木張りの床を打つ激しい雨音のような打突音が、夜の静寂に包まれた九重神社に響いている。
 お風呂からあがったばかりの郁島空はタオルで髪を拭きながら、その音の出所である道場へと視線を向けた。
 ふわりと、石鹸の香りが夜風に乗って漂う。
 さっぱりとした表情で縁側に出たソラのもとへ、母屋の方からトワが小走りでやってきた。

「あ、ソラちゃん。お風呂あがったんだね」
「はい、お先に頂きました。あの、トワ先生。タオル、ありがとうございました」
「うん、気にしないで。洗濯物も一緒にだしておいてくれたらいいから……あ、そうだ。ソラちゃん、コーくんを見なかった? そろそろ夕飯なんだけど、部屋にいなくて」

 トワがキョロキョロと周囲を見回す。
 ソラは、道場の方から微かに聞こえてくる音に耳を澄ませながら微笑んだ。

「たぶん、道場だと思います。まだ音が聞こえますから」
「もう、まだやってたの? 熱心なのはいいけど、ご飯が冷めちゃうよ……」

 呆れたように頬を膨らませるトワに、ソラは「私が呼んできます」と告げる。

「うん、それじゃあ、お願いね。私は配膳の準備をしておくから」

 トワがパタパタと台所へ戻っていくのを見送り、ソラはサンダルを履いて道場へと向かう石畳を踏みしめた。
 近付くにつれて、鋭い呼気と、空気を裂く音が明瞭になっていく。
 そっと木戸を開け、中を覗き込む。
 そこには、汗で道着を濡らし、一心不乱に型を繰り返すコウの姿があった。

「せいっ、はぁっ!」

 突き、払い、蹴り。
 流れるような挙動から繰り出される技の数々は、基本に忠実でありながらどこか実戦的で、まるで見えない誰かと戦っているかのように見える。
 月明かりが差し込む道場で、汗を煌めかせながら舞うその姿に、ソラは思わず息を呑み、見惚れてしまった。

(綺麗……)

 力強さと、しなやかさ。相反する二つの要素が同居するその動きは、見る者を惹きつける魅力に満ちていた。
 無意識のうちに、ソラは木戸に手を掛けたまま身を乗り出していたのだろう。
 ガタ、と木戸が小さな音を立てた。

「――誰だ?」

 コウが動きを止め、鋭い視線を入り口に向ける。
 ソラは慌てて姿勢を正し、一礼した。

「す、すみません! 私です、ソラです!」
「なんだ、ソラか。どうかしたのか?」

 相手がソラだと分かると、コウは纏っていた鋭い気を霧散させ、肩の力を抜いた。
 タオルで汗を拭いながら、こちらへ歩み寄ってくる。

「トワ先生が呼んでいます。そろそろ夕飯だから呼んできて欲しいって」
「ああ、もうそんな時間か。悪い、集中してて気付かなかった」

 コウは苦笑しながら頭を掻く。
 窓の外に目をやれば、既に日が沈み、外は暗くなっていた。
 集中していて時間の経過に気付かなかったようだ。

「それじゃあ、戻るか」

 そう言ってコウが戸締まりをしようとしたところで、ソラが「あ、待ってください」と制した。

「戸締まりは私がやっておくので、コウ先輩は先にお風呂に入ってきてください」
「え? いや、でも……」
「いいから、行ってください! 汗、凄いですし。シャワーを浴びている間に、夕飯が冷めちゃいますよ?」

 少し躊躇ったものの、コウはソラの気遣いに甘えることにした。

「……わかったよ。それじゃあ、頼む」

 コウはタオルを肩にかけると、道場を後にしようと歩き出す。
 その後ろ姿を見送りながら、ソラは手際よく木戸を閉め、戸締まりを始めた。
 その時だった。ふと、入り口で足を止めたコウが振り返る。

「そう言えば、ソラ。準優勝、おめでとう」

 不意打ちのような言葉に、ソラの手がピタリと止まる。

「え……あ、ありがとうございます。どこで、それを?」
「トワ姉が教えてくれたんだよ。それに、あとから知ったんだが、SNSでも話題になっているみたいだぞ」
「そ、そうなんですね……」

 からかうようなコウの口調とは裏腹に、ソラの反応は鈍かった。
 どこか答えにくそうに視線を逸らし、俯き加減になる。
 本来なら、夏のインターハイで準優勝という結果は誇るべきものだ。
 だが、彼女の表情には喜びの色はなく、どこか戸惑いのような影が差している。
 その様子に、コウは眉をひそめた。

