カルバード共和国、最東端。
二つの巨大山脈に挟まれた盆地に『龍來』と呼ばれる地方都市があった。
大陸東部からの玄関口であることから東方の影響を色濃く受けており、街並みも情緒のある落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
特にこの地は昔から万病に効くと噂される温泉が有名で、国内外から訪れる観光客も少なくなく観光地としても栄えていた。
日が沈み、月明かりが灯る中、そんな街を一望できる山間の高台に銀色の髪をなびかせる一人の〝女〟の姿があった。
着物を改造した強化スーツに身を包み、傍らには〝太刀〟を携え、歳の頃は二十歳前後と言ったところだろうか?
どことなく近寄りがたい雰囲気を放つ女の視線の先には、提灯の明かりが灯る街並みでも夜空に浮かぶ月でもなく、険しい山々の景色が連なっていた。
「姫、どうかなさいましたか?」
そんな、いつもと違う女の気配を感じ取ってか?
仮面で素顔を隠し、黒衣に身を包んだ男が声を掛ける。
一見すると時代劇に登場する忍者のようにも見える男の出で立ちは、東方からの移民が多い〝この国〟でも人の目を引く。
そのことからも、この二人が太陽の下に生きる〝表〟の世界の住人でないことは容易に察することが出来た。
「ちょっとね。西の空が騒がしいみたいだから気になって」
そう女は言うが、男には何も感じ取ることが出来ない。
しかし女が嘘を吐いているとは、微塵も男は思っていなかった。
姫と呼ばれる女の秘めた実力を、この男が誰よりもよく理解しているからだ。
女がそう言うのであれば、西の空の向こうで何かが起きているのだろう。
「西へ向かいますか?」
故に、男は女に尋ねる。
まだ、この地で為すべき仕事は残っているが、急ぎと言う訳ではない。
今回はあくまで〝下見〟が目的で、最初から長居をするつもりはなかった。
少し西へ足を伸ばしたところで、この先の予定に差し支えることはない。
それに、いつもは大陸の東で仕事をしている彼等が共和国にまで足を運んだのは、とある筋から仕事の依頼を受けたためだ。
まだ、その仕事を請けるかどうかは決めかねているが、もう少し情報を集めておくべきだと男は考えていた。
「珍しいね。〝キミ〟がそういうことを言うなんて」
いつもなら止めるのが男の〝役目〟だ。
なので、まさか男の方から西へ足を伸ばすことを提案されるとは思ってもいなかったのだろう。
いや、男がそのような提案をしてきた意味を女は知っていた。
「やっぱり、キミも〝彼〟のことが気になるみたいだね」
その昔、一度だけではあるが戦場でまみえたことのある少年。
実力はたいしたことはなかったが、内に秘めた力は〝絶大〟で目を瞠るものがあった。
あれから数年。いまでは大陸の東にまで評判が聞こえてくるほどで、女も気になっていたのだ。
当然、男も〝あの時〟の少年がどれほどの力を付けたのか?
気になっていないはずがない。
「仕事を請けるか否かを判断する意味でも〝対象〟のことは〝調査〟しておくべきかと」
珍しく饒舌に語る男の言葉からも、対象への警戒感の強さが窺えた。
しかし、それも当然かと女は納得する。
聞こえてくる噂はどれも信じがたいようなものだが、あの男の息子であれば否定することが出来ないからだ。
そう、あの――
「猟兵王の息子。評判がどこまで本当か分からないけど、あの時に感じた彼の潜在能力なら期待していいだろうね」
次にまみえる時が楽しみだと、本当に再会を心待ちにしているかのように女は笑う。
女には天賦の才があった。同世代のなかで互角に戦える者は、一人として存在しないほどの〝剣〟の才が――
そして今や女の実力は〝剣聖〟の域にまで達し、東部で最強の名を欲しいままにする〝戦闘集団〟を率いるまでに成長した。
もはや、同世代の若者のなかに女と互角に渡り合えるものはいない。
だからこそ、気になるのだ。
唯一、自分と互角に戦えるかもしれない強者のことが――
「それに〝彼〟が、オババの言ってた〝あの者〟の一人かもしれない」
もしそうなら確かめておく必要があると、女は語る。
これからカルバードで起きようとしていること、そして現在エレボニアで起きていること――
それらはすべて、彼を中心に起きていることだと察せられるからだ。
この先、進むべき道を見定める意味でも、自分の目で確認しておきたい。それが、女の考えだった。
しかし、
「でも、全員で向かうのはね。この地の調査も、まだ完全に終わってないし」
「まさか、お一人で向かわれるつもりですか? それは……」
さすがに同意しかねると言った様子で、男は苦言を漏らす。
男の役目は女の補佐であると同時に、護衛でもあるからだ。
さすがに女だけを地理に疎い、異郷の地に向かわせる訳にはいかない。
動くなら全員で西へ向かうべきだと考えていたのだろう。
しかし、
「私たちがここを動けば、それだけ注目を集めることになる。この国の諜報員は優秀だからね」
目立つ行動は避けたいという女の言葉にも説得力があった。
