夢を見ていた。
 リベールの王女、クローディア・フォン・アウスレーゼではない。
 ただのクローゼ・リンツとして、学友たちと過ごした忘れ難い日々の夢を――

 学園に馴染めず一人でいることに不安を抱えていた私の手を引き、どんな時も元気一杯に励ましてくれたルームメイトのジル。
 人当たりの良い性格で、そんなジルや皆との間に立ち、私の秘密を知ってからも変わらず友人として接してくれたハンスくん。
 生徒たちの羨望を集めながらも気負うことなく、誰の前でも笑顔を絶やすことのなかったルーシー先輩。
 サボり癖のある生徒会長に代わって生徒会を取り仕切り、皆の学園生活を支えてくれていたレオ先輩。
 そして、いつもルーシー先輩に怒られてばかりいた、だらしない生徒会長――レクター先輩。

 個性的な学友たちと過ごす、慌ただしくも充実した日々は初めてのことばかりで、無知な私に多くのことを学ばせてくれた。
 一人で悩み、苦しんでいたのが嘘のように皆と過ごす時間が楽しくて、ずっとこんな時間が続けばいい。あの頃は、そう思っていた。
 でも、楽しい時間にも、いつかは終わりが来る。
 レクター先輩が退学届を提出して学園を去り、レオ先輩やルーシー先輩も卒業して――
 私にとって当たり前だった日常は終わりを告げた。

 その後の学園での生活に不満があったわけじゃない。
 最初はあんなにも不安を抱いていたはずなのに、私にとって学園での生活は幼い頃に過ごした孤児院と同じくらい大切な場所へと変わっていた。
 でも、レクター先輩が黙って学園を去った、あの日。
 大切な何かが欠けてしまったようで、私はきっと後悔していたのだと思う。

 エステルさんとヨシュアさんが、王太女として生きる覚悟と決意を抱かせてくれた恩人なら――
 レクター先輩は与えられたレールの上を歩くことしか出来なかった私に、自ら行動することの大切さを教えてくれた恩人。
 なりたかった自分にどうやって近づくのか? これからのことを考える最初の切っ掛けをくれた人だった。

「バカですよね。とっくにわかっていたことなのに……」

 サボリ癖のあるレクター先輩が、よく昼寝をしていた部活棟(クラブハウス)の屋根の上。ここから見える光景は、記憶に残るあの景色とまったく変わらない。でも、この学園が〈輝く環〉の見せた幻であることに、私はとっくに気付いていた。
 私の中にある記憶。私が望んだ時間を〈輝く環〉が夢として再現したのだ。
 でも、夢はいつかは覚めるものだ。

「行くのか?」

 声に気付いて振り返ると、いつもの場所にレクター先輩が座っていた。
 これも私が思い描いた都合の良い記憶。〈輝く環〉が見せた幻なのかもしれない。
 それでも私は――

「はい。確かに学園(ここ)は居心地が良い。あの頃に戻りたい。もう一度、先輩や皆と笑って過ごせれば――そんな風に思わなかったと言えば嘘になります。でも過去には戻れない。私は選んでしまったから」

 私は今の気持ちを先輩に伝えたかった。
 周囲から与えられるだけだった空っぽの毎日。何一つ自分で行動することの出来なかった昔の私。
 そんな私に勇気をくれた人たち。励まされ、助けられ、多くの人に私はたくさんのことを学ばせてもらった。
 だから今度はそんな人たちのために、私にしか出来ないことで恩返しがしたい。

「リベールの王太女、クローディア・フォン・アウスレーゼとして生きる道を――」

 ある人が私にこう言った。国家と言うのは、巨大で複雑なオーブメントと同じだ、と。
 国という大きな力の前に翻弄され、苦しんできた人たちが大勢いることは確かだ。
 でも、そうした仕組みだけがすべてだとは思わない。
 数多の巨大な歯車が稼働する中でも、人が人として生きられる可能性を私は探したい。
 そのために私は王太女となった。

「良い顔で笑うようになったじゃないか。ようやく、なれたみたいだな。なりたい自分≠ノ……」
「まだまだです。それに、前を向いて行動することの大切さを教えてくれたのは先輩ですよ?」
「……そうだったか?」

 いつものようにとぼける先輩に、私は笑顔で応える。
 先輩がいてくれたから、いまの私がいる。だから伝えたかった。
 あの日に戻れないとわかっていても、先輩には成長した私を見て欲しいから――

「あの時の御礼を、もう一度言わせてください。ありがとうございました」
「礼を言われるようなことをした覚えはないんだけどな……」
「フフッ、先輩ならそう言うと思っていました」

