杜宮市を見下ろす高台に鎮座する、古き良き杜宮の象徴――九重神社。
 そこへ続く長い石段を登りきった先、木々の緑に囲まれた境内の奥から、気合の入った裂帛の気合いと、激しい打突音が響き渡っていた。

「はあぁっ!」

 鋭い踏み込みと共に、畳を擦る音が道場内に木霊する。
 上は白、下は淡い水色の袴という道着に身を包んだ時坂洸は、眼前の相手――祖父である九重宗介に対し、果敢に攻め込んでいた。
 狙うはソウスケの襟元。だが、それはフェイクだ。
 伸ばされたコウの右手が空を切り、ソウスケが僅かに上体を反らして回避した瞬間、コウの身体は既に沈み込んでいた。
 九重流柔術が得意とする、重心の崩しと足払いへの連携。
 流れるような動作でソウスケの軸足を刈りに行く。

「ふん」

 しかし、ソウスケは鼻を鳴らすと、刈られたはずの足を軽やかに浮かせ、コウの掃腿(そうたい)を躱してみせた。
 それどころか、回避の動作をそのまま反撃へと転じる。
 浮かせた足を軸に身体を回転させ、遠心力を乗せた裏拳がコウの顔面へと迫る。

「くっ!」

 コウは即座に両腕をクロスさせ、ガードを固める。
 ドゴッ、という重い衝撃音が骨の髄まで響く。
 七十を超えた老人とは思えない膂力。だが、コウも負けてはいない。
 衝撃を殺しきれずに後退りそうになる足を強引に踏ん張り、逆にソウスケの腕を掴みにかかる。
 九重流は、投げや絞め技を主体としながらも、当身などの打撃技も駆使する実戦的な古流柔術だ。
 掴んで崩し、打って極める。
 一進一退の攻防の中、二人の影が道場の畳の上で目まぐるしく交差する。

「ふむ……特訓の成果はでておるようだな。なかなか、どうして。見違えるほど技のキレがよくなっておる」

 コウの連撃を涼しい顔で捌きながら、ソウスケが感心したように呟く。
 その言葉に嘘はないのだろう。以前の手合わせとは比較にならないほど、コウの動きは鋭さを増していた。
 だが、対するコウに言葉を返す余裕はない。

「その余裕、いつまで保つかな! 今日こそ、一本取らせてもらうぜ、祖父さん!」

 荒い息を吐きながら、コウは再び間合いを詰める。
 視線は鋭く、全身のバネを使い、変則的な軌道でソウスケの懐へ飛び込む。
 一見すれば、互角の勝負を演じているように見えるかもしれない。
 しかし、当事者であるコウだけは、肌で感じていた。
 ――届かない。
 打撃は紙一重で見切られ、組み付きにいけば流水のように受け流される。
 まるで巨大な岩壁に素手で挑んでいるような、底知れぬ圧力がそこにはあった。

(くそっ……どうすればいい!? これだけやっても、まだ……!)

 焦りが、思考を曇らせる。
 何に対して焦っているのか、自分でも分からない。
 ただ、胸の奥で正体不明の何かがざわつき、彼を急き立てていた。

「焦りが動きに出ておるぞ」

 静かな、しかし確信に満ちたソウスケの声が鼓膜を打つ。

「……っ!」

 図星を突かれた動揺が、コンマ一秒の硬直を生んだ。
 強引に襟を掴みに行こうと伸ばした腕が、空を泳ぐ。
 その刹那、ソウスケの姿がコウの視界から掻き消えた。

(――しまった!?)

