目を開けると、そこは見慣れない天井だった。
 古風な木目と、微かに漂う畳の匂い。遠くで聞こえる鳥のさえずりが、ここが都会の喧騒から離れた場所であることを告げていた。

「ここは……」

 掠れた声で呟き、コウは重い瞼を擦る。
 体を起こそうとすると、枕元で気配が動いた。

「コウくん!」

 弾かれたように顔を上げ、涙目でこちらを見つめるのはリオンだった。
 彼女の傍らには、水が張られた桶とタオルが置かれている。
 ずっと付きっ切りで、コウを看病していたのだろう。
 その瞳は少し充血しており、疲労の色が見て取れた。

「リオン……お前、ずっとここにいてくれたのか?」

 コウが申し訳なさそうに問いかけると、リオンはフルフルと首を横に振った。

「ううん、気にしないで。コウくんが目を覚ましてくれて……本当に良かった」

 安堵の息と共に、彼女の目から大粒の涙が零れ落ちる。
 そして、自分が二日間も眠り続けていたと聞かされ、コウは驚きに目を見開いた。

「二日も……? 俺、そんなに寝てたのか」
「うん。……コウくん、何があったか覚えてる?」

 リオンがおずおずと尋ねる。
 コウは記憶の糸を手繰り寄せようとするが、分厚い霧がかかったように思い出すことが出来ない。
 皆と一緒に祠へ行ったこと、レムと名乗る少女と出会ったこと。
 その後、誰か(・・)に案内されて、尾が九本もある白い獣と対峙したことまでは思い出せる。
 だが、その後の記憶がプツリと途切れていた。

「……っ」

 無理に思い出そうとすると、こめかみに鋭い痛みが走る。
 頭を押さえて顔をしかめるコウに、リオンが慌てて手を伸ばす。

「無理しないで! 思い出せなくても大丈夫だから」
「ごめん、俺にも何がなんだか……」

 コウは力なく首を振る。その時、静かに襖が開いた。

「失礼するわね」

 入ってきたのはアスカだった。
 手には、売店の袋が提げられている。

「お見舞いよ。ここの名物の温泉プリン。甘いものでも食べれば、少しは頭も回るんじゃないかと思ってね」

 アスカはいつもの調子で袋をテーブルに置くと、真剣な眼差しをコウに向けた。

「時坂くん。一つだけ、尋ねたいことがあるのだけど」
「ちょっと、アスカさん! まだコウくんは……」

 リオンが咎めるように声を上げるが、アスカはリオンを手で制した。

「ごめん。大事なことなの。少しだけ、黙っていてくれるかしら?」

 アスカの迫力に気圧され、押し黙るリオン。
 その張り詰めた空気に、コウは居住まいを正した。

「……何が聞きたいんだ?」
「シオリって名前に、心当たりはあるかしら?」

 その名を聞いた瞬間、コウの心臓がドクリと跳ねた。
 シオリ。知らない名前だ。聞いたこともないはずなのに、胸の奥が締め付けられるような、切ない感覚が蘇る。

「……わからない。何か、頭の中で引っかかる感じはするけど……具体的には何も」
「そう……」

 アスカは短く呟くと、それ以上追求することなく踵を返した。
 だが、その背中に言い知れぬ不安を感じたコウは、衝動的に彼女を呼び止めた。

「待ってくれ! その名前は……俺が口にしたのか?」

 アスカは足を止め、振り返ることなく答えた。

「そうよ。倒れる直前にね。でも、北都の情報網を使ってミツキさんに調べてもらったけど、該当する人物はいなかったわ。杜宮市はおろか、国内のデータベースを照合しても、あなたの関係者に『シオリ』という名の人物は存在しない。だから、あなたに訊いてみたのだけど……その様子では、何も知らないみたいね」

 存在しない人物。
 なのに、なぜ俺はその名を呼んだんだ?

