クロスベル独立国の大統領ディーター・クロイスは、オルキスタワーにある専用の執務室で通信による報告を受けていた。
「逃げられただと!?」
それはヘンリー・マクダエルの確保に失敗したという報告だった。
軍からの報告に憤りを隠せない様子で、ディーターは受話器に向かって怒鳴りつける。ヘンリー・マクダエルはクロスベル政府――いや、ディーターにとって目の上のこぶとも言える存在だった。
独立を宣言したが、彼は議会の信任を経て大統領に就任したわけではない。現在クロスベルはクロイス家による独裁体制下にあり、反対する議員たちの大半は軍に捕らえられ、監禁されている状況にあった。なかでもヘンリーは過去に幾度となく市長を務め、独立前には議長の立場にあったクロスベルを代表する政治家だ。その影響力は新体制に移った後でも色濃く残っており、クロイス家の支配に反発する勢力の希望ともなっていた。
政府は勿論のこと軍内部にもヘンリーに味方する人間は多い。彼の存在を無視すれば、そうした者たちに反撃の機会を与えることにもなりかねない。
最悪の未来を想像して顔を青ざめるディーターに、微笑みを向けながらマリアベルは声を掛けた。
「まあ、想定範囲ですわね。〈暁の旅団〉の相手は、軍には荷が重いでしょうし」
「何を呑気な……ッ!?」
「だから忠告したではありませんか。わたくし≠ノお任せください、と」
マリアベルの忠告を無視して勝手に動いたのはディーターだった。
自身に任せておけば、このようなことにはならなかったと話すマリアベルに、ディーターは苦い表情を向ける。大統領という立場にあるが、実際に計画を主導しているのはディーターではなくマリアベルだ。彼の立場は弱く、その気になれば替えのきく便利な駒に過ぎなかった。そのことをディーターもわかっているからこそ、可能な限りマリアベルの力をあてにはしたくないと考えていた。彼に出来ることといえば実績を上げ、政府内での影響力を高めることで味方を増やすことくらいしかなかったからだ。
だが、そうした努力も今回のように余り上手く行っているとは言えなかった。その原因はわかっている。最大の協力者であったアリオスとイアンが政府を脱退し、行方を眩ませたことも理由にあるが、彼等――〈暁の旅団〉が表舞台に登場してからというもの、やることなすこと裏目にでてばかりだからだ。
そんな悔しげな表情を浮かべるディーターに、マリアベルは追い打ちとばかりに話を続ける。
「それに不穏分子を捕らえることに成功しましたし、今回はそれでよしとしましょう」
「――ッ!? あれはやはりお前の指示か!? 彼女を捕らえたりすれば――」
「兵たちの反発を招きますか? でしたら、その者たちも捕らえればいいでしょう。お父様はこの国のトップなのですよ? 反対するものは力で屈服させ、障害となるものは排除すればいい。それだけの権力をお持ちなのですから」
傀儡とはいえ、それだけの権力がディーターには与えられている。この国で彼に逆らえる者はマリアベルを除き、ほとんどいないと言っていいだろう。
しかしディーターには、そこまで思い切って行動することは出来なかった。
「……それは危険な考えだ」
「今更ですわね。改革には痛みが伴うもの。綺麗事だけでは現状を何も変えられない。そのことには、お父様も賛同されていたはずですが?」
痛いところを突かれて表情を歪ませるディーター。嘗てのクロスベルは大国の意志に政治が左右され、法さえもねじ曲げられる有様だった。帝国と共和国の小競り合いに巻き込まれ、犠牲者がでたとしても抗議一つ出来ない。そればかりか外国人の犯罪者を捕らえたとしても、クロスベルの法で裁くことが出来ないと言った理不尽な状況にもあった。
そんな現状を打破するためには強硬手段にでる以外に手はないと考え、マリアベルの計画に乗ったのだ。しかし、それはクロスベルの現状を憂いてこそ、この街を大切に思っているからこそだ。本来であれば世界にクロスベルの力を見せつけ大国の影響力を排除した上で、ヘンリーたちの理解と協力を得て、正しい方向に舵を取っていくつもりだったのだ。
しかし現実は違う。志を同じくしていたはずの協力者たちは離れて行き、ギリアス・オズボーンやユーゲント三世の亡命を受け入れたことで、反発する者たちを抑えつけるために更なる強硬策に打ってでるしか政府の取れる道はなくなっていた。これでは帝国や共和国のしてきたことと何も変わらない。
そしてギリアス・オズボーンとの繋がりや〈碧の大樹〉の顕現など、すべてはマリアベルの計画したことだ。
