白亜の祭壇に顕現した巨大な白獣は、その金色の瞳でリィンたちを見下ろしていた。
圧倒的な霊圧。呼吸すら憚られるほどの神聖な空気が、その場を支配している。
『我は古の時代より、この地で眠りにつく存在なり。名は既に失われ、もはや呼ぶ者はいないが……』
脳裏に直接響くような荘厳な声。
リィンは、そのプレッシャーに臆することなく、真っ直ぐに九尾を見据えた。
「やっぱり、守護聖獣の類だったか」
『聖獣……我をそう呼ぶか。やはり、知っているのだな?』
「ああ、アンタみたいな存在に知り合いがいてな。まあ、女神の聖獣って訳じゃなさそうだが」
リィンは肩をすくめる。
ツァイトやローゼリアといった顔なじみの姿が脳裏を過ったのだろう。
そんなリィンの言葉に、アスカが息を呑む。
「神……まさかこれほどの神格が、この世に残っているなんて……」
アスカは信じられないといった表情で、呆然と呟いた。
執行者の彼女でさえ、目の前の存在は想像の範疇を超えていたからだ。
一方で、ユウキは理解が追いつかず、困惑したように頭を掻く。
「まったく話についていけないんだけど……つまり、どういうこと?」
「まあ、ようするに守り神みたいなものかな。この辺り一帯の土地を治めている、土地神ってところ?」
シズナが妖刀の柄に手を置いたまま、楽しげに解説する。
彼女からすれば、怪異も神も、あまり大差はないのだろう。
その緊張感のなさに、ユウキは少しだけ毒気を抜かれたようだ。
リィンはそんなやり取りを横目に一つ息を吐くと、単刀直入に問いかけた。
「それで、俺たちを呼んだ目的なんだ?」
『我はすべてを見ていた。先の〝災厄〟も、そして此度の〝異変〟も――』
九尾の瞳が、深淵のような光を湛える。
そして、その声には、哀れみのような響きが混じっていた。
『ありえたであろう歴史も、この歴史において紡がれなかった〝因果〟も、我はすべてを把握している』
「……紡がれなかった因果だと? まさか……」
リィンの眉間に皺が刻まれる。その言葉が意味するところを、彼は誰よりも理解していたからだ。
脳裏に過るのは、黒の騎神イシュメルガに侵食され、異なる道を歩んだもう一人の自分――オルタ・リィンの姿。
本来の歴史であれば、リィンは猟兵ではなくシュバルツァー男爵家の養子となり、リィン・クラウゼルではなくリィン・シュバルツァーとして生きていくはずだった。
ノルンもそうだ。デミウルゴスへと至ったキーアもいれば、零の巫女としての力を失い、普通の少女としてロイドたちと暮らしている歴史のキーアもいる。
それは、並行世界。異なる歴史を辿った数多の世界が存在することを示唆していた。
リィン自身、かつて異なる歴史を辿った世界に関わったことがある。
だからこそ、九尾の言葉の意味を察せられた。
「……俺と会ったことがあるのか?」
リィンは確信を持って問いかけた。
九尾がなぜ自分に接触してきたのか。その答えは一つしかない。
ノルンのように異なる歴史を観測できるのであれば、自分のことを知っていても不思議ではないと考えたのだ。
『そうだ。我は其方と出会い、戦った』
「つまり、リベンジがしたいってこと?」
シズナが口を挟む。
「どうして、そうなる……そもそも、俺が勝ったとは限らないだろう?」
「えー? リィンが負けるところを想像する方が難しいんだけど」
当然のように言い切るシズナに、リィンは頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
しかし、
『その娘の言うとおりだ。我は、其方に敗れた』
九尾が厳かに肯定した。
ほら、と言わんばかりの得意げな表情で、シズナがリィンを見る。
『故に、其方と争うつもりはない。排除しようとしても、かなわぬことは理解しているからな』
「その言い方だと、勝てそうなら排除を試みていたって聞こえるぞ」
『否定はせぬ。其方と戦った我も、其方の内にある力を畏れ、排除を試みた訳だしな』
