セイジュウロウとの交渉を終えた日の夜、リィンは今後のことを決めるためにエマと情報の整理を行なっていた。
「……異界に怪異。それに対抗するための武器、ソウルデヴァイスですか」
リィンから手渡されたファイルに一通り目を通し終えると、溜め息を交えながらエマはそう言葉を漏らす。
リィンがセイジュウロウから預かってきた資料には、この世界の裏の歴史≠ェ記されていた。
とはいえ、北都にとってそれほど重要な情報と言う訳ではない。
異界と関わりのある組織に身を置く人間であれば、誰でも知っているようなことばかりだからだ。
異界が最初に確認されたのは、いまから約七十年前。
正確には、もっと昔から魔術師や錬金術師たちの間で存在自体は知られていたみたいだが、表に大きく影響を及ぼす事件が起きたのはそれが最初だった。
大戦が日本とアメリカの休戦で終結した背景には、実はこの異界事件が深く関係していた。
というのも、七十年前の大戦以降、世界各地で異界化≠ニ呼ばれる現象が確認されるようになったのだ。
――怪異。それが異界より顕れし、異形の怪物たちの総称だ。
適性を持たない普通の人間では認識することすら出来ないが、確実に異界と怪異は存在する。それを管理するために組織されたのが〈ネメシス〉と呼ばれる魔術師たちの組織。そして異界よりもたらされる技術や資源に目を付け、異界の対処と利用を目的に結成されたのが十二の企業連合からなる〈ゾディアック〉だった。
北都グループも、この企業連合に参加する企業の一つだ。
聖霊教会はその二つの組織とは少し立ち位置が異なり、彼等は異界の封印を目的に行動しているため、基本的にはどの組織とも協力関係を築いていない。
これだけ考え方が違うのに組織間による抗争へと発展していないのは、それだけ異界が厄介な存在だと認識されているからだ。
対処を誤れば、人類の存亡にも繋がる災厄。そう言った認識があるからこそ、主義主張が異なっていても状況によっては共闘することもある。ネメシスが異界に関する情報や、怪異に対抗するための技術をゾディアックや他の組織へと提供している背景には、彼等だけでは対処しきれない厳しい状況が背景にあるからだろう。
だが、ただ人間たちも手をこまねいていた訳ではない。
怪異に通常兵器は効かないが、魔力や霊力を帯びた魔剣や霊具の類であれば効果がある。
異界化が確認されるようになってから、異界の存在を認識できる者の中から特殊な力を持った者たちが生まれるようになった。
それを研究し、自在に使えるようにアプリ化したものを開発。そして最近になってようやく実用化へと至ったのが、ソウルデヴァイスと呼ばれる対怪異用の武装だった。
サイフォンはそのアプリを効率的に運用するために開発されたものだ。
現在、世界で広く使われている導力技術は、そうした異界を研究する中で生まれた技術という話だった。
「何か気になることがあるのか?」
「リィンさんが出掛けている間に、いろいろとありまして……」
この数時間に何があったかを、エマもリィンに説明する。
「異界化に遭遇した?」
「ええ、まあ……シャーリィさんが妙な気配がすると言って、そこへ向かうと扉≠フようなものが出現していたんです」
シャーリィが大人しくしているはずもなく、昼飯を取るついでに街へと散策に出掛けたところで遭遇≠オたらしい。
異界化と呼ばれる現象と、怪異に――
だからこそ、リィンの持って帰ってきた話をエマはすんなりと受け入れることが出来たのだ。
「ちょっと待て、シャーリィの姿がないのって……」
「はい。トレーニングにも丁度良いからと、他にもないか確認をしてくると言って……」
「あのバカ……」
エマが一緒とはいえ、シャーリィを残していくことについて微妙に嫌な予感はしていたのだ。
とはいえ、矛先が人間ではなく怪異に向いていることを考えれば、まだマシかとリィンは諦める。
シャーリィを大人しくさせておくのにも限界がある。丁度良いストレス解消の相手が現れたと思えば、悪い話ではない。
それにセイジュウロウの話の裏を取れたことを考えれば、むしろ早い内に確認が取れて良かったと言える。
「あの……心配じゃないんですか?」
「それは、シャーリィがやり過ぎないかどうかって心配か?」
エマが何を心配しているのかは察せられるが、少なくともシャーリィ自身の心配は不要だとリィンは考えていた。
自ら危険に飛び込んでいく以上は何かあっても自己責任だし、その程度の覚悟もなく猟兵の仕事は務まらない。
