小鳥の囀りと共に目を覚ましたリィンはベッドの上で眉間にしわを寄せ、右手の指で目尻を押さえていた。
暁の旅団の団長。猟兵王の名を継ぐ者。妖精の騎士。
様々な呼び名を持ち、多くの国や組織に一目を置かれ、畏怖される彼にも対処に困る事態というものは存在する。
現在リィンは人生最大の危機を迎えていた。
部屋を見渡せば、シックな装いのなかに高価な絵画や調度品が並び、最先端の導力通信を始めとした様々な機材が目に入る。ここはカレイジャスの一室、リィン用に割り当てられた艦長室だ。これらの調度品は来客に備え、そうしたことに無頓着なリィンに代わってアルフィンとエリゼが用意したものだ。その二部屋からなる構造の奥の寝室。手狭な船室に置くには少し大きめのベッドの上に、リィンの他にもう一人、長い髪の女性がシーツにくるまり静かな寝息を立てていた。
この状況であっても、女慣れしたルトガーあたりなら笑い飛ばす余裕があっただろうが、そこまでリィンは人生経験が豊富ではない。
彼の左隣で眠っているのはエリィ・マクダエル。元特務支援課のメンバーにして、クロスベル議長ヘンリー・マクダエルの孫娘だ。
そして現在は帝国に亡命した祖父の名代として、クロスベル暫定政府の代表を任されていた。
一緒にベッドで寝た程度であれば、リィンもここまで頭を抱えたりはしていないだろう。
問題はリィンの隣が寝息を立てる彼女が、シーツの下は一糸纏わぬ姿だと言うことだった。
「どうしてこうなった……」
事後処理を帝国軍に丸投げしてエマたちと共にクロスベルへと帰還したリィンは、共に苦難を乗り越えた仲間たちに迎えられ、勝利を祝って宴を開くことにしたのだ。
気付けばダドリーたち警察組や、ミレイユたち警備隊の面々も参加して、なかなかに盛大な宴が催された。
戦いの疲れが残ってはいたが団長として席を外すわけにもいかず、勧められるがまま酒を飲まされ、最後はエリィに付き添われて部屋まで帰ってきたことまでは薄らとではあるが覚えていた。
「やっちまった……」
さすがに言い逃れが出来ない状況だ。
こうした行為に経験がないわけではない。何度かゼノに連れられて、そうした店にも出入りしたことがある。
とはいえ、依頼人とこんな関係になったのは初めてのことだ。しかも酔った勢いでというのが、たちが悪かった。
いつもならそんな悪酔いはしないのだが、昨夜は激しい戦闘の後と言うこともあり、気持ちが昂ぶっていたことも要因にあった。
最近は表に出ることがなかった破壊衝動。力を制御できていれば、そんな衝動に呑まれるようなことはないのだが、それだけ体力も精神も疲弊していたのだろう。
冷静になり段々と昨夜の記憶が蘇ってくると、エリィにした数々の行為が頭を過ぎり、リィンは自己嫌悪に陥る。
「……リィンさん?」
目を擦りながら、ゆっくりと身体を起こすエリィ。すると身体を隠していたシーツが滑り落ち、柔らかな白い肌が顕になる。
ああ……と頭を掻きながら、そっと視線を外すリィンを見て、ようやく自分の状態に気付いたエリィは――
「きゃあッ!」
小さな悲鳴を上げ、シーツを抱きしめるように胸を隠した。
微妙な空気が二人の間に漂い、なんとも言えない沈黙が場を支配する。
顔を真っ赤に染め、俯いたまま何も話さないエリィを見て、リィンは仕方がないと言った顔で自分から話を切り出した。
「昨日のこと覚えてるか?」
「……はい」
そう呟きながら、リィンの言葉に小さく頷くエリィ。
悲鳴を上げられたり、もっと責められるかと思えば、こういう態度を取られるとリィンとしてもやり難かった。
故に、ここは男として誠意を見せるべきだろうと、自分から頭を下げる。
「悪かった。その……初めてだったんだろ?」
「謝らないでください。本当に嫌なら抵抗していましたから……」
「え……ちょっと待て。ロイドのことはいいのか?」
てっきり、エリィとロイドが恋仲だと思っていたリィンは、一番にそのことを気にしていたのだ。
さすがに愛し合っている二人を引き裂くような趣味はない。だからこそ自己嫌悪に陥っていたのだが、想像と反応が違っていた。
満更でもない感じのエリィに、リィンはどういうことだと困惑した様子を見せる。
リィンの勘違いに気付いたのだろう。否定するように手を横に振って、エリィは弁明する。
「好きか嫌いかで言えば、好意は持っていたと思います。でも、それは弟≠ンたいと言うか……」
「いや……え? そうなのか?」
「それにロイドにはティオちゃんや、ノエルがいますから……」
予想外のエリィの言葉に、リィンは我を忘れて驚く。まさか、そんなことになっているとは思わなかったからだ。
ノエルルートなのか? と心の中で呟きながら、ティオまで一緒に落としているロイドにリィンは戦慄する。
ティオは確か、フィーやシャーリィよりも幼かったはずだ。どう考えても犯罪の臭いしかしなかった。
戦闘では負ける気はしないが、一方で女性の扱いではロイドには敵う気がしないリィン。とはいえ――
