クイナが宙を切るように指を滑らせると、ドーム型の多重構造魔法陣が展開される。
それは至宝を取り戻すためにクロイス家が千二百年の歳月を掛けて編み上げた魔術を、ベルが〈はじまりの大樹〉に合わせて改良を施したものだった。
オベリスクより解放された想念の力を取り込んだクイナは、いまやイオやダーナさえ凌ぐ力をその身に秘めている。
しかし、まだ完全とは言えない。資格はあっても、鍵をまだ彼女は手にしていなかった。
そのための鍵≠ェ、いま目の前にある。
――テオス・ド・エンドログラム。
大地神マイアによって〈はじまりの大樹〉と共に生み出された〈進化の理〉を司る存在。
心を通わせ、目の前の存在と一つになることで、クイナの願いは果たされる。
クイナが両手を広げると、光に包まれた〈テオス・ド・エンドログラム〉の身体が小さく縮んでいく。
そして、最後には握り拳ほどのサイズに縮んだ光の玉にクイナは手をかざし――
「おいで」
その身に取り込むのだった。
◆
「リィン、終わったよ!」
そう言って笑顔で手を振るクイナに、リィンも若干引き攣った笑みを浮かべながら手を振り返す。
以前ベルも言っていたことだが、摂理を司る神の領域には資格を持つ者≠オか足を踏み入れることは出来ない。
仮に扉をこじ開け、領域に侵入することが出来ても、普通の人間には神の築いた摂理を管理するなどと言うことは不可能だ。
大地神マイアもしくは、そのために生み出された〈テオス・ド・エンドログラム〉にしか〈はじまりの大樹〉を制御することは出来ないはずだった。
「まさか、本当に成功させるとはな。あの魔法陣≠焉Aお前が教えたのか?」
「ええ、心を繋ぐ力――記憶から必要な知識を読み取れるのですから便利な能力ですわね」
どれほど便利な能力を持っていようと、それを十全に使いこなせるだけの知識がなければ意味がない。
ベルがクイナの願いを聞き、与えたのが、そのための知識だった。
進化の摂理を司る〈はじまりの大樹〉のシステムを乗っ取るために、クイナが取った方法は単純だ。
自分自身の身体を器とすることで、〈テオス・ド・エンドログラム〉と同化したのだ。
「しかし、よくこんな方法を思いついたな」
「女神が生み出したと言うことは、あれも至宝のような存在と考えれば、決して不可能なことではありませんもの」
テオス・ド・エンドログラムは〈空の女神〉が生み出した〈七の至宝〉と同じく概念≠宿す存在だ。
嘗てクロイス家がエイドスより託された〈幻の至宝〉が知覚≠ニ認識≠司り、更には因果≠も御したように――
テオス・ド・エンドログラムは進化≠ニいう概念を宿している。
オベリスクより解放した想念の力を取り込むことで存在を拡張し、テオス・ド・エンドログラムと同化することで完成した器に進化≠フ概念を注ぎ込む。
そうして生まれ変わったのが、いまリィンたちの目の前にいる〈進化の巫女〉クイナだ。
キーアの時と違い、最初から条件はすべて整っていた。ただ、切っ掛けを与えただけに過ぎないと、ベルは話す。
それに、
「与えられた役割を黙々とこなす存在。それは言ってみれば、自我を持たない人形と同じですもの」
力は所詮、力だ。
ただの人形≠ネら、都合の良い心≠植え付けてやればいい。
同化することで、クイナがその役割を負ったと言う訳だ。
ベルの話を聞き、ふとリィンの脳裏にとある至宝≠フ話が浮かぶ。
「〈幻の至宝〉か……」
クロイス家が〈空の女神〉より託された〈幻の至宝〉は、嘗て少女の姿をしていた。
女神より至宝を受け継いだ人々から、人間たちを導く存在――女神に代わる神≠ニしての役割を望まれたからだ。
だが、人の持つ性(さが)や業を理解し、正しく人々を導ける判断力を持つと言うことは、情を理解していると言うことだ。
心は迷いを生む。人々を導くために世界の不条理に晒され続けた至宝は、長い歳月の中で徐々に心を蝕まれ、病んでしまった。
だから完全に心が壊れ、暴走して人間たちを傷つけてしまう前に、幻の至宝は自らの存在を消滅させたのだ。
選択と陶太によって進化を促す〈ラクリモサ〉の摂理にも、同じことが言える。
世界を維持するためと、どう取り繕ったところで滅ぼされる側の人々からすれば、黙って受け入れられる話ではない。
