樹雷・天樹の上層、皇家の支配域にある皇族専用ドッグ。
幾重にも重なった樹木に覆われ、外界から姿を隠すように神木瀬戸樹雷の船『水鏡』は停泊していた。
現在、水鏡のなかでは瀬戸の女官達が忙しそうにバタバタと走り回っていた。
ある者は腕に抱えきれないほどの書類を持ってあちこち走り回り、ある者は目にも留まらない速度で手を動かしながら画面を睨み付け、ある者は絶え間なく押し寄せてくる通信の対応に追われる始末。
そんななか状況を見かねた一人の女性が、瀬戸のいるブリッジへと走り込んできた。
「せ、瀬戸様、大変です! 超空間ネットワークを通じて、あちこちに太老くんの『青いZZZ』が流れまくってます!」
この世の最後と言った様子で絶望的な表情を浮かべ、柾木水穂は瀬戸へと迫る。
これが普段のバカ騒ぎ程度なら、水穂も何も言うつもりはなかった。
しかし今回の件は彼女達の手に余る。あらゆる職務を放棄して、すべてを後回しにして対応に回っているが、それでも時間と人手が足りないほどだ。とてもじゃないが手に負えそうになかった。
「あらあら、大変ねえ」
「何、他人事のように仰ってるんですか!? 『鬼の寵児』が復活したって大騒ぎですよ!」
ここに『金庫番』の名を持つ彼女がいれば、二人で瀬戸に詰め寄ったことだろう。彼女がいないのが悔やまれる。水穂が取り乱すほどに、あちらこちら銀河を跨いでの大事件となっていた。
情報部などその対応に追われ、パンク寸前の大騒ぎだ。
現在『星の箱庭』は厳重に封印され、樹雷・天樹に安置されているのだが……それがよくなかったのだろう。
ここは世界で最も強固なセキュリティを誇る一方で、全宇宙――その気になれば異世界とだって交信可能な環境が整っている。超空間ネットワークを通じ、銀河中の星々に『ZZZ』の一斉同時配信なんて真似をすることも不可能な話ではない。
以前よりも大幅にパワーアップした零式の能力に加え、太老のパーソナルデータの暴走によって樹雷の自慢する最先端セキュリティは脆くも崩れ去り、更には天樹の暴走という悲惨な結果を招いていた。
――いや、この場合は皇家の樹が太老の帰還を喜んでいると言ったところか?
何れにせよ、『青いZZZ』が超空間ネットワークを通じて銀河中に配信され、この世界は今、未曾有の大混乱を迎えていた。
他に手はなかったとはいえ、津名魅の領域に『星の箱庭』のデータを退避すると決めた時から嫌な予感はしていたのだ。
天樹は津名魅のもう一つの身体。そこは言ってみれば、太老の『庭』でもあるのだから――。
瀬戸はやれやれと言った様子で肩をすくめた。
「そう言うなら、水穂ちゃんが太老を迎えに行ってくれない?」
「それが出来たらとっくにやってます!」
この頃、海賊達が『鬼の寵児』復活の知らせを受け、団体でGPに投降してくるという前代未聞の事件が起こっていた。恐らく過去の事件を思い起こし、海賊を続けるメリットとデメリットを比較して小心者の海賊達が投降してきたのだろうが、それでもバカに出来ない成果だと後で瀬戸は知る。
実はここ最近『鬼の寵児』を警戒して活動を控えていた海賊達が再び動きを見せ始めていた。
アイライと手を結び強硬姿勢に走っていた銀河軍はクレー事件の後、九羅密家の監視の下で徹底した調査と再編がなされたが、その時に出た膿の中には海賊に落ちぶれた者達もいて、小規模ではあるが幾つかの海賊ギルドが旗を興し、活動が以前より活発になってきていたのだ。
GPや樹雷の方でも対策会議を設け、以前の失敗を踏まえて大規模な囮作戦の実施を考えていた矢先のことだった。
絶妙なタイミングでの牽制。あの事件のことを良く覚えている者なら、自然と『青いZZZ』を見ただけで震え上がるはずだ。
特にアイライと銀河軍は、あれで組織の再編が必要なほど致命的なダメージを被ったのだから当然と言えば当然の反応だった。
「とは言ってもね。こうなったら、なるようにしかならないでしょう?」
どうにかなるのなら、とっくになんとかしている。
太老を一時的に異世界へ退避させたのも、自分達の手に負えないと考えてのことだ。
だから、時間を稼ぐ必要があった。
そうして稼いだ時間を鷲羽の考案した『正木太老ハイパー育成計画』にあて、太老の未来と世界の命運を賭けることにしたのだ。
だと言うのに、なかなか思うようにはいかないものだ。瀬戸は嘆息する。
「林檎ちゃんお願い! 早く太老くんを連れて帰ってきて――っ!」
水穂の悲痛な叫びを聞き、瀬戸は太老の扱いにくさを改めて痛感した。