男たちの所属する集団は東で名を馳せているとはいえ、逆に言えば西での知名度は低く頼れるものも少ない。
仕事を請けるか否かも含めて下見に時間を費やしているのも、そうした理由があってのことだった。
当然、男たちの動きも掴まれていると考えた方がいい。いまも龍來の周囲は見張られていると思っていいだろう。
集団で動けば、それだけ注目を集めることになる。
「護衛は連れて行く。でも、二人までだ。クロガネ、キミには残ってもらわないと困る」
これ以上は譲歩しないと言った女の言葉に、考え込む様子を見せる男。
仮面をつけているため表情は窺えないが、悩んでいる様子は見て取れる。
仕事を請ける請けないに拘わらず、西の調査はしておくべきだという考えが男の中にはあった。
猟兵王の息子が評判通りの人物なら、女の――いや、自分たちの最大の障害となる可能性を考えていたからだ。
「……分かりました。ですが、約束してください。決して〝騒ぎ〟を起こさないと」
故に、男も譲歩を見せる。そしてこれは警告でもあった。
釘を刺しておかなければ女の性格から言って、やり過ぎてしまう可能性が十分に考えられるからだ。
腕試し程度ならまだしも、本気をだされたら少数で動く意味がない。
それに今後の活動にも支障をきたしかねないと危惧してのことでもあった。
「ううん……た、たぶん大丈夫だと思うけど」
「たぶんではなく絶対です。約束頂けないのであれば、姫には残って頂きます」
「ぐっ……」
有無を言わせぬ男の迫力に、さすがの女もたじろいを見せる。
立場的には女の方が上だが、こうなっては男が絶対に考えを曲げないことも理解していた。
とはいえ、男の心配も女は理解していた。
(どうしたものかな)
男の心配は理解できる。しかし約束したところで、それを守れるかというと不安が残る。
猟兵王の息子が女の想像通りの実力を有しているなら、自分を抑えられる自信がないからだ。
腕試しのつもりが本気の殺し合いに発展することなど、ままある話だ。
その場凌ぎで出来ない約束をするのは、女の流儀に反することだった。
「うん。じゃあ、こうしよう――」
ならばと、女は男に妥協案を提示する。
予想もしなかった女の提案に、驚く仕草を見せる仮面の男。
だが同時に、それほど悪い案ではないと考える。
上手く行けば、この場を動くことなく猟兵王の息子を観察することが出来るかもしれないからだ。
「しかし、それでは〝借り〟を作ることになりますが……」
「そこは仕方ないね。でも、彼等も知りたいんじゃないかな? 私や彼の力を――」
だからこそ、誘いに乗るはずだとする女の考えは男にも理解できた。
女の予想は外れたことがない。観の眼とでも言うべきか?
直観によって真実を捉えることに関しては、女の右に出るものはいないからだ。
間違いなく誘いに乗ってくる。それに〝それぞれ〟の動きを観察すれば、今後の仕事の判断材料にもなるだろう。
「……御意。すぐに準備に取り掛かります」
メリットとデメリットを即座に計算し、男は女の提案に頷く。
手の届かないところで騒ぎを起こされるよりも、ずっと得られるメリットが大きいと考えた末の結論だった。
それに――
(評判通り……いや、噂以上の実力を備えていようと、異能に頼っている限り姫には絶対に敵わない)
仮に戦いになっても、女が負けることは絶対にありえないと男は確信していた。
相手が人外の怪物であったとしても、女も人の皮を被った人外の領域に立つ怪物であることに変わりは無いからだ。
そして、そうした怪物を〝祓い〟〝調伏〟することに女は長けていた。
異能の力に頼っている相手ならば、女の〝敵〟ではない。
(――とでも考えてるんだろうけど、そう上手くは行かないと思うんだよね)
しかし、そんな男の考えは女にもお見通しだった。
その上で戦いになれば、どちらが勝つか分からないと女は考えていた。
ただの勘ではあるが、戦いに関することで女の勘は外れたことがない。
異能に頼り切った相手であれば、どんな怪物が相手でも確かに負けない自信はあるが、
(楽しみだな)
相手はあの猟兵王の息子だ。
そして、女にとって決して忘れることの出来ない〝運命の相手〟でもあった。
だからこそ、期待せざるを得ない。
いまの自分をどれほどの境地に誘ってくれるのか?
零の先。誰も辿り着いたことのない境地の果てに、或いは彼となら――
「期待を裏切らないでおくれよ。キミは私のことを覚えていないかもしれないけど、ずっとこの日が来るのを待ち続けていたんだ」
女の名は、シズナ・レム・ミスルギ。男の名は、クロガネ。
共に大陸東部に本拠地を構える最強の侍衆〈斑鳩〉に所属する最高ランクの猟兵にして、東方剣術の達人。
地精との戦いの裏で、嘗ての〈西風〉や〈星座〉を凌ぐ猛者たちが静かに動きだそうとしていることを――
「本当に……楽しみだ」
女の運命の相手――〝リィン〟は知る由も無かった。
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