【Side:太老】

 壁に突き刺さった鉄の矢は、俺と桂花を襲ったあの時の矢だ。

「かわされましたか。ですが……次は外しません」

 煙の中から聞こえて来た女性の声。この声の主が、この矢を放った刺客である事は間違いない。
 しかし風向きが悪かった。相手はこの煙の向こう側に居るようだが、こちらからでは相手の正確な位置を掴めない。

「局長。ここはウチが……」
「いや、相手の狙いは俺一人だ」

 相手がどこから狙っているか分からない以上、真桜が一緒ではかえって動きが取り難い。
 俺一人であれば例え矢が直撃したとしても、このくらいの攻撃でやられるような事は無い。
 虎穴に入らずんば虎児を得ず。俺は敢えて煙の濃い方へ向かって走り出す。

「局長!」
「真桜は会場の中と外、混乱がないよう事態の収拾の方を頼む!」

 これだけ言って置けば、真桜なら上手くやってくれるはずだ。
 マッドだが決して無能ではない。自分の後始末くらい自分でするだろう。

「さてと、俺も自分のケツくらいは自分で拭かないとな」

 ――ヒュヒュン!
 同時に二矢。いや、四矢か!?
 この煙の中、俺の位置を正確に掴んで放たれたその矢は、まさに神業と呼んでも過言では無い精度を誇っていた。
 秋蘭の弓の腕を何度か見せてもらった事があるが、これはそれと同等、いやそれ以上の腕前と言っても過言では無い。

「凄い腕だけど……でも、相性が悪かったかな?」
「――矢が効かない!?」

 矢を素手で弾かれるのを見てさすがに動揺したのか、相手の声が微かに震えるのを感じ取った。
 上手く気配を消している様子だが、矢と声の方角から大体の位置は予想できる。
 それに煙も薄くなって、大分視界の方も晴れてきた。ここらが潮時だろう。

「命を狙われる覚えは無いんだけど?」
「……あなたに理由は無くても、私にはあります。璃々のためにも、ここで退く訳には……」
「……璃々?」

 何処かで聞き覚えのあるような名前を耳にして俺は首を傾げた。その時だ。
 何の前触れもなくブワッと突風が吹き荒れ、木の葉と共に残った僅かな煙を吹き飛ばした。

「くっ! こんな時に――」

 声のした方を視線で追うと、先程まで煙がかっていてよく見えなかった場所にこちらに狙いを定め、矢を構えた一人の女性が立っていた。

「お願い。娘の……璃々のために死んで頂戴」

 風に揺れる長い紫色の髪。胸元を強調した少し大胆な服に、二十代半ばから後半といった様子の大人の色気を感じさせる女性。
 死んでくれと言う割に、全く殺意の籠もっていない瞳。代わりに薄らと涙を浮かべ、悲しげな表情を俺に向けていた。
 何か余程の事情があるのか、言動と行動が伴っていない。
 だが、弓を向けられている以上、俺も黙ってやられる訳にはいかなかった。

(仕方ないか……正直、余り気は進まないけど)

 問答無用で命を狙ってくるような相手ならともかく、目の前の女性のような相手は正直やり難い。
 だが、どんな事情があるにせよ、まずは捕まえて事情を訊かなくては話が進みそうにない。
 一先ず、武器を奪い相手を無力化する。話はそれからだと考え、姿勢を低くし攻撃の構えを取った――その時だった。

「あいや! そこのお二方、待たれよ!」

 俺達の間に割って入るように、頭上から聞こえて来た別の女性の声。
 会場の脇、街を取り囲むように作られた高い塀の上。そこを見上げると、怪しげな人影が立っていた。

「可憐な花に誘われて、美々しき蝶が今、舞い降りる! 我が名は華蝶仮面! 母と娘の絆を護るため、非道な悪を討つ正義の化身なり!」
「せいぎのけしんなりー!」
「璃々っ!?」

 随分と唐突な展開。構えた弓を降ろし、人が変わったかのように取り乱す紫の髪の女性。
 無くしたはずの仮面を付けた、本家本元の華蝶仮面が俺の前に姿を見せた。

 ――脇に幼女を抱きかかえて

【Side out】





異世界の伝道師外伝/天の御遣い編 第43話『天の采配』
作者 193






「どけ! どけどけ! 邪魔だ!」

 会場の爆発騒ぎで集まって来た野次馬達により、会場の周辺は人混みでごった返していた。
 男は焦っていた。這々の体で会場を飛び出し、人垣を掻き分けながら街の中央を抜け、真っ直ぐに漁港へと走る。

