「アリサの奴、思いっきり引っぱたきやがって……」
紅くなった頬を擦りながら愚痴を溢すリィンを見て、アルフィンは「自業自得ですわ」と呆れた顔で言葉を返す。
「他に方法はなかったのですか?」
アルフィンがなんのことを言っているのかというのは察するまでもない。シャロンのことだ。
リィンとの戦いで気を失ったシャロンはアリサとエリゼに付き添われ、昨晩リィンも宿泊した客室のベッドで眠っていた。
そもそも、その件でリィンはアリサに頬を叩かれたのだ。
やり過ぎかどうかで言えば、確かに少し強引だったかもしれない。
とはいえ、間違ったことをしたとリィンは思っていなかった。
「あそこで何もせずに放り出せば、確実に行方を眩ませてただろうしな」
これ以上、面倒事を押しつけられてたまるか、とぼやくリィンにアルフィンは溜め息を漏らす。
ちゃんと事情を聞く前に手を出したアリサもアリサだが、素直じゃないという点ではリィンも良い勝負だとアルフィンは思っていた。
口では面倒だと言っていても、それがアリサのためにしたことだと言うのは、誰にでも簡単に察せられることだったからだ。
「しかし〈黒の工房〉のトップがアリサさんのお父様だったなんて……どうするつもりですか?」
フランツの生存をアリサが知るのは時間の問題だ。
これからどうするつもりなのかと言ったアルフィンの問いに、リィンは「さてな」とはぐらかすように肩をすくめる。
いまリィンが〈黒の工房〉について知っていることは、あくまでミュゼやローゼリアから聞いた情報でしかない。
別の目的や思惑がある可能性も十分に残されている。正直なところ、今の段階ではなんとも言えないと言うのがリィンの本音だった。
だが、一つだけ確かに言えることがある。
「敵として立ち塞がるのであれば、容赦をするつもりはない」
その時は相手がアリサの肉親であろうと排除すると、はっきりとリィンは答える。
リィンのことだ。恐らく、そう言うであろうことはアルフィンも察していた。
とはいえ、アリサは父親が生きていると知れば説得を試みるはずだ。
だが〈黒の工房〉が障害となるのであれば、リィンは言葉どおりに一切の容赦をしないと言い切れる。そうしたリィンの性格をアルフィンはよく知っていた。
しかし、基本的にリィンは身内に甘い。
そして、その身内の中にはアリサが既に含まれているとアルフィンは見抜いていた。
シャロンの一件がまさにそうだ。理由もなくアリサを悲しませるような真似はしないだろう。
問題はフランツが自分の意志でアルベリヒの精神を受け入れ、〈黒の工房〉に協力していた時だ。
その時はアリサに恨まれることになったとしても、リィンはフランツをアルベリヒごと殺すだろうとアルフィンは確信していた。
(アリサさんのことだから心配は要らないと思うけど……フォローは必要ですわね)
アリサは聡明な女性だが、理解することと納得することは違う。
ずっと事故で死んだと思っていた父親が実は生きていたのだ。
その父親が〈黒の工房〉のトップで、リィンを狙っていると聞かせられれば、複雑な心境を抱くことは確実だ。
友人として、同じ男性に恋したライバルとして、個人的にはアリサの力になりたいとアルフィンは思っていた。
それに、こんなことでリィンとアリサの関係がぎくしゃくすることをアルフィンは望んでいない。
(リィンさんにはエリィさんだけでなく、皆さんを平等に愛して頂かないといきませんから)
アルフィンには壮大な夢があった。
そのためにも、リィンにはハーレム≠築いてもらう必要がある。
それがクロスベルや帝国だけでなく、この世界が末永い繁栄を築くためにも必要なことだと、アルフィンは考えていた。
それに、
(そうなってもらわないと、わたくしも安心して幸せを掴めませんから)
アルフィンはエリゼの気持ちを無視して、一人で幸せになるつもりはない。
しかし、エリゼは察しが良すぎて、周りに遠慮するところがある。
いまのままではリィンとの関係に、これ以上の進展は見込めないだろう。
そう言う意味でも、リィンには頑張ってもらう必要があった。
皆で幸せになるための方法。ただの理想ではなくリィンにはそれが出来ると、アルフィンは本気で思っていた。
「……また何か悪巧みをしてないか?」
「わたくしとリィンさんの未来のために、幸せな家族計画を考えていただけですわ」
隠す気があるのかないのか?