「それでもだ。責任は取る。出来る限りのことはするから……その……なんだ」
「本当に気にしないでください。シャーリィに相談された時から、こうなる覚悟は決めていたので……」
「は? それって、どういう……」
男として責任は取るべきだと考え、そのことをエリィに伝えようとすると、思いもしなかった反応が返ってきた。
ここでどうしてシャーリィの名前がでるのか? と、リィンは首を傾げる。
恐らくは秘密だったのだろう。慌てて口を閉ざすエリィを見て、リィンが嫌な予感を覚えた、その時だった。
何者かの気配を察して、リィンは咄嗟にエリィを庇うように迎撃の態勢に入る。
すると視線を向けた先、窓の前に立っていたのはよく見知った赤髪の少女。シャーリィ・オルランドだった。
「リィンが童貞≠カゃないかって心配してたんだけど、その様子だと余計な心配だった?」
「ちょっと待て……」
本来であれば仲間と分かったところで警戒を解くところだろう。しかしリィンは訝しげな視線をシャーリィに向ける。
先程のエリィの発言。そして、タイミングを見計らったようにシャーリィが現れたこと。
偶然とは、とても思えなかったからだ。
「誰の入れ知恵だ?」
故にリィンは質問を返す。
良くも悪くもシャーリィは純粋だ。彼女が一人で考え、このような行動にでたとはリィンは思っていなかった。
「ん? ザックスだけど? 手紙、見る?」
ザックスからきたという手紙をシャーリィから受け取るリィン。それは〈赤い顎〉を修理にだした際、なかなかリィンが振り向いてくれないことを書いた手紙を〈赤い星座〉にシャーリィはだしていたのだが、その返事として送られてきたものだった。
ザックスというのは〈赤い星座〉の猟兵で、嘗てはランディの部隊で副長を務めていたこともある男だ。
その男がしたためたと思われる手紙には、シャーリィの相談に対して『童貞だから女の扱いを知らないんだろう』とか『そんな軟弱な男は捨てて団に戻ってきてください』とか、リィンを貶める内容がビッシリと書かれていた。
シャーリィを溺愛していて、彼女が団を去ると聞いた時、一番反対したのも彼だっただけに相談する相手を間違えたとも言えるだろう。
手紙を読み終えると氷のように冷めた目を浮かべて、リィンは手紙をぐしゃりと握りつぶす。
「でも、シャーリィはおっぱいが小さいでしょ? リィンをその気にさせるのは難しいと思って」
「……だからエリィをけしかけたと?」
「え? フィーやアルフィンたちに手をださなかったのも胸が小さいからじゃないの?」
本人たちが聞けば一悶着ありそうな発言を、さらりと口にするシャーリィ。
そうした結論に行き着く辺り、やはり彼女はランディの従妹なのだと思わせられる。
しかし悪気がないからと言って、シャーリィのしたことは許される行為ではない。
自分だけが対象であったなら、いつもの悪ふざけと諦めもつくが、エリィを巻き込んだことをリィンは黙って許すつもりはなかった。
「だからって――」
「違うんです! 確かに彼女の相談というか、お願いが切っ掛けでしたが、こうなるのを望んだのは私と言うか……」
「え……そうなのか?」
しかし、顔を真っ赤にしてコクリと頷くエリィを見て、何がなんだか分からない様子でリィンは目を丸くする。
順序は滅茶苦茶だが、言ってみれば告白のようなものだ。そんな風に言われては、シャーリィを責めることも出来ない。
それに、どこでエリィにフラグを立てたのか? そのことがリィンにはさっぱり分からなかった。
嫌われるようなことは、たくさんした自覚がある。だが、好感度を稼ぐような真似はしていないはずだと思っていたからだ。
「でも、ここまでするとは思ってなかったから驚いちゃった。リィンをその気にさせてくれるだけでよかったのに、あんなに激しく――」
「――ッ! ま、まさか見てたの!?」
「あ、うん。なんかでるにでれなくなっちゃって……」
そう言って珍しく照れた様子で頬を染め、シャーリィは視線を逸らす。
知識はあっても経験がないと言う点では、シャーリィも同年代の少女と違いはない。
まさか本番を始めるとは思っていなかっただけに驚かされたと言うのもあるが、エリィの乱れっぷりが想像以上で余程刺激が強かったのだろう。
(これ……どう収拾を付ければ……)
まさか覗き見されていると思ってもいなかったエリィは顔を真っ赤にして蹲り、シャーリィも頬を紅く染めて大人しくしていた。
そんな二人を見て、やり場のない憤りをどこへ向けたものかと考えるリィンだが、そもそもの元凶は一人しかいないことに気付く。
「悪い、エリィ。話の続きは、また後で」
「……リィンさん? どちらへ?」
「諸悪の根源を潰してくる」
その日、西の空へと飛び去っていく一体の騎神の姿が目撃された。
◆
数日後、帝国時報の一面をある記事が飾っていた。
――〈暁の旅団〉の若き猟兵王。〈赤い星座〉と激突!