 そう言って困った顔で頬を掻く先輩は、昔と何も変わらない。
 雲間から光が射す。空から『クローゼ』と私の名前を呼ぶ懐かしい声が聞こえた気がした。

「呼んでるみたいだな」
「はい。私に勇気をくれた大切な友人です」

 真っ白な光が世界に溢れ、もう先輩の顔も見えなくなってしまっていた。
 声が小さく、意識も薄れていくのを感じる。まだ話したいことがたくさんある。
 でも、終わりが近づいているのだとわかってしまった。
 だから私は勇気を振り絞って、最後に先輩へ尋ねる。

「私は、なりたい自分にようやく近付けた気がします。先輩は――」

 なりたい自分を見つけられましたか?
 これが私の夢なら、きっと望んだ答えが返ってくるはずだ。
 だってそれは、先輩のためなどではなく私の願い≠ネのだから――


  ◆


「悪いな、クローゼ。答えは、あの時と同じだ。俺には、なりたい自分なんてない」

 デパートの屋上からオルキスタワーの上空に立ち上る光を見詰めながら、レクターはそう呟く。
 それはクローディアの質問に対する答えだった。
 もう会うこともないだろう。そんなことを考えながら踵を返し、その場を立ち去ろうとする。
 しかし、レクターがそれより先に足を進めることはなかった。取り囲むように張り巡らされた鋼糸に気付いたからだ。

「もう、お帰りですか? まだ、幕引きには早いように思われますが?」

 レクターが声のした方角に振り返ると、そこにはメイド服に身を包んだ一人の女性が立っていた。
 その目立つ風貌から、彼女の正体にレクターはすぐに気付く。
 シャロン・クルーガー。ラインフォルト家のメイドという変わった肩書きを持つ〈結社〉の執行者だ。
 二つ名は死線。異名の由来ともなった鋼糸に注意を払いながらレクターは尋ねる。

「まさか、お前さんが来るとはな。そんなに、あのお嬢ちゃん≠ェ大事か?」
「〈結社〉の使命を忘れたわけではありません。ですが、私はラインフォルト家の使用人。ただ、そちらを優先していると言うだけの話です。それに未来のご主人様の頼みでもありますから、メイドとしては応じないわけにはいきません」

 発見される可能性はレクターも考えていた。しかし〈結社〉の執行者である彼女が、今回の件に協力すると言うのは少し意外だった。
 だが理由を聞けば納得も行く。〈鋼の聖女〉や〈博士〉とて組織の思惑で動いているわけではない。それぞれに目的があって、マリアベルの計画に協力しているだけだ。そして執行者には、盟主より行動の自由が許されている。シャロンにとって一番大切なのは、ラインフォルトのメイドであると言うこと。それが〈結社〉での使命よりも優先されると言うだけの話だ。
 そのためなら〈結社〉の人間と刃を交えることも、彼女は躊躇しないのだろう。
 しかしレクターにも一つだけ分からないことがあった。彼女が口にした『未来のご主人様』という言葉の意味だ。

「未来のご主人様って、誰のことだ?」
「勿論、私のご主人様となる御方。アリサお嬢様の未来の旦那様となる方です」
「それって、もしかして……」
「はい。〈暁の旅団〉団長、リィン・クラウゼル様です」

 納得するやら呆れるやら、どう反応していいか分からない回答にレクターは溜め息を吐く。

「お姫様の次は、大企業のお嬢様。更にはメイドってか? 人類の半分を敵に回しても、おかしくはないな……」
「英雄色を好むとも言いますし、よろしいのではないでしょうか?」

 いや、よくないだろうというツッコミが、どこからともなく聞こえてくる気がする。
 リィン本人が聞いても否定するだろうことを平然と口にするメイドに、レクターは珍しくペースを乱されていた。
 自分と似たタイプの人間だと認識するレクター。それはシャロンも同じだった。
 だからこそ、これ以上話が脱線する前にと、レクターはシャロンの目的を尋ねる。

「それで? 未来のご主人様に言われて、俺を捕まえにきたのか?」

 話の流れから察するに、シャロンが何かしらの命を受けてやってきたのは確かだ。
 しかし、まだ捕まるわけにはいかない。強敵ではあるが場合によっては一戦を交える覚悟を決めて、レクターはシャロンの返事を待った。

「いえ、そこまでは……。素直に招待に応じては頂けないでしょうし、他の方々の潜伏場所に関しても見当は付いているので無理をする必要はない、と伺っています」
「はあ? なら、何の用があって……」