自ら滅びを受け入れたネストールの種族こそ例外で、ほとんどの種族は苦しみながらも生きるために、最後の瞬間まで抵抗を続けたはずだ。
正常な心があれば、そのような種の最期を見せられて、平然としていられるはずもない。
だから〈進化の護り人〉となった者たちは、自らの想念をオベリスクに封じていたのだろう。
絶望の果てに、心が壊れてしまわないために――
「だが、盟約はどうなる?」
テオス・ド・エンドログラムが自我を持たない至宝のような存在だと言っても、女神との盟約があるはずだ。
眷属となったものは、盟約に違反する行動を取ることが出来ない。
そして〈テオス・ド・エンドログラム〉は〈進化の理〉の管理を女神から委ねられた存在だ。
だとすれば〈テオス・ド・エンドログラム〉と同化したクイナにも、女神との盟約は有効なのではないかと考えての問いだった。
「適切に管理すれば良いだけですわ。〈ラクリモサ〉を行う基準や判断などは、〈テオス・ド・エンドログラム〉に委ねられているはずですから」
判断が委ねられていると言うことは、ラクリモサの時期や対象も自由に選べると言うことだ。
少なくともクイナが望まない限りは、この世界の人間が〈ラクリモサ〉によって滅ぼされることはないというのがベルの考えだった。
だが、
「もっとも、この先もずっと〈ラクリモサ〉が行われないとなると、世界に何かしらの影響を及ぼす可能性はありますけど」
摂理とは、その世界を構成しているルールのようなものだ。
必要だから存在する。なのに、そのルールを無視すれば、世界に綻びが生じることになる。
現状は言ってみれば、問題を先送りにしているだけだ。
何かしらの対処が必要だと、ベルは話す。
「既に影響はでているみたいですし……」
「クイナのことか?」
「ええ、クイナさんの力が歪みによるものだとすれば、既に綻びが生じていると言うことになりますから」
どちらにせよ、このまま〈ラクリモサ〉を続けていれば、世界は最悪の結末を迎えていた可能性が高い。
世界には世界のあるべき姿がある。女神の築く摂理とは、そのルールを上書きすると言うことだ。
ねじ曲げられたルールは矛盾を生む。誰かが管理し、調整をしてやらなければ、その歪みは際限なく大きくなっていく。
適切に世界が管理されるのであれば良いが、大地神マイアにせよ〈空の女神〉にせよ、やるだけやって投げっぱなしという状態だ。
まだ代理を立てている大地神マイアはマシな方で、すべてを放り出して行方を眩ませている〈空の女神〉など最悪と言っていい。
しかも、その所為で世界が滅びかけ、現在進行形で尻拭いをさせられているのだ。
ベルが女神を嫌うのも、そう考えると無理のない話だった。
「で、俺の出番と言う訳か」
テオス・ド・エンドログラムが大地神マイアから任されているのは、あくまで管理だけだ。
摂理に直接干渉するほどの力はないのだろう。もしそんな力があるのなら、歪みはとっくに解消されているはずだ。
クイナが〈心を繋ぐ力〉なんてものを持って、この世界に生まれてくることもなかった。
それは即ち、現状では〈ラクリモサ〉を終わらせることも、新たな摂理で上書きすることも出来ないと言うことだ。
それが可能なのは――
(大地神マイアだけ、と言うことか)
この結果に満足していないのだろう。ベルの不満げな表情を見れば分かる。
実験は一応の成功を見たが、百パーセント満足の行く結果とは言えない。
結局は現状維持が精一杯で、女神の力を借りなければ世界の改変≠ヘ叶わないのだから――
人の身に余る所業と言うことなのかもしれないが、それで素直に納得するベルではなかった。
もう、これ以上ベルに出来ることはない。だが、今回はダメでも次に繋げるべく対策を考えているのだろう。
そのために、少しでもデータが欲しい。そんなベルの考えが透けて見えるだけに、リィンは溜め息を吐く。
まだ、ベルの実験≠ヘ終わっていないと言うことだ。
「どのみち、エイドスの情報は必要でしょう? ちょちょいと女神を締め上げてくれれば、あとは万事解決ですわ」
「簡単に言ってくれるな……」
至宝に匹敵する存在を生み出せると言うことは、少なくとも〈空の女神〉と同格と思しき存在だ。
巨神と同等か、それ以上の相手と考えていい。