彼女が何を考えてこのようなことをしているのか、ディーターには娘の心が分からなかった。
「だが、軍は必要だ。そして、それを指揮する者も……。独立を維持していくだけの力がなければ、この国を大国の脅威から守ることは出来ない。彼女――ソーニャ・ベルツ司令は、そのために必要な人材だった」
「随分と彼女を買っておられるみたいですが、元よりクロスベルの弱兵では大国の相手は勿論のこと、猟兵団にすら及ばないことは今回の件で明らかではありませんか」
「それは……しかし、軍を結成したばかりだ。これから兵を育成すれば……」
「その時間がクロスベルにあるとでも?」
マリアベルに言われるまでもなく、そうした時間が残されていないことはディーターにもわかっていた。
だが、そうした事態を招いたのは他の誰でもない。目の前にいる彼女――マリアベルだ。
ギリアス・オズボーンの亡命を受け入れたばかりに、リィン・クラウゼルの率いる〈暁の旅団〉という敵を作ってしまった。
まるで最初から彼≠クロスベルへ招き入れるために、この状況を作ったかのようにディーターは感じていた。
「可哀想なお父様。脅えておられるのですわね」
そんなディーターの気持ちを知ってか知らずか、微笑みを浮かべながらマリアベルは言う。
「ですが、ご安心ください。この街は巫女と至宝の力によって守られている。そして後一つ鍵が手に入れば偽りの世界≠ヘ消え、わたくしたちの望む世界が訪れる」
額から汗がこぼれ落ち、ゴクリと息を呑むディーター。マリアベルの計画。それはクロイス家の悲願を叶えるものだとディーターは思っていた。
残念ながらディーターには魔術の才がなく、マリアベルほどクロイス家の歴史や至宝の力について造詣が深くない。
だからこそ裏に関することはすべて娘に任せるしかなかったのだが、自分は大きな勘違いをしていたのではないかと、いまになって気付き始める。
「マリアベル……お前は……」
「フフッ、そんな顔をしないでください。お父様には、まだやって頂くことがあるのですから」
娘の笑顔にディーターは恐怖を覚えながら、言葉に出来ない後悔を胸に抱くのだった。
◆
「随分と派手にやったみたいだな」
カレイジャスの船倉で、リィンは傷だらけの〈緋の騎神〉を見上げていた。
クロスベルでの戦闘から二日。任務を終えて帰ってきたエマたちから簡単な報告は既に受けていた。
シャーリィがアリアンロードと交戦したという報告を受けた時には驚いたが、結社の使徒や執行者がクロスベルに味方している可能性は考えていたことだ。
だからこそ万が一に備え、騎神の使用を許可したという背景があった。
「で? どうだった?」
「強かったよ。全力は見てないけど、たぶんリィンより強いね」
「……はっきり言うな。まあ、相性の悪い相手だっていうのは察しが付いてるけどな」
はっきりと自分より強いと言われて不満を口にするも、リィンは納得した表情を見せる。
戦闘に関して言えば、シャーリィの見立ては誰よりも信頼できる。リィン自身、相性の問題でどうにかマクバーンを退けることは出来たが、だからと言ってアリアンロードより自分が強いとは思っていなかった。異能の扱いなら大半の相手には負けない自信があるが、武人としての腕を競う勝負となった場合、経験や技量で劣る自分の方が不利だとリィンは悟っていたからだ。
それは〈光の剣匠〉との戦いから学んだことでもあった。
「でも、負けると思ってないんでしょ?」
「まあな。お前こそ、勝つための方法を一つくらいは見つけてるんじゃないのか?」
「うーん。まだ、シャーリィには無理かな。だから今回はリィンに譲るよ」
しかし自分たちは武人ではなく猟兵だ。相手に戦い方を合わせる必要などない。
アリアンロードが武人としての誇りと戦い方に拘るのであれば、勝つための方法はあるとリィンは考えていた。
そして恐らくシャーリィにも、そうした道筋は見えているはずだ。
「リィンさん」
リィンがシャーリィと話をしていると、後ろからエマが声を掛けてきた。
振り返ると、そこにはエマの他にリーシャと見慣れない人物が二人いた。
すぐにその二人が、クロスベルから連れてきた客人だとリィンは察しを付け、挨拶をする。
「団長のリィン・クラウゼルだ」
「ヘンリー・マクダエルだ。キミとは一度会って話をしたいと思っていた」
自己紹介を終え、その落ち着いたヘンリーの態度から、なるほどとリィンは評価を下す。
猟兵団の船に半ば無理矢理連れて来られたというのに、ヘンリーからは焦りや動揺が見られなかった。