 ギリアスたちの潜伏場所を既に掴んでいると、聞き逃せない情報をさらりと口にするシャロンに、レクターは目を丸くしながら思わず素で聞き返す。
 そもそも捕まえる気がないのであれば、何が目的で姿を見せたのか分からなかった。
 そんな困惑した表情を見せるレクターに、シャロンはエプロンのポケットから取りだした白い封筒を手渡す。
 まったく予想だにしなかったシャロンの行動に呆気に取られ、攻撃を警戒するのも忘れて普通に手紙を受け取るレクター。
 そして――

「手紙の中身について詳しくは存じません。ですが、そこにはルーシー・セイランドという女性からの伝言が記されているそうです」

 ブッ、とレクターは思わず息を吹き出した。
 ルーシーからだと!? と、大声で聞き返してくるレクターにシャロンは「はい」と笑顔で頷く。
 その悪戯が成功したと言った顔を見れば、狙ってやっていることは明白だった。
 そして満足したのか、こちらが本題と言った様子でシャロンは双眸を細め、もう一つの伝言をレクターに伝える。

「『ゲームは終わりだ。身の振り方を考えておけ』と、こちらは団長さんからの伝言です」

 ゲーム。それが何を意味する言葉か、分からないレクターではなかった。
 レクターはクレアのようにギリアスに恩義を感じているわけでも、ルーファスのように心から忠誠を誓っているわけでもない。
 鉄血の子供たち(アイアンブリード)の一員となったのは、それがギリアスの傍にいるのに都合がよかったからだ。
 興味があるのはギリアスではない。その計画の行き着く先だ。
 世界を盤上に見立てた壮大なゲームの結末を見届けることが、彼が自分に課した物語の役割だった。

「……怪物の子は怪物か」

 しかしリィンが知るはずもないことだ。知らないはずのことを知っている。そのことにレクターは恐怖する。
 人は自分の理解できないもの、未知の存在を恐れる。ギリアスが『怪物』と呼ばれるのは、それが理由と言ってもいい。腹心のルーファスでさえ、ギリアスの考えをすべて理解しているとは言えないだろう。いや、それは誰にも不可能なことだと、ギリアスという男をずっと傍で観察し続けてきたレクターは知っていた。なのに――
 ギリアスの居場所に見当を付け、こうしてシャロンをメッセンジャーとして寄越したと言うことは、リィンはギリアスの考えを読み、先手を打っていたと言うことだ。

 何を知っていて、どこまで気付かれているのか?

 相手の考えが読めないと言うのは、他人を手玉に取ることに長けたレクターにとって余り経験のないことだ。
 それはまるで、怪物(ギリアス)を相手にしているかのようだった。
 しかし、シャロンはそんなレクターを見て「それはどうでしょうか?」と頬に手を当て、小さく首を傾げながら疑問を呈する。

「物語でも怪物を殺すのは、英雄と相場が決まっていますから」

 リィンはギリアスに宣戦布告をし、こうして言葉どおりに彼等を追い詰めている。
 そういう意味でリィンは、ギリアスに恨みを持つ人々にとって『英雄』と呼ばれるだけの行動を見せていた。
 少なくともリィンのことを慕う人々は、彼のことを『怪物』とは呼ばないだろう。
 何よりアリサがそれを望まない。シャロンにとっては、リィンを『怪物』と呼ぶレクターの言葉を否定するのに十分な理由だった。
 しかし見方を変えれば、レクターの言っていることも間違っているとは言えない。
 所詮は立ち位置の問題だ。そしてリィンのことだ。『怪物』と呼ばれたところで否定することも訂正することもしないだろう。

「怪物と英雄。あなたは、どちらを目指していたのですか?」

 ふと、頭に過ぎった疑問をシャロンは口にする。
 ギリアスと共に行かず、この場にレクターが残ったのはクローディアのためだと推察できる。
 そのことからも計画に協力的とは思えない彼が、そうまでしてギリアスの傍に居続けることに拘った理由――

 それは怪物に魅せられたからなのか?
 それとも自分が怪物を倒す英雄になりたかったのか?

 敢えて『怪物』という言葉を使ったレクターの本心を、シャロンは聞いてみたかった。
 シャロンの疑問に一瞬呆けた様子を見せるも、レクターは自嘲するように小さく笑う。
 クローディアにも言ったことだ。そんなもの考えるまでもなく、わかりきった答えだった。

「どっちでもない。俺はただの〈かかし男(スケアクロウ)〉だ」



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