異世界の伝道師外伝/天の御遣い編 第167話『箱船』
作者 193
辺りが騒がしくなってきている。喧騒とした空気のなか、曹操はゆっくりと身体を起こす。
突如、全身の力が抜けるような怠慢感に襲われ、思うように動かなかった身体もどうにか回復へと向かっていた。
「どうやら、太老が上手くやってくれたようね……」
徐々に成都から遠ざかっていく五胡の兵達。正気を取り戻した者達が、慌てて軍の撤退を始めたのだ。
太平要術の呪縛が弱まった証拠だ。程なくして、この戦いも終わりを迎えるだろう。
曹操は衰弱した身体にムチを打ち、最後の力を振り絞るように武器を構える。
その視線の先には全身から瘴気を放ち、悶え苦しむ関羽の姿があった。
「呪縛が解けようとしている? いえ……暴走しているのね」
曹操の推測は正しかった。
個人差はあれ、太平要術の呪縛は徐々に解けかけていた。
しかし膨大な妖力の供給を受け、全身を強化していた関羽の身体と精神は既に限界へと達していたのだ。
太平要術という支えを失い暴走した力は関羽の身体を破壊し、残された生命力を奪っていく。
このまま放って置いても自滅する。それは妖術に聡くない曹操にもわかることだった。
「残念だけど、ここまでのようね」
せめてもの情けとばかりに、曹操は関羽へと刃を向ける。
身体と心を操られたまま緩慢な死を迎えるくらいなら、最後は武人らしく戦場で散らせてやりたいと考えた。
それが王として、同じ武人として曹操に出来る最後の手向けでもあった。しかし、
「待ってください、華琳さん」
「桃香……。まさか、まだ関羽を助けるなんて甘いことを言う気じゃ……」
「お願いします。ここは私に任せてください」
毅然とした態度で曹操の前に立つ劉備。歩みを進める彼女の両手には宝剣が握られていた。
覚悟――というには、まだ甘いのかもしれない。
でも、これは誰かに代わりにやってもらうようなことではない。
関羽との決着は自分が為すべきことなのだと――劉備は心に決めていた。
「愛紗ちゃんと本気で喧嘩をしたことって、これまで一度もなかったよね」
いつも皆を守ってくれていた義妹。その彼女に自分は今こうして剣を向けている。
複雑な感情を抱きながらも、劉備は関羽の前に立つ。
勝っても負けても関羽は死ぬ。恐らく助からない。それがわかっていての行動でもあった。
「ガアアアアッ!」
暴走に身を任せ、力任せに振るっただけの一撃。
それでも、確実に劉備を死に至らしめるほどの力がそこには込められていた。
「――くっ!」
剣で受けるのは無理だと咄嗟に判断した劉備は、横に転がるように関羽の一撃を避ける。
いつもの関羽の動きなら、劉備が攻撃を躱すことなど出来なかった。
さっきの一撃で終わっていたはずだ。でも、みっともなくても今なら躱せる。
そのことで劉備は確信した。
「愛紗ちゃん……」
誰よりも傍にいて関羽のことをよく知り、一番近くで彼女の戦いを見守ってきた劉備だからわかる。
確かに力も速さも以前とは比べ物にならない。人の限界を遥かに超越した力だ。
でも、今の関羽は劉備の知っているあの頃の関羽より――ずっと弱く儚い。
「愛紗ちゃんがそうなったのって私の所為だよね。私がしっかりしなかったから……私がずっと迷っていたから……」
劉備の知る関雲長の姿はそこになかった。
自分にも他人にも厳しく口うるさい時もあるけど、それが彼女の優しさだと劉備は知っていた。
本当は誰も言いたくないことを関羽は敢えて口にする。でも、それは皆のためだ。
誰かが言わなくてはならないこと。誰かがしなくてはならないこと。
劉備が苦手とする劉備の理想に必要な部分を、そうして関羽が補っていた。
彼女が于吉につけ込まれたのも、そういう心だ。
「でも、大丈夫。もう迷わないよ。私は劉備――劉玄徳。愛紗ちゃんや鈴々ちゃんのお姉ちゃんなんだからっ!」
互いのことを想いながらも擦れ違ってしまった二人。
最初で最後の姉妹喧嘩が幕を開けようとしていた。
◆
「桃香はよくやっている。でも……」
劉備と関羽の戦いを見守りつつも、曹操は冷静に状況を分析していた。
劉備も頑張ってはいるが身体がついていけていない。幾ら、関羽が暴走して動きが単調になっているとはいえ、元々の身体能力に差がありすぎる。それに劉備の身体も五体満足とは言えない状態だ。
体力は太老の特製ポーションで回復しているとはいえ、怪我が完治したわけではない。
今はなんとか躱せているが、時期に体力も尽きて追い込まれることは確実だ。
「今の関羽なら、私でもトドメを刺せる……」