第一、あのシャーリィが命の危険に晒され、逃げ帰るような状況に陥ると言うのは余り想像が出来ない。
いまや〈緋の騎神〉の起動者でもあるのだ。並大抵の相手では、シャーリィの相手にならないだろう。
むしろ、周囲への被害の方が心配になる。しかし異界化というのは、その点についても都合が良かった。
エマが見つけたという扉は、異界化現象の初期段階。怪異が造りだした迷宮へと通じる扉だ。
怪異によって造られた迷宮は、一種の異界と言っていい。どれだけ暴れようと、現実世界には一切の影響を及ぼさない。
シャーリィが暴れるには、打って付けの環境と言う訳だ。
それに放って置けば現実世界への侵食が進み、最終的には現実世界に怪異が出現すると言った事態へと発展する。
シャーリィがやらずとも、いずれ異界に関わる組織の誰かに攻略され、怪異も調伏されていたはずだ。
そのことを考えれば、シャーリィのやっていることを一方的に非難することは難しかった。
「まあ、腹が減ったら帰って来るだろ」
面倒になって投げ遣りに答えるリィンを見て、エマは諦めにも似た溜め息を溢すのだった。
◆
翌朝、特に心配はしていなかったとはいえ、シャーリィは無事にマンションへ帰ってきた。
しかし、
「なんで、お前は毎回おまけ≠拾ってくるんだ?」
また子供を拾ってきたのだ。
シャーリィの拾ってきた子供は、カズマよりも更に幼い――七、八歳くらいの青い瞳の女の子だった。
シャーリィの背に隠れてチラチラと様子を窺ってくる少女に、リィンは溜め息を交えながら声を掛ける。
「俺はそこのお姉ちゃんの仲間で、リィン・クラウゼルだ。ちみっこ、名前は?」
「……アスカ。あと、ちみっこじゃない。変な呼び方をしないで」
「悪かったな」
子供扱いされて気分を害したのか?
睨み付けて反論してくる少女――アスカに、リィンは苦笑を漏らしながら謝罪する。
子供らしからぬアスカの態度に何かあるとリィンは察しつつも、まずはシャーリィに事情を尋ねる。
「で? 何処で攫ってきたんだ?」
「あれから三つほど潰して回ってたんだけど、最後に見つけた迷宮で迷子になっているところを拾ったの」
「また、さらりと厄介そうなことを……」
どこからどうツッコミを入れるべきか迷うような話をサラリとされ、リィンは右手で額を押さえる。
とはいえ、本当にただ本能に任せて迷宮を潰して回っていたようで、何も分かっていない様子は見て取れる。
怪異からすれば傍迷惑な存在だが、そこそこ満足したのか?
シャーリィはと言うと、すっきりとした顔をしていた。
これ以上シャーリィに話を聞いても有力な情報は得られないと判断し、リィンは質問の矛先を変える。
「アスカと言ったな。そんな場所で何をしてたんだ?」
「……何も、ただ迷子になっただけ」
「嘘だな」
アスカの説明に、はっきりと嘘だと断じるリィン。
異界というのは話によると、適性がなければ認識すら出来ない代物だと言う話だった。
適性を持たない一般人が取り込まれることもあるみたいだが、どうにも話を聞く限りでは迷い込んだだけのように思えない。
ましてや、そんな夜遅くに子供が外で何をしていたのかと疑問を抱くのは当然だった。
となれば――
「お前、ゾディアックの関係者か?」
目を瞠るアスカ。
そんな予想通りのアスカの反応に、厄介な予感の方が当たっていたことをリィンは確信する。
シャーリィが連れて帰ってきた以上、何かしらあるとは最初から予想していたからだ。
「教会の人間には見えないし、その名前が出て来るってことは……」
「ああ、言っておくが、俺たちはゾディアックの人間じゃないぞ」
「じゃあ……」
「ネメシスでもないな。なるほど、そういうお前はネメシスの関係者か」
アスカの反応を見て、あっさりと少女がネメシスの関係者だと察しを付けるリィン。
多少は聡いようだが、所詮は子供だ。
大人と駆け引きが出来るほどの経験が、アスカには足りていなかった。
リィンも交渉事に長けていると言うほどではないが、それでも十に満たない少女よりは経験豊富だ。
「ううっ……」
自分が失態を犯したことに気付き、涙ぐむアスカ。
その様子を見守っていた他の二人から、リィンに非難の視線が飛ぶ。
「リィンさん……」
「リィン……」
エマだけでなくシャーリィからも非難の目を浴びせられ、バツの悪そうな表情で頭を掻くリィン。
誘導尋問のような真似をしたのは事実だが、シャーリィに拾われなければ怪異の餌になっていた可能性が高い。