「くそっ! 何だと言うんだ!」

 この男、娘を人質にとって黄忠に太老を殺すように命じた黒幕の一人だ。
 見た目は黒髪の端整な顔立ちをした青年だが、その胸には大きな野心と狂気を秘めていた。

 黄忠が失敗した時を見越し会場に仲間を潜ませていたのだが、それも全員が地雷の餌食となり捕まってしまい、更には混乱に乗じて観客を煽る計画を企てていたのだが、それも張三姉妹の活躍によって難なく鎮められてしまった。
 結果、男は仲間を見捨て、何も出来ないまま逃げ出すしか無かった。

「何故、こうも上手くいかん! まるで全て見透かされているかのように先手ばかり……おのれ、天の御遣いめ!」

 男は考える。このまま逃げ帰っても自分に未来はない。
 正木太老を殺す事さえ出来れば中央の官職に取り立てて貰える約束となっていたが、それもこうなってしまえば逆に口封じに消されかねない、と。

 男はそれなりに裏家業に通じた人間だった。
 これまでにも誘拐や人身売買、盗賊や山賊と結託して村を襲ったり、果てには塩の密売と数え切れないほど多くの汚い仕事に手を染めてきた。
 そんな男の元に商売上付き合いのあった中央の人間から、ある密談が持ち込まれた。それが太老の暗殺だったと言う訳だ。
 男にしても、このまま裏の人間として終わるつもりなど無かった。昨今の情勢を考えると、この稼業自体いつまで続けられるか分からない。だから男は考えた。中央の権力を手中に収め、来るべき新時代に向けて盤石な地盤を築く。そのためにも、これが権力の中枢に取り入る絶好の機会だと考えたのだ。

 それにどちらにせよ、男にとっても正木太老は邪魔な存在だった。
 彼の所為で、黄巾の騒ぎもあってやり易かった商売も尽く邪魔をされ、エン州周辺では全くと言って良いほど商売が上手く行かなくなってしまった。
 今まで苦労をして築き上げてきた組織力も衰退の一途を辿り、黄巾党が討伐されて以降は益々稼業が上手くいかなくなっていた。
 それらも全て、天の御遣い――正木太老の所為だと半ば恨み言すら口にしていたくらいだった。

 確かに天の御遣いが厄介な人物である事は彼も承知していたが、これまでにも幾度となく暗殺を請け負った経験がある。多少リスクは伴うが、今回もいつもの仕事の延長に過ぎないと考えていた。
 それに男は野心が大きく、絶対の自信を持つ練りに練った計画があった。

 陳留で幾度となく工作員が捕まっている事は男も知っていたので、同じ愚を起こそうとはさすがに考えなかった。
 そのため、正木太老が青州に視察に来る時期を待ったのだ。
 その上で暗殺を確実な物とするため袁紹を言葉巧みに利用し、楽成の街に使者をださせ、それに乗じて黄忠の娘を人質に取るという策を取った。結果、弓の名手と名高い楽成の城主黄忠≠仲間に引き入れ、暗殺の実行犯と仕立てる事に成功した。
 そして、万が一黄忠が失敗した時にも雇った盗賊達を使い、二段構えで混乱に乗じて太老の命を狙うつもりでいたのだ。

 だが、それも全て失敗に終わった。天の御遣いの天罰≠ノよって。
 保険として捕らえて置いた娘の存在がある限り、黄忠が情報を漏らす事はないと男は考えるが、これ以上計画を続行する手段を失ってしまった事に変わりはなかった。

「このままでは済まさんぞ! 天の御遣い!」

 怒りで顔を歪め、怨念さえ籠もった声で苦々しく恨み言を口にする男。単なる逆恨み、自業自得なのだが怒りで頭に血が上ってその事に気付いていない。自分さえ無事なら、再起の機会は幾らでもある。黄忠が時間を稼いでいる間に、今は港の倉庫で落ち合う手はずとなっている仲間と合流し、一刻も早くこの場を逃げ出すのが先決。男はそう考えて、港へと走った。
 港まで辿り付けば、倉庫に居る仲間と合流し隠してある船で逃げられる。
 例え追いつかれたとしても、黄忠の娘という人質がいる限りはそう易々と手を出せるはずもない、と男は考えていた。

「おいっ! お前達、人質を連れて来い! 直ぐにここを――」

 港に辿り付いた男は倉庫の中に飛び込むなり、そこまで言いかけて言葉を失った。
 倉庫の中央。縄でグルグル巻きにされ、意識を失った仲間達が地面に横たわっている姿を見つけたからだ。

