかったばかりに、仕事をきちんとこなせているかも分からず、ずっとそのことに不安を抱えていたなんて――
マリエルの過去に関しても、何一つ話してもらえなかったはずだ。
そんな事で、本当の信頼関係など築けるはずもないのだから。
「これからは気をつけないと、例え主人であっても感謝の気持ちは言葉でちゃんと示さないとな」
ミツキには良い事を教えてもらったと思う。
血は繋がっていないなどと言っていたが、さすがはマリエルの母親だ。
ここまで娘のことをよく理解している親は、実際に血の繋がった親でもそうはいないだろう。
血の繋がりなど関係ない。あの二人は立派に親子をやっている。
そう、今回のことで感じずにはいられなかった。
「さて、こっちの方も決めてしまわないとな」
色々とあって忘れかけていたが、シトレイユへの出張の日が近付いていた。
残すところ後五日。考えてみると、誰を連れて行くかなど全く何も決めていなかった。
(更にはこの書類の山だもんな……)
さすがに領地の事にかまけて、商会の仕事の方を疎かにし過ぎた、と今は反省していた。
その所為で、この書類の山だ。残り五日で片付けてしまわないと、と思うと気が重くて仕方ない。
それに、今回は事情があって水穂が同行できないので、他に誰かを俺の従者として連れて行く必要がある。
本当は俺だけでもよかったのだが、期日までに決めて置くように、とマリアに釘を刺されてしまった。
立場があるのだから、従者の一人も連れないで行くのは、世間体的に色々とまずいと言う事らしい。
貴族が大好きな見栄≠竍建前≠ニ言う奴だ。
俺は余りそう言うのは好きじゃないんだが、今回はちゃんとした視察をかねた出張なので、形式上はきちんとして置いた方がいいと言う事らしい。
とは言え、どうするか? 実のところ、昨日マリエルにそのことを相談してみたら、『私はメイドですから』と断られてしまった。
俺の秘書のようなこともやってくれてるのだから、従者でもいいと思うのだが……マリエルは、メイド≠ニいう仕事にそれだけ誇りを持っているのか? 妙に拘りがあるようで、そこだけは幾ら頼んでも譲ってくれない。
少しは親しくなれたと思っていたのだが、融通が利かないところは相変わらずだった。
「シンシアとグレースじゃ、従者って感じじゃないし……あの二人は学校の件もあるから、こっちに残るって言ってたしな」
丁度、シンシアとグレースの編入時期が、俺の出張と重なってしまったので仕方ない。
すでに学校の方は始まっているので、出来るだけ早く編入した方がいいと言うのは分かる。
そのことを、とやかく言うつもりはなかった。寧ろ、学校に行くことを進めたのは俺だし。
しかし、そうなってくると問題だ。
マリエルは同行するのは当然として、彼女を従者に数えることは出来ない。
同じ理由でメイド隊の侍従達も駄目。水穂は来れない。シンシアとグレースも同様。ユキネはマリアの従者だし論外だ。
「ううぅ……いないじゃないか」
自分の交友関係の狭さを改めて思い知らされた。
もういっそ、商会の誰かでも適当に見繕って連れて行くか?
