【Side:太老】
「ううん……」
大量の書物が机の上に積み重なっていた。
ここにあるのはほとんど、この国の歴史に関する本だ。何故、俺がこんなことをしているかと言うと、話は今朝まで遡る。
今度、俺が揚羽から帝位を禅譲されたことを、正式に公表することになっているのだが、
『国号を考える?』
『聞いておらんかったのか? 会議でも話に上がっておったであろう』
と揚羽から話を聞いたのが、今朝のこと。
俺の即位を民に向けて正式に公表すると同時に、新しい国号を発表することになっているそうなのだが、その国号を俺に考えて欲しいとの話だった。今朝早くに揚羽がやってきたのは、その式典の打ち合わせをするためだった。
「しくじったな。もう、余り時間がないし……」
式典の話が上がった会議の内容は、揚羽から帝位を禅譲されたことで頭が混乱していて全然覚えてなかった。
あの会議から一週間。発表の日まで三日しかないことを考えると余裕がない。
話をちゃんと聞いていなかったのは自業自得とはいえ、重大な任務と慣れないことに頭を悩ませていた。
「……何がいいのか、さっぱりわからん」
そんな訳で、こうして今朝からずっと書物と睨めっこしていると言う訳だった。
国の将来を左右する決定だけに責任重大だ。はっきり言って適当に決めていいものではない。
参考になればと書庫から色々と借りてきたのだが、これといって参考になりそうな物はなかった。
「やっぱり、一文字でないとダメなのかな? 俺の名前からとって『太』とか?」
――た、ダ、太国。響きは悪くないが、随分と太く逞しそうな国だ。
ぽっちゃり皇国万歳! そんな声が聞こえてきそうだった。
余りに安直というか、酷すぎる。自分のネーミングセンスの無さを嘆きたくなった。
そんな訳で――
「……名前ですか?」
「うん。参考までに、どんな名前がいいかな?」
一人で悩んでいても決まる気配がないので、皆に意見を聞いてみることにした。
早速、昼食を部屋まで運んできてくれた月に質問してみる。
「そ、それって……もしかして……」
「大切なことだから、月の意見を聞いておきたくてね」
「ふあ……で、ですが、私達はまだそんな……」
何故か顔を赤くして、もじもじと胸の前で指を絡ませる月。
そんなに恥ずかしい質問をしているつもりはないんだが……。
「俺の名前から一文字取って『太』ってのも考えたんだけど、余りに安直だしな」
「ご、ご主人様の名前から……」
なんだか、月の様子が変だ。さっきよりも顔が赤くなった気がする。
でも、やっぱり安直すぎるよな……。
もうちょっと真面目に考えた方がいいか、と思ったところで、
「わ、私はそれがいいと思います!」
珍しく積極的に、月が身を乗り出してきた。
「え? いいの?」
「は、はい!」
理由はよくわからないが、月はこの名前が気に入ったみたいだ。
(一文字って方向性は間違ってなかったみたいだな。でも……)
月のセンスが、今一つよくわからなかった。
【Side out】
異世界の伝道師外伝/天の御遣い編 第131話『大切な名前』
作者 193
宮廷の一角に設けられた巨大な書庫。本来そこは重要な文献や書物が保管されており、宮廷内で働く文官や官吏以外は利用は疎か、立ち入りすら禁止されていた場所なのだが、今は学校の施設の一部として一般にも広く開放されていた。
陳留にある図書館のようなものだ。
「蓮華様。資料をお持ちしました」
「ありがとう。亞莎、悪いわね。あなたにも仕事があるのに手伝ってもらって」
「い、いえ……このくらいは別に」
呂蒙から束になった分厚い資料を受け取る孫権。それは天の知識を記した農業に関する書物だった。
これらの書物は持ち出し厳禁ではあるが、施設の利用者は自由に閲覧することが出来る。陳留ほどではないものの料理のレシピから経済学や専門的な技術書まで、商会から持ち込まれた大量の書物が数多く揃えられているとあって、学校に通う生徒だけでなく文官や商人達にまで幅広く利用されていた。
「ここ最近、ずっと書物に目を通されているみたいですが……」
「折角の機会だもの。役に立ちそうな知識を覚えて帰りたいの」
孫権も、そんな書物に目を付けた一人だった。
洛陽に訪れてから公務の時間以外は、ほとんど毎日ここで本に没頭する日々を送っていた。