「何が、何があった! 人質の子供はどうした!?」
「ぐっ! 変な仮面を付けた女が……」

 全身を強打し骨を折っているのか、黒髪の男に胸倉を掴まれ、無理矢理叩き起こされた痛みからうめき声を上げる男の仲間。
 仲間が口にした『変な仮面を付けた女』。それだけでは何の事か分からない黒髪の男だったが、少なくとも何者かの襲撃があった事だけは確かだった。
 そしてその女がここに居た全員を倒し、人質を連れ去ったという事も――

「くそっ! これもあの男の仕業か!? どこまで、この俺を虚仮にすれば――」
「いやー、虚仮にされてはらわたが煮えくり返ってるのは、こっちの方なんだけどな」
「――!?」





【Side:太老】

「いやー、虚仮にされてはらわたが煮えくり返ってるのは、こっちの方なんだけどな」

 正直、俺はかなり頭に来ていた。
 ここまで頭に来たのは、タコの一件以来かもしれない。それほどに、はらわたが煮えくり返っていた。

「どうやって、あの人混みの中を!? 幾ら何でも早すぎる!」
「人混み? ああ、下が駄目なら上を通れば早いだろう? 屋根の上をひょいひょいっと」
「そんな非常識な事が……」

 このくらい少し身軽な者なら、それこそ華蝶仮面にだって出来るはずだ。
 かなり頭に来ていたので相当に飛ばしてきたが、もう少ししたら彼女達も追いついてくるだろう。
 この男がした事、そして黄忠が俺の命を狙っていた理由。その全てを華蝶仮面、そして黄忠の口から俺は聞かされた。

「くそっ! 何故だ! 何故、私の完璧な計画が!」
「……完璧な計画?」

 忌々しそうに俺を睨み付けてくる目の前の男。この男にミスがあったとすれば、一つしかない。

「お前は大きな失敗を犯してたんだよ。最初からな」
「な……なんだと?」

 俺が怒っている原因もそこにあった。俺の命をただ狙いにきただけの刺客であれば、ここまで怒りを覚えはしなかった。
 それなりに恨みを買っている自覚はあるし、黄巾の乱や袁紹の一件もある。
 命を狙われる事に納得している訳ではないが、そういう立場に居るのだと理解はしているつもりだ。
 だが、例えそうだとしても絶対に許せない事が一つだけある。その許せない過ちをこの男は犯した。

「……泣かせたんだよな?」
「な、何を?」
「……寂しい想いをさせて、怖がらせたんだろう?」
「何を言っている貴様!」

 何を言っている? よく俺の前でそんな口をきけたものだ。
 コイツの行いを許せない理由はただ一つ。俺の命を狙った事じゃない。幼女を泣かせた罪だ。
 母親から娘を無理矢理引き離し、その命を盾に俺を襲わせたコイツの罪は絶対に許す事が出来ない。
 悪党ならともかく、幼い少女を人質に取って脅すような外道であれば救いようがない。俺はこういった最低な男が一番嫌いだった。

「クククッ……本当にお笑いだ。貴様のような(幼女の)敵が、俺の命を狙っている連中の中に居たとはな」
「な……な、なっ!?」
「お前は禁忌に触れた。それ相応の報いを受けてもらうぞ」

 幼女の痛み、幼女の苦しみ、幼女の悲しみ、その全てを思い知るがいい。

【Side out】





【Side:星】

 正直、あれほどの恐怖を感じた事は無かった。

 ――ゾクリ

 背筋を襲った悪寒。それが天の御遣いと呼ばれる青年から発せられているモノだと気付いた時、私は言葉を失った。
 少女を捕らえていた賊達から聞いた情報。そして黄忠殿の話を聞いた御遣い殿は、あっという間に建物の屋根へと飛び乗り港の方へと走り去ってしまった。

 あの時に見せた怒りの表情。そして御遣い殿から発せられた殺気。
 その気にあてられただけで、私はまるで金縛りにあったかのような錯覚を覚え、その背中を見送る事しか出来なかった。
 あれが天の御遣い。私が捜していた人物の実力。武器を交える必要も無く、彼我の実力差に気付かされてしまうほど圧倒的なものだった。
 はっきり言って、あれには勝てない。武人としての本能が『決して戦うな』と忠告しているのが分かる。
 同時に、公孫賛殿の下で耳にした噂は誇張でも何でもなかった事に気付かされた。その全てが嘘偽りのない真実だったのだと。

「……ここで、何が?」

 そして私はまた驚かされている。これで今日、何度目の驚きか?
 大分遅れて、港に辿り着いた私が目にした物は、見るも無惨に崩壊した倉庫だった≠ニ思しき残骸の山だった。

