人心を束ねるための威光は必要だが、強すぎる威光は脅威論を招く。
力と恐怖によって抑えつけられた治政では、嘗ての漢王朝と何も変わらない。
それが彼女達の意思であり、辿り着いた答えだった。
「だから、私達に手を出さないで欲しいと?」
「計画の邪魔はしない。でも、この戦いはボク達に任せて欲しい。太老のためにも――」
賈駆の言葉は、この国の人々の想いを代弁したものでもあった。
天下統一という大言を掲げ、覇道を突き進んでいた頃の曹操であれば、力で人々を従わせることを躊躇わなかった。
国家百年の大計。孫呉の盤石な支配を望む孫策であれば、自分達の立場を危うくするような政策に賛成などしなかった。
しかし、それでは急激に変化する時代の流れに取り残されていくことを、彼女達は自ずと理解していた。
――意識の改革。
太老との出会を通し、先進的な文化と考え方に触れることで、彼女達のなかで少しずつ価値観の在り方に変化があったためだ。
「それは本心からですか? それが本当に太老様のためになると?」
「最悪、それでこの国が滅びることになったとしても――」
「民が、それを望んでいると?」
「……少なくとも、ボクは自分の意思でそれを選択したわ」
国を危険に晒し、もし戦争に負けることになれば、今のこの平和は崩れ去る。
民がそのようなことを望むはずもない。それは一部の権力者達の意地に過ぎない。
例え、それが与えられた平和であっても、太老に対する依存とわかっていても、ほとんどの人は安寧を望むはずだ。
しかし、この世界で生きていく以上は、すべての人が平等に責を負うべき問題でもある。
「わかりました。私様は余程のこと≠ェ無い限り、その件に手を出しません」
彼女達の意思を汲み、五胡との戦いに林檎は手を出さないことを約束した。
自分達がでれば、もっと確実に早く片付く問題であることを知った上で、それはこの国の人々のためにならないと考えたからだ。
それに強すぎる力が軋轢を生むことは、彼女自身が一番よくわかっていた。
(太老様にまた、同じような思いをさせるわけにはいかない)
皇家の樹――それは樹雷の人々にとって信仰の対象になっていると同時に、海賊や他の勢力にとって大きな脅威になっている。そのため皇家の樹を巡って、これまでに幾度も他国との間に諍いが起きてきた。
太老自身――その強すぎる力によって、あちらの世界にいられなくなった一人だ。
だからこそ、太老のためにも、ここで同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。
それが、立木林檎の意思だった。
(でも、太老様は優しい。だから、あなた達の願いは届かないかもしれません)
異世界の伝道師外伝/天の御遣い編 第148話『大侵攻』
作者 193
「詠ちゃん、お疲れ様」
「正直、生きた心地がしなかったわ」
林檎と面識の濃い董卓達が事情を説明すべきとの判断から、賈駆に白羽の矢が立ったのだが、林檎に対し苦手意識を持っている賈駆にしてみれば、精神的に辛い交渉だった。
ましてや、太老に関することは一切の容赦がない林檎だ。太老の不利益になるようなことを了承するはずもなく、最悪ここで彼女の機嫌を損ねれば、五胡との戦いの前に国が滅びかねない。
それに交渉事に長けた林檎を欺くなど出来るはずもない。下手な計略など心象を悪くするだけだ。
この国のためだけでなく、太老のために必要だということを納得させなくては話にならない。
色々な意味で交渉相手には選びたくない厄介な相手だった。
「大丈夫だよ。林檎さんは優しいから」
「月はあの人の本性を知らないから、そんなことが言えるのよ……」
林檎の最優先はあくまで太老だ。自分達は、そのおまけに過ぎない。賈駆にはそのことがよくわかっていた。
この世界を救うことも林檎からしてみれば、太老が望むから協力しているに過ぎない。
最悪、太老の不利益になると判断されれば、この世界は容赦なく切り捨てられる。
敵ではないかもしれないが、完全な味方にはならない要注意人物だった。
「林檎さんは、ご主人様のことが好きなだけだよ。詠ちゃんのように……」
「なっ! ボ、ボクは別にアイツのことなんて、なんとも!」