 消えたのではない。沈み込んだのだ。
 コウが反応するよりも速く、ソウスケは低い姿勢からコウの懐深くへと潜り込んでいた。
 胸元に触れる掌底。そして、視界が天地逆転する浮遊感。

「せいっ!」

 気合と共に、コウの身体は軽々と宙を舞った。
 受け身を取る暇さえ与えられず、背中から畳へと叩きつけられる。
 ドオォォンッ!!
 道場全体を震わせるような轟音が響き、衝撃で肺の中の空気が強制的に吐き出される。

「がはっ……」

 天井の木目を見上げながら、コウは力なく手足を投げ出した。
 完敗だ。ぐうの音も出ないほどに鮮やかな一本背負いだった。

「ああ……くそ、もうちょっとだと思ったのに……祖父さん、強すぎだろう」

 天井を見上げながら、恨めしげに呟く孫に、ソウスケはやれやれと肩をすくめる。
 乱れた道着を直しながら、老人は呆れたように言った。

「もうちょっとなものか。いまの御主では、百回やっても儂には勝てぬよ」
「ぐ……そりゃ、祖父さんの方が強いのは認めるけど……」

 はっきりと言われて、コウはなんとも言えない顔を見せる。
 祖父との間にある実力の差は痛感している。リィンに鍛えられ、多少なりとも自信をつけていたつもりだったが、やはり九重流柔術の宗家は伊達ではない。長い研鑽で培われた確かな実力。祖父の壁は厚かった。
 だが、そんな風にはっきりと言われると堪えるものがあるのだろう。
 むくりと上半身を起こし、悔しげに唇を噛むコウ。
 しかし、ソウスケの反応はコウが思っていたものと少し違っていた。

「そうではない。速さや力では、御主の方が上じゃ。目も良いし、技のキレも悪くない」
「え……」

 予想外の言葉に、コウは目を丸くする。

「あやつとの特訓の成果がでておるのじゃろう。以前とは見違えるほどじゃ」

 あやつ――リィンのことだ。
 厳格な祖父が、まさか自分の成長をここまで認めてくれるとは思っていなかった。
 戸惑いながらも、どこか嬉しさがこみ上げてくるコウ。
 だが、ソウスケはすぐに表情を引き締め、「じゃが」と付け加えた。

「何を焦っておる?」

 ドクン、とコウの心臓が不快な音を立てて跳ねた。

「わずかだが、迷いが見える。それが、御主の動きを鈍らせておるのじゃ」
「俺は……焦ってなんて……」

 反射的に否定しようとしたが、言葉が続かない。
 喉の奥に何かがつかえたような感覚。
 自分でも気付いていなかった、あるいは気付かないふりをしていた心の奥底に眠る違和感。
 記憶の欠落。喪失感。胸に空いた穴を埋めようとするような、見えない〝焦り〟。
 それを、祖父の鋭い眼光に見抜かれた気がしたのだ。
 気まずい沈黙が道場に降りようとした、その時だった。

「おはようございます!」

 突き抜けるような元気な声が、湿っぽい空気を吹き飛ばした。
 入り口に立っていたのは、一人の少女だった。
 活発さを感じさせる黒いショートヘアに、大きな瞳。ランニングウェアに身を包み、背中には身体の半分ほどもありそうな大きなスポーツバッグを背負っている。

「ソラ!? どうして、ここに……」

 コウが驚きの声を上げる。
 そこにいたのは学園の後輩、郁島(いくしま)(そら)だった。

「おお、来たか。すまんの、こちらから声をかけたというのに迎えもやらず……」

 突然の来訪者にコウが目を白黒させていると、ソウスケが相好を崩して歩み寄る。

「いえ、そんなことは! こちらこそ、お世話になります!」

 ソラはぺこりと深々と頭を下げ、人懐っこい笑顔を見せる。
 話がまったく見えないコウは、二人の顔を交互に見比べた。
 孫の視線に気付き、ソウスケは呆れたような視線を向ける。

「孫よ、夏休みの宿題は終わっておるのじゃろう?」
「え……まあ、一応……」

 唐突な話題転換に、コウは要領を得ないまま頷く。
 リオンたちの手伝いをするついでに、自分の分も片付けていたのが幸いした。
 すると、ソウスケは満足げに頷き、とんでもないことを口にした。