「俺は……」

 混乱するコウの手に、リオンの温かい手が重ねられた。

「コウくん……大丈夫。無理に思い出さなくてもいいから、いまはゆっくりと休もう」

 その温もりに、コウは強張っていた肩の力を抜いた。
 アスカは一瞬だけ複雑な表情を見せたが、すぐに無表情に戻り、静かに部屋を出て行った。

「……お大事に」


  ◆


 旅館の中庭、手入れされた松の木の下で、リィンは白い外套の女性――九尾の巫女と対峙していた。

「アイツに会わなくてもいいのか?」

 リィンの問いに、巫女は表情を変えずに答える。

「なんのことでしょうか?」

 すっとぼける巫女に、リィンは溜め息混じりに語りかける。

「デミウルゴス――人間を辞めて神の領域へと至った巫女を、三人ほど知っていてな。これは、そのうちの一人から聞いた話なんだが、完全に神へと至ると人々の記憶から消えていくらしい。理から外れ、因果の外に弾かれた存在となることで、その存在自体が歴史から抹消されるそうだ」

 巫女の眉がピクリと動く。

「お前はまだ、完全に人間を辞めていないみたいだからな。引き返すなら、今のうちだ」

 リィンは真っ直ぐに彼女の瞳を見据えた。
 だが、そこにあるのは、諦念と覚悟。
 未練を断ち切ろうとする、痛々しいほどの意志だった。

「なんのことを仰っているのか、わかりません」

 巫女は頑なに拒絶する。
 その態度に、リィンは肩をすくめた。

「そうか、ならいい。ただのお節介だしな。だが、後悔だけはしないようにすることだ」

 巫女は一礼すると、音もなくその場から姿を消す。
 その後ろ姿を見送りながら、木陰からシズナが姿を現した。

「珍しいね。あんな、お節介を焼くなんて。零の巫女(・・・・)の姿を重ねたとか?」
「ただの気まぐれだ。それに、気になることがあってな」
「九尾の言っていたことだね」
「ああ。アイツは俺と会ったことがあると言っていた。そして、因果が集約されつつあると」

 リィンの目が鋭くなる。

「つまり、あの子もリィンの因果に巻き込まれたってこと?」
「そこまでは分からないが、厄介なのが裏に控えていそうだな。それこそ、〈黒の工房〉の時のようなのがでてきても不思議じゃない」

 リィンの言葉に、シズナの口元が三日月型に歪んだ。

「……なんで、嬉しそうなんだ?」
「ようするに、物凄く強い敵が迫っているってことでしょ?」
「はあ……戦闘狂(バトルジャンキー)め……」
「リィンにだけは、言われたくないかな」

 シズナが悪戯っぽくウインクをした時、遠くから声がした。

「ああ、いた!」

 レイカが、赤いビキニの上からパーカーにショートパンツという出で立ちで駆けてくる。

「一緒に川へ行く約束してたでしょ。もう、みんな先に行っちゃったわよ」
「……お前、その格好で行く気か?」

 リィンが呆れたように指摘すると、レイカは胸を張った。

「山の中じゃ着替えるところなんてないんだし、水着をきていくしかないでしょ。大丈夫よ、上からパーカーを着てるし、虫除け対策も万全だしね」
「それじゃあ、私も着替えてこよっかな」

 二人の会話を聞いて、シズナが楽しそうに踵を返す。
 ちゃっかりと、彼女も水着を用意してあったらしい。

「あ、リィンの水着あるよ」

 去り際にシズナからそんなことを言われ、「なんでだ」と思わず本音が漏れるリィン。
 そんな彼の腕を、レイカが胸に抱くように引き寄せ、

「ほら、リィンもさっさと着替えて」

 部屋へと引っ張っていくのだった。


  ◆


 渓流の涼やかな音が響く河原は、若者たちの歓声に包まれていた。
 水着に着替えた一行は、思い思いに夏の午後を楽しんでいる。

「リィンさん! こ、この水着、どうでしょうか?」

 モジモジと身体をくねらせながら、ワカバが水着姿のリィンの前に立った。
 フリルのついたワンピースタイプの水着は、彼女の可愛らしさを引き立てている。

「あ、ああ……似合ってると思うぞ」
「本当ですか!? でも、ちょっと子供っぽいかなって……」
「そんなことはないだろう。可愛らしくて、よく似合っていると思うぞ」
「か、可愛い……」