そんな見だしで始まる記事には、帝国西部の街〈オルディス〉に一体の騎神が現れ、港に停泊していた〈赤い星座〉の船と交戦した内容が綴られていた。
まだクロスベルを発端とした先の騒動から完全に立ち直っていない時期に、この事件。
新聞を手にしたアルフィンが肩を震わせ、眉間にしわを寄せて唸るのも無理のない話だった。
「後始末を押しつけて、さっさと姿を消したと思ったら――ッ!」
「ん……リィンだしね」
アルフィンの気持ちも分からなくはないが、リィンのすることに一々驚いていても仕方がない。
どこか達観した様子で相槌を打つフィーを見て、アルフィンは疲れきった様子で溜め息を漏らす。
そして――
「フィーは戻らなくてもいいのですか?」
アルフィンはフィーにそう尋ねた。
いろいろとあったが、結果的に帝国軍も再びリィンによって助けられた経緯がある以上、クロスベルに関する問題もスムーズに話が進むだろうとアルフィンは考えていた。
それに〈暁の旅団〉はもはや一介の猟兵団ではない。〈七耀教会〉や〈身喰らう蛇〉と並ぶ、一大組織として各国に認識されていた。
クロスベルの背後には、その〈暁の旅団〉がいるのだ。帝国だけでなく共和国も、これまでのような強気な外交を推し進めることは難しいだろう。
あとは時間を置けば解決する問題だ。先の反乱に参加した貴族の大半は捕らえられ、アルフィンが襲われる心配もなくなった。
これ以上、フィーがここに残る理由もないと考えてのことだったのだが、
「帰るまでが仕事だから」
「……え?」
「アルフィンの護衛が私の仕事。帰るのはアルフィンも一緒でないと意味がない」
帰るまでは仕事と話すフィーに呆気に取られ、アルフィンは目を丸くするが、すぐに笑みを浮かべる。
そんな風に言われて嬉しくないはずがない。仕事だから一緒にいるのではなく、少しでも仲間だとフィーが思ってくれていることが嬉しかったのだ。
フィーと一緒にリィンのもとへ帰りたい。でも、帝国の皇女という立場が、それをすぐには許してくれない。
皇女という立場に未練はないが、ここですべてを投げ出してリィンのもとへ向かってしまえば、周りに大きな心配と迷惑を掛けることになる。
リィンもそんな自分を受け入れてくれるとは、アルフィンも思ってはいなかった。
だからこそ胸を張ってリィンと再会するために、まずは皇族の義務を果たそうと寝る間も惜しんで執務に励んでいたのだ。
でも、そのこととフィーは関係ない。リィンに会いたいのは彼女も同じ。いや、自分以上にその想いは強いはずだとアルフィンは考える。
だからフィーだけでも先に帰そうと、どう話を切り出すべきか迷っていた、その時だった。
「あれ? アルフィン。まだ、いたのかい?」
無造作に部屋の扉を開け、扉の向こうから姿を見せたのはオリヴァルトだった。
そんなオリヴァルトの配慮の足りない行動に、アルフィンは呆れた様子で溜め息を溢しながら注意をする。
「ノックくらいしてください。女性の部屋に入るというのに、マナーがなっていませんよ?」
「ああ、これは失敬。隠れる場所を探していたら、遂ね……」
「またですか? ミュラーさんに叱られても……オリヴァルト兄様? さっき妙なことを仰いませんでした?」
ふと、先程のオリヴァルトの言葉が引っかかり、アルフィンは怪訝な表情で尋ねる。
まだ、いたのかい? と、まるでアルフィンがここにいるのが不思議だと言わんばかりに声を掛けてきたのだ。
しかしアルフィンが、ここ数日は事後処理で執務室に籠もっていることは関係者であれば知っているはずだ。
オリヴァルトがそのことを知らないとは、とても思えなかった。
「陛下からの勅命が下ったと聞いているよ? 既に議会の承認も得ているという話だけど」
「え? あの……ちょっと待ってください。なんの話ですか?」
「本当に聞いていないのかい?」
まったく身に覚えのない話をされ、アルフィンは困惑した様子を見せる。