「なら、今日から夏休みが終わるまで、ここで生活せよ」
「は?」

 コウの思考が停止した。
 祖父が何を言っているのか理解できず、口をぽかんと開けて固まる。
 そこに、ソラの期待に満ちた声が追い打ちをかける。

「コウ先輩、よろしくお願いします!」

 キラキラと輝く瞳で見つめられ、コウは益々混乱する。

「いや、意味がわからないんだが、一体どういうことだ? なんで俺がここで生活を――」

 そんなコウの疑問に答えるように、ソウスケがニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

「合宿じゃ。休みが明けるまで、その弛んだ精神を鍛え直してやるから安心せよ」
「はあああ!?」

 そこでようやく、コウは自分が嵌められたことに気付いた。
 最初から、ソウスケはこのつもりだったのだ。今日の稽古も、そのための布石に過ぎなかった。

「コウ先輩! 一緒に頑張りましょう! 私、先輩と稽古できるの楽しみにしてたんです!」

 ソラが拳を握りしめ、やる気に満ちた表情で詰め寄ってくる。
 純粋で、一点の曇りもない真っ直ぐな信頼と期待。
 そんな眼差しを向けられて、無下に断ることなど出来るはずもなかった。

「……わかったよ。やればいいんだろ、やれば」

 コウはがっくりと肩を落とし、観念したように溜め息を吐くのだった。


  ◆


「ありがとうございました!」

 一礼して稽古を終えると、道場に清々しい空気が戻った。
 合宿初日の手始めとして行われたソラとの軽い手合わせを終え、コウは縁側に腰掛けて一息ついていた。
 そこへ、ソラが駆け寄ってくる。

「コウ先輩、これ使ってください」

 差し出されたのは、清潔なタオルとよく冷えたスポーツドリンクだった。

「ああ、悪い……って、こういうことしなくていいんだぞ?」

 コウは恐縮しながら受け取る。

「いえ、私がしたくてやっていることですから。それに、コウ先輩は兄弟子ですし!」

 ソラはえへへと照れくさそうに笑う。
 彼女は古流空手の流派、郁島(いくしま)流の門下生だ。
 父親が道場の師範をしており、「若い内に見聞を広め、己が修行の場を見出すべし」という教えから、高校進学を機に上亰してきた。
 現在は玖州(きゅうしゅう)の実家を離れ、父親の知人を頼って杜宮市のアパートで下宿生活をしている。
 その「父親の知人」というのが、コウの祖父である九重宗介と言う訳だ。