恐怖を押さえ込んでいるのとは違う。こうした状況に慣れている。覚悟を決めていると言った様が正しいだろう。
さすがに一筋縄ではいかなさそうな相手だと、リィンは若干の警戒を滲ませつつヘンリーと握手を交わす。その時だった。
「お祖父様!」
格納庫に響く声。それはエリィのものだった。
ヘンリーの姿を目にして声を上げて駆け寄ると、再会を噛み締めるように祖父に抱きつくエリィ。
久し振りに再会した孫の様子に少し驚きながらも笑みを浮かべ、ヘンリーは彼女の背中を優しく撫でた。
そんな二人を見て、リーシャはそっとリィンに近付き、小声で尋ねる。
「……よろしかったのですか?」
「構わない。あの二人には、これから役に立ってもらわないといけないからな。恩を売っておいて損はない。それより、お前こそいいのか?」
エリィをここに連れてくるように指示を与えたのはリィンだった。お互い人質に言うことを聞かせることは確かに出来るが、先を見越した場合、それは悪手だとリィンは思っていた。そうして協力を取り付けたところで信用を得ることは出来ない。それに家族の再会を邪魔するような無粋な真似は元よりするつもりはなかった。
それよりも気になっていたのはリーシャのことだ。クロスベルはリーシャにとって第二の故郷とも言える思い出の深い街だ。
彼女がどんな思いで今回の任務に望んだか、それが分からないリィンではなかった。
「はい。覚悟は出来ています。そのための別れも済ませてきました」
「……そうか」
落ち着いた様子でそう答えるリーシャを見て、リィンはそれ以上なにも尋ねようとしなかった。
そして、もう一人の招かれざる客に目を向けるリィン。
「で、そっちのおまけ≠ヘなんだ? 俺が案内するように言ったのはエリィの祖父さんだけのはずだが」
リィンの睨みにビクリと肩を震わせながらも、髪を左右で束ねた赤毛の少女は覚悟を決めた様子で姿勢を正し、自分の名前を口にした。
「フラン・シーカーです! 今日からお世話になります!」
「世話になるって……ん? シーカー?」
シーカーという名前に反応するリィン。その名前には覚えがあった。
ノエル・シーカー。クロスベルの警備隊に所属する隊員で、特務支援課にも出向していたことのある人物だ。
彼女、フラン・シーカーは警察署に勤務するノエルの妹だった。
「もしかして、お姉ちゃんのこと知ってるんですか?」
「いや、会ったことはない。だが特務支援課については、それなりに知っているからな」
「ああ…なるほど」
エリィやリーシャを一瞥して、そこから情報を得たのだろうとフランは察する。
普通はもっと驚くものだが、意外と冷静なフランを見て、リィンは評価を改める。
そしてエマに視線を向けると、フランのことを尋ねた。
「……エマ。どういうことだ?」
「マクダエル氏の秘書という扱いらしいです。それに連絡役は必要だろうと押し切られまして……」
「それを言いだしたのは、もしかしてクマみたいなおっさんか?」
「えっと、はい。セルゲイさんという方です。やはり、ご存じだったんですね」
ヘンリーの補佐役としてセルゲイやダドリーと共に行動していたメンバーの一人がフランだった。
彼等を街の郊外まで逃がした際、ヘンリーの世話と連絡役は必要だろうとセルゲイに彼女を押しつけられたのだ。
当初の約束にはなかったことだが、問答をしている時間もなかったため、渋々彼女の同行を認めたというのが事の経緯だった。
そんなエマの話を聞いて、リィンはそういうことかと納得した表情を見せる。その上でフランに尋ねる。
「フランでいいか?」
「あ、はい」
「姉はどうした? 一緒じゃなかったのか?」
「それは……」
答えに詰まるフランを見て、ノエルの身に何かあったのだとリィンは理解する。
フランがヘンリーについてきた本当の理由は、そこに関係しているのだろうと察することが出来た。
(まんまと利用されたな)
セルゲイの狙いを察した上で、リィンはフランの扱いについて考える。
連れてきてしまった以上、追い返すことも出来ない。ましてや、エリィに不信感を抱かれるのは避けたい。
となれば、しばらくは面倒を看る必要があるだろう。それにノエルのことが、気になっていた。
ヴァルカンの報告にあった国防軍の妙な動き。そこにノエルの置かれている状況が関係しているのではないかと考えたからだ。
「取り敢えず歓迎してやる。ようこそ〈紅き翼〉へ」
その上で結論を出し、リィンはフランに手を差し出した。
押して頂けると作者の励みになりますm(__)m