幾らリィンでも、ベルの言うようにちょちょい≠ナ済むような話ではなかった。
(……とはいえ、やるしかないか)
エイドスの情報は欲しい。それにクイナの覚悟を無駄にするわけにはいかないと、リィンは考える。
想念とは、生きたいと願う人々の心そのものだ。その願いによって誕生したクイナは、いまや神に等しい近い力を得ている。
理から外れ、世界のルールに縛られることのない存在へと進化したクイナは、これ以上の成長をすることもなければ寿命によって死を迎えることもないだろう。
それは即ち、ノルンのように人ではなくなったと言うことだ。
神ならざる身で、神の領域へと至った者――虚なる神。それが、いまのクイナだった。
「……ごめんなさい」
「何がだ?」
「クイナちゃんのこと……本当なら私が……」
そのことを、ダーナもずっと気にしていたのだろう。
暗い影を背負い、俯きながらそう話すダーナを見て、リィンは――
「痛ッ!?」
ダーナの額を中指で弾く。
赤くなった額を両手で押さえながら、涙目をリィンに向けるダーナ。
「クイナが自分自身で決めたことだ。なら、お前だけが責任を感じる必要はないさ」
切っ掛けを作ったと言う意味では、ダーナだけでなくリィンにも責任がある。
願いを叶えると言って、実験のためにクイナを利用したベルにも責任がないとは言えない。
だが、結局のところ決めたのはクイナ自身だ。その責任を誰かに押しつけることは出来ない。
その程度の覚悟がクイナにないと、リィンは思っていなかった。
『そうそう、ダーナは一人で抱え込み過ぎなんだよ。周りに頼ることも覚えないとね』
「お前は少し遠慮を覚えろ」
呆れながらイオの言葉にツッコミを入れるリィン。
使命から解放された反動なのかもしれないが、実直なダーナとは対照的にイオは面倒事を極端に嫌うところがある。
いまは盟約を盾に、どうにか言うことを聞かせていると言った状態だ。
若干、イオを眷属にしたことをリィンは後悔しているくらいだった。
「イオ。わかっていると思うが――」
『はいはい。いざとなったら〈精霊の道〉に逃げ込めばいいんでしょ? でも、ダーナは本当に良いの?』
リィンの眷属となったイオは、竜化することで守護聖獣に匹敵する力を秘めている。
理術による〈転位陣〉だけでなく、騎神のように〈精霊の道〉をこじ開けられるほどに力を増していた。
いざとなれば、皆を連れて〈精霊の道〉へ逃げ込むようにと、リィンはイオに指示をだしたのだ。
しかし、
「うん。私は最後まで見届けたいの。例え――」
緋色の予知と同じ未来を辿ることになったとしても――
この世界が滅びるのであれば、運命を共にする。
それがダーナの決めた選択だった。
「リィン」
「イオとベルを二人だけにするのは不安だからな。よろしく頼む」
「ん……」
実際には自分を気遣ってのことだと察していたが、そのことをフィーは敢えてリィンに尋ねようとしなかった。
無理を言って残ったところで足手纏いにしかならないと言うことは、彼女自身が一番よくわかっていたからだ。
本音を言えば付いていきたいが、猟兵としての判断力が踏み止まらせていた。
それでもいつかは――と、フィーは決意を双眸に宿す。
「シャーリィは……まあ、返事を聞くまでもないよな」
騎神に乗っていて表情は窺えないが、雰囲気だけで察することが出来る。
まだ戦い足りないのか? やる気十分と言った感じの闘気が、ビリビリと伝わってきていた。
約束のこともある。ここで連れて行かなかったら、あとが面倒そうだとリィンは諦める。
「最後の仕上げだ。クイナ、案内を頼めるか?」
「うん」
大地神マイアのもとへ向かうには〈テオス・ド・エンドログラム〉と同化したクイナの助けが必要だ。
この先へ進めば、もう引き返すことは出来ない。
最悪、この世界はクイナとダーナが見た夢のように滅びてしまうかもしれない。
それでも――
「来い! 〈灰の騎神〉ヴァリマール!」
グリゼルダ、アドル、ラクシャ――そして、クイナ。
皆から託された想いに応えるため、契約を果たすため、リィンは相棒の名を呼ぶのだった。
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