「華琳様、申し訳ありません。お叱りは如何様にでも……」

 翌日、玉座の間で膝をつき曹操に深々と頭を下げる夏侯淵の姿があった。

「寧ろ、そこまで心配をかけた私が謝るべきね。ごめんなさい、秋蘭」

 今回の件は確かに夏侯淵が勝手にやったことだが、そこまで心配をかけるに至った経緯を考えれば、自分に一番の責任があることは曹操もわかっていた。
 例え部下であっても、自分に非があれば素直に認める。それが曹操という少女だ。
 もっとも昔の彼女を知る者であれば、自分に非があるとはいえ、部下に頭を下げる今の曹操を見て驚くかもしれない。

(やはり、華琳様は変わられた)

 夏侯淵は思う。元々、曹操は自分に従う者には情け深い人物ではあったが、自分に対しても他人に対しても厳しい性格をしていることもあって、相手が誰であっても容赦の無い判断を下す、氷のように冷たい側面も兼ね備えていた。
 しかしそれは、この乱世であれば必要なことだ。例え、親や姉妹、見知った親しい人物と言えど、情を与えすぎれば判断が鈍ることがある。
 彼女は小さくても王だ。大陸統一のために志した覇道。そのために孤独な道を選択した結果でもあった。
 だが、そんな曹操を変えた男がいた。それが天の御遣いと呼ばれる男――正木太老だ。

 人によっては曹操のことを弱くなったと捉える者もいるかもしれない。しかし夏侯淵の感想は違っていた。
 元々、家臣など必要無いくらいになんでも自分で出来る才能と実力を曹操は持っていた。それ故に、対等な立場で頼れる人物が一人もいなかった。そしてそれは曹操の部下であるが故に、夏侯淵達ではどうやっても埋められない距離でもあった。
 そんな曹操が、心の底から甘えられる人物に初めて巡り会えた。このことを夏侯淵は喜んでいた。
 その証拠に昨晩も――

「それで、太老殿とのことは……」
「……ああ、相変わらずよ。特に変わったことは何もなかったわ」

 表情にはださなかったが、僅かに動揺していた。
 しかし、そんな曹操の反応に気付かない夏侯淵ではない。

「そうですか。華琳様の寝所より艶めかしい声が聞こえた、と聞いていたので、てっきり……」

 夏侯淵の話に、曹操のこめかみがピクリと動く。
 それは曹操にとって、出来れば触れられたくない類の話だった。

(この反応。やはり、華琳様は太老殿と……)

 と、勝手に勘違いする夏侯淵。どこか嬉しそうに頬を緩める。
 しかし実際には夏侯淵の考えているようなことはなく、ただ単にマッサージをされただけだった。
 とはいえ、そのマッサージが問題だった。
 まさかマッサージくらいで、あんなに喘ぐことになるとは、さすがの曹操も思ってはいなかったからだ。
 柾木式マッサージ術。太老が話をする条件の一つとして曹操に強要したのが、それだった。

(この私が、あんな辱めを受けるなんて……)

 話も終わり、約束を守るために布団に俯せになった曹操を待っていたのは、今まで体験したことのないような快楽の波だった。
 仕事で疲れているであろう曹操のことを考え、彼女の負担を減らすことで夏侯淵達を安心させてやりたいと考えた太老。
 そのため、いつも以上に気合いを入れてマッサージに取り組んだ。その結果が、これだ。

「華琳様、どうかなさいましたか?」
「ダメ! 今は私に触ることも、近付くことも禁止するわ!」
「は、はあ……」

 今、夏侯淵に触れられたら、正気を保てる自信が曹操にはなかった。玉座から一歩も動かないのではなく、動けないというのが真相だった。
 快楽のなかで曹操は気絶……もとい眠ってしまい、朝起きたら太老はいなくなっていた。
 いつも主導権を握っている自分が気を失うまでいいようにされ、太老が朝こっそりと帰ったことにすら気付かなかった。
 そんな話、まさか夏侯淵達に出来るはずもない。誰にも知られたくなかった。

「……さっきの話、誰が言ってたの?」
「桂花と姉者です。邪魔にならないように取り押さえましたが……」

 その一言で曹操は理解した。
 太老が昨晩、城に来ていたことは、曹操と夏侯淵、多麻以外は誰も知らないはずだ。
 だとすれば、許可もなく寝所に忍び込もうとした不届き者がいるということになる。
 恐らくは聞き耳を立てていたのだろう。曹操は、そう考えた。