そんなアルフィンの様子を見て、悪戯が成功したとばかりに悪い笑みを浮かべるオリヴァルト。
最初から彼女の驚く顔が見たくて、こんな回りくどい真似をしたのだろう。
「アルフィン。キミには新しく帝国領に併合されたクロスベルの総督に就任してもらう」
その一言で、アルフィンはすべてを悟る。こんなことをオリヴァルト一人で決められるはずがない。
皇帝陛下と議会の承認が不可欠である以上、セドリックも関わっていると考えて間違いなかった。
それに一日や二日で決定を下せるような話でもないはずだ。だとすれば、随分と前から根回しを進めていたことになる。
「兄様。まさか……」
「よかったね。これでリィンくんと一緒にいられるよ」
◆
「エリゼも知っていたのですね……」
「すみません。姫様のためにも黙っておくようにと言われていたので」
「となると、クレア大尉も共犯ですか……」
ガタンゴトンと揺れる列車の中で、溜め息を漏らすアルフィン。今日はずっと溜め息ばかりを溢している気がしてならない。
自分以外の全員がグルになって、内緒で事を進めていたかと思うと正直なところ複雑な心境だった。
しかし感謝していないわけではない。どちらかというと周りの行動に気付かず、一人で頑張って空回りしていた自分が恥ずかしかったのだ。
いまアルフィンはエリゼやフィーと共に、クロスベル行きの列車に乗車していた。
クロスベルの初代総督として、十日後に急遽クロスベルで開かれることになった式典に参加するためだ。
「黙っていたのは、それだけが理由ではありませんよね? わたくしを利用しましたね?」
そんなアルフィンの問いに、エリゼは何も言わず笑顔で応える。それだけで白状しているようなものだった。
アルフィンの従者としてクロスベルで暮らすことが、エリゼの目的だったのだろう。
勿論、リィンの傍にいるためだ。しかし、
「よくシュバルツァー男爵が許可してくれましたね?」
「はい。お母様の許可は取ってあります」
「え? 男爵は?」
「なかなか納得してくださらなかったので、お母様が説得を……」
子離れ出来ない父親で苦労します、と言ったように溜め息を漏らすエリゼを見て、何があったかをアルフィンは悟る。
それだけにシュバルツァー男爵がどうなったかなど、恐ろしくて聞く気にはなれなかった。
以前のエリゼなら、こんなにも積極的に行動を起こすことはなかっただろう。彼女も自分と同じように、変わろうとしているのだとアルフィンは思った。
そしてエリゼにこんな行動を取らせた男のことを考えながら、アルフィンは窓から外の景色を眺める。
生まれ育った街を離れることを寂しくないと言えば嘘になるが、同時に新しい生活への希望もアルフィンは胸に抱いていた。
あのまま帝都で暮らしていれば、これまでと変わることのない悠々自適な生活を送ることが出来ただろう。
でもアルフィンは選んでしまった。
大切に扱われ、敬われるだけの存在ではなく、胸を張って誇れる自分になりたいと――
辛いこと、苦しいこともあるかもしれない。でも宮殿に籠もっていては知ることのなかった景色が、この先には広がっている。
なら、あれこれと思い悩むのではなく、いまはこの状況を前向きに楽しもうとアルフィンは気持ちを切り替える。
「わたくしたちが押し掛けたら、リィンさん。きっと驚くでしょうね」
「はい。兄様の驚く顔を見るのが、いまから楽しみです」
そう言って、アルフィンとエリゼは互いの気持ちを確かめるように笑い合う。
しかし自分たちの方が驚かされることになるとは、この時の二人は想像もしていなかった。
たった一人を除いて――
(ん……クロスベルに着けば分かることだし、いっか……)
定時連絡で事情を聞き、何があったかを既に知っているフィーは、リィンの話で盛り上がる二人を眺めながら眠りに付くのだった。
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