などと考えたが、また適当なことをするとマリアに怒られそうなので、この案を却下する。
「いっそ、ミツキさんに頼んでみようかな」
そう思ったが、ミツキは水穂の片腕として働いてくれている情報部に必要不可欠な人物だ。
水穂が情報部のために残るのに、ミツキを連れていったんじゃ、何の意味もないことに気が付いた。
「だ、駄目じゃん……」
完全に行き詰まった。従者として連れて行ける身近な人物なんていない。
そんな時だ。コンコンと部屋をノックする音が聞こえたのは――
「はいはい、どうぞ」
「し、失礼します」
ちょっとヤケクソ気味に返事をすると、扉を開けて入って来たのはランだった。
前に着ていたコスプレ衣装とは違い、今日はちゃんと普通のメイド服を身に纏っている。
何か用事かと思ったら、どうやら俺宛の郵便物を持ってきてくれたらしい。
また、貴族連中からの晩餐会の招待状とかだろう。何度断っても、その手の誘いは後を絶たずにやってくる。
とは言え、ランの奴。不満そうな顔をしていた割りに、思いの外、ちゃんと仕事はこなしているようだ。
「そうだ。ラン、しばらく俺の従者をする気はないか?」
「……へ?」
この手があったと俺は手を叩く。取り敢えず侍従の真似事をさせているが、まだランの配属先は決まっていない。
だったら、俺の従者にしても問題はないはずだ。
少々問題のある奴だが、そこは、これから躾けていけばいいことだ。
それに変に畏まってない分、傍に置くならランの方が色々と気も楽だったりする。
前回の枕投げ大会のハプニングといい、ランとは正直気まずいことも色々とあった。
ここらで親睦を深める意味でも、良い案だと思う。
「あたしを従者に!? ほ、本気かい?」
「こんな事で嘘をついてどうする。それじゃあ、よろしく頼むよ」
どうなることかと思ったが、ランが居てくれて助かった。
マリアもあの催し物の後、随分とランと打ち解けていたようだし、この人選に文句をつけるようなことはあるまい。
【Side out】
【Side:ラン】
太老とは先日のこともあるし、顔を合わせ辛いな、と思っていた矢先、太老宛の郵便物を玄関先で預かってしまった。
さすがのあたしも、太老の郵便物に手をつけるほどバカじゃない。
はっきり言って、二度とあんな恥ずかしい真似に遭わされるのだけはゴメンだ。
色々と服を着せられたこともそうだが、最後はあんな……あたしの胸をも、揉み……
「ああ! もうっ!」
思い出すだけで、恥ずかしさで顔から火が出そうになる。
二度とあんな目に遭いたくはない。だから、その口実を太老に与えちゃ駄目だ。
それに、幾ら顔を合わせ辛いとは言っても、全く顔を合わせない訳にもいかない。
「……仕方ない」
あたしは覚悟を決めて、太老の書斎に向かうことにした。
「はいはい、どうぞ」
「し、失礼します」
扉を二回ノックすると、中から太老の返事が聞こえてきたので、慣れない挨拶を交わしながら部屋の中に入る。
中に入ってみれば、相変わらずの大量の書類に太老は埋もれていた。
(あたしのイメージと随分違うんだよね……)
貴族ってのはもっと偉そうに踏ん反り返っていて、仕事なんて下の者に任せて自分は何もしないものだと思っていた。
そんな、あたしの中の常識が、ここに来てからガラガラと音を立てて崩れ始めていた。
その理由は――この屋敷の連中が、どれだけの量の仕事を、一日の間にこなしているかを直に見せられ、知っていたからに他ならない。
正直、マリエルや侍従達の働きを取って見ても、使用人の度を越えたレベルの働きを彼女達はやっている。
それぞれが侍従としての仕事を立派にこなしながら、書類整理など文官並の働きをしているのを見た時には、正直言葉が出なかった。
しかも、水穂やミツキ、金髪の双子などは、その侍従達ですら全く歯が立たない程の働きをしていると言う。
そんな彼女達を使っている主人――正木太老は、もっととんでもない奴なのは間違いない。
この書類の山を見れば分かる。この量を、こいつは平然とした顔で、いつも当たり前のようにこなしているに違いない。
英雄や救世主などと民衆に称えられているのも、これを見れば頷ける。
日々のこうした弛まない努力があってこそ、民衆に慕われ、そう呼ばれているのだと、あたしはここにきて教えられた。
(色々と甘く見てたのは、あたし達の方だったってことだろうね……)
この事にもっと早く気付けていれば、仲間も捕まることはなく、結果も変わっていたかも知れない。
しかし、あたし達は貴族を甘く見すぎていた。
太老が特別≠ネのは間違いない。それは、そうだろう。こんな奴が何人も居るはずがない。
とは言え、勝手な偏見と思い込みで、貴族をバカにしていたのは事実だ。