姉の孫策と違い、孫権は真面目で勤勉な性格をしている。特に孫策の後を継ぎ呉王に即位してからは、まるで何かに取り憑かれたかのように、政務に勉強にと熱心に打ち込む姿勢が見られるようになった。
呂蒙としては、それが少し心配だった。
「ですが、最近は余り休まれてないのでは? 遅くまで仕事をされているようですし……」
暇だから、こうして本を読み漁っている訳では無い。寧ろその逆で、孫権の抱えている仕事は、こんなことをしている余裕などないほどに忙しいものだ。
呉は再興を成し遂げたと言っても、独立して間もない国だ。食糧に関しては商会の協力もあって目処が立ちつつあるとはいえ、主要となる産業がまだ安定していないこともあって、内政が整うまでの間は他国や商会からの援助を必要としていた。
それというのも、すべては袁術が好き勝手にやった結果だ。袁術の暴政によって疲弊した領土の回復や産業の充実など、やるべきことは山積している。洛陽に出向いているからといって、政務を疎かには出来ない理由が孫権にはあった。
それだけに本来であれば、こうして書物を読み漁る時間すらないはずなのだ。
それを孫権は夜遅くまで仕事をこなすことで僅かな時間を作っては、書庫に出向くという毎日を送っていた。
「心配をかけてごめんなさい。でも、どうしても必要なことなの」
「ですが、雪蓮様や冥琳様も心配されております。出来れば、少し身体を休めて――」
「私はやらないといけないのよ。呉の王として」
そう言われると、呂蒙はそれ以上、何も言えなかった。
国を豊かにしたい。王としての責務を果たしたいと考える孫権の思いは理解出来たからだ。
しかし明らかに過剰とも言える頑張りに、呂蒙は孫権を慕う側近の一人として心配せずにはいられなかった。
(もっと、私がお役に立てていれば……)
悔しそうに、唇を震わせる呂蒙。
しかし彼女がどれだけ頑張ろうと、孫権が考えを変えないことには解決しない問題でもあった。
そして孫権が意志を曲げることは無い。そのことは孫権の努力と意志の強さを知っている呂蒙が一番よく理解していた。
「亞莎。少し質問があるのだけど、いいかしら?」
「あ、はい」
「ここなのだけど――」
天の知識を元に記された書物は出来るだけ分かり易く書かれているとはいえ、文化や考え方の違いなどから、この世界の人達には理解し難いものも多い。特に専門的な技術書は、その仕組みを理解するのに、更に別の知識と技術が必要なものもあり、そうした書物に慣れ親しんだ者であっても難解な作りになっていた。
学校があるのは、何も計算や文字の読み書きを教えるためだけではない。
これらの書物を理解するのに必要な基礎知識を教える場、それが学校の役割でもあった。
(そうだ。御遣い様なら――)
孫策や周瑜がよく話題にしていた太老のことを思いだし、呂蒙はそこに希望を見出す。
王である孫権に対等な意見を出せる者は少ないが、対等な立場の者か、或いはそれ以上の身分を持つ人物に言われれば、少しは孫権も考えを改めてくれるのではないかと考えたからだった。
幸いにも孫権は、天の知識に興味を持っている。
そして密かに孫権が呉や孫策のことで、太老に感謝と憧れを抱いていることを呂蒙は知っていた。
「あの、蓮華さ――」
そのことで呂蒙が孫権に声をかけようとした――その時だった。
呂蒙の視界に、両手一杯に大量の本を抱えた太老の姿が入る。
「御遣い様!?」
「ん? 呂蒙ちゃんと……孫権さん?」
噂をすればなんとやら。タイミングの良い男だった。
【Side:太老】
ただ借りてた資料を返しにきただけなんだが、妙なことになった。
呂蒙もとい『亞莎』の頼みで、雪蓮の妹『蓮華』に勉強を教えることになったのだ。
ちなみに真名に関しては、二人にそう呼んで欲しいと言われたので呼ぶことになった。
「――で、ここはこうなるわけだ」
「なるほど、ではこっちは?」
最初はどうなることかと思ったが、蓮華は理解力のある優秀な生徒だった。
一を聞いて十を知る――の華琳ほどではないが、あれは華琳の頭が良すぎるだけで他と比べてはいけない。蓮華は華琳のように天才と言う訳ではないが、一つずつ着実に覚えていく努力家、クラスに一人はいる秀才と言った感じだった。
桃香のように物覚えの悪いタイプは一から理解させるのが大変だし、華琳のように一つ教えれば自然と他のことまでこなせてしまうタイプは優秀すぎて教え甲斐がない。
勉強を教える方としては、蓮華のような秀才が一番教え甲斐のあるタイプだった。