 ワカバは顔を真っ赤にして、嬉しそうに俯いた。
 その横から、ビキニの上にパーカーを羽織ったレイカが割り込んでくる。

「く……リィン、私の水着はどう?」
「うん? さっき見ただろう」
「そういうことじゃなくて、ほら、もっと言うことがあるでしょ!?」

 レイカが頬を膨らませて抗議する様を、少し離れた岩場で同じく水着姿のリョウタが恨めしそうに眺めていた。

「何故だ……どうして、アイツばかりモテるんだ……」
「アイツって……。一応は、先生だよ」

 隣で釣りの準備をしていたジュンが苦笑する。

「あんな女たらし、アイツで十分だ! ミツキ先輩に、委員長だけで飽き足らず、シズナさんやレイカ。挙げ句にワカバちゃんまで――何股だよ!? クソ、なんであんな女たらしがモテて、俺はまったくモテないんだ!」
「そういうところじゃないかな……」

 リョウタの魂の叫びに、ジュンは鋭いツッコミを入れる。
 さらに奥の川辺では、シオとユウキが山道に止められた車からトワとアオイの指示で荷物を運び、バーベキューの準備を始めていた。

「まったく、騒がしい連中だ」
「そう言いながら付き合うんだから、アンタも律儀だよね」
「それを言うのなら、お前もだろう」

 軽口を叩き合いながらも、二人の間には奇妙な連帯感が生まれていた。
 一方で、アキラは沈んだ表情で木陰に佇んでいた。
 クールな彼女らしい、スポーティーなショートパンツの青い水着を着用している。

「どうかしたの? アキラ」

 そんな彼女を認め、ハルナが声を掛ける。
 こちらは清楚でありながら少し大胆なビキニの白い水着に身を包んでいた。

「あ、ハルナ先輩。その……リオン先輩のことが少し気になって」

 コウに付き添って旅館に残ったリオンのことを心配しているのだろう。
 浮かない表情を見せる後輩の肩を、ハルナは安心させるように優しく叩く。

「大丈夫よ。いまは、そっとしておきましょう。それに、私たちが気を遣って宿に引きこもるような真似をすれば、かえってリオンのことだから気にするだろうしね。いまは二人の分まで楽しんで、また一緒にきたいと思うくらい羨む話を帰ったらしてあげましょう」
「先輩……はい、そうですよね。リオン先輩の分まで目一杯、楽しむことにします」

 ハルナの言葉に励まされ、アキラは笑顔を取り戻してワカバのもとへ駆け出していった。
 その背中を見送りながら、ハルナは微かに表情を曇らせた。

(リオン……無理をしてなければいいけど……)

 リオンのことが心配なのは、彼女も一緒なのだろう。
 それはきっと、ワカバやレイカも同じのはずだ。
 しかし、できるだけ、それを表にださないように努めていることは見て取れる。
 そんな彼女の心配を察したのか、ミツキが明るい声で呼びかけた。

「ハルナさん、よかったらバーベキューの準備を手伝って頂けませんか?」
「ええ、喜んで」

 ハルナは気持ちを切り替え、ミツキのもとへ向かう。
 そこには、既に火起こしを始めているアオイと、嫌々ながらも手伝わされているユウキの姿があった。

「なんで、僕まで……」
「こら、そんなことを言わないの。みんなでやった方が美味しいわよ」

 アオイに窘められ、ユウキは渋々炭を並べる。
 そこへ、黒いビキニを着たずぶ濡れのシズナが、バケツを抱えて戻ってきた。

「バーベーキューするの? なら、この魚も焼いてくれない?」
「うわ、大漁だね」

 バケツの中に入った魚を見て、思わずトワが声を上げる。
 なんだかんだと、ワンピースタイプの可愛らしい水着を着ているあたり、彼女も楽しみにしていたのだろう。

「いないと思ったら……釣り竿なんて持ってきてなかっただろう? どうやって、こんなに獲ってきたんだ?」

 レイカに腕を掴まれたリィンが、どこか呆れた様子でシズナに尋ねる。

「手掴みだけど? そのくらいリィンも出来るでしょ?」

 シズナは事も無げに言い放ち、ピチピチと跳ねる魚をトワに手渡した。
 その野生児ぶりに、リィンはただ苦笑を返すしかなかった。
 平穏な日常の一コマ。だが、その裏で運命の歯車は確実に回り始めていた。




後書き
 温泉編はこれで終わりです。
 ここから物語は、いよいよ後半戦に入っていきます。



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