不穏な言葉を口にするアルフィンに、リィンは呆れた様子で深い溜め息を漏らすのだった。
◆
「ここは……」
呆然とした表情で、天井を見上げるシャロン。
頭痛に耐えるように側頭部を左手で押さえながら半身を起こすと、白いシーツがハラリとこぼれ落ちる。
普段着ているメイド服ではなく、入院患者が着るような亜麻色のガウンをシャロンは羽織っていた。
「シャロン!」
「アリサお嬢様?」
突然、アリサに飛びつくように抱きつかれ、シャロンは困惑の声を上げる。
よく見れば、その後ろには黒髪の少女――エリゼの姿もあった。
「ほんと……無茶ばかりするんだから……」
アリサにギュッと抱きしめられ、段々と自分の身に何かあったかを思い出し始めるシャロン。
そしてリィンと戦い、敗れ――気を失ったのだと、シャロンはようやく状況を理解する。
「……お嬢様、もしかして」
リィンから〈黒の工房〉やフランツのことを聞いたのではないかと考え、微かに震えるような声でアリサに尋ねるシャロン。
しかし、そんなシャロンの予想とは違い、アリサは首を横に振る。
「まだ、リィンからは何も教えてもらってないわ。知りたいならシャロンの口から聞けって……」
殺される覚悟をしていた。なのに、自分はこうして生きている。それにアリサがこの場にいる理由。
どうしてリィンがあんな行動にでたのか察せられないほど、シャロンは鈍くなかった。
(本当に厳しくて優しい人……)
リィンは他人に委ねるのではなく、自分でケジメをつける問題だと言った。
アリサのもとを去り、結社に戻るつもりでいたことをリィンには見透かされていたのだろう。
リィンがアリサの傍に居てくれれば、もう自分のような者は必要ないとシャロンは考えていたのだ。
でも、リィンはそれを許してはくれなかった。
リィンの言うように自分は心の何処かで救いを求め、甘えていたのだろうとシャロンは思う。
「お嬢様……聞いて頂けますか?」
胸が苦しい。こんなにも怖いと感じたことは今までに一度もなかった。
だが、アリサに嫌われ、恨まれることになったとしても、すべて自分のしでかしたことだ。
仮にこの場を上手くやり過ごしたとしても、その罪と責任からは一生逃れることは出来ない。
それに、ここで逃げ出したらリィンは今度こそ許してはくれないだろう。
ここまでお膳立てをされて、また彼の信頼を裏切るような真似をシャロンはしたくなかった。
だから――
「わたくしの犯した愚かな過ちを――」
ずっと秘密にしてきた過去を、シャロンはアリサに告白するのだった。
◆
「こんなところでどうしたんだ?」
「兄様……」
シャロンの様子を覗きに客室へ向かっていると、廊下で一人佇むエリゼを見つけて、リィンは声を掛ける。
「私はお邪魔でしょうから」
エリゼその一言で、リィンはすべてを察する。
この期に及んで逃げるような真似はしないと思っていたが、落ち着くところに落ち着いたようで内心ほっとしていた。
アリサとの関係を悪くしてまでシャロンと事を構えるつもりなど、最初からリィンにはなかったからだ。
とはいえ、話を聞かれてしまった以上、アリサのもとを離れると言うのであれば〈黒の工房〉の件が解決するまで隔離する必要はあった。
上手く行かないようなら無理矢理にでもセイレン島に連れて行くことで、シャロンをしばらく隔離するつもりでいたのだ。
「これで一安心と言ったところだな」
シャロンはアリサに嫌われると思っているようだったが、そんなことはありえないとリィンは確信していた。
フランツを手に掛けたのがシャロンであったとしても、アリサと共に過した歳月まで嘘になる訳では無い。
傍から見ても分かるのだ。アリサがシャロンの気持ちに気付かないとは思えなかった。
「どうかしたのか?」
何やら複雑な表情を浮かべながら、じっと見詰めてくるエリゼにリィンは尋ねる。
「随分とアリサさんのことを信頼されているのですね」
何を言われているのか一瞬分からず、目を丸くするリィン。
だが、すぐにエリゼが何を考えているのかを察する。