董卓の言葉を、賈駆は顔を赤くして否定する。
目の前の親友を救ってくれたことに感謝しているが、好きと嫌いは別だ。
董卓に指摘されるまで賈駆は、太老が好きかどうかなど考えたこともなかった。
「でも……最近はよく、ご主人様の話ばかりしてるよね?」
「そ、それはアイツが仕事をほっぽり出して出て行ったりするから!」
「仕事が滞らないように夜遅くまで頑張ってるって劉協様が言ってたよ。それって、ご主人様のためだよね?」
「だっ、だってそれは……仕方ないじゃない」
この洛陽は、どの勢力にも属さない政治・文化の中心地として名を馳せている皇帝のお膝元だ。
太老がいないから街に活気がなくなったと言われるのは、皇帝の補佐役として街の施政を預かる賈駆にしてみれば負けを認めたみたいで嫌だった。
しかし、そんな子供じみた理由を親友に話すのは躊躇われるのか、賈駆は口を噤む。
「ご主人様の世界の言葉で、そういうのを『つんでれ』って言うらしいよ」
「うっ……」
それが、トドメとなった。
「うわあああーんっ!」
「あっ、詠ちゃん!?」
悪意のない董卓の言葉に耐えきれなくなり、脱兎の如く顔を真っ赤にして逃げ出す賈駆。
「ボクの月が、太老菌に冒された!」
親友に余計な入れ知恵をした相手を恨む。
こんなことになったすべての元凶を憎む。
天の文化に毒されていく親友の姿に嘆く。
「こ、これで勝ったと思わないことね!」
それは誰に向けた言葉なのか?
親友のためとはいえ、悪魔と契約したばかりに彼女の苦難は続くのだった。
【Side:華琳】
洛陽で開かれた連合会議より三ヶ月――。
戦の準備を進めながら、五胡の動きに警戒を続ける日々が続いていた。
「おかしい……どういうことかしら?」
当初、二ヶ月ほどで五胡の侵攻があるものと予想されていたが、実際には三ヶ月経った今も敵の動きは感じられない。
まるで、こちらの戦の準備が整うのを待っているかのような、そんな素振りさえ感じられる五胡の不審な動きに私は警戒を募らせていた。
「あちらに、こちらの準備が整うのを待つ理由はない。そうなる前に攻めてきた方が効果的だというのに……一体、何を考えているの?」
正々堂々と全面対決を望んでいる?
いや、彼等にそのような矜持があるとは思えない。
それなら不意打ちのような真似をせず、堂々と使者を送りつけてくるはずだ。
「桂花、細作から何も報告は入ってないの?」
「はい。以前として国境付近で兵の姿を見かけるものの、大きな動きは確認されていません」
益々、腑に落ちない。それなら、こちらの動きを向こうも掴んでいるはずだ。
これまで集めた情報から、五胡の侵攻が近いことは疑いようのない事実だ。
なのに、敵は動こうとしない。ふと、例の二人組のことが頭を過ぎった。
(例の白服……左慈と干吉と言ったわね)
今から二月前、消息を絶っていた林檎が突然、姿を見せた。
彼女の口から語られた事件の真相によって、その二人が五胡の背後にいることを知ることが出来た。
太平要術の書――もっと早くに処分しておくべきだったと、今になって後悔しても遅い。
過去、三度に渡って悪用され、その効果の程は実証されている。妖術によって操られた五胡の軍勢は損害を問わず、死兵となって襲いかかってくることだろう。最悪、こちらにも大きな被害がでることを覚悟しなくてはならなくなった。
だからこそ本音を言えば、戦の準備を整える時間の余裕が出来たことは嬉しい。
急がせた甲斐もあって、この三ヶ月で国境の配備は滞りなく進んだ。五胡が今すぐに襲ってきても、問題なく対応できるだけの準備は整えたつもりだ。しかし、不安は尽きない。
(太平要術の書を用いているとすれば、狙いはこれまでと同じはず)
敵の狙いはわかっている。これまでと同様、太平要術に妖力を集めることだ。
しかしそれならば、私達の準備が整うのを待つ必要はない。あの書は、人の恐怖や不安と言った負の感情を糧にする。兵達の動揺を誘い、不安をより強く煽るのであれば、戦線が整う前に攻めた方が効果的なはず。
なのに彼等はまるで、こちらの準備が整うのを待つかのように動こうとしなかった。
(何かを見落としている?)
そもそも彼等は何故、太平要術の書を使って妖力を集めている?