「そう、後でお仕置きが必要ね。でも桂花はともかく、よく春蘭を抑えられたわね?」
「多麻に協力してもらいました。龍でも三日は起きないという眠り薬を打たれて、まだ眠っています」
「……それ、大丈夫なの?」
「姉者ですから、たぶん大丈夫かと……」

 多麻のことだから、またやり過ぎたのでは?
 と考えた曹操だったが、夏侯淵の言うように夏侯惇なら大丈夫かと納得した。





異世界の伝道師外伝/天の御遣い編 第122話『選択と行動』
作者 193






 荀イクと夏侯惇への罰は後で考えればいい。曹操は、そう考える。
 それより問題は、太老の方だ。

(……何が、無理をするなよ)

 曹操からすれば、同じ言葉を太老に返したい。それが本音だ。
 気を遣ってくれているのはわかるが、彼女からすれば一番無理をしているのは太老だった。
 太老の秘密。これから為そうとしていること。そこに曹操の知りたいことのすべてがあった。
 しかしそれは同時に、太老がどれほどの重責を背負ってきたかを物語っていた。

 ――世界の秘密、そしてこの世界が晒されている危機。

 そんな重大なことを隠していた太老に最初は怒りを覚えた曹操だったが、太老が誰にも話さなかった理由にもすぐに理解が出来た。
 結論から言えば、知ったところで曹操達にはどうすることも出来ないからだ。

(一人で全部背負って、それで何もかも終わりにするつもり?)

 聞けば後悔するかもしれない、そう言った太老の言葉どおり曹操は思い悩んでいた。
 力になりたくても何も出来ない。これほど自らの力の無さを呪ったことはなかった。
 この世界のことは、本来であれば外の世界からきた太老達には関係のないことだ。
 しかし国のことにせよ、世界のことにせよ、太老達に頼らざるを得ないのが彼女達の現状だった。

「秋蘭、あなたは太老のことをどう思っているの?」
「感謝しています。太老殿がいなかったら、今の平和はなかったでしょうから」
「そう、そうよね……」

 夏侯淵の言うように、今のこの平和があるのは太老の活躍があってこそだ。
 そして、太老の正体や故郷のことを知った後なら、太老ならどうにか出来る。いや、太老にしかどうすることも出来ないことは曹操にも理解出来た。
 だからと言って、すべてを太老達だけに委ねていいものかどうか、その判断に曹操は迷っていた。
 曹操が話を聞いて一番後悔したことといえば、そのことだった。

(結局、あなたは何も返させてくれないのね……)

 曹操達が太老を必要としているほど、太老は曹操達の力を必要としていない。
 そのことが、今まで知らなかった太老の秘密を知ることで、曹操には嫌と言うほど理解出来てしまった。
 それは同時に太老との距離を、あらためて考えさせられることになった。
 いつか、太老が天界に帰ってしまうのではないかという恐れ。それが、より現実味を帯びたものになったと曹操は考えていた。
 泰山の頂くらいなら望めたかもしれない。しかし、あの遥か空の向こうまで追いかけられる自信はなかった。

(平和を失うことでも、世界が滅びることでも、死ぬことが怖いわけでもない。私は――)

 ――太老を失うことが一番怖かった。
 だから、どうしても太老から話を聞いておきたかったのだと曹操は気付く。
 そして話を聞くことで後悔をしているのは、その恐れが原因だった。

「ならば、その恩に報いなければ、私の器量が疑われることになるわね」
「……華琳様?」
「太老に恩を返す時がきたということよ」

 例え、この行動が無駄に終わったとしても、今、行動しなければ確実に後悔することになる。
 この行動自体、無駄に終わるかもしれない。それでも曹操には一つ心に決めたことがあった。

(私に素直になれと言った責任は取ってもらうわよ)

 悩んだ末に曹操が出した結論――
 それは世界の平和などではなく、たった一人の男への恩返しだった。





【Side:太老】

 華琳には俺達のことや、この世界のこと、俺の知っている限りのことは話したつもりだ。
 そこからどう考え、どう行動するかは彼女自身の問題であって、俺がとやかく言うことではない。ただ、華琳の性格からして、このまま何もせずに黙って見ているなどと言ったことはないはずだ。
 なんらかの行動を示してくるはずだと俺は考えていた。

「やっぱり、時期尚早だったかな?」
「華琳さんに話されたことを悩んでおられるのですか?」

 林檎の言うように、本音を言えば少し悩んでいた。
 いつかは話さなければいけないことだが、この時期に伝えてよかったかどうか判断に迷っていたからだ。
 話したところで、華琳達にはどうすることも出来ない問題だとわかっていたからでもある。