それに子供と言えど裏の人間だ。仮に敵対組織に捕まれば、もっと酷い目に遭っていただろう状況を考えると、まだ優しく接している方だった。
そもそもエマはともかくシャーリィにだけは言われたくないと思うのは、当然の反応だろう。
ここが戦場なら、相手が女子供であっても容赦なく殺戮する。敵にはリィン以上に一切の容赦がないのがシャーリィ・オルランドという少女だ。
仮にアスカが敵意を剥き出しにしてシャーリィに襲い掛かっていれば、そこで彼女の命は終わっていた。
「しかし、ネメシスか。ここで、その名前を耳にするとはな。タイミングが良いのか、悪いのか……」
「何かあるの?」
首を傾げて尋ねてくるシャーリィに、どうせすぐに分かることだと考え、リィンは答える。
「情報提供を受ける代わりに、ちょっとした実験に付き合うことになってな。この後、研究所から迎えがくる予定になっているんだが、その相手というのがネメシスの人間らしい」
ソウルデヴァイスの研究はネメシスが主導で行なっているのだが、その研究所の一つがここ杜宮市にあった。
その研究所から昼頃に迎えがくる手はずとなっていた。その人物と言うのが――
「確か、柊だったか?」
「え……」
思いもしなかった名前をリィンの口から聞いて、唖然とした声を漏らすアスカ。
その反応に何かあると察したリィンは「知り合いか?」と尋ねると――
「たぶんそれ……パパのことだと思う」
そんな答えが返ってくるのだった。
◆
同じ頃――
「思っていた以上に、深刻な状況になっているみたいですね」
杜宮市郊外にある研究所で、セイジュウロウは何処かの研究員と思しき白衣を纏った初老の男性と会っていた。
サイフォンの基礎技術開発にも携わった経歴を持つ異界研究の第一人者――この研究所の所長、ヤマオカだ。
「今日までに確認された異界化は市内だけで三十二件。都内全域で考えるのでれば、この三ヶ月で二百を超える報告が上がっている。いずれも早期に発見し、いまのところ対処は出来ているが……」
「こちらでも把握しています。確かに幾らなんでも異常な数だ」
セイジュウロウの話に頷きながら答えるヤマオカ。
異界化自体は七十年前から世界各地で確認されているので、それほど珍しいものではない。
だが、特定の地域に偏って三ヶ月で二百件を超える異界化現象が報告された例など、過去に類を見ない。はっきり言って、かなりの異常事態と言えた。
しかし原因を特定しようにも、異界についてはまだよく分かっていない点が多い。
いまのところは異界化を確認次第、対処すると言った方法しか取れないのが実情だった。
「今日、柊くんは?」
「例の彼等≠迎えに行って貰ってるよ」
「そうか。彼の見解も聞いておきたかったのだが……」
残念そうに頭を振りながらそう話すセイジュウロウを見て、ヤマオカは苦笑する。
柊というのはヤマオカの教え子で、ソウルデヴァイスの開発を一任されている研究者だ。
セイジュウロウからの連絡を受けて例の人物からの協力を得られることになったと話すと『自分で迎えに行く』と言って、すっ飛んで行ってしまったのだ。
「それで、彼等と接触してみた感想は?」
「恐らくは、この件と無関係だろう。ただの勘に過ぎないがね」
普通なら納得の行く説明とは言えないが、ヤマオカはセイジュウロウの話に納得した様子で頷く。
彼の人を見る目と直感の鋭さをよく知っているからだ。
それに九重神社へも出向いたとの情報を得ているので、実はその辺りの心配はしていなかった。
九重宗介の名は異界に関わる一部の者にとって、無視できないほどに大きなものだからだ。
ソウスケが人となりを確認して問題ないと判断したのであれば、少なくとも悪い存在ではないと信用できる。
しかし、頻発する異界化現象。この日本で何かが起きようとしていることだけは確かだ。
「杞憂であればいい。だが……」
嘗て無い災厄に日本は直面することになるかもしれない、とセイジュウロウは苦い顔で話す。
そして、これはただの勘に過ぎないが、このタイミングで彼等が――リィンたちが自分たちの前に現れたのには何か意味があるのではないかと、セイジュウロウは運命めいたものを感じていた。
リィンたちに協力を求めることが、吉と出るか凶と出るかは分からない。
そんな彼等の心配を嘲笑うかのように、運命の日は刻一刻と迫りつつあるのだった。
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