「御遣い殿!」

 その残骸の前に、御遣い殿が立っているのを見つけた。同時に紛れもなく、これをやったのは目の前に居る人物なのだと気付く。
 私の前で見せた一足で屋根の上に飛び乗った跳躍力といい、一瞬で姿を消したあの脚力といい、身体能力の面だけでも常人を寄せ付けない圧倒的な力を有している事は間違いない。
 更に目の前の巨大な倉庫を、我々が駆けつけるまでの僅かな時間で跡形もなく破壊してしまったその力は驚愕に値するものだ。
 やはり、あの時に感じた殺気。そして武人としての勘は間違っていなかったのだと確信した。

「その者達は……?」
「ああ、ちょっと馬鹿の躾をね」

 御遣い殿の右手には襟首を掴まれ白目を剥いて気絶した黒髪の男が、横には倉庫に縛り付けてあった賊達が地面に無造作に投げ出されていた。
 馬鹿の躾というには目の前の惨状は些かやり過ぎな気もするが、私とて黄忠殿の件は憤りが無い訳ではない。御遣い殿の気持ちが分からない訳ではなかった。
 故に何も言う事が出来ない。所詮、それはこの者達の自業自得だ。殺されたとて、文句を言えない事をこの者達はしたのだ。
 幼い少女の手前、あの場では殺さぬように手を抜いたが、御遣い殿がやらなければ私がやっていたかもしれない。
 結局、御遣い殿は我々の気持ちを代弁してくれたに過ぎないのだと悟った。

「華蝶仮面さん。いや、『昇り龍』と呼んだ方がいいかな?」
「――ッ! いつから、私の正体を?」
「最初からかな。その仮面、役に立ったみたいだね」

 やはり、当初の見立て通り侮れない御仁だと思った。
 最初からというのは、あの街で顔を合わせた時から知っていた≠ニ考えて間違い無いだろう。
 だとすれば、この仮面が私の手に渡ること自体、この御仁の策の内だったのかも知れないと私は考えさせられた。

「……もしや、全てご存じだったのですか?」
「まあね。(華蝶仮面の正体は)勿論、知ってたよ」

 なるほど。あの瞬間から、私もこの方の手の平の上で踊らされていたのだと気付かされた。
 仮面を私が拾う事も、黄忠殿の娘を私が助け出す事も、全ては計算の内だったのだろう。それならば、全てに納得が行く。
 最初から自分が監視されている事に気付いていながら態と油断しているフリをして、その間に面識のない私を誘導する事で人質の少女を助け出す。
 どうやって私の事を知ったのか? 情報こそ最大の武器と言うが、私の性格を把握していなければ成り立たない策だ。
 たった一つでも歯車が狂えば、この奇跡的な状況はありえなかった。私が仮面を拾わなければ、少女を助けださなければ、黄忠殿との戦いは避けられなかった。犯人には逃げられ、少女も殺されていたかもしれない。
 だが、現にそれらの策は成功した。まさに天の計らいとしか考えられない、恐ろしいまでの慧眼だと戦慄を覚えた。
 もはや、それは先読みなどではなく予知の域だ。私の事を一目で看破し、趙子龍と知っていたのが何よりの証拠だった。

 まさに恐るべき鬼謀。利用された事には些か思うところがあるが、それも幼い少女を助け出すためと考えれば致し方ない事と考える。
 それよりも、この私を恐れさせるほどの武を持つばかりか、歴史に名を残す軍師に勝るとも劣らない智謀をも有して居るとは――
 正直、想像以上の人物だった。

「……御遣い様」
「黄忠さん?」

 どうしても連れて言って欲しいと頼み、娘と一緒に私の後に付いてきた黄忠殿。神妙な面持ちで、我々の前に姿を現した。
 事情があったとはいえ、彼女が御遣い殿の命を狙った事実に変わりはない。どんな事情があれ、それは許されない行いだ。
 最悪の場合、死罪も免れない行いだと私は考えていた。

 だが御遣い殿は、あの場で捕らえられたにも拘わらず、黄忠殿に目もくれず港へと向かわれた。
 それは御遣い殿の配慮だったのかも知れない、と今になって思わせられる。
 あの場で捕らえなかったという事は、敢えて黄忠殿を見逃すつもりでおられたのだろう。
 本来であれば直ぐにでも捕らえて警備の者に引き渡す事が当たり前のところを、そうはしなかった。それが何よりの証拠だ。