「林檎さんは、どう思う?」
「個人的な意見を述べさせてもらえば、これでよかったと私は思います」
「よかった?」

 林檎には昨晩のことを話して聞かせていた。
 予定より早かったとはいえ、華琳に話すことに関しては林檎も否定的な立場ではなかった。
 ただ、よかったと言われると違和感を覚える。

「本来であれば、私は太老様を連れて帰ることさえ出来れば、それでよかったのですよ?」
「いや、でもそれは……」

 林檎の目的は俺を連れて帰ることにある。その観点から見れば、この世界を救うというのは、ついでと言っていい。逆を言えば目的さえ叶えられるのなら、この世界の命運など、どうでもいいというのが林檎の立場だ。
 極端な話、林檎は俺の我が儘に付き合ってくれているだけのこと。勿論、林檎がそんな薄情な人間だとは思っていないが、彼女からすれば余計な仕事だということに変わりは無い。だから、俺としてはそれを言われると辛い部分があった。
 恐らく、物語を終わらせる――帰るだけなら他に方法が無いわけではないのだ。
 でも、そのためには大きなリスクが考えられる。この世界の消滅。華琳達の存在が消えるということだ。

「太老様の考えに背くわけではありません。ですが、だからこそ私は彼女達に真実を知ってもらうべきだと考えています。現実と向き合うために――」

 林檎の言うように、黙っているべきではないということは俺にもわかっていた。
 しかし話したところで、彼女達にどうにか出来る問題でもないことは確かだ。
 だから準備がすべて終わってから、タイミングを見計らって話すつもりだった。

「それを本当に彼女達が望んでいるとお思いですか?」
「……林檎さん?」
「前にも言いましたが、太老様は優しすぎます。いえ、彼女達に甘すぎます」

 以前に麗羽達のことで、林檎に言われたことだ。

「この先ずっと、彼女達の面倒を見続けるつもりですか?」
「いや、さすがに帰ることになると思うけど……」

 この問題が片付いたら、あちらの世界に帰る覚悟は出来ていた。
 俺だって、あっちの世界に残してきた家族や友人がいる。林檎を困らせるわけにもいかないし、すぐにこっちに戻って来られるかどうかはわからないが、一度帰るべきだろうと考えていた。
 しかし、そうすれば華琳達とも別れることになる。
 短い別れか、長い別れになるかわからないが、こちらのことが気になっているのは確かだ。

「なら、少しは彼女達を信用してあげてください」
「俺は別に信用してないわけじゃ……」

 これまでにも、華琳達には色々と助けられている。
 それに信用していなければ、こうして一緒にはいない。

「言い方を変えます。例えそうであっても、最初から彼女達には無理だと決めつけていませんか?」

 そこは否定出来なかった。
 俺の考えている方法では、華琳達に出来ることはない。唯一、出来ることがあるとすれば、システムに繋がる鍵を探すことだが、太平要術の一件があるだけに余り深く関わらせたくないという思いもあった。
 林檎には、そこを見透かされている気がした。

「ですから、彼女達にも選択の機会を与えてあげてください」

 結論だけを言えば、俺達はこの世界に干渉しすぎた。
 この世界の人達が、俺達を無しにやっていけるかどうかを林檎は心配しているのだろう。勿論、俺だって考えなかったわけじゃない。学校を作り、知識と技術を書き記し、商会のなかに様々な専門部署を作ったのは先を考えてのことだ。
 林檎が来る前は、こんなに早く迎えがくるとは思っていなかったので、全部片付いた後に楽をするため――平穏に暮らすためでもあったのだが、今は少しでも役立つ物を残して行きたいと考えていた。

(でも、それって全部俺の都合だしな。やっぱり傲慢な考え方だったのかな?)

 確かに林檎の言うように、この世界の人達を信じて少しは任せるべきなのだろう。
 でも、だからと言って、このまま何もしないで待つというのは出来そうにない。俺の考えている方法では、俺と多麻にしか出来ないことだというのは確かだ。
 なら、結局やるべきことは一つしかない。ようは物事を切り分けて考えられるかだ。

「林檎さんの言いたいことはわかった。でも結局、誰かがやらないといけないことだ。俺のやることに変わりはないよ」
「それでいいと思います。どうすべきかではなく、どうしたいかですから」

 それはこの世界の人達だけでなく、俺に対して向けられた言葉のように感じた。

【Side out】





 ……TO BE CONTINUED



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