「ありがとう。色々と勉強になったわ」
「このくらいでよければ、いつでも相談に乗るよ」
「しかし、陛……太老も忙しいんじゃ?」
陛下と呼びそうになったところを、俺との約束を思いだし言い直す蓮華。
真名で呼んで欲しいと頼まれた時に、ならこちらも『陛下』や『天の御遣い』など他人行儀な呼び方はやめて普通に名前を呼び捨てにして欲しいと頼んだのだ。最初は渋っていたが、雪蓮や華琳達も普通に名前で呼んでくれていると話すと、なんとか了承してくれた。
こう言う真面目なところは、適当で不真面目な雪蓮とは対象的だ。
シャオもそうだが、三人とも本当に姉妹かと思うくらい性格は余り似てなかった。
「忙しいか……。そうでもないかな?」
忙しいと言えば忙しいし、忙しくないと言えば忙しくない。
確かに商会の仕事や政務はあるが、蓮華の勉強を見てやる余裕がないほど大変なものではなかった。
商会の仕事は風と稟がいればなんとかなるし、政務の方は月と侍女達が手伝ってくれるので随分と助かっている。それに、ここで働く文官達も優秀だ。俺の決済が必要な仕事以外は、俺がいなくても十分に回せるだけの人材と環境が整っていた。
これもようやくと言ったところではあるが、やはり学校を作ったのは正解だった。
それに多麻と風が密かに進めている人材育成計画が上手く行っている証拠だ。
「……羨ましい話ね」
心の底から羨ましそうに、ため息を漏らす蓮華。
呉の人手不足は聞いている。明命が言うには俺のところの商会や、華琳のところに比べて人材の層が薄く、それだけに一つのことだけでなく、それぞれが色々と役割をこなしているそうだ。明命が護衛から斥候まで、様々な任務を一人で請け負っているのも、そうした事情からだった。
武官だから文官だからと言っていては、仕事が回らないのが現実と言う訳だ。しかし――
「そうかな? 蓮華にもいるだろう。頼りになる仲間が」
「……仲間?」
そんなに意外だったのか、目を丸くして驚く蓮華。自分で気付いていなかったのか、人手不足と頼りになる仲間がいるかどうかは別の話だ。俺も大変な時期はあったが、皆に助けられてどうにかやってきた。
蓮華も、その点で言えば俺と一緒だ。現に亞莎は――
「雪蓮はどうかわからないけど、冥琳が役立たずってことはないだろう? それに、そこにいる亞莎とかも」
「わ、私ですか!?」
「そうでなかったら、蓮華のため、俺に講師役なんて頼まないだろう?」
突然、土下座をして頼まれた時は驚いたが、亞莎がそこまでする理由など一つしかない。蓮華のためだ。
俺が言っている頼りになる仲間というのは、仕事が出来る有能な人材のことではない。仕事が出来るにこしたことはないが、バカでも仕事が出来なくても仲間は仲間だ。言われたから行動するのではなく、心から慕ってくれる友達や家族のことを俺は言っていた。
真桜や沙和とかには、かなり迷惑もかけられているが、だからと言って俺は彼女達を仲間じゃないと思ったことはない。苦楽を共にしてきた友人として信頼していた。
「臣下のことを仲間と呼ぶ。噂通りの変わった男ね」
噂通りの変人ってなんだ?
たぶん噂の出所は雪蓮かシャオのどちらかだろう。
俺が聞いていないと思って、家族に変なことを吹き込まないで欲しかった。
「ありがとう、世話になったわ。出来れば、何か御礼をしたいのだけど……」
「そんなつもりじゃなかったんだけど」
「なんでも言って頂戴。太老には以前から迷惑を掛けてばかりだから、個人的に何か御礼をしたかったの。それに何もなしでは、私の気が済まないわ」
蓮華に迷惑を掛けられた記憶はないのだが、たぶん雪蓮のことを言っているのだとわかった。
迷惑と言うほどではないが、色々と面倒事に巻き込まれているのは事実だ。
このままじゃ引き下がりそうにないし、それなら――
「なら、一つ質問があるんだけど」
「何? 私にわかることなら、なんでも訊いてくれて構わないけど」
「じゃあ、遠慮無く」
あれから月以外にも何人かに話を聞いてみたのだが、未だに決まらないことがあった。
この国の新しい名前――国号だ。
「名前を一緒に考えてくれ」
もう余り時間が無い。かなり切実な願いだった。
【Side out】
……TO BE CONTINUED
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