「なんか歯切れが悪いな。どうかしたのか? 準優勝でも、十分凄いと思うぞ」
「いえ……その、コウ先輩。私の決勝の相手を知っていますか?」

 ソラがおずおずと問いかける。

「ああ、記事で見た。同校対決ってことで話題になってたみたいだな。まさか、あの相沢(あいざわ)がソラを破って全国制覇とはな」

 相沢千秋。コウの同級生であり、中学からの腐れ縁のような女友達だ。
 そしてソラにとっては、空手部の頼れる副部長であり、先輩に当たる。
 コウ自身は空手部ではないが、放課後にリィンから手ほどきを受ける際、同じ武道場で練習している彼らの姿をよく目にしていた。そんなコウの記憶にあるチアキの実力と、今回の結果には乖離があった。
 チアキは決して弱くはない。真面目で努力家だ。しかし、去年は都大会三回戦止まりだったはずだ。
 一方で、ソラは「十年に一度の逸材」と称されるほどの天才。
 コウの目から見ても、実力差は歴然としていたはずだった。
 それが、まさかインターハイの決勝でソラを破って優勝するとは――
 予想外の結果に驚いたのだ。
 しかし、六月の都大会で準優勝をして、ソラと共にインターハイ出場を決めたという話は聞いていた。
 かなり頑張っているみたいだったし、何か化ける切っ掛けのようなものを掴んだのかもしれないと、そんな風に考えていたのだが――
 
「負けた言い訳をするつもりじゃないんですけど……その……なんだか、チアキ先輩らしくないっていうか」
「……らしくない? どういうことだ?」

 コウが問い返すと、ソラは言葉を探すように口籠もった。
 自分でも、その違和感の正体が掴めていないのだろう。
 口にしかけた言葉を呑み込み、ソラは首を横に振った。

「いえ、忘れてください。たぶん、私の勘違いです。結果がすべてですから……負けた私が何を言っても、負け惜しみにしかなりませんし」

 無理やり笑顔を作り、ソラは最後の雨戸を閉める。

「コウ先輩、早くお風呂に入ってきてください。トワ先生に怒られちゃいますよ」
「お、おい……」

 背中を押され、コウは腑に落ちないものを感じながらも、道場を後にするしかなかった。
 振り返ると、月明かりの下、ソラの横顔がどこか不安げに揺れているのが見えた気がした。


  ◆


 夏休みも残すところあと一日となった、昼下がり。
 蝉時雨が降り注ぐ道場に、珍しい来客の姿があった。

「やっほー! 元気してる?」

 軽い足取りで道場に入ってきたのは、白いシャツにジーンズと言ったラフな格好をした――シズナ・レム・ミスルギだった。
 そして、その背後には、死んだ魚のような目をした高幡志緒が、気だるげに続いている。
 道場で祖父の指導を受けていたコウとソラは、目を丸くして二人を出迎えた。
 すると、上座に座っていたソウスケが、好々爺然とした笑みを浮かべて立ち上がった。

「おお、来たか。遠いところ、すまんのう」
「ううん、気にしないで。私も身体を動かしたかったしね」
「祖父さん、知ってたのか?」

 親しげに言葉を交わす二人を見て、コウが問うとソウスケは髭を撫でながら頷いた。

「うむ。合宿の総仕上げとして、御主たちの相手をしてもらうために来てもらったのじゃ」

 本当はリィンを呼ぶつもりだったのだが、生憎と仕事で手が離せないということで、代わりにシズナに引き受けてもらったのだと言う。
 シズナの実力をよく知るコウは、納得した表情を見せる。
 コウが納得する一方で、シオはあからさまに不満げな表情を浮かべていた。

「俺は、このあとバイトがあるんだが……」

 シオが大きな溜め息を吐く。
 そんな彼に、シズナは小首を傾げながら尋ねる。

「それって、何時から?」
「夕方からだから、まだ二時間ほどあるな」
「それじゃあ、それまで訓練できるね」

 シズナが満面の笑みで親指を立てる。

「鬼か、あんたは……」

 シオはがっくりと項垂れたが、拒否権がないことは悟っているようだった。
 結局、シオも加えて三人で稽古をつけることになった。
 道場の中央、シズナが悠然と立つ。
 そして、挑発するかのように、三人に向かって手招きをした。

「さあ、どこからでもかかってきていいよ。三人同時で構わないから」
「え? 三人一緒にですか?」

 ソラが驚きの声を上げる。
 シズナが実力者なのは、その佇まいを見れば分かる。
 しかし、いかに達人とはいえ、三人も同時に相手ができるのかとソラは疑問を抱く。
 相手は素人ではなく、ソラ自身も含め、相応の使い手なのだ。
 しかし、シズナの実力を肌で知っているコウとシオの表情は真剣そのものだった。

「油断するな、ソラ。あの人は、桁が違う」
「ああ、手加減なんて考えなくていい。死ぬ気でいけ」

 二人の悲壮な覚悟に、ソラもゴクリと唾を飲み込み、正眼に構える。
 張り詰めた空気が、道場を満たす。
 そんな彼女たちの反応を楽しんでいたかと思うと、シズナの双眸が鋭く細められた。
 その瞬間、世界が変わった。
 彼女を中心に、肌を刺すような闘気が爆発的に膨れ上がるのだった。



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