だから、あんな失敗を招いたに違いない。少なくとも、太老はあたしが思っていたような貴族とは違った。
強いだけでなく頭も良い。しかも、人を惹き付ける魅力に溢れている。それに何より、器が大きいことに驚いた。
侍従達に話を聞いて色々と分かったことだが、ここに居る誰もが強制されてここに連れて来られた訳じゃなく、寧ろ逆で、助けられたことが切っ掛けとなり、自分達から進んで太老の下で働きたいと願い出た者達ばかりだ、と言う話だ。
それも、彼女達から聞いた太老の話は、驚くべきものばかりだった。
平民であろうとバカになどしない。能力がある者であれば、貴族でも平民でも関係なく平等に仕事を与え、評価してくれると言う。
現に、彼女達はそれだけの報酬を受け取っているようだ。その額を聞いて、あたしは目玉が飛び出そうになった。
幾ら仕事が出来るとは言っても、とても平民が貰えるような金額じゃない。
しかし、そう言われると、確かに思い当たることが幾つもあった。
最初は脅されて、ここに無理矢理連れてこられはしたが、考えてみると、それほど酷いことをされた覚えはない。
寧ろ、使用人には贅沢すぎるくらいの部屋が与えられ、食事も固いパンや具の入ってないスープなどを想像していたにも拘らず、実際には太老が食っている物と同じで、今までに口にしたことがないほど美味い食事が出されたほどだ。
ここに来てから、色々と驚かされることばかりだった。
よくよく考えてみると、これだけ立場のある人間が、犯罪者を雇い入れるような真似などするはずもない。
そんな事をする奴がいるとすれば、碌でもないことを考えてる悪党くらいなものだ。
だったら太老は悪党なのか? と考えたが、これまでの話や太老を見ている限り、そうとも言いきれない。
確かに貴族の粛清や、盗賊狩りなどをやってはいるが、それは太老の一面に過ぎない。
寧ろ、ハヴォニワの民のためを思えば、どれも理に適っていることばかりだ。
「そうだ。ラン、しばらく俺の従者をする気はないか?」
「……へ?」
唐突にそんな事を聞かれ、あたしは驚きから間抜けな声を漏らす。
今の生活だけでも驚きの連続なのに、自分の従者に成れなどと、正気の沙汰とは思えない。
あたしが悪党だってことを、こいつは本当に分かっているのだろうか? と本気で疑いたくなるような発言だ。
普通、スリを働くような奴に、自分の従者をやらせようなどとは思わない。
「あたしを従者に!? ほ、本気かい?」
「こんな事で嘘をついてどうする。それじゃあ、よろしく頼むよ」
冗談でも嘘でもないらしい。正直、ここまで訳が分からない奴だとは思いもしなかった。
やはり、そうなのだろうか? と考えてしまう。
侍従達の言うように平民も貴族も差別しないような奴なら、こいつはあたしのことを犯罪者だからと差別していないのかも知れない――
「いや、スリだろ?」
そう思って聞いてみたら、あっさりとそんな答えが返ってきた。
本当に優しいのか優しくないのか、よく分からない奴だ。
「でも、ランはランだしな。まあ、いいんじゃないか? ようは二度とやらなければいいだけのことだし」
「二度とやらないなんて保証はどこにもないだろ?」
「いや、大丈夫だろ」
「な、何でそんな事が言えるんだい?」
「お前、案外律儀だろ。でなければ、幾ら花瓶を割ったからって名乗り出てきたり、あんな恥ずかしい罰に最後まで付き合うはずもない。
だから、スリの件とか借りがあるうちは、お前は俺に迷惑が掛かるようなことは決してしない」
「う……」
そんな事はない、と何故か言い返せなかった。
自分だって、らしくない行動を取ったと今になって思っている。
しかし、あの時は必死で、とにかくマリエルを助けないと、と頭の中が一杯だったのだから仕方ない。
「俺はお前のこと結構好きだぞ。寧ろ、いいことじゃないか? あれこれ考えるのはいい傾向だと思うし」
「――す、好きって!」
丁度、枕投げの時のことを思い出し、あたしは顔を真っ赤にしながら胸の辺りを手で隠し、太老から慌てて距離を取った。
そう言う意味じゃない、と思っていても、どこまでが本気で冗談なのかが分からない。
そんなあたしを見て、プッと吹き出し、腹を抱えて笑い始める太老。
「――っ!」
あたしは顔を真っ赤にして、そんな太老を怒鳴りつける。
からかわれている――そう分かっていても、何故かこの環境が嫌いにはなれない。
それが何故かは分からない。自分でも理解不能な感情だった。
ただ、もう少しここに居てやってもいい、そんな気にさせられる不思議な魅力がここ≠ノはあった。
【Side out】
……TO BE CONTINUED
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