悪びれる様子もなく告げる九尾。
その言葉には、守護者としての冷徹な判断基準が垣間見えた。
排除できるのであれば、既にやっていると言っているようなものだからだ。
リィンがこの世界に仇なす存在となれば、敵わないと分かっていても躊躇するつもりはないのだろう。
その覚悟が、九尾の言葉の節々から感じ取れる。
『だが、既に〝力〟は見せてもらった。この地に仇を為さない限り、我が其方に敵意を向けることはないと誓おう』
「で? そんなことを伝えるために、わざわざ俺たちを呼んだのか?」
『頼みがある』
九尾の声色が、一段低くなった。
『既に気付いているとは思うが、まだ〝災厄〟は去っていない。この地に、いや、この世界の命運を左右するほどの災厄が迫ろうとしている』
「随分と曖昧だな。異なる歴史を認識しているのに、その〝災厄〟の正体は分からないのか?」
『我にも視えぬ未来がある。これから訪れる〝災厄〟は、其方のもたらした因果によって紡がれたものだ。異なる歴史を辿った数多の世界の因果が、ここで集約されようとしている。十年前、其方がこの世界に訪れた時から、この世界の運命は定まっていたのだ』
「つまり、リィンの所為ってこと?」
シズナが容赦なく突っ込む。
「はあ……つまり、俺にその災厄をどうにかしろってことか?」
敢えてスルーしようと思っていた核心を突かれ、リィンは深々と溜め息を吐いた。
十年前の出来事が、巡り巡って今に繋がるとは、因果なものだった。
しかし、なんとなく、そう言った予感がリィンの中にもあったのだろう。
『ありていに言えばそうだ。他の誰にも出来ぬ。其方にしか、この因果を終わらせることは――』
「俺には関係ないと言いたいところだが、そうもいかないんだろうな……」
レイカとの約束もある。それに、この世界には世話になった人々もいる。
見捨てるという選択肢は、最初からなかった。
それに、自分が蒔いた種だと言われれば、刈り取らざるを得ない。
それがリィンの性分だった。
『対価もなしにやれと言うつもりはない』
「猟兵のこと、よく分かってるね」
クスクスと笑うシズナに、リィンはジトリとした視線を送る。
『我の名において、其方が望むだけの報酬を与えると約束する。我に出来る範囲で、どのような願いも叶えてやろう』
「随分と大盤振る舞いだな」
『この世界が滅亡すれば、我も生きてはいない。願いも何もないからな』
「まあ、それもそうか」
リィンは苦笑しながら肩をすくめる。
九尾はこの土地に根付く神だ。つまり、この世界が消滅すれば、彼も消えるのだろう。
だからこその大盤振る舞い。なりふりを構わず、接触してきたのだと察せられる。
「報酬がでるのなら文句はない。どのみち、無関係ではいられそうにないしな」
リィンが承諾すると、九尾は満足げに目を細めた。
『では、この者を連れて行くがいい。我の巫女だ』
九尾の言葉に応じ、傍らに控えていた白い外套の女性が、音もなく前へと進み出る。
彼女はゆっくりと、顔を覆っていたフードに手を掛けた。
さらり、と。フードが滑り落ちると同時に、その姿が顕わになる。
現れたのは、青い髪に金色の瞳を持つ少女の姿だった。
顔立ちは、コウたちとそれほど変わらない年齢に見える。だが、その顔を見た途端、コウの表情が強張った。
「あ……」
コウの喉から、空気が漏れるような音がした。
時が止まったかのように、彼の表情が凍りつく。
「シオ……リ……?」
その名を口にした瞬間、コウの中で何かが砕け散った。
頭を抱えるようにして、その場に崩れ落ちる。
「う……あ、あああああああああああっ!!」
「ちょ、ちょっとコウくん!?」
心配してリオンが駆け寄る中、広間に悲痛な慟哭が響き渡る。
そして、糸が切れたようにその場に崩れ落ち、コウは意識を手放すのだった。
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