「いや、お前……九重(うち)の門下生じゃないだろう……」

 コウが苦笑交じりにツッコミを入れる。
 流派は違えど、ソウスケに世話になっている恩義と、武道を志す者としての礼儀正しさが、彼女をそうさせるのだろう。

「そうですけど出稽古みたいなものですし、ここにいる間は遠慮なく扱き使ってください」

 ドン、と自分の胸を叩いてみせるソラ。
 その小柄な身体のどこにそんなバイタリティーがあるのかと思うほど、彼女は常に全力だ。

「そういうところ、体育会系だよな……」

 たくましすぎる後輩の姿に、コウは反論の言葉を封じられ、肩を落とすしかなかった。
 スポーツドリンクを一口飲み、喉を潤してからコウは尋ねる。

「それで……お前も、ここに泊まるのか?」
「はい。そのつもりで、着替えも持ってきました」

 そう言って、ソラは傍らに置いた大きなスポーツバッグをポンと叩く。
 中には五日分の着替えと、洗面用具一式がきっちりと詰め込まれているらしい。

「フフ、いっそのこと、もうここで暮らしてくれてもいいんだよ」

 そんななか、柔らかな声が割って入った。

「あ、お邪魔してます! 今日から、お世話になります」

 ソラが慌てて立ち上がり、直立不動で挨拶をする。
 現れたのは、母屋から様子を見に来たトワだった。

「うん、自分の家だと思って遠慮しなくていいからね。それより、さっきの話だけど」

 トワはニコニコとソラを見つめる。
 どうやら、以前から何か提案をしていたらしい。

「えっと、それは……これ以上、ご迷惑をお掛けする訳にもいかないので……」

 ソラはしどろもどろになりながら、遠慮気味に言葉を濁す。
 真面目な彼女らしい反応だ。
 困った様子のソラを見て、トワはコウに視線を向けた。

「遠慮しなくていいのに……コーくんからも言ってあげてくれない? 最近、物騒な事件が多いし、女の子の一人暮らしって心配だから……」
「……話が見えないんだが?」

 首を傾げるコウに、トワは事情を説明する。
 ソラの上亰の話が出た当初、トワはこの九重神社から学園に通えばいいと提案していたらしい。
 しかし、「一人で生活することも修行の一環だから」というソラの意向で断られ、仕方なくソウスケのツテで現在のアパートを紹介したという経緯があった。
 だが、ここ最近の杜宮市は物騒な話題が尽きない。
 教師として、そして年上の女性として、トワはソラの一人暮らしを案じていたのだ。
 だから、改めてここで暮らさないかと持ちかけていると言う訳だった。

「なるほど……トワ姉の心配も理解できるが、ソラの意志を無視して決めて良い話でもないだろう」

 コウは腕を組み、冷静に意見を述べる。

「コウ先輩……」

 自分の気持ちを尊重してくれたコウに、ソラは感動の眼差しを向ける。
 しかし、トワも簡単には引き下がらない。
 彼女は頬を膨らませ、不満げにコウを見上げると、名案が浮かんだとばかりにポンと手を打った。

「なら、コーくんもここに住めばいいんだよ」
「は?」

 コウの思考が再び停止した。
 突然なにを言い出すんだ。この従姉は――と言いたげな顔でトワを見る。

「コーくんも一人暮らしでしょ。叔母さんと叔父さんから、コーくんのことをよろしく頼まれてるしね」

 自分に矛先が向いたことで、コウは完全に藪蛇であったことを悟った。
 トワの言うように、コウの両親は海外に長期出張中で、彼は実家で一人暮らしをしている。
 何かというとトワが世話を焼いてくるのは、コウの両親からの頼みという大義名分があるからだ。

「いや、俺は……ほら、家を空ける訳にもいかないし……」

 なんとか断ろうと、必死に言い訳を考えるコウ。
 だが、トワは「うーん」と顎に手を当て、真剣に悩み始めた。

「確かに、家を空けるのが心配なのは分かるけど……」
「だ、だろう? だから――」

 コウが安堵しかけた、その時。
 トワがキラリと眼鏡を光らせた。

「うん? なら、私がコーくんの家に住めばいいんじゃ……」
「おい!? なんで、そうなる!」

 想定の斜め上を行く発想に、思わずコウの鋭いツッコミが入る。
 いつもは学園の教師として分別のあるトワだが、身内のこと、特にコウのこととなると暴走しがちなところがあった。
 この従姉は何を考えているんだとコウが呆れていると、トワの視線は再びソラへと向いた。

「ソラちゃんも、コーくんの家から学校に通えば、問題は解決するしね」
「え? え? コウ先輩の家に……私が……」

 突然話を振られたソラは、目を白黒させる。
 そして、コウとの同居生活(+トワ)を想像したのか、顔がみるみるうちに林檎のように真っ赤に染まった。

「うん。さすがに二人だけだと問題があるけど、私が一緒に住めば問題ないよね。ソラちゃんは嫌?」
「い、嫌ということはないです! コウ先輩のことは尊敬してますし、その、でも一緒に住むなんて……!」

 しどろもどろで答えるソラ。
 湯気が出そうなほどオーバーヒートしており、既に冷静な判断力を失っているのは明らかだった。
 このままでは、とんでもない事態になりかねない。
 危機感を覚えたコウは、慌てて二人の間に割って入った。

「俺を抜きに勝手に話を進めないでくれ!」

 蝉時雨の中、コウの悲痛な叫びが道場に響き渡るのだった。




後書き
 これが、主人公補正か……。



押して頂けると作者の励みになりますm(__)m


<<前話 目次 次話>>

作品を投稿する感想掲示板トップページに戻る

Copyright(c)2004 SILUFENIA All rights reserved.