それでも、助けに入ることを曹操は躊躇う。劉備の覚悟を目にしていたからだ。
これは彼女達の戦い。そこに部外者である自分が割って入るのは許される行為ではない。
ただ見守ることしか出来ない。その歯痒さに曹操は唇を噛み締める。しかし、
「まずい!」
戦いで出来た地面のくぼみに足を取られ、バランスを崩し劉備が倒れる。
「もう、世話が焼ける!」
曹操は咄嗟の判断で、劉備を助けに走り出していた。
二人の間に割って入るのは場違いだと思う。でも、自然と身体が動いていた。
自分でも何をしているのかと思うが、ここで劉備を死なせてはダメだと思えたのだ。
しかし――曹操が割って入るまでもなく、関羽の前を人影が横切った。
「……危機一髪ってところかな」
みっともなくゴロゴロと転がりながらも、なんとか劉備を救出する一刀。
先程まで劉備がいた場所には、小さなクレーターが出来ていた。
あれを食らっていたら確実に死んでいたところだ。それを見て一刀も冷や汗を流す。
「……一刀さん?」
劉備は押し倒された格好で、ポカンと一刀の顔を見上げる。
慌てて「悪い!」と起き上がる一刀。
「どうして、ここに……」
「前に約束しただろう? 愛紗と仲直りするのを手伝うって」
「それだけのために、こんな無茶をしたんですか!?」
よく見れば、一刀の服もボロボロだ。息も乱れている。ここまで全力で走ってきたのだろう。
その上、あんな助け方。少しタイミングが遅ければ、一刀も一緒に斬られていたかもしれない。
助けてもらったことは素直に嬉しい。感謝している。
それでも劉備は一刀に、そんな真似をして欲しくなかった。
「まあ、これは咄嗟に身体が動いてたっていうか……」
なんでもないように話す一刀。それは以前、同じように劉備と関羽の戦いに割って入った際、一刀が咄嗟に口にした言葉と一緒だった。
劉備は納得する。そう、これが北郷一刀なのだと。
以前にも口にしたことだが、太老と最初に出会わなければ、劉備は間違いなく一刀に惚れていた。
そう思えるほどにバカでお人好しで、無鉄砲なところがどこか太老によく似ている。
「フフッ、一刀さん。前と同じことを言ってますよ」
「え、いや……だって他にないだろう?」
これが北郷一刀。関羽が好きになった男。そう思うと、劉備は嬉しかった。
「力を貸してもらえますか?」
「ああ、任せとけ!」
◆
「私の出番はないみたいね」
北郷一刀が、ここまで成長するとは曹操も思っていなかった。良い意味でも悪い意味でも、太老に一番近いのは彼なのだろう。
太老の後を継ぎ、この国や世界を治める器なのは、自分達ではなく北郷一刀なのかもしれない。
ありえたかもしれない未来。そして、これから訪れるかもしれない未来を想像して曹操は頭を横に振った。
誰かに国を託すのはまだ早すぎる。太老にはまだ責任を果たしてもらっていないのだから――
まずは、それからの話だ。曹操は考えを保留した。
「こちらは、そろそろ助けて欲しいのですが……」
「あなたは、もう少しそのままでいなさい」
「それはあんまりでは!?」
荒縄で縛られたままジタバタともがいている趙雲を見て、曹操は彼女の頼みをバッサリと切り捨てた。
プライドを捨て羞恥心に耐えたというのに美味しいところは一刀に持っていかれ、太老の介入で助かったとはいえ、なんとも歯切れの悪い終わりを迎えたばかりなのだ。八つ当たりの一つもしたくなる。
被害を最小限に抑えることが出来そうなのはいいことだが、色々と覚悟をしていただけに曹操からすれば複雑な心境だった。
もっとも、なんとなくこうなるであろうことは曹操も予想していた。
あの太老が見て見ぬ振りなど出来るはずもないことを、最初から察していたからだ。
「華琳様、大変です!」
「……季衣?」
「西の空を見てください!」
許緒に言われるまま曹操は空を見上げ――瞠目した。
まるで玉子の殻を破るように、光の粉となって空が消えていく様を目にしたからだ。
成都の街――いや、各主要都市に設置された『扉』より一筋の光が立ち上り、汚れ一つない純白の空が世界を覆っていく。
「今度は何!?」
光り輝く巨人が姿を現す。
それは守蛇怪・零式――世界の器となり、新たな神となった少女。
古き神に見放された哀れな子羊を乗せた箱船は、外界へと旅立ちの準備を始める。
世界は今、最後の鍵を必要としていた。
……TO BE CONTINUED
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