林檎から聞かされた胸……の話はすべてが終わった後、じっくり太老を尋問するとして、それ以前の彼等の行動目的が見えて来ない。
世間を騒がすだけの愉快犯には思えない。それにしては手が込みすぎている。
明確な目的があって、何かを為そうとしていることだけは間違いなかった。
その目的さえわかれば、彼等の行動の意味がわかる気がする。でも、それは――
「報告します! 北方の国境に五胡の姿を確認! その数、凡そ三十万!」
玉座の間に、息を切らせた兵が駆け込んできた。
情報の伝達は太老の考案した通信のお陰で、ほぼ時間差なく知ることが出来るようになった。
戦において情報は生命線だ。そのため国境への配備を急がせたのだが、その効果はあったようだ。
問題は――
「三十万? 百万の間違いではなく?」
「は、はい! 報告では確かに三十万と……」
五胡の予想される兵の総数は、少なくとも百万以上。総力戦でくるなら三百万を超す大軍勢になる。
北の防備は春蘭・秋蘭率いる魏の本隊と、幽州の精兵で固めていることからも強固だ。
その数は実に三十万。それを同じ三十万の兵で攻略することなど不可能。自殺行為と言ってもいい。
敵も斥候を送り込んできている以上、そのことを知らないはずがないというのに……。
「伝令! 西と南でも五胡と交戦に入った模様! 数は同じく三十万を超す軍勢とのこと!」
やはり少ない。ここで戦力を出し惜しみをする理由などない。奇襲なら少ない兵で強襲をかけるのはわからなくもないが、ならば何故もっと早くに攻めて来なかったのか疑問が残る。こちらの準備が万端に整っている今、それは愚策だ。
まさか、敵の狙いは――
「申し上げます! 南西より五胡の大軍が侵攻! 既に国境を突破されたとのことです! その数――に、二百万を超す大軍勢です!」
――やられた!
「華琳様! これは!?」
「わかっているわ。まんまと、してやられたようね」
各地の国境に兵の姿をちらつかせていたのは、五胡の侵攻が近いことを知らせるためと、三方からの大攻勢があると思わせるためだったと考えれば、敵の行動に納得が行く。
真の狙いは益州からの侵攻。
これは、こちらの狙いを読んだ上での行動と見て間違い無い。
(策に嵌めたつもりで、それも敵の思惑の上だったということか……)
国境の防備を固めれば、攻めあぐねた敵の本隊が防備の薄い益州を目指すと考えていた。
しかし、それすら敵の思惑の内だったとすれば、私達は嵌められたと言うことになる。
「すぐに兵を呼び戻し――」
「落ち着きなさい、桂花。今、兵を退けば、そこに付け入られるわ」
最初から私達の本隊を国境に釘付けにすることが狙いだったとすれば、既に敵の目的は達成している。
三十万もの兵を一度に退かせることは出来ない。あちらにも同数の兵がいるのだ。
内に二百万の敵を抱え、外からも侵攻を許せば、たちまち戦線は瓦解する。
「申し訳ありません……。敵の狙いに気付かなかった私の責任です」
「あなただけの責任じゃないわ。敵の方が上手だったということよ」
桂花を責めるつもりはない。これは敵の力を見誤った私の責任だ。
恐らく敵の軍師は、あの干吉という男。想像以上に油断のならない相手のようだ。
「まだ、挽回する機会はある」
しかし、まだ始まったばかり。
勝利を諦めたものに天命は降りず、戦場とは常に変化するもの。
起こってしまった失敗を後悔をするくらいなら、どうすべきか頭を働かせるべきだ。
「さて、どうするか……」
流れは敵にある。最初の一手は、あちらに軍配が上がった。だが、益州に敵兵が流れるのは予想していたことだ。
問題は当初の予想より、益州に侵攻する敵の数が多すぎたこと。
しかし、益州に侵攻している敵の本隊を蹴散らせば、こちらの勝利は確定する。
「桃香達なら、必ず持ち堪えてくれるはず……」
大軍で行動している以上、行軍速度は遅いはず。
勝つことは無理でも、益州が落とされるまでにはまだ時間があるはずだ。
そこに付け入る隙がある。ならば――
「例の作戦を実行に移すわ。出し惜しみをしていられる余裕はない」
突き進むしかない。それが、私の戦い方だ。
どれだけ敵が強大であっても、私達の取るべき道は決まっている。
「桂花、各国に作戦の通達を――季衣に親衛隊の準備を急がせなさい!」
「はい! すぐに!」
未来は与えられるものではなく、自らの意思で掴み取るもの。
ここが、その正念場だと理解していた。
【Side out】
……TO BE CONTINUED
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