信頼しているかしていないかで言えば、リィンはアリサのことを信頼している。
そうでなければ、ヴァリマールの武装の開発を任せたり、理法具を預けたりはしない。
「妬いているのか?」
「……知りません。そういう兄様は嫌いです」
プイッと顔をそらすエリゼを見て、リィンは苦笑する。
アリサを信頼しているのは確かだが、同じようにエリゼのことも信頼していた。
いや、感謝していると言ってもいい。
エリゼは気付いていないかもしれないが、内戦時にリィンがアルフィンと契約を結ぶと決めたのはエリゼがいたからだ。
特別な感情を抱いていなければ、赤の他人に『兄様』などと呼ばせるはずもない。
少なくとも、リィンはエリゼに対してフィーに近い感情を抱いていた。
「兄様? 何を……」
突然、頭を撫でられて顔を赤くするも、されるがままにリィンに身を任せるエリゼ。
こんなことで誤魔化させるのだから、エリィのことを言えないとエリゼは自分に呆れる。
だが、子供扱いされているようで複雑な気持ちではあるが、決して嫌ではなかった。
むしろ、リィンに頭を撫でられていると胸のあたりが温かくなり、ほっと安らぐのを感じていた。
◆
黒の工房のこと、そしてリィンに話したことと同じ内容を、シャロンはアリサに語って聞かせた。
重い沈黙が部屋を支配する。仮にアリサが復讐を望むのであれば、シャロンは受け入れる覚悟をしていた。
しかし、
「……お嬢様?」
先程よりも強く、ギュッとアリサに抱きしめられてシャロンは困惑の声を上げる。
「ほんとに……アンタってバカなんだから」
絞り出すような声で、シャロンの耳元でそう呟くアリサ。
「真実を話せば、私がシャロンを嫌いになると思った? 憎むと思った? 見くびって貰っては困るわ」
シャロンの過去に何かあることくらいは、アリサも気付いていた。
なのに、シャロンがずっと抱えていたものに気付くことが出来なかった自分のバカさ加減が嫌になる。
何より共に過した日々を、シャロンに対する自分の想いを軽く見られたことがアリサは許せなかった。
「アンタがどう思っていようと家族≠ネのよ。恨んだりする訳がないじゃない!」
涙を浮かべながらアリサは叫ぶ。
確かに複雑な思いはある。それでも家族として、ずっと共に暮らしてきたのだ。
どんな暗い過去を背負っていようと、アリサはシャロンのすべてを受け入れる覚悟がとっくに出来ていた。
「ですが、わたくしはフランツ様を……」
「確かに少し複雑だけど、父様は生きてるんでしょ?」
「それは……」
「なら、本人に会って確かめるだけよ。一方的にシャロンだけを責めることは出来ないわ」
話を聞く限りでは、フランツに何の落ち度もなかったとは思えない。
黒の工房と繋がっていると言うだけでも、疑うべき余地はたくさんあるのだ。
カッとなって頬を引っぱたいてしまったことを、リィンにも謝らないととアリサは反省する。
でも、お陰で冷静にシャロンの話を聞くことが出来た。
最初からリィンには、こうなることがわかっていたのだろうとアリサは思う。
「シャロン、母様との契約は終わったのよね?」
「……はい」
「なら、私と契約を結びなさい」
思いもしなかった提案をされ、シャロンは目を丸くする。
フランツが生きていると判明した時点で、イリーナと交わした契約は完了した。
シャロンはそれを理由に、アリサのもとを去ろうとしていたのだ。
なのに――
「私にも、その権利≠ヘあるはずよ」
九年前の出来事が、シャロンの脳裏を過ぎる。
――代償にラインフォルトで働きなさい。
そうイリーナに言われた日のことを、片時もシャロンは忘れたことがなかった。
あの日のイリーナとアリサの顔が重なって見える。
まだ戸惑いを隠せない様子のシャロンに、
「あなたは私のメイドよ。これからも、ずっと」
強い口調でアリサはそう言い、契約を持ち掛けるのだった。
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