「どんな事情があれ、私が御遣い様の命を狙ったのは事実。その罪から逃れようとは考えていません。ですが――」

 しかし、黄忠殿も武人の端くれ。このまま何のお咎めもなく御遣い殿の恩情に甘える訳にはいかない、という覚悟が私にも伝わってきた。
 どちらにせよ、事情を訊く限り彼女には帰るところがない。例え、楽成に帰ったとしても、そこには袁紹の配下が待ち構えているはずだ。
 戻ったところで娘と二人、折角助かった命を捨てる事になりかねない。
 暗殺などという悪行に手を染めてまで、助けたかった娘の命だ。彼女一人であればそうしたかもしれないが娘が居る以上、その選択を彼女は取れるはずも無かった。

「勝手な事とは承知の上でお願いします。私はどうなっても構いません。ですが何卒、娘の命だけはお助けください!」
「……お母さん?」

 御遣い殿に向かって土下座をして嘆願する黄忠殿を、不安げな表情で心配そうに見守っている璃々殿。
 無理もない。母親のこんなところを見せられて動揺しないはずがない。
 黄忠殿とて娘の前で、このような姿をさらしたいはずもない。だがそれほどに黄忠殿は必死だったのだろう。
 自分の命と娘の命。天秤に掛けるまでもなく、黄忠殿は娘の命を、未来を取った。
 ただ、それだけの事だ。此度の一件といい、母の強さとはこれほどのものかと思わせられるほどだった。

 故に、部外者の私では口を挟む事は出来ない。
 これは黄忠殿と御遣い殿の問題だ。私は黙って、事の成り行きを見守る事にした。
 だが、御遣い殿ならば恐らく――

「華蝶仮面さん。そう言えば、御礼をまだ言ってませんでしたね。ありがとうございました」
「いえ、私は何も。それが正義の味方(わたし)≠フ使命ですので」
「後、黄忠さんもありがとうございました。犯人を捕らえるのに協力してもらって」
「……は? 何を?」

 目を丸くして、唖然とする黄忠殿。彼女が想像していた答えとは違っていたようだ。
 本当におかしな御方だ。本気で自分の命を狙った相手を助けようとなさるとは、悪く言えばお人好し、しかし良く言えば懐が深い。
 武と知に優れ、才覚、人格共に秀でているばかりか、度量も底が知れない。こんな人物を私は他に見た事が無い。

「俺の命を狙った馬鹿なら、ここにほら。華蝶仮面さん、コイツで間違いありませんよね?」
「うむ。そ奴で間違いありませぬ。正義の味方が嘘を吐くはずもありませんからな」
「ですよね。いやあ、俺の勘違いで罪のない人を捕まえる訳にはいきませんし。本当に良かった」

 手に持っていた黒髪の男を私に見せ、同意を求めてくる御遣い殿。

「そう言う訳で、二人には御礼をしないと。華蝶仮面さん、趙雲さんに後で屋敷を訪ねるように伝言を頼みます」
「了解しました。必ず、伝えましょう。では、私はこれにて」
「黄忠さんと璃々ちゃんは一緒に来てくれますか? 皆にも事情を説明しないといけないし」

 ようやく状況を理解したのか、黄忠殿はハッと顔を上げ真っ赤にして声を張り上げた。

「――御遣い様!?」
「璃々ちゃん、お腹減ってない? 天の国の料理とか食べてみたくない?」
「たべてみたーい!」
「――璃々!?」

 黄忠殿が何を言っても、恐らく聞く気は無いのだろう。その態度を見れば分かる。
 黄忠殿が御遣い殿の命を狙ったのは事実。所詮、御遣い殿と私がしている事は茶番に過ぎないが、その茶番が真実となる事もある。
 御遣い殿の命を狙った賊が何を言おうと、それは所詮は賊の戯言。私と御遣い殿が知る事実が真実という事だ。
 そして命を狙われた張本人が、犯人は目の前で気絶している男だと話す。ならば、それ以上の証拠は無い。

「お母さん、どうしたの? おなかがイタイの?」
「……ごめんね、璃々。ごめんなさい」

 背後から黄忠殿の嗚咽が聞こえた気がしたが、私はただの通りすがりの正義の味方。何も見ていなければ何も聞こえてなどいない。
 ようやく訪れた母と娘の時間を邪魔しないように、と静かにその場から離れながら私は思った。
 本当に面白い御方だ。そして、とても興味深い御仁だった。
 この趙子龍。ようやく我が身、我が命を預けるに値する、最優の主に出会えたのかもしれない。

【Side out】





 ……TO BE CONTINUED



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